OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

園養山古墳群A支群

園養山おんようざん古墳群は、滋賀県湖南市三雲にある滋賀県下でも有数の古墳群。現在190基確認されている。

 

A支群は「園養おんよう寺」を取り囲むように所在している。

*山中の古墳散策は冬場限定(草深く、蚊の多い時期は厳禁)。軍手・コンパス等必携です。

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園養寺

JR草津線の「三雲駅」と「貴生川きぶかわ駅」の間、線路沿い西側にある。「三雲駅」から線路沿いの道を徒歩25分程(1.7㎞)。踏切の無い線路を渡って行く。ここが園養山古墳群散策の起点になる。なお三雲駅近辺(1km以内)にはコンビニは無く、園養寺には自販機もありません

                          園養寺への途中にある石碑跡

*画像は、(スマホでも)PC版ならクリック(タップ)すると拡大されます。スマホ版ならピンチ拡大下さい。

天台宗で、開基は伝教大師最澄、創建は延暦年間(782~806年)と伝わる。本尊は大日如来坐像・十一面観音菩薩坐像。

参道西望                      山門西望見上げ   

*「〇望」=撮影方向は厳密な方角でなく「〇方面」程度の感覚で理解下さい。また勘違いの可能性も・・。

本堂西望

本堂手前の右手(南東)に石の鳥居があり、ここを抜けて階段を上ると鐘楼がある。

鐘楼西望。黄〇が29号墳の開口部。A支群巡回の起点になる。

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A支群

A支群は1~59号墳。石室は持送りの急な渡来系の穹窿式(畿内型B類)で構成されている。この地域では6世紀中葉から造営されている。

A支群分布図 赤〇が園養寺本堂、青〇が鐘楼。右が北

*甲賀市教育委員会2008年刊「甲賀の横穴式石室-後期古墳群調査報告書-」P158-図44を編集・加工

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古墳群の分布図等詳細については、甲賀市教育委員会 2008年発行 甲賀市史編纂叢書第四集ー『甲賀の横穴式石室-後期古墳群調査報告書-』に掲載されており、本ブログの各古墳規模・石室実測値等は、基本的にこの資料に準拠しています。

全て円墳で、墳丘規模の「径〇m」は長軸方向の長さ、玄室等の高さは土砂堆積床面からの高さです。なお、同報告書は平成17(2005)・18年度(2006)調査を基にしており、現在とは様相を異にする所も多い点お含み置き下さい。

*露出石室跡が土砂で埋まっていたり、逆に土砂が雨で流されてかなり露わになっている等。

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*『甲賀の横穴式石室-後期古墳群調査報告書』では小グループ分けは行われていませんが、便宜上近接する2~数基ずつの小グループに分けて、号数順に掲載します(小支群分けは筆者の独断です)

実際に散策した順番は、号数順ではなく、目印の明確な所を起点として、連続して巡れるルート(巻末に記載)を辿っています

なお、1~48号墳は2024年1月28日(日)・29日(月)、49~58号墳は2月17日(土)訪問。

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A支群北側

園養寺の北側(右が北) *等高線は2m間隔

*甲賀市教育委員会2008年刊「甲賀の横穴式石室-後期古墳群調査報告書-」P158-図44を編集・加工

A-1支群

1~3号墳。近接しているわけではないが同じ様な立地である。

 

1号墳 鐘楼から北へ250m程離れた所、40m程東下には線路が通る。A支群の最北端、径11mの円墳。南北方向に幅0.75m程の石室跡が残るらしいが(体力限界で)確認せず。

北東望

*(1~48号墳の)写真の日付表示が「2023/01/・・」となっていますが設定ミスで、2024年が正当です

 また号数順に巡った訳ではないので、日付表示に連続性はありません。

 

2号墳 1号墳の30m程南南西で尾根筋の15m程高い所にある。径12mで墳頂は削平され平坦らしいが、(体力限界で)確認せず。

西望見上げ

 

3号墳 2号墳から70m程南南西。墳丘改変が著しく規模は不明。石材に隙間があるらしいが、土砂堆積で内部不明とのこと。(体力限界で)確認せず。

北西見上げ

 
A-2支群

4・5号墳。他から西上方向に離れた中腹に、2基が近接する。

 

4号墳 径8.5m。南東向きの玄室遺存、天井石は抜き取られ、長さ3m・幅1.55m・(床面は埋没し)現在の高さ1.5m、狭いが入室可能。側壁石材は比較的大きい。

*周辺には同様の石材がゴロゴロしており、少し戸惑った。

北望                        北西望

開口部俯瞰                     玄室

 

5号墳 4号墳北東下の緩斜面にある。径8mだが墳丘は封土の流失が顕著で、不明瞭。古墳状隆起の可能性もあるとのこと。

北東望                       墳頂付近東望

 
A-3支群

6~12号墳。7基が密集する。

 

