神並古墳群

大阪府東大阪市東石切町、神並こうなみ古墳群は古墳時代後期(6世紀)の古墳群で、21基が確認されており、7基が現存するらしい。今回巡ったのは石室の遺存する2基。著名な石切神社の上之社と下之社の中間地帯に位置する。2020年8月4日訪問。

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神並6号墳

東石切町3丁目。弁天塚古墳とも。石切大仏の南東70m程、千手寺本堂の裏手にある。後述の5号墳よりやや新しく6世紀後葉とのこと。羨道は失われ玄室だけ残る。須恵器・土師器・耳環等が出土したらしい。本堂北側から墓地を抜けて裏手へ回る。進入禁止の立て札がありますので、本来、見学できるかお寺に確認が必要かも。

千手寺駐車場から  本堂・護摩堂     本堂裏手へ     墓地を南へ抜けると本堂裏

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 *PCなら写真をクリックすると大きくなります(スマホならピンチ拡大下さい)。

開口部       玄室         西側壁       東側壁      本堂側からの全景

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神並5号墳

東石切町2丁目。夫婦塚古墳とも。円形の墳丘を二つ合わせた双円墳で、道路沿いに二つの横穴式石室が開口。東側石室(施錠)は全長9.2m、(奥から見て)右片袖式で、二人が埋葬されていたことが確認され、周囲からは須恵器・土師器や鉄製品、玉類、馬に乗った人物や犬をかたどった壺の装飾部品が出土したとのこと。西側石室(無施錠)は全長9.6m、右片袖式で、三体を埋葬した痕跡が残り、鉄釘が出土したため木棺と推定される。須恵器・玉類・耳環・鉄製品が出土した。奥壁上部が崩れていて明るい。当古墳は6世紀中葉と見られるらしい。

北西望       解説板        東側石室      羨道(黄は袖部)   羨道天井部

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西側石室      羨道         玄門部(黄は袖部) 玄室      奥壁高さ比較(私は170㎝)

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楣石(まぐさいし)   楣石上部と天井部  羨道東壁      羨道西壁      羨道天井部

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石切神社

正式には石切劔箭神社いしきりつるぎやじんじゃ。

大阪府東大阪市にある神道石切教の神社。 平安時代中期の『延喜式神名帳』に記載されている河内郡の式内小社。祭神は饒速日尊(にぎはやひのみこと)、その子可美真手命(うましまでのみこと)で、「石切大明神」と総称される。

石切さん」「でんぼ(腫れ物)の神様」として著名で、本殿前と三の鳥居前の百度石を行き来する「お百度参り」も有名。社殿・宝庫が焼失したため創建年代は不詳だが、代々の社家(神社の管理家)である「木積」家には、皇紀2年(神武天皇即位2年)に生駒山中の宮山の地(元宮=奥宮)に、可美真手命が、父の饒速日尊を奉祀したことを起源とし、崇神天皇の御代に現本社に可美真手命が奉祀されたと伝わる。最後の六国史である『日本三代実録』(巻11)に「貞観7年(865)9月22日に河内国正六位石切劔箭神社従五位下を授く」とあり、『延喜式神名帳』にも「石切劔箭命神社二座」とある。室町時代末期に兵火で、神宮寺(神社の守護寺)であった天台宗法通寺とともに社殿が焼失。その後復興するが、いつの頃か宮山の地から現上之社の地(上石切町2丁目)に遷され、1905年(M38)に饒速日尊が現本社本殿に合祀された。その後も、上之社の地は、奥の院として信仰を集め、1932年(S7)に解体保存されていた本社旧本殿を上之社に移した。近鉄石切駅から1km東の生駒山腹にある「元宮(奥宮)」は荒廃している。
*なお饒速日尊は『日本書紀』神武紀に、神武東征の前から生駒辺りに降り立っていた天神(あまつかみ)とある。妃の兄である(神武東征を阻んだ)長髄彦(ながすねひこ)を殺し、神武に帰順した。物部氏の祖先とも。

絵馬殿       絵馬殿東側随神    西側随神      三の鳥居      本殿

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ここから、東大阪市瓢箪山町~上四条町に分布する山畑古墳群へ向かう。

