OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

大阪府泉北の古墳

陶邑窯跡群、檜尾塚原8号墳、牛石古墳、二本木山古墳、陶器千塚古墳群

陶邑すえむら窯跡群

古墳の出土遺物として、大抵土師器はじき・須恵器すえきがある。埴輪は原則土師器で、小さな坑を地面に掘って焼成(野焼き)するので、密閉性はなく酸素の供給が多い酸化焔焼成によって焼き上げる。そのため、焼成温度は800~900度で、橙色ないし赤褐色で軟質(もろい)。また、焼きムラの黒斑が良くみられる。

一方、須恵器は、古墳時代中期の4世紀後半から平安時代までの陶質土器(陶器と混同を避けるため、考古学用語では須恵器という)。起源は朝鮮半島(特に南部の伽耶)。須恵器はろくろ技術を用い、登窯のぼりがまと呼ばれる地下・半地下式の窖窯あながまを用い、1100度以上の高温で還元焔焼成する(密閉窖窯の中で酸素供給が不足するが、高熱により燃焼が進む)。野焼きの様に酸素が十分なら、燃料はすぐ二酸化炭素と水になる。しかし密閉状態では、一酸化炭素と水素が発生し、それが粘土成分の酸化物から酸素を奪う(還元する)ことで二酸化炭素と水になる。須恵器の灰色は、粘土中の赤い酸化第二鉄が還元されて酸化第一鉄に変質するために現れる。

須恵器を焼くには登窯が必要で、斜面を掘りくぼめ、細かく切った藁を混ぜた粘土で天井を覆い、細長いトンネルを造る。下から薪を入れる焚口たきぐち、薪を燃やす燃焼部、土器を焼く焼成部と煙を出す煙道に分かれ、燃焼部で燃やされた炎が斜面を上り、効率良く熱が焼成部に伝わる。窯の長さは約10m、幅は約2mで、内部の高さは1.5mぐらい。焚口の前には、燃焼部から掻き出された灰や薪の燃えカス・焼いている時に割れたり変形して捨てられた須恵器が積もった灰原はいばらが広がる。

大阪府高槻市上土室はむろの新池遺跡(ハニワ工場公園)に典型的な登窯跡があり、参考までに・・・・・・。

          復元登窯

その須恵器が、泉北ニュータウンを中心に西は和泉市岸和田市、東は大阪狭山市。東西15㎞、南北9㎞におよぶ泉北丘陵一帯で大規模に焼かれ、各地に運び出されていたことは意外と知られていない。須恵器生産が始まったのは、今から約1600年前の古墳時代にさかのぼる。この焼きものの技術は、朝鮮半島からの渡来人により伝えられ、泉北の地にも根付き、平安時代までの約500年間で600基とも1000基とも言われる窯が築かれた。昭和30年代泉北ニュータウンの建設工事に伴い、窯跡の分布が調べられ、『日本書紀』に見える地名の「茅渟県陶邑ちぬのあがたすえむら」にあたるとされ、陶邑窯跡群と名付けられた。

泉北丘陵の周辺では、須恵器生産に関係する遺跡がいくつか発見されている。泉北の陶器川・前田川流域では陶器南・辻之・小角田こかんだ・田園遺跡等がある。倉庫建物跡や不良品の須恵器が多数出土する。出来上がった須恵器を、不良品を選別した後、倉庫で保管され河川などを利用して出荷する集積・出荷センターの役割があったと考えられている。近くには須恵器生産に関係した首長や集団長クラスが葬られたと思われる湯山古墳・陶器千塚・牛石古墳群・檜尾塚原古墳群等がある。窯や集積・出荷センターは、10~100年の期間でその働きを終えている*。

*須恵器を焼くには大量の薪を必要とし、森林がなくなった時点で新しい場所に移動する。貞観元年(859)河内と和泉の国の間で、薪を切り出す山をめぐって起こった「陶山の薪争い」が『日本三代実録』に見える。長年の須恵器生産が丘陵から森林を奪い、須恵器を焼くことができなくなったことも陶邑の須恵器生産が終わりを向かえた理由の一つと考えられる。

陶邑窯跡群 堺市

 

檜尾ひのお塚原8号墳

2022年5月19日(木)訪問。巻頭地図①。6世紀の8号墳の木芯粘土室が移築保存されている。また光明池駅の北側には、古墳群が新檜尾公園として整備されている(ただ、案内板等は設置されておらず、詳細不明)。

下図紫の枠線が8号墳の所在地。緑の枠線が新檜尾公園(●は大阪府遺跡地図掲載の古墳)

8号墳進入口       遠景北東望         移築石室         案内

開口部は施錠されていないか、閂が全く動かず、金網越しに撮影。木芯部分が復元されている。

開口部          石室内

牛石うしいし古墳

2020年2月6日(木)訪問。巻頭地図②。大阪府堺市南区桃山台1丁。6世紀後半の円墳。

             遠景西望                       案内   

牛石                        南東望

二本木山古墳

2020年2月6日(木)訪問。巻頭地図③。大阪府堺市南区赤坂台2丁。5世紀前半の円墳。

             墳丘へ(白矢印)      墳頂へ(赤矢印)

          案内           北東見下ろし        南西見上げ

陶器千塚古墳群

2015年9月23日(水)訪問。大阪府堺市中区辻之つじの。6世紀後半の古墳群。周辺には、辻之・小角田こかんだ遺跡等がある。精華高校の校庭内に御坊山古墳がある。御坊山古墳の石碑のすぐ西に陶器千塚29号墳跡がある。

          御坊山遠景      碑          案内  

詳細は以下を参照下さい。

御坊山古墳 堺市

陶器千塚29号墳 堺市

辻之遺跡 堺市

小角田遺跡 堺市

 

牧野古墳

2022年5月4日(水)。奈良県北葛城郡牧野古墳・京戸古墳・佐味田宝塚古墳・貝吹山2号墳・金フリ山塚・石ヶ谷古墳・勘平山古墳・御坊中古墳・土山古墳・坊主山古墳。

馬見古墳群に属する牧野古墳・佐味田宝塚古墳は2017年11月に訪れているが、普段施錠されている牧野古墳の石室が公開されたので、周辺を含め訪問。

①牧野ばくや古墳

奈良県北葛城郡広陵町馬見うまみ北8丁目4、牧野史跡公園。古墳時代後期の6世紀末、径約50~60m・高13mの円墳、3段築成。両袖型の横穴式石室が2段目に南方に開口する。

遠景北東望        公園入口東望        案内

   *PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

当日、石室への登り口に置かれていた解説板。ちょっとくたびれていましたが・・。

案内           開口部          前庭

全長17.1mの横穴式石室。羨道長約10m・幅約1.8m・高約2m、玄室長約6.7m・幅約3.3m・高4.5m。 巨石で構築され、石舞台古墳に次ぐ規模。玄室側壁は古墳時代後期~終末期特有の持ち送りがみられ、桜井市の赤坂天王山1・3号墳石室と類似する。玄室内には凝灰岩製家形石棺2基が納められていた。奥壁手前に安置された石棺は長さ2.1mの刳抜式(石室内に現存)、その手前に置かれていた石棺は、破壊されていたが破片や痕跡から長さ2.6m程の組合式だったと推定される。床面には礫が敷かれ、玄室壁に沿って排水溝が巡り、玄門部で合流し羨道を通り外面に続いていた(今は埋まっている)。玄室内を中心に金銅装の馬具・約400の鉄鏃・銀装大刀・金銅製山梔くちなし玉等の玉類・金環等の装飾品・木芯金銅椀・須恵器等が検出された。この時期では最大級で、被葬者は大王に近い支配者層と考えられ、30代敏達びたつ天皇(在位572~585年)の第一皇子押坂彦人おしさかのひこひと大兄皇子(生没年不祥)との説がある。
押坂彦人大兄皇子=乙巳いっしの変で著名な「35代皇極こうぎょく天皇」と大化の改新で著名な「36代孝徳天皇姉弟の祖父。

羨門部(開扉箇所)     羨道           玄室床面         刳抜式石棺

刳抜式石棺上部左端    中            右端           奥側から

奥壁は下から3石・2石・1石、最上段の1石は前傾している。母子連れの見学者がおられ、子供が懐中電灯を振り回していたので、玄室内の写真はあまり撮れませんでした。

奥壁中段        上段正面          上段東望         天井部(左が奥側)

西(奥から見て右)側壁   東(左)側壁         東(左)袖         西(右)袖

玄門側       玄門部        楣(まぐさ)石    上段         羨道と開口部

墳頂見上げ南東望  墳頂南望       開口部俯瞰南望   俯瞰西望      開口部

馬見古墳群は以下を参照下さい。

馬見古墳群 - OSAKA-TOM’s diary

 

②京戸古墳 

広陵町馬見北4丁目19、2号児童公園(京戸」の読み方が分からない)。奈良県遺跡地図10D-0081。径15mの円墳、木棺直葬とのこと。フェンスで囲われているが、西側と東側のフェンス扉は施錠されておらず中に入れる。この時期でも草が相当生い茂っており断念。冬場なら良いかも?

