OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

金山古墳

2017年9月21日(木)訪問。金山古墳・お亀石古墳

金山古墳

大阪府南河内郡河南町大字白木1359-6。二つの円丘を合わせた日本では珍しい双円墳。6世紀末~7世紀初頭頃、前方後円墳が終了する古墳末期から終末期にかけての築造とされる。

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 昭和21年(1946)発見時のデータでは、墳丘長85.5m、南主丘径55.4m、北副丘38.6m。空濠と思われる周濠があり、それを含めた総長は104m。墳丘は南主丘3段築成、北副丘2段で、各段に貼石をはったテラスが巡っていた。前期・中期の古墳に見られる、墳丘斜面を覆う葺石は、くびれ部西側以外には確認できなかった。
全景南西望        南主墳北東望       北副丘北東望      北副丘裾から南望

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*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

くびれ部の北副丘側に、横穴式石室が開口する。花崗岩の自然石を用いた石室で、全長10.6m。凝灰岩の蓋と身からなる縄掛突起を備えた「刳抜き式家形石棺」で、玄室と羨道各々に一つずつ置く。手前の石棺は盗掘を受けていたが、ガラス丸玉・銀環(奥石棺内)、金銅製金具片・鉄製革帯金具や馬具、鉄刀、土器の破片等が見つかった。石室前にはくびれ部西側へとつづく幅4.2mの墓道(通路)があり、築造時は石室入口を塞いだ後、墓道は埋められていた。墓道からは須恵器が出土した。この出土土器から6世紀末~7世紀初頭と推定された。現在この部分だけ埋葬直後の姿に復元されている。南主丘でも墓道とともに墓道暗渠、墳丘内暗渠、横穴式石室があることは確認されているが、主丘は未調査のため、石室内の様子は不明。H2年に国の史跡、H7年に史跡公園として開放された。

石室周辺北西望      北副丘墓道        開口部          南主丘墓道跡

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開口部          石棺                        案内

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お亀石古墳

大阪府富田林市大字中野。7世紀前半頃築造と推定される1辺21mの方墳。2002年(H14)に周辺の新堂廃寺、オガンジ池瓦窯跡と共に国の史跡に指定。標高約97mの所に築かれている。

170号線=外環状線沿いの、「龍泉寺」の看板の所から西に入って行く。

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グランド下の池の北西端畔にオガンジ池瓦窯跡の古びた案内がある。そこから90m西に墳丘への登り口がある。墳丘の東側と南側に、丘陵を削った平坦な面が形成されている。葺石や貼石などの外部施設は確認されていない。以前は、地形や古墳の構造などから、径約15mの飛鳥時代の円墳と考えられていたが、2002年の発掘調査で、中世に改変を受けたものの、墳丘東側と北東側で築造時の盛土が裾部まで残っていて、裾部が直線的に伸びることから、東西辺21mの方墳と推定されたとのこと。

窯跡案内         墳頂見上げ        墳頂付近         案内

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主体部は南に開口する横口式石槨。切石を布積みにした羨道正面に、小口面に長方形の開口部を設けた家形石棺が置かれている。開口部を塞ぐ角形の石蓋も遺存していた。石棺の棺蓋には6個の縄掛突起がある。露出する石槨が、亀の形に似ていることが「お亀石」の名称由来らしい。石棺は二上山産の白色凝灰岩製で、羨道は花崗岩が使われている。2002年調査で、羨道は本来河原石を用いた閉塞石で塞がれていたと判明。遺物は瓦片・須恵器片等のみ。石棺周囲には飛鳥時代の平瓦が壁状に多数積まれていることが確認された。瓦は、南東にある新堂廃寺の百済系瓦と同じで、被葬者は同寺院と関係ある者と思われるとのこと。

羨道北望         家形石棺         石槨天井部        羨道見下ろし

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石棺                                     オガンジ池と富田林市街

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*写真は2017年9月。季節や経過年数により周辺の様子や目印が変わることが多いので注意ください。