OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

佐紀盾列古墳群

佐紀盾列古墳群とは・・・

佐紀盾列たてなみ/たたなみ古墳群は奈良市北部の佐紀丘陵の南西斜面先端部に立地する大小60程あった古墳群。主要古墳として、西から東に五社神古墳、佐紀石塚山古墳、佐紀高塚古墳、佐紀陵山古墳、衛門戸丸塚古墳、佐紀瓢箪山古墳、猫塚古墳、塩塚古墳、オセ山古墳、市庭古墳、ヒシアゲ古墳、小奈辺古墳、宇和奈辺古墳が並ぶ。そしてその南側に平城京跡が広がる。

「盾列」は周濠が盾(楯)型で、前方部を南に向けるいくつかの古墳が、南北方向に平行して並ぶ様子を言い表したようで、五社神古墳(神功皇后陵)と佐紀石塚山古墳(成務天皇陵)の陵墓名に「狭城盾列」とあることから、平城京遷都後の言葉と推定される。

主要古墳

2015(H27)年11月11日(水)訪問。近鉄京都線の平城へいじょう駅北側の五社神古墳(上図①)から巡った順路に沿って掲載します。また天皇陵や后妃陵が多く存在しますので、下記も参照下さい。

天皇陵 - OSAKA-TOM’s diary

①五社神ごさし古墳

奈良市山陵町。(4世紀末頃~)5世紀初頭の、前方部を南に向ける前方後円墳。左右非対称な前方後円墳で、復原推定全長267m、後円部は4段築成で径約190m・高さ27m、前方部は3段築成で幅150m・高さ約21m。佐紀盾列古墳群中では最大級で、全国13位の規模。くびれ部西側では造出しの存在も推定され、墳丘表面では葺石と円筒・朝顔形・壺形・盾形・家形・蓋きぬがさ形埴輪が検出されたとのこと。江戸時代の盗掘史料から、埋葬施設は長持形石棺を納めた竪穴式石室と考えられている。かつて後円部墳頂に存在した祠が「五社神」の名称由来。現在、「14代仲哀ちゅうあい天皇の皇后=神功じんぐう皇后=日本書紀では気長足姫尊おきながたらしひめのみこと古事記では息長帯比売命」の『狹城盾列池上陵さきのたたなみのいけのえのみささぎ』に治定されている。すぐ南に13代成務天皇陵や日葉酢媛ひばすひめ陵があるが、「続日本後記」に「神功皇后陵と成務天皇陵を混同していた」という記事かあり、その後も現日葉酢媛陵が神功皇后陵とされていたとか、文久3年(1863)現陵に治定されるまで、二転三転していた。なお、陪塚として域内陪冢・飛地い・ろ・は・に号が宮内庁管理されている。

日本書紀」では、「仲哀天皇が九州の熊襲討伐途上に香椎宮にて急死し、その後神功皇后熊襲を討伐。そして住吉大神の神託に従い、子供(15代応神天皇)を身ごもったまま玄界灘を渡り朝鮮半島に出兵し、新羅は戦わずして降服、高句麗百済朝貢を約した」という『三韓征伐』の記事等、仲哀天皇より事蹟記事が多く、69年間執政したとある。日本書紀編纂者が「卑弥呼」に擬したとの説もある。なお、応神天皇を主神として、比売神ひめがみ神功皇后を加えた八幡三神は、武家社会の神として祀られている。 

平城駅北口から北東望   八幡神社北望       陵方面北東望       参道下制札

参道                        拝所遠景北東望      拝所北望  

*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

*写真は2015年11月。季節や経過年数により周辺の様子や目印が変わることが多いので注意ください。

②佐紀石塚山古墳

奈良市山陵町。4世紀後半の、前方部を南に向ける前方後円墳で、全長218m、後円部は3段築成で径132m・高さ19m、前方部も3段築成で幅121m・高さ16m。周濠は前方部南側を除き、幅が狭く、東側は極端に狭い。これは下記「佐紀陵山古墳」の後円部がくびれ部東側に食い込んでいるためで、佐紀陵山古墳が少し先に築造されたと考えられるが、巨大古墳がこのような形で近接するのは珍しく、理由は分からない。現在、「13代成務天皇=稚足彦尊(わかたらしひこのみこと、「古事記」では若帯日子)」の『狹城盾列池後陵さきのたたなみのいけじりのみささぎ』に治定されている。江戸時代の記録には後円部に竪穴式石室と長持形石棺があり、鏡・玉類・剣等が盗掘されたらしいが詳細は不明。なお、陪塚として後円部北側から北東にかけて3基(い・ろ・ほ号)が宮内庁管理されている。

成務天皇の事蹟として「記紀」に「山河等を境に国郡くにこおり・県邑あがたむらを定め、造長くにのみやつこ・稲置いなぎを任命し、地方行政機構整備を図った」とあるが、実年代である4世紀では考えられないとの説が一般的。