        公園遠景   案内(赤〇は当方加工)      西側進入口        南望

③佐味田さみた宝塚古墳

北葛城郡河合町佐味田。4世紀末~5世紀初頭頃の前方後円墳。馬見地域で最初に築造された前方後円墳。2017年11月一度訪問しているが、牧野古墳周辺なので、再度訪問した。②の2号児童公園から直線距離で120m程だが、倒木とかで道が見つけられず、下図青破線のルートを辿るしかなかく、1.7kmあった(佐味田宝塚古墳の西側=葛城台団地から、ほのぼの公園経由でも1.3km)。墳丘到着時、古墳案内板左横に、つい最近除草された道があり、墳丘方面に上ると、道らしきものを発見、そこを辿ると、あっさり2号児童公園に出た(詳細ルート後述)。

古墳案内の後ろに、堤の様な段があるが、これは墳丘ではなく、この堤を上がった奥にある。1881年発見され、全長111m、後円部径60m、前方部幅50m。各2段築成で前方部を北東に向ける。埋葬施設は粘土槨で、その周囲に礫を埋めた排水溝を巡らせていたと推測されている。葺石と埴輪が確認されたが、濠は確認されていない。

案内           墳丘への登り口      くびれ部北西望      後円部西望 

前方部北西望    南望         案内        前方部南西望    北西望

1882年(M14)粘土槨から約36面の銅鏡が出土、中でも径23cmの大型家屋文鏡かおくもんきょうが著名(宮内庁書陵部蔵)。他に銅製品8点、石釧(いしくしろ=石製腕輪)、鍬形石(くわがたいし=腕輪の一種)、石製合子(ごうす=ふた付き小容器)、刀子(とうす=小刀)、剣、斧、鑿のみ等の滑石製模造品等47点、玉類25箇等、総数140点。東京・奈良国立博物館宮内庁書陵部に分けて保管されているらしい。埴輪は鰭付ひれつき円筒埴輪列が並び、くびれ部には形象埴輪が存在。形象埴輪は盾形・蓋きぬがさ形・短甲形(胴を保護する鎧)草摺(くさずり=下半身を防御する鎧で、裾が草をこすることが名称由来)・靭形(ゆぎ=背負矢立)・家形・壺形等。

家屋文鏡         一般的な石釧       一般的な鍬形石       一般的な合子

②の2号児童公園(北東口)からの近道=写真左→右、上→下と連続しています。 

写真は2022年5月。季節や経過年数により目印や状況が変わることが多いので注意ください。

④貝吹山2号墳

北葛城郡河合町佐味田。遺跡地図10D-0034。佐味田宝塚古墳後円部の少し南西上方。径約30mの円墳だが、半壊しており、上記の近道付近なのによく分からない。 

⑤金フリ山塚

広陵町馬見北6丁目8、横峯公園。遺跡地図10D-0079。径約10mの円墳。

          案内(赤〇は当方加工) 南東望                  墳頂

⑥石ケ谷古墳

広陵町馬見北7丁目1。遺跡地図10D-0083。横穴式石室を持つ方墳。須恵器・土師器・鉄鏃・鉄釘が出土したとのこと。googleマップ上では「石ヶ谷古墳公園」とあるが、施錠されており、横穴式石室どころか、墳丘もよく分からない。フェンスで施錠する程貴重とも思えないが、小学校に隣接するので児童の安全確保のためか?

登り口西望                           フェンス内 

=======================================

五位堂駅の北側に、何基かある。

⑦勘平山第1号墳

香芝市かしばし真美ケ丘まみがおか1丁目4、勘平山児童公園。遺跡地図10D-0014。5世紀後半、径約13mの円墳。鉄剣・鉄刀・須恵器出土とのこと。墳裾に真新しい案内板が設置されていた。2号墳辺りは木々が茂りよく分からない。

*遺跡地図での2号墳は、下記案内板の2号墳位置より20~30m南西に有り、旧東朋香芝病院の北側に隣接する所に表示されている。それなら既に更地になっているのだが・・・?まー案内板の測量図が正しいのだろう。

遠景南望      案内                   墳頂        遠景北東望  

⑧御坊中1・2・3号墳

フェンスで囲われてはいるが、南側の一部が開いており、切り通しの道がある。道は北東側まで続くが、木で覆われていて墳丘はハッキリ確認できなかった。

1号墳 香芝市瓦口、遺跡地図10D-0018。径10mの円墳。

2号墳 香芝市瓦口、遺跡地図10D-0020。辺15mの方墳?

3号墳 香芝市鎌田、遺跡地図10D-0019。径25mの円墳。

          遠景北東望      進入口 

切り通し      3号墳辺り       2号墳辺り     1号墳辺り     北東に抜けた地点

⑨土山古墳

香芝市瓦口~別所。遺跡地図10D-0022。全長約65mの前方後円墳

⑧御坊中古墳からのルート

池の南側の道へ              近道                  (近道見返り)

万福寺を左(北東)へ            池添いに右(南東)へ             遠景南望

住宅街から南西に入る林道がある。林道に沿って70~80m回り込んだ所の北上方に、少し開けた所が見える。ある程度墳形に沿って、木が伐採されており、切り株は割と新しい。写真は2022年5月。季節や経過年数により目印や状況が変わることが多いので注意ください。

林道入口付近から見上げ  北望見上げ(後円部)    前方部から西見下ろし   後円部方面

⑩坊主山古墳

香芝市別所。遺跡地図10D-0023。径約30mの円墳。⑨土山古墳林道入口から、住宅街の少し先の三差路を南に少し上がると分岐*がある。そこを左(北東)に登った所。*ここを真っすぐ下ると阿弥陀寺方面に抜ける。

木々で覆われており、墳丘もハッキリ確認できなかった。

坊主山への分岐      東望           南東望          裏側から北望

 

北古墳群

2022年4月19日(火)北古墳群、伊太祁曽神社古墳。

北古墳群

和歌山県紀の川市貴志川町の北古墳群。1号墳は岩橋いわせ型横穴式石室が開口する。

貴志川町北(下図①)。「ニタマ」駅長で有名な、和歌山電鐵貴志川線貴志駅」から約2km。国道424号線から紀の川変電所へのバイパス沿いにある。

進入路                       登り口           案内

   *PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

和歌山県地理情報システム(埋蔵文化財包蔵地所在地図)遺跡番号23-1~23-6。6基の古墳群。現在は、一部墓地として利用されている。6基のうち、6号墳はバイパスの南側にあるらしいが、よく分からない。案内板後ろの登り口を道なりに上ると、いくつかの墓石が立っている。ここが古墳群の西端。

道なりに上へ                    古墳群東望        位置関係

遺跡地図では、西から3号墳→5号墳→2・4号墳→1号墳の順に並ぶ。3・4号墳はよく分からないが、明らかに墳丘っぽいのが5号墳か?