6号墳 径6.5mだが封土の流失が顕著、墳頂に陥没跡があり、石材が散在。

北西望                       墳頂南望

 

7号墳 径10m、墳丘良好。横穴式石室が南向きに開口、天井部はほぼ滅失、玄室部分は完存。現長3m程・幅1.58m・現高1.4m。持送りの急な穹窿式。

西望                        玄室北望

 

8号墳 径12.5m、南側が削平され南向きの玄室露出。天井石はほぼ滅失、玄室の現長2m程・奥幅2.35m・高さ2.15m。持送りの急な穹窿式。

南望                        北望

 

奥壁と右側壁                    奥壁と左側壁

 

9号墳 径13.3m。墳頂は削平され平坦。

北西望                       北望

 

10号墳 7号墳の崖下にある。径6.5mだが墳丘は封土の流失が顕著でよく分からない。

7号墳西横から南東見下ろし

 

11号墳 径7.8m。位置的にはこの辺りだが、墳丘封土の流失が顕著でよく分からない。

南東望見下ろし

 

12号墳 径9.5m。『甲賀の横穴式石室-後期古墳群調査報告書-(以下『調査報告書』と略記)』墳丘封土の流失が顕著とあるが・・?。石材が散在。

西望見上げ

 

A-4支群

13・14号墳。 A-2支群の南側中腹に、2基が近接する。

 

13号墳 径10m。墳丘は良好。墳頂に苔むした石材や陥没孔。

北西望見上げ                    墳頂北望

 

14号墳 13号墳の東北東約20m下にあり、径8.5mで、小さな陥没孔がある。

東北東見下ろし                   東望

 

A-5支群

15~19号墳が尾根の急斜面に連続して並ぶ。

 

15号墳 径12.5mで墳丘は良好。石室天井部隙間から内部を覗ける。

東望                        墳頂東望

赤〇が天井部隙間

*自撮り棒用のカメラの不具合で内部撮影できなかった。『調査報告書』には、次のように記載されている。

ーーー石室は完存し、南東に開口。羨道幅1.25m、右片袖式の玄室長3.4m・幅2.1m・高2mで、小型石材を10段程積上げた穹窿式。天井は3石構成。当古墳群では造営初期の6世紀中頃のもの。

 

16号墳 径12m、墳丘は良好。石室完存、羨道は埋没するが、天井隙間から内部を覗ける。

東望

玄室長3.2m・幅2.13m・高さ1.55m、窮隆式。

 

17号墳 径11.5m、墳丘は良好。陥没孔有り。

東望

 

18号墳 径12m。墳丘は良好。3石構成の(奥壁側の)天井部が僅かに開口。

東望見下ろし                    墳頂西望

羨道幅1.05m、南向きの右片袖式で、玄室長3.2m・幅2m・高1.45m、持送りの急な穹窿式。6世紀後葉造営と思われるとのこと。

右側壁                       右側壁と奥壁の接合部

 

19号墳 径12mで墳丘は良好。A-7支群の24号墳から開口部が見える。

24号墳から北北西望(赤〇が開口部)

東望                        墳頂南望(天井部の隙間) 

石室完存、羨道長3.05m・幅0.98m、右片袖式で玄室長3.3m・幅1.8m・高2.1m、側壁の石材が大きく、奥壁最上段は大型石材1石。中高式天井で6世紀末築造と思われるとのこと。

 
A-6支群 

20~23号墳。園養寺鐘楼広場の北下~北東下の線路側斜面に近接する。

鐘楼広場から直接降りるなら広場の北西角=(宝篋印ほうきょいんっぽい)石碑の左奥(北西)からなら何とか行ける。

 

20号墳 園養寺鐘楼広場の北側斜面。墳丘は不明瞭で規模不明。大型石材が露出とあり、位置的にはこの辺りなのだが・・・そんなに大型ではない・・・。

南東望見上げ(写真右上が鐘楼広場)          東望見下ろし 

 

21号墳 径8m、東側が削られている。

遠景南望             近景               東望見下ろし(右赤〇が23号)

結構大きな石材なので、これが20号墳かもしれない。

また、『調査報告書』では石室完存とあるので、これではないかもしれない。ただ、下から見上げてもそれらしき所は見当たらないのだが・・・?

