2017年10月5日。和歌山県北部の釜山古墳・車駕之古址古墳跡・高芝古墳群1号墳・大谷古墳・岩橋千塚古墳群
釜山古墳
和歌山市木ノ本。上図左上水色枠線。径40m・高さ7mの円墳で、葺石・周濠を備える。明治時代の発掘調査で玉類や直刀・鉄鏃・挂甲小札等が出土している。5世紀代の築造。1958年(昭和33)県指定史跡指定。
車駕之古址しゃかのこし古墳跡
和歌山市木ノ本。上図左上水色枠線。古墳時代中期の前方後円墳跡。釜山古墳(円墳)、茶臼山古墳(前方後円墳)と共に釜山古墳群(木ノ本古墳群)を形成。元は全長86m、後円部径51m、前方長約35m・幅41m、周濠の存在も明らかとなっている。周濠を含めた全長は120m。周濠部分からは造出部から落ちたと思われる円筒・家形・蓋形埴輪が出土し、紀伊初の囲形埴輪(古墳時代の導水祭祀を忠実に表現したもの)も出土。外側に4~5mの溝が複数箇所で検出され、周濠は二重の可能性も指摘されている。 出土した埴輪などの資料から築造時期は、5世紀第3四半期と考えられる。2次堆積層からは金製勾玉1個(中空、18mm、1.6gでほぼ16金で日本唯一)が出土。現在は公園として整備されている。
釜山全景西望 車駕之古址全景西望
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車駕之古址全景北望 案内
*写真は2017年10月。季節や経過年数により周辺の様子や目印が変わることが多いので注意ください。
高芝古墳群1号墳
和歌山市栄谷。上図左上水色枠線。和歌山大学グランドの南端に隣接。7世紀中頃築造の、径8mの円墳。
墳丘 案内
大谷古墳
和歌山市大谷。巻頭図青枠線。5世紀末(~6世紀初頭)築造の前方後円墳。全長67m、後円部径30m・高さ 6~8m、前方部幅48m。後円部の竪穴式石室(長さ4.8m・幅3m・深さ0.7m)から阿蘇凝灰岩製の組合せ式家形石棺が出土。石棺は長さ2.9m・幅1.6m・高さ1.6mで底石・4枚の側石・2枚繋ぎの蓋石(屋根形で3m×1.6m。両側に6個の環状縄掛突起がある)で形成されている。20~30歳の人骨が出土し、紀氏一族の武人の奥津城おくつきと推定されるとのこと。石棺内からは素文鏡すもんきょう13点、ガラス製勾玉21個等の玉類、耳飾り5点や帯金具7点等の装飾品、鉄刀7点・鉄鏃等の武器、横矧板よこはぎいた鋲留びょうどめ衝角付冑しょうかくつきかぶと・短甲・胡籙(ころく=腰に装着する矢筒)28片等の武具が出土。石棺外からは、轡くつわ・鐙あぶみ・馬鈴等の馬具や馬冑(ばちゅう=馬の顔を覆う鉄製の覆面で、完品出土は日本唯一)・馬甲、ミニュチア農具・工具等出土している。後円部から円筒埴輪も40個以上出土。副葬品から、大陸文化との深い関連も推定される。
南西側登り口 案内 墳丘北西面北東望
後円部から前方部方面 案内
岩橋いわせ千塚古墳群
和歌山市岩橋。巻頭図緑枠線。「紀伊風土記の丘」資料館の南斜面に広がる公園として整備されている。古墳(群)では全国に9ヶ所しかない国の特別史跡の一つで、古墳時代後期後半の700基を超える古墳群。円墳が大半で、前方後円墳27基、方墳4基が確認されている。紀伊国造一族集団の関係する古墳群と推定さる。 史跡指定地内には400基ほど所在するらしい。
公園の南西端辺りが大日山地区。この地区の大日山35号墳は、墳丘長88(~100)mの前方後円墳。
前方部見上げ 案内 前方部から北望 後円部から南望
西側造出し 東側造出し 案内 復元埴輪