(たぶん)5号墳東望     赤=5号・黄=2号西望   2号墳西望        古墳群西望 

東端の1号墳は、墓石の北側にあり、(4月現在は)枯草で覆われ、僅かにトタン屋根の覆い屋が見える。この下に、典型的な岩橋型石室がある。

1号墳                                    石室開口部

羨道が階段状に掘り込まれ、小振りだが前室と前道(幅50㎝強・高さ1m強)がある。玄室長約2.6m・幅2m弱・高さ約2.4mで、側壁の持送りがキツく、奥壁に石棚が架せられている。

羨道・前室・前道                               前道幅

玄室奥壁      側壁                   天井部       高さ比較

側壁の持送り                    奥壁石棚         天井部

前道・前室・羨道     前道上部         左袖           右袖

なお1号墳は、古墳群案内板から、バイパスを東に80m程の所から入る方が分かり易いかも。(白矢印)

*写真は2022年4月。季節や経過年数により周辺の様子や目印が変わることが多いので注意ください。

*岩橋型石室 以下を参照下さい。

岩橋千塚古墳群 - OSAKA-TOM’s diary

船戸山古墳群 - OSAKA-TOM’s diary

 

高尾山古墳群・貴志駅

紀の川市貴志川町高尾(巻頭図②)。和歌山県地理情報システム(埋蔵文化財包蔵地所在地図)に表示があったが、低木に覆われていて、それらしい墳丘は確認できなかった。

和歌山電鐵貴志川線貴志駅

ご存知の方は多いでしょうが、和歌山電鐵貴志川線の終点=貴志駅には、猫の「ニタマ」駅長がいます。勤務は10~16時、現在、水・木曜日は公休日だそうです。電車はワンマンカーで、整理券を取って降車時現金払い(交通系ICカード使用不可)。なお和歌山電鐵岡山電気軌道(岡電)の完全子会社とのこと。

高尾山古墳群方面                  貴志駅          ニタマ駅長室

ニタマ駅長        辞令           ニタマ駅長解説

ホーム          おかでん車両       ホーム内たま神社       縁起

伊太祁曽神社古墳1号墳

和歌山市伊太きそ和歌山電鐵伊太祈曽駅(電鐵本社所在駅)から南へ約200mにある「伊太きそ神社」の境内。参道中程の鳥居東脇の丘陵(「ときわ山」)にある。径16mの円墳で、緑泥片岩の割石で築かれた岩橋型横穴式石室が西に開口。

          伊太祈曽駅      伊太祁曽神社              参道の鳥居

登り口                       墳丘北望         開口部

開口部は木製の縦桟扉で施錠されていて入室不可。全長5.6m、玄室長2.8m・幅2.1m・高さ3.4mで、奥壁前の棺台上部に岩橋型の特徴である石棚1本・石梁3本が架けられているとのことらしいが、撮影するには桟の隙間がかなり狭く(1.5㎝程)、隙間より桟の幅が倍程あり中も暗くて見えにくく、自撮棒も入らない。(この防護柵は何とかならないものか?)

石室                        北(奥から見て右)側壁    南(左)側壁

古墳登り口のところには、東西に切り通しがある。

墳丘南東望        墳頂から西望見下ろし   切り通し

伊太祈曽駅にも猫の駅長「よんたま」がいる。

伊太祈曽駅「よんたま」駅長             たま電車

 

八幡塚古墳

北古墳群とは随分離れていますが、同じ紀の川市なので、ついでに掲載します。

2022年4月5日(火)。紀の川市下井阪。桃山町の桃源郷=桃畑に行く途中に立ち寄った。JR和歌山線下井阪駅から南に直線距離で500m、県道119号線東沿いにある。元は径20m・高さ4mの円墳とのこと。S50年の発掘調査で、中央部に組合式箱形石棺と石障・石棚のある割石積みの岩橋型横穴式石室(羨道長1.4m、玄室長3m・幅2.5m・高さ2.5m)が見つかったらしい。現状は墳丘上に大木が立ち、案内がないと古墳とは分からない。

案内        残存墳丘                  桃山町の桃畑 

 

平池古墳群

2022年4月19日(火)和歌山県紀の川市貴志川町平池古墳群・罐子塚古墳・三昧塚古墳。

平池古墳群

紀の川市貴志川町神戸こうど(上図①)。平池緑地公園に4基ある。

1号墳

和歌山県地理情報システム(埋蔵文化財包蔵地所在地図)での遺跡番号18-1。平池北岸にある。6世紀中頃の墳丘長31.5mの前方後円墳。墳丘は削平され、主体部は未発見。発掘調査の結果、幅1m程の周溝と陸橋(渡橋)が確認されたほか、円筒・器財埴輪や須恵器が出土したとのこと。

右=1号・左=2号     東望           案内           西望

   *PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

2号墳

遺跡番号18-2。6世紀末頃の円墳で、池の中の島の様な状態。やや楕円形で長径31.5m・短径28m。横穴式石室の一部や、幅2m程の周溝が確認されている。石棺蓋や須恵器が出土したが、埴輪は確認されていないらしい。案内には「平池東側」とあるが、どう考えても西側。

南望           東望           北望            案内

3号墳

遺跡番号18-3。5世紀末頃の径17mの円墳。浅い周溝はあったが、遺物は出土していない。

遠景南西望        近景北東望        案内           遠景北西望

4号墳

遺跡番号18-4。墳丘っぽくないし、案内板も無く、詳細不明。

池岸のアチコチで鴨が日光浴しているが、散歩する人に慣れているのか、逃げない。

遠景南東望        東望           北西望

罐子塚かんすづか古墳

紀の川市貴志川町神戸(上図②)。5世紀代の径約40m・高さ約6mの円墳で、周囲に幅約10mの周濠がめぐる。1959(S34)年の調査で、墳頂辺りから粘土の固まりが確認され、粘土槨の可能性があるらしい。円筒埴輪片や鉄製馬具・鉄鏃・挂甲小札・滑石製紡錘車・須恵器片が出土しているとのこと。

遠景北東望        南望           案内望          南西望

三昧塚さんまいづか古墳

紀の川市貴志川町神戸(上図③)。5世紀中頃の築造と推定される。現状は東西40m・南北36.5mの円墳だが、墳丘東側が方形っぽく、(帆立貝形?)前方後円墳の可能性もある。円筒・形象埴輪片が出土したとのこと。

遠景南望       進入口       案内         南西望       西望

 

丸山古墳

2022年4月19日(火) 丸山古墳・権田池古墳・双子三昧塚古墳

丸山古墳

和歌山県紀の川市貴志川町上野山(上図①)。貴志川の西岸の段丘上。5世紀頃の径約42m・現状高さ約6mの円墳。2段築成で、円筒埴輪・周濠を備える。

北望           南東望           案内上部拡大       案内下部

  *PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

案内板の横から、真っすぐ墳頂に登れる。墳頂部には、緑泥片岩製の組合せ式箱型石棺が露出する。蓋石は長さ約2.8m・幅約1.05~1.25mで、西側中央部に縄掛突起(約22cm×10cm)が付いている。石棺は長さ約2m・幅約0.77~0.88mで南側に副室がある。鉄鉢・直刀60口・琴柱形石製品・玉類等出土とのこと。

登り口          墳頂へ

蓋石東望         北望           南望           副室俯瞰

蓋石欠損部        石棺内部         縄掛突起


権田池ごんだいけ古墳

紀の川市貴志川町神戸こうど(上図②)。和歌山県地理情報システム(埋蔵文化財包蔵地所在地図)では、丸山古墳から双子三昧塚古墳へ向かう途中に横切る13号線沿い表示されているが、よく分からない。

13号線沿い道標西望    権田池古墳辺り                   双子三昧塚へ

 

双子三昧塚古墳

紀の川市貴志川町長原(上図③)。畑に囲まれてポツンとある独立墳。東からの遠景は円墳の様に見えるが、北側に回ると何とか前方後円墳と分かる。全長約43mで、6世紀前半の築造か。

遠景南西望        近景南西望        遠景南東望        後円部方面北東望

すぐ南側に平池緑地公園があり、その池畔に4基の平池古墳群が点在する。

船戸山古墳群

2022年4月19日(火)。船戸山古墳群は和歌山県岩出市船戸、JR和歌山線船戸駅の南=船戸山団地に隣接する丘陵上にあり、7基が確認されている。かなり以前の古墳関連ブログと比べると、現在は、かなり整備されている。

船戸駅からの経路                  黄矢印が遊歩道

  *PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

 

団地内の古墳群進入口の標識から、すぐ左=北に登って行く(登り口は遊歩道の感じがない)

船戸山団地入口     団地案内         古墳群進入口       登り口

北へ登ると、右手に古墳群全体の案内板(案内板の赤・黄線は当方の加工で、実際はありません)       

古墳群全体の案内板から、竹で仕切られた遊歩道があり、そこを辿れば良い。

船戸山2号墳

径約15m(やや楕円形)・高さ3m、6世紀後半の円墳。両袖式岩橋型石室が南西に開口。現在、開口部はフェンスで施錠されており入室はできない。玉類・鉄刀・金環・桃の種子・須恵器・土師器出土とのこと。

案内には道長3.7m・幅1m、玄室長2.95m・幅1.8m・高さ2.9mとある。

ただ和歌山市岩橋いわせにある岩橋千塚古墳群に代表される岩橋型石室は、通常の横穴式石室の羨道=単純・平坦なトンネル様と違い、掘り込みが有ったり、広くなったり・狭くなったりする(平面・立面が凸凹)。また、通常の横穴式石室は、羨道からすぐ急に玄室が広がる(通常、その境目を玄門と呼ぶ)が、岩橋型は、いかにも玄室入口という感じの部分がある。羨道=まさに石室進入口(階段状等に掘り込まれていたりする)部分、前室=平坦なトンネル部分、前道=玄室入口があり、『羨道・前室・前道と玄室』という構造が多い。この2号墳の「道長3.7m」を分解すると、大体「羨道長1.2m・幅1.2m」+「前室長1.7m・幅1m・高さ1.8m」+「前道長0.8m・幅0.8m・高さ1.2m」で、奥へ行く程床面は低くなっている。また案内板にある2段の「石棚」も岩橋型石室の特徴である。

岩橋型横穴式石室の、その他特徴は、板状に剝離できる泥質片岩で、板状に割った石材を床面から持ち送りながら積み上げ、石棚や数本の石梁を架構し、天井部は大きな板石で覆う点です。

岩橋千塚古墳群 - OSAKA-TOM’s diary

船戸山6号墳

2号墳から遊歩道を進むと6号墳の案内があり、その右奥。

右手の墳丘は7号墳

東西16m×南北13mの楕円形。6世紀後半とのこと。須恵器・土師器の他、銅釧(銅の腕輪)・金環・馬具・棺金具・玉類出土。土師器の中にはミニチュア炊飯具に伴う鍋もあったらしい(渡来系?)。墳頂は窪みがあっただけだが、落ち葉を掻き分けると、石室残存部があったのかも?