『調査報告書』ではーーー南東向きの石室で、前側の天井石が落下しているが、玄室の保存状態は良好。右片袖式の玄室長3.15m・幅1.65m・現高1.62m、持送りは殆ど無く、残存石材2石の平天井ーーーと、ある。

 

22号墳 径5.5m。墳丘は封土の流失が顕著とある。位置的にはこの辺り・・・。何か自然石らしからね石材が・・・。

西望

 

23号墳 径5.5m。『調査報告書』ではーーー墳丘は封土の流失が顕著、石材等は見当たらないーーーとあるが・・・。崖っぷちに石材が。

南望                                北西望

なお、上の左端・右端写真に見えるように木の根元辺りにワイヤーが張られている。そして22~23号辺りは平らに整地されているので、この周辺は『調査報告書』当時の地形等がかなり改変されているのかもしれない。

 
A-7支群

24~29号墳。A-5支群の19号墳から谷を挟んだ南東尾根に連続する。一番下の29号墳は、すごく分かり易い。

 

24号墳 径10.3mで墳丘南側が削られている。

西望

*自撮り棒用のカメラの不具合で内部撮影できなかった。『調査報告者』には、次のように記載されている。

南東向きの石室の天井部が崩落、羨道方向は埋没するが、奥壁側は小型石材の多段積み(最上段は1石)、現長2m程、幅・高さとも1.3m程の穹窿式。

 

25号墳 径11.5m、封土流失が顕著で墳頂に大きな陥没跡。

西望見上げ                     墳頂東望見下ろし

 

26号墳 径7.8m、封土流失が顕著で、よく分からない。

27号墳 径9.5m。封土流失が顕著だが、墳丘っぽい高まりがある。

位置的には26号辺りだが・・・?。          27号西望

 

28号墳 径15m、東側は削平され寺敷地内の庭園として利用されている。

西望                        東望

 

29号墳 径11m、鐘楼の西側斜面にあり、東側は削平されている。開口部は鐘楼横の物置小屋脇にある。  

黄〇が開口部                    赤〇が墳丘

羨道幅1.18mだが崩壊、南に開口する玄室は長さ3.2m・幅1.97m・高さ2.5mで群中最大級。玄門部に天井石が落下している(無理をすれば何とか入室できる)。側壁は持送りが少ない。天井石は、丁寧に磨かれた板石。

西望                        北望

 

A-8支群 

30~36号墳。園養寺本堂の裏(西)側斜面に連続する。

 

30号墳 径12m、墳丘は良好。

東望                        西望見上げ

 

31号墳 径9m、天井石滅失、南向きの持送り石室が露出、羨道は埋没、玄室の現在長2.5m程・幅1.55m・高1.5m程。

東望                        南東望

北西望

 

32号墳 径9m、墳丘良好。

遠景西望見上げ                   近景西望

 

33号墳 径10.5m、墳丘良好

遠景西望見上げ                   墳頂東望

 

34号墳 径9.5m、墳丘良好。

遠景西望見上げ                   墳頂東望

 

35号墳 径11m墳丘良好。内部完存の様で、僅かに隙間があるらしいが確認し忘れた。

遠景西望                      墳頂東望

 

36号墳 園養寺本堂の西上斜面。径6.8m、墳丘は不明瞭、自然石散在。

南東望(向こうの下側が本堂。本堂からは直接登って来れない。)

 

A支群南側

園養寺の南側(右が北) *等高線は2m間隔

*甲賀市教育委員会2008年刊「甲賀の横穴式石室-後期古墳群調査報告書-」P158-図44を編集・加工

A-9支群

37・38号墳。園養寺本堂のすぐ左(南西)上の急斜面に2基。

 

37号墳 径8.7m、封土流出顕著、石室石材が一部露出するらしい(確認せず)

西望見上げ

 

38号墳 径7.3m、墳頂が削平され天井石露出するが内部は埋没。

東望                        西望

墳裾から園養寺境内俯瞰               園養寺境内から西望(黄〇辺りが38号)

 
A-10支群

39~42号墳。 A-9支群から西へ登った尾根筋高所。

 

39号墳 径10m。

東望見下ろし                    墳頂東望

 

40号墳 径12m。背後の尾根を切った墳丘が良好に残る。南東向きの小型石室は殆ど埋没するが上下2ヶ所に隙間がある。石室は小型石材の多段積み。

下段の隙間(石材は前壁の楣石?)

上段の隙間(天井石?)

 

41号墳 径10m。墳丘良好。墳頂に石室の天井石が露出。

東望                        墳頂

 

42号墳 径12.5m、墳丘良好。墳丘に小さな陥没孔(ほぼ埋まっている)。

墳丘東望

A-11支群 

43~48号墳。 A-10支群から尾根を下った所に連続する。

 

43号墳 径10.8m、墳丘良好、天井石が露出。中は土砂で埋まっている。

東望                        西望

 

44号墳 径11.5m、墳丘明瞭。僅かに開口している

『調査報告書』には、「羨道・玄門部が崩落するが僅かに南東向きに開口、玄室は幅2.1m・高1.2m、完存するもかなり埋没。石材は比較的大きく、奥壁最上段は大型の1石」とある。

 

45号墳 径9.5m、墳丘良好。天井石が一部滅失し、南東向きの玄室が覗ける。玄室の現在長2m程・幅1.5m・高1.1m以上。

 

46号墳 径13.8m、墳丘良好。石室完存、羨道長3.9m・幅1.15m、羨道は狭い。

『調査報告書』ではーーー南東向きに開口する右片袖式の玄室長3.4m・幅2.18m・高2.5m、天井は3石構成、持送りが急な穹窿式、6世紀後葉造営と思われるとのこと。