山畑古墳群 周辺 - OSAKA-TOM’s diary

宇度墓古墳

大阪府泉南郡岬町。南海本線「淡輪たんのわ駅」の南側に隣接する。5世紀中頃~後半=西暦440~460年頃、墳丘長約170mの前方後円墳。淡輪ニサンザイ古墳とも呼ばれ、宮内庁により11代垂仁天皇の皇子(=12代景行天皇の同母兄)の五十瓊敷入彦命いにしきいりひこのみこと墓に治定されている。宮内庁の管理下にあるが2014年度(H26)に発掘調査が実施された。前方部を西南西方に向ける。1㎞程西にある西陵古墳等とともに、淡輪古墳群を構成する。2021年3月15日(月)訪問。

西陵古墳 - OSAKA-TOM’s diary

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淡輪駅から南望   道標         西角南東望     淡輪駅と周回道北側  北側造出

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墳丘長約170m(築造時約180mとも)。後円部3段築成・径約110m・高約13m。前方部3段築成・幅約120m・高約12m。南造出し2段築成・東西約24m×南北約21m。北造出しは上面は削平されているが、東西約20m×南北約11m。墳丘周囲には濠が巡らされており、この濠の波で墳丘裾部が徐々に削られているらしい。墳丘は、1段目・2段目に比べて3段目が著しく高いという特徴がある。1段目途中までは地山の削出で、その上は盛土で築造されている。地山の削出は造出しでも認められるので、造出しも墳丘本体と同時期のものとされる。この南・北造出しでは埋葬施設または副葬品埋納施設の存在が推定されており、特に南造出しでは壇状施設(通常は前方部墳頂で見られる)として機能した可能性が指摘されている。墳丘表面には葺石が葺かれ、須恵質の円筒埴輪列、家・盾・蓋・鳥などの形象埴輪が見つかっている。埴輪の一部には淡輪独特の技法が見られ、「淡輪系埴輪」と称される。埋葬施設は明らかでない。墳丘周囲の濠は2重に巡っていたが、現在は1重目のみ残存する。

淡輪系埴輪=埴輪を作る際に、蔓などを輪っか状に敷いて作ったため、底部下端にその痕跡の段がある。 横から見ると湯飲みの糸切りみたいな感じ。

案内         拝所        制札        前方部南角     南面北東望

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出土埴輪から5世紀中期~後半頃(440-460年)築造と推定される。5世紀中期~後半に限って築造された淡輪の大型古墳3基(西陵・西小山・宇度墓)のうちでは、西陵古墳に次ぐ西小山古墳と同時期の築造で、本古墳で当地の大型古墳築造は終る。『記紀』に記載はないが、『延喜式』諸陵寮では和泉国日根郡に所在する「宇度墓」とあり、兆域は東西3町・南北3町、守戸3烟で遠墓とある。しかし中世に荒廃して所在が失われた。M7年(1874)に『泉州志』の記載に基づき、一旦玉田山に定められたが、M13年(1880)に現古墳に改められている。なお『日本書紀』雄略9年条に「田身輪邑(=たむわのむら淡輪村)に葬られた」とある5世紀後半の将軍=紀小弓きのおゆみに比定する説がある。『和泉志』でも紀小弓墓とする説があるが、『泉州志』では西陵古墳・宇度墓古墳どちらか一方が紀小弓の墓、もう一方が紀船守ふなもりの墓とある。ただし、紀船守は8世紀の人物(731-792)なので、整合性が無い。

  南側造出し北東望・北西望        南面南西望        後円部東面・北東面

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後円部外周の東側には陪塚7基があり、5基が現存し、いずれも宮内庁の管理下にある。今回は4基だけ確認した。

南東側陪塚5号 (住宅裏側にあり、住宅の間の小道を入る)    東側陪塚4号

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線路沿い陪塚1・2号 線路南沿い陪塚2号北望 西望       線路北沿い陪塚1号北望  東望

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地蔵丸山古墳

大阪府貝塚市地蔵堂。JR阪和線「和泉橋本駅」から徒歩行程で500m程。4世紀後半の前方後円墳で国の史跡。周囲は住宅で囲まれている。2021年3月15日(月)訪問。

*ここから1.2㎞、南海本線「二色浜駅}から「淡輪駅」に向かい宇度墓うどはか古墳西陵さいりょう古墳を巡った。

 

