OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

大枝山古墳群

2022.11.27(日)。大枝山おおえやま古墳群。秋の特別公開日。京都市西京区御陵大枝山町。

 

当日のパンフレットから

桂坂古墳の森フェイスブック

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京都市洛西の桂坂にある、6世紀後半から7世紀初頭の円墳23基からなる古墳群。現在13基の古墳が現地保存されている他、1基が移築保存されている。全て15m~20mの円墳で、3基の石室が開口する。須恵器等の土器・鉄鏃・刀子・耳環・象牙製品等出土。(財)京都市埋蔵文化財研究所が昭和55年~62年に発掘調査を実施、「古墳の森」公園として整備された。春と秋に特別公開を行っている。

公園入口                      会場入口の4号墳天井石

会場入口横の案内

移築後14号墳北東望                 高さは8m弱

6号東望         7号東望          8号北西望         9号西望

10号西望         11号西望                      12号北望

15号北東望                      高さ3m弱

16号北西望        18号北東望        19号北西望        20号北東望

21号北東望        北西望          高さ3m弱

 

石神古墳群

2022.11.26(土)。小野道風神社北側にある石神いわがみ古墳群は4基の円墳で、全て横穴式石室。滋賀県大津市小野。小野道風神社本殿奥から行くか(途中に道風神社古墳2号墳が左手にある)、神社西側の「歴史の散歩道」を北に行く。

 

鳥居横案内        道風神社本殿       本殿横案内        道風神社古墳2号墳

     *PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

石神古墳群方面      道標から見返り      4号墳方面         分布図(赤■が道標)

以下、4号墳→1号墳→2号墳→3号墳と巡った順に掲載します。

4号墳

群中最大の4号墳は径15.3m・高さ4.3mで、6世紀前半築造と推定される。石室は南東に開口し、羨道は長さ2m程・幅約1.3m、玄室は長さ約4m・幅2.7m・高さ約3.3mで両袖式。天井部はドーム状に構築されており、天井石は小さな1石。家形石棺・須恵器・土師器・刀小片・鉄滓が出土したらしい。

4号墳方面

開口部(白いのはA5ファイル)  羨道                        玄門部

(奥から見て)右袖          左袖                奥壁

玄室全景        (奥から見て)右側壁     左側壁           天井部(下が奥壁)

1号墳跡

1号墳は7世紀前半頃の築造。S49年貯水槽設置工事に伴い調査され、須恵器杯身つきみ、杯蓋つきぶた、提瓶ていへい等が出土。

岩上神社西望       石棺北望         俯瞰           発掘当時

2号墳

2号墳も6世紀前半築造と推定される。1号墳跡の南西に隣接する。径10m・高さ3.4m、西側は現道で削られている。石材内部には奥壁の一部が残る。

南西望          墳頂の石材        内部北東望        西側北望

3号墳

3号墳も6世紀前半築造と推定される。径13m・高さ4.2m、私有地でもありアクセスは難しい。石室が完存し、以前は入れたらしいが・・・。羨道は幅約1.6m、玄室は長さ約4.6m・幅約2.6m・高さ約3mmの両袖式の大型石室らしい。

3号墳西望                      2号墳西側南望      案内

 

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小野神社

 

10世紀前葉に編集された『延喜式』(格式=律令の施行細則)の「神名帳」では「小野神社二座明神大」とあり、日吉大社と並ぶ官幣大社だった。現社殿は江戸時代の再建。祭神は5代孝昭天皇皇子の天足彦押人命と、その7世孫の米餅搗大使主命。小野篁たかむらの代(802-852)に、同族が会し氏神を祀ったと「続日本後紀」にある。小野神社本殿北脇に2基の古墳があるらしい。墳丘状の隆起はあるがよく分からない。

小野神社                                   拝殿

小野神社本殿       本殿北側                      小野篁神社

天皇神社

天皇神社の境内に、天皇神社古墳群として高さ1m強の円墳が3基程あるらしい。墳丘状の隆起はあるがよく分からない。

天皇神社本殿                    社殿周辺

 