東望

                     奥は撮影できず。

 

47号墳 径9.2m。墳丘東側が削られ、石室石材が露出。

墳頂東望                      墳丘東斜面北望

西望見上げ

 

48号墳 A-11支群尾根筋から少し南にズレ、47号墳より少し南西上にある。径6.5m、封土流出が顕著。位置的にはこの辺りだが、よく分からない。

 

A-12支群

49~53号墳。50~53号墳は麓近くにあるが、49号墳だけ標高20m以上離れた尾根筋の高所にある。

 

49号墳 径8.5m、良好な墳丘のみ。

目立った特徴がないので確信はないが、南側谷筋の最高所北側にあるので多分・・?

西望見上げ            墳頂東望             東望見下ろし(50号は遥か下)

 

50号墳 径10m、良好な墳丘のみ。

西望見上げ                     墳頂東望

 

51号墳 径8.5m。墳丘は良好、天井石滅失、南東向きに開口する玄室後部が遺存。現長2.9m・幅1.7mで奥壁4石構成で5段、持送りが急。

北西望(赤〇が開口部)                現開口部

右側壁               奥壁               左側壁

現開口部の反対(南東)側=本来の開口部方面=おそらく玄門上部(前壁)の楣まぐさ石?

 

52号墳 径10m良好な墳丘のみ。

南西望                       墳頂南東望(若干窪んでいる)

 

53号墳 径8m、封土の流出が顕著、石室跡らしき石材が露出。

遠景南西望                     近景

石室跡石材南西望                  墳頂から東望(黄〇が石室跡石材)

 

A-13支群 

54~59号墳。 

 

54号墳 A-13支群尾根筋のかなり急坂高所にある。むしろA-12支群の49号墳に比較的近く、49号墳から谷筋を超えて南西方向にある。径12.5m、墳丘良好、『調査報告書』ではーーー墳頂に石室天井石露出ーーーとあるが体力的に確認せず。

49号から南西へ                   54号?西望見上げ

 

55号墳 径12.6m、墳丘は明瞭で、『調査報告書』ではーーー南側に開口部確認できるが、内部は埋没ーーーとあるが確認失念。

西望                        南西望

 

56号墳 径12m、南側が削平されている

東望見下ろし                    西望見上げ

 

57号墳 径11m、墳頂が陥没し周りに石材がある。

 

58号墳 麓近くにある。径6m、封土の流出が顕著、墳頂が陥没。

北西望                       陥没

 

59号墳 56号墳と57号墳の間で、尾根筋から南にズレた急斜面にある。『調査報告書』にはーーー径8.5m、墳丘・石室良好。玄室長2.9m・幅1.7m・高1.45m。持送りの急な穹窿式ーーーとあるが体力的にスルー。

56号と57号の間から南望

 

 

==============【A支群の探索経路】=============

 *あくまで私の辿った経路で、色んな経路が考えられます。

1日目 A-7・A-8・A-9・A-10・A-11支群(下図黒矢印)

2日目 A-1・A-2・A-3・A-4・A-5・A-6支群(下図赤矢印)

3日目 A-12・A-13支群(下図緑矢印)

*甲賀市教育委員会2008年刊「甲賀の横穴式石室-後期古墳群調査報告書-」P158-図44を編集・加工

1日目 9時~13時半(上図黒矢印)

まず本堂から鐘楼に向かう。起点は一番分かり易い29号墳。29から24号墳まで連続するA-7支群を登る。24号墳から南東側の36号墳(本堂の西上斜面)に移動し、最高所の30号墳まで連続するA-8支群を登る(本堂から36号へ直接は行けない)

そして30号からA-10支群39号に移った。
*実際には、最高所の30号墳から北進し15号墳に移る予定だったが、かなり離れている上に方向が少しズレたためか見つからず、30号墳に戻る時20~30m滑落。滑落地点辺りまで登り直したが自分の位置を見失い、気付けば墳丘が見えた。結果これがA-10支群の39号墳だった(本堂屋根が左下(南東)に見えた時点で気付いたのだが・・・)。
39号墳から42号墳まで連続するA-10支群を下り、43号墳からのA-11支群に移る。45号墳まで下りた所で、北西に墳丘が見え、37・38号墳=A-9支群に寄り道。本堂への降り口を確認した後、A-11支群に再び戻り、46~48号墳を経由して、園養寺参道南側の(酒人)林道に至った。
*滑落時デジカメの1台を紛失したため、そのカメラで撮影した29~24号墳=A-7支群と36~30号墳=A-8支群を再び訪れ、1日目を終了。

2日目 8時~13時(上図赤矢印)

