OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

ツカマリ古墳

ツカマリ古墳(または塚廻古墳)は、大阪府南河内郡河南町かなんちょう平石にあった平石古墳群の1基。7世紀中葉(終末期)の方墳で、調査後埋め戻されているが、石室開口部は露出する。2023年4月18日(火)訪問。

 

地籍図の字名が名称由来。府道704号線(竹内河南線)のすぐ南側にある。墳丘最上段はフェンス越しに見えるが、石室は反対側にあるためフェンス内に入らないと見れない。

遠景南西望            近景南西望            フェンス越し南望

 *画像は、(スマホでも)PC版ならクリック(タップ)すると拡大されます。スマホ版ならピンチ拡大下さい。

一帯は獣除けのフェンスが張り巡らされているが、20~30m西側に施錠されていない進入口がある。

進入口                       東望 

石室開口部東望                   北望 

石室開口部北望                   北東望

現在、開口部縦幅は非常に狭く、自撮り棒を差し込んで何とか内部が撮影できる。

開口部

西側壁                       東側壁

奥室扉石

 

大阪府教育委員会が2009年(H21)に作成した「加納古墳群・平石古墳群一中山間地域総合整備事業「南河内こごせ地区」に伴う発掘調査 一」報告書(以下「報告書」と略記)の218~268ページ「第5章平石古墳群の調査成果-第4節ツカマリ古墳」および「挿図・図版」に詳細資料が掲載されている。

報告書では、金剛山地西麓から西に延びる丘陵の先端部南斜面に築造された山寄せの大型方墳。1979年(S54)石室内調査、2004年度(H16)墳丘の発掘調査を実施。東西約80mの長方形壇上に3段築成の墳丘を載せる。1段目は東西約44m(南北不明)、2段目は東西34.8m・南北22m以上、3段目(かなり削平)は東西約23.1m・南北15m以上。墳丘表面に貼石が認められた。墳丘周囲には浅い周溝が巡っていたとのこと。

報告書 図版80ツカマリ古墳全景(2)-2.南上空より

埋葬施設は横口式石槨で、南方向に開口。石槨は全長13.5mで、羨道・前室・奥室からなる複室構造。奥室は、壁・床・天井全てが1枚石で、長さ2.3m・幅と高さ1.31mと広い。石槨には緑釉陶棺台の上に漆塗籠棺を据えたと推測されるとのこと。

報告書 図版83ツカマリ古墳羨道(1)-l.正面(南より)

報告書 図版86ツカマリ古墳石室現状-1.奥室扉石(南より) 2.奥壁(南より)

南東1.6㎞にある白木古墳の横口石槨と類似しており、南西にある平石古墳群のシシヨツカ・アカハゲ古墳等とも同系統と思われる。

白木古墳 - OSAKA-TOM’s diary

シシヨツカ古墳 - OSAKA-TOM’s diary

アカハゲ古墳 - OSAKA-TOM’s diary

 

また、平石古墳群の北側に6世紀~7世紀初頭に260基以上造営された一須賀古墳群、更にその北側に6世紀中頃~7世紀前半に造営された約30基の古墳群=宮内庁で治定されている天皇陵4基(30代敏達・31代用明・33代推古・36代孝徳陵)や聖徳太子墓等を含む「王陵の谷」とも呼ばれる磯長谷しながだに古墳群との関連性が指摘されている。

一須賀古墳群 - OSAKA-TOM’s diary