参道登口東望       前方部参道西望      制札           拝所北望

西側周濠北望       前方部南側周濠西望    東望           東側周濠北望

③佐紀陵山みささぎやま古墳 

奈良市山陵町。4世紀末の、前方部を西に向ける前方後円墳で、全長207m、後円部は3段築成で径131m・高さ約20m、前方部も3段築成で幅約87m・高さ12.3m。西側に接する佐紀石塚山古墳のくびれ部東側に後円部がくい込んでいる。現在、「11代垂仁天皇皇后=日葉酢媛命(ひばすひめのみこと、日葉酢根命とも日葉洲媛命とも。「古事記」では氷羽州比売命、比婆須比売命)」の『狭木之寺間陵さきのてらまのみささぎ』に治定されている。 

1915年(T4)に盗掘され、翌年宮内省が復旧工事を行なった際に、石室付近と出土遺物の詳細調査記録が作成された。後円部墳頂中央の方形区画下に、ほぼ南北方向の竪穴式石室があり、長さ約8.5m・幅約1.1m。東西側壁は扁平割石の小口積みだが、南北側壁は一枚石で、その石の上半中央部に孔が開けられていた。同じ様な孔が開いた石は、大阪府柏原市の松岳山まつおかやま古墳に見られ、特異な例である。内部には長大な木棺を納めていたと思われる。石室天井石は5枚で、各々に縄掛突起が付いていた。さらにこの天井石の上に、石棺の蓋の様な大型の石が置かれており、表面に直線の平行文様が線刻されていたとのこと。石室上部には、小さく円形に土を盛り、そこに7~8個の蓋きぬがさ形埴輪と数個の盾形埴輪が立てられていた。また、その盛土最高所の蓋形埴輪は高さ1.5m・幅2mと大きく、キヌガサ上部には複雑な直弧文が巡り、4枚の突出部分=鰭ひれにも直弧文があった。盾形埴輪は高さ1.08m・最大幅0.8mで、木製盾を模したと推測され、これも直弧文で飾られていた。石室内からは流雲文縁変形方格規矩ほうかくきく鏡・唐草文縁変形方格規矩鏡・直弧文縁変形内行花文鏡(いずれも径33cm前後)、管玉1、車輪石3・鍬形石3・石釧いしくしろ1の石製腕飾り、刀子とうす3・斧1・高杯2・椅子1の石製模造品、琴柱形ことじがた石製品、石製臼1等が出土したらしい。

日葉酢媛の父は「10代崇神天皇期の四道すどう将軍」の1人丹波道主王たにはのみちぬしのみこと。「日本書紀」に「前皇后狭穂姫命が垂仁5年に薨去の後、その遺志により垂仁15年に丹波から後宮に迎え、立后された。垂仁との間に12代景行天皇の他2皇子・2皇女を産む」とある。②佐紀石塚山古墳の被葬者とされる13代成務天皇にとっては祖母に当たる。更に、「日本書紀垂仁32年条」に、「葬儀に際し従来の殉死習慣につき天皇が群臣に問うと、野見宿禰が『生人に替えて土物(はにもの=土で作った人形等)埋納』を進言し、この土物を名付けて『埴輪』と呼んだ。野見宿禰はその功で土部はじべの職に任じられ、土師氏の祖となった・・・」とある。つまり埴輪の起源とされるのがこの古墳ということになるが・・・?

左=成務右=日葉酢媛陵 後円部西側周濠      拝所遠景南東望      西側周濠方面北望

制札           拝所           拝所西側         東側

*マエ塚古墳 佐紀陵山古墳の後円部北側に隣接した4世紀末~5世紀初頭の円墳だが、消滅している。2段築成・径50m・高さ7mで、幅13mの周濠が巡り、更にその外堤が幅28m・高さ1.5mという大規模なものだったらしい。消滅前に調査され、南北方向の長さ9m・深さ2mの墓壙の基底部に小礫を敷き、その上を厚さ1mの粘土で覆っていた。更に、その上にベンガラを浸した布を敷き、朱塗りの割竹形木棺(径60cm・長さ不祥)が納められていた。また、棺の北に接して、櫃の様な施設=副室(東西115cm・南北65cm)が検出されたとのこと。棺内から碧玉製石釧の完形品1・破片9、副室から銅鏡9・石製合子2・石製坩1が出土。また棺の外側にも遺物置き場?として布が敷かれ、鉄斧・鍬刃先・鉄鎌・直刀・剣形鉄器(鉄剣119・鉄刀24)・刀子等多くの鉄器も出土した。墳裾では円筒埴輪列、朝顔形埴輪が検出され、墳頂部からは家形埴輪・形象埴輪片が検出された。更に墳丘中段からも円筒棺1基が検出され、外堤部からも2基の円筒棺が検出されたとのこと。   

