OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

丸山古墳周辺

和歌山県紀の川市貴志川町 丸山古墳・権田池古墳・双子三昧塚古墳。

2022年4月19日(火)訪問。 

丸山古墳

和歌山県紀の川市貴志川町上野山(上図①)。貴志川の西岸の段丘上。5世紀頃の径約42m・現状高さ約6mの円墳。2段築成で、円筒埴輪・周濠を備える。

北望           南東望           案内上部拡大       案内下部

  *PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

案内板の横から、真っすぐ墳頂に登れる。墳頂部には、緑泥片岩製の組合せ式箱型石棺が露出する。蓋石は長さ約2.8m・幅約1.05~1.25mで、西側中央部に縄掛突起(約22cm×10cm)が付いている。石棺は長さ約2m・幅約0.77~0.88mで南側に副室がある。鉄鉢・直刀60口・琴柱形石製品・玉類等出土とのこと。

登り口          墳頂へ

蓋石東望         北望           南望           副室俯瞰

蓋石欠損部        石棺内部         縄掛突起


権田池ごんだいけ古墳

紀の川市貴志川町神戸こうど(上図②)。和歌山県地理情報システム(埋蔵文化財包蔵地所在地図)では、丸山古墳から双子三昧塚古墳へ向かう途中に横切る13号線沿い表示されているが、よく分からない。

13号線沿い道標西望    権田池古墳辺り                   双子三昧塚へ

 

双子三昧塚古墳

紀の川市貴志川町長原(上図③)。畑に囲まれてポツンとある独立墳。東からの遠景は円墳の様に見えるが、北側に回ると何とか前方後円墳と分かる。全長約43mで、6世紀前半の築造か。

遠景南西望        近景南西望        遠景南東望        後円部方面北東望

すぐ南側に平池緑地公園があり、その池畔に4基の平池古墳群が点在する。

船戸山古墳群

2022年4月19日(火)。船戸山古墳群は和歌山県岩出市船戸、JR和歌山線船戸駅の南=船戸山団地に隣接する丘陵上にあり、7基が確認されている。かなり以前の古墳関連ブログと比べると、現在は、かなり整備されている。

船戸駅からの経路                  黄矢印が遊歩道

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団地内の古墳群進入口の標識から、すぐ左=北に登って行く(登り口は遊歩道の感じがない)

船戸山団地入口     団地案内         古墳群進入口       登り口

北へ登ると、右手に古墳群全体の案内板(案内板の赤・黄線は当方の加工で、実際はありません)       

古墳群全体の案内板から、竹で仕切られた遊歩道があり、そこを辿れば良い。

船戸山2号墳

径約15m(やや楕円形)・高さ3m、6世紀後半の円墳。両袖式岩橋型石室が南西に開口。現在、開口部はフェンスで施錠されており入室はできない。玉類・鉄刀・金環・桃の種子・須恵器・土師器出土とのこと。

案内には道長3.7m・幅1m、玄室長2.95m・幅1.8m・高さ2.9mとある。

ただ和歌山市岩橋いわせにある岩橋千塚古墳群に代表される岩橋型石室は、通常の横穴式石室の羨道=単純・平坦なトンネル様と違い、掘り込みが有ったり、広くなったり・狭くなったりする(平面・立面が凸凹)。また、通常の横穴式石室は、羨道からすぐ急に玄室が広がる(通常、その境目を玄門と呼ぶ)が、岩橋型は、いかにも玄室入口という感じの部分がある。羨道=まさに石室進入口(階段状等に掘り込まれていたりする)部分、前室=平坦なトンネル部分、前道=玄室入口があり、『羨道・前室・前道と玄室』という構造が多い。この2号墳の「道長3.7m」を分解すると、大体「羨道長1.2m・幅1.2m」+「前室長1.7m・幅1m・高さ1.8m」+「前道長0.8m・幅0.8m・高さ1.2m」で、奥へ行く程床面は低くなっている。また案内板にある2段の「石棚」も岩橋型石室の特徴である。

岩橋型横穴式石室の、その他特徴は、板状に剝離できる泥質片岩で、板状に割った石材を床面から持ち送りながら積み上げ、石棚や数本の石梁を架構し、天井部は大きな板石で覆う点です。

岩橋千塚古墳群 - OSAKA-TOM’s diary

船戸山6号墳

2号墳から遊歩道を進むと6号墳の案内があり、その右奥。

右手の墳丘は7号墳

東西16m×南北13mの楕円形。6世紀後半とのこと。須恵器・土師器の他、銅釧(銅の腕輪)・金環・馬具・棺金具・玉類出土。土師器の中にはミニチュア炊飯具に伴う鍋もあったらしい(渡来系?)。墳頂は窪みがあっただけだが、落ち葉を掻き分けると、石室残存部があったのかも?

                     墳頂南西望        案内見下ろし

船戸山7号墳は、6号墳から遊歩道を挟んだ西側。案内等は無く、墳頂部に窪みがあったので、6号墳石室跡と同じ様な状況なのかも。

6号墳案内から南西望                 墳頂の窪み       6号西斜面から見下ろし

船戸山1号墳

遊歩道は7号墳まで。6号墳の西裾斜面を伝って行くと(落ち葉が溜まり滑りやすいので要注意)、最高所(標高70m程)にあり、10m程の円墳で、西向きに小型の石室が開口。

6号墳案内見返り   

開口部の前には2m~3mの窪みがあり、すぐ玄室が見えるので、前室の一部と前道(玄室入口)と思われる。開口部=前道は幅40cm強・高さ80cm程でかなり狭く、落ち葉を掻き分け無理すれば入れるかもしれないが、玄室も狭く、外からでも何とか撮影はできた。

玄室は奥行き2m程で、持送りは緩くやや曲線的で、石棚もない。石材もやや丸っこい。入り口部分は岩橋型っぽいが、玄室は通常の横穴式石室様である。

開口部          奥壁下部         奥壁上部         天井部

 

天皇陵 その九

天皇陵 その九

42代『文武天皇陵』・中尾山古墳、43代『元明天皇陵』、44代『元正天皇陵』、45代『聖武天皇陵』・基皇子墓・安積親王墓・光明皇后

古事記』は33代推古天皇まで、『日本書紀』は41代持統天皇までなので、『日本書紀』に続く六国史りっこくしである『続日本紀しょくにほんぎ』(以下『続紀』)をベースにしています。

続紀』は42代文武~50代桓武の95年間を40巻で記録しており、菅野真道すがののまみち達が延暦16年(797)編纂したとされる。『紀』に比べ記事の正確性は格段に増すものの、簡略な「一種のメモ書き」様の内容で、『紀』の様な物語的な部分は殆どなく、記事の解釈に関して諸説あります。それを論じてもキリが無いので、原則『続紀』の記事に準拠します。記事中の月日も陰暦のまま記載します。

なお、陵、諡号等の基本知識は、『天皇陵』を参照ください。

天皇陵 - OSAKA-TOM’s diary

 

42代『文武もんむ天皇陵』

 

2016年(H28)2月24日(水)参拝。奈良県高市郡たかいちぐん明日香村大字栗原。42代「倭根子豊祖父やまとねことよおほぢ*1文武天皇(在位697年~707年)」の『檜隈安古岡上ひのくまのあこのおかのえのみささぎに治定されている。

*1 797年完成の『続紀』巻第一の表題では「天之真宗豊祖父(あめのまむねとよおほぢ)」とあり、707年6月崩御後、同11月火葬の際の諡号が「倭根子豊祖父」。

出自

諱は軽(かる=または珂瑠)皇子。宮は藤原京。父は「40代天武とその皇后であった41代持統の子」=草壁皇子。母は阿陪皇女あべのひめみこ=38代天智と「蘇我倉山田石川麻呂の娘姪娘めいのいらつめ」との皇女。41代持統の異母妹にあたり、後の43代元明天皇である。藤原不比等の長女=藤原宮子みやこを娶った。当時「皇后*2」と呼べるのは皇女に限られ、臣下である不比等の娘である宮子は、「皇后」ではなく、当初は「ひん*2」の一人であったが、その後首皇子(おびとおうじ=後の45代聖武)を産み「夫人ぶにん*2」として、史上初めて女性で正一位に叙された人物でもある。

*2 大宝律令(701年)の規定によると、「皇后(こうごう/おおきさき)」以外に「(ひ/きさき)」=4品以上の内親王で2名以内、「夫人(ぶにん/おおとじ)」=3位以上の臣下の娘で3名以内、「(ひん/みめ)」=5位以上の臣下の娘で4名以内。文武期に、ここまでキッチリ決まっていたかどうか不明だが、父である不比等の権勢や首皇子の母であるため、妻の中では筆頭であったことは間違いない。なお大宝律令の品位(ほんい)制では、親王内親王(従前の皇子・皇女)・皇族は臣下の位階である「位」とは別体系で、「品」を用いた(1品~4品)。また臣下の位階は30階あった。1~3位=正・従で6階、4~8位=正・従と上・下で20階、初位(そい)=大・少と上・下で4階。1~3位を「貴」、4・5位を「通貴」、あわせて「貴族」と呼んだ。