1日目同様起点は29号墳。29号墳からA-7支群の最高所の24号墳まで登る。24号墳から深い谷の向こう(北側)に19号墳の開口部が見える。この深い谷を越えるのは無理そうなので、24号墳から谷沿いを(北側のA-5支群を見ながら)、谷の切れ目まで登る。今回は(A-5支群最高所の)15号墳がすぐ見つかった(墳頂の天井石崩落部分から石室内が覗けるので15号と確認できる)。15号墳北側にあるA-4支群の13号墳もすぐ分かる(墳頂に石材や陥没孔が確認できる)。北東下に14号墳が見える。14号墳から緩斜面を北に下っていくと石材がアチコチにあって少しややこしいが、A-2支群4号墳の、特徴的で入室可能な露出石室がある。4号墳から緩斜面の東北東下に5号墳。ここから4→14→13→15号墳に戻る。そして15号墳から連続するA-5支群を19号墳まで下る。19号墳からA-5支群南側の深い谷に降りる(強烈な急斜面なので降りるというより「滑り落ちる」という感じ)。谷筋を東に下っていくと緩斜面に出る(緩斜面の南側上には28号墳の丸い墳丘が見える)。北側の尾根斜面上に見える墳丘がA-3支群で、その東端が12号墳。11号墳はハッキリ分かりにくいが、平たく削平された9号墳の墳頂と、その南側の、露出石室が特徴的な8号墳は分かり易い。8・9号墳西側の7号墳も、露出石室が特徴的で分かり易い。7号墳のすぐ北西に6号墳(墳丘に石材散在)。7号墳と6号墳の間から北北東に下っていくと3号墳。更に下ると2号墳。A支群北端の1号墳東下にはJR草津線の架線?が見える。1→2→3→6~12号墳を経由して緩斜面に戻る。28号墳の丸い墳丘の東側の高台っぽい所が鐘楼のある広場。広場の北側~北東斜面下に20~23号墳=A-6支群がある。最後は緩斜面に戻り、28号墳北側下から28号墳に上がって、A支群北側を終了。

3日目 10時半~12時(上図緑矢印)

47・48号墳から浅い谷を越え53→52→51→50号墳と登る。50号墳から左(南)側の谷筋を見ながら、谷筋の切れ目辺りまでひたすら登った所が49号墳。49号墳から谷筋の切れ目を南西へ行くと54号墳辺り。そこから尾根筋をかなり下った所の墳丘が55号墳。すぐ下に56号墳。

尾根筋を57号墳に下る途中、南側に59号墳があるがスルー。57号墳を経て麓近くの58号墳まで至る。(58号墳から浅い谷の南西側に見える墳丘がB支群の74号墳で、午後はB支群を回った)

ウトジ池古墳群

大阪府和泉市いぶき野4丁目。泉北高速鉄道=和泉中央駅の北西「中央公園」内にある。

大阪府地図情報システム(埋蔵文化財) 青い網掛け部分がウトジ池古墳群

中央公園の最上部辺りにある。

遠景北西望                     北望

*画像は、(スマホでも)PC版ならクリック(タップ)すると拡大されます。スマホ版ならピンチ拡大下さい。

中央公園案内図では「古墳の丘」と表示されている。

 

南西側の墳丘

北望                        西望

北東側の墳丘
東望                        北望

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中央公園内にはアチコチに石室の石材の様なものがゴロゴロしているが・・・。

造成時に出てきた石材なのだろうか?

 

唐国池田山古墳群

大阪府和泉市まなび野。2024年1月17日(水)訪問。

 

元は泉北高速鉄道=和泉中央駅の北東にあった。

大阪府地図情報システム(埋蔵文化財)を編集加工。青の網掛け部分が唐国池田山古墳群。

2基の竪穴式の小石室を「宮ノ上公園」に移築保存。宮ノ上公園の入り口に無料駐車場がある。

宮ノ上公園

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移築石室保存場所方面西望

移築石室保存場所                           左(南側):6号 右(北側):9号                   

北側の9号はひときわ小さく、長さ1.2m・幅0.6mで大人は無理のようだが・・・。

北西望                       南東望

南側の6号は長さ1.7m・幅0.65m。

北西望                       南東望

 

和泉向代4号 

大阪府和泉市はつが野にある移築石室。泉北高速鉄道=和泉中央駅から2㎞弱。

2024年1月17日(水)訪問。

 

和泉向代いずみむかいだい古墳群は6世紀築造で、元は泉北高速鉄道=和泉中央駅付近に4基あったらしい。

大阪府地図情報システム(埋蔵文化財)を加工編集 青網掛け部分が和泉向代古墳群

 

4号墳(円墳)の横穴式石室のみが「かぐらざき公園」に移築復元された。

武器・装身具・馬具・須恵器等が多く出土したとのこと。

遠景西望                      近景西望

左肩袖式?。全長7m程・幅2.4m。

南南西望(奥壁方面)                  北北東望(羨道方面)

西望                        南東望

 