④佐紀高塚古墳

奈良市山陵町。4世紀代の前方後円墳だが、唯一前方部を西に向ける。全長127m、後円部は3段築成で径84m、前方部も3段築成で幅70m。墳丘周囲には、不連続ながら鍵穴形で幅の狭い周濠が巡る。主体部の埋葬施設や副葬品は不詳。現在、「48代稱德しょうとく天皇(46代孝謙天皇重祚=再度即位=在位749~770)」の『高野陵たかののみささぎ』に治定されている。ただ、築造年代、墳丘方向や規模から疑問視される。

前方部遠景東望   制札         拝所        拝所南側から北望  東望

⑤佐紀瓢箪山古墳

奈良市佐紀町。5世紀の、前方部を南に向ける前方後円墳。全長96m、後円部径60m・高さ10m、前方部幅45m・高さ7m。陵墓には治定されておらず立入可能。大正時代の採土の際、前方部から粘土槨が見つかり、碧玉製琴柱形ことじがた石製品3点が出土したと伝わるとのこと。周濠は前方部正面から西側隅にかけて途切れているが、前方部南西に隣接する衛門戸丸塚古墳(よもんどまるつか=4世紀後半の径50mの円墳?)が先行しており、その濠を共存させた模様だが、なぜ一部を重ねて築いたか理由は不明。丸塚はT3年に採土のため、墳丘半分が削平された。

前方部北望        案内           後円部北面        墳丘西面南望

*猫塚古墳 佐紀瓢箪山古墳の南東にある径30mの円墳(または120mの前方後円墳)。S29年、割竹形木棺を収めた竪穴式粘土石槨(天井部は粘土・割石で被履)が発見された。石釧21・短剣22・鉄刀8・車輪石2・石釧8・碧玉製管玉10・ヒスイ製勾玉1の他、銅鏡も出土しているとのこと。

⑥塩塚古墳 

奈良市佐紀町~歌姫町。5世紀前半から中頃の、前方部を南に向ける前方後円墳。2段築成と推定され、全長105m、後円部径65m・高さ8.5m、前方部幅52m・高さ1.5m程(案内には3.2mとあるが、見た目ではもっと低い)。周濠は前方部にはなく、後円部を中心に馬蹄形に巡り、本来水があった様子はない。前方部が後円部と比べ極端に低く、7世紀~8世紀奈良時代の瓦が出土していることから、削平後に建物が建てられたと思われる。奈良時代当時、この付近は皇族が曲水の宴などを催した平城宮外苑「松林苑しょうりんえん」の一部であったとされている。

1956年の後円部発掘調査で、粘土槨が検出されている。全長6.8m、幅は1.45m~1.3mで木棺痕跡が認められた。盗掘により遺物は少なかったが鉄剣・刀子・鉄斧・鉄鎌が出土したとのこと。

前方部北西望       案内           墳丘東面北西望      くびれ部と周濠

後円部と周濠北望    墳丘東面南望       後円部東面西望      後円部北側周濠西望

*オセ山古墳 塩塚古墳後円部北側から県道751号線に抜ける道沿い北側にある(猫塚北端から北東に約90m)。本来は全長65m程で、西側に短い前方部がつく帆立貝式前方後円墳と考えられているが、前方部は削平され、後円部だけが残り、それを巡る周濠跡(幅4~5m)が残っている。

⑦ヒシアゲ古墳

奈良市佐紀町。5世紀中葉~後半の、前方部を南に向ける前方後円墳。全長219mは全国24位。後円部は3段築成で径125m・高さ16m、前方部も3段築成で幅145m・高さ13m程。南半分に2重周濠があり、前方部南側の中央付近の内濠は幅30m・内堤は幅20m、外濠の幅20m・外堤の幅12m。1993年調査で外濠を横切る渡堤が確認され、東側くびれ部辺りの内堤で円筒埴輪列が見つかったらしい(後円部東側に複製埴輪が置かれている)。現在、「16代仁徳天皇皇后=磐之媛いわのひめ」の『平城坂上ならさかのえのみささぎ』に治定されている。江戸中期、元禄時代の修陵では51代平城天皇陵とされたが、1875(M8)年に「仁徳天皇皇后=磐之媛陵」とされた。なお、墳丘周辺の陪塚として、飛地い号(大和21号墳=42mの円墳)・ろ号(径約30mの円墳)・は号(径約27mの円墳)・に号(辺約42mの方墳)・ほ号(辺約27mの方墳)・(へ・と・ち=消滅)・り号(航空自衛隊敷地内=大和17号墳=辺25mの方墳)・ぬ号(大和16号墳=20mの方墳)がある。