                     墳頂南西望        案内見下ろし

船戸山7号墳は、6号墳から遊歩道を挟んだ西側。案内等は無く、墳頂部に窪みがあったので、6号墳石室跡と同じ様な状況なのかも。

6号墳案内から南西望                 墳頂の窪み       6号西斜面から見下ろし

船戸山1号墳

遊歩道は7号墳まで。6号墳の西裾斜面を伝って行くと(落ち葉が溜まり滑りやすいので要注意)、最高所(標高70m程)にあり、10m程の円墳で、西向きに小型の石室が開口。

6号墳案内見返り   

開口部の前には2m~3mの窪みがあり、すぐ玄室が見えるので、前室の一部と前道(玄室入口)と思われる。開口部=前道は幅40cm強・高さ80cm程でかなり狭く、落ち葉を掻き分け無理すれば入れるかもしれないが、玄室も狭く、外からでも何とか撮影はできた。

玄室は奥行き2m程で、持送りは緩くやや曲線的で、石棚もない。石材もやや丸っこい。入り口部分は岩橋型っぽいが、玄室は通常の横穴式石室様である。

開口部          奥壁下部         奥壁上部         天井部

 

天皇陵 その九

天皇陵 その九

42代『文武天皇陵』・中尾山古墳、43代『元明天皇陵』、44代『元正天皇陵』、45代『聖武天皇陵』・基皇子墓・安積親王墓・光明皇后

古事記』は33代推古天皇まで、『日本書紀』は41代持統天皇までなので、『日本書紀』に続く六国史りっこくしである『続日本紀しょくにほんぎ』(以下『続紀』)をベースにしています。

続紀』は42代文武~50代桓武の95年間を40巻で記録しており、菅野真道すがののまみち達が延暦16年(797)編纂したとされる。『紀』に比べ記事の正確性は格段に増すものの、簡略な「一種のメモ書き」様の内容で、『紀』の様な物語的な部分は殆どなく、記事の解釈に関して諸説あります。それを論じてもキリが無いので、原則『続紀』の記事に準拠します。記事中の月日も陰暦のまま記載します。

なお、陵、諡号等の基本知識は、『天皇陵』を参照ください。

天皇陵 - OSAKA-TOM’s diary

 

42代『文武もんむ天皇陵』

 

2016年(H28)2月24日(水)参拝。奈良県高市郡たかいちぐん明日香村大字栗原。42代「倭根子豊祖父やまとねことよおほぢ*1文武天皇(在位697年~707年)」の『檜隈安古岡上ひのくまのあこのおかのえのみささぎに治定されている。

*1 797年完成の『続紀』巻第一の表題では「天之真宗豊祖父(あめのまむねとよおほぢ)」とあり、707年6月崩御後、同11月火葬の際の諡号が「倭根子豊祖父」。

出自

諱は軽(かる=または珂瑠)皇子。宮は藤原京。父は「40代天武とその皇后であった41代持統の子」=草壁皇子。母は阿陪皇女あべのひめみこ=38代天智と「蘇我倉山田石川麻呂の娘姪娘めいのいらつめ」との皇女。41代持統の異母妹にあたり、後の43代元明天皇である。藤原不比等の長女=藤原宮子みやこを娶った。当時「皇后*2」と呼べるのは皇女に限られ、臣下である不比等の娘である宮子は、「皇后」ではなく、当初は「ひん*2」の一人であったが、その後首皇子(おびとおうじ=後の45代聖武)を産み「夫人ぶにん*2」として、史上初めて女性で正一位に叙された人物でもある。

*2 大宝律令(701年)の規定によると、「皇后(こうごう/おおきさき)」以外に「(ひ/きさき)」=4品以上の内親王で2名以内、「夫人(ぶにん/おおとじ)」=3位以上の臣下の娘で3名以内、「(ひん/みめ)」=5位以上の臣下の娘で4名以内。文武期に、ここまでキッチリ決まっていたかどうか不明だが、父である不比等の権勢や首皇子の母であるため、妻の中では筆頭であったことは間違いない。なお大宝律令の品位(ほんい)制では、親王内親王(従前の皇子・皇女)・皇族は臣下の位階である「位」とは別体系で、「品」を用いた(1品~4品)。また臣下の位階は30階あった。1~3位=正・従で6階、4~8位=正・従と上・下で20階、初位(そい)=大・少と上・下で4階。1~3位を「貴」、4・5位を「通貴」、あわせて「貴族」と呼んだ。

40代天武が686年崩御したが、後継である草壁皇子は即位せず、天武の皇后=持統が称制したが、その3年後(689)に28歳で薨去する。天武崩御時既に重篤だったのかもしれない。軽皇子はまだ6歳だったので、持統が翌年690年に即位した。なお、草壁以外に、後継候補として大津皇子(持統の実姉=大田皇女と天武の子)がいたが、天武崩御から2週間後、川島皇子の密告による、謀反の嫌疑で捉えられ自害する。

即位後の経緯

従来20歳以前の即位はタブーだったようだが、余程待ち遠しかったのか、当時53歳の持統が発病したのか、697年15歳で立太子後すぐに譲位され、42代文武天皇として即位した。そして701年宮子との間に首皇子が生まれる。持統は702年12月58才で崩御。文武は慶雲4年(707)7月、次代の元明に「首への皇位継承」遺詔を残し、25歳で崩御する。

事蹟

文武期の事蹟としては、文武5年(701)3月21日元号大宝*3と定め、8月3日大宝律令が完成し、翌年10月14日に公布した。 日本の国号も大宝律令で初めて定められたとされる。大宝2年(702)、天智期以降40年~30年中断されていた遣唐使が復活した。33代推古期に遣隋使が始まり、630年からの遣唐使をはじめ、外交と外国文化受容が本格化し、645年いわゆる大化の改新で、国家としての諸制度が整備されていく。38代天智期に見える近江令庚午年籍、そして40代天武・41代持統期の皇親政治を経て、徐々に整備されてきた諸制度が、大宝律令で確立される。ただこれらが、15歳で即位し、3~4年しか政務についていない弱冠20歳前後の文武天皇主導とは思えない。当時40歳を越えたばかりの藤原不比等と、後見たる持統によるものだろう。

*3大宝 日本最初の元号は36代孝徳即位時の「大化」。大化の由来は『紀』には記載されていないが、中国の『漢書』や『宋書』に、「広大で無辺の徳化(=徳を積む)」という意味で「大化」という語があり、これを引用したとすれば、かなり高尚な命名である。そして、大化6年(650)2月9日に穴戸国(あなとのくに=長門=現山口県)から白い雉(きじ)が献上された。『紀』には「・・・聖王が天下を治める時に、天は祥瑞(しょうずい=瑞祥=縁起の良い兆し=吉兆)を示した。昔、西土の君主である周の成王(ジョウオウ)の世と、漢の明帝の時に白い雉子が見られた・・・白雉(はくち)と改める」とある。祥瑞=吉兆による「こじつけ?」だが、分かり易い命名方法ではある。以後、斉明・天智期は元号が中断され、天武崩御年(686)7月20日に「朱鳥(しゅちょう・あかみとり)」と建元する。『紀』に由来は記されていないが、赤雀(朱雀=すざく)とか赤雉の類で、天武病気平癒のためとされている。持統期にまた中断した。『続紀』では文武5年正月から「大宝元年」と記されているが、大宝元年3月21日記事に「対馬嶋貢金 建元為大宝元年」=」「対馬から金が献上され、大宝元年と為す」とある。年度途中での建元だが、公式記録上はその年の正月から元号を適用している。文武期の「大宝」に次ぎ、大宝3年の翌年(704)5月10日「慶雲藤原京西楼上に祥瑞の雲」に改元し、次代元明期の「和銅武蔵国秩父から銅献上」・・・・・と、現在の「令和」まで連綿と続くことになる。