三林古墳群

大阪府和泉市三林みばやし町。(池田)春日神社の本殿裏や参道の両脇に分布する。

2024年1月17日(水)訪問。

 

車は春日神社駐車場に停められる。なお、春日神社参道前にバス停がある。

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6世紀後半~7世紀前半の古墳群。春日神社参道の左右、本殿周辺に、現在19基が確認されている。大正時代に開墾のため48基が取り壊されたとの記録もあり、もとは70基以上~100基近くが存在したらしい。

春日神社/三林古墳群 | 池田エリア | 和泉市の文化財紹介 | 弥生時代の歴史が眠る街 和泉市の文化財

春日神社参道                    春日神社拝殿

春日神社創建が神護景雲2年(768)と伝えられ、古墳群築造後1世紀後に、神社が創建されたことになるが・・・・(春日神社は巻末参照)。

大阪府地図情報システム(埋蔵文化財)には以下の通り19基の表示がある。

以下、当日巡った順(①~⑨)に掲載します。

番号〇は巡った順。緑〇は大阪府地図情報システム(埋蔵文化財)に表示はあるが、確認できなかった墳丘。

上図①

本殿裏の1基は最も規模が大きく(40m程?)、本殿裏のやや高所に位置する等からして盟主墳丘の可能性があるとのこと。

南西望                       北西望

北東望                       墳丘から南西望=本殿

大阪府地図情報システム(埋蔵文化財)には、この北西にもう1基表示されているが、それっぽい所は確認できなかった。

 

上図②

参道に戻り、参道入り口付近の石標東横に、それらしき高まりがある。

南東望                       南望

大阪府地図情報システム(埋蔵文化財)には、ここから東に2基並んで表示があるが、それらしき所は確認できなかった。

 

石標から林の中=北東に少し入ると3基の墳丘が見える。

 赤〇=上図④          水色〇=上図⑥           黄〇=上図③    

 

上図③ (ある資料では12号墳とある)

石室が遺存し、入室できる。

東望                        北東望

南西向きに開口する。開口部前には羨道跡(3.6m)が残る。開口部は幅60㎝程・高さ80㎝弱。

壁面は全て人頭大の川原石が内傾して積まれている。奥壁には盗掘孔?がある。

無袖式の玄室長5.4m・幅1.2m・高1.4m前後。今迄あまり見たことのない石室である。

 

上図④

墳頂に窪みがあり、南西向きの石室跡と思われる。

北西望                       墳頂北東望

 

上図⑤

墳頂に明瞭な窪みがあり、南西向きの石室跡と思われる。

④から遠景北西望         近景                墳頂の窪み北東望

 

上図⑥ (ある資料では10号墳とある)

南西向きの石室が遺存し、何とか入室できる。開口部前に長さ3m・幅0.6mの羨道跡がある。

遠景北東望                     近景北東望

開口部は幅55㎝・高さ80㎝。仰向けに寝て滑り込むように入室。

前記③よりかなり小振りだが、同じ様式。玄室長2.8m・幅0.9m・高0.85m。

 

上図⑦

⑥の北西。

 

上図⑧

大阪府地図情報システム(埋蔵文化財)では、この南東側にも4基表示されているが、それらしき墳丘は確認できなかった。

⑧の墳丘                      ⑧の南東側

 

上図⑨
参道入り口付近の南側。墳頂に僅かな石材が残るのみ。

大阪府地図情報システム(埋蔵文化財)には、この東側にも3基表示されているが、樹木が茂り確認できなかった。

 

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春日神社

御祭神は武甕槌たけみかづち命・経津主ふつぬし命・天児屋根あめのこやね命・比賣ひめ大神。

拝殿                        縁起

奈良時代、神護景雲2年(768)常陸国より武甕槌命・経津主命が大和国の御遷座の折、近郷の民がこの地に集い頓宮を造営した。次いで河内の天児屋根命、比賣大神を祭祀して春日大明神とし、和泉国池田郷の鎮守として崇敬した。

拝殿前の道標                    拝殿南東側(左:意賀美社・右:穂椋神社)

参道脇の古墳官地にして御林みばやし、上林かみばやしとも称され、固有の神として氏神、産土うぶすなの神、鎮守の杜 となり広く生活の中に伝承されてきた。江戸時代享保3年6月19日正一位の神位を授かり、南池田村・北池田村(7か村)を氏子として守護、その社地は40680坪(境内5100坪)を所有したとのこと。

当日も朝早くから参拝者がおられた。

拝殿北東側の水屋権現社

拝殿北東側の玉福稲荷社

春日神社(和泉市三林町) | 春日神社について

下のHPには三林古墳群の記事も見られる。

春日神社(和泉市三林町) | 神社のあれこれ

黒石古墳

大阪府和泉市黒石町の集落内にある。「黒石塚穴古墳」とも「黒石1号墳」とも呼ばれるらしい。2024年1月17日(水)訪問。

 