40代天武が686年崩御したが、後継である草壁皇子は即位せず、天武の皇后=持統が称制したが、その3年後(689)に28歳で薨去する。天武崩御時既に重篤だったのかもしれない。軽皇子はまだ6歳だったので、持統が翌年690年に即位した。なお、草壁以外に、後継候補として大津皇子(持統の実姉=大田皇女と天武の子)がいたが、天武崩御から2週間後、川島皇子の密告による、謀反の嫌疑で捉えられ自害する。

即位後の経緯

従来20歳以前の即位はタブーだったようだが、余程待ち遠しかったのか、当時53歳の持統が発病したのか、697年15歳で立太子後すぐに譲位され、42代文武天皇として即位した。そして701年宮子との間に首皇子が生まれる。持統は702年12月58才で崩御。文武は慶雲4年(707)7月、次代の元明に「首への皇位継承」遺詔を残し、25歳で崩御する。

事蹟

文武期の事蹟としては、文武5年(701)3月21日元号大宝*3と定め、8月3日大宝律令が完成し、翌年10月14日に公布した。 日本の国号も大宝律令で初めて定められたとされる。大宝2年(702)、天智期以降40年~30年中断されていた遣唐使が復活した。33代推古期に遣隋使が始まり、630年からの遣唐使をはじめ、外交と外国文化受容が本格化し、645年いわゆる大化の改新で、国家としての諸制度が整備されていく。38代天智期に見える近江令庚午年籍、そして40代天武・41代持統期の皇親政治を経て、徐々に整備されてきた諸制度が、大宝律令で確立される。ただこれらが、15歳で即位し、3~4年しか政務についていない弱冠20歳前後の文武天皇主導とは思えない。当時40歳を越えたばかりの藤原不比等と、後見たる持統によるものだろう。

*3大宝 日本最初の元号は36代孝徳即位時の「大化」。大化の由来は『紀』には記載されていないが、中国の『漢書』や『宋書』に、「広大で無辺の徳化(=徳を積む)」という意味で「大化」という語があり、これを引用したとすれば、かなり高尚な命名である。そして、大化6年(650)2月9日に穴戸国(あなとのくに=長門=現山口県)から白い雉(きじ)が献上された。『紀』には「・・・聖王が天下を治める時に、天は祥瑞(しょうずい=瑞祥=縁起の良い兆し=吉兆)を示した。昔、西土の君主である周の成王(ジョウオウ)の世と、漢の明帝の時に白い雉子が見られた・・・白雉(はくち)と改める」とある。祥瑞=吉兆による「こじつけ?」だが、分かり易い命名方法ではある。以後、斉明・天智期は元号が中断され、天武崩御年(686)7月20日に「朱鳥(しゅちょう・あかみとり)」と建元する。『紀』に由来は記されていないが、赤雀(朱雀=すざく)とか赤雉の類で、天武病気平癒のためとされている。持統期にまた中断した。『続紀』では文武5年正月から「大宝元年」と記されているが、大宝元年3月21日記事に「対馬嶋貢金 建元為大宝元年」=」「対馬から金が献上され、大宝元年と為す」とある。年度途中での建元だが、公式記録上はその年の正月から元号を適用している。文武期の「大宝」に次ぎ、大宝3年の翌年(704)5月10日「慶雲藤原京西楼上に祥瑞の雲」に改元し、次代元明期の「和銅武蔵国秩父から銅献上」・・・・・と、現在の「令和」まで連綿と続くことになる。

(県犬養)三千代

(県犬養あがたのいぬかい)三千代の名は、文武期にはまだ見えないが、文武4年(700)藤原不比等に再嫁し、翌年光明子(45代聖武に嫁ぎ、皇族以外で初めて皇后となった)を産む。29代欽明期に蘇我氏が娘を天皇に嫁がせ、外戚として権勢を振るった構図と同じである。余談であるが、文武には宮子以外に、賓として紀竃門娘きのかまどのいらつめと石川刀子娘いしかわのとじこのいらつめの2人がいたが、次代元明期の和銅6年(713)に「貶石川・紀二嬪号。不得称嬪」とあり、賓称号を禁じられている(貶黜へんちゅつ・へんちつ=貶斥へんせき)。つまり、他氏族系を皇籍から排除したわけだが、不比等と三千代の策謀ともされる。ただし、こうした天皇の妻の座を限定することで、後継者不足となり、結果天武の皇統がいずれ途絶えることになった。

陵の考古学名は栗原塚穴古墳。高松塚古墳から南南東へ約200m、キトラ古墳からは北北東へ約1kmの位置にある。北側の丘陵を削り、ほぼ南向きに墳丘が設けられている。径約15m・高さ約3.5mの円丘で、背面の北側丘陵は高さ約9.3mであるとのこと。そして、円丘は切石造り石室(横口式石槨の可能性もある)を覆って築いたとされる山寄せの終末期古墳と思われる。1881年明治政府によって治定されたが、元禄修陵時には高松塚、「大和志」(1736年刊)では中尾山古墳、文久修陵の時点では野口王墓古墳が文武陵とされた。学界では、長く中尾山古墳が真陵とされている。

北東望       制札         拝所        案内        遠景北東望 

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*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

中尾山古墳

キトラ古墳から北へ1.4km程、文武陵から北北西へ約400m。高松塚古墳から北へ200m。飛鳥歴史公園館の南東側、209号線を挟んだ、飛鳥歴史公園入口から東方面に登って行く。

キトラ古墳北望      高松塚北望        登り口           案内

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*写真は2016年2月。季節や経過年数により周辺の様子や目印が変わることが多いので注意ください。

8世紀初頭の対辺間長約19.5m・高さ4m程の八角墳。1974年等の調査で、3段築成で、1・2段目は石積み、3段目は盛土を版築で仕上げている。墳丘の外周には3重に石敷きが巡り、その対辺間長は約30mになる。埋葬施設は横口式石槨で、底石1・側壁2・奥壁1・閉塞石1・天井石1・隅石(柱石)4の計10石(現存9石)。底石は石英閃緑岩製、天井石は花崗岩製で、それ以外は凝灰岩(竜山石)製とのこと。石槨は幅約90cm・奥行約90cm。高さ87㎝の立方体で、成人の遺骸をそのまま葬るには狭すぎるので、火葬後の骨蔵器を収めるためのものとされる。床面中央にある60cm四方の掘り込みは、骨蔵器の安置台を据えていた跡らしい。側壁や天井石内面は非常に丁寧に磨かれ、全面に水銀朱が塗られていた。終末期の天皇陵に特有の八角墳であり、持統に次いで2人目の火葬とされる文武陵にほぼ間違いないとされている。

遠景東望         近景西望          案内           南東望

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43代『元明げんめい天皇陵』

2016年(H28)2月9日(火)参拝。奈良市奈良阪町。43代「日本根子天津御代豊国成姫やまとねこあまつみよ(みしろ)とよくになりひめ元明天皇(在位707年~715年)」の『奈保山東なほやまのひがしのみささぎに治定されている。

出自

諱は阿閇皇女あべのひめみこ。宮は藤原京。710年に平城京に遷都する。38代天智の第4皇女、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘=姪娘めいのいらつめ。天武8年(679)「天武と持統の子=草壁皇子」の正妃となった。つまり、持統は父方では異母姉、母方では従姉。夫の母であるため姑にもあたる。大友皇子(39代弘文)は異母兄。天武9年(680)に氷高皇女(ひだかひめみこ=後の44代元正)を、天武12年(683)軽皇子(42代文武)を産む。息子である文武が崩御した時、文武の子=首皇子(おびとおうじ=後の45代聖武)はまだ7歳で、首皇子の母である宮子は今で言う鬱病。そのため慶雲4年(707)7月17日46歳で中継ぎ天皇として、女性としては、初めて皇后を経ないで即位した。なお、元明即位の際、『続紀』には「・・・近江大津宮御宇大倭根子天皇 与天地共長与日月共遠不改常典 立賜敷賜法・・・」=「・・・近江の大津の宮に御宇あめのしたしらしめす大倭根子天皇(=天智天皇) 天地とともに長く日月とともに遠く改めまじき常の典と立て賜たまひ敷き賜へる法・・・」により、草壁皇子の子である文武天皇が即位し、自分はその母で正当な後継者であるという趣旨の詔(みことのり=天皇の言葉)が記されている。以降、幾多の天皇が即位時、慣例のように用いた、いわゆる「不改常典(かいじょうてん/あらためまじきつねののり)」の初見である。