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2000-2002年度に墳丘周囲部で発掘調査が実施されたらしい。前方部を西に向け、3段築成と推定されるとのことだが、現状では段築は殆ど分からない。

進入口          案内           後円部墳頂南西望     前方部西望

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 *PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大下さい)。

葺石・円筒埴輪列(朝顔形埴輪含む)、形象埴輪(家形・靱形・盾形・冠帽形)を検出。冠帽形埴輪の出土は全国的に珍しいとのこと。周濠はなく、埋葬施設・副葬品は不詳。和泉地方では摩湯山古墳(岸和田市)に次ぐ時期に位置づけられる。100m北側の南小学校で、古墳時代中期5世紀後半の埋没古墳6基(円墳4基・方墳2基=地蔵堂1-6号墳)が発見され、地蔵堂古墳群を形成する。当地で4世紀後半~5世紀代の首長層の存在が考えられる。

後円部墳頂から南望    東望           北望           前方部から後円部東望

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*基本的に西側には抜けられませんが、私は前方部南西角からフェンスを廻り込んで抜けました(お薦めはできません)。

首子古墳群 

奈良県葛城市染野そめの、近鉄南大阪線当麻寺たいまでら駅」から徒歩約15分。古墳時代後期(6世紀初頭~7世紀中頃)の古墳群。古くから首子七塚として知られていた。帆立貝形前方後円墳1基、円墳6基、方墳3基で構成されていたが、1・4・5・8号墳のみ現存する。1981(S56)年に県史跡に指定。中心的古墳は「5号墳(=首子塚)」で、説明板も5号墳のところにある。いずれも墳丘には登れるが、知らない方には崩れかけた小山にしか見えないだろう。いずれもこの地の当麻氏関連の墳墓と思われるらしい。2021年3月26日(金)訪問。

首子古墳群周辺の下図印辺りは奈良県景観資産の一ヶ所になっており、天気の良い日にウォーキングがてら当古墳群や鳥屋口古墳を経由して當麻寺をお参りするのも良いと思います(約5㎞)。

奈良県景観資産―二上山を眺望できる首子古墳群周辺― / 奈良県

鳥谷口古墳 周辺 - OSAKA-TOM’s diary

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*当麻氏=日本の古代氏族。日本書紀11代垂仁天皇条に、大和国の当麻邑(たいまむら)に住んでいた当麻蹴速(けはや)の記事がある。野見宿禰との捔力(すまひ=相撲)で敗死したという。葛城市當麻には蹴速塚がある。その他、31代用明天皇の第三皇子で当麻皇子も著名。麻呂子皇子ともいう。征新羅大将軍であった異母弟の来目皇子の薨去後、翌推古天皇11年(603年)4月に征新羅将軍となり、難波から船出したが、播磨国(明石)で妻が薨去したため、引き返したという。

首子8号墳 

径12mの円墳で埋葬施設は横穴式石室(全長7.4m、玄室長3.7m・幅1.4m、羨道幅1m)。殆ど破壊され石室の1段目の一部及び凝灰岩製組合式家型石棺の底石のみが残っていて、須恵器・土師器・金環・鉄鏃・飾鋲等が出土とのこと。今は墳丘も半壊している。

上図★から(左8号墳右5号墳) 遠景南西望       墳丘南西望        現在の墳頂

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 *PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大下さい)。

首子5号墳 

8号墳から道を挟んで北東側。帆立貝式前方後円墳で「首子塚」と呼ばれる。全長25m・後円部径20m前後。円筒埴輪列検出。古墳群中では一番大きく、盟主的存在。埋葬施設は未確認だが木棺直葬と思われ、6世紀前半と考えられるらしい。

遠景北望         登り口南東望       案内           墳頂碑南西望(○が8号墳) 

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首子4号墳 

5号墳の北西に隣接。墳丘が一部残る程度。1辺27m・高さ4~5mの方墳らしい。埋葬施設は破壊されていたが、片袖式横穴式石室と判明。玄室長4.4m・幅2.5m、羨道部長2m以上で家型組合式石棺の底石の一部が出土し、副葬品は須恵器のみ。6世紀後半と思われるとのこと。

北望           南東望-黄○は案内                 東望

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首子1号墳(別名 櫟山くぬぎやま古墳) 

