OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

天皇陵 その四

16代『仁徳天皇陵」・菟道稚郎子「宇治墓」・皇后磐之媛陵「ヒシアゲ古墳」・磐之媛小奈辺陵墓参考地「小奈辺古墳」・八田皇女宇和奈辺陵墓参考地「宇和奈辺古墳」、17代『履中天皇陵』、18代『反正天皇陵』反正天皇東百舌鳥陵墓参考地「土師ニサンザイ古墳」、19代『允恭天皇陵』、20代『安康天皇陵』、21代『雄略天皇陵』雄略天皇大塚陵墓参考地「河内大塚山古墳」、22代『清寧天皇陵』、23代『顕宗天皇陵』顕宗天皇磐園陵墓参考地「築山古墳」・顕宗天皇皇后難波小野女王陵西陵墓参考地「狐井塚古墳」、24代『仁賢天皇陵』、25代『武烈天皇陵』武烈天皇大塚陵墓参考地「新山古墳」

*天皇の和風諡号や陵名は『日本書紀』(以下『紀』)をベースにしています。(古事記は『記』)

 

16代仁徳天皇陵

直近2019年11月12日参拝。大阪府堺市堺区大仙町。第16代「大鷦鷯おおさざき仁徳天皇」の『百舌鳥耳原中陵もずのみみはらのなかのみささぎに治定されている。『記』では「御陵は毛受もずの耳原」とある。宮は『記紀』ともに難波高津宮なにわのたかつのみや。宮址については大阪市中央区天王寺区等諸説あるが、いずれにしても上町台地上に比定される。

(2014.9撮影)参道   外濠北西望     南東望       制札        拝所

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*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

陵は全国一の規模を誇る「大仙陵古墳(大山古墳)」としてあまりにも有名なので、説明は省きます。陵を取り巻く陪塚については、下記を参照ください。

大仙陵 陪塚 - OSAKA-TOM’s diary

なお、陪塚ではないが、大仙陵古墳南東の堺市北区百舌鳥本町にある御廟山古墳宮内庁により応神天皇の百舌鳥陵墓参考地とされている。5世紀前半とされる前方後円墳で、墳丘長203m、後円部径113m、前方部幅136m、各3段築成。南側に造出しがあり、かつては二重濠があったことが確認されている。陪塚は数基あったらしいが、万代山古墳もずやまこふんのみ現存。
また同時期の前方後円墳で、墳丘長約146mのいたすけ古墳がある。後円部径約90m・高さ約12.2m、前方部幅約99m・高さ約11.4m、各3段築成。南側に造出しがある。主体部の構造や副葬品などは不明。台地南端に位置するため、周濠南側には大規模な堤が築かれていた。陪塚は数基あったらしいが、善右ヱ門古墳のみ現存。1955年(S30)頃、住宅造成で破壊されそうになったが、市民運動により保存された。その際、後円部から出土した衝角付冑形の埴輪が、堺市文化財保護のシンボルマークになっている。

(2014.9撮影)御廟山南側東望 西側北望        いたすけ後円部      前方部

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応神天皇崩御後、大鷦鷯皇子(仁徳)異母兄の大山守おおやまもり皇子は皇太子になれなかったことを恨み、異母弟である皇太子=菟道稚郎子うじのわきいらつこ殺害を計画。大鷦鷯皇子はこれを察知し菟道稚郎子に伝え、大山守皇子は郎子の計略で返り討ちに遭う。大鷦鷯皇子と菟道稚郎子とは互いに皇位を譲り合い、3年間空位となった。『紀』では皇位を譲るため菟道稚郎子が自殺し、仁徳天皇が即位したとある。異母兄弟とは言え、兄弟間の殺戮記事の初見である。なお京都府宇治市莵道丸山の丸山古墳が宮内庁により菟道稚郎子の「宇治墓」に治定されている。奈良市法蓮町1922-1に大山守皇子の「那羅山墓」がある。

(2017.5撮影)宇治墓制札  参道            拝所 

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民の竈から煙が立ち上っていないことを見て、3年間税を免除した話は有名だが、皇后の磐之媛いわのひめ(履中・反正・允恭天皇の母)の嫉妬深さについての週刊誌的な醜聞も『記紀』に記述があり、天皇家の人間臭い記事の初見でもある。なお磐之媛陵は、奈良市佐紀町のヒシアゲ古墳『平城坂上ならさかのえのみささぎに治定されている。陪塚として10基程あった、3基か消滅し、今は前方部南東角付近に飛地い号(大和21号墳=42mの円墳)航空自衛隊敷地内にり号(大和17号墳=25mの方墳)・ぬ号(大和16号墳=20mの方墳)等が残る。5世紀中葉~後半の前方後円墳で全長219mは全国24位、後円部径125m・高さ16.2m、前方部幅145m・高さ13.6m、各3段築成と推定される。、周濠は前方部中央付近南側で内濠幅30m・内堤幅20m、外濠幅20m・外堤幅12m。1993年の調査で、後円部東側くびれ部相当の内堤の外法肩部分で円筒埴輪列が見つかった。また外濠を横断する渡堤の存在も確認された。現在、県風致保全整備事業の公園となって、一部遺構復元がなされ複製埴輪が立つ。江戸中期の幕府による元禄の陵墓修築では、平城天皇「楊梅陵」とされた。その後、『紀』仁徳37年条の「乃羅山ならやま」に葬られた」との記述から、1875(M8)年に磐之媛命陵に治定された。、

(2015.11撮影)磐之媛陵制札 参道西望   拝所遠景東望    拝所        陪塚位置

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なお、すぐ南東の奈良市法華寺町の小奈辺こなべ古墳宮内庁により磐之媛の小奈辺陵墓参考地とされている。5世紀前半の前方後円墳で、全長204mは全国31位。前方部はほぼ南を向く。後円部径125m・高さ20m、前方部幅129m・高さ17.5m。後円部東の航空自衛隊敷地内に飛地い号(大和20号墳=30mの方墳)と北東のろ号(大和18号墳=37mの方墳)。北西に、は号(22号墳=25mの方墳)、さらに周濠西側に、に号(23号墳=20mの方墳)・ほ号(24号墳=15mの方墳)・へ号(25号墳=11mの方墳)・と号(26号墳=35mの方墳)の4基が整然と並び、古墳中期の陪塚典型例として知られる。また、西側陪塚と現況外堤との間は周庭帯となっていて、この部分は二重濠の可能性がある。1979年(S54)前方部南側の外堤護岸工事の際の発掘で、0.5m間隔で並ぶ円筒埴輪列が発見されている。埴輪は野焼き時の黒斑を有し、突帯の断面は台形様を呈して、胴部の外面にヨコハケ(刷毛目でタテハケより古い)を施したものである。埴輪製作技法の検討により、市庭古墳や宇和奈辺古墳に先行する要素が認められた。1997年(H9)の発掘では、小奈辺古墳後円部の中心から陪塚へ延伸した線と、各方墳陪塚の中軸線が重なると考えられた。20号墳は陪塚ながら周濠があり、その周濠から石をふいて苑池とした遺構が見つかっており、小奈辺古墳における奈良期の石敷遺構と同様のものと見なされる。そこから円筒・朝顔形埴輪や家形・壺形・蓋きぬがさ形等の形象埴輪も出土。また外周溝からは、三角板革綴短甲の破片や鉄鏃が出土している。2009年(H21)宮内庁書陵部が墳裾護岸工事にともなって一部発掘調査し、葺石のほか、西側の造出し部分で、直径約20cmの円筒埴輪21点、南側でも10点ほどの埴輪片が出土。埴輪片には、柵形・蓋形・家形埴輪などの形象埴輪を含んでいた。

(2015.11撮影)西側周濠南望 北東望         南側周濠東望       前方部側から北東望

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陪塚は号=22号  に号=23号   ほ号=24号   へ号=25号   と号=26号    陪塚位置

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17代履中天皇

2014年9月23日参拝。堺市西区石津ヶ丘。第17代「去来穂別いざほわけ=履中りちゅう天皇」の『百舌鳥耳原南陵もずのみみはらのみなみのみささぎに治定されている。宮は磐余いわれ稚桜宮(桜井市池之内に稚桜神社がある)。『記』では伊波禮 の若櫻宮。

仁徳天皇と皇后磐之媛の第一皇子。同母弟に、住吉仲皇子・瑞歯別みずはわけ(反正天皇)、雄朝津間稚子宿禰をあさづまわくごのすくね(允恭天皇)がいたが、住吉仲皇子が不貞や謀反を起こし、去来穂別が瑞歯別に命じて誅殺させたとある。仁徳天皇の際は異母兄弟だったが、ここでは同母兄弟間の争いである。

陵の考古学名は上石津ミサンザイ古墳。5世紀初頭の前方後円墳で、墳丘長365m、後円部径205m・高さ27.6m、前方部幅235m・高さ25.3m、各3段築成。全国3位の規模を誇る巨大古墳。東西のくびれ部に造出しを有する。陪塚は、宮内庁指定の4基=飛地い号(経堂古墳=南陵町4-4)・ろ号(東酒呑古墳=旭ヶ丘南町3丁2)・は号(西酒呑古墳=旭ヶ丘南町2丁2)・に号(桧塚古墳=石津北町クボタ鉄工内)の他に、七観音・寺山南山・七観山・石塚・狐塚古墳等10基前後あったとされるが、現在は飛地3基と後円部北側の七観音・寺山南山古墳の2基のみが残る。かつて存在した七観山古墳からは多量の副葬品が出土し、副葬品を埋納するための陪塚だった可能性があるが、現在その地には「平成の森記念塔」が建つ。

なお、考古学的には上石津ミサンザイ古墳(履中陵)の方が、大仙陵(仁徳陵)に先行すると想定されている。

後円部北西望   前方部南東望  参道      制札       拝所      七観音古墳

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18代反正天皇

2016年10月12日参拝。堺市堺区北三国ヶ丘町。第18代「瑞歯別天皇みずはわけ=反正はんぜい天皇」の『百舌鳥耳原北陵もずのみみはらのきたのみささぎに治定されている。『記』では「御陵は毛受野もずのにあり」とある。なお堺市北区百舌鳥西之町の土師ニサンザイ古墳*が、宮内庁により反正天皇の東百舌鳥陵墓参考地とされている。宮は丹比柴籬宮たじひのしばかきのみや(『記』は多治比) 。大阪府松原市上田七丁目柴籬神社が伝承地。

記紀』には殆ど事蹟記事は無いが、『記』には、その風貌について「御身の長九尺二寸半(2.8m)。御齒の長さ一寸(3㎝)、廣さ二分(6㎜)」とある。

陵の考古学名は田出井山古墳。5世紀中頃の前方後円墳で、墳丘長148m。後円部径76m・高さ13m、前方部幅110m・高さ14.8m。各3段築成。かっては二重濠があったと確認されている。周辺には陪塚として飛地い号(鈴山古墳=22mの方墳)飛地ろ号(天王古墳=11mの方墳)宮内庁管理となっている。百舌鳥耳原三陵のなかで、大仙陵古墳・上石津ミサンザイ古墳と比べかなり小さいことから、反正天皇陵として疑問視する意見も多く、土師ニサンザイ古墳を真陵とする説も強い。出土品は瑪瑙製勾玉、須恵器台、円筒埴輪、蓋型・家形等の形象埴輪。 

拝所遠景         拝所           制札          後円部南望

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後円部南望        周濠東側南望      鈴山古墳         天王古墳

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余談であるが、私の出身高校は陵から150m程南にある。後円部の北に隣接して方違神社があり、高校の美術の時間によく写生に来てもいた。しかし、古墳に興味を持つまで、反正陵の存在には一切気付かなかった。古墳に興味のない方にとっては、ただの森と池なのだろう。

*土師ニサンザイ古墳 「ミササギ(陵)」が転訛し「ミサンザイ」→「ニサンザイ」となった考えられている。5世紀後半の前方後円墳で、現在の墳丘長は290mだが、2012年に墳裾の護岸工事の際、墳丘端から5m外側の濠底で本来の裾部分が検出され、本来の墳丘長は300m以上で全国7位の規模になるとされる。後円部径約156m、前方部幅約224m。各3段築成で、前方部を西に向ける。左右には造出しを有する。墳丘周囲には現在周濠が巡らされているが、二重目の濠が一部確認されている。百舌鳥古墳群の大型古墳の中では最も時代が新しい。陪塚は3つ以上あったとされるが現存しない。

19代允恭天皇

2015年9月18日参拝。大阪府藤井寺市国府1丁目。第19代「雄朝津間稚子宿禰をあさづまわくごのすくね=允恭いんぎょう天皇」の『恵我長野北陵えがのながののきたのみささぎ』に治定されている。『記』では「御陵は河内の恵賀の長枝」とある。なお、大阪府藤井寺市津堂の津堂城山古墳の後円部墳頂部が、宮内庁により允恭天皇藤井寺陵墓参考地とされている。宮は『紀』では遷都記事がなく、前反正天皇の丹比柴籬宮をそのまま使ったことになる。しかし『記』には遠飛鳥宮(とおつあすかのみや、現奈良県高市郡明日香村飛鳥)とあり、飛鳥の地に初めて宮を設けたことになる。

16代仁徳天皇の第四皇子。履中・反正天皇の同母弟。病弱で即位を拒んでいたが、周囲の説得でようやく即位した。当時、各氏かってがってに氏姓を名乗り、混乱していたので、それを正すため行ったのが「盟神探湯くがたち」である。一方、天皇と皇后の妹(=衣通郎姫そとおしのいらつめ)や皇太子木梨軽皇子きなしのかるのみこと同母妹の軽大娘皇女かるのおおいらつめのひめみことの男女関係の醜聞記事の分量が、事蹟記事より多い。

陵の考古学名は、市ノ山いちのやま古墳。5世紀後半の前方後円墳で、墳丘長227mは全国20位。陵墓参考地「津堂城山古墳」とともに、世界遺産古市古墳群に属する。詳細は下記を参照ください。