遠景東望         前方部南側周濠西望     拝所遠景東望      拝所

拝所西側       東側        制札        参道西望       陪塚位置

磐之媛命 葛城襲津彦そつひこの娘。8代孝元天皇の男系来孫(=ひ孫の孫、古事記では玄孫)。17代履中天皇・住吉仲皇子・18代反正天皇・19代允恭天皇の母。仁徳2年(314)立后。「日本書紀」では「嫉妬深く、仁徳30年(342)磐之媛が熊野に遊びに出た隙に、仁徳が八田皇女(磐之媛崩御後に立后)を宮中に入れたことに激怒し、山背の筒城宮(現京田辺市)に隠棲したまま同地で没した。仁徳37年11月乃羅山(ならやま=奈良市奈良坂付近)に葬られた」とある。

⑧小奈辺こなべ古墳

奈良市法華寺町。ヒシアゲ古墳の南東、5世紀前半の、前方部を南に向ける前方後円墳。全長204mは全国31位。後円部は3段築成で径125m・高さ20m、前方部も3段築成で幅129m・高さ17.5m。「16代仁徳天皇皇后=磐之媛命」の『小奈辺陵墓参考地』に治定されている。江戸時代や明治時代の史料でも、くびれ部左右の台形状の造出しや、円筒埴輪・葺石の存在が確認されている。1979年(S54)前方部南側外堤調査で、円筒埴輪列が発見された。埴輪は野焼き時の黒斑があり、突帯断面形状や胴部外面ハケ目方向等から、後述の市庭古墳や宇和奈辺古墳に先行するとされた。1997年(H9)の調査では、周濠東側で外周溝も確認され、外周溝からは、三角板革綴短甲片や鉄鏃が出土したらしい。

西側濠南望        北東望          前方部南側周濠東望    東側周濠北望

なお、墳丘周辺の陪塚として、後円部北東から前方部の西側にかけて10基が並んでいる。後円部東の航空自衛隊敷地内に飛地い号(大和20号墳=30mの方墳)、後円部北東=ろ号(大和18号墳=37mの方墳)、北西=は号(大和22号墳=25mの方墳)、周濠西側には北から、に号(大和23号墳=20mの方墳)・ほ号(大和24号墳=15mの方墳)・へ号(大和25号墳=11mの方墳)・と号(大和26号墳=35mの方墳)の4基が整然と並び、古墳時代中期の陪塚の典型例とされている。更に、1997年(H9)調査では、後円部中心から陪塚へ延伸した線と、各方墳陪塚の中軸線が重なる可能性を確認した。また、い号(大和20号墳)は陪塚ながら周濠を伴い、その周濠脇から石敷苑池の遺構が見つかり、円筒・朝顔形埴輪や家形・壺形・蓋形等の形象埴輪も出土したとのこと。石敷苑池の遺構は、平城宮外苑「松林苑しょうりんえん」の一部との説もあり、そうであるなら、古墳が庭園の築山として利用されとも考えられる。

陪塚位置         後円部北東側遠景     は号=大和22号辺り    に号=大和23号 

ほ号=大和24号      へ号=大和25号辺り    と号=大和26号      周濠西側遠景

航空自衛隊 幹部候補生学校

奈良の米軍キャンプ跡地で、昭和31年開設とのこと。航空自衛隊の幹部自衛官となるために必ず入校する全国唯一の学校。申請すれば見学できるらしい(約90~120分程度)。

基地遠景北東望      正門           基地内西望        標識

⑩宇和奈辺うわなべ古墳 

奈良市法華寺町。佐紀盾列古墳群の東端。5世紀中頃の、前方部を南に向ける前方後円墳2020年の調査結果で全長270~280mと判明し、全国12位の規模となる。3段築成で、後円部径128m・高さ約20m、前方部幅約130m・高さ16m。前方部南側の周濠幅は60mを超える。西側くびれ部辺りにある造出し(周濠の中に埋没している)からは、須恵器、祭祀関係のものと思われる土師器の小形高杯・鉢・笊ざる形土器・魚形土製品・棒状土製品・杓子形土製品が出土したらしい。後円部北側にあった陪塚(大和6号墳=径25mの円墳)からは鉄鋋(てってい=板状の鉄素材)が見つかっている。墳頂中央の表土下に、長さ30~48㎝・幅5~10㎝の鉄鋋282枚が、ひもで束ねられていた。更に、長さ8~18㎝・幅1~2.5cmのものが590枚埋まっていた。総重量は140kgで国内最大の出土量。形態的な類似性から洛東江下流域の釜山・金海地域から供給された可能性もあるが、2017年5月宮内庁は国内で製作された可能性があるとの調査結果を発表している。現在、「16代仁徳天皇の後の皇后=八田皇女やたのひめみこ」の『宇和奈辺陵墓参考地』に治定されている。

