OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

葉室古墳群

葉室はむろ古墳群は、大阪府南河内郡太子町葉室にあり、葉室塚古墳(越前塚古墳)・釜戸塚古墳・石塚古墳・モンド塚古墳等により構成される。2023年5月11日(木)訪問。

 

太子町北西部から葉室に遡る梅川(石川の支流)の支流=太井川流域では、時代が新しくなるにつれ九流谷古墳群→太子西山古墳(敏達天皇陵)→葉室古墳群と場所が上流へ移り、当古墳群で特に密集する。天皇陵や畿内大豪族墓によく見られる岩屋山式石室(岩屋山古墳=奈良県高市郡明日香村)が確認された。この時期は蘇我氏が勢力を伸ばす時期で、また同時期に造られた南側の一須賀古墳群が蘇我氏関連の渡来系墳墓群とされることから、本古墳群も蘇我氏と関連が深いとする説がある。磯長谷しながだにでは敏達・用明・推古・孝徳天皇陵および聖徳太子墓に治定される陵も多く、古墳時代終末期・飛鳥時代当時の情勢を考察する参考になる古墳群と言える。

 

葉室塚古墳(または越前こしまえ塚古墳)

7世紀前半頃築造の長方墳(または双方墳)とされる。

一般に、下記写真の黄〇の竹林が葉室塚古墳とされることが多いが、東西75m・南北55mという墳丘規模からすると赤〇(現在果樹園?)と黄〇(竹林)一帯が古墳域と思う。

葉室塚古墳へ           遠景南望             南西望(赤〇から廻り込める)        

 *画像は、(スマホでも)PC版ならクリック(タップ)すると拡大されます。スマホ版ならピンチ拡大下さい。

*グーグルマップを編集・加工

墳丘は2段築成で高さ8m程。

北側は竹林で覆われている。西半分(下記写真手前側)は大きく崩れている。墳丘周囲の一部に周濠が認められたらしい。西半部・東半部それぞれに南方向に開口する横穴式石室があったと推測されるとのこと。

北望

近景北東望

南西望

葉室公園(後掲)から葉室塚古墳裾 西側南望

磯長谷古墳群では、長方墳または双方墳として山田高塚古墳(推古天皇・竹田皇子合葬陵墓)や二子塚古墳があり、墳丘比率の点でも共通点が多いらしい。本古墳の規模も、春日向山古墳(用明天皇陵)や山田高塚古墳に匹敵する大王級で、敏達天皇・石姫皇女合葬陵の真陵説もある。ただ古墳が密集する点は、他の天皇陵と様相が異なるため、有力豪族(特に蘇我氏系)の奥津城とする説もある。

釜戸塚古墳

葉室公園入口付近にある。

公園内案内

公園入口南西望=釜戸塚古墳

7世紀前半頃の径45m・現存高さ5m程の円墳。終末期古墳の中では規模が大きい。墳丘は、開墾時には既にかなり崩れていた模様で、墳丘上に葺石様の石が散在していたが葺石かは不明。墳丘周囲には馬蹄形の周濠が巡らされていた。

北西望

 

石塚古墳

6世紀末~7世紀初頭築造とされる。現在は殆ど削平されているが、元は径30m・高さ4mの円墳だったらしい。葺石様の石も散見された。横穴式石室は全長10.6m、羨道幅1.7m・高さ1.8m、玄室長6.1m・幅2.1m・高さ2.6mだったとのこと。岩屋山式石室と類似点は見られるものの、やや先行する形式とされている。なお羨道には木棺が、玄室には家形石棺があったともいう。
南西望

北望

 

モンド塚古墳

石室石材・遺物等が全く出土しておらず、「古墳ではない」とする説もある。

西望                         北東望

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*五右衛門石

モンド塚古墳から、南側の「近つ飛鳥風土記の丘」方面にカーブする所から、細い道を50~60m入った三差路右手前にある。

石川五右衛門が腰掛け、休息したとの伝承がある。葉室地区は元は「石川郡」に属した。古墳の石室石材だろう?古墳密集地には、よくこうした石材が放置されているのを見かける。

西望                         北望