OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

百舌鳥古墳群

大阪府堺市の百舌鳥もず古墳群は、大阪府藤井寺市~羽曳野はびきの市の古市ふるいち古墳群と合わせ、「百舌鳥・古市古墳群」として世界遺産に登録されており、日本一著名な古墳群。

私は中学2年生から堺市在住で、あまりにも慣れ親しんできたため、ブログに記事を投稿するのをスッカリ忘れていました。今更この記事をご覧になっても、新しみは全く無いと思いますが、今までの百舌鳥古墳群周辺の古墳散策記事の「まとめ」として掲載します。

 

百舌鳥古墳群の中心付近

先ずは堺市のHPに百舌鳥古墳群関連の記事があり、良くまとまっています。

百舌鳥・古市古墳群を「知る」 堺市

百舌鳥古墳群リスト 堺市

百舌鳥古墳群リスト(詳細ページ) 堺市

上記の堺市HPの記事だけでも充分でしょうが、以下、参考として過去の関連記事も掲載します。

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先ず、何といっても日本最大の古墳=「16代仁徳天皇」陵=大仙陵、仁徳天皇の子の「17代履中天皇陵」=上石津ミサンザイ古墳、その同母弟の「18代反正天皇陵」=田出井山古墳の3基が盟主墳として挙げられる。

また、宮内庁により反正天皇の東百舌鳥陵墓参考地として管理される土師ニサンザイ古墳(290~300m)、応神天皇の百舌鳥陵墓参考地として管理される御廟山ごびょうやま古墳(203m)、大仙陵と同時期のいたすけ古墳(146m)がある。

天皇陵 その四 - OSAKA-TOM’s diary

そして、「16代仁徳天皇」陵=大仙陵を取り巻く陪塚群が著名。

大仙陵 陪塚 - OSAKA-TOM’s diary

更に、大仙陵等の陪塚に治定されてはいないが、大仙陵と上石津ミサンザイ古墳の間に旗塚古墳、グワショウ坊古墳、銭塚古墳(学校敷地内)が保存されている。

旗塚古墳                      グワショウ坊古墳        

 

 

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その他周辺古墳

 

乳岡ちのおか古墳

 

「17代履中天皇陵」=上石津ミサンザイ古墳の北西900m程、堺区石津町2丁にある。

前方部を南西に向けるが、前方部大半が削平されている。元の全長155m、後円部径94m・高さ14m。もとは周濠を有したが埋め立てられている。1972年(S47)に後円部の発掘調査が行われ、粘土で覆われた和泉砂岩製の長持形石棺が確認されている。覆っていた粘土中から碧玉製鍬形石3、同車輪石18等石製の腕輪類が出土。確認のための小規模な調査であったので石棺の内部は調査されず埋め戻された。出土遺物から4世紀後半の築造と考えられ、百舌鳥古墳群では最も時期の古い古墳。

北望

               後円部墳頂北望

文珠塚古墳 

 

「17代履中天皇陵」=上石津ミサンザイ古墳の南東600m程、西区上野芝向ヶ丘町1丁にある。全長59m、後円部径36m・高さ5m、前方部幅27m・高さ4m。S46年史跡指定。H17年~保存整備計画のため、墳丘一部を継続的に調査。主体部(埋葬施設)構造や副葬品は不詳。円筒埴輪編年Ⅳ期の円筒埴輪片を検出し、5世紀中頃と推定される。

くびれ部北望                             後円部北望

鎮守山塚古墳

 

北区百舌鳥赤畑町5丁732 光明院境内。5世紀中頃の円墳。寺の境内なので墳頂部がわずかに見える程度。西側が道路で削られ、東側も防空壕が掘られていて保存状態は良くない。元は径34m・高さ4m以上と見られる。主体部は封土の状況から粘土槨と見られ、円筒埴輪、蓋形・家形・石見形埴輪の他、祭祀に使われたと考えられる人型土製品が出土したらしい。

御廟表塚古墳 

 

北区中百舌鳥町4丁536-7。前方部を西に向けた5世紀後半の帆立貝形前方後円墳。墳長84m、後円部径67m・高さ8m、前方部幅32m。百舌鳥古墳群東部の百舌鳥川を見下ろす台地の辺縁部に位置。前方部が失われ円墳のように見える。2011年(H23)の発掘調査で、後円部は2段築成で周囲に濠が巡り、テラス面に礫が敷かれ小型の円筒埴輪が並び、斜面には葺石が確認された。埋葬施設や副葬品は不詳だが、2008年(H20)地中レーダー探査で、後円部中央に埋葬施設が存在する可能性があるとのこと。

西望                                南西望

定の山じょうのやま古墳 

 

堺市北区百舌鳥梅町1丁 城の山公園(古墳公園)。もともとは前方部を西に向けた帆立貝形古墳で、1968年(S43)からの土地区画整理事業で墳丘が改変され、そのまま公園となった。それまでは、周濠の跡も水田の畦にクッキリと残っていたらしい。墳長69m、後円部径約55m・高さ7m、前方部幅30mで、葺石と埴輪列の存在が確認されている。前方部が削られた時は、墳丘中央に埋葬施設の可能性のある粘土の塊があったとのこと。

東望

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osaka-tom.hatenablog.com

西芳寺川古墳群

西芳寺川古墳群は京都市西京区の西芳寺(通称=苔寺)の西側、「京都一周トレイル西山コース」の南側終点から、西芳寺川という渓流に沿った「西芳寺谷林道」に点在し、A~Fの6支群18基が確認されている。2024年4月11日(木)訪問。

最寄駅=「阪急嵐山線上桂駅」から

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【番外】上ノ山古墳 京都市西京区山田葉室町

上桂駅から西芳寺に向かう途中にある(上図 )。

西望(白矢印は西芳寺方面) 南西望          南望           南東望

*画像は、(スマホでも)PC版ならクリック(タップ)すると拡大されます。スマホ版ならピンチ拡大下さい。

*「〇望」=撮影方向は厳密な方角でなく「〇方面」程度の感覚で理解下さい。また勘違いの可能性も・・。

北東望                       北望

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西芳寺川古墳群 A~F支群位置

*下記HP掲載の「ルート詳細」図を編集・加工

登山ルート : 京都一周トレイル 西山コース-ヤマレコ

 

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なお、本古墳群は「松尾学区古墳群」に属するとのこと。

松尾学区の松尾山・西芳寺川・衣笠・唐櫃越周辺には約120基の古墳がある。

桂川(旧葛野川・大堰川)右岸、現松尾中学建設時の発掘調査で、「松室遺跡」=弥生時代竪穴住居跡~古墳時代後期の掘立柱建物跡・遺構=が600年以上に亘る集落遺跡と判明。この「松室遺跡」の住人は、松尾山の南端、特に西芳寺山を楞伽りょうが窟と呼んだ。楞伽とは宝とか一種の秘境のことと言われており、西芳寺川の1号橋付近の渓谷で当時の様子をうかがい知れる。西芳寺古墳群には43基あり京都盆地とその周辺部の群集墳中、最も密度が高く、現在この西芳寺古墳群西側から西芳寺川上流にかけて、近年新たに発見されたものを含め一括で「西芳寺川古墳群」と名称変更された。築造は古墳時代後期とのこと。

松尾学区古墳群|【京都市公式】京都観光Navi

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以下、西芳寺川下流から上流に向かう順に掲載します。

 