現状径10m・高さ3m程の円墳。(復元径18m・高さ約5m)。調査当時埋葬施設はよく残っており、先行する第1主体は家型石棺直葬で、1953年土取り工事中にこの石棺から人骨3体が発見されたとのこと。第2主体は、1978年再調査時発見され、破壊された両袖式横穴式石室(玄室長3m・幅1.5m、羨道長3m・幅1m程)と判明。副葬品として金環・棗玉・素玉・須恵器が出土。凝灰岩の破片が玄室内から出土しており、凝灰岩製組合式石棺の可能性が強いとのこと。第1主体が6世紀中頃、第2主体が6世紀後半らしい。

遠景北西望        近景南望         南西望          墳頂

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【その他】

・首子2号墳(削平され水田) 一辺15mの方墳で、埋葬施設は破壊されていたが、木棺直葬の可能性が高い。円筒埴輪片・家型埴輪片・須恵器が出土し、須恵器から6世紀中頃と思われるらしい。

・首子3号墳(削平) 墳形不明。鉄釘が出土し、組合式木棺直葬らしい。鉄製武器(鉄刀等)が検出された。6世紀中頃とのこと。
・首子6号墳(削平され畑) 東西23m・南北11m・高さ2mの古墳の可能性があるが古墳痕跡未検出。。
・首子7号墳=只塚廃寺跡 当初、辺17mの方墳とされていたが、金堂と考えられる白鳳時代の建物基壇検出。多種類の道具瓦も出土し、後年調査で寺院跡と判明。
・首子9号墳 古墳時代の須恵器片が検出されたが、古墳かどうかは不明らしい。
・首子10号墳(削平され水田) 調査で径13mの円墳と判明。須恵器砕片が出土し6世紀中頃とのこと。

勘定塚古墳

三重県伊賀市外山とやま。JR関西本線「佐那具さなぐ駅」の北側、直線距離で約200m。7世紀前半築造で、墳丘は大半滅失し、横穴式石室の巨大な天井石とそれを支える側壁が残存する。こんな状態になっても崩れず、絶妙のバランスを保っており、石材の組み上げ技術に関心させられる。なお東南東約1㎞に県下最大の前方後円墳=御墓山みはかやま古墳がある。2021年4月11日(日)訪問。

御墓山古墳 - OSAKA-TOM’s diary

下図⑥。(御墓山古墳から車での順路)f:id:OSAKA-TOM:20210416085616j:plain

外山集落北側の山裾、民家横に遺存する。墳丘は大半滅失し、横穴式石室の巨大な天井石とそれを支える側壁が残存し、残存長約4.5m・幅約3.5m・高約2m。1964年(S39)に市の史跡指定。

勘定塚方面            左へ(右に上がると石室裏)      ここから上へ

 *PCなら画像をクリックすると拡大されます(携帯ならピンチ拡大下さい)。

階段を上り             斜め右へ              残存石室東望

 *写真は2021年4月。季節や経過年数により周辺の様子や目印が変わることが多いので注意下さい。

正面北望    

奥壁と祠                      西側壁  

東側壁                       天井石

東側壁外側                     西側壁外側   

北東に残る墳丘の一部        石室裏(北)側             裏側から南東見下ろし

 

御墓山古墳

御墓山みはかやま古墳は三重県伊賀市佐那具さなぐ町にある。5世紀前半築造、前方部を北東に向ける墳長約180~190m・3段築成で、三重県下最大の前方後円墳。1921年(T10)に国の史跡に指定、1970年(S45)には丘陵切断部・堀の一部・造出し・陪塚の範囲が追加指定された。ヤマト王権との強い結び付きがあった伊賀地域の有力首長墓と考えられている。墳丘にも上がれ、グルっと歩くと前方後円墳とよく分かる。

なお直線距離で西南西約1㎞、JR関西本線「佐那具駅」北側に大型の露出石室が遺存する勘定塚古墳がある。2021年4月11日(日)訪問。

 

下図⑤。(③宮山古墳・②御旅所古墳から車で移動した順路)

宮山古墳群 周辺 - OSAKA-TOM’s diary

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墳長約180~190m・3段築成(2段築成説もある)。後円部径約100m・高約14m、前方部幅70~80m・高約10m。

墳丘北側の進入路                 進入路左側の案内

 *PCなら画像をクリックすると拡大されます(携帯ならピンチ拡大下さい)。

進入路の案内と前方部墳裾の石碑で計測値が微妙に違うが、石碑は大正10年史跡指定時のデータ。

登り口=前方部の碑                 石碑拡大

丘陵先端を切断して築造しているらしい。前方部が北東を向く。「墳丘は2段築成だが、前方部裾に葺石を伴う地山があり、前方部墳頂から見ると3段のように見える」との説があるが、現在は3段築成説が強いかも?

