OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

天皇陵

天皇

過去に巡った「天皇陵」についての総括ページです。

そもそも古墳に「はまった」のは、古事記日本書紀続日本紀魏志倭人伝等の古代史への興味が最初。古代史の鍵の一つである大和政権の萌芽とともに、3世紀中頃に弥生時代の墳丘墓が古墳に変貌し、そして7世紀以降に、政権構造の変化と薄葬意向等によって古墳が造られなくなると知った。つまり古墳は、古代の「大王おおきみ天皇すめらみこと」の系譜とも密接にリンクするので、天皇陵に興味を持ち、宮内庁が治定している初代神武天皇~50代桓武天皇までの陵を巡った。しかし古代史は、解釈次第で諸説繚乱状態、しかも陵は立入禁止で、外から眺めるだけ。結果、実物を探る考古学や、陵墓以外の古墳も理解しないと、古代史の謎は解けないと思い、今に至っています。

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【古墳豆知識その9】史書(史料)と古墳 


今に伝わる代表的な日本の史書は「古事記(712年)」と「日本書紀(720年)」。大雑把に言うと、「古事記」は和製漢文で書かれた=国内向けで、33代推古天皇まで。特に上巻=神話部分がドラマ仕立で、読むには面白い。一方「日本書紀」は、原則”正格漢文”で書かれた=中国等でも通じる正史で、41代持統天皇まで。当然ながら、現代語である「古墳」という言葉はいずれにも出てこないが、天皇薨去記事に「陵みささぎ」という言葉で登場する。しかし、例えば初代神武天皇陵は、「古事記」では『御陵在畝火山之北方白檮尾上也』とあり、「日本書紀」では『葬畝傍山東北陵』とあり、ぼんやり奈良県橿原市の『畝傍山辺りという点で一致するが、周辺には古墳がいくつもあり、場所を厳密に特定するには至らない。こういうこともあって、古代天皇陵の位置論争が今に続いている。
*なお、神武天皇の享年は「古事記では137才」、「日本書紀では127才」で『えーーーーっ?!』って感じ。「古事記」での最年長者は10代崇神天皇で168才。「日本書紀」では11代垂仁天皇が140才。『こんな史書なんか信用できる?』と一瞬思う。まーしかし、旧約聖書でモーゼが海を分けたとか、古代韓国の新羅初代王が卵から生まれたとか、神話時代の記述には、世界中に眉唾ものが一杯有るので・・・・。一部を見て、全てが嘘とは言えない。

日本で、本格的に文字文化が確立されるのは仏教伝来(538年説や552年説等)や、遣隋使(600年~)遣唐使(630年~)以降。文字文化の発展とともに、記録の正確性が格段に増すが、それまでは口伝・口誦だったはずだ。そこで、文字文化が古くから発達していた中国や中国の冊封体制下にあった韓国の史書が、日本古代史の補完的役割をする。古代日本=倭に関する中国史書で、有名なのが、魏・呉・蜀について3世紀末頃書かれたという「三国志」。その「魏書」第30巻烏丸鮮卑うがんせんぴ東夷伝とういでん倭人の条、通称「魏志倭人伝」。たった2000文字だが、3世紀中頃の倭に「邪馬壹國」があり、「女王」=「卑彌呼」がいたとある。そして238年、「卑彌呼」に「親魏倭王」という称号を与え、「銅鏡百枚」等財物と「すべてを汝の国の人々に示し、魏の国が汝を愛することを知らせよ」との詔書を贈ったとある。3世紀中頃~4世紀(古墳時代前期)築造の古墳から出土する銅鏡がそれかも?と、いうのが通説である。
*その後、倭でも銅鏡を模倣して鋳造し、現在銅鏡は5000面以上出土している。中でも鏡の円周縁断面が三角形の「三角縁神獣鏡」が560面程と多い。 


考古学は『モノ』で判断するので、科学的である。史書の裏付けとなったり、反証になったりもする。しかし史書がなければ、考古学は航海図と羅針盤のない船のように、行先を見失うかも・・・・・。