西芳寺から西芳寺川に沿って進むと、北側に渡る橋がある。その2分程先に、「松尾学区古墳・史跡地図」と松尾学区古墳群案内の高札がある。

すぐ先に「山の神さん(大きな岩)」が祀られている(昔は「山の神神社」があったとのこと)

更に2~3分先、林道入口に車止がある。ここが京都一周トレイル西山コースの終点ともなっている。

西望

 

西芳寺川古墳群ー西芳寺川D号墳(神ヶ谷古墳)

*「京都市遺跡地図提供システム 」を編集・加工。

京都市遺跡地図提供システム

車止め(=西芳寺谷林道入口)=西山トレイル終点からトレイルを上がっていった竹林の中にある。

トレイルへ                             「西山トレイル標識51」

続きは下記記事の最下段を参照下さい。

松尾山古墳群 - OSAKA-TOM’s diary

 

西芳寺谷林道

古墳に興味がなくても、夏でも涼しそうで、ウォーキング等に最適。

またこの林道以外に、車止め手前から渓流を対岸に渡り桂坂方面に至る道もある。

林道沿いの随所に、谷の名前等の標識が設置されている。橋には番号が付けられており位置の参考になる。

1号橋               樫の谷              あかしやの谷

 

西芳寺川E1~4号墳

位置的には後記C号墳の方がずっと下流(南東)側だが、ルート的にはこちらを先に行った方が効率がいい。

*「京都市遺跡地図提供システム 」を編集・加工。赤い太線が橋(〇内は橋番号)

2号橋手前の、渓流上の小さな橋(松園橋)を対岸(北西)に渡り、細い坂道を上って行く。

道はE号墳手前で左に曲がって続いていくが、曲がらずまっすぐ上る。

                          左折部分(ピンク〇がE1号墳)

 

E1号墳 墳頂に石材が散在する。

E3号墳から北東望見下ろし             墳頂

 

E2号墳 1号墳の西南西側、3基並んでいる右(北西)端。墳頂に大きな石室天井部の崩落孔がある。

墳丘南西望                     墳頂南東望

崩落孔はかなり大きく、落ちるとそのまま下まで行ってしまいそう・・・。

*降りれないこともないが、脱出時の用意もないので自撮棒で撮影。

内部はかなり土砂で埋まっているが、何とか奥壁は残っている。

 

E3号墳 3基の中央。

墳丘南東望                     墳頂南東望

墳頂に大きな天井石が露出。

隙間から少し内部が見えるが、殆ど埋まっている。

 

E4号墳 墳丘のみ。

南東望                       北西望(後ろが3号墳、左奥が2号墳、黄〇が1号墳)

 

西芳寺川C1・2号墳(上園尾古墳群) 

*「京都市遺跡地図提供システム 」を編集・加工。赤い太線が橋(〇内は橋番号)。

2号橋の北東斜面にC1・2号墳が隣接。2号橋を渡ってすぐ右手の斜面を上がる。

2号橋                   ピンク〇が1号墳(白線はルートを表示)

結構急な坂。しかも地面はむき出しの土なので滑りやすい。雨天は当然ながら、雨の翌日も避けるべき。また掴めるような細い木も無いので、四つん這いで上がるか、丈夫な木の枝等をストック替わりに使って上がった方が良いです。

登り口                       黄〇は「猪捕獲罠がある」という標識

 

C1号墳 径10mほどの円墳で、小さな石材が散在。

北東望見上げ                    北西望(後ろに猪罠=黄〇)

 

C2号墳 1号墳のすぐ上側(北東)、径10m程の円墳で、小さな横穴式石室が開口。

遠景見上げ                     近景(赤〇が開口部)

開口部は幅70㎝・高さ30㎝程。

内部は埋没。

開口部上から南西望見下ろし (赤〇=2号橋、ピンク〇=1号墳、黄〇=猪罠)

 

西芳寺川F・G号墳

*「京都市遺跡地図提供システム 」を編集・加工。赤い太線が橋(〇内は橋番号)。

 

西芳寺川F号墳 3号橋を渡ってすぐ右手の尾根突端。封土の流出が顕著で、石室が露出する。

3号橋                        右上の黄〇辺りが石室

3号橋近辺の墳丘面は殆ど崖で、少し先の傾斜が比較的緩い所から上る方がマシ。

ここも丈夫な木の枝2本をストック替わりに使って上がった方が良いです。

北西望見上げ                    開口部

開口部は幅1m・高さ75㎝程。

玄室は長さ2m弱。結構持ち送りがキツい穹窿式。

奥壁上部                      天井部は平天井

南東望見下ろし(赤〇が3号橋)

 

西芳寺川G号墳 「ペロペロの谷」という標識が有り、その対岸(南西側)にある。

この日は水量が多く対岸には渡れなかったので、林道側から撮影。

「京都市遺跡地図提供システム 」の古墳位置図では、谷筋の細い水路に接し、西芳寺川から標高10m上。おそらく右の写真の奥の方・・・?。



西芳寺川B1~5号墳(坊城ぼうじょう1~5号墳) 

*「京都市遺跡地図提供システム 」を編集・加工。赤い太線が橋(〇内は橋番号)。

5号橋に「西芳寺川古墳群」の案内板がある。「標高125m、南面丘陵斜面に径10~17mの円墳5基が所在。両袖式の2基含め、石室形状をよく残すものが3基」とある。道標板の通り右手の林道枝道の先にある。

5号橋の進入口

進入口              見返り               B1号墳

以下巡った順に掲載。


B1号墳
 径17m、大型の横穴式石室が開口。

全長11.2m、羨道幅1.2m・高さ1.8~2.2m。幅の割にかなり高さがある。

羨道天井                      玄門前の羨道床

両袖式の玄室長3.4m・幅2.3m・高3.8m。持ち送りが急で玄室平面の割に天井が異様に高い穹窿式で、持参の低性能カメラでは1枚に収まらない。

奥壁下半部                     上半部

天井部奥壁側                    天井部中段

左袖部              右袖部               羨道途中に段差がある

墳丘西望

 

B3号墳 B1号墳の北西すぐ後ろ(1号墳と5号墳の間少し奥)。径14m。(案内標識はない。)

南東向きの中型の横穴式石室が開口。

北西望

墳頂南東望                     南東望見下ろし

開口部

羨道幅1.2m。1号墳と比べ小規模。

両袖式の玄室長2.6m・幅1.5m・高2m。側壁はやや持ち送る。奥壁上部が欠落。

両袖部                       前壁の楣石

 

B5号墳 径15mの円墳で、中型の横穴式石室が南東向きに開口。

北西望(左のピンク〇が3号墳)              赤〇が開口部

開口部                       大きさ比較

羨道幅1.1mだが、開口部付近はかなり土砂で埋まっている。両袖式の玄室長3.4m・幅1.8mらしい。

 

B4号墳 3号墳と5号墳の間の北側先(案内板は無い)。5号墳開口部の反対側から回り込む。

5号墳開口部反対面(白矢印は3号墳方向)        北望

径14mで、墳頂が陥没している=石室痕跡。

南東望                       北西望

 

B2号墳 4号墳の西側斜面にあるはずだが、ハッキリ分からない。

4号墳裾から西望見上げ

 

西芳寺川A1~4号墳(北松尾1~4号墳)

