OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

百舌鳥古墳群

大阪府堺市の百舌鳥もず古墳群は、大阪府藤井寺市~羽曳野はびきの市の古市ふるいち古墳群と合わせ、「百舌鳥・古市古墳群」として世界遺産に登録されており、日本一著名な古墳群。

私は中学2年生から堺市在住で、あまりにも慣れ親しんできたため、ブログに記事を投稿するのをスッカリ忘れていました。今更この記事をご覧になっても、新しみは全く無いと思いますが、今までの百舌鳥古墳群周辺の古墳散策記事の「まとめ」として掲載します。

 

百舌鳥古墳群の中心付近

先ずは堺市のHPに百舌鳥古墳群関連の記事があり、良くまとまっています。

百舌鳥・古市古墳群を「知る」 堺市

百舌鳥古墳群リスト 堺市

百舌鳥古墳群リスト(詳細ページ) 堺市

上記の堺市HPの記事だけでも充分でしょうが、以下、参考として過去の関連記事も掲載します。

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先ず、何といっても日本最大の古墳=「16代仁徳天皇」陵=大仙陵、仁徳天皇の子の「17代履中天皇陵」=上石津ミサンザイ古墳、その同母弟の「18代反正天皇陵」=田出井山古墳の3基が盟主墳として挙げられる。

また、宮内庁により反正天皇の東百舌鳥陵墓参考地として管理される土師ニサンザイ古墳(290~300m)、応神天皇の百舌鳥陵墓参考地として管理される御廟山ごびょうやま古墳(203m)、大仙陵と同時期のいたすけ古墳(146m)がある。

天皇陵 その四 - OSAKA-TOM’s diary

そして、「16代仁徳天皇」陵=大仙陵を取り巻く陪塚群が著名。

大仙陵 陪塚 - OSAKA-TOM’s diary

更に、大仙陵等の陪塚に治定されてはいないが、大仙陵と上石津ミサンザイ古墳の間に旗塚古墳、グワショウ坊古墳、銭塚古墳(学校敷地内)が保存されている。

旗塚古墳                      グワショウ坊古墳        

 

 

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その他周辺古墳

 

乳岡ちのおか古墳

 

「17代履中天皇陵」=上石津ミサンザイ古墳の北西900m程、堺区石津町2丁にある。

前方部を南西に向けるが、前方部大半が削平されている。元の全長155m、後円部径94m・高さ14m。もとは周濠を有したが埋め立てられている。1972年(S47)に後円部の発掘調査が行われ、粘土で覆われた和泉砂岩製の長持形石棺が確認されている。覆っていた粘土中から碧玉製鍬形石3、同車輪石18等石製の腕輪類が出土。確認のための小規模な調査であったので石棺の内部は調査されず埋め戻された。出土遺物から4世紀後半の築造と考えられ、百舌鳥古墳群では最も時期の古い古墳。

北望

               後円部墳頂北望

文珠塚古墳 

 

「17代履中天皇陵」=上石津ミサンザイ古墳の南東600m程、西区上野芝向ヶ丘町1丁にある。全長59m、後円部径36m・高さ5m、前方部幅27m・高さ4m。S46年史跡指定。H17年~保存整備計画のため、墳丘一部を継続的に調査。主体部(埋葬施設)構造や副葬品は不詳。円筒埴輪編年Ⅳ期の円筒埴輪片を検出し、5世紀中頃と推定される。

くびれ部北望                             後円部北望

鎮守山塚古墳

 

北区百舌鳥赤畑町5丁732 光明院境内。5世紀中頃の円墳。寺の境内なので墳頂部がわずかに見える程度。西側が道路で削られ、東側も防空壕が掘られていて保存状態は良くない。元は径34m・高さ4m以上と見られる。主体部は封土の状況から粘土槨と見られ、円筒埴輪、蓋形・家形・石見形埴輪の他、祭祀に使われたと考えられる人型土製品が出土したらしい。

御廟表塚古墳 

 

北区中百舌鳥町4丁536-7。前方部を西に向けた5世紀後半の帆立貝形前方後円墳。墳長84m、後円部径67m・高さ8m、前方部幅32m。百舌鳥古墳群東部の百舌鳥川を見下ろす台地の辺縁部に位置。前方部が失われ円墳のように見える。2011年(H23)の発掘調査で、後円部は2段築成で周囲に濠が巡り、テラス面に礫が敷かれ小型の円筒埴輪が並び、斜面には葺石が確認された。埋葬施設や副葬品は不詳だが、2008年(H20)地中レーダー探査で、後円部中央に埋葬施設が存在する可能性があるとのこと。

西望                                南西望

定の山じょうのやま古墳 

 

堺市北区百舌鳥梅町1丁 城の山公園(古墳公園)。もともとは前方部を西に向けた帆立貝形古墳で、1968年(S43)からの土地区画整理事業で墳丘が改変され、そのまま公園となった。それまでは、周濠の跡も水田の畦にクッキリと残っていたらしい。墳長69m、後円部径約55m・高さ7m、前方部幅30mで、葺石と埴輪列の存在が確認されている。前方部が削られた時は、墳丘中央に埋葬施設の可能性のある粘土の塊があったとのこと。

東望

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