(県犬養)三千代

(県犬養あがたのいぬかい)三千代の名は、文武期にはまだ見えないが、文武4年(700)藤原不比等に再嫁し、翌年光明子(45代聖武に嫁ぎ、皇族以外で初めて皇后となった)を産む。29代欽明期に蘇我氏が娘を天皇に嫁がせ、外戚として権勢を振るった構図と同じである。余談であるが、文武には宮子以外に、賓として紀竃門娘きのかまどのいらつめと石川刀子娘いしかわのとじこのいらつめの2人がいたが、次代元明期の和銅6年(713)に「貶石川・紀二嬪号。不得称嬪」とあり、賓称号を禁じられている(貶黜へんちゅつ・へんちつ=貶斥へんせき)。つまり、他氏族系を皇籍から排除したわけだが、不比等と三千代の策謀ともされる。ただし、こうした天皇の妻の座を限定することで、後継者不足となり、結果天武の皇統がいずれ途絶えることになった。

陵の考古学名は栗原塚穴古墳。高松塚古墳から南南東へ約200m、キトラ古墳からは北北東へ約1kmの位置にある。北側の丘陵を削り、ほぼ南向きに墳丘が設けられている。径約15m・高さ約3.5mの円丘で、背面の北側丘陵は高さ約9.3mであるとのこと。そして、円丘は切石造り石室(横口式石槨の可能性もある)を覆って築いたとされる山寄せの終末期古墳と思われる。1881年明治政府によって治定されたが、元禄修陵時には高松塚、「大和志」(1736年刊)では中尾山古墳、文久修陵の時点では野口王墓古墳が文武陵とされた。学界では、長く中尾山古墳が真陵とされている。

北東望       制札         拝所        案内        遠景北東望 

f:id:OSAKA-TOM:20220411221507j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220411221522j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220411221532j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220411221551j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220411221615j:plain

*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

中尾山古墳

キトラ古墳から北へ1.4km程、文武陵から北北西へ約400m。高松塚古墳から北へ200m。飛鳥歴史公園館の南東側、209号線を挟んだ、飛鳥歴史公園入口から東方面に登って行く。

キトラ古墳北望      高松塚北望        登り口           案内

f:id:OSAKA-TOM:20220412111140j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220412111200j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220412111418j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220412111222j:plain

*写真は2016年2月。季節や経過年数により周辺の様子や目印が変わることが多いので注意ください。

8世紀初頭の対辺間長約19.5m・高さ4m程の八角墳。1974年等の調査で、3段築成で、1・2段目は石積み、3段目は盛土を版築で仕上げている。墳丘の外周には3重に石敷きが巡り、その対辺間長は約30mになる。埋葬施設は横口式石槨で、底石1・側壁2・奥壁1・閉塞石1・天井石1・隅石(柱石)4の計10石(現存9石)。底石は石英閃緑岩製、天井石は花崗岩製で、それ以外は凝灰岩(竜山石)製とのこと。石槨は幅約90cm・奥行約90cm。高さ87㎝の立方体で、成人の遺骸をそのまま葬るには狭すぎるので、火葬後の骨蔵器を収めるためのものとされる。床面中央にある60cm四方の掘り込みは、骨蔵器の安置台を据えていた跡らしい。側壁や天井石内面は非常に丁寧に磨かれ、全面に水銀朱が塗られていた。終末期の天皇陵に特有の八角墳であり、持統に次いで2人目の火葬とされる文武陵にほぼ間違いないとされている。

遠景東望         近景西望          案内           南東望

f:id:OSAKA-TOM:20220412111839j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220412111842j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220412111853j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220412112838j:plain

 

43代『元明げんめい天皇陵』

2016年(H28)2月9日(火)参拝。奈良市奈良阪町。43代「日本根子天津御代豊国成姫やまとねこあまつみよ(みしろ)とよくになりひめ元明天皇(在位707年~715年)」の『奈保山東なほやまのひがしのみささぎに治定されている。

出自

諱は阿閇皇女あべのひめみこ。宮は藤原京。710年に平城京に遷都する。38代天智の第4皇女、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘=姪娘めいのいらつめ。天武8年(679)「天武と持統の子=草壁皇子」の正妃となった。つまり、持統は父方では異母姉、母方では従姉。夫の母であるため姑にもあたる。大友皇子(39代弘文)は異母兄。天武9年(680)に氷高皇女(ひだかひめみこ=後の44代元正)を、天武12年(683)軽皇子(42代文武)を産む。息子である文武が崩御した時、文武の子=首皇子(おびとおうじ=後の45代聖武)はまだ7歳で、首皇子の母である宮子は今で言う鬱病。そのため慶雲4年(707)7月17日46歳で中継ぎ天皇として、女性としては、初めて皇后を経ないで即位した。なお、元明即位の際、『続紀』には「・・・近江大津宮御宇大倭根子天皇 与天地共長与日月共遠不改常典 立賜敷賜法・・・」=「・・・近江の大津の宮に御宇あめのしたしらしめす大倭根子天皇(=天智天皇) 天地とともに長く日月とともに遠く改めまじき常の典と立て賜たまひ敷き賜へる法・・・」により、草壁皇子の子である文武天皇が即位し、自分はその母で正当な後継者であるという趣旨の詔(みことのり=天皇の言葉)が記されている。以降、幾多の天皇が即位時、慣例のように用いた、いわゆる「不改常典(かいじょうてん/あらためまじきつねののり)」の初見である。

事蹟

事蹟としては、慶雲4年の翌年(708)1月11日武蔵国秩父(黒谷)から銅が献じられ和銅」に改元し、和同開珎を鋳造させた。安価な銅で高価値を産み平城造営財源としたとの説もある。708年2月遷都の詔をし、翌月に左大臣に69歳の石上麻呂いそのかみのまろ、右大臣に50歳の藤原不比等を任用。和銅3年(710)3月10日平城京に遷都。その際、左大臣石上麻呂藤原京の管理者として残されたため、新京では不比等が最高権力者となっている。 和銅5年(712)には天武の勅令であった「古事記*4を献上させた和銅6年(713)5月2日にいわゆる風土記」編纂の全国指示をする。『続紀』には「畿内七道諸国郡郷名 着好字 其郡内所生 銀銅彩色草木禽獣魚虫等物 具録色目 及土地沃▢ 山川原野名号所由 又古老相伝旧聞異事 載于史籍亦宜言上」と、各地名を好字(縁起のよい文字)にすることと、各地の産出品・土地の様子・古来からの伝承等を報告するよう指示している。さらに京から各国への幹道に駅うまやを設置する等、現在の国土交通省並の整備を行っている。和銅7年(714)6月25日14歳で元服した首皇子が正式に立太子するが、翌霊亀れいき*5元年(715)9月2日に、娘の氷高内親王に譲位した。女性同士の皇位継承は日本史上唯一。『続紀』には「今精華漸衰。耄期斯倦・・・欲譲皇太子 而年歯幼稚・・・今伝皇帝位於内親王・・・」=「徐々に衰え、倦れた(疲れた)・・・皇太子(孫の首皇子)に譲りたいがまだ若い・・・(氷高)内親王皇位を伝える・・・」とある。

*4古事記 『続紀』には一切記事がない。現存する古事記の序文中に「和銅四年九月十八日を以ちて、(元明天皇は)安萬侶に詔りして・・・」とあり、文末に「和銅五年(712)正月二十八日。正五位上勲五等太朝臣安萬侶謹上」とある。なお、序文偽書説もある。

*5霊亀 『続紀』には、和銅7年の翌年(715)9月2日元正が即位した日、「左京職から瑞亀(縁起の良い亀)が献上され、「天が嘉瑞を表した」とし、「和銅八年を改め、霊亀元年と為す」とある。