*「京都市遺跡地図提供システム 」を編集・加工。

 

A1号墳 径10m。5号橋(B号墳進入口)から林道を西方面に200m程、道沿いにある。案内板が有るはずなのだが、訪問日当日は案内板が崩落していて、すこし戸惑った。

黄〇が開口部(赤〇が案内板 *最初は全く見えなかったが、少しは見えるように置きなおした。)

*写真は2024年4月。季節や経過年数により周辺の様子や目印が変わることが多いので注意下さい。

開口部も倒木で覆われていた。開口部は幅50㎝・高さ70㎝程。

無袖式の玄室長3.7m・幅1.4m。

 

A2号墳 1号墳のすぐ先。ここは案内板健在。径10m。開口部幅50㎝・高さ70㎝程。

無袖式の玄室幅1.3m。

 

A3号墳 更に100m程、右手少し上の方にあるはずだが、倒木が散乱しており、林道からはそれらしい所は見つけられなかった(案内板は無い)。

情報では径10mで、横穴式石室は4.5m×1.2mの無袖式らしい。

A4号墳 A3号墳同様、見つけられなかった。情報では径10m、横穴式石室は、4.6m×1.3mの無袖式無袖式とのこと。

西芳寺川にはオシドリ等の小鳥もおり、平日でも何組かのハイカーとすれ違った。

ただ、古墳を見学する方は全く居なかった・・・。

 

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西芳寺(通称苔寺)西芳寺古墳群

43基の(古墳時代後期の)小円墳が、西芳寺裏山(北側)から西芳寺境内にまで分布する。径10m前後が大半で、横穴式石室を有する。指東しとうの枯山水(特に上段の庭)は、石室石材を利用しているらしい。

なお、西芳寺拝観は完全予約制。拝観時間は「10時~」または「13時~」だが、指定はできない。冥加料=3000円( ネット予約の場合は4000円)。拝観所要目安は1時間半。  ということで、パス。

西芳寺|苔寺 Saihoji | Kokedera

華厳寺(通称鈴虫寺)

江戸時代中期の享保8年(1723)、華厳宗の再興のために鳳潭ほうたん上人によって開かれ、現在は臨済宗に属する禅寺となっている。拝観は30分毎らしい。

京都嵐山観光の寺 鈴虫寺

 

地蔵院

京都市西京区山田北ノ町。臨済宗系の寺院山号は衣笠(藤原)家良に由来する衣笠山えりゅうざん。 開山は夢窓国師本尊は最澄作とされる地蔵菩薩竹林で囲まれており通称竹の寺と呼ばれる

縁起               総門                本堂

方丈内                                参道と竹林

京都 | 竹寺 地蔵院 | 緑と仏様の慈悲と竹の精気に包まれる

松尾山古墳群

松尾山古墳群は阪急嵐山駅付近から西芳寺方面に至る「京都一周トレイル西山コース」(以下「トレイル」と略記)に沿って散在する古墳群。2024年4月1日(月)訪問。

登山ルート : 京都一周トレイル 西山コース-ヤマレコ

トレイル進入口(嵐山側)

トレイルは約3.3㎞。普通に歩くだけなら1.5時間位らしい。トレイルには随所にルート標識(以下「西山〇〇」と表記)が設置されている。進入口は「西山26」。

進入口南望            南西望              「西山26」標識

*「〇望」=撮影方向は厳密な方角でなく「〇方面」程度の感覚で理解下さい。また勘違いの可能性も・・。

*画像は、(スマホでも)PC版ならクリック(タップ)すると拡大されます。スマホ版ならピンチ拡大下さい。

進入口から道なりに。       西山「27」標識

最初は少しキツイが、道は結構広く整備されている。分岐っぽい所があっても、進入不可表示があり、まず道に迷うことはない。

「西山28」            「西山30」

 

以下、トレイルに沿って、巡った順に掲載します。

なお、各古墳の位置は「京都市遺跡地図提供システム 」(以下「京都市遺跡地図」と略記)に掲載されています。

京都市遺跡地図提供システム

 

松尾山A号墳

「西山30」標識から少し先(南)。

「京都市遺跡地図 」を編集・加工。〇内数字=ルート標識。赤矢印が巡回ルート。等高線は2m刻み。

シダで覆われておりトレイルからは殆ど見えないが、左手(東)に10~15m入った所に大きな石材がある。

「西山30」見返り(北望)               石材南望

石材は横幅1.8m・高さ0.9m程。

東望                        北望

石材下は埋まっている。この石材の南側にもう一つ小さめの石材もある。

 

松尾山E号墳

E1~8号墳の8基が所在する。

*「京都市遺跡地図 」を編集・加工。等高線は2m刻み。〇内数字=ルート標識。「京都市遺跡地図 」で「E号墳」は「E支群」の意味で、各古墳には号数が付番されている。

*赤矢印が巡回ルート。青点線はトレイル(あくまでアウトラインで、実際はもっとグネグネしています)

 

「西山32」標識地点にある分岐中央の道を登ると道沿いにE8号墳以下が並ぶ。

南望=右は松尾山頂方面。左はD号墳方面(トレイル本線)。

「西山32」から南西方向に上がっていく。上がり切る手前、左右の樹木が粗くなる辺り。右(西)側が上りの緩斜面、左(東)側が下りの急斜面で、桂川沿いの街並みが望める。各古墳位置はハッキリした目印が全く無く、分かりにくい。

右(西)側上りの緩斜面                左(東)側下りの急斜面=桂川沿いの街並み

トレイルに沿ってE8号墳から掲載しますが、実際はE6号墳が先に見つかり、そこを起点にウロウロしていると、4号墳?に出くわした。6号墳に戻ってウロウロ探すと7号墳が見つかったが、8号墳はよく分からなかった。5号墳は降りれそうになく断念。次の「西山37」→「西山36」付近の4号墳を再確認し、その北先の道沿いの3号墳はよく分からなかったが、さらに北先の2号墳、山頂付近の1号墳は分かり易いです。

 

E8号墳 道から4~5m程上にあるはずだが、倒木に隠れているのか・・・?散々探したが見つけられなかった。

                          

E6号墳 道を上り切った辺り。

南西望(黄〇辺りの樹木の中)             同地点から北東望見返り

北西望 黄〇が開口部。  ピンク〇が倒木の根。  赤〇が皮の剥げた立木

*季節や経過年数により周辺の様子や目印が変わることが多いので注意下さい。

開口部は幅60㎝・高さ30㎝程。

開口部                       大きさ比較

奥行き1m程の小石室。

かなり以前のブログの写真(E4号墳とあるが・・・)では石室中央の石材はまだ落下していない。

(奥から見て)右側壁         天井部              左側壁

 

E7号墳 E6号墳の15m程北西上。倒木の枝で覆われ分かりにくいが、天井石が滅失し玄室の奥壁付近が露出。

(奥から見て)右側壁         奥壁               左側壁

やや南東下に、本来の開口部がある。内部は完全に埋没している。

 

E4号墳 E6号墳からすこし下ると「西山37」標識。ここを鋭角に曲がり、少し上ると「西山36」標識がある。

「西山37」                    「西山37」から「西山36」方面

「西山36」標識から南東側のシダの中へ数m程入ると、シダの生えていない辺りに30㎝~40㎝の石材がある。

「西山36」から南東望                北西望

北西望                       大きさ比較

内部は殆ど埋没している。

 