曼陀羅山古墳群

2022.11.26(土)。曼陀羅山古墳群。滋賀県大津市真野普門まのふもん町。曼陀羅まんだら山を中心に東西の住宅地や曼陀羅山尾根筋に遺存する。4世紀~7世紀にかけて造営された群集墳で、120基程が確認されている。

 

全体図                       北西側住宅地内分布

以下、巡った順に掲載します。

 

曼陀羅山の北西側住宅地内

大津市緑町。真野北小学校の北側=真野北古墳公園に曼荼羅山5号墳が保存されている。元は5基あったが開発で1号墳~4号墳は調査後削平され、結果的に5号墳のみが現地保存された。

古墳公園南望       北望           案内           西望

   *PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

5号墳は公園の東側の下にあり、直径15m・高さ5mの円墳。鉄柵越しに石室が見れる。奥壁が抜かれている。土器、鉄製品(刀・鏃等)、玉類(水晶製・ガラス製)が出土した。

公園入口から南東望    北望           案内           石室北望  

 ↑ 5号墳後方の赤丸が曼陀羅山の山頂。左の頂が和邇大塚山古墳の所在地。

石室側壁は自然石ではなく、分厚い板状に加工された石材が使われ、後に掲載するゼニワラ古墳、大塚山北1号墳、曼陀羅山34号墳等に似ている。

玄室全景         西側壁          東側壁          天井  

古墳公園の北側の住宅地内に3基が遺存する。1基は住宅に挟まれた所、他の2基は住宅地北端に並んでいる。その北側一帯は比良ゴルフ倶楽部だが、ゴルフ場南側金網に接する曼陀羅山34号墳(後掲)辺りが望める。

住宅に挟まれた1基北東望 北端の1基北望       墳頂           南西望

最北端の1基北西望         西望                曼陀羅山34号墳辺り

 

曼陀羅山の東側~尾根筋

曼陀羅山の東側住宅地サイドに移動し、山麓のゼニワラ古墳(①)から、曼陀羅山の北側尾根最高所の和邇大塚山古墳(②)、大塚山北古墳群(③)、曼陀羅山北古墳群(④)、曼陀羅山34号墳、唐臼山古墳(⑥)と巡った。

            曼陀羅山尾根筋の道はイメージです(正確な実測図ではありません)。

①ゼニワラ古墳 

大津市小野朝日2丁目。径20m・高さ4.5mの6世紀後半の円墳。石室が南方向に開口する。朝日2丁目集会所奥にある階段から林道に上り、道なりに行くと、ベンチ横にゼニワラ古墳の案内がある。ベンチ・案内の奥が墳丘で、木々が無かったら開口部が見えるはずだが・・・。こっち側からのアクセスは無理そうなので、道なりに墳丘の反対側に廻り込み、ゴミ箱脇から墳頂方面に上ると石室開口部にたどり着く。

集会所奥の階段からの順路

*写真は2022年11月。季節や経過年数により周辺の様子や目印が変わることが多いので注意下さい。

羨道は長さ4.3m・幅1mだがかなり埋没しており、現在の高さは45~50㎝程しかない。匍匐前進で進むが、途中で断念、玄室はハッキリ確認できなかった。案内板では玄室は長さ約4.4m・幅2.2m・高さ2.5mで、左片袖(通常、奥から見た場合右片袖式だが・・・)とある。切石状の石材で構成され、やや持ち送り曼陀羅山古墳群中最大で、和邇・小野地域の最有力者の墓と推定される。