事蹟

事蹟としては、慶雲4年の翌年(708)1月11日武蔵国秩父(黒谷)から銅が献じられ和銅」に改元し、和同開珎を鋳造させた。安価な銅で高価値を産み平城造営財源としたとの説もある。708年2月遷都の詔をし、翌月に左大臣に69歳の石上麻呂いそのかみのまろ、右大臣に50歳の藤原不比等を任用。和銅3年(710)3月10日平城京に遷都。その際、左大臣石上麻呂藤原京の管理者として残されたため、新京では不比等が最高権力者となっている。 和銅5年(712)には天武の勅令であった「古事記*4を献上させた和銅6年(713)5月2日にいわゆる風土記」編纂の全国指示をする。『続紀』には「畿内七道諸国郡郷名 着好字 其郡内所生 銀銅彩色草木禽獣魚虫等物 具録色目 及土地沃▢ 山川原野名号所由 又古老相伝旧聞異事 載于史籍亦宜言上」と、各地名を好字(縁起のよい文字)にすることと、各地の産出品・土地の様子・古来からの伝承等を報告するよう指示している。さらに京から各国への幹道に駅うまやを設置する等、現在の国土交通省並の整備を行っている。和銅7年(714)6月25日14歳で元服した首皇子が正式に立太子するが、翌霊亀れいき*5元年(715)9月2日に、娘の氷高内親王に譲位した。女性同士の皇位継承は日本史上唯一。『続紀』には「今精華漸衰。耄期斯倦・・・欲譲皇太子 而年歯幼稚・・・今伝皇帝位於内親王・・・」=「徐々に衰え、倦れた(疲れた)・・・皇太子(孫の首皇子)に譲りたいがまだ若い・・・(氷高)内親王皇位を伝える・・・」とある。

*4古事記 『続紀』には一切記事がない。現存する古事記の序文中に「和銅四年九月十八日を以ちて、(元明天皇は)安萬侶に詔りして・・・」とあり、文末に「和銅五年(712)正月二十八日。正五位上勲五等太朝臣安萬侶謹上」とある。なお、序文偽書説もある。

*5霊亀 『続紀』には、和銅7年の翌年(715)9月2日元正が即位した日、「左京職から瑞亀(縁起の良い亀)が献上され、「天が嘉瑞を表した」とし、「和銅八年を改め、霊亀元年と為す」とある。

元明太上天皇養老5年(721)5月に発病し、次女吉備きび内親王の婿である長屋王(ながやおう=後述)達に後事を託し、葬送の簡素化遺詔*6し、同年12月7日に61歳で崩御。13日葬儀は行わず(旧)大倭国添上郡椎山ならやま陵に葬った。陵の公式形式は山形。考古学的な古墳名は無い。
*6葬送簡素化の遺詔 崩御前の10月13日「・・・朕崩之後 宜於大和国添上郡蔵宝山雍良岑造竈火葬 莫改他処・・・」=「朕崩ずるの後、大和国添上郡蔵宝山(さほやま)雍良岑(よらのみね)に竈を造り火葬し、他処に改むるなかれ」、10月16日「・・・丘体無鑿。就山作竈 芟棘開場 即為喪処 又其地者 皆殖常葉之樹 即立刻字之碑」=「丘体鑿(うが)つ事なく、山に就いて竈を作り、棘(いばら)を芟(か)り場を開き 即ち喪処とせよ。又其地は、皆常葉の樹を植え、即ち刻字之碑を立てよ」

元明陵から44号線を挟んで西側には娘である元正陵、直線距離で1.2km南には孫の聖武陵がある。

位置関係         進入路          全景北望         拝所遠景

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制札           拝所           拝所東側         西側

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44代『元正げんしょう天皇陵』

2016年(H28)2月9日(火)参拝。奈良市奈良阪町。44代「日本根子高瑞浄足姫やまとねこたかみずきよたらしひめ元正天皇(在位715年~724年)」の『奈保山西陵なほやまのにしのみささぎに治定されている。

出自

諱は氷高皇女ひだかのひめみこ。宮は平城京。「40代天武の皇太子=草壁皇子」の長女。母は阿閉皇女(43代元明天皇)。42代文武の3歳上の実姉。霊亀元年(715)9月2日に母から譲位され即位するが、歴代天皇の中で唯一、母から娘への譲位。また未婚であり、皇后・皇太子も経ず36歳で即位するという「初尽くし」の女帝である。この時点で、天武の男系皇子として舎人とねり親王・新田部にいたべ親王が存命だったが、天武・持統の直系である「42代文武の子=首皇子」への承継の意思が相当根強く、そのための「中継ぎの即位」とされる。独身故継嗣を産むことは無く、不比等の娘である宮子が文武に嫁いだ後、天皇の妻の座から藤原氏以外を排除したことや、天武・持統直系継承にこだわったことが、結果として天武系皇統の断絶に繋がることになるとは、知る由もなかっただろう。

事蹟

元正期の事蹟としては、養老*7 4年(720年)5月21日に、日本書紀が完成し、奏上されている。またこの年8月3日藤原不比等が病気で薨去する。翌年1月5日長屋王を右大臣に任じ、政務を委ねる。長屋王の父は40代天武の子=高市たけち皇子。母=御名部皇女みなべのひめみこは「元正の母=43代元明」の実姉。つまり元正の従兄妹(または従姉弟)。さらに、「元正の妹=吉備内親王」の夫という皇族であるため、一種の皇親政治の再来である。当時、不比等の長男=武智麻呂むちまろ中納言、次男=房前ふささきは参議であり、長屋王が筆頭であった。長屋王の実績か元正の実績か不明だが、国・郡の整備等国土開発面で色々な手を打った。和同2年(709)陸奥・越後の蝦夷討伐。霊亀2年(716)5月に駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・上野の高麗人(技術者)を武蔵に移動させたり、霊亀2年(716)9月や養老元年(717)2月に信濃・上野・越前・越後の一部を出羽に移動させている。さらに、養老7年(723)4月田地不足を解消するために、「・・・開闢田疇 其有新造溝池 営開墾者 不限多少 給伝三世・・・」と、いわゆる三世一身法を制定した。ただし20年後、この流れを継いだ次代聖武期に施行された墾田永年私財法により、公地公民制は崩れ始めていくこととなる。

*7養老 『続紀』では霊亀2年の翌年(717)正月から「養老」となっている。しかし養老元年(717)11月17日の詔に「朕以今年九月 到美濃国不破行宮 因覧当耆郡多度山美泉 自盥手面 皮膚如滑 亦洗痛処 無不除愈・・・又就而飲浴之者 或白髪反黒。或頽髪更生・・・後漢光武時 醴泉出 飲之者 痼疾皆愈 符瑞書曰 醴泉者美泉 可以養老・・・改霊亀三年 為養老元年」=「今年九月、美濃国の不破(ふわ)の行宮(あんぐう=仮の宮)に至り、当耆郡(たきぐん)多度山で美しい泉を見つけ、手や顔をすすぐと、肌が滑るようで、痛い処を洗うと癒え・・・飲浴した者は、或いは白髪が黒くなり、或いは禿げ頭に毛が生えた・・・。後漢光武の時、醴(甘酒)が泉出し、これを飲む者は、痼疾(持病)が皆平癒した。符瑞書(祥瑞についての書)では醴泉は美泉で老いを養うことができる・・・霊亀三年を改め、養老元年と為す」とある。という訳で、実際には11月17日の改元である

譲位

養老7年の翌年(724)=神亀元年2月4日45歳で、甥の首皇太子(45代聖武)に譲位する。退位の詔では新帝=聖武を「我子」と呼んで、退位後も後見としての立場で聖武を補佐した。聖武の母=宮子は鬱病で、聖武が37歳の時やっと面会できた程で、独身であった元正が母代りとも言われている。天平15年(743)5月5日、元正は太上天皇(上皇)として、改めて「我子」と呼んで天皇を擁護する詔を出す等、晩年期の上皇が、聖武天皇の治政を見守っていたようである。

天平20年(748)4月21日69歳で崩御し、4月28日佐保山陵で火葬された。

陵の公式形式は山形。考古学的な古墳名は無い。

遠景北西望             拝所遠景北望            制札 

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拝所                拝所東側              西側  

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45代『聖武しょうむ天皇陵』

2016年(H28)2月9日(火)参拝。奈良県奈良市法蓮ほうれん町。45代「天璽国押開豊桜彦あめしるしくにおしひらきとよさくらひこ聖武天皇(在位724~749)」の『佐保山南陵さほやまのみなみのみささぎに治定されている。

出自

諱は首皇子。宮は当初平城京であるが、後述のように遷都を繰り返すことになる。父は42代文武天皇、母は藤原不比等の娘=宮子。妃は藤原不比等と橘(県犬養あがたのいぬかい)三千代との娘=光明子こうみょうし

慶雲4年(707)6月7歳の時、父の文武が崩御、母の宮子は鬱病。翌7月祖母である元明が中継として即位。和銅7年(714)6月元服立太子するが、若い故即位は先延ばしにされ、翌霊亀元年(715)9月に文武の実姉で、聖武の伯母である元正が「中継ぎの中継ぎ」として即位。養老2年(718)光明子との間に阿倍内親王(後の46代孝謙)が誕生している。