古墳周囲は狭い道なので車は停められないが、150m程南側に停めるスペースがある。

赤〇が黒石古墳(東望)

なお、近くにバス停がある。

黒〇=バス停                 緑丸=黒石古墳     赤い小さな🔴=駐車可能位置 

バス停

バス路線図と時刻表

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6世紀後半築造の径20m程の円墳だったらしい。全長9.2mの横穴式石室が残る。大正時代の「泉北史蹟志料」には数十基あったとされるが、現在はこの1基が残るのみ。

開口部は小さな祠の様になっており、パット見は古墳と気付かないし、石室が遺存するとも思えない。

横穴式石室は、祠の扉を開けた裏にある。祠の高さ145㎝。

開口部はブロックで補強されている。現存する羨道長3.5m程・幅(開口部側)1.65~(玄門側)1.9m前後・高1.7m強。

なかなか立派な玄室で、奥壁前には小さな祭壇が設えられている。玄室長4.8m程・幅2.4m程・高2.3m程。奥壁は大きな1枚岩の上に3石。

側壁は割と丁寧に加工されている。

両袖式で袖石は結構大きな1枚岩。

天井部は、羨道も玄室も大きな石材。

羨道天井(北望)                   玄室天井(南望)

【参考】

黒石古墳群 - 和泉市黒石町町会

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黒石古墳の西にある西福寺境内には、本墳石棺の蓋と伝わる板石碑がある。

 

岩瀬谷古墳群

滋賀県湖南市正福寺しょうふくじ。岩瀬神社を囲む山中に17基から構成された古墳時代後期の古墳群。A~F支群に分けられる。2023年12月14日(木)訪問。

 

2012年3月17日(土)に、(財)滋賀県文化財保護協会により、C・D支群の発掘調査の現地説明会が実施されている。

湖南市岩瀬谷古墳群の現地説明会を開催しました! - 文化財イベント日記

同協会のホームページの「岩瀬谷古墳群発掘調査地説明会」資料には下図の分布図等が掲載されている。

*なお、当記事中の実測値等は大半同資料に基づいています。

「岩瀬谷古墳群発掘調査地説明会」資料=図2 岩坂古墳群の分布状況

A支群

岩瀬神社のすぐ東側、砂防堰堤えんていへ向かう道があり、神社との間にA1・A2号墳がある。この道はC・D支群を経由する「十二坊トレイル(登山用遊歩道)」の進入口でもある。

     実際には字が薄く殆ど読めないので明瞭度調整加工

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*季節や経過年数により周辺の様子や目印が変わることが多いので注意下さい。

 

A2号墳の方が見つけやすいので、そちらから記述します。

A2号墳 

道路右側のガードレールが途切れた所から、50歩程上に行った左手、木々がやや少ない所から、林の中に入る。

目印は二股に分かれた木と小さな石標で、その間から北北西に40歩程下る。

林道っぽい所の左手側崖下には大砂川(渓流)、右手側にA2号墳が開口している(黄〇)。

北東望                   崖下の大砂川

A2号墳の開口部。開口部は幅0.8m・高さ0.65m。

残存羨道長1m弱・幅1m弱、玄室長2.1m程・幅1.6m程・高1.6m程、左片袖式で、割石を積んだ小型の石室。

現在の開口部は羨道から斜めに落ち込んでいる。

側壁はやや内傾する(持ち送る)が、左側壁の方がややキツい。

*側壁は、袖部同様、奥から見て左右を著します。

右側壁                       左側壁              

 左袖部                       天井部

A1号墳 

A2号墳の南西50m程。墳丘の南側が流失し、石室が開口している。径12m、羨道は崩壊しているが玄室は遺存。砂防堰堤へ向かう道のすぐ脇にあるが、背の高い笹等で道からは見えなかった。

A1号南西望                     墳裾から北東見上げ

開口部。

*開口部中央に笹が一本生えています。以後の写真は、この笹を曲げて撮っています。1年後には曲げられないくらい成長しているかも・・・?

玄室長4m(右側壁側)・幅2m弱・高さ2.5m程。A2号墳に比べ奥壁石材は少し大きめ。

側壁がやや内傾する(持ち送る)。

玄門部・袖部が崩れているが、左側壁の方が内傾がキツいので左片袖っぽい・・・?。

6世紀後半築造か・・・?