 ↓白い四角はA5ファイル

②和邇大塚山古墳

ゼニワラ古墳のすぐ西側に、中腹を南北に通る遊歩道がある。道標では(和邇)大塚山古墳は右(北)方向となっている(後になって分かったが、この道は北端まで行って、そこから尾根筋を南に上って行くルートだったのだろう)。大塚山古墳は位置的には、ゼニワラ古墳の南西方向の尾根最高所にあるので道標表示に逆らって、遊歩道を南に行くが尾根筋に上れる気配が無かったので、尾根最高所を目指して木々の少なそうな所から登って行った。約20分登り切った所に「大塚山古墳」の石標があった。迷わなくて良かったとホッとしたが、後で南側からも楽な遊歩道が有ることに気が付き、「ヤレヤレ」という感じ。

*普通に遊歩道を北から南に上って行くと、以下記事の⑤→②という逆の順になる。

ゼニワラ古墳横の道標   石標北望         古墳案内北東見上げ    案内下の遊歩道南東望 

標高190m程、曼陀羅山の北側山頂。4世紀後半から5世紀初頭の前方後円墳。全長72m、後円部径53m・高さ5.8m、南東向きの前方部は幅30m・高さ4.9mで後円部に比べ幅が狭く、バチ形に開く。2段築成。明治40年(1907)地元住民が発見し、後円部中央の埋葬施設は破壊された。後円部から鏡・管玉・刀剣・甲冑・土器等の副葬品が出土し、主体部は一辺10m・深さ1.2m程の墓壙に礫石を敷き詰めた粘土槨だったらしい。高野槇製割竹形木棺が納められていたとの情報もある。後円部墳頂には大きな窪みがあり、そのすぐ横に碑があるが、破壊された埋葬施設の「鎮魂碑」かもしれない・・・・。

案内から東望見上げ    後円部墳頂西望      北望           前方部方面南東望

③大塚山北古墳群

3基の円墳で構成される。和邇大塚山古墳から尾根筋遊歩道を北方向に3分程。崩壊した石室石材が道の両側に散乱し、その東側に1号墳がある。

大塚山古墳西脇の遊歩道                               大塚山北古墳群

1号墳は径20mで石室が南に開口する。羨道と玄室の前半分位は崩壊しているが、奥壁は綺麗に残っている。玄室幅1.6m・高さ1m以上。北西30m程のところに径10数mの2号墳・3号墳が隣接するらしいがよく分からない。

④曼陀羅山北古墳群

曼陀羅山の尾根筋の北端手前辺りにあり、5基の円墳で構成されるらしい。

大塚山北古墳群から曼陀羅山北古墳群方面

4号墳は石室が完存するとのことだったが見落とした。径20mの円墳で西に開口するらしく、羨道長2.4m、幅0.9m、玄室長4.4m・幅2m・高2m、右片袖式。奥壁・側壁は持ち送り、床面に石棺片様の石材も残るとのこと。もう1基が隣接するらしいので、多分下の写真の辺りだろう。

南側の1基             北側の1基             見返り

⑤曼陀羅山34号墳

曼陀羅山北古墳群から遊歩道を降り切った所に道標がある。そこを「ヨウ古墳群」方面=西方面に進む。ゴルフ場の境界金網脇にある。すぐ南下は、曼陀羅山北西の住宅地の最北端になる。

34号墳方面

墳丘東側に古びた案内がある。

墳頂北望         案内

径11m・高さ2.5mの円墳で、石室は西向きに開口する。すぐ西下にゴルフ場の金網がある。羨道は埋没か崩壊しているようだ、玄室長さ3.1m・幅1.4m・高さ1.4m。側壁は分厚い板状の割石等で構成され、やや持ち送る。

開口部(上はA5ファイル) 

案内板に35号墳の記載もあるが、北東約100mで、現在はゴルフ場の中のようだ。北東150~200m(ゴルフ場内)にヨウ古墳群(3基)・石釜古墳群(14基)が連なる。34号墳への分岐道標から反対の東に進むと、曼陀羅山東側の住宅地に戻る。