即位後の経緯

神亀元年(724)9月24歳で元正から譲位され即位する。この時も「不改常典」が用いられている。治政初期は元正期に続き左大臣長屋王が執政するが、724年宮子の「大夫人」呼称問題等で藤原氏と対立し、更に神亀5年(728)9月光明子との子=基親王が1才直前で夭逝したことに絡み、神亀6年(729)2月長屋王の変*8で自害する。これにより藤原不比等の長男=藤原武智麻呂(むちまろ=右大臣)を筆頭に、4兄弟(次男=房前ふささき・三男=宇合うまかい・四男=麻呂)が実権を握る。しかし天平9年(737)4兄弟が疫病で逝去する。『続紀』の天平7年(735)8月12日記事に「大宰府疫死者多」、8月23日「太宰府・・・管内諸国 疫瘡大発」と疫病発生が記されており、9月30日に天武第7皇子=新田部親王、11月8日宮子の母=賀茂比売かもひめ、11月14日天武第3皇子=舎人親王が相次いで薨去。「是歳・・・自夏至冬 天下患豌豆瘡(天然痘)死者多」とある。天平9年(737)4月17日次男房前、7月13日四男麻呂、7月25日長男武智麻呂、8月5日三男宇合、相前後してその他政府高官の殆どが逝去した。そこで9月28日急遽、長屋王実弟鈴鹿すずかおうを知太政官事に、橘諸兄(もろえ=「橘三千代と前夫の子」=光明子の異父兄)を大納言に任じた。翌天平10年(738)1月13日阿倍内親王立太子(女性唯一)し、同日諸兄は右大臣に任ぜられ政権を握ることとなる。なお、この頃下道朝臣真備と玄昉*9がクローズアップされる。

*8長屋王の変 聖武の母=宮子に正一位「大夫人」の称号を与える等の藤原氏の策謀に批判的だった。そんな状況下、神亀5年(728)9月、長屋王が写経中に基親王が夭折し、長屋王の呪詛という噂を生んだ。長屋王側の家系は皇位継承権者としても有力で、我が子を哀惜する聖武が、長屋王に不信感を抱いた感もある。そして中臣宮処東人(なかとみのみやところのあずまびと)らの讒言で、神亀6年(729)2月11日謀反の嫌疑が問われ、舎人親王新田部親王・多治比池守・藤原武智麻呂藤原宇合らに囲まれ、12日に妃=吉備内親王や4人の子(吉備・膳夫・桑田・葛木王)と共に自害する。『続紀』では長屋王はその翌13日「・・・葬長屋王・吉備内親王屍於生馬山・・・」とあり、2人の墓は、現在の奈良県生駒郡平群(へぐり)町にある。藤原氏(特に武智麻呂)の陰謀説、聖武主犯説=天皇しか動かせない六衛(衛門府・左右兵衛府・左右衛士府中衛府)が動員されていた=がある。長屋王の友人であった大伴旅人(家持の父)は大宰府に左遷され、酒に明け暮れたと万葉集の歌から窺える。なお、長屋王の子の内、安宿・黄文・山背王は藤原不比等の二女(藤原長娥子)の子であったので罪を免れた。讒言の張本人の東人は、10年後に大伴子虫(長屋王派)に讒言の旨を明かし、子虫に斬殺されている。なお、長屋王邸跡(240×230m)とされる所から711~717年間の家政機関での木簡(もっかん=木の札)が35,224枚出土し貴重な資料となっている。長屋王陵は以下を参照下さい。

平群町 古墳巡り - OSAKA-TOM’s diary

*9下道朝臣真備(したみちのあそんまきび) 元正期の養老元年(717)藤原馬養(=宇合)・阿倍仲麻呂井真成(いのまなり)らとともに遣唐使として渡唐する。次の遣唐使船で天平6年(734)11月種子島に漂着。真備は翌天平7年(735)4月、持ち帰った『唐礼』130巻(経書)、『大衍暦経』1巻・『大衍暦立成』12巻(天文書)、測影鉄尺(日時計)、銅律管1部・鉄如方響写律管声12条(音階調律管)、『楽書要録』10巻(音楽書)、絃纏漆角弓・馬上飲水漆角弓・露面漆四節角弓各1張、射甲箭20隻・平射箭10隻(矢)を献上した。物品の詳細が正史に記されており、献上品がいかに重要だったか推察される。真備はその功労により、帰朝時に従八位下という30位階中の下から5番目だったが、翌天平8年(736)正月、一挙に十階昇進の正六位下に叙せらた。最短でも4年に1階しか昇進しない当時としては異例中の異例だった。天平13年(741)7月正五位下となっていた真備は東宮学士(皇太子=阿倍内親王の家庭教師)に任じられる。天平15年(743)5月詔の中で「・・・下道朝臣真備 冠二階上賜・・」と、特に名を挙げて従四位下に叙せられた。更に翌6月春宮大夫(皇太子に関する諸事を司る役所の長官)に任官した。天平18年(746)「吉備」の姓を賜る(これ以降は「46代孝謙天皇陵」で後述)。
*9玄昉(げんぼう) 真備と同じく養老元年(717)遣唐使として渡唐し、次の遣唐使船で天平6年(734)11月種子島に漂着。経論5000余巻と諸仏像を持ち帰った。来天平8年(736)2月封戸100戸・田10町等を賜る。天平9年(737)8月僧侶の最高位=僧正に任じられる。そして同年12月聖武母=藤原宮子の幽憂(鬱病)を沈めた。これにより聖武が誕生以来初めて面会できたことで、褒賞品を賜り、仲介した真備も従五位下から従五位上に昇進した(これ以降は「46代孝謙天皇陵」で後述)。
このように、朝廷は両名の唐留学実績を高く評価して、異例の抜擢人事を行った。

彷徨と遷都

天平12年(740)藤原広嗣の乱*10が起こるが、討伐の最中10月26日に、都に居た聖武は討伐大将に「縁有所意 今月之末 暫往関東」=「思う所があって、今月末暫く東へ行く」と彷徨を始める。聖武の彷徨ルートは、平城京天平12年(740)10月29日大和国山辺郡堀越頓宮(奈良市都祁)→11月伊勢国名張郡阿保頓宮(三重県伊賀市)伊勢国志郡河口頓宮(三重県津市)伊勢国鈴鹿郡赤坂頓宮(三重県亀山市)伊勢国朝明あさけ郡朝明頓宮(三重県四日市市)伊勢国桑名郡石占頓宮(三重県桑名市)→12月美濃国不破郡不破頓宮(岐阜県垂井町)近江国坂田郡横川頓宮(滋賀県米原市)近江国犬上郡犬上頓宮(滋賀県多賀町辺り)近江国蒲生郡蒲生郡宿(滋賀県近江八幡市辺り)近江国野洲野洲頓宮(滋賀県野洲市)近江国禾津あわづ頓宮(滋賀県大津市)山城国相楽郡玉井頓宮(京都府綴喜郡井手町)→12月15日恭仁宮。何故か壬申の乱での天武の東行ルートに重なる所が多い。この後、4度の遷都を行う。天平12年(740)12月恭仁京(京都府相楽郡加茂町)天平16年(744)2月難波京(後期難波の宮)天平17年(745)1月紫香楽宮(=甲賀宮滋賀県甲賀市信楽町)→同17年(745)5月平城京に戻った。

即位以降、天平に入り台風・日照り・地震が交互に数回起こり、天平7年(735)頃から疫病(天然痘)が広がり、天平9年(737)にピークを迎える。恭仁京遷都は、平城京の疫病汚染等の国難に対処し、何とか王都復興を目指したいとの思いからという説が強い。地理的には、恭仁京の南側に甕原みかのはら離宮があり元明・元正・聖武も何度か行幸していたし、聖武行幸したことのある橘諸兄の相楽さがら別業(別荘=現木津川市木津)も近くにあった。更に、木津川に接する恭仁京が、唐の長安・洛陽・太原城という三都制での、大河に面する洛陽に擬されたとの説もある。

*10藤原広嗣の乱 天平12年(740)8月29日、大宰少弐として太宰府に左遷されていた藤原広嗣(ひろつぐ=藤原宇合の長男)が、異例の抜擢人事をされた真備・玄昉両名排除の上表を行い(真意は諸兄批判と藤原氏の政権回復)、9月3日に筑前国遠賀郡(北九州)で挙兵する。大野東人(果安の子)を討伐大将に任じ、佐伯常人・阿倍虫麻呂が板櫃川を挟んだ論戦で鎮圧。広嗣は五島列島から朝鮮済州島へ逃亡を図るが、風で押し戻され五島列島に漂着し捕縛され、斬首された。約2ヶ月で鎮圧され、死罪26人・没官5人・流罪47人等287人が処罰された。