造出しから円筒埴輪、家形埴輪以外に、特異な「翼を広げた鳥形」・「両面人物」・「胡籙(ころく=腰に装着する矢筒)形」埴輪等出土。いずれも国内唯一。
資料館展示と解説リーフレット
大日山地区の東側に前山地区があり、5基の前方後円墳(6世紀中葉~後半)と342基の円墳が確認されている。公園のメイン地区である。
前山B134号 前山B109号
郡長塚古墳=前山B112号墳は墳長30.5mの前方後円墳(帆立貝形)。
B112号後円部方面 案内 B111号石室埋戻し後 案内
知事塚古墳=前山B67号墳は墳長34.5mの前方後円墳。
将軍塚古墳=前山B53号墳は 墳長42.5mの前方後円墳。石室内は公開されている。
B67号 案内 B53号案内 石室開口部
B53号羨道 玄室 天井部 開口部方面
B41号 展望台 和泉山脈 未調査墳
A67号墳丘 開口部 羨道 案内
A65号 案内 竪穴式石室 俯瞰
A56号案内 開口部 玄室 天井部
A47号案内 竪穴式石室
前山A46号墳は径27m・高さ8mの前山A地区最大の円墳。6世紀後半築造。石室内が公開されている。
A46号案内 開口部 羨道 玄室
玄室床 奥壁 天井部 両袖部
A24号案内 開口部 玄室 盗掘坑から石梁
A23号案内 開口部 玄室 天井部
A17号案内 竪穴式石室 A9号案内 石室跡
A13号案内 開口部 羨道 玄室 天井部
【全地区の位置図】
他に花山地区(上図左上隅赤枠内)=北西に離れた独立丘陵で群中で最も古い古墳があり、粘土槨を有する8号墳(上図㉔、全長52m・高さ4.6mの帆立貝形前方後円墳)は5世紀初頭、6号墳(㉓、全長49m・高さ4.5mの前方後円墳)は5世紀後半築造。なお44号墳(㉘)は4世紀後半築造ともされる。
また井辺前山地区には、井辺八幡山古墳(上図㉜)がある。全長88mの前方後円墳で、左右の造出しから人物・動物・家等の形象埴輪(鉢巻をした力士埴輪が有名)と装飾付須恵器(6世紀前半)が多数出土。横穴式石室と推定される。井辺地区の井辺1号墳(㉛)は、一辺40mの方墳。
大谷山地区の大谷山22号墳(上図⑲)は、6世紀前半築造の68mの前方後円墳。南に横穴式石室が開口。羨道が右(=東側)に偏った平面プランである。南側に造出しがあり、人物等形象埴輪と須恵器が出土している。
和佐地区(和歌山市吉礼~下和佐)には、県下最大級の天王塚(天王塚山)古墳(上図①)がある。全長88mの前方後円墳で6世紀中葉~後半築造とされる。横穴式石室は高さ6mで、全国でも最大級。石室には石棚と石梁が8本が架かる。紀伊国造であった紀直きのあたいの古墳とも言われる。*「紀伊風土記の丘」公園の南東端(休憩所)から東に560m程離れている。
岩橋千塚は7世紀に入ると、あまり造られなくなる。ただ支群である井辺地区の方墳=井辺1号墳等、族長クラスの盟主墳的古墳は造営された。7世紀中葉の(大化の)薄葬令より約半世紀前に終わっている。埋葬施設としては本古墳群築造初期~5世紀中頃までは、粘土槨や箱式石棺が用いられ、5世紀末~6世紀前半にかけては竪穴式石室や横穴式石室が造られるようになる。最初の頃の横穴式石室は大谷6号のような右片袖式と大谷28号のような両袖式両方があるが、6世紀前半以降は両袖式が中心となる。石室の石材は、本古墳群周辺で採取される緑泥片岩。板状に剝離できるのが特徴で、板状に割った石材を床面から持ち送りながら積み上げ、石棚や数本の石梁を架け、天井部は大きな板石で覆っている。岩橋型横穴式石室とも呼ばれる。