E3号墳 「西山36」標識から左に曲がり、山頂へ向かう道の右(東)側辺りのはずだが、シダが深くよく分からない。

北西望(2号墳方面)                  南東(「西山36」方面)見返り

 

E2号墳 上記E3号墳辺りからに少し北西先、道が右に曲がる左(西)脇に石材がある。

北西望(赤〇がE2号墳)

(奥からみて)右側壁         奥壁               左側壁

 

E1号墳 松尾山頂上=「西山35」の南東手前。

「西山35」                     南東望

緩やかな高まり                   小さな石材が散在

 

松尾山D号墳

D1~5号墳の5基が所在する。

*「京都市遺跡地図 」を編集・加工。〇内数字=ルート標識。赤矢印が巡回ルート。等高線は2m刻み。

 

「西山32」標識地点にある分岐から南東方向に坂をずっと下って行く。

「西山32」分岐南東望                左手の案内

「西山38」標識の手前の道の両サイドにある。

「西山38」(黄〇)方面南東望                      「西山38」から北西望見返り

 

D5号墳 道で墳裾が削られている。崖に石材、墳頂にも天井石が露出。

南東望(黄〇が「西山38」標識)            墳頂(倒木隙間から石組が見える気もするが・・)

D1~4号墳はD5号墳とは道を挟んだ南西向かいの斜面にある。

南東望(「西山38」方面)               D1~4号墳方面

 

D3号墳 道から南西に入って、一番手前にある。

 

D2号墳 D3号墳のすぐ南西側。大きめの天井石材がいくつか露出する。

隙間から内部が少し見えるが、埋まっている。

 

D1号墳 D2号墳の南西側。石材が散在。

D4号墳 位置的にはD2号墳の西側下だが、それらしき痕跡は分からない。

D1号墳北西望                    D4号墳方面南東望

 

松尾山F号墳

D号墳の南東斜面下に2基ある。

*「京都市遺跡地図 」を編集・加工。〇内数字=ルート標識。等高線は2m刻み。

「西山38」から南方面に道なりに3~4分下ると、平坦な道に「西山39」標識がある。

「西山38」から南望        「西山39」

「西山39」から右手(南西)に入っていくと平坦な所にそれっぽい所があったが・・?。

 

F1号墳 石材が散在するが・・・?よく分からない。

北西墓                       北望

 

F2号墳 F1号墳のすぐ隣に石材があるが・・・?

 

松尾山B号墳

B1~3号墳の3基が所在する。

*「京都市遺跡地図 」を編集・加工。〇内数字=ルート標識。赤矢印が巡回ルート。等高線は2m刻み。

 

B1号墳 「西山39」から道なりに6~7分上っていくと階段道があり、ここを上がると道沿いにB1号墳がある。

「西山39」から                   B1号墳手前の階段道

全長10m超の石室の大きな天井石が露出。これまでのA・E・D号墳とは全く規模が違う。盟主的古墳なのか?造営集団が異なるのか?

南望                        中断北望見返り

南端北望(多分こっちが本来の開口部)

内部は土砂が堆積する。

 

B1号墳と2号墳の間に「西山40」標識がある。

南望(黄〇が標識)

 

B3号墳 B1号墳と2号墳の間、トレイルの西斜面上にあるのだろうがパス。


B2号墳 B1号墳から南へ4~5分=200m強。道沿いに、1号墳同様大きな天井石が露出する。

南望

中段南望

内部は埋没

北望見返り(多分こっちが本来の開口部)

 

松尾山C号墳

B2号墳から一旦下って、また上った最高所(B2号墳から200m弱)「西山43」標識がある。その標識から東方面に急斜面を下った所にC1号墳、そして斜面を下り切った辺りから道の両サイドにC2~9号墳、C11・12号墳が所在。C10号墳は別尾根にあるようだ。

*「京都市遺跡地図 」を編集・加工。〇内数字=ルート標識。等高線は2m刻み。

*何故かC4号墳が2ヶ所ある。便宜上、南側を「C4号墳-1」、北側を「C4号墳-2」としておく。

 

「西山43」標識から東側地域は規制線を示すテープが張られてある。

テープを越えて道の有無を確認したが、行けそうにないので断念。

東望                        黄〇部分近景

以下、下記ブログの情報に準拠しています(かなり以前の内容で、号数も一部違う様です)

大和國古墳墓取調室

C1号墳 急斜面を下り切った直ぐ北側辺り。墳丘東側に天井石が1個露出する。

C2号墳 1号墳から坂を下り切り、東へ少し行った南側台地上。小型石室が露出し奥壁側が開口。

C3号墳 2号墳の東側の低墳丘。

C4号墳-1 3号墳の東隣。

C4号墳-1から道を挟んだ北側の平坦面に4号墳-2、5・6・7号墳がある。

C4号墳-2 下記5号墳の西隣。墳頂に横穴式石室が露出。

C5号墳 保存状態の良い石室奥壁側が開口。羨道部は埋没。

C6号墳 墳丘上に天井石露出。

C7号墳 C5号墳の南側、石室入口部の天井石が露出、内部埋没。

C8号墳 C7号墳のすぐ東斜面下、シダ類に覆われて不詳。

C9号墳 C8号墳の更に斜面下、石室天井石が露出。

C10号墳 4~7号墳のある平坦地の北西尾根の高所にあるようだ。

C11号墳 C4号から南に延びる尾根先端にあるが、石材が1個露出するだけ。

C12号墳 C11号墳の少し東にがあるが、シダ類で覆われ不詳。

 

松尾山G号墳

「西山43」標識から180~190m、稜線南端辺りにG1号墳、トレイルを南東に下った辺りにG2~4号墳。

*「京都市遺跡地図 」を編集・加工。赤矢印が巡回ルート。等高線は2m刻み。

G1号墳 稜線南端の道沿いにあるはずで、僅かに高まりがあったが、よく分からない。

稜線最高所(G1号墳)からを下った東側、シダに覆われたG2~4号墳が並ぶらしいが、シダの繁茂がひどく、それらしい所は見つからなかった。後は下るのみ。

「西山44」                             「西山45」

「西山46」            「西山47」

「西山48」           「西山49」を過ぎると竹林が続く。

 

西芳寺川古墳群ー西芳寺川D号墳(神ヶ谷古墳)

西山トレイル終点手前にある。ここは松尾山古墳群ではないが、ルートの関係で、ここで掲載します。

*「京都市遺跡地図 」を編集・加工。〇内数字=ルート標識。赤矢印が巡回ルート。等高線は2m刻み。

 

竹林の中を下って行くと階段があり、ここを降りてすぐの所にある。

                     上の小さな矢印部分が階段

柵があるが、この日は施錠されていなかった。(筍畑っぽいので普段は施錠されているかも?)