遷都の経緯

本来は事前にある程度造営し、遷都の詔をし、宮を移転し、京の整備造営という順序が普通だが、聖武の場合は、自分が先ず移動してから本格造営を開始し、明確な遷都の詔がない。恭仁京は、天平12年(740)12月6日「右大臣橘宿禰諸兄 在前而発・・・以擬遷都故也」。同年12月15日「皇帝在前幸恭仁宮 始作京都矣」。天平13年(741)1月1日「天皇始御恭仁宮受朝(朝賀を受け) 宮垣未就(未だ成らず)」。同年1月11日「・・伊勢大神宮・・奉幣 以告遷新京之状也」。同年11月21日「大養徳やまと恭仁大宮」と命名している。この後、天平14年(742)5月10日に越智山陵(斉明陵)が崩壊したり、地震・風雨・日照りに見舞われた。そして天平15年(743)12月26日には「遷造於恭仁宮四年・・・至是 更造紫香楽宮 仍停恭仁宮造作焉」と恭仁京造営を止めている。天平16年(744)閏1月1日朝堂に全官人を集め、恭仁京難波京どちらを都とするか問い、恭仁京は五位以上24人、六位以下57人。難波京は五位以上23人、六位以下130人。更に天平16年(744)閏1月4日市人(町人・商人)に問わせると皆恭仁京で、難波京は1人、平城京1人だった。難波宮は、天平16年(744)閏1月11日「行幸難波宮」。同年2月に恭仁京から駅鈴・内外印(天皇印と太政官印)や高御座・大楯(宮門に立てる盾)・武器を難波宮に遷し、26日に左大臣が代理で「今以難波宮定為皇都」と伝えた。紫香楽宮は、天平14年(742)2月5日恭仁京から近江国甲賀郡を通る東北道が通じ、天平14(742)8月11日「・・・近江国甲賀郡紫香楽村・・・為造離宮司」と離宮造営司を任命し、天平14年(742)8月27日・同年12月29日・天平15年(743)7月26日紫香楽宮行幸した。同年10月19日には「大仏を建立するため、紫香楽宮で寺地を開く」と詔し、天平16年(744)4月23日「以始営紫香楽宮」と造営開始。同年11月14日太上天皇(元正)行幸の際の記事では「甲賀宮」と言い改められている。天平17年(745)1月1日「廃朝(=天皇が政務に臨まない) 乍遷新京。伐山開地、以造宮室」とある。平城京に戻る際も、天平17年(745)5月2日太政官が全官人等を集め、何処を京とするか問うと皆平城と答えた。また5月4日四大寺の僧を集め問わせたところ、皆「平城京」と答えた。そして5月11日「・・・是時 甲賀宮空而無人 盗賊充斥 火亦未滅・・・行幸平城」と平城京に戻った。天皇が居住する所が「宮」なので、わざわざ遷都の詔をしなくても良いのかもしれないが、それにしても官人・従者は「えーーーっ?!」って感じだったろう。

そもそも聖武は、自分を謙遜・卑下する詔を度々発している。文武は「朕以菲薄之躬」、元明は「朕以菲薄之徳」、元正は「朕之薄徳」と、詔で謙遜の言葉を発してはいるが、中国の古王に準なぞらえた慣例的なもの。しかし聖武の場合は、神亀2年(725)9月「朕以寡薄・・・戦戦兢兢・・・(種々の天災)責深在予・・・」=「自分は人徳・見識が少なく・・・戦々恐々とし・・・(種々の天災)責任は深く予にある・・・」、天平3年(730)12月「(祥瑞である神馬が見つかった時に)・・・朕以不徳 何堪独受 天下共悦・・」=「徳が無い自分が一人で受けられない。天下共に悦よろこびたい・・」、天平4年(732)7月「春亢旱 至夏不雨 実以朕之不徳所致也・・・」=「春の日照りや、夏の不雨・・・実に自分の不徳の致すところ也・・・」、天平9年(737)疫病のピーク時にも「・・・良由朕之不徳 致此災殃 仰天慚惶 不敢寧処・・・」=「自分の不徳で、この災殃(さいおう=災難)に致った。天を仰いで畏れ恥じ入っており、どうしても安らかに居られない・・・」等々、「自分の徳がない」ことを儀礼的に謙遜するというより、真の悩みとして吐露しているように思える。そして20回以上「大赦(国家として種々の罪を許すこと)」を行っているが、吉事より圧倒的に凶事の際が多く、その度に「朕之不徳・・・」と詔する程で、深く仏教に帰依したことや、彷徨・遷都といった行動も、こうした性格の故なのかもしれない。とはいえ天平17年(745)4月の3ヶ所での山火事や同月27日から始まり、天平19年(747)5月まで20数回を数える地震は、過去に例を見ない災害であり、為政者としては心が打ちひしがれる状況だったかもしれない。

事蹟と譲位

上記の様な性格からか、聖武は深く仏教に帰依し、天平13年(741)3月24日国分(金光明四天王護国之寺)国分尼寺(法華滅罪之寺)建立を詔し、天平15年(743)5月27日墾田永年私財法を制定する。これがいずれ律令制の根幹が崩れることに繋がる。天平15年(743)10月15日東大寺盧舎那仏=大仏建立の詔をする。聖武唯一の皇子=安積あさか親王が、天平16年(744)閏1月18歳で急逝する。天平勝宝元年(749)5月史上初めて天皇在位のまま出家し、7月娘で皇太子の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位した。一説には、自らを「三宝の奴」と称した天皇が独断で出家し、それを受けた朝廷が慌てて手続を執ったとも。 譲位した初の男性天皇である。天平勝宝4年(752)4月東大寺で大仏の開眼法要が行われた。なお、天平勝宝6年(753)唐から鑑真が遣唐使の帰国に便乗し来日している。

「天武と中臣鎌足娘=五百重娘いおえひめの子=新田部親王」の子である道祖王ふなどおうを皇太子にするよう遺詔を残し同8年(756)5月56歳で崩御する。

陵の考古学名は法蓮北畑古墳だが、詳細不詳。

聖武陵参道        制札           拝所遠景          拝所

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(2019.11)恭仁京大極殿跡                             案内

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親王

2021年(R3)8月26日(木)参拝。奈良市法蓮佐保山3丁目。2006年に閉園した奈良ドリームランド跡地東に隣接。44号線沿いに進入口があり、進入口脇に碑がある。神亀4年(727)閏9月29日誕生し、32日目に立太子されるが、翌年9月13日1才直前で夭逝する。『続紀』には「9月19日葬於那富山」とある。

             進入口の碑(左図赤〇)    拝所遠景         制札

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安積あさか親王

2019年(R1)11月8日(金)参拝。京都府相楽郡和束町。「県犬養広刀自(あがたのいぬかいのひろとじ=光明の母方の従姉妹)との子」で、基親王誕生の少し後に誕生したとされる。基親王夭折後、聖武唯一の皇子であったが、天平16年(744)閏1月11日難波宮行啓の途中で脚病(脚気)になり、恭仁京に戻り2日後の13日に17歳で急逝する。藤原仲麻呂による暗殺説もある。考古学名は太鼓山古墳。円形で径8m・高さ1.5m、墓域988㎡。明治11年(1878)に治定された。

遠景北東望     拝所遠景       制札        拝所         裏(北東)側

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光明皇后陵『佐保山東陵』

2016年(H28)2月9日(火)参拝。奈良市法蓮町。聖武陵の東に隣接。

藤原不比等橘三千代の娘(不比等の三女)。幼名は光明子安宿媛あすかべひめとも。持統・橘三千代と同じく幼少期に河内国「安宿あすかべの(河内飛鳥の北=羽曳野市東部・南河内郡太子町。別称近つ飛鳥)」で養育された。特に、光明子はこの地の飛鳥戸造あすかべのみやつこに養育された。飛鳥戸造は「新撰姓氏録しんせんしょうじろく」では百済人とある。霊亀2年(716)16歳で同年齢の皇太子=首皇子の妃となった。718年阿倍内親王(後の孝謙=称徳)を産む。神亀元年(724)夫の首が24才で即位。神亀4年(727)基皇子を産み即立太子させたが翌年夭折。天平元年(729)8月24日皇后に立后。本来、家臣の娘は「妃」までで、皇女でないと「皇后」にはなれない慣例だったが、唯一の仁徳天皇皇后=磐之媛(=葛城襲津彦そつひこの娘)の先例を引き合いに出し立后される。2例目の皇族以外からの立后であり、以後、皇族以外の子女が皇后になる先例となった。

娘である阿倍内親王天平勝宝元年(749)46代孝謙天皇としての即位後、従来の皇后宮職(皇后の諸事を司る家政機関)紫微中台しびちゅうだいと改め、甥の藤原仲麻呂(藤原武智麻呂の次男)を長官に任じ、仲麻呂台頭の契機を作った。更に、聖武天皇共々、仏教に深く帰依し、東大寺および国分寺の設立を進言したとの説もある。両親の藤原不比等県犬養橘三千代を供養するために一切経を発願したり(五月一日経)、救貧施設=悲田院ひでんいんや医療施設=施薬院せやくいんを設置して慈善活動に従事した。夫の聖武天皇崩御後、四十九日に遺品を東大寺に寄進し、現在までいわゆる正倉院」の宝物として伝わっている。さらに、興福寺法華寺・新薬師寺等多くの寺院創建や整備にも関わった。

天平勝宝8年(756)崩御し、その2年後に「天平応真仁正皇太后」の尊号が贈られている。

聖武陵参道        分岐           拝所遠景         拝所 

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観音塚古墳

2019年3月8日(金)訪問。大阪府羽曳野市はびきのし飛鳥。大谷古墳群や奉献塔山ほうけんとうやま古墳辺りからなら、南河内グリーンロードを1.5km程(左下図緑矢印)近鉄南大阪線上ノ太子駅からなら北東に600m程。大きな溜池の手前を左折し(道標がある)、池沿いに60~70m行くと、左手に急な階段があり、そこを登った所。