⑥小野妹子神社=唐臼山古墳 

小野妹子神社の社殿裏にある。案内には「社殿は古墳上にあり、裏の石垣のあとは、妹子の墓、唐臼山古墳である」とあるが『石垣?』『妹子の墓?』

墳丘は殆ど流出しており、規模等は不詳(南北18m東西20m程?)。出土した須恵器や土師器、石室構造から7世紀前半と推定されるとのこと。社殿裏=北側に巨大な方形の石室石材が露出する。斜めに傾く大きい方の石材は、長辺1.8m程、短辺1.5m程で、石室復元全長5.5m・幅1.6m・高さ1.2m程らしい。

石材北西望        南西望          北東望           東望 

*被葬者とされる小野妹子は、『日本書紀』では607年(推古天皇15年)~608年に(第2回)遣隋使、608年(推古天皇16年)~609年に(第3回)遣隋使として派遣されたとある。古代中国の歴史書=『隋書』倭国東夷傳=大業3年(607年)条にある「其の國書に曰く『日出ずる處の天子、書を日没する處の天子に致す。恙無きや云云・・・』というのは著名。墓は大阪府南河内郡太子町にもある。近くに同時代の聖徳太子廟や推古天皇陵等がある。ただ妹子は大津市小野生れの記録がある。

中村狐塚古墳

2022.11.26(土)。中村狐塚古墳。滋賀県大津市真野1丁目。

 

春日山公園入口から直線距離で東方面に560m。古墳すぐ東側を北西に向かう道路は、R4/11現在建設中で、当古墳辺りから北西側はまだ通行止めになっている。径15m・高さ2mの円墳らしいが、割と大きく見える。墳裾法面の傾斜が急で、円墳と言うより上円下方墳の様に見える。

北西望                       南西望

 

春日山古墳群

2022.11.26(土)。春日山古墳群は滋賀県大津市真野谷口町。

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春日山丘陵上で、前方後円墳2基を含む200基以上の古墳群。4世紀後半の前方後円墳2基を除き、多くは6世紀中頃~7世紀前半築造で、横穴式石室を主体部とする小円墳。堅田・真野地区は、古代には滋賀郡真野郷に属し、大和国の和邇(わに、現奈良県天理市櫟本)を本拠とした和邇氏が真野郷を治めていたとされ、春日山古墳群は和邇氏の墓域と推定されている。以前は、5つの支群(A~E)に分けられ、171基が確認されていたらしいが、その後新しい古墳の発見が続き、現在支群の数は11(A~K)、計200基以上とされている。その中でE支群は「春日山古墳群」として国の史跡に指定されている。E支群以外は、主に春日山公園として保存整備されている。

古墳群の資料として、少々古いが1995年3月滋賀県文化財保護協会の「紀要第8号」がある。その中の『図5春日山古墳分布図』が分かり易い。なおこのブログ記事中の墳径・高さ等の情報は全て、この資料の引用です。

http://www.shiga-bunkazai.jp/download/kiyou/08_iwahashi.pdf

『図5春日山古墳分布図』に現在の道路等を挿入加工

 

春日山古墳群=E支群

E支群は、春日山公園の南側にある「妙法寺」サイドから行ける。妙法寺への分岐を左に上って行く。登り口すぐに案内板がある。

順路                分岐                黄〇=案内 

     *PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

下記分布図は前掲分布図を部分拡大し、一部加工したもの(白丸=全壊、青丸=半壊)。灰色線は「道または開けた所」ですが、あくまでイメージです。

  滋賀県文化財保護協会「紀要第8号」『図5春日山古墳分布図』を部分拡大・主な道等を挿入加工。

E支群は前方後円墳2基、円墳30基の計32基。4世紀後半~5世紀初頭に前方後円墳2基築造以降、5世紀前半~6世紀前半頃に木棺直葬と箱式石棺の円墳5基が造られ、以降6世紀後半から円墳の群集墳築造が始まったとされる。円墳の大部分が横穴式石室を有するが、一部箱式石棺・木棺直葬のものがあるらしい。

分岐すぐの案内

以下、前掲分布図に沿って、巡った所を順に掲載します。

 