右側壁              天井部               左側壁

「西山51」がトレイル終点。ここの車止めから向こう側が西芳寺川古墳群になる。

当然、トレイル終点から逆のコースを辿っても松尾山古墳群散策はできるが、G号墳に至るトレイルの登り道は結構狭く険しく、嵐山から進入する方をお薦めします。

西芳寺川古墳群 - OSAKA-TOM’s diary

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西芳寺

西芳寺古墳群

43基の(古墳時代後期の)小円墳が、西芳寺裏山(北側)から西芳寺境内にまで分布する。径10m前後が大半で、横穴式石室を有する。指東しとうの枯山水(特に上段の庭)は、石室石材を利用しているらしい。

なお、西芳寺拝観は完全予約制。拝観時間は「10時~」または「13時~」だが、指定はできない。冥加料=3000円( ネット予約の場合は4000円)。拝観所要目安は1時間半。

ということで、パス。

 

西芳寺|苔寺 Saihoji | Kokedera

滋賀県甲賀市の古墳群

滋賀県甲賀市には、10以上の古墳群がある。北から岩坂古墳群・岩坂南古墳群・百合野古墳群・奥百合野古墳群・高山古墳群・三大寺落し谷古墳群・城川古墳群・三大寺桜ノ馬場古墳群・波濤ケ平はとがひら古墳群・塚穴古墳群・杉谷古墳・勅旨古墳群。

*甲賀市教育委員会2008年刊「甲賀の横穴式石室-後期古墳群調査報告書-」P5-図4「水口盆地南西山麓の古墳群の位置」を編集・加工

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古墳群の分布図等詳細については、甲賀市教育委員会 2008年発行 甲賀市史編纂叢書第四集ー『甲賀の横穴式石室-後期古墳群調査報告書-』(以下「調査報告書」と略記)に掲載されている。

「調査報告書」は、A4版-全173ページ。平成17(2005)・18年度(2006)調査結果をとりまとめたもの。甲賀市の岩坂古墳群・岩坂南古墳群・百合野古墳群・奥百合野古墳群・高山古墳群・三大寺落し谷古墳群・城川古墳群・三大寺桜ノ馬場古墳群・波濤ケ平はとがひら古墳群・塚穴古墳群・杉谷古墳・勅旨古墳群と併せ、甲賀市北西側に隣接する湖南市の園養山古墳群が掲載されている。

墳丘規模の「径○m」は円墳で長軸方向の長さ、羨道は残存部分の値、玄室等の高さは(調査当時の)土砂堆積床面からの高さです。なお、同報告書は平成17(2005)・18年度(2006)調査を基にしており、現在とは様相を異にする所も多い点お含み置き下さい。

*露出石室跡が土砂で埋まっていたり、逆に土砂が雨で流されてかなり露わになっている等。

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この「調査報告書」については、下記甲賀市HPを参照下さい。

甲賀市史編纂叢書のごあんない/甲賀市

また、この「調査報告書」を所蔵する大学の図書館は下記で検索下さい。

CiNii 図書 - 甲賀の横穴式石室 : 後期古墳群調査報告

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水口盆地南西麓の古墳群(北側)

*「調査報告書」P5-図4「水口盆地南西山麓の古墳群の位置」を編集・加工

岩坂古墳群

岩坂古墳群 - OSAKA-TOM’s diary

岩坂南古墳群

岩坂南古墳群 - OSAKA-TOM’s diary

百合野古墳群

百合野古墳群 - OSAKA-TOM’s diary

高山古墳群

高山古墳群 - OSAKA-TOM’s diary

 

水口盆地南西麓の古墳群(南側)

訪問していない所は「調査報告書」掲載の情報のみです。

*「調査報告書」P5-図4「水口盆地南西山麓の古墳群の位置」を編集・加工

 

奥百合野古墳群

                *「調査報告書」P25-図19「奥百合野古墳群 位置図」を編集・加工

水口町宇川。高山古墳群西側の広域農道の進入口(上記左写真の赤矢印)から約1㎞。百合野古墳群の南端から百合野林道で900m程?。

進入口

*画像は、(スマホでも)PC版ならクリック(タップ)すると拡大されます。スマホ版ならピンチ拡大下さい。

2基確認されている。北側の1号墳は径11m墳丘は良好で、土砂に埋まっているが南向きの玄室が完存。羨道長2.3m・幅1.12m、右片袖の玄室長3.68m・幅1.67m・高1.5m。南西200m程にある2号墳は径18mで、墳丘は大きいが不明瞭で大型石材が露出する。

 

三大寺落し谷古墳群

三大寺落し谷古墳群 - OSAKA-TOM’s diary

 

城川古墳群

*「調査報告書」P44-図32「城川古墳群 位置図」を編集・加工

水口盆地南西山麓で最も南。国道307号線(近江グリーンロード)牛飼西交差点から広域農道を北東に約450m(途中で信楽高原鉄道の高架下を通る)、農道西側沿いの山林内。6基確認されている。

2024年3月現在一帯はフェンスで囲われており基本立ち入れない。

北西望                       南東望(矢印部分から登れるかも?)

ただ、北西側で工事が行われており、訪問した2024年3月17日(日)は開いていた。

南西望                       南望

1号墳は径10.8m、墳頂陥没、側壁石材1石が残る。2号墳は径14.5m封土の流失が顕著。3号墳は径14mで墳丘は良好。4号墳は径12.8m、墳丘は良好で、石室側壁の一部と羨道天井石の1石目が遺存、無袖式で幅0.45mの小型石室。やや西側に離れた5号墳は径12.5mで長さ5m・幅2.6mの陥没が見られる。川を挟んだ西側尾根にある6号墳は径14m、墳丘上に天井石と思われる長さ1.85m・幅0.85mの大型石材が露出。

北東望(この上に1~4号墳があるが、登らなかった)

 

三大寺桜ノ馬場古墳群

*「調査報告書」P45-図33「三大寺桜ノ馬場古墳群 位置図」を編集・加工

城川古墳群南脇の林道を600m程進んだ谷奥に位置するが、城川古墳群南脇の進入口はフェンスがあり施錠されている。

城川沿い(砂防ダム)の東西100m・南北40mの緩斜面に8基が密集する。1号墳は径14.5mで側壁の一部が残る。2号墳は径10m、墳頂が削平されている。3号墳は径12.5m、封土の流失が顕著、墳頂に長さ5m・幅2.5mの陥没。4号墳は径13.5m、墳頂が削平されている。5号墳は径12m、封土の流失が顕著、墳頂陥没。6号墳は径7m、幅1m程の石室奥壁が遺存するが埋没しており詳細不明。7号墳は径10m、墳丘北側が林道で削られ、墳丘上に石材2石が露出。8号墳は径12.5m、墳丘中央部が陥没。

 

その他甲賀市の古墳群

以下は、訪問しておらず「調査報告書」の情報のみ掲載します。

*「調査報告書」P5-図4「水口盆地南西山麓の古墳群の位置」を編集・加工

 

波濤ケ平はとがひら古墳群

*「調査報告書」P47-図35「波涛ヶ平古墳群 位置図」を編集・加工

甲賀市水口町水口。西から東に伸びる丘陵北端部。野洲川に面した尾根北側縁辺に東西に沿って築かれている。1~4号墳が確認されている。

西端の1号墳は、径13.5mの円墳で、北東向きの横穴式石室の下半分が遺存。おそらく無袖式で玄室長3.95m・幅1.58・残存部高1m。直刀1、刀子2、槍身1、鉄鏃1、轡1、鍍金辻金具1、鉸具1、銀環2、鉄釘8、須恵器製品類12が出土している。2号墳は径10mで、北東向きの石室下部が遺存。羨道長3m程・幅1~1.4m、右片袖式の玄室長3.05m・幅1.4m・残存高1m。羨道と玄室に段差がある。銀環1、鉄釘20、須恵器製品類4が出土している。3号墳は径20m、北東向きの石室下部が遺存。右片袖式の玄室長4.28m・幅2m・残存高1.15m。比較的大きな石材が使われている。鉄鏃2、銀環2、管玉7他玉類5、鉄釘11、須恵器製品類15が出土している。1~3号墳は6世紀末~7世紀前葉と思われる。4号墳は径10mだが、封土の流出が顕著。