古市古墳群 - OSAKA-TOM’s diary

20代安康天皇

2016年2月22日参拝。奈良市宝来4丁目。第20代「穴穂あなほ=安康あんこう天皇」の『菅原伏見西陵すがわらのふしみのにしのみささぎに治定されている。『記』では「御陵は菅原の伏見の岡にあり」とある。宮は『記紀』ともに、石上穴穂宮いそのかみのあなほのみや。伝承地は、奈良県天理市田町・同市田部・橿原市石原田町の3説がある。

允恭天皇の第二皇子。木梨軽皇子の同母弟、大泊瀬皇子(雄略天皇)の同母兄。大泊瀬皇子の嫁選びに絡み、讒言と誤解で大草香皇子を殺害し、その妻の中蒂姫なかしひめを皇后とするが、その翌年に連れ子の眉輪王まよわおうに殺害される。政治的な謀殺ではなく、私怨により殺害されたのは、古代では唯一。

陵は古城1号墳とも称されるが、考古学的には古墳ではなく、「宝来氏」の山城とも推定されている。近年の調査結果でも古墳時代の遺物は発見されていない。

制札・参道        拝所           陵南側東望       領西側北望

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21代雄略天皇

2016年4月2日参拝。大阪府羽曳野市島泉8丁目。第21代「大泊瀬幼武おおはつせわかたけ雄略天皇」の『丹比高鷲原陵たじひのたかわしのはらのみささぎ』に治定されている。『記』では「御陵は河内の多治比の高鸇たかわし」とある。なお、大阪府松原市西大塚の河内大塚山古墳*が、宮内庁により雄略天皇の大塚陵墓参考地とされている。宮は泊瀬朝倉宮はつせのあさくらのみや(『記』では長谷はつせ)、伝承地は奈良県桜井市黒崎。

父の事件=安康の殺害を知った大泊瀬皇子(雄略天皇)は、兄二人と眉輪王と彼を匿った葛城氏の円つぶら大臣を誅殺。安康天皇は皇太子を指名することなく殺害されていたが、後継候補であった履中天皇皇子の市辺押磐いちのべのおしは(大泊瀬皇子の従兄弟)を、その弟とともに謀殺する。(市辺押磐皇子の子らは播磨へと逃げ、後に仁賢天皇顕宗天皇となる)。この経緯は『記紀』ともに大筋同じだが、『記』では大泊瀬の残虐さがかなり際立つ。結果、大泊瀬皇子は即位し、『紀』では、平群臣真鳥へぐりのおみまとりを大臣、大伴連室屋おおとものむらじむろや・物部連目もののべのむらじめを大連おおむらじとしたとある。有力豪族葛城氏の没落と、平群・大伴・物部氏の中央進出である。

また、最大の地域豪族であった吉備氏を謀略で弱体化させる等、近隣の国を制圧し、大王による専制君主制を築いた。さらに、神功皇后応神天皇以来活発化した、朝鮮半島との抗争や交流面でも記事があり、百済や呉国(宋)から才伎(てひと=手工業者)集団を重用し組織化した。

考古学名は高鷲丸山古墳(5世紀後半頃の島泉丸山古墳と島泉平塚古墳)。詳細は下記を参照ください。

古市古墳群 - OSAKA-TOM’s diary

*河内大塚山古墳 松原市西大塚~羽曳野市南恵我之荘。古市古墳群に含める説もある。6世紀後半の前方後円墳で、墳丘長335mは大仙陵(仁徳)、誉田御廟山(応神)、上石津ミサンザイ古墳(履中)、備中造山古墳に次ぐ全国5位。後円部径185m・高さ20m、前方部幅230m・高さ4m。周囲に濠が巡る。前方部がかなり低く、しかも古墳時代後期の「剣菱形」と呼ばれる(前方部中央がやや外側に突き出す)特異な形状をしており。今城塚古墳(26代継体天皇の真陵説あり)、見瀬丸山古墳、鳥屋ミサンザイ古墳(28代宣化天皇陵)等と類似する。また埴輪が出土せず、後円部にある埋葬施設は横穴式石室である可能性が高く、6世紀後半に築造された大和王権の大王墓と推定できるが、被葬者は特定できていない。また30代敏達天皇が磯長陵から改葬されたという説もある。なお宮内庁により「大塚陵墓参考地」に治定されているが、雄略天皇崩年(479)と築造年代に数十年の開きがある。なお、T14年の陵墓参考地治定までは、墳丘内に村があり、居住者がいた。

(2017.9撮影)大塚陵墓参考地前方部     碑         参道        案内

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22代清寧天皇

2015年9月18日参拝。羽曳野市西浦6丁目。第22代「白髪武広国押稚日本根子しらかのたけひろくにおしわかやまとねこ=清寧せいねい天皇」の『河内坂門原陵こうちのさかどのはらのみささぎに治定されている。『記』には陵の記事は無い。宮は磐余甕栗宮いわれのみかくりのみや(『記』では伊波禮いわれ)の甕栗宮、奈良県橿原市東池尻町の御厨子神社が伝承地。

父親は雄略天皇、母親は、眉輪王事件で滅ぼされた葛城の円大臣の娘の韓媛。『紀』には、生まれながら白髪とある。他に、雄略天皇の謀略で新羅に派遣された吉備上道臣田狭きびのかみつみちのおみたさの元妻の稚媛との間に二人の皇子がいたが反乱で焼死し、翌年、清寧天皇が即位する。皇后も子も無かったが、雄略天皇に謀殺された市辺押磐皇子の子の億計おけ・弘計をけ兄弟が見つかり(『紀』は在位中、『記』は薨去後)、彼ら天皇位を継ぐ。

なお、清寧陵の考古学名は西浦白髪山古墳で、6世紀前半、墳丘長115mの前方後円墳。詳細は下記を参照ください。

古市古墳群 - OSAKA-TOM’s diary

なお、『紀』では、兄弟が皇位を譲り合っている間、兄弟の姉=飯豊青皇女いいどよのあおのひめみこが忍海角刺宮おしぬみのつのさしのみやで執政。『記』では、清寧薨去後の空位の間、忍齒おしはの妹=飯豊王が忍海高木角刺宮で執政したとある。飯豊青皇女は、宮内庁により奈良県葛城市北花内の『埴口丘陵はにぐちのおかのみささぎに治定されている。考古学名は北花内大塚古墳で、6世紀初頭、墳丘長90mの前方後円墳。現在の皇室典範では、『陵』は 天皇・皇后・皇太后および太皇太后のみで、他の皇族は『墓』という。因みに、『延喜式』諸陵式では「埴口墓」とある。

(2016.10撮影)飯豊陵参道  制札          拝所           全景北西望

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23代顕宗天皇

2016年4月2日参拝。奈良県香芝市北今市。第23代「弘計をけ=顕宗けんぞう天皇」の『傍丘磐坏丘南陵かたおかのいわつきのおかのみなみのみささぎに治定されている。『記』では「御陵は片岡の石坏の岡の上」。前方後円墳とされるが詳細不詳。陪塚として飛地い号(北今市3丁目191-1)・ろ号(北今市3丁目182)・は号(北今市1丁目176-1)宮内庁管理とされている。なお、奈良県大和高田市築山にある築山古墳*が、宮内庁により顕宗天皇の磐園いわぞの陵墓参考地とされている。宮は近飛鳥八釣宮ちかつあすかのやつりのみや。現在の奈良県高市郡明日香村八釣、または大阪府羽曳野市飛鳥か)。『記』は単に「近飛鳥宮」とある。

大泊瀬皇子(雄略天皇)に、父の市辺押磐を謀殺され、子の億計おけ・弘計をけ兄弟は播磨へと逃げ隠れた。その後、身を寄せていた縮見屯倉しじみのみやけのおびと(『記』では志自牟しじむ)の新居の祝宴で、同席していた播磨国司の小楯おだてに、弟の弘計が出自を明かした。清寧の後継として、先ず弟の弘計が即位した(兄の億計が出自を明かした弟の功を称え譲った)。在位は、『紀』では3年、『記』では8年。

拝所前北望        陵全景         制札           拝所

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*築山古墳 4世紀後半の前方後円墳で、墳丘長210m、後円部径120m、前方部幅105m。古地図には、共に片岡石杯岡かたおかのいわつきのおかの北陵・南陵として記されてもおり。墳丘の段築は、後円部3段・前方部2段築成、後円部・前方部とも3段築成、後円部4段・前方部3段築成等の説がある。くびれ部南側だけ、外観から造出しの存在が確認できる。築山古墳の周堤帯とコンピラ山古墳の間に数mの段差があり、それが南に築山古墳を囲む形で延びており、一部は栂池という名の池。これは築山古墳の2重濠の痕跡と推定されている。なお陪度として後円部すぐ南にある飛地い号(茶臼山古墳=円墳径50m・高さ6m、2段築成)宮内庁管理されている。

(2017.10撮影)北側南西望  南東望         拝所           制札

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南側西望         南側くびれ部      南側東望         陪塚茶臼山古墳

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さらに、築山古墳南側の大和高田市池田にある狐井塚きついづか古墳が、宮内庁により顕宗天皇皇后難波小野女王の陵西おかにし陵墓参考地とされている。5世紀後半~6世紀初頭の前方後円墳で、全長109m、後円部径60m・高さ10m、前方部幅73m。葺石と円筒埴輪、盾形周濠痕跡が確認された。埋葬施設は不明、前方部北東外堤付近で長持形石棺の蓋石が出土、付近の川からも長持形石棺の蓋石や竪穴式石室の天井石を検出している。陪塚として、狐井塚古墳の西側50mほどから、JR和歌山線の北沿いに、飛地い・ろ・は・に号があり、ほ号はJR線の南側、高田温泉さくら荘駐車場の南奥隅にある。

(2017.10撮影)北側  い号        ろ号        は号        に号

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24代仁賢天皇

2018年9月18日参拝。大阪府藤井寺市青山3丁目。第24代「億計おけ=仁賢にんけん天皇」の『埴生坂本陵はにゅうのさかもとのみささぎに治定されている。『記』には陵の記載はない。宮は『記紀』ともに石上広高宮いそのかみのひろたかのみや奈良県天理市石上町ともされる。

皇后は父の仇である雄略天皇の娘=春日大娘皇女かすがのおおいらつめのひめみこ。仁賢が傍系出身のため、直系皇女を迎え入れ正当性を強めたといわれる。

高句麗から才伎(てひと=手工業者)招いたり、世も五穀豊穣で平和で、国中が良く治まったと評されている。

考古学名は「野中ボケ山古墳」で、 6世紀前半、墳丘長122mの前方後円墳元禄時代に所在不明となるが、「ボケ」を「オケ」の誤りする説があり、幕末に現陵に治定された。詳細は下記を参照ください。

古市古墳群 - OSAKA-TOM’s diary

25代武烈天皇陵 

2016年4月2日参拝。奈良県香芝市今泉。第25代「小泊瀬稚鷦鷯おはつせのわかさざき=武烈ぶれつ天皇」の『傍丘磐坏丘北陵かたおかのいわつきのおかのきたのみささぎに治定されている。宮内庁上の形式は山形だが、詳細不詳。奈良県北葛城郡広陵町大塚の新山古墳*が、宮内庁により武烈天皇の大塚陵墓参考地とされている。宮は泊瀬列城宮はつせのなみきのみや奈良県桜井市出雲の十二柱神社に「武烈天皇泊瀬列城宮跡」の碑がある。『記』では「長谷之列木宮」とある。

『紀』には即位前に、物部麁鹿火もののべのあらかひの娘を巡り、当時権勢を誇っていた平群真鳥一族を、大伴の金村に命じ滅ぼした。ここで大伴氏が権勢を握ることになる。さらに、『紀』には即位後の異常で残虐な行動列挙されている。雄略天皇の残虐な記述は、主に政敵殺害等に絡むものだが、武烈天皇の場合は、まさに悪虐非道である。しかい『記』には、一切こうした記述はない。

参道西望         拝所遠景望       制札           拝所

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*新山しんや古墳 4世紀前半の前方後方墳。全長約126m、後方部径67m・高約10m、前方部幅約66m・南向き。馬見うまみ古墳群に属する。群中でも初期で、1885年(M18)に所有者が植樹の時後方部竪穴式石室(内部に組合式の長持形石棺)を発見。14面3種の直弧文鏡を含む銅鏡が34面出土。直弧文は3~4世紀頃に現れる。また変形方格規矩神鏡は倭製鏡で、4神4獣鏡。三角縁神獣鏡の中でも古い段階に製作されたと考えられる。龍文透彫り帯金具も出土。朝鮮半島南端の伽耶を経由して江南からもたらされたか、その影響を受けたものである可能性が高い。300年前後の製作と考えられる。他に車輪石・石釧・椅子形石製品等も出土。円筒埴輪はメスリ山古墳類似でもある。武烈天皇の在位年と古墳築造時期に大きな乖離がある。

(2017.10撮影)遠景北望   前方部南東角     前方部西望        前方部南西角

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天皇陵 その三

7代孝霊天皇陵・8代孝元天皇陵・9代開化天皇陵・10代崇神天皇陵・11代垂仁天皇陵・12代景行天皇陵・13代成務天皇陵・14代仲哀天皇陵・15代応神天皇陵 

*天皇の和風諡号や陵名は『日本書紀』をベースにしています。

7代孝霊天皇

2016年4月2日参拝。奈良県北葛城郡王寺町本町3丁目。第7代「大日本根子彦太瓊おほやまとねこひこふとに孝霊天皇」の『片丘馬坂陵かたおかのうまさかのみささぎ』に治定。

延喜式』諸陵寮では「片丘馬坂陵」として兆域は東西5町・南北5町、守戸5烟で天皇陵(遠陵)とある。後世に所伝が失われ、元禄の探陵で現陵に治定された。公式形式は山形。