11号墳

案内板後方辺りが11号墳。径19m・高さ3m、墳頂部に箱式石棺が露出するらしいが、アクセスは厳しいので、14号墳方面への分岐から、南方向の9号墳に向かう。  

案内板後方        北方向に上って行く    14号方面         黄矢印=9号墳方面  

*写真は2022年11月。季節や経過年数により周辺の様子や目印が変わることが多いので注意下さい。

9号墳・10号墳・14号墳

道が途中で途切れており、木々の間を縫って行く。9号墳は径20m・高さ4m、天井石が3石露出し内部が見えるらしいが、それらしい露出天井石は見つけられなかった。また10号墳はやや楕円形で約35m×26m、高さ4~6mで半壊状態だが、墳頂部は平坦らしい。14号墳は、法面に石垣が施設され、その北東角辺りで、径15m前後だったらしいが墳丘は削平されている。

9号墳方面         9号墳辺り?       10号墳?         14号墳跡 

7号墳・13号墳・8号墳

石垣に沿って西方面に上って行くと、すぐ石垣と石垣の間に南南西方向への道がある。道沿いすぐ左(東)側に7・13・8号墳がある。

7号墳は径16m・高さ2.5mで、北西側は道で削られているが、天井石4石が露出し内部が見える。13号墳は、7号墳の北側一段低い所にあり、径24m・高さ2.3mだが、墳頂部は削平され平坦化している。

西方面へ         南南西への道       登り口(黄丸=7号墳)    7号墳南望(天井石) 

露出天井石南西望     北西望(東側の隙間)     隙間内部南望       内部北望

南東望                       内部(東側壁)        7号墳から13号墳

8号墳は7号墳の東側一段低い所に有り、径16m・高さ2.5mで天井石が露出する。

8号墳へ         露出天井石南西望                   西望 

1号墳=春日山古墳、2号墳

7号墳から道を挟んで西側にあるが石垣で法面が囲われている。西北西方面に向かう道をもう少し進むと、道に面して左手(南)に進入口がある。その奥に墳丘への登り口がある。

1号墳進入口方面     進入口           奥に登り口        登り口

E支群に2基ある前方後円墳の1基。前方部を南西に向ける。前方部幅が後円部に比べかなり狭い柄鏡形で、4世紀後半~5世紀初頭の前方後円墳。全長65m、後円部径約32m・高さ5m、前方部幅20m・高さ3.5m。段築・埴輪・葺石や周堀は確認されていない。主体部は未詳で木棺直葬とみられるが、後円部中央に窪みがある。2号墳が登り口のすぐ西側にあり、径12m程で半壊している。

1号墳後円部北東望    窪み           後円部から前方部方面   前方部

前方部から後円部方面   後円部墳頂見上げ     登り口西側=2号墳     2号墳東望

1号墳進入口の面する道は更に西北西方向に伸び、12号墳に繋がると思い進んだが、丘陵最高所で行止りになっている。この辺りが12号墳のはずだが、笹薮が密集しており、こちらからはアクセスは難しそうで一旦断念。(*この行止り地点は後記12号墳記事の最初の写真に繋がる。)

1号墳から西北西へ(黄丸は29号墳)           赤線が行止り地点     12号墳方面南西望

 

E支群-19号墳~22号墳

妙法寺への分岐に戻り、春日山公園北側の入口に移動。古墳ゾーン(=Ⅰ支群)南側の休憩舎奥から南の林道に入る。

春日山公園案内図     古墳ゾーン方面       古墳ゾーン休憩舎      林道へ

2分程進むと、かなり古い(有刺鉄線を張っていたと思われる)コンクリート柱が立つ墳丘様の隆起がある。ここが尾根筋の東端なら19号墳(径11m・半壊)かもしれないが、よく分からない。ここから尾根沿いを西北西方面に上って行く。同じコンクリート柱が尾根筋に何本も立っており、いくつかの墳丘様の隆起が尾根筋沿いに見られ、かなり上った辺りは、位置的には21号墳(径13m・高さ1.3m)・22号墳(径27m・高さ2.5m、墳頂部は平坦)