元明太上天皇養老5年(721)5月に発病し、次女吉備きび内親王の婿である長屋王(ながやおう=後述)達に後事を託し、葬送の簡素化遺詔*6し、同年12月7日に61歳で崩御。13日葬儀は行わず(旧)大倭国添上郡椎山ならやま陵に葬った。陵の公式形式は山形。考古学的な古墳名は無い。
*6葬送簡素化の遺詔 崩御前の10月13日「・・・朕崩之後 宜於大和国添上郡蔵宝山雍良岑造竈火葬 莫改他処・・・」=「朕崩ずるの後、大和国添上郡蔵宝山(さほやま)雍良岑(よらのみね)に竈を造り火葬し、他処に改むるなかれ」、10月16日「・・・丘体無鑿。就山作竈 芟棘開場 即為喪処 又其地者 皆殖常葉之樹 即立刻字之碑」=「丘体鑿(うが)つ事なく、山に就いて竈を作り、棘(いばら)を芟(か)り場を開き 即ち喪処とせよ。又其地は、皆常葉の樹を植え、即ち刻字之碑を立てよ」

元明陵から44号線を挟んで西側には娘である元正陵、直線距離で1.2km南には孫の聖武陵がある。

位置関係         進入路          全景北望         拝所遠景

f:id:OSAKA-TOM:20220412132655j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220412132718j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220412132733j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220412132756j:plain

制札           拝所           拝所東側         西側

f:id:OSAKA-TOM:20220412132916j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220412132921j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220412132932j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220412132943j:plain

 

44代『元正げんしょう天皇陵』

2016年(H28)2月9日(火)参拝。奈良市奈良阪町。44代「日本根子高瑞浄足姫やまとねこたかみずきよたらしひめ元正天皇(在位715年~724年)」の『奈保山西陵なほやまのにしのみささぎに治定されている。

出自

諱は氷高皇女ひだかのひめみこ。宮は平城京。「40代天武の皇太子=草壁皇子」の長女。母は阿閉皇女(43代元明天皇)。42代文武の3歳上の実姉。霊亀元年(715)9月2日に母から譲位され即位するが、歴代天皇の中で唯一、母から娘への譲位。また未婚であり、皇后・皇太子も経ず36歳で即位するという「初尽くし」の女帝である。この時点で、天武の男系皇子として舎人とねり親王・新田部にいたべ親王が存命だったが、天武・持統の直系である「42代文武の子=首皇子」への承継の意思が相当根強く、そのための「中継ぎの即位」とされる。独身故継嗣を産むことは無く、不比等の娘である宮子が文武に嫁いだ後、天皇の妻の座から藤原氏以外を排除したことや、天武・持統直系継承にこだわったことが、結果として天武系皇統の断絶に繋がることになるとは、知る由もなかっただろう。

事蹟

元正期の事蹟としては、養老*7 4年(720年)5月21日に、日本書紀が完成し、奏上されている。またこの年8月3日藤原不比等が病気で薨去する。翌年1月5日長屋王を右大臣に任じ、政務を委ねる。長屋王の父は40代天武の子=高市たけち皇子。母=御名部皇女みなべのひめみこは「元正の母=43代元明」の実姉。つまり元正の従兄妹(または従姉弟)。さらに、「元正の妹=吉備内親王」の夫という皇族であるため、一種の皇親政治の再来である。当時、不比等の長男=武智麻呂むちまろ中納言、次男=房前ふささきは参議であり、長屋王が筆頭であった。長屋王の実績か元正の実績か不明だが、国・郡の整備等国土開発面で色々な手を打った。和同2年(709)陸奥・越後の蝦夷討伐。霊亀2年(716)5月に駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・上野の高麗人(技術者)を武蔵に移動させたり、霊亀2年(716)9月や養老元年(717)2月に信濃・上野・越前・越後の一部を出羽に移動させている。さらに、養老7年(723)4月田地不足を解消するために、「・・・開闢田疇 其有新造溝池 営開墾者 不限多少 給伝三世・・・」と、いわゆる三世一身法を制定した。ただし20年後、この流れを継いだ次代聖武期に施行された墾田永年私財法により、公地公民制は崩れ始めていくこととなる。

*7養老 『続紀』では霊亀2年の翌年(717)正月から「養老」となっている。しかし養老元年(717)11月17日の詔に「朕以今年九月 到美濃国不破行宮 因覧当耆郡多度山美泉 自盥手面 皮膚如滑 亦洗痛処 無不除愈・・・又就而飲浴之者 或白髪反黒。或頽髪更生・・・後漢光武時 醴泉出 飲之者 痼疾皆愈 符瑞書曰 醴泉者美泉 可以養老・・・改霊亀三年 為養老元年」=「今年九月、美濃国の不破(ふわ)の行宮(あんぐう=仮の宮)に至り、当耆郡(たきぐん)多度山で美しい泉を見つけ、手や顔をすすぐと、肌が滑るようで、痛い処を洗うと癒え・・・飲浴した者は、或いは白髪が黒くなり、或いは禿げ頭に毛が生えた・・・。後漢光武の時、醴(甘酒)が泉出し、これを飲む者は、痼疾(持病)が皆平癒した。符瑞書(祥瑞についての書)では醴泉は美泉で老いを養うことができる・・・霊亀三年を改め、養老元年と為す」とある。という訳で、実際には11月17日の改元である

譲位

養老7年の翌年(724)=神亀元年2月4日45歳で、甥の首皇太子(45代聖武)に譲位する。退位の詔では新帝=聖武を「我子」と呼んで、退位後も後見としての立場で聖武を補佐した。聖武の母=宮子は鬱病で、聖武が37歳の時やっと面会できた程で、独身であった元正が母代りとも言われている。天平15年(743)5月5日、元正は太上天皇(上皇)として、改めて「我子」と呼んで天皇を擁護する詔を出す等、晩年期の上皇が、聖武天皇の治政を見守っていたようである。

天平20年(748)4月21日69歳で崩御し、4月28日佐保山陵で火葬された。

陵の公式形式は山形。考古学的な古墳名は無い。

遠景北西望             拝所遠景北望            制札 

f:id:OSAKA-TOM:20220412135303j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220412135330j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220412135354j:plain

拝所                拝所東側              西側  

f:id:OSAKA-TOM:20220412135531j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220412135539j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220412135549j:plain

 

45代『聖武しょうむ天皇陵』

2016年(H28)2月9日(火)参拝。奈良県奈良市法蓮ほうれん町。45代「天璽国押開豊桜彦あめしるしくにおしひらきとよさくらひこ聖武天皇(在位724~749)」の『佐保山南陵さほやまのみなみのみささぎに治定されている。

出自

諱は首皇子。宮は当初平城京であるが、後述のように遷都を繰り返すことになる。父は42代文武天皇、母は藤原不比等の娘=宮子。妃は藤原不比等と橘(県犬養あがたのいぬかい)三千代との娘=光明子こうみょうし

慶雲4年(707)6月7歳の時、父の文武が崩御、母の宮子は鬱病。翌7月祖母である元明が中継として即位。和銅7年(714)6月元服立太子するが、若い故即位は先延ばしにされ、翌霊亀元年(715)9月に文武の実姉で、聖武の伯母である元正が「中継ぎの中継ぎ」として即位。養老2年(718)光明子との間に阿倍内親王(後の46代孝謙)が誕生している。

即位後の経緯

神亀元年(724)9月24歳で元正から譲位され即位する。この時も「不改常典」が用いられている。治政初期は元正期に続き左大臣長屋王が執政するが、724年宮子の「大夫人」呼称問題等で藤原氏と対立し、更に神亀5年(728)9月光明子との子=基親王が1才直前で夭逝したことに絡み、神亀6年(729)2月長屋王の変*8で自害する。これにより藤原不比等の長男=藤原武智麻呂(むちまろ=右大臣)を筆頭に、4兄弟(次男=房前ふささき・三男=宇合うまかい・四男=麻呂)が実権を握る。しかし天平9年(737)4兄弟が疫病で逝去する。『続紀』の天平7年(735)8月12日記事に「大宰府疫死者多」、8月23日「太宰府・・・管内諸国 疫瘡大発」と疫病発生が記されており、9月30日に天武第7皇子=新田部親王、11月8日宮子の母=賀茂比売かもひめ、11月14日天武第3皇子=舎人親王が相次いで薨去。「是歳・・・自夏至冬 天下患豌豆瘡(天然痘)死者多」とある。天平9年(737)4月17日次男房前、7月13日四男麻呂、7月25日長男武智麻呂、8月5日三男宇合、相前後してその他政府高官の殆どが逝去した。そこで9月28日急遽、長屋王実弟鈴鹿すずかおうを知太政官事に、橘諸兄(もろえ=「橘三千代と前夫の子」=光明子の異父兄)を大納言に任じた。翌天平10年(738)1月13日阿倍内親王立太子(女性唯一)し、同日諸兄は右大臣に任ぜられ政権を握ることとなる。なお、この頃下道朝臣真備と玄昉*9がクローズアップされる。