宮名は、『日本書紀』(以下『紀』)、『古事記』(以下『記』)とも「黒田廬戸宮くろだのいおどのみや」。伝地は『和名類聚抄』の大和国城下郡黒田郷と見られ、現奈良県磯城郡田原本町黒田周辺と伝承される。同地の法楽寺境内に「黒田廬戸宮阯」碑が建っている。

父は6代孝安天皇。母は皇后の押媛。『記紀』にも皇統のみで、在任中の事績に関する記載がなく、いわゆる「欠史八代*」の一人。

『記・紀』において系譜(帝紀)は存在するがその事績(旧辞)が記されない第2代綏靖天皇~第9代開化天皇までの8代の天皇、またはその時代を指す。

参道登り口      制札        拝所遠景      拝所       参道見下ろし

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*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

8代孝元天皇

2016年2月4日参拝。橿原市石川町。第8代「大倭根子日子国玖琉おおやまとねこひこくにくる孝元天皇」の『劔池嶋上陵つるぎのいけのしまのえのみささぎ』に治定。陵については『記』では「御陵は剣池の中の岡の上」とある。宮は『記紀』ともに「軽かるの境原宮さかいはらのみや」。

考古学名は中山塚1-3号墳(円墳2、前方後円墳1基)。橿原神宮前駅の東、石川池(万葉集に歌われた剣池)の中に浮かぶ島のように見える部分(東側奥では丘陵とつながっている)の上に石川中山塚古墳群=3基の古墳がある。

幕末の谷森善臣は「東南の1基を、西面に、後円うしろまるく、前方まえかたに造り給ひし」と「山陵考」に記し、前方後円墳と見ていた。陵の地形図の等高線も前方後円墳っぽい。石川中山塚古墳群は藤原京内と推測されるが、中国の隋や唐の律令では都から離れた場所に人を葬るのがきまりで、日本律令もそれに倣い、天皇が居住する都城内や周辺や大路近辺に墓を営むことを禁じている。藤原京造営で、京内の古墳の多くが削平された(発掘調査では50基以上とも)。しかし石川中山塚古墳群に墳丘が残るのは、律令国家が皇統譜上の初期王陵に擬し、京内に意図的に残された=「都市開発」から外されたのではないかという説もある。

参道登り口     制札        参道        拝所遠景      拝所

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9代開化天皇

2016年2月9日参拝。奈良市油阪町(近鉄奈良駅の西側)。第9代「稚日本根子彦大日日わかやまとねこひこおほひひ開化天皇」の『春日率川坂上かすがのいざかわのさかのえのみささぎ』に治定。『記』では「御陵は伊邪河の坂の上」とある。宮は『紀』では春日率川宮かすがのいざかわのみや、『記』では春日之伊邪河宮。

第8代孝元天皇の第二子。母は皇后の欝色謎命うつしこめのみこと。同母兄弟に「倭迹迹姫命」(箸墓古墳の被葬者とされる)等がいる。

考古学名は念仏寺山古墳で、墳長約100mの前方後円墳。 

参道         制札        拝所遠景      拝所

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10代崇神天皇

直近は2019年12月参拝。天理市柳本町。第10代「御間城入彦五十瓊殖みまきいりひこいにえ崇神天皇」の『山辺道勾岡上やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ』に治定。『記』では「御陵は山辺道の勾の岡の上」とある。宮は磯城瑞籬宮しきのみずがきのみや、『記』では師木水垣宮とあり、桜井市三輪山西麓に比定される。

第2~9代まで系図等の記述しかないが、10代崇神条に初めて多方面の記述が出てくる(天照大神等の宮中外祭祀、大物主大神祭祀、四道将軍派遣等)。『紀』崇神天皇即位12年9月条に、「天下が太平になり、御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと=初めて治めた天皇)と呼ばれた」とあり、また『記』にも「御世を称へて、初国知らしし御真木天皇みまきのすめらみことと謂す」ともあり、実在する初代の天皇との説もある。

考古学名は行燈山あんどんやま古墳。詳細は下記参照ください。

柳本古墳群 - OSAKA-TOM’s diary

11代垂仁天皇

2016年2月22日参拝。奈良市尼辻西町11。第11代「活目入彦五十狭茅いくめいりびこいさち垂仁天皇」の『菅原伏見東陵すがわらのふしみのひがしのみささぎ』に治定。『記』では「御陵は菅原の御立野の中にあり」とある。宮内庁治定の菅原伏見東陵の陪冢は、湟内陪冢1ヶ所、飛地陪冢6ヶ所(い号・ろ号・は号・に号・ほ号・へ号)の計7ヶ所。

記紀』にある事績は系統解説の性格が強くその史実性が疑問視されたが、近年はその実在を認める説も多い。宮は纒向珠城宮まきむくのたまきのみや。『記』には「師木玉垣しきのたまかきのみやとあり、奈良桜井市穴師周辺に比定される。

『紀』垂仁即位7年条に「角力=相撲の元祖(野見宿禰当麻蹴速)」伝承記事がある。また、即位28年10月、同母弟の倭彦命やまとひこのみこと薨去し、埋葬時に近習者をを生きながら埋めた様子を悲しみ、殉葬を禁止した。さらに即位32年秋7月条に皇后の日葉酢媛命ひばすひめのみこと薨去した際、出雲国から土部はじべを呼び寄せ、人や馬等の土物はにものを作らせ殉葬の代替にさせた。これが『埴輪』の始まりという伝承記事がある。

現在、垂仁陵周濠内南東の小島が、湟内陪冢『伝田道間守墓』として治定されている。『釈日本紀』巻10所引の『天書』では景行天皇が彼の忠を哀しんで垂仁陵近くに葬ったとある。考古学調査はされておらず、江戸時代の「山陵絵図」や明治時代の「御陵図」に島が描かれていないため、考古学的には、江戸か明治期の周濠拡張に伴う外堤削平の際、残された外堤の一部と推測されている。ただし「廟陵記」等で周濠南側に『橘諸兄公ノ塚』の記載があることから、その塚を前提として小島が残されたとする説も。田道間守*(三宅連=三宅氏の祖)を菓祖神とする信仰により、現在は小島の対岸に拝所が設けられている。

田道間守は天日槍(あめのひほこ=新羅からの渡来人)の子孫。垂仁即位90年に、天皇から「常世国に非時(ときじく)の香菓(かぐのみ)を求めよ」と命じられた。しかし垂仁即位99年7月に天皇崩御。翌年(景行元年)田道間守は非時香菓を持ち帰ったが、天皇崩御を聞き、陵で自殺したと『紀』にあり、『記』にも同様の記事がある。

考古学名は宝来山古墳。全長227mの前方後円墳。前後3段築成。前方部3段目は後円部3段目の下半分に接続し、神戸市垂水区五色塚古墳が類似する。

制札      参道南西望   拝所         田道間守命塚・拝所  飛地い号(兵庫山古墳)

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12代景行天皇

直近は2019年12月参拝。天理市渋谷しぶたに町。第12代「大足彦忍代別おおたらしひこおしろわけ景行天皇」の『山辺道上陵やまのべのみちのえのみささぎ』に治定。『記』では「御陵は山辺の道の上」とある。宮は『記紀』ともに纏向の日代宮。桜井市纏向。

熊襲・出雲・東国の征服が、主たる事蹟ではあるが、それは日本武尊やまとたけるのみこと(『記』では倭建命)の功績である。なお『紀』では天皇日本武尊に対する接し方が好意的に描かれているが、『記』では冷徹な応対として描かれている。

考古学名は渋谷向山古墳。詳細は下記参照下さい。

柳本古墳群 - OSAKA-TOM’s diary

13代成務天皇

215年11月参拝。奈良市山陵町字御陵前。第13代「稚足彦わかたらしひこ成務天皇」の『狹城盾列池後陵さきのたたなみのいけじりのみささぎ』に治定。『記』では「御陵は沙紀の多他那美」とある。宮は、 『記』に「近つ淡海の志賀の高穴穂宮(現大津市穴太)」とある。

事績として『記紀』に山河等を境に国郡くにこおり・県邑あがたむらを定め、造長くにのみやつこ・稲置いなぎを任命し、地方行政機構整備を図ったとあるが、実年代である4世紀では考えられないとの説が一般的。

考古学名は佐紀石塚山古墳。佐紀盾列古墳群を構成する古墳の1つ。佐紀陵山古墳(伝日葉酢媛命陵)の西に接する前方後円墳で前方部は南向き。全長218.5m、後円部径132m・高さ19m、前方部幅121m・高さ16m。各3段築成。葺石多用が石塚山の由来。周濠は前方部前面を除き幅が狭く東側は極端に狭い。佐紀陵山古墳の後円部周濠が東側のくびれ部に食い込む。佐紀陵山古墳が先に築造されたのだろうが(時期差は数十年もない模様)、何故このように築造したか不明。親族(祖母と孫)関係の存在も推定される。周濠外北から北東に3基の陪塚(い・ろ・ほ号)がある。江戸時代の記録では後円部に竪穴式石室と長持形石棺があり、鏡・玉・剣等が盗掘されたらしいが詳細は不明。

参道登り口        制札          拝所       道左が成務陵、右が日葉酢媛命陵

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14代仲哀天皇陵・15代応神天皇陵 

2015年9月参拝。大阪府羽曳野市藤井寺市。2019年7月世界文化遺産に登録された26基に属する。

第14代「足仲彦たらしなかつひこ仲哀天皇陵は『恵我長野西陵えがのながののにしのみささぎに治定されている。『記』では「御陵は河内の恵賀の長江」とある。宮は穴門あなと豊浦宮(下関市長府)→筑紫橿日宮(福岡市香椎=『記』では筑紫の詞志比宮)。これは九州の熊襲征伐に赴いた折の行宮(あんぐう=仮宮)日本武尊の第二子、15代応神天皇の父。

皇后である神功皇后は、新羅百済高麗を服属させたという三韓征伐の様子等が神話的に記述され、仲哀天皇より事蹟の分量が多い。因みに神功皇后陵は『狹城盾列池上陵さきのたたなみのいけのえのみささぎ』(『記』では沙紀の盾列池上陵)に治定。陪塚として域内陪冢・飛地い・ろ・は・に号が宮内庁管理されている。考古学名は五社神ごさし古墳(奈良市山陵町)、全長約275m、後円部径約195m・高さ23m、前方部幅155m・高さ27mで全国12位の規模。すぐ南に、上記の13代成務天皇陵と日葉酢媛命陵があり、『続日本後記』に神功皇后陵と成務天皇陵を混同していた記事もあり、文久3年(1863)まで二転三転している。

第15代「誉田別命ほむだわけ応神天皇陵は『恵我藻伏岡陵えがのもふしのおかのみささぎ』に治定。『記』には「御陵は川内の恵賀の裳伏岡」とある。宮は『紀』では神功皇后磐余いわれ若桜宮(桜井市池之内)を引き継いだことになっている。『』では軽島之明宮かるしまのあきらのみやとあり、現在では軽島豊明宮(かるしまのとよあきらのみや橿原市大軽町)が比定されている。詳細は下記参照ください。

古市古墳群 - OSAKA-TOM’s diary

古市古墳群

古市古墳群

大阪府羽曳野はびきの市~藤井寺市前方後円墳33(現存22)、円墳34(現存7)、方墳52(現存17)、墳形不明8(現存1)、合計127基(現存計47基)が確認されている。

そのうち、宮内庁により25基=天皇陵(8)・皇后陵(2)・皇族墓(1)・陵墓参考地(1)・陵墓陪冢(13)=が治定され、20基が国の史跡に指定されている。2019年7月、26基が世界文化遺産に登録された。

【参考】古市古墳群一覧表/羽曳野市

2021年9月コロナ禍で古墳散策を自粛しており、空いた時間でブログにあげていなかった過去の散策地を記事化したものです。

数が多いので、主なものを、おおよそ西→東、北→南、主墳→陪塚の順に掲載します。

地図上の青枠・〇数字と、解説の古墳名〇数字が対応しています。

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                               Yahoo!地図を編集加工しています。

①高鷲丸山古墳(島泉丸山古墳と島泉平塚古墳)

羽曳野市島泉しまいずみ8丁目。島泉丸山古墳は径76m・高さ8m・2段築成の円墳。埴輪・須恵器・土師器などが検出され、出土埴輪から5世紀後半頃の築造と推定される。島泉平塚古墳は、丸山古墳の東南東約100mにある一辺50m・高さ8m・2~3段築成の方墳。第21代「大泊瀬幼武尊おおはつせわかたけるのみこと雄略天皇」の『丹比高鷲原たじひのたかわしのはらのみささぎ』に治定されている。江戸末期(1864年)までは丸山古墳のみが雄略天皇陵とされていたが、同年に平塚古墳が雄略天皇前陵として陵域に取り込まれ、その後の修陵で合わせて前方後円形に整形された。
隼人塚古墳 島泉8丁目。丸山古墳を囲む池の北方70mにある一辺20mの方墳。遺構・出土品・築造時期等は不詳。雄略陵「飛地い号」として宮内庁が管理。『日本書紀』にある雄略天皇に殉死した隼人の墓伝承がある。民家にビッシリ囲まれていて、西側の隙間から何とか見える程度。

(2016.4撮影) 丸山遠景  参道入口         制札          拝所 

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*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

②津堂城山古墳

藤井寺市津堂1丁目。墳丘長208m、前方部幅117m・高さ12.7m、後円部径128m・高さ16.9m。4世紀後半築造と推定される。世界遺産、国の史跡。後円部墳頂辺りのみ藤井寺陵墓参考地。前方部は南東を向き、二重の周濠が墳丘を囲んでいる。

津堂城山古墳 - OSAKA-TOM’s diary

③岡ミサンザイ古墳

藤井寺市藤井寺4丁目。前方後円墳で全長242mは全国16位の規模、5世紀末の築造と推定される。世界遺産。第14代「足仲彦たらしなかつひこ仲哀天皇」の『恵我長野西陵えがのながののにしのみささぎ』に治定されている。ただし仲哀天皇非実在性が強く、築造年代も仲哀天皇の想定年代に合わないことから、現在では第21代雄略天皇(没年479年)や、同天皇と同一視される倭王武(『宋書倭国伝)、ワカタケル大王(稲荷山古墳出土鉄剣銘)の陵とする説もある。