19号墳?         尾根筋見返り       21号墳南西見上げ    東望見下ろし

21号墳墳頂北西望         西望               南望(石標上はコンパス)

22号墳西望           墳頂南望              東望

12号墳等

尾根筋を最高所まで登り切った所にある。(*下の左端の写真が前記の行止り地点)

やや開けた所が墳丘。E支群に2基ある前方後円墳の1基。従来円墳とされていたが、1994年調査で前方後円墳と確認されたとのこと。全長54m、後円部径28m・高さ3m、南向きの前方部は幅15mで柄鏡形。主体部は未詳だが木棺直葬と推定される。1995年滋賀県文化財保護協会報告で、4世紀後半~5世紀初め築造だが、12号墳が尾根最高所(標高約153m)で琵琶湖を眺望できる所なので、1号墳に先行するとされる。

行止り地点東望          12号墳後円部南東望         前方部南南西望 

12号墳前方部のほぼ南端に3号墳がある。径13mらしいが全壊し石材がいくつか残るのみ。そのすぐ南東に4号墳があったがここも全壊し、石材が残るのみ。

3号墳石材南望           東望                4号墳石材西望

E支群19号→12号墳の巡ったルートのイメージは下図のような感じです。

公園案内                      青枠内拡大 赤線がルートイメージ

 

春日山公園内の支群=G支群・Ⅰ支群

公園入口に近い所にある。下図の白丸=全壊、青丸=半壊。灰色線は「道または開けた所」ですが、あくまでイメージです

滋賀県文化財保護協会「紀要第8号」の『図5春日山古墳分布図』を部分拡大・主な道等を挿入加工

G1号墳

公園入ってすぐ、池の西側に進入口がある。道標の「展望台105m」方面に上って行くと、途中に「石室35m」とあるので分かり易い。

道標        順路

径18m・高さ5mの円墳。半壊石室が開口する。羨道は全壊するが、玄室は天井石2石が残存している。石材は湖東流紋岩とのことで、墳丘前に解説板がある。

G2号墳・3号墳

G1号墳から、谷筋沿いの道を5分程行く。谷側(南下側)に「万葉ゾーン=A支群」の散策路が見える。その少し西側に墳丘様の隆起がある。2号墳は径10m・高さ1.5mで、墳丘は殆ど削平され、石室基底部のみ残存。西側に隣接する3号墳はほぼ残っており、径11m・高さ3.5m、天井石材1個が露出するとのことだが、よく分からない。とは言え他に見当たらなかったので多分G3号?4号墳は尾根筋でアクセス困難で断念。

谷側見下ろし(黄枠線が万葉ゾーン散策路)         多分G3号西望

一応「万葉ゾーン=A支群」に入ってみたが、時間と体力の関係で途中で断念。

万葉ゾーンへの分岐                   この上側辺りからA支群

Ⅰ4号墳

「古墳ゾーン」にあり分かり易い。しかし広場には1基しかなく「古墳ゾーン???」という感じ。一瞬、前掲の「E支群19号→12号も含むのか?」とも思ったが、とても散策路ではなく、案内もない探索路なのであり得ない。Ⅰ4号墳脇にもかなり古い(有刺鉄線を張っていたと思われる)コンクリート柱が立つ(公園造営時の規制柵?)。径33m・高さ4.5m。

遠景北東望     近景北西望                南西望

 

以上の全行程で3時間強掛かりました。公園については以下を参照下さい。

春日山公園 | 大津市の県営公園

春日山公園|滋賀県ホームページ

 

西羅古墳群

2022.11.26(土)。西羅にしら古墳群は、滋賀県大津市衣川2丁目の住宅地内にある。

西羅1号墳

保存区画の南東端に登り口がある。市指定史跡、墳頂まで登れる。5世紀後半の全長46mの帆立貝式古墳。後円部径32m・高さ3.5m、前方部幅12m。葺石あり。ただ、何処が墳頂か分りにくい。