左側壁                                右側壁

奥側天井石                      前側天井石

後で分かったが、岩瀬神社参道途中からも来れた様だ・・。
A1号から参道への(見返り)写真。  黄〇がトレイルのガードレール

B・C・D支群

A支群~砂防堰堤手前~十二坊トレイルを進む途中にある。A2号横の道に戻った地点からC・D支群迄は250~300m程だが、途中(大砂川)渓流の岩場を進むので15分程かかる。岩にペイント表示があり、道は分かり易い。

ただ雨天は勿論の事、雨天翌日でも増水の可能性があるので、日程には注意が必要。
A支群横から砂防堰堤まで

B支群

砂防堰堤のすぐ東横にB支群-1号墳があるはずだが、よく分からない。

冒頭「岩瀬谷古墳群発掘調査地説明会」資料=図2岩坂古墳群の分布状況にあるB1号墳辺り

なかなか立派な砂防堰堤。豪雨時は、砂・岩だけでなく流木も流れて来るのかスリット型になっている。

C・D支群へは、砂防堰堤脇から細いトレイルを進む。

砂防堰堤脇に降り口(階段)がある。

堰堤から2分程で渓流に降りる。以後渓流内の岩場を行く。

C支群

堰堤から7~8分で、渓流西側の崖上にC支群があるはずだが、草木が繁茂しており、登るのは断念。

「岩瀬谷古墳群発掘調査地説明会」=図3C支群の古墳  図4 C2号墳の横穴式石室

C1号墳 西側にあり封土は流失し、全長3m程の石室が露出しているらしい。

C2号墳 墳丘が流失し墳長等不明。天井は滅失し、石室の左側壁は完全に崩れ、右側壁も半壊状態だったらしい。南西向きで全長4.2m以上、玄室長3.2m・幅1.6m。須恵器(坏身・提瓶)・鉄器(鉄鏃等)・玉類(ガラス小玉・土玉・滑石製臼玉・緑色凝灰岩製棗玉・同管玉)が出土。6世紀後半築造らしいとのことだが、今も残っているのか・・・?

ズームでC2号墳らしい所を撮ったが、よく分からない・・・・。

*10年程前の古墳ブログで、西崖上をC支群からD支群に向かう動画があったので、D支群からC支群に行けるかも?と思い試みたが、樹木に阻まれ断念。

D支群

更に1分程行き、渓流を西側に渡って少し上ると石積みが見え、その先にD支群がある。

「岩瀬谷古墳群発掘調査地説明会」=図9D支群の古墳

D1号墳                       D2・3・4号墳

D1号墳
径15m程、石室は完存し、6世紀後半築造と考えられるらしい。南西向きで全長7.6m、羨道長3.85m・幅1.2m前後・高1.55mとのこと。玄門部下部には梱石きしみいし(敷居石・閾石しきみいし・框石かまちいしとも)が残る。

左片袖式の玄室長3.45m・幅1.65~1.9m・高2.2mで、側壁がやや内傾=持ち送る。

石材の表面加工が丁寧になされている。

玄門部                        前壁

天井部奥側                      天井部前側

出土遺物は、須恵器(蓋坏・高坏・壺・提瓶)、土師器(椀)、鉄器(鉄刀・銀象嵌鐔(つば)・鉄鏃)の他、中世の黒色土器、瓦器、土師皿、銅銭(=中世には開口していた模様)。

 

D2号墳

6世紀後半築造らしい。南南東向きの石室全長は5.6m、羨道長2.4m・幅1.2m。開口部付近に閉塞石が一部残る。

両袖式の玄室はほぼ完存し、長3m・幅1.75m・高2.3mとのこと。

側壁は両側とも内傾する(持ち送る)が、上下石材が凸凹でなく、弓状に弧を描くよう綺麗に積み上げられ、表面加工も丁寧。横目地も意識されている。

天井部奥側            開口部俯瞰南望           玄室天井外面西望    

出土遺物は須恵器(蓋坏・高坏等)、土師器(椀)、鉄器(不明鉄器)、玉類(ガラス小玉)の他、中世の黒色土器、瓦器、土師皿。

D3号墳

ほぼ南に開口する6世紀後半の小型石室。左片袖式の石室全長3.45m、羨道長1.45m以上・幅0.8m。玄室は奥半分が遺存し、長1.85m・幅1.2m・高1.7m。

東望                        開口部俯瞰南望

出土遺物は須恵器(高坏・甕)、刀子の他、中世の黒色土器、瓦器椀、土師皿。

D4号墳

2021年3月の「十二坊~岩瀬谷古墳群~登山・山行記録」の写真では、まだ遺存していたが、現在は完全に崩壊している。6世紀前半築造らしく、元は石室全長1.98m、羨道幅0.64m、左片袖式の小型玄室長1.32m・幅0.8m。天井石は一枚岩だったようだ。須恵器(蓋坏)、刀子、ガラス小玉の他、中世の土師皿が出土したとのこと。

北望(下の大き目の石が天井石)   南望              岩瀬谷古墳群発掘調査地説明会資料

 

*なおD1・2号墳の石室内部には煤が付着していて、火を焚くなどの形跡が見られたらしい。大砂川の川床で、中世の石切場痕跡が見つかっており、石室内の中世遺物と考え合わせると、石工等の活動拠点に利用されていたと思われる。

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岩瀬神社

社伝等は不明。鳥居は桜の木で覆われ、春は綺麗そう。