*8長屋王の変 聖武の母=宮子に正一位「大夫人」の称号を与える等の藤原氏の策謀に批判的だった。そんな状況下、神亀5年(728)9月、長屋王が写経中に基親王が夭折し、長屋王の呪詛という噂を生んだ。長屋王側の家系は皇位継承権者としても有力で、我が子を哀惜する聖武が、長屋王に不信感を抱いた感もある。そして中臣宮処東人(なかとみのみやところのあずまびと)らの讒言で、神亀6年(729)2月11日謀反の嫌疑が問われ、舎人親王新田部親王・多治比池守・藤原武智麻呂藤原宇合らに囲まれ、12日に妃=吉備内親王や4人の子(吉備・膳夫・桑田・葛木王)と共に自害する。『続紀』では長屋王はその翌13日「・・・葬長屋王・吉備内親王屍於生馬山・・・」とあり、2人の墓は、現在の奈良県生駒郡平群(へぐり)町にある。藤原氏(特に武智麻呂)の陰謀説、聖武主犯説=天皇しか動かせない六衛(衛門府・左右兵衛府・左右衛士府中衛府)が動員されていた=がある。長屋王の友人であった大伴旅人(家持の父)は大宰府に左遷され、酒に明け暮れたと万葉集の歌から窺える。なお、長屋王の子の内、安宿・黄文・山背王は藤原不比等の二女(藤原長娥子)の子であったので罪を免れた。讒言の張本人の東人は、10年後に大伴子虫(長屋王派)に讒言の旨を明かし、子虫に斬殺されている。なお、長屋王邸跡(240×230m)とされる所から711~717年間の家政機関での木簡(もっかん=木の札)が35,224枚出土し貴重な資料となっている。長屋王陵は以下を参照下さい。

平群町 古墳巡り - OSAKA-TOM’s diary

*9下道朝臣真備(したみちのあそんまきび) 元正期の養老元年(717)藤原馬養(=宇合)・阿倍仲麻呂井真成(いのまなり)らとともに遣唐使として渡唐する。次の遣唐使船で天平6年(734)11月種子島に漂着。真備は翌天平7年(735)4月、持ち帰った『唐礼』130巻(経書)、『大衍暦経』1巻・『大衍暦立成』12巻(天文書)、測影鉄尺(日時計)、銅律管1部・鉄如方響写律管声12条(音階調律管)、『楽書要録』10巻(音楽書)、絃纏漆角弓・馬上飲水漆角弓・露面漆四節角弓各1張、射甲箭20隻・平射箭10隻(矢)を献上した。物品の詳細が正史に記されており、献上品がいかに重要だったか推察される。真備はその功労により、帰朝時に従八位下という30位階中の下から5番目だったが、翌天平8年(736)正月、一挙に十階昇進の正六位下に叙せらた。最短でも4年に1階しか昇進しない当時としては異例中の異例だった。天平13年(741)7月正五位下となっていた真備は東宮学士(皇太子=阿倍内親王の家庭教師)に任じられる。天平15年(743)5月詔の中で「・・・下道朝臣真備 冠二階上賜・・」と、特に名を挙げて従四位下に叙せられた。更に翌6月春宮大夫(皇太子に関する諸事を司る役所の長官)に任官した。天平18年(746)「吉備」の姓を賜る(これ以降は「46代孝謙天皇陵」で後述)。
*9玄昉(げんぼう) 真備と同じく養老元年(717)遣唐使として渡唐し、次の遣唐使船で天平6年(734)11月種子島に漂着。経論5000余巻と諸仏像を持ち帰った。来天平8年(736)2月封戸100戸・田10町等を賜る。天平9年(737)8月僧侶の最高位=僧正に任じられる。そして同年12月聖武母=藤原宮子の幽憂(鬱病)を沈めた。これにより聖武が誕生以来初めて面会できたことで、褒賞品を賜り、仲介した真備も従五位下から従五位上に昇進した(これ以降は「46代孝謙天皇陵」で後述)。
このように、朝廷は両名の唐留学実績を高く評価して、異例の抜擢人事を行った。

彷徨と遷都

天平12年(740)藤原広嗣の乱*10が起こるが、討伐の最中10月26日に、都に居た聖武は討伐大将に「縁有所意 今月之末 暫往関東」=「思う所があって、今月末暫く東へ行く」と彷徨を始める。聖武の彷徨ルートは、平城京天平12年(740)10月29日大和国山辺郡堀越頓宮(奈良市都祁)→11月伊勢国名張郡阿保頓宮(三重県伊賀市)伊勢国志郡河口頓宮(三重県津市)伊勢国鈴鹿郡赤坂頓宮(三重県亀山市)伊勢国朝明あさけ郡朝明頓宮(三重県四日市市)伊勢国桑名郡石占頓宮(三重県桑名市)→12月美濃国不破郡不破頓宮(岐阜県垂井町)近江国坂田郡横川頓宮(滋賀県米原市)近江国犬上郡犬上頓宮(滋賀県多賀町辺り)近江国蒲生郡蒲生郡宿(滋賀県近江八幡市辺り)近江国野洲野洲頓宮(滋賀県野洲市)近江国禾津あわづ頓宮(滋賀県大津市)山城国相楽郡玉井頓宮(京都府綴喜郡井手町)→12月15日恭仁宮。何故か壬申の乱での天武の東行ルートに重なる所が多い。この後、4度の遷都を行う。天平12年(740)12月恭仁京(京都府相楽郡加茂町)天平16年(744)2月難波京(後期難波の宮)天平17年(745)1月紫香楽宮(=甲賀宮滋賀県甲賀市信楽町)→同17年(745)5月平城京に戻った。

即位以降、天平に入り台風・日照り・地震が交互に数回起こり、天平7年(735)頃から疫病(天然痘)が広がり、天平9年(737)にピークを迎える。恭仁京遷都は、平城京の疫病汚染等の国難に対処し、何とか王都復興を目指したいとの思いからという説が強い。地理的には、恭仁京の南側に甕原みかのはら離宮があり元明・元正・聖武も何度か行幸していたし、聖武行幸したことのある橘諸兄の相楽さがら別業(別荘=現木津川市木津)も近くにあった。更に、木津川に接する恭仁京が、唐の長安・洛陽・太原城という三都制での、大河に面する洛陽に擬されたとの説もある。

*10藤原広嗣の乱 天平12年(740)8月29日、大宰少弐として太宰府に左遷されていた藤原広嗣(ひろつぐ=藤原宇合の長男)が、異例の抜擢人事をされた真備・玄昉両名排除の上表を行い(真意は諸兄批判と藤原氏の政権回復)、9月3日に筑前国遠賀郡(北九州)で挙兵する。大野東人(果安の子)を討伐大将に任じ、佐伯常人・阿倍虫麻呂が板櫃川を挟んだ論戦で鎮圧。広嗣は五島列島から朝鮮済州島へ逃亡を図るが、風で押し戻され五島列島に漂着し捕縛され、斬首された。約2ヶ月で鎮圧され、死罪26人・没官5人・流罪47人等287人が処罰された。

遷都の経緯

本来は事前にある程度造営し、遷都の詔をし、宮を移転し、京の整備造営という順序が普通だが、聖武の場合は、自分が先ず移動してから本格造営を開始し、明確な遷都の詔がない。恭仁京は、天平12年(740)12月6日「右大臣橘宿禰諸兄 在前而発・・・以擬遷都故也」。同年12月15日「皇帝在前幸恭仁宮 始作京都矣」。天平13年(741)1月1日「天皇始御恭仁宮受朝(朝賀を受け) 宮垣未就(未だ成らず)」。同年1月11日「・・伊勢大神宮・・奉幣 以告遷新京之状也」。同年11月21日「大養徳やまと恭仁大宮」と命名している。この後、天平14年(742)5月10日に越智山陵(斉明陵)が崩壊したり、地震・風雨・日照りに見舞われた。そして天平15年(743)12月26日には「遷造於恭仁宮四年・・・至是 更造紫香楽宮 仍停恭仁宮造作焉」と恭仁京造営を止めている。天平16年(744)閏1月1日朝堂に全官人を集め、恭仁京難波京どちらを都とするか問い、恭仁京は五位以上24人、六位以下57人。難波京は五位以上23人、六位以下130人。更に天平16年(744)閏1月4日市人(町人・商人)に問わせると皆恭仁京で、難波京は1人、平城京1人だった。難波宮は、天平16年(744)閏1月11日「行幸難波宮」。同年2月に恭仁京から駅鈴・内外印(天皇印と太政官印)や高御座・大楯(宮門に立てる盾)・武器を難波宮に遷し、26日に左大臣が代理で「今以難波宮定為皇都」と伝えた。紫香楽宮は、天平14年(742)2月5日恭仁京から近江国甲賀郡を通る東北道が通じ、天平14(742)8月11日「・・・近江国甲賀郡紫香楽村・・・為造離宮司」と離宮造営司を任命し、天平14年(742)8月27日・同年12月29日・天平15年(743)7月26日紫香楽宮行幸した。同年10月19日には「大仏を建立するため、紫香楽宮で寺地を開く」と詔し、天平16年(744)4月23日「以始営紫香楽宮」と造営開始。同年11月14日太上天皇(元正)行幸の際の記事では「甲賀宮」と言い改められている。天平17年(745)1月1日「廃朝(=天皇が政務に臨まない) 乍遷新京。伐山開地、以造宮室」とある。平城京に戻る際も、天平17年(745)5月2日太政官が全官人等を集め、何処を京とするか問うと皆平城と答えた。また5月4日四大寺の僧を集め問わせたところ、皆「平城京」と答えた。そして5月11日「・・・是時 甲賀宮空而無人 盗賊充斥 火亦未滅・・・行幸平城」と平城京に戻った。天皇が居住する所が「宮」なので、わざわざ遷都の詔をしなくても良いのかもしれないが、それにしても官人・従者は「えーーーっ?!」って感じだったろう。