周辺図          登り口          往路

*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

墳頂方面見上げ      後円部墳頂        墳頂から見下ろし     全景北西望

西羅2号墳

一辺30m(15mとも)の方墳。大津歴史博物館のネット記事に「衣川自治会館横に復元されている」とのことだったが、今は完全に削平されている。

*かなり以前は建物の前=軽自動車の停まっている駐車場にあったようだ。

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衣川廃寺跡

7世紀に建立された古代寺院跡。琵琶湖から西へ約900m、標高110m程の所にある。版築による2つの建物基壇は、金堂と塔の基壇とされている。金堂基壇の下層から、寺院造営に関係する工房と考えられる竪穴遺構が検出されている。屋根瓦を焼いた瓦窯も見つかっている。

解説板          展示施設南東望      展示例

金堂基壇跡                     塔基壇跡  

瓦窯跡

 

穴太野添古墳群

2022.11.16(金)。穴太飼込あのうかいごめ古墳群・穴太野添古墳群。滋賀県大津市坂本。

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滋賀里しがさと方面から京阪電車沿いの県道47号線を歩いて北上したが、47号線沿いに石室があった。穴太駅から50m南東、大津市穴太3丁目8-9の民家の南東に隣接。登って見ていないのでよく分からないが、両袖式の様で切石加工された石材が奥壁等に使われている。後掲の滋賀県教育委員会「1969年滋賀県文化財調査報告書-第4冊」の『穴太野添古墳群分布図』によれば穴太古墳群の1基と思われる。

  *PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

 

古墳群の大半は、京阪石山坂本線の東側にある盛安寺せいあんじ管理の墓地になっており、南東端に古墳群の案内板がある。6世紀中頃~7世紀初めの群集墳で150基以上が確認されている。

なおネットで得られる情報として、滋賀県教育委員会の「1969年滋賀県文化財調査報告書-第4冊」があった。その『第1章穴太野添古墳群調査報告-第1節』に『穴太野添古墳群分布図』が掲載されている。

野添古墳群発掘調査報告・福王子古墳群発掘調査報告 - 全国遺跡報告総覧

分布図の一部を切り取り、加工したものが左下図。墓地(表示)は当時からあるが、まだ県道47号線や比叡山高校穴太グラウンド等は無い。現在、右下隅のに前掲の案内板、右上隅に「平子谷林道」の標識がある(=赤矢印が林道)

【穴太飼込古墳群と穴太野添古墳群周辺の位置関係と探索ルート】

南東端の前掲案内板から、墓地南側の外周道を上り、墓地内に入ると墳丘の様な所が散見される。

続いて穴太野添古墳群の古墳公園へ向かう。何基かあるはずだが、分かり易いのは5基。案内板後ろに、公園中心にある15号墳が目に入る。

古墳公園案内       解説拡大         分布図拡大(右下が北)    15号墳遠景

東側から時計回りに廻った。まず位置的には18号墳辺りに大きな石材が横たわる(最大長2m・幅1.9m程)、天井石だろうか?。その少し南に12号墳があり、6世紀末~7世紀初頭で、両袖式、羨道長4.2m・幅1.3m・高さ1.5m、玄室長2.8m・幅2.1m・高さ2m以上だったとのこと。

18号墳辺り        12号墳南望        案内          北西望

12号墳から公園中心にある15号墳へ。

15号墳西望        墳頂から12号墳等東望   南西望=16号墳      16号墳南東望

16号墳は15号墳南西下の斜面にあり、6世紀末頃の両袖式石室で、羨道長6m・幅1.1~1.4m・高さ1.5m、玄室長3.1m・幅2.1m・残存高さ2.4mだったとのこと。17号墳は15号墳のすぐ西側にある。

16号墳南東望    案内         南望        北西望       17号墳

 