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「陵」とは

「陵」=正式には「みささぎ」と読む。現在の定義では、歴代天皇・皇后・皇太后(先代皇后)太皇太后(先々代皇后)等を葬る所。その他の皇族を葬る所は「墓はか」 と呼ぶ。皇室典範(昭和22年1月16日法律第3号)第27条で規定されている。「陵墓りょうぼ」というと、皇族の墳墓の総称ということになる。この「狭義の陵墓」に、「分骨所・火葬塚・灰塚・髪歯爪塔・殯斂地(ひんれんち=仮埋葬所)・陵墓参考地等」を加えたものが、「陵墓等」または「広義の陵墓」と総称される。
陵墓の広さは、広いものでは約46㏊(仁徳陵)、狭いものでは1㎡にも満たない。近畿地方を中心として、山形県から鹿児島県まで1都2府30県に点在する。天皇陵112+皇后・歴代外天皇陵等76=陵188、皇族墓553、分骨所・火葬塚・灰塚等で陵に準ずるもの42、髪・歯・爪塔等68、陵墓参考地46があり、総計897(2014年3月末現在)。箇所数としては、同域のものもあるので459箇所で、その6割強は京都府に在る。

珍しいところでは、初代神武天皇の父「天津日高彦波瀲武 鷁草葺不合尊アマツヒコヒコナギサタケ ウガヤフキアエズノミコト」、その父「天津日高彦火火出見尊アマツヒコ ヒコホホデミノミコト」、そして更にその父で、あの有名な「天孫降臨」した「天津日高彦火瓊瓊杵尊アマツヒコ ヒコホノニニギノミコト」=いわゆるニニギノミコトの神代三代墓所が、鹿児島県にある。『えー、ニニギが降臨した日向の高千穂=宮崎県じゃないのー』と、思わず唸ってしまいそうだが、豆知識で前述したが、「古事記」と「日本書紀」で、神代=神話部分でも、神名や天皇名にあてられる漢字も違うし、内容も地名も違う。まー、細かいことを気にしていては前に進まないので、この辺で!! 

「陵」の場所は?

古事記日本書紀」におよその位置が記されているが微妙に違う。また平安時代927年に編纂され、967年に施行された「延喜式」(弘仁貞観とで三大格式きゃくしき=律令の施行細則)に陵墓の場所が記載されている。「延喜式」は全50巻、約3300条からなるが、その巻21に治部省と下部組織(雅楽寮、玄蕃寮、諸陵寮)について書かれ、この諸陵寮に「朝廷 が管理すべき 山陵諸墓」が載っている。冒頭には瓊瓊杵尊火火出見尊、鸕鶿草不葺合尊の三つの神代陵。以下天皇陵および三后陵37陵、皇后以下皇妃墓および外戚墓など47墓が、大体年代順に列記されている。各陵墓名毎に、諡号(しごう=贈り名)、陵墓所在地(郡名まで)、兆域の大きさ、陵戸・守戸(りょうこ・しゅこ=陵の管理人)の数等が記され、また陵墓遠近(当時の天皇は天智系で血筋が近い祖先は近陵・近墓、遠い祖先は遠陵・遠墓。つまり40第天武~48代称徳天皇までの墓は遠陵、49代光仁天皇からまた近陵に戻る)毎に区分けされ、諸陵墓への奉幣の種類や数量についても記載されている。

ただその後、武家時代の到来とともに、戦乱が頻出し、陵の管理はおろか所在までも不明になった。

徳川幕府時代に世が平穏になり、元禄年間(1688-1704年。5代徳川綱吉)や、享保年間(1716-1736年。8代吉宗)、幕末直前の文久年間(1861-1864年。14代家茂)等に、場所の特定作業や修陵が行われた。一方で、寛政8~12年(1796~1800)蒲生君平(がもうくんぺい=尊皇派の儒学者=「前方後円墳」の名付け親)が、1~84代順徳陵を踏破して場所を特定し『山陵志』を発刊した。そして、京都の山陵研究科谷森善臣(たにもり よしおみ=1867年の『山陵考』著者)等による尽力もあり、文久の修陵で大方の陵の特定や修陵が進んだ。なお皇統初代たる神武陵の特定や、現在の拝所・鳥居等の形式は、文久の修陵によるものである。そして明治に入り、世界唯一の「万世一系」を標榜する維新政府としては、文久修陵後も依然不明であった14の天皇陵を、大日本帝国憲法発布(1889=M22)前に駆け込みで治定し、現況となっている。ただ現在は、考古学の年代測定技術等の向上で、天皇治世と築造時期が大幅にずれている例も見つかり、古代陵で被葬者がほぼ確実なのは、用明・推古・舒明・天智・天武・持統とも言われ、諸説ある。
宮内庁書陵部所蔵の「延喜諸陵寮式」