墳丘西面東望       北東望          西面北望         前方部南側周濠東望

⑪市庭いちにわ古墳 

奈良市佐紀町。平城京大極殿跡すぐ北、5世紀前半の前方後円墳。当初円墳と考えられていたが、1962~63年の調査で、前方部が平城京築造時削平された前方後円墳と判明した。復元推定墳長253m・後円部径147m・前方部幅164m。円筒埴輪の特徴から、小奈辺古墳よりやや新しいとのこと。現在、「51代平城へいぜい天皇」の『楊梅陵やまもものみささぎ』に治定されている。在位延暦25年(806)~大同4年(809)、天長元年(824)崩御からすると、かなり無理がある。

制札と参道北望      拝所           拝所周辺北東望     前方部跡から大極殿南西望

平城天皇 50代桓武天皇の第1皇子。母は皇后藤原乙牟漏おとむろ延暦4年(785)藤原種継暗殺の嫌疑で早良さわら親王廃太子され、替わって立太子された(後に早良親王の祟りが歴史を動かす)。妃の母で夫のある藤原薬子くすこを寵愛したことで、桓武天皇と折り合いが悪かった。大同4年(809)、在位3年で発病し同母弟の嵯峨天皇に譲位し太上天皇となる。同年平城上皇は、「平安京より遷都すべからず」との桓武の意思に背き、旧都平城京に移り住んだ。大同5年(810)薬子らと図り、平安京の貴族達に平城京への遷都の詔を出し、政権掌握を図った。しかし、嵯峨側が機先を制し、薬子の官位を剥奪。これに対し平城は翌日挙兵、薬子と共に東国に逃れようとしたが阻まれ、翌日平城京に戻り剃髮し、薬子は服毒自殺した。平城の追号は、平城京に因むものとされる。

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平城宮跡や⑬平城宮跡資料館を経由して大和西大寺駅まで単純経路で約8km。

室生向坊1号墳

2021年5月11日(火)。室生向坊1号墳は奈良県宇陀市室生大野、近鉄大阪線「室生口大野」駅のすぐ北側の丘の中程にある(下図⑪)。7世紀以降の径10m程度の円墳。1号墳の石室は露出してはいるが、開口部に笹が密集しており、中は見れなかった。碧玉製丸玉・鉄刀子・須恵器・土師器等が出土したらしい。すぐ近くに2号墳(6世紀末頃、径8m)の石材の一部がある。なお駅の北側の道は徒歩でしか通れない。

向坊1号墳方面 

1号墳東望 

1号墳開口部

1号墳南西望

 

桃山古墳周辺

2021年5月11日(火)三重県名張市春日宮山古墳→桃山古墳→鹿高神社境内古墳→(番取山古墳)

春日宮山古墳

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名張市赤目町一ノ井。全長34mの双円墳とされてきたが、北側尾根先端部を前方部とする前方後円墳らしい。横穴式石室は南西側に二基開口し、6世紀前半の築造。
台ケ芝1号墳から西の橋を越え、橋から567号線を北へ660mで、田んぼの中の農道から、南西の春日神社駐車場へ。ここから溜池の西側に出て、農道の獣除けフェンスの切れ目から、南の林道に入る。林道(獣道)入口に宮山古墳への道標がある。そのまま道なりに登れば、宮山古墳の標識がある。小さな色あせた黄色矢印の道標に沿って行くと辿り着く(何か頼りない道標なので、いつまで残っているか?なお、往路は白いパウチ板、復路は透明のパウチ板のようだ)。

台ケ芝1号墳から     溜池西側の農道                  宮山古墳への標識と道標 

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*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大下さい)。

宮山古墳への道標                              往路と復路の分岐 

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先に見つかるのが通称東石室。両袖式で、全長6m、羨道長1.1m・幅1.4m、玄室長4.9m・幅2.6m・高さ2.5m。羨道長・全長はもっと長かったのだろう。西石室よりも、石材も大きく、こちらが主たる埋葬施設のようだ。

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天井部奥側        楣(まぐさ)石       楣石上部        開口部
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西石室の開口部は幅70cm・高さ40cm程。両袖式で、全長8.3m、羨道長3.9m・幅1.2m、玄室長4.4m・幅1.9m・高さ2.4m。

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前方後円墳では周辺で最古の琴平山古墳、次に鹿高神社古墳、そしてこの宮山古墳と続く。前2基は埴輪を伴うが、当古墳にはない。遺物は確認されていないが、名張周辺の首長の系譜を引く古墳と思われる。

桃山古墳

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名張市赤目町丈六。6世紀末の丘陵頂部に立地する単独墳。位置的には宮山古墳とは、ため池をはさみ西隣尾根上になる。しかし、進入路は全く違い、北側の集落から南下する。

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登り口は整備されて間もないのか、笹は綺麗に刈られている。林道途中にも道標がある。5分程で、人工的に平坦に整地された所に着き、右手に石室上部が見える。