そもそも聖武は、自分を謙遜・卑下する詔を度々発している。文武は「朕以菲薄之躬」、元明は「朕以菲薄之徳」、元正は「朕之薄徳」と、詔で謙遜の言葉を発してはいるが、中国の古王に準なぞらえた慣例的なもの。しかし聖武の場合は、神亀2年(725)9月「朕以寡薄・・・戦戦兢兢・・・(種々の天災)責深在予・・・」=「自分は人徳・見識が少なく・・・戦々恐々とし・・・(種々の天災)責任は深く予にある・・・」、天平3年(730)12月「(祥瑞である神馬が見つかった時に)・・・朕以不徳 何堪独受 天下共悦・・」=「徳が無い自分が一人で受けられない。天下共に悦よろこびたい・・」、天平4年(732)7月「春亢旱 至夏不雨 実以朕之不徳所致也・・・」=「春の日照りや、夏の不雨・・・実に自分の不徳の致すところ也・・・」、天平9年(737)疫病のピーク時にも「・・・良由朕之不徳 致此災殃 仰天慚惶 不敢寧処・・・」=「自分の不徳で、この災殃(さいおう=災難)に致った。天を仰いで畏れ恥じ入っており、どうしても安らかに居られない・・・」等々、「自分の徳がない」ことを儀礼的に謙遜するというより、真の悩みとして吐露しているように思える。そして20回以上「大赦(国家として種々の罪を許すこと)」を行っているが、吉事より圧倒的に凶事の際が多く、その度に「朕之不徳・・・」と詔する程で、深く仏教に帰依したことや、彷徨・遷都といった行動も、こうした性格の故なのかもしれない。とはいえ天平17年(745)4月の3ヶ所での山火事や同月27日から始まり、天平19年(747)5月まで20数回を数える地震は、過去に例を見ない災害であり、為政者としては心が打ちひしがれる状況だったかもしれない。

事蹟と譲位

上記の様な性格からか、聖武は深く仏教に帰依し、天平13年(741)3月24日国分(金光明四天王護国之寺)国分尼寺(法華滅罪之寺)建立を詔し、天平15年(743)5月27日墾田永年私財法を制定する。これがいずれ律令制の根幹が崩れることに繋がる。天平15年(743)10月15日東大寺盧舎那仏=大仏建立の詔をする。聖武唯一の皇子=安積あさか親王が、天平16年(744)閏1月18歳で急逝する。天平勝宝元年(749)5月史上初めて天皇在位のまま出家し、7月娘で皇太子の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位した。一説には、自らを「三宝の奴」と称した天皇が独断で出家し、それを受けた朝廷が慌てて手続を執ったとも。 譲位した初の男性天皇である。天平勝宝4年(752)4月東大寺で大仏の開眼法要が行われた。なお、天平勝宝6年(753)唐から鑑真が遣唐使の帰国に便乗し来日している。

「天武と中臣鎌足娘=五百重娘いおえひめの子=新田部親王」の子である道祖王ふなどおうを皇太子にするよう遺詔を残し同8年(756)5月56歳で崩御する。

陵の考古学名は法蓮北畑古墳だが、詳細不詳。

聖武陵参道        制札           拝所遠景          拝所

f:id:OSAKA-TOM:20220412145456j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220412145459j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220412145505j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220412145524j:plain

(2019.11)恭仁京大極殿跡                             案内

f:id:OSAKA-TOM:20220412145759j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220412145758j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220412145806j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220412145816j:plain
親王

2021年(R3)8月26日(木)参拝。奈良市法蓮佐保山3丁目。2006年に閉園した奈良ドリームランド跡地東に隣接。44号線沿いに進入口があり、進入口脇に碑がある。神亀4年(727)閏9月29日誕生し、32日目に立太子されるが、翌年9月13日1才直前で夭逝する。『続紀』には「9月19日葬於那富山」とある。

             進入口の碑(左図赤〇)    拝所遠景         制札

f:id:OSAKA-TOM:20220412150232j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220412150259j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220412150303j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220412150314j:plain
安積あさか親王

2019年(R1)11月8日(金)参拝。京都府相楽郡和束町。「県犬養広刀自(あがたのいぬかいのひろとじ=光明の母方の従姉妹)との子」で、基親王誕生の少し後に誕生したとされる。基親王夭折後、聖武唯一の皇子であったが、天平16年(744)閏1月11日難波宮行啓の途中で脚病(脚気)になり、恭仁京に戻り2日後の13日に17歳で急逝する。藤原仲麻呂による暗殺説もある。考古学名は太鼓山古墳。円形で径8m・高さ1.5m、墓域988㎡。明治11年(1878)に治定された。

遠景北東望     拝所遠景       制札        拝所         裏(北東)側

f:id:OSAKA-TOM:20220412150936j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220412151016j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220412151022j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220412151031j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220412151049j:plain
光明皇后陵『佐保山東陵』

2016年(H28)2月9日(火)参拝。奈良市法蓮町。聖武陵の東に隣接。

藤原不比等橘三千代の娘(不比等の三女)。幼名は光明子安宿媛あすかべひめとも。持統・橘三千代と同じく幼少期に河内国「安宿あすかべの(河内飛鳥の北=羽曳野市東部・南河内郡太子町。別称近つ飛鳥)」で養育された。特に、光明子はこの地の飛鳥戸造あすかべのみやつこに養育された。飛鳥戸造は「新撰姓氏録しんせんしょうじろく」では百済人とある。霊亀2年(716)16歳で同年齢の皇太子=首皇子の妃となった。718年阿倍内親王(後の孝謙=称徳)を産む。神亀元年(724)夫の首が24才で即位。神亀4年(727)基皇子を産み即立太子させたが翌年夭折。天平元年(729)8月24日皇后に立后。本来、家臣の娘は「妃」までで、皇女でないと「皇后」にはなれない慣例だったが、唯一の仁徳天皇皇后=磐之媛(=葛城襲津彦そつひこの娘)の先例を引き合いに出し立后される。2例目の皇族以外からの立后であり、以後、皇族以外の子女が皇后になる先例となった。

娘である阿倍内親王天平勝宝元年(749)46代孝謙天皇としての即位後、従来の皇后宮職(皇后の諸事を司る家政機関)紫微中台しびちゅうだいと改め、甥の藤原仲麻呂(藤原武智麻呂の次男)を長官に任じ、仲麻呂台頭の契機を作った。更に、聖武天皇共々、仏教に深く帰依し、東大寺および国分寺の設立を進言したとの説もある。両親の藤原不比等県犬養橘三千代を供養するために一切経を発願したり(五月一日経)、救貧施設=悲田院ひでんいんや医療施設=施薬院せやくいんを設置して慈善活動に従事した。夫の聖武天皇崩御後、四十九日に遺品を東大寺に寄進し、現在までいわゆる正倉院」の宝物として伝わっている。さらに、興福寺法華寺・新薬師寺等多くの寺院創建や整備にも関わった。

天平勝宝8年(756)崩御し、その2年後に「天平応真仁正皇太后」の尊号が贈られている。

聖武陵参道        分岐           拝所遠景         拝所 

f:id:OSAKA-TOM:20220412180932j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220412180952j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220412180957j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220412181018j:plain