前方部北西面 南東望(3段に見える)

後円部北西側に造出しが設けらているらしいが、よく分からなかった。墳丘表面は葺石で覆われ、円筒・形象・家形埴輪などを検出したとのこと。後円部南側に周濠があった模様(前方部周囲はない)で、後円部南東側、周濠外側に接し陪塚らしき径10mの墳丘2基がある(石碑案内では円墳)

東側くびれ部方面 南西望      東側くびれ部から後円部      残存葺石 

後円部南西面                    北東望

後円部墳頂の径30m程の平坦面に窪みがあり、主体部の盗掘壙と見られるが詳細不詳。

後円部墳頂平坦部         中央窪み(タバコは大きさ比較)      後円部から前方部北東望 

前方部から後円部 南西望              前方部 北東望

前方部 北東端                    北東端から見下ろし

柘植つげ川流域で東山古墳・山神寄建やまがみよつたて神社古墳に後継する首長墓だが、規模が格段に大きい。被葬者は、伊賀地域を代表する首長と思われ、地元では第8代孝元天皇皇子の大彦命(おおびこのみこと=日本書紀にある第10代崇神天皇期の四道将軍の一人)の墓と伝わる(注)。なお御墓山古墳以降の首長墓は柘植川対岸に場所を移し、規模はかなり縮小する。

(注)因みに、古事記では孝元天皇の宮も陵も奈良県橿原市。また日本書紀崇神10年9月「四道将軍大彦命が和珥坂(現奈良県天理市和爾町)で不思議な歌を詠う少女に出会い、その歌を天皇に報告する。倭迹迹日百襲媛(やまとととひももそひめ=あの著名な箸墓古墳の被葬者説も)は、これを武埴安彦とその妻吾田媛による謀反前兆であると告げた。果たして謀反が起こったが、すぐ鎮圧された。」ともあり、伊賀との関係は無いように思うが・・・・・。

横山1号墳

三重県名張市赤目町柏原。名張市最大の前方後円墳である琴平山古墳のすぐ西側に、横山古墳群のうちの1基として残る。6世紀前半〜中頃、径10m程の小円墳。小型の右片袖式石室が完存する。琴平山古墳の案内板からなら60m南の道路沿い西側に進入口がある。古い鉄製のフェンスがあるが、横から入れる。フェンスからすぐ右手(東)にある墳丘で、西向きに開口する。その北側にも横山古墳群のいくつか墳丘がある。木棺直葬墓から初期横穴式石室墓へと続く在地集団の古墳群と考えられる。

琴平山古墳は規模等別格であるが、この南側に直線距離で700m程にある滝谷古墳や、南東側に直線距離で750mにある台ケ芝1号墳には、横山1号墳に後続する横穴式石室が完存する。

琴平山古墳 - OSAKA-TOM’s diary  滝谷古墳 - OSAKA-TOM’s diary  台ケ芝1号墳 - OSAKA-TOM’s diary

進入口北望                    墳丘南望         開口部

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 *PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大下さい)。

開口部は幅50cm・高さ30㎝程しかないので匍匐前進で入室。

開口部              足は大きさ比較           羨道

玄室幅・高さとも1.8~1.9m程か。

玄室                 奥壁              天井部 

石室規模からして、当然小型石材で構築されているが、大きさを知らず写真だけ見たら中型の石室にも見える。

北側奥にもいくつかの墳丘がある。

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【豆知識その12】石室内の生き物

玄室壁や天井に点の様に見えるのはカマドウマ(竈馬)というバッタの仲間。足の長いコウロギの様な姿で、どの石室にも居るが、ピョンピョン飛び回るでもなく、藪蚊よりよっぽど無害。羨道天井部にもビッシリ張り付いていることもあるので、念のため入室前に木の枝等で、羨道部天井や側壁をパンパン叩いておけば、結構居なくなる。