base1.nijl.ac.jp

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天皇陵の場所特定作業や修陵の思想的背景

江戸時代に入り徳川幕府は、その正当性を確たるものにし早期安定化を図るべく、朱子学を奨励する。自分より身分上位者や父親は絶対とする「君臣父子の別」という朱子学の考えは、為政者にとって都合のよいものだった。更に、水戸藩2代目藩主の水戸光圀による『大日本史』編纂過程で生まれたとされる水戸学等の影響で、「幕府は天皇から政務を委任されている」という考え方が生まれるが、逆を言えば「最上位者は天皇」ということになり、天皇皇統への崇敬の念が高まった。これが天皇陵の場所の特定作業や修陵に繋がったと言える。ただ、こうした考えは、結果として明治維新大義名分ともなって行く。

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天皇の名前は?

生まれた時は「諱いみな」と呼ばれる本名がある(身分の高い人の実名は生存中は呼ぶことをはばかったので忌み名)。しかし天皇になると、唯一の存在なので、在位中は固有の名前は必要なく、「御上」「主上」「御門」とか、今は「陛下」とお呼びする。
しかし、薨去されると他の天皇と区別するため、「諡号しごう=おくりな」や「追号ついごう」・「加後号かごごう」・「尊称そんしょう」が贈られる。
諡号在位中に薨去された天皇の生前の功績をたたえて贈る美称。漢風諡号と和風諡号がある。
・漢風諡号8世紀後半に淡海三船が初代(神武)~44代(元正)に一括撰進したといわれる。 
・和風諡号初代~53代淳和じゅんな天皇に贈られ、その後110代後光明天皇から復活する。
追号讃える美称でなく(譲位後に薨去した前天皇)の在所・宮・年号等を用いた。嵯峨天皇等】
加後号以前の天皇名に「後」をつける場合が多い。追号の一種。【後嵯峨等】

*「漢風諡号神武天皇」の例
古事記」=諱:若御毛沼(わかみけぬ)、和風諡号:神倭伊波礼毘古(かむやまといわれびこ) 
日本書紀」=諱:彦火火出( ひこほほでみ)、和風諡号:神日本磐余彦(かむやまといわれびこ)

       尊称:始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)
*直近の天皇の例
 (追号)昭和天皇=(諱)裕仁=(和風諡号)迪宮(みちのみや)

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欠史八代

第2~9代天皇は『古事記』『日本書紀』に事蹟の記載が極めて少なく、治世の長さも不自然。また父子間直系相続は7世紀前後に一般的になるはずで、宮・陵の所在地も前期古墳の分布と一致しない等から、創作性が強いとされる。総称して「欠史八代」と呼ばれる。実在説もあるにはあるが・・・・・。

これらの天皇達の実在を疑問視する説を提唱したのは、歴史学者津田左右吉(1873-1961年)。津田が始めに主張した説では欠史八代の8人の天皇達と、それに次ぐ崇神・垂仁・景行・成務・仲哀天皇(およびその皇后の神功皇后)も存在を否定し、「欠史十三代」を主張した。津田のこの説は不敬罪に当たるとして提訴され、1942年に裁判で敗北するが、第二次大戦後にGHQの指導によって(神道指令)、津田説が古代史学の主流となり、以後学校教科書からも初代神武天皇から神功皇后までの記述が削除されることとなった。しかしその後に津田説に次々と矛盾点が指摘され、崇神・垂仁・景行・成務・仲哀と神功皇后非実在性が薄らぎ、現在の歴史学では2代から9代までの実在を疑う「欠史八代」説が歴史学の主流となっている。一方で反論意見も根強くあり、実在説を唱える学者も少なくない。