 

塚穴古墳群

*「調査報告書」P48-図36「塚穴古墳群 位置図」を編集・加工

甲賀市甲賀町岩室。県道538号線の東側にあり、古墳群北側は野洲川に面する崖。1号墳は径12m、南西向きの横穴式石室が遺存。羨道長3.2m・幅1.02m、両袖式の玄室長3.8m・幅2.15m・高2.7m、平天井。勾玉・棗玉・銀環等が出土している。2号墳は径7.5mだが封土の流失が顕著で、1号墳より一段低い。

 

杉谷古墳

                   *「調査報告書」P52-図40「杉谷古墳 位置図」を編集・加工

甲賀市甲南町杉谷の丘陵上にある単独墳。墳丘には稲荷神社が祭られている。径16mで、東向きの小型横穴式石室の石材(羨道天井石)が露出しているが、石室内部は埋まっており詳細不詳。

 

勅旨古墳群

*「調査報告書」P53-図41「勅旨古墳群 位置図」を編集・加工

甲賀市信楽しがらき町勅旨ちょくし。1号墳は径12.5m、ほぼ南向きの横穴式石室が確認されている。両袖式の玄室長2.9m・幅1.47m・高1.85mで、天井石1枚が玄室内に落下。7世紀初頭~前半代と思われる。2号墳は径11.5m、小型石室がある。

高山古墳群

高山古墳群は滋賀県甲賀市水口みなくち町高山にある。200m程北西側には百合野古墳群、その400m程北側には岩坂南古墳、更にその300m程北側のJR草津線の線路すぐ西横に岩坂古墳群がある。2024年3月18日(月)訪問。

 

水口盆地南西麓の古墳群北側

*甲賀市教育委員会2008年刊「甲賀の横穴式石室-後期古墳群調査報告書-」P5-図4「水口盆地南西山麓の古墳群の位置」を編集・加工

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古墳群の分布図等詳細については、甲賀市教育委員会 2008年発行 甲賀市史編纂叢書第四集ー『甲賀の横穴式石室-後期古墳群調査報告書-』(以下「調査報告書」と略記)に掲載されており、本ブログの各古墳規模・石室実測値等は、基本的にこの資料に準拠しています。円墳墳丘規模の「径○m」は長軸方向の長さ、羨道は残存部分の値、玄室等の高さは土砂堆積床面からの高さです。なお「調査報告書」は平成17(2005)・18年度(2006)調査を基にしています。なお、同報告書は平成17(2005)・18年度(2006)調査を基にしており、現在とは様相を異にする所も多い点お含み置き下さい。
*露出石室跡が土砂で埋まっていたり、逆に土砂が雨で流されてかなり露わになっている等。

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この「調査報告書」については、下記甲賀市HPを参照下さい。

甲賀市史編纂叢書のごあんない/甲賀市

また、この「調査報告書」を所蔵する大学の図書館は下記で検索下さい。

CiNii 図書 - 甲賀の横穴式石室 : 後期古墳群調査報告

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なお今回の訪問にあたり、高山古墳群の掲載されている下記のブログを参考にさせて頂いたが、結構以前の様で、2024年3月現在とは、かなり様相が異なりました。

大和國古墳墓取調室附属博物館

高山古墳群

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高山古墳群

県道4号線と住宅地に挟まれた東西600m、南北400mに位置し23基が確認されている。

*「調査報告書」P28-図22「高山古墳群 位置図」を編集・加工

県道4号線南沿いに「右笠山神社道」の石標が立つ。その脇道を南へ240m行くと、古墳群の所在する丘陵に登るつづら折りの道がある。上図の右下赤〇が進入口。

北西望(石標から南へ)                進入口南望   

南西望(つづら折りの道へ)              北東望(ネットが張られているが持ち上げれば通れる)

*「〇望」=撮影方向は厳密な方角でなく「〇方面」程度の感覚で理解下さい。また勘違いの可能性も・・。

*画像は、(スマホでも)PC版ならクリック(タップ)すると拡大されます。スマホ版ならピンチ拡大下さい。

以下号数順に掲載します。

*実際に巡ったのは進入口から隣接する所を辿っています(巻末に掲載)。

 

1号墳 つづら折りの道を登り切る手前のカーブ突き当りにある。径14m、墳丘南側がその道で削られている。

北望

奥の茂みの中に、南東向きの石室の前壁部分上部が開口。開口部は30㎝程しかない。

羨道は幅1.18mだがほぼ埋没する。玄室は完存。(右の写真の白い点は差し込んでいる光)

「調査報告書」ではーーー両袖式の玄室長3.32m・幅2.5m・高2.25m。側壁の持ち送りが急な穹窿式。天井は奥壁側の幅1.7m、天井石は3石構成で、水平に架構されており、奥壁側の1石目の長さは1m、2・3石目は各0.8mーーーとある。


2号墳 1号墳のすぐ北側の道沿い。径9.7m、林道で西側が削られ石室が露出。

北望

羨道側の石材                    俯瞰(隙間内部は埋まっている)

天井部のアチコチに隙間がある。      奥壁上部の隙間

南東向きの石室奥壁付近が遺存する。隙間から奥壁等が覗ける。寸法は不明。


3号墳 2号墳に向かう道の左側(西側)斜面にある。墳頂に小屋がある。径13.5m、道から開口部が見える。

北西望                       南西望

石室は完存するらしいが、詳細不詳。現在は開口部自体が埋まっている。


4号墳 2・3号墳から林道を40~50m北方面に上がった空地に、もう一つ小屋がある。

林道分岐北望(左=青矢印は3号墳頂の小屋へ)      もう一つの小屋(白矢印が4号墳方面)

その小屋の北東方面に小さな墳丘が見える。

径9.5m、墳丘は良好で、羨道は崩壊しているが、南東向きの玄室は完存する。

北西望(黄〇が開口部)

右側壁(赤線の左)と奥壁             左側壁

「調査報告書」ではーーー右片袖式の玄室長2.15m・幅1.95m・高さ1.58mで、側壁・奥壁は小型石材で、持ち送りが急な穹窿式。天井長1.84m・幅0.8mで、3石構成だが、前壁側の3石目が0.25m程低く架構されているーーーと、ある。

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*あるブログで4号墳が「東屋の奥の林の中・・」とあったので、小屋の奥=北の林の中を探したが(当然)見つからず、ウロウロしていてこの墳丘を見つけた。「調査報告書」の古墳位置図と違うので「おかしい?」と思いながらも、開口していたので5号墳と思い込み、次の5・6号墳を探し損ねた。

思うに、古墳位置図が間違っていたのでは??4号墳から北東下を眺めると、とても降りれそうにない急斜面だったし・・・(後述するが19号墳の位置表示は明らかに違っていた)

私の考える位置図(赤▢が小屋)            4号墳付近から北東望見下ろし

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次の5・6号墳は上記の事情で探し損ねた。

5号墳 4号墳の北側にある斜面を降りた所に小さな墳丘があったらしい。径11.5m、墳頂部は削平されており、南東向きの石室が完存。羨道は埋没し、玄室の横断面は方形、縦断面は矩形。