ここからは、整備されていない墓地北側の古墳群へ入る。何号墳か分からないので、巡った順にⒶ から掲載します。

明らかに墳丘と分かるもの、墳丘はないが号数タグの付いた緑色のポールの立つ窪み(石室掘形=石室を設置するための事前の掘り込み、掘り方とも)等を辿って行く。ポールだけ残りタグが失われているものもある。

Ⓐ・Ⓑ

Ⓐ南西望         西望           Ⓑ=63号墳        北望(黄枠はポール)

  *写真は2022年11月。季節や経過年数により周辺の様子や目印が変わることが多いので注意下さい。

Ⓒ・Ⓓ

Ⓓには石室があり、天井部が滅失しているため奥壁が見える。高さ1.5m程で8号墳。

Ⓒ南西望         Ⓓ=8号墳(白いのは大きさ比較のA5ファイル)  

Ⓔ・Ⓕ

Ⓕでは石室石材が見える。

Ⓔ=72号墳        北望           Ⓕ=76号墳        北西望

Ⓖ・Ⓗ

Ⓗでも石室が覗ける。

Ⓖ=77号墳        北望           Ⓗ北西望

Ⓘ・Ⓙ

Ⓙは北側斜面だが、上級者向けスキー斜面の様にコブがいくつもある。

Ⓘ=81号墳        南東望          北西望          Ⓙ=北側斜面全景

Ⓚ・Ⓛ

ⓀもⓁも掘形。Ⓛのタグは無い。

Ⓚ=79号墳            北望               Ⓛ北望

Ⓜ・Ⓝ・Ⓞ

Ⓜは資材置き場になっているが、上から見ると大きな掘形がある。Ⓝも資材置き場状態。Ⓞも堀形のみ。

Ⓜ南西望         南望見下ろし       Ⓝ北東望         Ⓞ北西望

Ⓟ・Ⓠ

Ⓟでも西側石材の崩れた隙間から石室が僅かに見える。自撮り棒で隙間内部北側の奥壁撮影。Ⓠは北側の斜面。右端の写真は巡って来た方向の見返り。

Ⓟ東望                  奥壁        Ⓠ=北側斜面    西側見返り

Ⓡ・Ⓢ

Ⓡも大きな堀形、古墳公園の北側になる。Ⓢも堀形のみで、向こうに古墳公園の15号墳が見える。

Ⓡ遠景南望        近景南望         北望           Ⓢ南望

Ⓣ~Ⓦ

一旦古墳公園北沿いの道(=平子谷林道)に戻り、少し南東側から別の丘に入ると、そこにもいくつか墳丘が見える。

Ⓣ北東望      Ⓤ南望        Ⓥ南望       Ⓥ西望       Ⓦ北東望

墓地北側の穴太野添古墳群(Ⓐ~Ⓦ)は、撮影と記録しながら約1時間。見落とした所もかなりあったと思うが、ざっと見るだけなら30分程掛からないかも。  

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穴太古墳群から更に日吉大社まで歩き、西本宮・東本宮と紅葉も鑑賞した。

なお、日吉大社参道南側にある『穴太積み*』石垣の側道は、まさに本日の『穴太』の地の『穴太衆』が手掛けたもの。もしかして穴太古墳群の石室を構築した技術集団の末裔かも・・・・・。

*城の石垣のうち、自然石をそのまま積み上げる「野面(のずら)積み」の一種。自然石を加工せず積み上げるだけなので石の形に統一性はなく、石同士がかみ合っていない。そのため隙間や出っ張りができ、敵に登られやすい欠点があったが、排水性に優れており頑丈である。技術的に初期の石積法で、鎌倉時代末期に現れ、本格的に用いられたのは16世紀の戦国時代である。「穴太積み」の呼称は穴太衆が手掛けた石垣を指し、積み方の種類ではない。穴太衆の技術の高さを誇示する為に江戸後期以降用いられた呼称である。