(2015.9撮影)拝所制札       拝所               前方部北東望 

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鉢塚古墳 藤井寺4丁目3。岡ミサンザイ古墳の北側約100m。前方部が西向の前方後円墳で墳丘長60m。5世紀末~6世紀初めの築造と推定される。世界遺産、国の史跡。埋葬施設・副葬品は不詳。この他、5世紀末~6世紀築造の落塚古墳(消滅)という径20mの円墳もあった。いずれも岡ミサンザイ古墳の陪塚説がある。

割塚古墳 羽曳野市野々上ののうえ1丁目4。岡ミサンザイ古墳拝所の東側約200mにある一辺30mの方墳。詳細不詳だが4世紀末~5世紀初めの築造と推定され、国の史跡。この他、4世紀末~5世紀初め築造の岡古墳(消滅)という一辺33mの方墳があった。これらはは、築造時期が1世紀も早く、岡ミサンザイ古墳の陪塚とは考えられていない。

*ヒチンジョ池西古墳の石棺・野中寺

羽曳野市野々上5丁目9。高野山真言宗「野中寺やちゅうじ」の境内に、7世紀末~8世紀初頭築造と推定されるヒチンジョ池西古墳の石棺が保存されている。野中寺は寺伝で聖徳太子の命により蘇我馬子が創建したとある。太子が没したのは推古30年(621)だが、塔土壇の発掘調査で創建は推古6年(598)頃であることがほぼ確実で、寺伝は太子信仰の中で生まれたものとされる。当郷は百済系渡来氏族「船史ふなのふひと(後の船連)」の本貫。王辰爾おうしんにを祖とする百済王氏一族(6世紀後半頃から船舶関連を掌握)で、船氏・津氏・白猪しらい氏らが活躍しており、この船氏の氏寺と断定されている。

塔と金堂は向い合っていた。塔が西で金堂が東の配置は法隆寺類似だが、法隆寺は向かい合わず各々南面する。向き合う形は川原寺式だが塔と金堂は逆。「白鳳期官寺川原寺の変形配置」だと考えられる。
なお、境内墓地には浄瑠璃で有名な「お染・久松」の墓がある。

(2015.9撮影)山門   塔跡        金堂跡       石棺        案内

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④野中ボケ山古墳

藤井寺市青山3丁目。前方後円墳で墳丘長122m、後円部径65m・高さ11.5m、前方部幅107m・高さ13m。 6世紀前半の築造と推定される。第24代「億計おけ仁賢天皇」の『埴生坂本陵はにゅうのさかもとのみささぎ』に治定されている。17代履中天皇の孫=市辺押磐皇子いちのべのおしはのみこの子。23代顕宗の同母兄。『日本書紀』では、安康3年に父市辺押磐皇子が、雄略天皇に謀殺され、兄弟は丹波国与謝郡(丹後半島東半)に逃げ、後に播磨国明石や三木に隠れ住んだ。22代清寧天皇に子がなく、発見された兄が皇太子となった。清寧が崩じた時、兄弟が皇位を譲り合い、その間飯豊皇女が執政したともある。結果、先に弟である弘計をけ顕宗天皇が即位したが3年で崩御し、兄の仁賢天皇が即位した。南東のくびれ部に造出しがあり、周濠で囲まれている。外堤調査で、後円部北東側堤と前方部北西側堤で円筒埴輪列、前方部北西側堤に接する斜面で2基の埴輪窯が発見されている。

野々上ののうえ古墳 羽曳野市野々上丁目。野中ボケ山古墳前方部西角の北東60m。1辺約20mの方墳で、出土埴輪から4世紀後半の築造と推定される。時期的に2世紀程ずれがあるが、仁賢天皇陵の「い号陪塚」として宮内庁が管理している。

(2015.9撮影) 制札    拝所           拝所横東望       遠景北望

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⑤峯ヶ塚古墳 

羽曳野市軽里かるさと2丁目。前方後円墳で、長さ96m、後円部径56m・高さ9m、前方部幅74.4m・高さ10.5m。5世紀末~6世紀初の築造と推定される。世界遺産、国の史跡。江戸時代は日本武尊やまとたけるのみこと白鳥陵に比定されていた。また允恭天皇皇子の木梨軽皇子きなしのかるみこの墓との伝承もあった。1992年(H4)の発掘で、後円部墳頂中央部の石室から、銀や鹿角製等の装飾付の大刀、鉄鏃、挂甲小札けいこうこざね等の武具、轡くつわ・鐙あぶみ等の馬具という軍事的な副葬品や、装飾品となる金銅製の冠帽や帯金具、魚佩ぎょはい、銀製の垂飾りや花形飾り、ガラス玉や石製玉類等が見つかり、総数は3500点以上に及んだ。また成人男性の骨や歯も出土。また内濠幅約11m・内堤幅約18m、外濠幅約8mの二重濠をもち、墓域総長約168m、幅約148mと判明した。古墳時代後期には古墳が全般的に縮小するなかで、二重濠古墳を築造できた被葬者は大王級の権力者だったと推測される。発掘は中断され、一帯は峰塚公園として整備されている。

(2015.9撮影) 公園案内       展望広場からの遠景        案内

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⑥西浦白髪山しらがやま古墳

羽曳野市西浦6丁目。前方後円墳で墳丘長115m、後円部径63m・高さ10.5m、前方部幅128m・高さ11m。 出土円筒埴輪の破片の特徴から、6世紀前半築造と推定される。21代雄略天皇の子=第22代「白髪武広国押稚日本根子しらかのたけひろくにおしわかやまとねこ清寧天皇」の『河内坂門原陵こうちのさかどのはらのみささぎ』に治定されている。前方部幅が後円部径の約2倍あり、前方部が大きいのが特徴。後円部から外環状線を挟んだ東側にある小白髪山古墳(墳頂46mの前方後円墳)が清寧陵の「い号陪塚」に治定されている。

(2015.9撮影) 制札    拝所           北側東望     (2019.2撮影)小白髪山古墳東望

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⑦市ノ山いちのやま古墳

藤井寺市国府1丁目。前方後円墳で、墳丘長227mで全国20位。後円部高さ22.3m、前方部高さ23.3m、各3段築成。出土埴輪等から5世紀後半の築造と推定される。世界遺産。第19代「雄朝津間稚子宿禰をあさづまわくごのすくね=允恭いんぎょう天皇」の『恵我長野北陵えがのながののきたのみささぎ』に治定されている。16代仁徳天皇の第四皇子。17代履中天皇・18代反正天皇の同母弟。『宋書』・『梁書』の倭の五王の「済」比定説もある。2基の陪塚が治定されている。前方部東側住宅街の小さな国府衣縫塚公園の東に隣接する衣縫塚古墳(「ろ号飛地」。径約20mの円墳。5世紀後半)と後円部東側住宅街、潮音寺・国府八幡神社の南に隣接する宮の南塚古墳(「は号飛び地」。径40m・高さ9mの円墳。5世紀後半築造)。なお、衣縫塚古墳周辺には、埋没していた5世紀後半の兎塚古墳・兎塚2号墳等いくつかの埴輪円筒棺墓が見つかっており、これらも陪塚と考えられている。

(2015.9撮影) 参道    拝所           西側南望         西側北望

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⑦唐櫃山からとやま古墳

藤井寺市国府1丁目1。市ノ山古墳後円部の南東、土師ノ里駅の12号線挟んで北側。帆立貝形古墳で、墳丘長53m、後円部径38m、前方部幅21m。5世紀代築造と推定される。国の史跡。1955年(S30)、道路工事で後円部を含む墳丘の大半が消失。後円部には主軸と平行して 竪穴式石槨があり、阿蘇溶結凝灰岩製の家形石棺が納められていた。

長持山古墳(消滅) 藤井寺市沢田。市ノ山古墳の後円部の西南に位置した円墳で、その陪塚とみられたが、宮内庁の指定から漏れ、墳丘は滅失している。家形石棺が墳頂に露出していたのがその名の由来。1877年(M10)頃、当時の堺県県令の税所篤さいしょあつしが南側石棺を発掘して、棺内に銅器・鉄剣があり、棺外の土中に甲が埋まっているのを見たという。1946年(S21)大阪府と京大考古学研究室が北側にあった別の石棺を調査した。この石棺は、蓋・身ともに両端に大きな円形突起のある古い形式の家形石棺で、川原石を積んだ長さ3.4m、幅1mの竪穴式石室に納められていた。石室の北部棺外に、衝角付冑しょうかくつきかぶと、挂甲けいこう1具、鞍・鐙・轡・杏葉ぎょうよう等の馬具類、刀、矛、鏃、鍬などが副葬され、南部棺外にも短甲が見つかった。その他原位置から移動しているが、帯金具破片、ガラス小玉、須恵器片等が棺の内外から検出された。挂甲は完形で、肩甲かたよろい、膝甲ひざよろい、籠手こて、臑当すねあてを添え、鐙は木心鉄板張、鞍金具は金銅製。南側の家形石棺には突起がなく、北側の石棺より新しい形式とされる。現在、2つの石棺は藤井寺市立道明寺小学校に保存されている。

⑧鍋塚古墳

藤井寺市沢田4丁目5。下記仲津山古墳後円部の北東すぐ。一辺63m(現状40m程)・高さ7mの方墳。世界遺産、国の史跡。濠があった可能性がある。葺石と埴輪列が確認されている。円筒埴輪の他、家形・盾形・靫ゆき形・蓋きぬがさ形の形象埴輪が出土。円筒埴輪には野焼き焼成でできる黒斑があり、類似の埴輪が出土した仲津山古墳との関係がうかがえる。

(2015.9撮影) 案内     墳丘北望        墳頂から允恭陵     墳頂から仲姫陵

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⑧仲津山古墳

藤井寺市沢田4丁目。前方後円墳で全長290m、古市古墳群で誉田御廟山古墳に次ぎ、岡山県の作山古墳と同じく全国9位。後円部径170m・高さ26.2m・3段築成、前方部幅193m・高さ23.3m・3段築成。古市古墳群の巨大前方後円墳では、津堂城山古墳に次いで古く、出土埴輪の特徴から、5世紀前半の築造と推定される。世界遺産、周堤部が国の史跡。「第15代応神天皇の皇后=16代仁徳天皇の母=『日本書紀』では仲姫命」の陵に治定されている。葺石と埴輪が確認され、くびれ部の両側には造出しがある。主体部は不明だが、石棺の存在や勾玉の出土が伝えられている。陪塚として、下記⑨三ツ塚古墳の八島塚中山塚が治定されている。

⑧古室山こむろやま古墳 

藤井寺市古室2丁目4。上記仲津山古墳前方部の南西すぐ。前方後円墳で、墳丘長150m、後円部径96m・高さ15m・3段築成、前方部幅100m・高さ9m・3段築成。4世紀末~5世紀初頭の築造と推定される。世界遺産、国の史跡。墳丘表面では葺石・円筒埴輪列・形象埴輪(家形・盾形・靫形・蓋形・冑形)が検出されているほか、墳丘東側くびれ部には造出しがある。また墳丘周囲には周濠・周堤が巡らされ、堤内側斜面においても葺石が認められた。主体部は不詳だが、後円部墳頂にある板石の存在から竪穴式石槨と推定される。副葬品は不明。古市古墳群では最初の大王墓と目される津堂城山古墳と同時期とされ、巨大前方後円墳(大王墓)に次ぐ大型前方後円墳として、当時のヤマト王権の政治階層を示す古墳といえる。

(2015.9撮影) 制札     拝所          前方部南東望       古室山古墳方面

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松川塚古墳 藤井寺市古室2丁目1。近鉄電車線路南沿い。20mの方墳で、5世紀後半の築造と推定される。国の史跡ではあるが、保存状態は良くない。

⑨三ツ塚古墳

藤井寺市道明寺どうみょうじ6丁目12。上記仲津山古墳の後円部から南側120m程、東から八島塚、中山塚、助太山古墳が並び、3基総称して三ツ塚古墳と呼ばれる。3基とも方墳で世界遺産。八島塚と中山塚は一辺50m。助太山は一辺35mで、他の2基の3分の2の平面を持ち国の史跡。3基とも同時に築造されたと考えられるが、5世紀前半説と7世紀説がある。八島塚は仲姫命陵の「ろ号陪塚」、中山塚は「い号陪塚」に治定されている。一つの周濠内に3基の古墳が並んで存在しており、周濠幅は10m~15mで、八島塚と中山塚との間は20m、中山塚と助太山との間は15mなので、濠を含めた3墳の総規模は東西195m、南北80mになる。八島塚と中山塚の間の周濠から修羅と呼ばれる大小2つの木製ソリが出土したことが有名。今は、間にマンションが建っている

⑨楯塚古墳跡

藤井寺市道明寺6丁目6。府営住宅建設時に調査され消滅。現在公園内に復元されている。帆立貝式前方後円墳で5世紀初頭。全長110m、墳長73m、後円部径46m・高さ7.5m。前方部幅20m・高さ約7.8m。造出しと周濠も確認された。主体部は粘土槨で、後半部の長さ7.8m・幅1.8mの割竹形木棺が納められていた。木棺内外からは鉄製武器(刀(片刃)51、剣(両刃)22、矛3、鏃375)・武具(方形革綴式短甲・三角板革綴式衝角付冑・三尾鉄さんびてつ=冑頂の装飾品、革製盾11)・農道具・変形獣形鏡・玉類・石釧いしくしろ・筒形銅器等が出土した。前方部に埋納施設があり、刀40・剣15・鎌2・鍬4・斧20等を検出。甲冑が鋲式ではなく革綴のみで、馬具や須恵器も出土していないため、誉田御廟山古墳以前の仲津山・古室山・二ツ塚と同時期と思われる。