          道標            見上げ          見下ろし

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*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

飛鳥千塚古墳群B支群の一つ。7世紀の終末期古墳。葡萄畑として利用され、盛土の一部が失われていたため、墳丘の規模や形状は不明瞭だが、径12mの方墳か円墳とみられている。埋葬施設は、周辺で産出する石英安山岩の切石を組み合わせた横口式石槨で、石槨部前方に前室・羨道が付き、F支群の鉢伏山西峰古墳と類似する。石槨は明治以前から開口しており、副葬品は不明。

飛鳥千塚古墳群は以下を参照下さい。

飛鳥千塚古墳群 - OSAKA-TOM’s diary

案内           石槨北東望        羨道西側壁        東側壁

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前室入口下部には、敷居状の石が置かれた後、柱状の石材を両側に立て、その上に梁石を架け渡しており、扉がはめ込まれていたようだ。前室側壁は、西側8石、東側7石の切石が、隙間なく組合わされている。

開口部          前室入口         西側壁          東側壁

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前室奥には、石槨部床面に高さを合わせた切石が、石槨部入口に密着して据えられている。石槨部は、長さ約1.9m・幅約0.9m・高さ約0.8mで、南小口に幅0.8m・高さ0.6mの横口を設け、扉をはめ込む段が造り出されている。石槨部は身と蓋の2石で構成され、天井石内側を、家形石棺の内側の形に整えている。こうした高度な石積み技術は、朝鮮半島百済系という見解があり、石槨部構築には高麗尺が用いられたという説もある。

前室奥下部        上部           石槨南小口        石槨内

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オウコ古墳群

残念ながら、訪問当日は、葡萄畑のビニールハウスの設置作業中(下図黄〇)で、登ることができなかったので、情報だけ記載します。(古墳群は左下図白◇枠辺り)

位置関係                       観音塚からオウコ古墳群方面

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羽曳野市飛鳥。寺山から南西に伸びる尾根の頂上辺りに、13基の小規模な古墳が群集しており、精巧に加工された石材による横口式石槨を持つオウコ8号墳がこの中にある。約20mの方墳か円墳と考えられるらしい。石槨部の前には羨道・前室が付き、石材の隙間には漆喰が残る。羨道入口の両側壁の前面は、約60度で斜めに加工されており、築造当初には墳丘斜面に沿って露出していたのではないかと考えられている。石槨内から若干の土器が見つかり、その特徴から7世紀中頃の築造と推定される。石槨部分は奥・底共各一石、側壁・天井各二石、計八石の切石を組合わせ、長さ1.9m・幅0.76m・高さ0.6m。石槨入口の天井石に彫られた横方向の浅い溝は扉をはめ込むためのものと思える。

詳しくは、羽曳野市HPの以下を参照下さい。

オウコ8号墳/羽曳野市

飛鳥千塚古墳群

2019年3月8日(金)訪問。飛鳥千塚古墳群は大阪府羽曳野市はびきのし駒ケ谷こまがたに~飛鳥=鉢伏山はちぶせやまの西麓から南麓。北側の玉手山古墳群から、駒ヶ谷古墳群(大半消滅)と続き、その東側辺りに位置する。6世紀~7世紀にかけて造営された渡来系氏族の墓域と考えられている。葡萄畑の開墾等でかなり削平され、今では130 基ほどしか残っていない。7つの支群グループに分けられ、大半は径約10m・高さ5m程の円墳で、横穴式石室内には木棺や家形石棺が納められていた。周辺は葡萄畑が一面に広がる。

                       右下図の白く見えるのが、葡萄畑のビニールハウス。

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                       黄色は奉献塔山古墳(下記参照)

大阪府地図情報提供システムは以下を参照下さい。(文化財地図→埋蔵文化財)

https://www11.cals.pref.osaka.jp/ajaxspatial/ajax/

 

大谷古墳群

飛鳥千塚古墳群F支群に属する。羽曳野市駒ケ谷850辺りのスポーツ公園の西に隣接する。公園造成工事前の調査で6基の古墳が発見されたが、墳丘封土は大半流出し、石室も半壊していた。埋葬施設はすべて南に開口する横穴式石室。遺存状態の良かった2・3・6号墳を保存している(3・6号墳は移築保存され、当初の配置とは異なる)。

公園進入口                     現在配置案内       当初の配置模型

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*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

2号墳

案内には径24mの円墳とある。副葬品としてミニチュア炊飯器セット・石棺の破片・木棺に使用された鉄釘も見つかっている。初葬は木棺で埋葬され、最終的に石棺で埋葬されたのではないかと言われる。

全景                        奥壁           案内

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3号墳

径13mの円墳とされ、現在は2号墳の北側に移築復元されているが、当初は東側にあったようだ。

6号墳

10m程の方墳か円墳。2号墳と3号墳の間にあったもの。現在は2号墳北側に移築復元されている。

3号墳                       6号墳

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*三つ塚古墳群

大谷古墳群とグラウンドを挟んで東側。グランドの南東角の東側辺りに、3基の古墳が南北に並んでいたらしい。石室の羨道側天井部が崩落しており、そこから石室内部が見れたそうだが、確認できていません。

切戸1号墳

羽曳野市駒ヶ谷の鉢伏山の西中腹、霊園の中にある。大谷古墳群への進入口から、直線距離で330m、経路距離でも380mだが、かなりキツい坂なのでご注意下さい。霊園入口から左上に登った所。

大谷古墳群から遠望    霊園入口         大谷古墳群見下ろし    位置

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飛鳥千塚F11号墳。古墳時代後期、径12mの円墳。右片袖型横穴式石室で、木棺2体分と陶棺出土。遺物は鉄釘・須恵器・土師器・耳環・金箔・馬具等鉄製品。2号墳(飛鳥千塚F12号墳=消滅)とともに切戸古墳群と呼ばれる。墳丘は半壊し、石室天井石は1枚残るだけ。石室の全長は7m程で、玄室の長さは3.5m前後、幅は1.8m前後。大阪府地図情報提供システム位置と霊園の状況からして、少し北側に移築されているのかも・・・?

遠景北東望                                  奥壁

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西側壁          東側壁          俯瞰南西望 

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鉢伏山西峰古墳

飛鳥千塚F4号墳。切戸1号墳のある霊園の南側の霊園西脇にある。7世紀中頃の方墳。鉢伏山の西側丘陵で、標高135m程にある。1994年(H6)発掘調査実施。調査前から横口式石槨が開口していたとのこと。墳丘は石英安山岩の岩盤を整形後に盛土し、墳丘東側辺約12m、西側辺20mの台形状である。墳丘背後には墳丘と地山の尾根を区画する溝が掘られていた。墳丘前面には地山の整形や盛土でテラス状の平坦面が設けられていた。墳丘外表の貼石や外護列石は当初は無かったらしい。 

             標識西望         全景北西望        案内

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西面東望         北東望          南東望          東面から南西望 

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主体部は横口式石槨で、西方向に開口し、石槨部前方に前室・羨道が付く。羨道はかなり破壊されており、南側壁面の石材が3個だけ残っているが、原位置を留めるのは1石のみ。羨道部幅は1.2mと推定される。羨道床面には石英安山岩の割石を両側に並べ、小礫を充填し、扁平な石で蓋をした排水溝があったとのこと。前室入口には、石英安山岩の切石材が設置され、床面より一段高い。前室は両側壁上部と天井石は欠損していたが、長さ2.4m・幅1.2m。南側壁の石材はL字状に加工されているものもある。前室床面には二上山産の凝灰岩切石が敷きつめられていた。切石はブロック状だが、大きさは一定しておらず、一辺が30cm~50cm前後で、厚さ約15cm程。棺が安置された石槨部は、内法長約2.7m・幅約0.8m・高さ0.7m、石英安山岩の基盤層の岩盤を刳り抜いて整形し、石槨部の奥壁・両側壁や床面を造り出しており、石槨部と基盤層は繋がっている。天井部分のみ別の切石材を用いている。石槨部には漆喰の痕跡も残る。

石槨東望      前室北側壁     南側壁        石槨

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奉献塔山ほうけんとうやま古墳

大谷古墳群から南東(直線距離で350m程)、葡萄畑のビニールハウスに囲まれた古墳。近接した2基の間に宝篋印塔が建っている。2基とも横穴式石室の径約10m~20mの円墳。石室の大半は破壊されていたが、1950年(S25)に発掘調査が実施され、凝灰岩製の石棺破片・須恵器や土師器の他、青銅製の椀や馬具・刀装具・飾履等の破片・炊飯具のミニチュアの土器が出土。6世紀末頃の築造と推定されるらしい。

 