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墳丘は全くなく、石室も天井部を失っているがデカい。両袖式の横穴式石室。全長11.5m、羨道長6.3m・幅1.6m・高さ1.5m、玄室長4.8m・幅2.7m・高さ2.6m。名張では赤井塚に次ぐ大型の石室で、宮山古墳に匹敵する首長墓と思われる。出土遺物は伝わっていない。丘陵部は、もともと里山として利用され、桃山の名も桃を植樹していたことから付いた名前とのこと。

羨道           羨道上部                     楣石

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先に見た宮山古墳石室に比べ、石材は圧倒的に大きい印象。奥壁石材下端は2.4m、赤枠の側壁は横165cm・縦120cm程。

玄室           奥壁下部         側壁

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右の袖石は幅65cm・高さ120cm・奥行90cm程。羨門上部の楣石は横幅160cm・縦120cm程ある。  

玄門           左袖          右袖           楣石

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羨道前に、大きく深い穴があるが、自然崩落したものでなく、人工的に作った井戸の様な感じがするが、目的は分からない。

玄室俯瞰         羨道前の穴

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思うに元は前方後円墳で、何らかの施設を作ろうと削平した時、石室天井部の石材も抜いてしまったのだろう。しかし、結果石室下部は保存された。その規模からして当然、首長墓なのだろう。

登り口から5分程だし、初級者にはお勧めである。

鹿高神社境内古墳

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名張市安部田大殿。鹿高神社本殿すぐ裏にある。鹿高神社1号墳とも。

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前方部が東を向く全長約42mの前方後円墳で、段築や葺石などは見られなかったらしい。前方部幅約27m・高さ5m、後円部径23m、後円部がやや高い。後円部と前方部に各1ケ所ずつ横穴式石室がある。
後円部石室の開口部は高さ40cm程。全長9.8m、玄室長4.7m・幅2m・高さ1.3mの両袖式、一辺2m前後の大きな石材も使われている。棺は組合式石棺だった模様とのこと。

スマホのバッテリー残量が10%程度のため、フラッシュが使えなかった。直前に郷土資料館と市民センターで充電を依頼したが、あっさり断られた。

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前方部石室の開口部は高さ20~25cm。全長7.65m、玄室長4.5m・幅1.6mの両袖式で、一辺50cm前後の小さ目の石材が使われている。後円部石室が主たる埋葬施設なのだろう。箱形石棺だった模様とのこと。

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後円部石室からは須恵器の台付長頸壺、広口壺が出土、墳丘では埴輪円筒の破片が確認され、名張盆地を治めた首長層を葬ったと考えられるらしい。円筒埴輪片から築造時期は6世紀中頃とのこと。

(番取山古墳)

名張市安部田。鹿高神社から165号線を南へ700m、北側の細い道を上がってすぐ、民家西側に登り道があり、民家裏の崖の上。径11.6mの円墳で、横穴式石室の玄室部分に祠がある。復元すると全長6.5m、玄室長2.3m・幅2.1m程とのことらしい。165号線下側から眺めただけで、パスした。

名張市周辺の古墳散策は、一旦これにて終了。

富雄丸山古墳

富雄丸山古墳は、奈良市丸山にある、4世紀後半の径109m=全国最大の円墳。

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1972年(S47)周辺の団地造成時に調査の他、2017年(H29)から史跡整備に向けた調査を実施。墳丘は3段築成で、1・2段目のテラス面の幅が最大8.8mもあった。1段目テラスには円筒埴輪、2段目テラスにはヒレ付き埴輪が巡っていた。葺石も検出し、墳丘北東側には造出しがある。埋葬施設は、主軸を南北方向に向ける南北10.6m・東西6.4mの粘土槨で、2段に掘り込まれた墓坑に長さ6.1m・幅2.9mの割竹形木棺が安置されていたと見られる。
4世紀後半当時では、まだ珍しかった「円墳」で、しかも非常に大規模で、東大阪辺りから奈良盆地に繋がる要所であること等から、ヤマト王権形成期に深く関わる有力者のものではないかとの説もある。

遠景西望             近景南望              案内

    *PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

案内               墳丘北側への進入路         墳丘南西側

当古墳の出土品として伝えられる斧頭形・刀子とうす形・鑿のみ形・鑓鉋やりがんな形・琴柱ことじ形石製品、鍬形石、合子ごうす、管玉、銅製品等は京都国立博物館で所蔵され、重要文化財に指定されている。これらとは別に三角縁神獣鏡3面は天理大学附属天理参考館に所蔵されているとのこと。なお、発掘調査時の出土品として銅鏃・鉄鏃、刀剣類、小札、筒型銅製品、巴形銅器、鏃形石片、石製鏃、鉄製のヤス・鎌・刀子・斧、石製合子等が見つかった。発掘調査出土品のうち鍬形石片は、京都国立博物館所蔵の鍬形石欠損部と一致することが認められている。 北東側には丸山2号墳・3号墳が保存されている。 