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私が訪れた天皇陵は、古代史に関連する、初代~50代桓武天皇まで。天皇陵を巡る時に大変なことは、あちこちトビトビにあることだ。つまり、歴代順に訪れようとすると、あちこち廻ることになり、全く非効率になる。なので、目的とする天皇陵を含む一帯の他の古墳や、社寺や観光地をついでに巡る。というか、他の古墳や、社寺や観光地一帯にある天皇陵を、ついでに巡るという方が適切かもしれない。

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以下、歴代順に記載した記事の目次を掲載します。なお皇后等関連人物の陵墓も一部挿入しています。

天皇陵(その一)

1代『神武天皇陵』・2代『綏靖天皇陵』・3代『安寧天皇陵』・4代『懿徳天皇陵』

天皇陵(その一) - OSAKA-TOM’s diary

天皇陵(その二)

5代『孝昭天皇陵』・6代『孝安天皇陵』

天皇陵(その二) - OSAKA-TOM’s diary

天皇陵(その三)

7代『孝霊天王陵』、8代『孝元天皇陵』、9代『開化天皇陵』・日本武尊(倭建命) 白鳥陵、10代『崇神天皇陵』、11代『垂仁天皇陵』、12代『景行天皇陵』、13代『成務天皇陵』、14代『仲哀天皇陵』、15代『応神天皇陵』

天皇陵 その三 - OSAKA-TOM’s diary

天皇陵(その四)

16代『仁徳天皇陵』・菟道稚郎子「宇治墓」・皇后磐之媛陵「ヒシアゲ古墳」・磐之媛小奈辺陵墓参考地「小奈辺古墳」・八田皇女宇和奈辺陵墓参考地「宇和奈辺古墳」、17代『履中天皇陵』、18代『反正天皇陵』反正天皇東百舌鳥陵墓参考地「土師ニサンザイ古墳」、19代『允恭天皇陵』、20代『安康天皇陵』、21代『雄略天皇陵』雄略天皇大塚陵墓参考地「河内大塚山古墳」、22代『清寧天皇陵』・飯豊青皇女陵『埴口丘陵』、23代『顕宗天皇陵』顕宗天皇磐園陵墓参考地「築山古墳」・顕宗天皇皇后難波小野女王陵西陵墓参考地「狐井塚古墳」、24代『仁賢天皇陵』、25代『武烈天皇陵』武烈天皇大塚陵墓参考地「新山古墳」

天皇陵 その四 - OSAKA-TOM’s diary

天皇陵(その五)

26代『継体天皇陵』・今城塚古墳、27代『安閑天皇陵』、28代『宣化天皇陵』・桝山古墳、29代『欽明天皇陵』・丸山古墳

天皇陵 その五 - OSAKA-TOM’s diary

天皇陵(その六)

30代『敏達天皇陵』、31代『用明天皇陵』、32代『崇峻天皇陵』、33代『推古天皇陵』、『聖徳太子墓』

天皇陵 その六 - OSAKA-TOM’s diary

天皇陵(その七)

34代『舒明天皇陵』・鏡王女「押坂墓」・舒明天皇大伴皇女「押坂内墓」、(35第『皇極天皇』)、36代『孝徳天皇陵』、37代『斉明天皇陵』

天皇陵 その七 - OSAKA-TOM’s diary

天皇陵(その八)

38代『天智天皇陵』藤原鎌足39代『弘文天皇陵』40代・41代『天武天皇持統天皇合葬陵』・草壁皇子「真弓丘陵」

天皇陵 その八 - OSAKA-TOM’s diary

天皇陵(その九)

42代『文武天皇陵』・中尾山古墳、43代『元明天皇陵』、44代『元正天皇陵』、45代『聖武天皇陵』・基皇子墓・安積親王墓・光明皇后

天皇陵 その九 - OSAKA-TOM’s diary

天皇陵(その十 最終回)

(46代『孝謙天皇』)、47代『淳仁天皇陵』、48代『称徳天皇陵』、49代『光仁天皇陵』井上内親王陵・志貴親王(春日宮天皇)陵*太安万侶墓所、50代『桓武天皇陵』早良親王(崇道天皇)陵・皇后藤原乙牟漏(高畠)陵

天皇陵 その十 - OSAKA-TOM’s diary