奉献塔山古墳から、南河内グリーンロードを1.5km程南東に行くと観音塚古墳がある。

観音塚古墳 - OSAKA-TOM’s diary

玉手山古墳群

2019年3月8日(金)訪問。近鉄大阪線河内国分駅の西側約400m、大阪府柏原かしわら市片山町にある1号墳を北端として、南の10号墳まで、ほぼ直線的に並ぶ。築造順の通説は「9→3→6→2→1→5→4→8→7→10号墳」とのこと。ただし、4・5・6・10号墳は消滅。1・2・3・7・8・9号墳が残るが、8・9号墳辺りは立ち入れないので、見れるのは1・2・3・7号墳と言う事になる。
なお、7号墳の北西150m程麓に、安福寺横穴群があり、併せて見学できる。

詳細は柏原市の以下のサイトを参照下さい。

1.玉手山古墳群 | 大阪府柏原市

 

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玉手山1号墳(小松山古墳)

柏原市片山町。上図①。全長110mの前方後円墳。後円部径58m・高さ10m、前方部平坦面は北向きバチ形で最大幅20m・高さ2m。後円部4段もしくは3段築成。後円部墳頂に板石を積み上げた方形壇があり、その中心に竪穴式石室の存在が推定される(私有地で調査未了)。後円部墳丘基底部に接して、楕円筒埴輪を2本縦につないだ埴輪棺が1基発掘された。前方部でも粘土郭1基が確認された。くびれ部では葺石とテラスに立つ埴輪列が確認され、テラス面に白色の円礫が敷かれていたらしい。墳形がメスリ山古墳(桜井市、4世紀初頭)に似ており、築造時期も4世紀代と思われる。墳頂に大坂夏の陣で亡くなった奥田三郎右衛門忠次の墓がある。

河内国分駅西口東望        古墳群方面東望           道標

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*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

1号墳方面                               駅方面見返り

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後円部北東望       案内                        登り口

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前方部北望        2段目テラス        後円部墳頂        墓碑

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2号墳

柏原市片山町。上図②。全長80m前後の前方後円墳。全面が墓地として利用され調査されていない。板石が散布し竪穴式石室の可能性がある。地元住民の話で刳抜式の石棺が存在したと判明したとのこと。

1号墳からの遠景南西望  南望           2号墳西脇古戦場跡碑    1号墳遠景北東望

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3号墳(勝負山かちまけやま古墳)

柏原市旭ケ丘1丁目。上図③。市立老人福祉センターの南側に隣接する。前方部を西南西に向けるが、南側はかなり削平されている。元は墳丘長100~110m程の前方後円墳。後円部墳頂平坦面に竪穴式石室を確認。管玉4点・紡垂車形石製品2点・銅鏃13点・鉄剣または鉄槍1点以上・鉄刀1点以上・鉄鏃14点以上・小札80点以上・ヤリガンナ3点以上・鑿2点以上が出土し、3世紀末頃に位置づけられるとのこと。安福寺境内所蔵の割竹形石棺(蓋部分)は3号墳出土と伝えられる。

センター玄関裏登り口   案内           後円部墳頂        前方部西端東望

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*古墳案内の内容はやや古い場合があり、設置後新たな発掘調査で、内容が更新されている場合があります。

7号墳(後山古墳)

柏原市玉手町。上図⑦。後円部が玉手山公園内、前方部が安福寺境内。玉手山公園の東入口から上がる。前方部を西北西に向けた110mの前方後円墳(かっては150mとされていた)。3段築成。後円部と前方部各段のテラスが、くびれ部でスロープ状につながっていることが確認された。墳丘大部分は地山を整形し、後円部墳頂にのみ1m程度の盛土があった。墳形は行燈山古墳(天理市崇神陵、4世紀前半)に似ている。墳丘表面では葺石・埴輪(円筒・朝顔形・家形埴輪)が認められた。埋葬施設は後円部墳頂で2基(第1主体・第2主体)。後円部中央の第1主体は、南北7m・東西6~6.5mの大型の墓壙があり、一説に石棺直葬と推定される。第2主体は第1主体の南西への追葬で、大型粘土槨が完存するが、未調査のため不詳とのこと。埴輪のほか、滑石製盒子・滑石製小型丸底壺・土師器直口壺が出土。4世紀中頃の築造とされる。

公園東口      公園案内       後円部墳頂     案内         前方部方面

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以下、情報のみ。

8号墳(東山古墳)

柏原市旭ケ丘2丁目。上図⑧。7号から200m程南の玉手山丘陵最高所。貯水タンクの西に隣接。前方部北向き。墳丘長80m、後円部径40m・高さ4m、前方部最大幅30m。墳丘東西斜面が地滑で損傷。竪穴式石室が盗掘を受けたもという。

9号墳(クサダ谷古墳)

柏原市旭ケ丘2丁目。上図⑨。前方部を南に向けた全長65m程の前方後円墳。後円部径約33m・高さ5.7m、前方部最大幅は約17m、高さ2.6mで、いわゆる柄鏡形。後円部3段、前方部2段築成。各段の間には幅の狭いテラスが巡っていたらしい。葺石はくびれ部で良好に残り、墳丘全面を石川の河原石で覆っていた。墳丘は大半が地山整形で、後円部墳頂は1mだけ盛土。くびれ部テラス面に円筒埴輪が並び、その間には木の柱(木製蓋きぬがさや盾)を立てた跡があり、くびれ部の一画は祭祀の場と思われるとのこと。後円部に竪穴式石室があり、1982年に調査。竪穴式石室は安山岩の板石を積み上げ、割竹形木棺が置かれていた模様。鉄剣・勾玉2点・琴柱形ことじがた石製品2点等が出土。

以下、消滅したもの。

4号墳(消滅)

50m程の前方後円墳と推定されるが開発により消滅。消滅前1960年に調査され、粘土槨を検出。墓坑平面は隅丸方形で長さ6m・幅約3m。墓坑底には礫を敷き、その一部に板石を敷き粘土槨が設置されていた。木棺は長さ約5m・幅は北端0.75~0.9m。北側(頭部)棺床に朱が塗られていた。棺内から硬玉製勾玉・碧玉製管玉・紡錘車。粘土槨から鉄鏃・銅鏃・鉄刀・鉄剣・斧等の鉄製品が出土。また粘土槨北東部上面から直弧文を配した漆塗りの盾や鉄鏃・銅鏃等が出土したらしい。

5号墳(鏡割古墳 消滅)

75m程の前方後円墳。開発に伴う緊急調査で、後円部中央で竪穴式石室(先行)、1m西側に粘土槨(後行)、前方部の北側と南側で粘土槨が確認された。後円部石室は長さ約5m・幅約1m程で、墓坑底は石室構築部分のみを基台状に堀り残し、その周囲に礫を詰め、基台上にも薄く礫を敷き、更に板石を二重に敷いている。その上に粘土棺床を設置し、粘土床側面にも板石を張付けた上で、粘土棺床上面にまた礫を敷き、その上に石室の壁体を積上げるという入念な構造。盗掘にあっているが、碧玉製管玉・鍬形石・巴型銅器・鉄鏃・鉄斧・銅鏃等が出土。西側粘土槨は大半破壊されていたが、粘土槨に湾曲の朱層があり、割竹形木棺と推測され、斧・ヤリガンナ・鎌等の鉄製工具類が出土。前方部の北側粘土槨(先行、長さ5m)からは、碧玉製と緑色凝灰岩製の紡錘車各1点・鉄刀・鉄剣・鉄製工具類等出土。南側粘土槨からは石釧・ヤリガンナが出土。

6号墳(すべり台古墳 消滅)

69mの前方後円墳。1960年に調査され、後円部の中央と東側で竪穴式石室を検出。中央石室の棺内から画文帯神獣鏡2面・石釧・硬玉製管玉・碧玉製管玉・ガラス小玉、棺外(粘土棺床と石室壁体との間)から鉄刀・鉄剣・刀子・鉄鏃・銅鏃・鉄斧・革綴冑小札等が出土。東側石室からは内行花文鏡・硬玉製勾玉・碧玉製勾玉・鉄刀・刀子・大形板状鉄斧・鉄斧・錐・ヤリガンナ・鉄鏃・タガネ等出土。東側の石室は7号後円部南側に復元されている。(なお、その横に6世紀の横穴式石室に納められていた組合せ式家形石棺が移築復元されているが、どこのものか案内には書かれていない。)

6号移築復元石室                   案内           家形石棺

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10号墳(北玉山古墳 消滅)

全長48.5mの前方後円墳。後円部径33m、前方部幅19.5mで、前方部が短い。後円部3段、前方部2段築成。1952年石室を調査。1966年に前方部粘土郭が調査された。捩文ねじりもん鏡1面・鉄剣1本・鉄製品3点等出土。後円部石室内法は長さ5.5m・高さ1.1m。硬玉製勾玉・滑石製勾玉・碧玉製管玉・土師器小型丸底壷・皮革製品・鉄刀・鉄剣・鉄矛・鉄鏃・銅鏃・刀子・鎌・鍬・斧等が出土。西名阪道建設で破壊。

*11号墳(消滅)

柏原市HPでは、西名阪道建設で破壊された10号墳までを玉手山古墳群としているが、その10号墳から南東250m程、現柏原市南端(円明町1000-29~30)にあった。大阪府(埋蔵物)地図情報システムには玉手山11号墳とされており、住所が柏原市なので、一応ここで紹介しておく。