なお、楯塚の西側に金塚しゅきんづか古墳(消滅。一辺27m・高さ4mの方墳。5世紀前半。2基の粘土槨で、南側割竹形木棺と北側組合式木棺から銅鏡、玉類、鉄製武器、武具出土)・金塚西古墳(消滅。一辺30mの方墳、5世紀中頃)。北側に鞍塚古墳(消滅。51mの帆立貝形前方後円墳。箱形木棺から銅鏡、玉類、武器、武具等出土)があった。なお、楯塚含めこれらは誉田御廟山古墳の陪塚だったとされている。

(2015.9撮影) 八島塚南東望 中山塚南西望      左=中山塚 右=助太山  楯塚古墳跡

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⑩大鳥塚古墳

藤井寺市古室2丁目8。誉田御廟山古墳の北東すぐ、西名阪道南側に隣接。前方後円墳で全長約110m、後円部径73m・高さ約12m、前方部幅50m・高さ6m。埴輪の特徴から、5世紀前葉の築造と推定される。世界遺産、国の史跡。葺石と円筒埴輪列が確認され、くびれ部の両側に造出しがある。副葬品として銅鏡2面、鉄剣、鉄刀、鉄矛、鉄鏃が出土したと伝えられ、円筒埴輪、家形・蓋形・盾形・靫形・冑形等の形象埴輪も出土。

赤面山せきめんやま古墳 大鳥塚古墳北側、西名阪道の下。墳丘一辺15mの方墳と考えられる。大鳥塚古墳と同時期の5世紀前半と推定される。国の史跡。大鳥塚古墳の陪塚とされている。

狼塚おおかみづか古墳(消滅) 大鳥塚古墳の南東にあった径28mの円墳。囲形かこいがた埴輪が出土。8つの箱形パーツを組み合わせ、一辺につき2つずつ箱を直列させ、1.2m四方の範囲を囲っていた。囲った内部には、小ぶりの川原石を敷き詰め、その上に凹みをつけた羽子板形の粘土板が置かれていた。浄水祭祀場をかたどった埴輪との説もある。

(2015.9撮影) 西側北東望 前方部東望       赤面山古墳北西望  大鳥塚から誉田御廟山古墳南望

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⑪誉田御廟山古墳

羽曳野市誉田こんだ前方後円墳で、全長約425mは堺市大仙陵古墳に次ぐ全国2位の規模。後円部径250m・高さ35m・3段築成、前方部幅300m・高さ36m・3段築成。外提出土の須恵器埴輪等から5世紀初頭の築造と推定される。世界遺産、外濠外提が国の史跡。第15代「誉田別ほむだわけ応神天皇」の『恵我藻伏崗陵えがのもふしのおかのみささぎ』に治定されている。周りには二重の堀をめぐらし、広大な内濠の外には幅約48mの中提があり、その外に築造当時は幅約35mのもう一重の濠(外濠)があった形跡があり、さらにそれを巡る外提は幅約15mあったと推定されている。濠の水深は1.7~2.5mと大仙陵古墳よりかなり深い。二重の濠と外堤が築造されたのは西側だけで、東側の外濠や外堤は築造されなかったことも明らかになっている。また造営前から二ツ塚古墳が存在しており、それを避けるように造ったため、東側の周濠と内堤が歪んでいる。

墳丘斜面には一面に 葺石が敷かれ、テラス部分には推定2万本に及ぶ円筒埴輪が並べられていたと思われる。埴輪の種類も多く、円筒埴輪、蓋形・家形・盾形・甲形・草摺くさずり(胴につけ腰回り・下半身を防御するもの)・水鳥形・馬形等の形象埴輪で、中には口径50cm、高さ1mを越える大型のものも使用されていた。内濠からは土師器と共に魚形土製品が10個出土(鯨・烏賊・蛸・鮫・海豚等)。埴輪は全て穴窯で焼かれている。後円部側の外濠外部で馬形埴輪等も出土。直径74cmの笠形の木製品も出土している。

埋葬施設は、竪穴式石槨に長持形石棺が納められていると考られる。古墳の南側にある誉田八幡宮に、竪穴式石槨と長持形石棺の一部と推定される石が残されている。

(2015.9撮影) 制札    拝所           前方部東望       後円部南東望

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⑪古市丸山古墳(誉田丸山古墳)

誉田御廟山古墳の拝所参道左手に所在。径45~50m・高さ7mの大規模円墳。世界遺産。応神陵の「域内陪塚」に治定されている。造出しが付く可能性も指摘され、周濠・葺石・円筒埴輪列・形象埴輪が確認されている。当古墳の副葬品と伝えられる馬具等が誉田八幡宮に所蔵されている。金銅製龍文透彫鞍金具2組、鉄地金銅張方形鏡板1点、金銅製歩揺付飾金具20点、三角板鋲留式短甲、直弧文刀装具、鉄刀、鉄鉾、片刃長頸式鉄鏃で、馬具類は日本最古の優品で、一括して国宝に指定されている。

⑪二ツ塚古墳

誉田御廟山古墳の東側周濠・内堤に食い込むように隣接。前方後円墳で、周濠を含む総長は140m、墳丘長110m。後円部径73m・高さ10.1m、前方部幅60m・長さ50m・高さ8.6m。4世紀後半の築造と推定される。世界遺産。応神陵の「域内陪塚」として宮内庁管理。くびれ部の幅は46mで、葺石が全面を覆う。

(2015.9撮影)丸山古墳   (2019.2撮影)二ツ塚北望  南西望

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⑪その他周辺陪塚等

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東馬塚古墳 一辺30m、高さ3.5mの方墳。5世紀前半、世界遺産。応神陵「い号陪塚」として宮内庁管理。円筒埴輪出土。

茶山1号墳(消滅) 約11mの方墳。5世紀後半。

栗塚古墳  一辺43m、高さ5mの方墳。5世紀前半、世界遺産。応神陵「ろ号陪冢」として宮内庁管理。

(2019.2撮影)東馬塚遠景北望 近景          栗塚北西望        近景

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野中アリ山古墳(消滅) 藤井寺市野中2丁目、陵の外濠からは僅かに40mで、陪塚と考えられる位置にあった。5世紀前半、一辺45m・2段築成の方墳だった。1958年(S33)の発掘調査で、墳丘南側裾に円筒埴輪列が発見された。また墳丘中央の埋葬施設と、それを挟んで南北に副葬品埋納施設が発見された。中央施設は木棺直葬で、鉄槍先40口、蕨手刀子わらびてとうす5本、鉄鉾先3口、鉄鏃70本、鉄鍬2個、鉄斧8個、土師壷形土器1個が出土。南施設からは、薄い短冊状の帯状鉄板15個以上が出土。北施設からは、鉄刀77口、蕨手刀子151個、鉄剣8口、鉄鑿90本、鉄槍先8口、鉄錐1本、鉄矛先1口、鉄鉇やりがんな14本、鉄鏃1542本、異型鉇その他4本、鉄斧頭134個、鉄鋸7本、鉄鎌201個、鉄鍬49個、土製丸玉11個、鉤状鉄器412本が出土し、埋納を目的とした施設と思われる。
東山古墳 消滅したアリ山古墳の南側、11mの平坦地を挟んで、東西57m・南北54m・高さ7mの方墳がある。アリ山古墳と同時期、5世紀前半の築造と推定される。世界遺産、国の史跡。両墳とも墳丘の向きが同じで、緊密な関連の下に築造されたと推測される。

サンド山古墳 藤井寺市藤ケ丘1丁目9。藤ケ丘会館の南に隣接。30m程だが墳形不詳。5世紀〜6世紀前半の築造と推定される。応神陵「へ号陪塚」として宮内庁により管理されている。南西200mに、径15~20mの円墳=サンド山2号墳(消滅)があり、さらにその東側に、直径22mの円墳=藤ノ森古墳(消滅)と、墳丘長53mの前方後円墳=蕃上山古墳(消滅、巫女形等の人物埴輪出土)があって、別のまとまりの古墳群と考えられている。

*蕃所山古墳 

応神陵陪塚には治定されていないが、藤井寺市藤ケ丘2丁目5に径22m・高さ3mの円墳がある。5世紀〜6世紀前半の築造と推定される。国の史跡。今では道路のロータリーっぽい。円筒埴輪出土。

⑫はざみ山古墳

藤井寺市野中1丁目。外環状線の東に隣接。前方後円墳で長さ103m。5世紀中頃築造と推定される。世界遺産、国の史跡。前方部は東向きで、一重の周濠を有する。後円部周濠の一部は埋立てられ、その一部は民有地になっている。南に、県道31号を挟み、野中宮山古墳がある。

⑫野中宮山古墳

藤井寺市野中2丁目。前方後円墳で、全長154m、後円部径約100m・高さ約14m、前方部幅75m・高さ約10m。5世紀前半の築造と推定される。後円部上には野中神社、前方部には幼稚園がある。後円部頂に板石が散乱しており竪穴式石槨と考えられる。葺石と円筒埴輪列の存在も確認され、南側造出しから家形・蓋形・盾形・囲形・水鳥形・鶏形・馬形・猪形等の形象埴輪が出土。

(2015.9撮影)はざみ山南面 (2019.2撮影)野中宮山後円部 前方部         後円部北望

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⑫稲荷塚古墳

藤井寺市野中5丁目14。野中宮山古墳から外環状線を挟み西南西に250m程。元は50mの帆立貝式前方後円墳。5世紀末頃の築造と推定される。国の史跡。周囲には濠があって、前方部を西に向けていたらしいが、現在は後円部のみで、住宅に囲まれている。

⑬墓山古墳

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羽曳野市白鳥はくちょう3丁目。前方後円墳、全長約225mで古市古墳群では5番目、全国22位の規模。後円部径約135m・高さ約20.7m・3段築成、前方部幅約153m・高さ19m・3段築成。5世紀前半の築造と推定される。世界遺産、国の史跡。宮内庁により応神陵の「ほ号陪塚」に治定されている。葺石と埴輪が確認され、くびれ部の両側に造出し、周囲に幅約15mの濠と幅約37mの堤をめぐらしている。後円部墳頂では亀甲紋を陰刻した竜山石製の長持形石棺の蓋石が露出していたことが報告され、周辺から出土したと伝えられる滑石製勾玉や形象埴輪が宮内庁に保管されている。周囲の5つの野中・向墓山・浄元寺山・西墓山(消滅)・西馬塚古墳は陪塚とも考えられている。

(2019.2撮影)後円部南東望 前方部北西角       前方部正面       前方部南西角 

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(2019.2撮影)後円部北望  後円墳南西望      後円部遠景西望       案内

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⑫野中古墳

藤井寺市野中3丁目。一辺37mで2段築成の方墳。5世紀前半~中頃の築造と推定される。世界遺産、国の史跡。組合式木棺と木櫃からなる内部主体が5列に並列していて、人体埋葬は第2列の木棺のみで、他の4列は副葬品埋納施設と考えられる。1964年の発掘調査で短甲11領と冑11が出土。全国2位の甲冑出土量で、短甲は3種類、うち2つは三角板鋲留短甲・横矧板よこはぎいた鋲留短甲で5世紀を代表する短甲。もう1種は三角板革綴襟付短甲で、背中から首にかけて守る短甲で、全国でも10数例しかなく、当古墳ではその内の3例が出土。また、冑では小札こざね鋲留眉庇まびさし付冑と革製衝角付冑の2種類が出土。三角板鋲留短甲と横矧板鋲留短甲には小札鋲留眉庇付冑が付属し、三角板革綴襟付短甲には革製衝角付冑が付属。この革製衝角付冑には冑頂に鉄地金銅張三尾鉄が付属し、11領の甲冑の中でも特別な3領の甲冑であったと考えられる、鉄刀153本と鉄剣16本、鉄鏃約740本が出土。なかでも鉄剣3本と鉄刀9本は、11領の甲冑に付属するように出土。農工具では斧頭30、錐状工具片4、穂摘具や切削具と考えられる手鎌35、U字形の刃先をもつ鍬先や鋤先(半島から伝来した最新式の農具)、鎌鑿状工具、木材を削る為の鉇、鉄鋌てってい36Kg以上、石製品では赤色顔料のベンガラを砕くための砂岩製の石臼と石杵、滑石製模造品と呼ばれる斧や鎌・勾玉・紡錘車を模したもの、刀子を模した模造品が約80出土している。南側の墓山古墳の陪塚とも考えられている。

(2019.2撮影) 案内     北西望         西望          北側見下ろし

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⑬浄元寺山古墳(前墓山古墳とも)

藤井寺市青山1丁目2。一辺67m・高さ9.7mで2段構築の方墳。幅11.4~14.6mの周濠があり(現在埋没)、外周含め全長98m。5世紀中頃の築造と推定される。世界遺産、国の史跡。葺石が敷かれ、墳丘上に埴輪配列もあり、円筒・形象埴輪等を採取。東側の墓山古墳の陪塚とも考えられている。

(2019.2撮影) 案内    北西望          北東望          西面

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西墓山古墳(消滅) 浄元寺山古墳のすぐ南側にあった1辺18mの方墳。埴輪から5世紀前半~中頃の築造と推定される。人体の埋葬施設は確認できず、副葬品のための陪塚とみられている。鉄器埋納遺構は東西2列で、東列は長さ5.2m、幅70cm~80cmで、その範囲内に大刀、剣、短剣、槍、矛など232点以上の鉄器が収められていた。西列は長さ6.2m、幅60cm~80cmで、短剣、刺突具、鋤先、斧、刀子、釶、異形釶、鑿、錐、鋸など1168点以上の鉄製品、斧形滑石製品10点以上、鎌形滑石製品1点以上が収められていた。鋤先には明瞭な刃部を持たないものが大半で、刀子も刃部を形成しない模倣品と認められ、実用には使えない。またこれら鉄器類には使用痕跡も認められず、埋納するための儀礼的性格の鉄器類と考えられる。 円筒埴輪列は北辺で16個体、南辺で31個体、朝顔形・形象埴輪の破片が多数発掘されている。墓山古墳の陪塚の一つと考えられている。