「調査報告書」ではーーー右片袖式の玄室長3.35m・幅1.65m・高1.68m、側壁・奥壁は持ち送るが、特に奥壁の持送りが急。天井は長2.9m・幅1.2mで4石構成。平天井で、前壁に向かうほど、低く架構されているーーーと、ある。

6号墳 5号墳のすぐ上。墳丘は不明瞭で、古墳状隆起の可能性もあるとのこと。

 

また、次の7・8号墳も、上からはとても降りれそうにないのでパス。

あるブログに「県道4号線から丘陵東の農道を50m程南下し、東に向かう農道との分岐西側の竹林内に・・・」とあったが、現在は獣防護柵や草木の繁茂でとても登れない。

7号墳 5号墳から谷を挟んで80m程北東に下った竹林の中。径12.5m、墳頂が削られているが、南東向きの石室が完存。羨道幅1.05m、右片袖式の玄室長3.82m・幅1.66m・高さ1.8m、平天井。

8号墳 径12.5mだが墳丘は不明瞭。

 

9号墳 10号墳から山道に沿って北東の尾根を100m以上下った林の中。径12mで、封土の流失が顕著で墳頂が大きく陥没している。

9号墳も、10号墳からの林道(黄線)が倒木や笹藪で埋まっているのでパス。

10号墳 4号墳から緩斜面を北方面に100m程上がった頂上やや北東側、林道沿いにある。径15mで墳丘は良好で墳頂は陥没とあるが、叢で確認できない。

北望                        西望

 

11号墳 10号墳下の林道を南西に少し行った辺りに分岐があり、そのすぐ北側。径15m、林道で東側が削られている。

10号墳からの林道(黄線)南西望            11号墳北西望(ピンク〇)

墳頂辺り?の石材の隙間から内部が少し覗けるらしく、大半埋没しているが玄室は完存の模様とのことだが確認せず。

 

11号墳から北西。西に伸びる尾根筋に12~15号墳が並ぶ。いずれも明瞭な特徴がなく、しかも草木で覆われていたのでハッキリ確信はないが・・・。

12号墳 径12mだが墳丘は不明瞭。

南東望(尾根筋見返り)

13号墳 径10mだが墳丘は不明瞭。

南東望(尾根筋見返り)

14号墳 珍しく方墳で、辺11m、墳丘は不明瞭。

 

15号墳 これも方墳で、辺8m。墳丘は不明瞭。

西望

次の16~18号墳が見つからずウロウロし、15号墳辺りに戻った時石材を見つけた。

墳頂(黄〇)辺りにも石材があり周辺が窪んでいる。隙間のある石材(ピンク〇)もあった。

15号墳は「調査報告書」にはーー石材などは確認できないーーとあるので・・・?

 

14・15号墳の南斜面30~40m下辺りに、幅1m程のテラス(林道の様な平坦地)が巡っており、そのすぐ南下沿いに16~18号墳が並ぶ。

16号墳 径7.5mの円墳、封土の流失が顕著で、石材散在。

テラス方面見上げ

上記写真の黄〇部分                 ピンク〇部分

 

17号墳 辺6.5mの方墳で、封土の流失が顕著で、石材散在。

16号墳方面から遠景南西望              西望近景

 

18号墳 墳形は不詳。石材の隙間から、南向きで無袖式の小型横穴式石室の玄室奥壁が覗ける。

西望                        北望

 

18号墳から南下の林道に降りる。途中に大きな石材があった。

北望(黄〇=石材 ピンク〇=林道のマーカー)    石材

この林道を少し西に行くと北に上がる道と西に向かう道(19号墳方面)に分岐する。

林道西望             北に上がる道           西(19号墳)に向かう道

西に向かう道を進むと分岐があるので左下に行く。

3分程で小さな廃屋があり、この北側が19号墳。

 

19号墳 径12mで墳丘は南側が削られ、南向きの石室が露出。

両袖式の玄室長3.75m・幅1.9m・高1.85m、群中では珍しく持ち送りが小さい。

 

なお、19号墳だけ見るなら、古墳群の西側を通る広域農道沿いの進入口から入り、林道を道なりに200m弱進むと、18号墳方面からの分岐に至る。

進入口東望(施錠されていない)

なお冒頭の「調査報告書」の19号墳の位置図は違っていると思う。

また16~18号墳も、少しズレているかも・・・?                 位置図では19号墳が北側の道沿いにある()が、南側の道沿いの(🔴)が正しいと思う。

 

20墳 4号線のすぐ南側、尾根先端の高所にある。径13mで墳丘は良好とのこと。

北側の進入口からが近い。

                     多分20号墳

 

21~23号墳は古墳群の北東角、舗装道路沿いに点在する。

21・22号墳 いずれも封土の流失が顕著で、不明瞭。

23号墳 径10mで、墳丘は良好。大型石材が露出。

21号墳              22号墳?             23号墳?

 

 ============【実際に巡った順路】================

右下赤〇が今回の進入口。黄〇は古墳群へのその他進入口。

 

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笠山神社

岩坂古墳群

岩坂古墳群は滋賀県甲賀市水口みなくち町岩坂。JR草津線三雲駅と貴生川きぶかわ駅の丁度中間、線路のすぐ西側(20~30m北西は湖南市三雲になる)。2024年3月17日(日)訪問。

 

甲賀市の数ある古墳群の北端。

*甲賀市教育委員会2008年刊「甲賀の横穴式石室-後期古墳群調査報告書-」P5-図4「水口盆地南西山麓の古墳群の位置」を編集・加工

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分布図等詳細については、甲賀市教育委員会 2008年発行 甲賀市史編纂叢書第四集ー『甲賀の横穴式石室-後期古墳群調査報告書-』(以下「調査報告書」と略記)に掲載されており、本ブログの各古墳規模・石室実測値等は、基本的にこの資料に準拠しています。

当古墳群は全て円墳で、墳丘規模の「径○m」は長軸方向の長さ、羨道は残存部分の値、玄室等の高さは土砂堆積床面からの高さです。なお同報告書は平成17(2005)・18年度(2006)調査を基にしており、現在とは様相を異にする所も多い点お含み置き下さい。
*露出石室跡が土砂で埋まっていたり、逆に土砂が雨で流されてかなり露わになっている等。

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この「調査報告書」については、下記甲賀市HPを参照下さい。

甲賀市史編纂叢書のごあんない/甲賀市

また、この「調査報告書」を所蔵する大学の図書館は下記で検索下さい。

CiNii 図書 - 甲賀の横穴式石室 : 後期古墳群調査報告

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岩坂古墳群詳細

現在、南北100m・東西50mの範囲に密集する20基が確認されている。1926年の『甲賀郡志』では35基が確認されていたらしく、江戸時代末期の弘化年間の山崩れ以前には、もっと多数存在してらしい。

*「調査報告書-」P9-図7「岩坂古墳群 位置図」を編集・加工

*「調査報告書-」P11-図8「岩坂古墳群 古墳位置図」を編集・加工

 