 

安福寺横穴群は以下を参照下さい。

高井田横穴群 - OSAKA-TOM’s diary

 

藤ノ木古墳周辺

藤ノ木古墳・斑鳩大塚古墳、2017年9月25日(月)訪問。戸垣山古墳・甲塚古墳・春日古墳・仏塚古墳・瓦塚古墳群・駒塚古墳・調子丸古墳、2022年3月11日(金)訪問。

2017年9月当時の散策ルート

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斑鳩大塚古墳

2017年9月25日(月)訪問、奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺南1丁目14周辺。5世紀前半頃の築造で斑鳩町では最古級。忠霊塔の建設関連で、1953年(S28)発掘調査し、銅鏡・石釧(いしくしろ=石製腕輪)・筒形銅器(通説では、杖や槍・⽭等の柄尻に取付けられた)・甲冑片・武器等多数の副葬品が出土した。当初、径35m程度の円墳と考えられてきたが、2015年前方後円墳または帆立貝型古墳だった可能性を示す前方部が見つかり、従来の想定より規模も大きかったらしい。

遠景北望              忠霊塔西望

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*写真は2017年。季節や経過年数により周辺の様子や目印が変わることが多いので注意ください。

藤ノ木古墳

2017年9月25日(月)訪問。斑鳩町法隆寺西2丁目1。法隆寺西院伽藍の西350mに位置。6世紀後半築造の円墳。

遠景北西望     案内         南側南西望     石室開口部     2022年

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*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

径約50m・高さ9m。従前、大和での埴輪設置は6世紀前半が最後とされていたが、墳裾に円筒埴輪が並べられており従来説を訂正する契機となった。稀に見る未盗掘の両袖型横穴式石室で、全長14m弱、羨道長約8.3m・幅約1.8〜2.1m。玄室長は西壁側約6m・東壁側約5.7m、幅約2.4〜2.7m・高さ約4.2〜4.4m、玄室床に礫が敷かれ、その下を排水溝が玄室中央から羨道を通って墳裾へ敷かれていた。玄室奥に二上山白色凝灰岩製の刳抜式家形石棺が安置され、成人男性2体が合葬されていた(北側は17~25才、やや横向き)。石棺内外は、水銀朱(赤色顔料)が塗られていた。約2.35×1.3×0.97m、蓋は約2.3×1.3m×厚さ0.52~0.55mで縄掛突起が付く。棺は幅・高さ共に西側より東側の方がやや大きく台形状。副葬品は金銅製馬具や装身具類・刀剣類等で、被葬者は当時の支配階級と考えられるが、円墳であるため、大王級ではない皇族と推測されている。『紀』にある587年6月蘇我馬子に暗殺された穴穂部皇子(あなほべ=31代用明天皇皇子)と宅部皇子(やかべ=28代宣化天皇皇子)説や、「元々穴穂部皇子の陵墓であった所に同母弟崇峻天皇が合葬された」との説等がある。また、南側被葬者は女性説(磐隈皇女)や茨城うまらぎ皇子説もある。
(石棺外出土)金銅鞍金具1、鉄地金銅張鞍金具残欠、金属製品(馬具類・挂甲小札・刀身・鉄鏃・鉄製模造品等)・土師器3・須恵器46。
(石棺内出土)獣帯鏡1・画文帯神獣鏡2・神獣鏡1・金属製品(金銅冠・金銅飾履2足分)、金銅製・銀製装飾品類・刀剣類・ガラス製品。

古墳の南側200m程に斑鳩町文化財活用センター(斑鳩町法隆寺西1-11-14)がある。副葬品レプリカ展示や、発掘当時のスライドが見学できる。

レプリカ石棺屋外展示       案内

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展示例                                    スライド一例

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2022年3月11日(金)戸垣山古墳・甲塚古墳・春日古墳・仏塚古墳・瓦塚古墳群・駒塚古墳・調子丸古墳。

戸垣山古墳

下図①。生駒郡斑鳩町龍田南2丁目。奈良県遺跡地図の07D-0044。数基あったらしいが他は消滅。住宅に隣接し、道路側の墳裾はブロック擁護壁があり、うっかりすると通り過ぎそう。墳丘には登れるが、当日は墳頂の埋葬施設発掘調査のため立入禁止。東西約20m・南北約21m・東側高さ3.6m・西側3.1mの方墳とのこと。2011年調査で埴輪片が出土。周辺田畑でも土師器片・須恵器片等も検出され、他地域の方墳との比較で、5世紀代とされている。

           西望        南望        南東望       東望

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甲塚古墳

下図②。斑鳩町龍田北1丁目11。奈良県遺跡地図の07D-0141、藤ノ木古墳の西南西175m。2016年調査で、最大径約30mの円墳の可能性があるとのこと。竪穴式の施設(南北3m以上・東西0.7m以上)で、5世紀代の銅鏡(径6cm)が出土し、水銀朱の付着や、鏡周辺で赤色顔料が確認されたとのこと。5世紀~6世紀中頃築造とも推測され、斑鳩周辺の藤ノ木古墳築造前段階の状況を示すとも・・・。

           遠景西望      近景西望      南東望      藤ノ木古墳遠景東望

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春日古墳

下図③。斑鳩町法隆寺西1丁目6。奈良県遺跡地図の07D-0029、藤ノ木古墳の北東150m。墳丘の南裾に春日明神の小さな祠があり、古墳名由来と思われる。現状径約22m・高さ約6mだが、元々30m程の円墳とも。葺石・埴輪は認められず、埋葬施設は不明だが横穴式石室で、古墳時代後期~終末期築造の可能性があるとのこと。古墳としては殆ど知られていないだろう。

          進入路の案内     遠景東望      祠         藤ノ木古墳南西望

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仏塚古墳

下図④。斑鳩町大字法隆寺。奈良県遺跡地図の07D-0089。田圃の中にポツンとある。現状は南北16m・東西18m・高さ4mだが、元は辺23mの方墳らしい。やや南西方向に両袖型横穴式石室が開口する。現状石室長9.4m、羨道長5.5m・幅1.4~1.8m、玄室長3.9m・幅1.9~2.2m・高さ2.7mとのこと。大半は小型石材を積んでいる。亀甲型の陶棺片が2~3棺分検出され、馬具・金環・刀子・土師器・須恵器(坏蓋・高坏・壷・器台)等が出土。中世には仏堂として再利用されていたようで、6世紀末頃築造と推定される。

          遠景北望      北東望        近景北西望      開口部

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*↑経路写真はGoogleマップーストリートビューの画像を編集加工しています。

玄室        玄門部と側壁               西面南望       墳頂から南望

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瓦塚古墳群

下図⑤。斑鳩町大字三井。3基の古墳群。瓦塚2号墳後円部の西側斜面に「三井瓦窯跡」があり瓦塚と呼ばれていた。

1号墳 奈良県遺跡地図の07D-0053。1975年調査の結果、復元全長97m、後円部径60m・高さ8m、前方部幅47m・高さ2mと判明したらしい。墳丘西側は道路で削られている。2段築成で上下2段に円筒・壷形・朝顔形埴輪列が巡っていたそうで、遺物の魚形土製品片等から、5世紀前半築造と推定され、埋葬施設は竪穴式石室か粘土槨と考えられるとのこと。一応墳丘に登っては見たが、墳形は殆ど確認できない。

2号墳 奈良県遺跡地図の07D-0054。1976年の測量調査で、復元全長95m、後円部径60m、前方部幅45mで1号墳と同じ規格らしい。出土した円筒埴輪は1号墳と酷似し、同時期築造と思われる。三井瓦窯跡が後円部の西側斜面に遺存する。後円部を除き墳形は殆ど確認できない。
3号墳 奈良県遺跡地図の07D-0094。径40mの円墳。現在墳形は殆ど確認できず、場所も特定できない。

          遠景東望       窯跡案内      窯跡 

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2号墳後円部西側   見下ろし       3号墳辺り?              1号墳西側北望

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駒塚古墳

下図⑥。斑鳩町東福寺1丁目4。奈良県遺跡地図の07D-0074。現状全長49m以上、後円部径34m・高さ5.5m、 前方部幅18m以上・高さ約2m、前方部を南に向ける。各2段築成。葺石と埴輪はあったが周濠は確認されていない。埴輪の出土量が少ないため、墳頂の一部のみ等と考えられるらしい。聖徳太子の愛馬「黒駒」を葬ったとする伝承が名称由来かも。ただ、出土土器等から4世紀後半頃と推定される。

          遠景東望      前方部北望      後円部方面北望   前方部南端西望

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調子丸古墳

下図⑦。斑鳩町東福寺1丁目5。奈良県遺跡地図の07D-0075。駒塚古墳の南約100m、田圃の畦道を通って行ける。太子の馬丁であった調子丸の墓との伝承が名称由来。聖徳太子のいた6世紀初頭と、築造年代にはかなり差がある。

          遠景南東望      東望         北東望       駒塚遠景北望

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