⑬向墓山むこうはかやま古墳

羽曳野市白鳥3丁目12。古墳時代中期の最大級の方墳で、東辺68m・西辺62m・南北両辺62m・高さは10m前後。5世紀初頭の築造と推定される。世界遺産宮内庁によって応神陵「に号陪塚」として治定されている。墳丘は上下2段で、台地先端の地形を利用し、斜面に寄せかけて墳丘を築くことで実際の盛土以上に大きく見せている。浄元寺山古墳と規模が近似し、同一企画の可能性もある。墳裾部分には葺石の根石列があり、その石材(20cm~40cm)は石英安山岩や輝石安山岩二上山に連なる寺山や春日山山麓付近で採取したと推定され、4~6kmを運んだことになる。根石から上の墳丘斜面は5cm~15cmの円礫の葺石で一面に覆われており、1km東の石川で集めた石と考えられる。墳丘周囲は場所によって二重の溝によって囲まれている。なお、溝を掘る際に地山を掘り残して造った2ヶ所の陸橋が検出されており、外部から墳丘へ登るための通路と思われる。埴輪では、家形・蓋形・盾形・水鳥形等形象埴輪の細片が出土しているが、円筒埴輪と朝顔形埴輪はすべてが野焼時の黒斑のあるもので、5世紀初頭の時期が推定できる。 

(2019.2撮影) 南東望   案内           南望          北東望

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墳丘西横にプレハブの「羽曳野市文化財展示室」があり、栗塚古墳・茶山遺跡出土の埴輪が展示されている。

(2019.2撮影) 案内     展示例 

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⑬西馬塚古墳

羽曳野市白鳥3丁目12。古墳時代中期の最大級の方墳で、墳丘長は45m、高さは9.4m。5世紀後半の築造と推定される。世界遺産宮内庁が応神陵「ほ号陪塚」として管理している。円筒・朝顔形・家形・蓋形・盾形・水鳥形埴輪などが採取されており、墳丘には埴輪の配列がなされていた。葺石が墳丘に施されていたとみられる。

(2019.2撮影) 東面     案内          北東望          西面

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⑬青山古墳

藤井寺市青山2丁目。円墳で径62m・高さ10m・2段築成。墳丘南西部分に、幅25m・長さ17mの方形突出=造出しをもち、それを含めると全長72mとなる。5世紀中葉の築造と推定される。世界遺産、国の史跡。墓山古墳等との関連性は指摘されていない。墳丘まわりに濠が巡る。濠では、円筒埴輪や家形・蓋形・盾形・靫形・馬形・人物形等の形象埴輪が出土。1987年(S53)住宅造成の際に発掘調査を実施し、前方後円墳1基、方墳4基を検出し、青山2~6号墳と名付けられ、青山古墳群とされた。これらは5世紀中葉~末葉にかけての築造と推定される。この青山1~6号墳は東と西の大きく二つのまとまりに分けられ、東のまとまりは1号墳→4号墳→2号墳の順、西のまとまりは6号墳→5号墳→3号墳の順に造られたことが判明した。5世紀中葉~末葉にかけ二つの集団の長が3世代にわたり、一定の共通の空間の中で古墳を造り続けた結果であると考えられて、この二つの集団はお互いに親密な関係にあったことも想定される。1999年(H11)に青山古墳(1号墳)の東側で実施した調査でも円墳1基が見つかり、青山7号墳と名付けられた。なお、青山古墳群の南側の羽曳野市域では軽里古墳群が見つかっており、立地からして、二つの古墳群は相互に関連づけて考えられた。

(2019.2撮影)北望   案内        造出し南西面    南東望       西望

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⑭軽里大塚古墳(前の山古墳・白鳥陵古墳とも)  

羽曳野市軽里3丁目。前方後円墳で、全長約190mは古市古墳群で7番目の規模。後円部径約106m・高さ約20m・3段築成、前方部幅約165m・高さ約23m・3段築成。5世紀後半の築造と推定される。世界遺産、周堤が国の史跡。「12代景行天皇の子=14代仲哀天皇の父=日本武尊やまとたけるのみこと」の『白鳥陵しらとりのみささぎ』に治定されている。  くびれ部の両側には造出しがある。周囲には幅約35mの周濠と上面幅21mの堤が巡る。主体部や副葬品は不明。1981年発掘調査で、後円部の円筒埴輪列が確認されたほか、朝顔形埴輪や家形、蓋形等の形象埴輪が出土。出土品や、前方部幅が後円部径に比べて約1.5倍もあるという墳形上の特徴から、市ノ山古墳とほぼ同時期と推定されている。4世紀前半とされる景行期とは、100年以上時期が下る。なお、『古事記』では、「亡くなった地=三重の能煩野のぼので妻子が墓を造ったが、魂が白鳥となり河内国に留り陵を起こし、その後また白鳥となって、ついに昇天した」とある。『日本書紀』では、「父の景行天皇が能褒野のぼのに陵を造り葬ったが、白鳥になってヤマトの国を目指して飛び立ち(現御所市)琴弾原ことひきのはらに留った。そこでも陵を造るが、白鳥はさらに飛んで河内の(現羽曳野市)旧市邑ふるいちのむらに留まったので、ここにもまた陵を造ったが、ついに天に昇っていった。当時の人は、この三つの陵を名付けて白鳥陵という」とある。結果、墓を「能褒野墓」と定め、御所市と羽曳野市の各々の「白鳥陵」を能褒野墓に附属するものとしている。

(2015.9撮影) 参道     制札          拝所           案内

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⑮高屋築山古墳 

羽曳野市古市5丁目6。前方後円墳で、墳長122m、後円部径78m・高さ13m、前方部幅100m・高さ12.5m。6世紀初頭の築造と推定される。第27代「広国押建(武)金日ひろくにおしたけかなひ安閑天皇」の『古市高屋丘陵ふるちのたかやのおかのみささぎ』に治定されている。室町時代後半に畠山氏の高屋城の本丸がおかれ、元々の形態が大きく改変されている。

(2015.9撮影) 制札         拝所              南面

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⑮高屋八幡山古墳

羽曳野市古市5丁目10。高屋築山古墳後円部から南へ200m。現状は一辺約30〜40m、高さ7.2mの方形状墳丘だが、元は90mの前方後円墳と判明している。6世紀初頭前後の築造と推定される。「第27代安閑皇后の春日山田皇女」の『古市高屋陵ふるちのたかやのみささぎ』に治定されている。中世に高屋城の築城あるは落城の際に破壊、削平された模様。円筒・朝顔形埴輪や家形・人物等の形象埴輪が出土。円筒埴輪に黒斑はなく、土師質のものと須恵質の両者が並存。また周辺一帯を所有していた江戸時代から続く旧家には画文帯神獣鏡1面、琥珀玉1点、金銅製飾履破片、鉄剣破片数点が所蔵されており、この古墳出土の遺物である可能性が高い。

【参考】

藤井寺市文化財分布図2020_表 (PDFファイル: 791.5KB)

https://www.city.fujiidera.lg.jp/material/files/group/9/fujiiderabunpuzu_omote.pdf

藤井寺市文化財分布図2020_裏 (PDFファイル: 4.0MB)

https://www.city.fujiidera.lg.jp/material/files/group/9/fujiiderabunpuzu_ura.pdf

珠城山古墳群・纒向古墳群

珠城山古墳群、纒向古墳群(巻野内石塚古墳・小川塚西古墳・北口塚古墳・ホケノ山古墳・箸墓古墳・東田大塚古墳・纒向矢塚古墳・纒向勝山古墳・纒向石塚古墳)、纏向遺跡

2021年8月コロナ禍で古墳散策を自粛しており、空いた時間でブログにあげていなかった過去の散策地を記事化したものです。

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珠城山古墳群

上図①。奈良県桜井市穴師。渋谷向山古墳(景行陵)の南400mに位置する。6世紀代の前方後円墳が3基あったが、3号墳は昭和33年の採土工事で削平されている。なお、一帯は第11代垂仁天皇期の纏向珠城宮伝承地ともなっている。

1号墳は前方部が東向きの前方後円墳で、墳丘は全長53m、後円部径20m、前方部長32m・幅20m。横穴式石室が後円部南側に開口する。羨道は滅失しているが、右片袖式で、玄室の長さ3.4m、幅は奥壁で1.65m、高さは約2m。玄室中央には主軸に合わせて凝灰岩製の組合式石棺が据えられていた*。棺内には遺骨の一部が残り、玻璃製小玉、琥珀製棗玉が、また棺外では、奥壁沿いに須恵器・土師器、棺の東側には馬具・太刀が配置され、棺の西側では甲冑のほか、見事な馬具が検出された。これらの副葬品はかなり豪華なもので、石室内には埴輪片もあるなど、小規模ながら、そこそこ有力な被葬者が考えられる。  *石棺は橿原考古学研究所附属博物館前庭に移設されている。

(2019.7撮影) 案内(少し墳丘の測量値が違う)     1-2号墳登り口      1号墳石室進入路 

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*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

(2019.7撮影) 1号墳石室        大きさ比較(私は170cm)

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2号墳は前方部西向きの前方後円墳。全長75m、後円部径40m、前方部幅40m。後円部は前方部より2mほど高い。埋葬施設等は不明だが、墳形からして、3基中最も早く営まれたと推察されている。おそらく2号→3号→1号の順に築かれたとのこと。削平された3号墳の後円部と前方部には横穴式石室があり、馬具や環頭太刀等が出土たらしい。2号墳の北側には平安時代の木棺墓、3号墳前方部の石室からは火葬墓が見つかり、古墳時代以後も葬地として使われていたと推定される。

(2019.7撮影)2号墳へ  案内        後円部墳頂西望  前方部方面     3号墳案内

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巻野内石塚古墳・小川塚西古墳・北口塚古墳

上図②。桜井市巻野内まきのうち。巻野内石塚古墳は本来全長60m・後円部径40m・前方部長20mの纒向型(帆立貝式)前方後円墳だが、現状は径40mの円墳状。詳細は以下を参照ください。

巻野内石塚古墳 - OSAKA-TOM’s diary

ホケノ山古墳

上図③。桜井市箸中。古墳時代前期初頭の纒向型(帆立貝式)前方後円墳。全長約80m、後円部径約55m・高さ約8.5m・3段築成、前方部長約25m・高さ約3.5m。

ホケノ山古墳のすぐ南の三差路を、西に向かえば箸墓古墳、東には慶運寺裏山古墳、そこから南に茅原大墓古墳と続く。詳細は以下を参照ください。

ホケノ山古墳周辺 - OSAKA-TOM’s diary

箸墓古墳

上図④。桜井市箸中。正式考古学名は箸中山古墳。古墳時代初頭=3世紀中~後半の最古の定型化前方後円墳とされている。「大市墓おおいちのはか」として第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命やまとととひももそひめのみこと(『古事記』では夜麻登登母母曾毘売命やまととももそびめ)の墓に治定され、宮内庁により管理されている。

現状の規模は墳長278mで全国規模第11位。後円部径約150m・高さ約30m、前方部前面幅約130m・高さ約16m。前方部は後円部よりやや狭く、緩やかな曲線を描く撥形(6Cになると、後円部の2倍近くまで前方部は広がる)。 周辺の調査から、本来はもう一回り大きかったとも言われる。前方部側面の段築は不明瞭だが、前面に4段の段築があるとされる。後円部は5段築成(4段築成で、その上に径約45m、高さ4mの土壇が載ったものとする研究者もいる)で、5段は箸墓古墳のみで、4段築成(3段築成+後円部小円丘)西殿塚古墳(大和古墳群)、行燈山古墳(崇神陵=柳本古墳群)、渋谷向山古墳(景行陵=柳本古墳群)、桜井茶臼山古墳(鳥見山古墳群)、メスリ山古墳(鳥見山古墳群)、築山古墳(馬見古墳群)等が考えられ、他の陵墓クラスの古墳は全て三段築成(後円部も前方部も三段)とされ、被葬者の格付けを表すのかも知れない。

1994年北側の池の水を抜いた発掘調査で、墳裾に幅10mの周壕、さらにその外側に幅15m以上の外堤、幅50m程の落込み(土坑)が確認された。巨大な最古の前方後円墳が周壕を持つことが分かった。また周濠底から布留ふる0式土器が出土し、古墳時代前期初頭の築造であることが確定した。前方部先端の北側の墳丘斜面には、川原石を用いた葺石が存在していることも確認されている。埋葬施設は不明だが、墳裾から玄武岩の板石が見つかっており、竪穴式石室が作られた可能性がある。この石材は、柏原市芝山の石と判明しており、崇神紀に記す大坂山(二上山)の石ではない。後円部の東南側の周濠部分では両側に葺石を積み上げた渡堤が見つかっている。

(2015.8撮影) 遠景西望  拝所           東望          南東望 

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この時期には埴輪列はまだ存在しないが、最古の埴輪である都月型円筒埴輪、宮山型特殊器台・特殊壺などが採集されており、これらが墳丘上に置かれていたことは間違いない。また岡山市付近から運ばれたと推測できる特殊器台・特殊壺が後円部上でのみ認められるのに対して、底部に孔を開けた二重口縁の壺形土師器は前方部上で採集されており、器種によって置く位置が区別されていた可能性が高い。

また箸墓古墳よりも古いと考えられている纒向石塚墳丘墓などの突出部と箸墓古墳の前方部との形状が類似していること、渡堤を備えていること、周濠が墳丘の規模に比べ狭いことなどから、箸墓古墳弥生時代の墳丘墓が飛躍的に巨大化したものであり、弥生墳丘墓の諸要素を継承したものであるとの説がある。
*箸墓よりも築造が古かったともされる出現期の前方後円墳(ホケノ山古墳、纒向勝山古墳、纒向矢塚古墳、神門5号墳、神門4号墳、辻畑古墳等)も多数ある。