墳丘や主体部が良好に残るものは殆ど無く、8号墳のみ石室が残る。8号墳は「岩坂十三仏」(後記)に上がる道から入るのが分かり易い。

古墳群北東角の道標(右横に林道の名残が残る)      十三仏上り口北望

*「〇望」=撮影方向は厳密な方角でなく「〇方面」程度の感覚で理解下さい。また勘違いの可能性も・・。

*画像は、(スマホでも)PC版ならクリック(タップ)すると拡大されます。スマホ版ならピンチ拡大下さい。

8号墳

「岩坂十三仏」の裏側、すぐ西横にある。

南望(写真左横に十三仏がある)

径12.5m、封土の流失が顕著で、南東向の石室がほぼ露出する。天井部が開口。

北西望

羨道は幅1.12mらしいが埋没している。右片袖式の玄室長3.98m・幅1.6m・高1.75m。奥壁は現状5段確認でき、中型の横長石材を主体に水平に積み上げられている。

側壁も中型の横長石材を主体に水平に積み上げ、緩やかに持ち送る。

天井は平天井で本来3石構成と考えられ奥側2石が残る。

(奥から見て)右側壁                 左側壁

羨道(上の真ん中の写真矢印の隙間)          墳頂から俯瞰

以下8号墳以外。

1号墳 径15m、北側は道路で削られている。

2号墳 径10m、南東向きの石室は石材は抜かれ、墳頂が陥没(1.5×4m、深さ0.7m)

1号墳西望                     2号墳南西望

3号墳 径10m、南向きの石室の石材は抜かれ、墳頂が陥没(1×4m、深さ2.5m)

4号墳 径7m、南向きの石室痕跡。

3号墳東望                     4号墳南望

5号墳 径6m、不明瞭

6号墳 径9m、笹に覆われている。南向きの石室の石材が抜かれ陥没孔はあるが無数のペットボトルが捨てられており、やむなく笹だけ撮影。

5号墳                       6号墳は笹の中

7号墳 径13m、墳丘良好。南向きの石室の石材は抜かれ、墳頂陥没。

9号墳 径7m、墳丘東側が十三仏で削平され撮影せず。

7号墳西望                     7号墳墳頂陥没

10号墳 8号墳と接する、径10m、南向きの石室の石材は抜かれ、墳頂陥没。

11号墳 径8m、不明瞭。

10号墳南東望                    11号墳東望

12号墳 径7m、道路で東側は削平されている。側壁の一部露出。

13号墳 径11m、西側が削平され、南東向きの石室の石材が抜かれ、墳頂陥没。

12号墳南望                     13号墳北西望

14号墳 径13m、墳丘良好。南向き石室の天井・側壁石材が一部残る。

北望                        北東望

15号墳 径8.5m、南向きの石室の石材は抜かれ、墳頂陥没。

南東望

16号墳 径9m、南東向きの石室の石材が抜かれ、墳頂陥没。

17号墳 径9m、不明瞭。

16号墳北西望                    17号墳北東望

18号墳 径11.5m、南向きの石室の石材は抜かれ、墳頂陥没。

西望                        北望

19号墳 径9m、南向きの石室の石材は抜かれ、墳頂陥没(撮影失念)

20号墳 径10m、南向きの石室の石材は抜かれ、墳頂陥没(猛犬が繋がれており撮影できず)

 

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岩坂十三仏

滋賀県下では3例しかないとされる十三仏石の一つらしい。高さ3m・幅2m程の巨石に刻まれた石仏は上下2体ずつ、左右3体ずつ、中央に3体。亡き人の生前中に犯した罪の裁きを順番に行う十三人の裁判官の本地仏。この十三の仏は死後の世界の案内役をするという信仰もあり、十三回の追善供養(初七日〜三十三回忌)をそれぞれ司る仏で、描いた掛軸が法要等で飾られるとのこと。

北西望                       西望(この裏側、西横に8号墳)

十三仏は、不動明王・釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩・地蔵菩薩・弥勒菩薩・薬師如来・観音菩薩・勢至菩薩・阿弥陀如来・阿閦如来・大日如来・虚空蔵菩薩。

【参考】

十三仏の功徳と効果、真言について | 高野山真言宗やすらか庵

 

岩坂南古墳群

岩坂南古墳群は滋賀県甲賀市水口みなくち町岩坂。300m程北側のJR草津線の線路すぐ西横に岩坂古墳群がある。また、400m程南側には百合野古墳群、更にその200m程南東側に高山古墳群もある。2024年3月17日(日)訪問。

*甲賀市教育委員会2008年刊「甲賀の横穴式石室-後期古墳群調査報告書-」P5図4「水口盆地南西山麓の古墳群の位置」を編集・加工

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分布図等詳細については、甲賀市教育委員会 2008年発行 甲賀市史編纂叢書第四集ー『甲賀の横穴式石室-後期古墳群調査報告書-』(以下「調査報告書」と略記)に掲載されており、本ブログの各古墳規模・石室実測値等は、基本的にこの資料に準拠しています。

墳丘規模の「径○m」は円墳長軸方向の長さ、羨道は残存部分の値、玄室等の高さは土砂堆積床面からの高さです。なお同報告書は平成17(2005)・18年度(2006)調査を基にしており、現在とは様相を異にする所も多い点お含み置き下さい。
*露出石室跡が土砂で埋まっていたり、逆に土砂が雨で流されてかなり露わになっている等。

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この「調査報告書」については、下記甲賀市HPを参照下さい。

甲賀市史編纂叢書のごあんない/甲賀市

また、この「調査報告書」を所蔵する大学の図書館は下記で検索下さい。

CiNii 図書 - 甲賀の横穴式石室 : 後期古墳群調査報告

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岩坂古墳群と同一丘陵にある4基(6~9号墳)が密集する支群と、その南西側(=県道4号線を挟んだ)丘陵尾根に5基(1~5号墳)の支群、計9基が確認されている。

*「調査報告書」P13-図11「岩坂南古墳群 位置図」を編集・加工

 

未訪問の所は「調査報告書」の情報のみ掲載。

1号墳(未訪問)

標高280m程の最高所で径16m。南東向きの石室が完存、羨道幅1.5m、右片袖式の玄室長3.6m・幅195m・高1.55m、平天井。

2号墳(未訪問)

1号墳から直線距離で200m程下った標高250m程に位置する。径12mで西向きの石室完存。羨道長1m・幅0.54m、右片袖式の玄室長2.75m・幅1.85m・高1.1m。

3号墳(未訪問)

2号墳から更に下った所。径9m、石材が抜かれ墳頂が陥没。

 

4・5号墳は尾根北端付近にある。

県道4号線から何とか上がれる。

上がっては見たが、よく分からない。

4号墳 径11m墳丘良好、大型石材露出。

5号墳 径12.5m、南向き右片袖式石室長3.5m程・幅2m・現高1.2m。奥壁の一部が遺存。奥・側壁持ち送り急な穹窿式、6世紀中頃以降甲賀地域に導入されたものと思われるとのこと。

4号墳辺り?                    尾根筋先端=5号墳辺り?

6号墳 養父神社境内の東側に有る。

養父神社                      舞殿

舞殿東側の道を上がると6号墳がある。

東望

径8mで、石室石材を利用した階段状の石組と石碑がある。

南望                        西望

7号墳 6号墳の東下。径4.5mで、封土の流失が顕著。

南東望 見下ろし                  南望

8号墳 径4.5mで、封土の流失が顕著。

9号墳 径7mで東側が削られ、埋葬施設等は判然としない。

8号墳北西望                    9号墳南東望 見下ろし