郡山新木山古墳

山新木山にきやま古墳奈良県大和郡山市新木にき町にある5世紀前半の前方後円墳

2019年11月8日(金)訪問。近鉄橿原線近鉄郡山駅の南東約600m。大和郡山市は金魚の町で、アチコチに飼育池があり、近鉄郡山駅の北側には郡山城跡もあり、ブラブラ散策するのも良い。郡山城跡の北東には九条・八条・七条等の地名が残り平城京の南端であったことが分かる。

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前方部を南南西方向に向ける墳長122mの大型前方後円墳。墳丘の西側くびれ部には造出しがあり、墳丘周囲には盾形(または馬蹄形)の周濠が巡らされている。

後円部径72m・高さ10.7m、前方部長さ59m・幅75m・高さ9m。明治30年9月から宮内庁が郡山陵墓参考地(被葬者は阿倍古美奈(こみな)。「第50代桓武天皇の皇后=藤原乙牟漏」の生母で後宮のトップ)として管理している。従来2段築成とされていたが、2012年度(H24)宮内庁書陵部による墳丘周囲の発掘調査で3段築成と判明し、葺石の存在も確認された。更に前方・後円部両側から出土した埴輪片は、野焼焼成黒斑のある円筒・朝顔形埴輪で、B種ヨコハケ(板で横方向に表面を整える技法)が観察された。西側造出し上部からは、祭祀行為を示す囲形埴輪・笊ざる形土器も出土した。こうした結果から、築造時期も古墳時代中期前半頃と判断された(従来は古墳時代後期)桓武天皇在位期は8世紀後葉以降なので、阿倍古美奈の陵としては、かなり無理がある・・・?

遠景南望         前方部南西角北東望    前方部西側北望      前方部南東角北西望 

埋葬施設は未調査、副葬品も不詳。葺石は中世の郡山城整備で使われた可能性も・・?

訪問時、何故か施錠されておらず、つい墳丘に入ってしまった。スミマセン。

前方部南西角    制札        前方部南西角     後円部方面     西側造出し辺り

 

桜井茶臼山古墳

JR桜井線・近鉄大阪線桜井駅の南東1.5km程にある鳥見山(とみやま=標高約245m)一帯を囲むように点在する古墳の一つが桜井茶臼山古墳

2018年4月9日(月)訪問。奈良県桜井市外山とび、「外山茶臼山古墳」とも。

古墳時代前期前半=3世紀末~4世紀初頭の前方後円墳

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北へ延びる尾根の先端を利用して築造されている。墳丘長207m、後円部径110m・高さ19m・3段築成。後円部径に比べ、南向きの前方部の幅が61mと細長く、全体が柄鏡えかがみ形で、一般的に「柄鏡式」と呼ばれる前方後円墳箸墓古墳西殿塚古墳に後続する時期に築造されたとされる。鳥見山をグルっと囲む古墳の中で最も古く、約1km南西の艸墓くさはか古墳、文殊院西・東古墳、谷首古墳等の7世紀代の終末期古墳より350年~400年も古く、時代背景は全く違う。

前方部案内     前方部西望      墳丘西側の案内   後円部墳丘斜面の計測器(2018年当時)

*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

*写真は2018年4月季節や経過年数により周辺の様子や目印が変わることが多いので注意ください。

墳丘には(後円部墳頂の矩形壇を除き)埴輪の使用痕跡はないが、墳丘段築面には葺石が施されていた。後円部墳頂には、南北12.5m・東西9.75m・高さ2m弱の、貼石された矩形壇があり、箸墓古墳類似の孔の開いた二重口縁壺形土器が周囲に巡らされていたらしい。