また、全国各地に墳丘の設計図を共有すると考えられる古墳が点在することや、出土遺物に埴輪の祖形である吉備系の土器が認められることや、墳丘規模など、それまでの墳丘墓と明らかに一線を画しており、当古墳の築造をもって古墳時代の開始と評価する研究者も多い。

*2009年、箸墓古墳の築造年代を西暦240-260年頃とする国立歴史民俗博物館春成秀爾名誉教授の研究成果が報告された。この年代であれば卑弥呼死去年とほぼ一致するため、邪馬台国畿内説研究者の中には、卑弥呼の墓とする説もある。

東田大塚古墳

上図⑤。東田ひがいだ町字勝山。古墳時代前期初頭=3世紀後半の前方後円墳。南西側の前方部が削られ、現在は円墳状。被葬者は不明。本来の全長約120m、後円部径約68m・高さ9m、前方部長約50m。周濠幅約21m・深さ1.3m、葺石・埴輪なし。

(2015.8撮影) 遠景南望  近景南望         案内          後円部墳頂

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纒向矢塚古墳

上図⑥。桜井市東田町字勝山。2世紀後葉~3世紀前半の纏向型(帆立貝式)前方後円墳。全長約96m、後円部径約64m(東西約64m、南北約56m)・高さ5m、前方部長さ32m。周濠幅約17~23m・深さ約0.6m。葺石・埴輪なし。埋葬施設は未調査だが、墳頂部に板石が露出しているので竪穴式石室または、箱式石棺が考えられるとのこと。

(2015.8撮影)遠景北望       近景北望             案内 

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纒向勝山古墳

上図⑦。桜井市東田町字勝山。3世紀初頭の纏向型(帆立貝式)前方後円墳。全長約115m、後円部径約70m・高さ7m、前方部長45m。くびれ部幅26m。周濠幅約25m。埋葬者は不明で、葺石・埴輪なし。埋葬施設は未調査のため詳細不明。周濠くびれ部埋土中より検出されたヒノキ板材の年輪年代測定の結果、伐採年代は、新しく見積もっても210年頃と推定。周濠跡から出土した布留0式よりも旧い庄内2式期土器が出土、土器編年では3C前半。ただ、これも周濠跡からの出土のため築造時期の決め手に欠く。鍛冶関連の遺物も出土している。

(2015.8撮影) 後円部東望  北東望         案内           全景北望

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纒向石塚古墳

上図⑧。桜井市太田字石塚にある纒向型前方後円墳(または墳丘墓)。全長96m、後円部径64m(主丘部東西59m・南北45m)、前方部長約32m・幅約34m。後円部は不整形円形、前方部は三味線の撥状に開く。くびれ部の幅16m。周濠幅約20m。葺石および特殊器台・埴輪なし。未調査だが、後円部深淵部に埋葬施設があると考えられる。墳丘盛土内や周濠から多くの土器のほか、鋤・鍬・建築部材・鶏形木製品・弧文円板などの木製品が出土。周濠のヒノキ材は年輪年代法で西暦177年、西側周濠出土の庄内0式期土器は3世紀初頭、盛土内出土の庄内1式期土器は3世紀前半、導水溝出土の庄内3式期土器は3世紀中頃、結果、2世紀第4四四半期~3世紀前半で、纏向古墳群内では最古の可能性があり、前方後円墳成立期の古墳として注目されている。被葬者は不明。第二次大戦中には高射砲陣地の設営のために埋葬施設とともに墳丘の上部が大きく削平されている。

(2015.8撮影)南西望         案内               西望

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纏向遺跡  

上図⑨。詳細は以下を参照ください。

巻野内石塚古墳 - OSAKA-TOM’s diary

柳本古墳群

柳本古墳群(黒塚古墳、行燈山古墳、アンド山・南アンド山古墳、大和天神山古墳、櫛山古墳、渋谷向山古墳、上ノ山古墳、シウロウ塚古墳、柳本大塚古墳)

2021年8月コロナ禍で古墳散策を自粛しており、空いた時間でブログにあげていなかった過去の散策地を記事化したものです。

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黒塚古墳

上図①。奈良県天理市柳本町。古墳時代前期(4世紀初頭~前半)の前方後円墳

全長約130m、後円部径72m・高さ11m・3段築成、前方部長48m・高さ6m・2段築成。前方部と後円部の落差が大きく、また前方部正面がわずかに弧状に膨らんだ撥形で、いずれも前期古墳の特徴を示す。周濠はあるが、葺石や埴輪は確認されていない。1997年(H9)第3次調査で、三角縁神獣鏡33面(7組15面が同笵)と、それより少し古い画文帯神獣鏡1面が発見された。棺内の被葬者頭部に画文帯神獣鏡1面(径13.5cm)と両側に刀1・剣1を置き、棺外の壁とのわずかな隙間に、東壁側15面、西壁側17面の舶載(中国製)三角縁神獣鏡を内側に向け、木棺北半分をコの字形に取り囲むような状態で立てられていた。三角縁神獣鏡のこうした置き方は、葬儀用に作成されたもので、価値は低位という見解を補強するとの解釈もできる。他に刀剣類や鉄鏃・小札こざね・用途不明の鉄製品なども出土したが、玉類や腕装飾品類は出ていない。
後円部の埋葬施設は竪穴式石室で、内法長8.3m、北小口幅0.9m、深さ1.7m。二上山麓の春日山と芝山の板石を持送り状に積んで合掌造状の天井を形成している。石室内では、長さ6.2mの粘土棺床が設けられ、断面が半円形・直径1m以上のクワの刳抜式木棺が納められていた。木棺は、中央部の長さ2.8mの被葬者安置範囲のみ水銀朱を施し、両端スペースはベンガラの赤色で塗られていた模様。石室は、ほぼ真北を向き、被葬者の頭も真北に向いていたと推定されている。通常は石室を天井石で塞ぐことが多く、合掌造状の天井は珍しい。しかし、この形状は地震に弱く、中世の地震で天井部分が石室内に崩落し、結果的に盗掘に遭っても、崩落石材が阻んだと思われる。戦国時代には古墳に柳本城が築かれ、江戸時代には織田家が城跡に柳本陣屋を構築したため、庶民は立ち入れず、これも盗掘を防いだ要因と思われる。現在、天理市により柳本公園として整備され、古墳東側に隣接して、石室の実物大模型や全銅鏡のレプリカなどを展示する「天理市立黒塚古墳展示館」が設けられている。

(2015.8撮影)全景北望    案内          後円部東望        案内

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*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

(2015.8)前方部見下し    後円部墳頂石室跡    石室解説

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(2019.12)黒塚古墳展示館  石室レプリカ       銅鏡案内        銅鏡レプリカ例

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行燈山あんどんやま古墳、アンド山・南アンド山古墳

上図②。天理市柳本町。古墳時代前期(4世紀前半)の前方後円墳。「山辺道勾岡上やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ」として、第10代崇神天皇(『日本書紀』では御間城入彦五十瓊殖ミマキイリヒコイニエ、御肇國天皇ハツクニシラススメラミコト)の陵に治定され、宮内庁により管理されている。『古事記』では「山辺道勾之岡上」の所在とあり、『日本書紀』では「山辺道上陵」とある(景行陵と同名)。『延喜式』諸陵寮では遠陵の「山辺道上陵」(景行陵と同名)とあり、「大和国城上郡で兆域は東西2町・南北2町、守戸1烟を毎年あてる」とある。なお同書では、大和国山辺郡の衾田墓(継体皇后=手白香皇女墓)の条において、「山辺道匂岡上陵の陵戸が衾田墓の守戸を兼ねる」とも記されている。その後、陵の所在・所伝が喪失する。江戸時代後期に蒲生君平が『山陵志』で本古墳を景行陵に比定したが、江戸末期谷森善臣は『山陵考』で崇神陵とし、その説が現在まで踏襲されている。考古学的にはヤマト王権の大王墓の1つとされ、初代大王墓とされる箸墓古墳からは数代後に位置づけられる。

周濠含む古墳総長360m、最大幅230m。墳丘は長さ242mで全国第16位、後円部径158m・高さ31m・3段築成、前方部幅100m・高さ13.6m・3段築成、傾斜地のため各段はつながっていない。周濠は3ヶ所の渡堤で区切られ、前方部北側・西側部分は江戸時代末の柳本藩の修営により農業用溜池として拡張を受けたとされる。墳丘表面では葺石・埴輪を検出。葺石や埴輪列が備わった最初の大型古墳とされる。また主体部の埋葬施設は、後円部の竪穴式石室と推定される。

(2015.8)崇神陵参道  拝所       (2017.8)南西側北西望 後円部南西側渡堤  後円部東端北東望

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陪塚(陪冢とも)も数基認められ、宮内庁の治定では、陵域内陪塚1ヶ所、飛地陪塚3ヶ所(い・ろ・は号)の計4ヶ所。

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・域内陪冢(通称「アンド山古墳」)=陵拝所の北西側。前方後円墳、墳丘長120m。段築は認められず、葺石・埴輪不明、周濠は存在せず。埋葬施設は竪穴式石室で築造は陵と同時期と推定される。

(2019.12)アンド山古墳

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飛地い号(通称「柘榴塚」)=陵後円部の南側。陪塚の可能性は薄いとの説も。

飛地ろ号(通称「百塚・白塚・臼塚」)=陵前方部の南側、ここも陪塚の可能性は薄いとの説も。

飛地は号(通称「南アンド山」)=陵拝所の西側、前方後円墳、墳丘長65m。

(2019.12)柘榴塚=飛地い号 百塚=飛地ろ号     南アンド山古墳=飛地は号

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出土遺物としては、円筒埴輪・土師器・須恵器のほか、江戸時代の修陵時に出土した銅板拓本1枚。拓本によれば銅板は長方形で、長辺70cm・短辺53.8cm。片面には四葉座内行花文鏡の文様(径43.7cm)を、他面には田の字形の文様を有する。仿製鏡ぼうせいきょう・同汎鏡の原器の可能性もある。

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龍王山古墳群
行燈山古墳・櫛山古墳南側から東へ登っていくと、6世紀前半~7世紀の小さな古墳が300基以上群集する龍王山古墳群がある。いくつもの石室が開口する。

龍王山古墳群 - OSAKA-TOM’s diary

 

大和天神山古墳

行燈山古墳西側の169号を挟む伊邪那岐いざなぎ神社域内。3世紀末から4世紀前半(~4世紀後半)の前方後円墳。ここも崇神陵の陪塚とする説がある。1960年(S35)道路拡張工事で後円部の東半分が削られ、現在は古墳と言うイメージはなく、全くの神社というイメージである。

本来は、墳丘長113mで、短めの前方部はわずかに撥形に開くが、後円部の直径は超えないとのこと。葺石や埴輪はなく、段築や周濠は不明瞭で、なかった可能性も指摘されている。 拡張工事で後円部の東半分が削られた機会に緊急発掘調査が行われた。当初、伊射奈岐神社境内古墳として調査が進められたが、古墳名に人物名を含めないという方針により、地元の呼称をとって天神山古墳とされた。しかし、各地に同名の古墳が多数あり、区別するため大和天神山古墳とされたらしい。

後円部のほぼ中央で、長さ6.1mの竪穴式石室が検出された。石室は自然石の小口積みで、上部は石室の両側から持送る合掌式で、天井石を設けない型式だった。石室には、長さ2.6mの板材が残っていて、その中央部は仕切り板で区切られ、内法1m×0.5mの木櫃もくひつ状になっていた。木棺のようでもあるが、人体埋葬の痕跡はない。細部を検討すると木櫃(かぶせ蓋がついた箱)と言った方が適切な、大きな木製容器であり、総重量約41kgの水銀朱が納められていた。朱を大量に入手し使用している点で、3kgの朱を使用していた岡山県倉敷市の楯築古墳や東瀬戸内海との関連も考えられる。木櫃の底板は、長さ2.6m、幅75cmだが、底面は水平でなく、両端がカーブして上がっており、断面は緩やかなU字形をしている。しかし、巨木を刳り抜いたものでなく、三枚の板を合わせたものである。また、木櫃内の水銀朱を取り囲むように、20面の後漢鏡が置かれていた。20面の鏡は木櫃の四周に連続して長方形の辺に置かれており、前期古墳にしばしば見られる「一面だけ中央に置く」という置き方とは全く異なる。また、木口板の外部にも北方で2面、南方で1面置かれており、計23面の舶載後漢鏡を検出している。鏡は「邪から被葬者を守る」との見方もあるが、人体埋葬がない場合には、妥当ではない。古墳社会では階層化が進み、青銅鏡が社会的・政治的に重要なものとして、製作数が飛躍的に増大する。 鏡種別としては、木櫃内は「尚方作竟」銘鏡4面を含む方格規矩鏡が6面、「長宜子孫」銘鏡を含む内行花文鏡4面、画文帯神獣鏡4面、獣形鏡4面、画像鏡2面の合計20面、木櫃外は、斜縁変形神獣鏡2面と人物鳥獣文鏡1面の計3面。いずれも文様が不鮮明で、踏み返し鏡の可能性も指摘されている。武器も出土しており、鉄刀が3点、鉄剣が4点、鉄鏃が5点。刀は一般的な片刃でなく、切っ先から20cmまで両刃になった特異なものである。 剣は木製の柄装具に直弧文を施している。これらの剣の一部が絹布に巻かれていた。鉄鏃は、柳葉形で、木製矢柄が一部残っていた。さらに、前方部から二重口縁壺(布留Ⅰ式)が出土しているとのこと。

