OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

飛鳥千塚古墳群

2019年3月8日(金)訪問。飛鳥千塚古墳群は大阪府羽曳野市はびきのし駒ケ谷こまがたに~飛鳥=鉢伏山はちぶせやまの西麓から南麓。北側の玉手山古墳群から、駒ヶ谷古墳群(大半消滅)と続き、その東側辺りに位置する。6世紀~7世紀にかけて造営された渡来系氏族の墓域と考えられている。葡萄畑の開墾等でかなり削平され、今では130 基ほどしか残っていない。7つの支群グループに分けられ、大半は径約10m・高さ5m程の円墳で、横穴式石室内には木棺や家形石棺が納められていた。周辺は葡萄畑が一面に広がる。

                       右下図の白く見えるのが、葡萄畑のビニールハウス。

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                       黄色は奉献塔山古墳(下記参照)

大阪府地図情報提供システムは以下を参照下さい。(文化財地図→埋蔵文化財)

https://www11.cals.pref.osaka.jp/ajaxspatial/ajax/

 

大谷古墳群

飛鳥千塚古墳群F支群に属する。羽曳野市駒ケ谷850辺りのスポーツ公園の西に隣接する。公園造成工事前の調査で6基の古墳が発見されたが、墳丘封土は大半流出し、石室も半壊していた。埋葬施設はすべて南に開口する横穴式石室。遺存状態の良かった2・3・6号墳を保存している(3・6号墳は移築保存され、当初の配置とは異なる)。

公園進入口                     現在配置案内       当初の配置模型

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*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

2号墳

案内には径24mの円墳とある。副葬品としてミニチュア炊飯器セット・石棺の破片・木棺に使用された鉄釘も見つかっている。初葬は木棺で埋葬され、最終的に石棺で埋葬されたのではないかと言われる。

全景                        奥壁           案内

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3号墳

径13mの円墳とされ、現在は2号墳の北側に移築復元されているが、当初は東側にあったようだ。

6号墳

10m程の方墳か円墳。2号墳と3号墳の間にあったもの。現在は2号墳北側に移築復元されている。

3号墳                       6号墳

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*三つ塚古墳群

大谷古墳群とグラウンドを挟んで東側。グランドの南東角の東側辺りに、3基の古墳が南北に並んでいたらしい。石室の羨道側天井部が崩落しており、そこから石室内部が見れたそうだが、確認できていません。

切戸1号墳

羽曳野市駒ヶ谷の鉢伏山の西中腹、霊園の中にある。大谷古墳群への進入口から、直線距離で330m、経路距離でも380mだが、かなりキツい坂なのでご注意下さい。霊園入口から左上に登った所。

大谷古墳群から遠望    霊園入口         大谷古墳群見下ろし    位置

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飛鳥千塚F11号墳。古墳時代後期、径12mの円墳。右片袖型横穴式石室で、木棺2体分と陶棺出土。遺物は鉄釘・須恵器・土師器・耳環・金箔・馬具等鉄製品。2号墳(飛鳥千塚F12号墳=消滅)とともに切戸古墳群と呼ばれる。墳丘は半壊し、石室天井石は1枚残るだけ。石室の全長は7m程で、玄室の長さは3.5m前後、幅は1.8m前後。大阪府地図情報提供システム位置と霊園の状況からして、少し北側に移築されているのかも・・・?

遠景北東望                                  奥壁

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西側壁          東側壁          俯瞰南西望 

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鉢伏山西峰古墳

飛鳥千塚F4号墳。切戸1号墳のある霊園の南側の霊園西脇にある。7世紀中頃の方墳。鉢伏山の西側丘陵で、標高135m程にある。1994年(H6)発掘調査実施。調査前から横口式石槨が開口していたとのこと。墳丘は石英安山岩の岩盤を整形後に盛土し、墳丘東側辺約12m、西側辺20mの台形状である。墳丘背後には墳丘と地山の尾根を区画する溝が掘られていた。墳丘前面には地山の整形や盛土でテラス状の平坦面が設けられていた。墳丘外表の貼石や外護列石は当初は無かったらしい。 

             標識西望         全景北西望        案内

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西面東望         北東望          南東望          東面から南西望 

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主体部は横口式石槨で、西方向に開口し、石槨部前方に前室・羨道が付く。羨道はかなり破壊されており、南側壁面の石材が3個だけ残っているが、原位置を留めるのは1石のみ。羨道部幅は1.2mと推定される。羨道床面には石英安山岩の割石を両側に並べ、小礫を充填し、扁平な石で蓋をした排水溝があったとのこと。前室入口には、石英安山岩の切石材が設置され、床面より一段高い。前室は両側壁上部と天井石は欠損していたが、長さ2.4m・幅1.2m。南側壁の石材はL字状に加工されているものもある。前室床面には二上山産の凝灰岩切石が敷きつめられていた。切石はブロック状だが、大きさは一定しておらず、一辺が30cm~50cm前後で、厚さ約15cm程。棺が安置された石槨部は、内法長約2.7m・幅約0.8m・高さ0.7m、石英安山岩の基盤層の岩盤を刳り抜いて整形し、石槨部の奥壁・両側壁や床面を造り出しており、石槨部と基盤層は繋がっている。天井部分のみ別の切石材を用いている。石槨部には漆喰の痕跡も残る。

石槨東望      前室北側壁     南側壁        石槨

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奉献塔山ほうけんとうやま古墳

大谷古墳群から南東(直線距離で350m程)、葡萄畑のビニールハウスに囲まれた古墳。近接した2基の間に宝篋印塔が建っている。2基とも横穴式石室の径約10m~20mの円墳。石室の大半は破壊されていたが、1950年(S25)に発掘調査が実施され、凝灰岩製の石棺破片・須恵器や土師器の他、青銅製の椀や馬具・刀装具・飾履等の破片・炊飯具のミニチュアの土器が出土。6世紀末頃の築造と推定されるらしい。

 

奉献塔山古墳から、南河内グリーンロードを1.5km程南東に行くと観音塚古墳がある。

観音塚古墳 - OSAKA-TOM’s diary