2018年4月訪問時、前方部から東回りで後円部北端へ半周回した動画。

Dropbox - 桜井茶臼山古墳周回.mp4 - Simplify your life

後円部墳頂矩形壇の中央下に、主軸と平行の竪穴式石室があった。石室は長さ6.7m以上・幅1.2m・深さ1.7m、石室壁は幅30~40cmの板石を積重ね、天井は12枚の巨石で塞がれていたとのこと。石室周りには柱跡が検出され、玉垣跡と考えられている。石室を構成する大小石材の全てに多量の朱彩があり、壁面として露れない部分にまで水銀朱(辰砂)が塗られていた。床面も全面板石で、粘土床は無く、敷石上に直接置かれた木棺は現存長5.19m・床板厚さ22cmという長大な木棺であった(材質は「トガの巨木」と鑑定されている)。石室内はすでに盗掘にあっていて、副葬品はいずれも破片のみだった。破片から復元すると斜縁二神二獣鏡・方格規矩四神鏡・獣帯鏡・平縁の神獣鏡各1面、内行花文鏡3面、三角縁神獣鏡4種6面、計9種類で少なくとも13面の鏡が副葬されていたと、当初推測された。しかしその後の、鏡の復元作業で推計81枚以上という膨大な数の銅鏡が副葬されていたことが判明した(国内最多)。更に銅鏡の破片の中に「是」とみられる文字が書かれていたものがあり、群馬県の蟹沢古墳で出土した正始元年(=240年。正始は魏の年号)の銘文を持つ三角縁神獣鏡と一致したと発表された。その他鉄刀・鉄剣・銅鏃等の武器類、ヒスイの勾玉・ガラス製の管玉・小玉の首飾り等玉類、碧玉製の腕飾、玉杖等が出土した。現位置を保つ遺物はなかったものの、鏡片は北小口の土砂に多数含まれており、鉄鏃は両小口に、玉杖は主に北小口に散乱していたとのこと。

後円部墳長に登ったが笹薮が生い茂るだけで、石室跡等は見つけられなかった。

後円部墳長と後円部北端見下ろし動画。

Dropbox - 桜井茶臼山後円部墳頂.mp4 - Simplify your life

箸墓→西殿塚→外山茶臼山→メスリ山→行燈山(崇神陵)→渋谷向山(景行陵)古墳はいずれも3C中葉から4C中頃までの大王墓であると考えられる。

越塚古墳

越塚古墳は、JR桜井線・近鉄大阪線桜井駅の南東1.5km程にある鳥見山(とみやま=標高約245m)の、更に南東にある別系統の丘陵に位置する。

     *PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

鳥見山を囲むように、北から反時計回りに艸墓くさはか古墳、文殊院西・東古墳、谷首古墳、コロコロ山古墳、メスリ山、兜塚古墳、秋殿南古墳、こうぜ1号墳、舞谷2号墳、エンドウ山古墳群・梶山古墳群*1、赤坂天王山古墳*2越塚古墳舒明天皇*3桜井茶臼山古墳。JR桜井線・近鉄大阪線桜井駅から順にグルっと巡る行程は約17km。難所のエンドウ山古墳と、遠回りの梶山古墳群を除けば14km程で、2018年4月9日(月)に歩いて巡った。

*1 エンドウ山古墳群・梶山古墳群

桜井市 倉橋ため池周辺古墳群 - OSAKA-TOM’s diary

*2 赤坂天王山古墳

赤坂天王山古墳群 - OSAKA-TOM’s diary

*3 舒明天皇

天皇陵 その七 - OSAKA-TOM’s diary

 

桜井市粟原おおばら。6世紀末(~7世紀初頭)の円墳。赤坂天王山古墳からは水平距離で1km程だが、かなりの上り坂でキツかったし、帰りは膝がガクガクになった。

下の右図、赤矢印は舗装道路、青点線矢印は山道。私は舗装道路からアクセス。

往路見返り                     右上地図の部分     越塚古墳登り口

径約43m・高さ6~7mで2段築成。全長15.4mの南南西に開口する両袖式の横穴式石室で、羨道は長さ10.7m・幅と高さ1.8mで2段または3段積み、天井は4石

開口部          羨道

玄室内には、(奈良県)二上山の凝灰岩製の組合式家形石棺の底石がある。底石は2石が遺存するが、手前側にもう1石あったと見られ、推定復元長3m(幅1.25m)程度とされる奥壁側に石棺側壁の一部らしき石材が立つ。床面には比較的丸っこい礫が敷かれている。

羨道東側壁                      玄門部         石棺の底石

玄室は長さ5.3m・幅2.75m・高さ3.85m。玄室石材は花崗岩の自然石に近く、奥壁・側壁とも基本的に3段積み、側壁は若干前傾するがほぼ垂直。天井は4石

奥壁        西側壁        東側壁       天井        (下が奥側) 

両袖部          楣石                        羨道

玄室石材の積み方等から、赤坂天王山古墳との類似性も見られ、同時期かやや新しい6世紀末葉頃の築造と考えられるらしい。更に奈良県生駒郡平群町烏土塚古墳(6世紀中葉頃)とほぼ同一設計とされる

平群町 古墳巡り - OSAKA-TOM’s diary

 

粟原谷を見下ろす丘陵中腹部に位置しており、一説には粟原寺*4造営に関連した人々につながる豪族の墓とされるが・・・時期と位置が・・・?。

*4 粟原寺

越塚古墳から東方向に直線距離で1km弱の小さな盆地南端辺り。166号線沿いの栗原公民館から南へ直線距離で550m。(談山神社所蔵の)『粟原寺三重塔伏鉢』(国宝)銘文に寺の縁起が記されている。持統天皇8年(694)に起工し金堂と丈六の釈迦像が造られ、22年後の和銅8年(715)に三重塔が造られたとされている。

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