(2019.12)崇神陵南側から西望             (2015.8)伊射奈岐神社

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櫛山古墳

行燈山古墳後円部の東側に隣接する4世紀後半の双方中円墳。

中円部の西側に前方部、東側に後方部を備えた特異な墳形をしている。同様の特異な墳形の古墳は、他に岡山県楯築弥生墳丘墓や香川県高松市の石清尾山いわせおやま古墳群の猫塚古墳がある。櫛山古墳や猫塚は、古墳前期でもその後半に属し、楯築弥生墳丘墓よりも100年ほど後に築造されたと推定されている。墳丘長152m、中円部径約90m、前方部長さ・幅とも60m、後方部長さ25m。前方部と中円部墳頂は平坦で、3~4cmの白い小石が埋葬施設周辺に敷詰められていたと思われる。段築は中円部・後方部3段、前方部2段。30cmらいの大きさの板状の葺石が墳丘全体に葺かれていたと見られる。中円部はほぼ正円形、前方部は正方形で、前面の広がりや正面の弧状がない。 後方部は短く、わずかに開いている。排水施設を備え、長さ5m・幅3.4mの土壙も検出。中円部に竪穴式石室があり、長持型石棺を安置、後円部の白礫を敷き詰めた土坑から多数の鍬形石・車輪石・石釧・意図的に破壊された土師器が出土したとのこと。

(2017.8)案内        前方部南望       中円部墳頂北望      後方部北東望

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渋谷しぶたに向山古墳・上ノ山古墳

上図③。天理市渋谷町。古墳時代前期(4世紀後半)の前方後円墳。「山辺道上陵やまのべのみちのえのみささぎ」として、第12代景行陵(『日本書紀』では大足彦忍代別オオタラシヒコオシロワケ)の陵に治定され、宮内庁により管理されている。『古事記』では「山辺之道上」所在とあり、『日本書紀』では「山辺道上陵」とある(崇神陵と同名)。『延喜式』諸陵寮では遠陵の「山辺道上陵」(崇神陵と同名)として記載され、「大和国城上郡の所在で、兆域は東西2町・南北2町、陵戸1烟を毎年あてる」とある。また正治2年(1200年)の『諸陵雑事注文』には「大和渋谷」と見える。その後、陵所在・所伝は喪失。元禄10年(1697)江戸幕府による元禄探陵では崇神・景行いずれかと比定された。その後安政2年(1855)には江戸幕府により崇神陵に考定、元治元年(1864)に修陵が実施されたが、慶応元年(1865)修陵竣工直前に景行陵に改定され、現在まで踏襲されている。考古学的にはヤマト王権の大王墓の1つとされ、初代大王墓とされる箸墓古墳からは数代後に位置づけられる。

墳丘は長さ300mで全国第8位。後円部径168m・高さ25m・3段築成+円壇?(4段築成が有力)。前方部幅170m・高さ23m・3段築成説が有力。奈良県では見瀬丸山古墳(310m)に次ぐ2位、柳本古墳群では最大。墳丘段築は後円部と前方部が連続し、後円部円壇(4段目)からの斜道が前方部3段目に接続する。後円部南側裾では造出状の施設が認められた。前方部には幕末の修陵以前に阿弥陀堂観音堂があったため、墳丘には大きな改変が認められた。周濠があり、後円部側6ヶ所・前方部側4ヶ所で渡堤によって区切られる。そのうち前方部側では近世に農業用溜池として拡張を受けたとされるが、後円部側は築造当初の形状とされる。
墳丘周囲には階段状の周濠が巡り、陪塚的性格を持つ古墳数基の築造も認められる。宮内庁治定の山辺道上陵の陪塚は、飛地陪冢3ヶ所(い・ろ・は号)。

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飛地い号(通称「天皇山」・「上ノ山」)=陵の北側。前方後円墳、墳丘長144m。周濠が認められ、葺石・多量の埴輪・板材を検出。埴輪の様相には陵との類似性が見られ、陵と墳丘主軸が直交、両古墳の強い関係性が見受けられる。築造は陵と同時期とする説や、旧地形の復元等から陵より先行するとの説がある。なお、墳丘西側には式内社の水口神社が鎮座する。

飛地ろ号(通称「松明山」・「丸山」)=山の辺の道沿いの円墳、直径約35m。
飛地は号(通称「上山」・「赤坂古墳」)=山の辺の道沿いの方墳、一辺約35m。 

出土品としては、円筒埴輪・形象埴輪のほか、江戸時代に出土したと伝わる石枕(重要文化財)等がある。石枕は元治元年(1864)に出土したものというが、経緯等は不詳。碧玉製で、重さ24kg、外縁・側面には線刻が施されている(関西大学博物館に所蔵)。他に渋谷村出土という三角縁波文帯神獣鏡も知られるが、こちらも経緯等不詳。

(2015.8)遠景南東望     拝所          遠景北望        石枕

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(2015.8)飛地ろ号北望   は号北望         シウロウ塚方面北望     柳本大塚後円部南東望

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シウロウ塚古墳

渋谷向山古墳の「飛地は号」の東に隣接する前方後円墳。墳丘は約120mで、丘を二つ連結させたような形で、後円部66m・前方部57mとのことだがよく分からない。

柳本大塚古墳

柳本町大塚。4世紀前半の前方後円墳。渋谷向山古墳拝所から169号線を挟み、東方約450mに位置する。全長約94m、前方部は南向で、正面は弧状であるが、撥形のように広がってはおらずむしろすぼまっており、いわゆる柄鏡型らしいが、よく分からない。周囲には幅約30mの濠の痕跡があったらしい。葺石・埴輪は確認されていない。埋葬施設は、後円部墳丘中央部の南北主軸に沿う長さ約3.6m竪穴式石室舟形の刳抜式木棺(長さ約2m・幅約1.2m)から銅鏃と鉄器が出土したとのこと。近くに径1mの不正円形の小石室が設けられ、径39.7cmの大型仿製内行花文鏡が納められていた。この小石室は、板石が天井の方にせり出した合掌式石室で副葬品埋納の副室と思われる。また鏡を単独で副葬していたことから、鏡を格別に重視していたと考えられるとのこと。

笹鉾山古墳・黒田大塚古墳

唐古・鍵考古学ミュージアム→唐古・鍵遺跡→笹鉾山古墳→黒田大塚古墳

2021年8月11日(水)

唐古・鍵考古学ミュージアム

田原本たわらもと町大字阪手233−1(近鉄橿原線田原本駅から1.5km)。遺跡は、だだっ広い芝生公園の様相で、「ここから〇〇が出土」といった案内しかないので、ミュージアムで予備知識を仕入れてから、遺跡に行くのがお勧め。

唐古・鍵 考古学ミュージアム/田原本町

 

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唐古・鍵遺跡

弥生時代の環濠集落跡。本来は40㏊程だが、現状は300m平方=9㏊程。大型建物跡や青銅器鋳造炉など工房跡が発見された。また銅鐸の主要製造地であったと見られ、弥生時代の列島内でも重要な勢力拠点があった集落と見られている。H11年(1999年)国の史跡に指定。敷地北西の一角に「遺構展示情報館」があり、発掘の復元現場や当時の祭祀状況模型等が展示されている。

遠景北望       案内図       解説板例     復元楼閣      南望(こっちが正面)

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遺跡から24号線を西に越え南下、更に寺川を西に越えて、笹鉾山古墳へ向かう。

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笹鉾山ささほこやま古墳

磯城郡田原本町大字八尾字山本(上図①)。1号墳は前方部を東に向ける古墳時代後期6世紀前半の前方後円墳。全長88mで2重周濠を持っていたとのこと。現在は墳丘上に稲荷平野神社が祀られ、前方部に向かって参道が伸び、古墳らしい様相は殆ど無い。主体部は不詳だが、墳丘には埴輪が樹立していた。1号墳の約30m北側に、径約19.5mの円墳=2号墳があった。この2号墳周濠から、馬を引く人物と飾り馬の埴輪が2組出土。1体の人物の顔には入墨の線刻がある。その他、蓋形・円筒・朝顔形埴輪・笠形木製品等が出土。唐古・鍵考古学ミュージアムに展示されている。

標識          1号墳南望         前方部         墳丘の現状

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2号墳案内        2号墳位置         馬を引く人物埴輪(左が入墨のある人物)

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黒田大塚古墳

田原本町黒田(上図②)。6世紀前半の前方後円墳で前方部を西に向ける。全長55m、後円部径28m・高さ6m、前方部幅23m・高さ5m(元は全長70m、後円部径40m・高さ8.2m、前方部幅45m・高さ7.7m)。周濠跡あり(幅8m、深1m)。埴輪あり、葺石はなし、埋葬施設は不明。円筒埴輪、蓋形埴輪、蓋(笠)形・鳥形の木製品等が出土。三宅古墳群(下記参照)の南端に位置する。

案内           後円部南望       前方部南望        全景南西望

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後円部東望        東側見下し       前方部西望        案内

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*三宅古墳群 磯城郡の川西・三宅・田原本町にまたがる5世紀後半~6世紀前半に最盛期を迎えた古墳群。前方後円墳を中心に(現状)17~18基で構成されているが、消滅した古墳もあり、本来はもっと多かったと想定される。三宅町一帯は『日本書紀』垂仁・景行天皇条に記述のある直轄地=「倭屯倉やまとみやけ」の想定地とされ、屯倉造営の指揮者や在地の部族首長との関係性が指摘されている。北端の川西町唐院には「島の山古墳」という4世紀末~5世紀初頭の墳長195m(周濠含め265m)の巨大前方後円墳がある。

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古墳散策のススメ

「古墳って、ただの林の様で、見ても面白くない」

「昔の墓というくらいの意識しかない」

「そもそも古代史に興味が無い」等々

それは仕方がない事で、人それぞれですし・・・・。

古墳散策の動機

私が、古墳を散策し出したのは2015年8月から。

1975年(昭和50年)から某金融機関に勤め出し、2013年(平成25年)60才で一旦定年。定年後、同金融機関で65才まで再雇用。
何も趣味が無いと、完全退職後困ると考え、再雇用の5年間は週3日勤務を選択し、残る4日間で趣味づくり。

中学では地理歴史部、高校では史学部、大学では古寺石造美術研究会と歴史関係の部活を続けていた。ただ、研究よりも、古い奈良や京都等の社寺を見に行く事が主。

で、あらためて歴史関係の本を読み漁った。古事記日本書紀魏志倭人伝続日本紀等々、古代史関連の本だ。
その傍ら、昔を思い出し、2012年から社寺の散策も再開した。

古事記は33代推古天皇までだし事蹟記録は少ない。中国の歴史書にも「倭」と呼ばれた当時の記録があるにはあるが、魏志倭人伝は2000文字程度で卑弥呼当時の記録のみだし、邪馬台国の位置論争も、未だに全く解決されていない。つまり詳細な古代の文字史料は日本書紀しかない有様。しかし720年完成とされ、当時政権の中核にあった、藤原不比等達による潤色とされる部分も多いと言われる。

結果、何が本当の歴史か諸説紛々。

そこで日本書紀等の皇統を確認すべく天皇陵(初代神武~50代桓武)を訪問し出した。

ところが天皇陵も真偽は殆ど不詳。50代迄の天皇陵で明らかなのは、詳細な文書史料の残る天武・持統陵ぐらい。しかも陵墓は宮内庁管理で、立入禁止。外からこんもりした林を見るだけ。

それで、次第に立入可能な古墳に興味が移り、古墳の書籍も読みだした。そして行ってみたいと思うようになった。

古墳は有力者の墓。古墳群は今風に言えば、墓地。1基何十m~何百mなので、やたら広い墓地ということになる。古墳に対して、精神的に畏敬・畏怖の念をもって見る向きもある。が、単に『モノ』として見るのが考古学。出土した土器、鏡などの副葬品、棺やそれを納める石室等から、大体の年代が分かる。弥生時代に続く古墳時代は、3世紀中頃~7・8世紀代。ちょうどヤマト政権、つまり日本古代の単一政権の形成過程である。その過程を示す「『モノ』サシ」の一つが古墳や遺跡である。そして、それを解明する手法の一つが考古学。
戦前、日本の歴史は、日本書紀に代表される史書に基づいて語られた。皇国史観等だ。しかし戦後「どうもおかしい?」と学者が言い出した。史書と考古学が合わない・・? 

いずれにせよ、この「分からなさ」が、神秘であり一つのロマン。古墳に行くと、その当時にタイムスリップできる。

【散策の記録一覧】場所や知識の下調べと日記を兼ねている。

散策開始の頃

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古墳散策→探索の楽しみ

古墳の知識は書籍で増える。雰囲気も書籍掲載の写真で分る。しかし、大きさとか周辺地域の様子を感覚的に捉えることはできない。それで、立ち入り自由な古墳に行ってみることにした。いわゆるフィールドワークだ。健康にも良いし・・・。

その内、石室が遺存する古墳に興味をひかれた。単なる林みたいな古墳を見るだけ、墳丘を歩くだけでなく、石室に入室すると、当時の人の動きや息遣いをより感じられる。

次第に石室遺存古墳を探索するようになって来た。場所を調べるため、先達のブログを見て、目からウロコ。書籍にも載っていないような、マニアックな古墳が一杯あった。ただ詳細な行き方まで掲載してあるブログは限られる。それを参考に探索する。大体、山林の中。獣道すらなく、藪で覆われ、こんな処にあるのだろうか・・?と思いつつ、見つけた時の感激。

最初は、暗くて狭い開口部から入室することが怖い。でも入室した後は、(大袈裟に言うと)達成感で満たされる。
考古学者ではないので、石室を見て、何が分かるわけでもないが、達成感は味わえる。様々な趣味の動機は、こうした達成感なのだろう。
そして、自分もこの達成感を誰かに伝え、共感して欲しいと思うようになった。

古墳ブログの立ち上げ

自分のブログを立ち上げたのが、2019年5月から。
先達の古墳ブログには敬服し、感謝もする。マニアックな古墳は、こうしたブログが無いと絶対に辿り着けない。

ブログ作成の技術もまだまだ未熟。古墳探索能力もまだまだ未熟。
知識はネットで色々得られるし・・・・・。
そんな自分でもできることは・・・・・。

で、古墳への行き方を、できるだけ図・写真を交え詳述することにした次第です。

右下の、青い所豊中池田市の古墳)から、ブログにアップ開始。

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以下今に至ります。

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