天皇陵 その九
42代『文武天皇陵』・中尾山古墳、43代『元明天皇陵』、44代『元正天皇陵』、45代『聖武天皇陵』・基皇子墓・安積親王墓・光明皇后陵
『古事記』は33代推古天皇まで、『日本書紀』は41代持統天皇までなので、『日本書紀』に続く六国史りっこくしである『続日本紀しょくにほんぎ』(以下『続紀』)をベースにしています。
『続紀』は42代文武~50代桓武の95年間を40巻で記録しており、菅野真道すがののまみち達が延暦16年(797)編纂したとされる。『紀』に比べ記事の正確性は格段に増すものの、簡略な「一種のメモ書き」様の内容で、『紀』の様な物語的な部分は殆どなく、記事の解釈に関して諸説あります。それを論じてもキリが無いので、原則『続紀』の記事に準拠します。記事中の月日も陰暦のまま記載します。
42代『文武もんむ天皇陵』
2016年(H28)2月24日(水)参拝。奈良県高市郡たかいちぐん明日香村大字栗原。42代「倭根子豊祖父やまとねことよおほぢ*1=文武天皇(在位697年~707年)」の『檜隈安古岡上陵ひのくまのあこのおかのえのみささぎ』に治定されている。
*1 797年完成の『続紀』巻第一の表題では「天之真宗豊祖父(あめのまむねとよおほぢ)」とあり、707年6月崩御後、同11月火葬の際の諡号が「倭根子豊祖父」。
出自
諱は軽(かる=または珂瑠)皇子。宮は藤原京。父は「40代天武とその皇后であった41代持統の子」=草壁皇子。母は阿陪皇女あべのひめみこ=38代天智と「蘇我倉山田石川麻呂の娘姪娘めいのいらつめ」との皇女。41代持統の異母妹にあたり、後の43代元明天皇である。藤原不比等の長女=藤原宮子みやこを娶った。当時「皇后*2」と呼べるのは皇女に限られ、臣下である不比等の娘である宮子は、「皇后」ではなく、当初は「嬪ひん*2」の一人であったが、その後首皇子(おびとおうじ=後の45代聖武)を産み「夫人ぶにん*2」として、史上初めて女性で正一位に叙された人物でもある。
*2 大宝律令(701年)の規定によると、「皇后(こうごう/おおきさき)」以外に「妃(ひ/きさき)」=4品以上の内親王で2名以内、「夫人(ぶにん/おおとじ)」=3位以上の臣下の娘で3名以内、「嬪(ひん/みめ)」=5位以上の臣下の娘で4名以内。文武期に、ここまでキッチリ決まっていたかどうか不明だが、父である不比等の権勢や首皇子の母であるため、妻の中では筆頭であったことは間違いない。なお大宝律令の品位(ほんい)制では、親王や内親王(従前の皇子・皇女)・皇族は臣下の位階である「位」とは別体系で、「品」を用いた(1品~4品)。また臣下の位階は30階あった。1~3位=正・従で6階、4~8位=正・従と上・下で20階、初位(そい)=大・少と上・下で4階。1~3位を「貴」、4・5位を「通貴」、あわせて「貴族」と呼んだ。
40代天武が686年崩御したが、後継である草壁皇子は即位せず、天武の皇后=持統が称制したが、その3年後(689)に28歳で薨去する。天武崩御時既に重篤だったのかもしれない。軽皇子はまだ6歳だったので、持統が翌年690年に即位した。なお、草壁以外に、後継候補として大津皇子(持統の実姉=大田皇女と天武の子)がいたが、天武崩御から2週間後、川島皇子の密告による、謀反の嫌疑で捉えられ自害する。
即位後の経緯
従来20歳以前の即位はタブーだったようだが、余程待ち遠しかったのか、当時53歳の持統が発病したのか、697年15歳で立太子後すぐに譲位され、42代文武天皇として即位した。そして701年宮子との間に首皇子が生まれる。持統は702年12月58才で崩御。文武は慶雲4年(707)7月、次代の元明に「首への皇位継承」遺詔を残し、25歳で崩御する。
事蹟
文武期の事蹟としては、文武5年(701)3月21日に元号を大宝*3と定め、8月3日大宝律令が完成し、翌年10月14日に公布した。 日本の国号も大宝律令で初めて定められたとされる。大宝2年(702)、天智期以降40年~30年中断されていた遣唐使が復活した。33代推古期に遣隋使が始まり、630年からの遣唐使をはじめ、外交と外国文化受容が本格化し、645年いわゆる大化の改新で、国家としての諸制度が整備されていく。38代天智期に見える近江令・庚午年籍、そして40代天武・41代持統期の皇親政治を経て、徐々に整備されてきた諸制度が、大宝律令で確立される。ただこれらが、15歳で即位し、3~4年しか政務についていない弱冠20歳前後の文武天皇主導とは思えない。当時40歳を越えたばかりの藤原不比等と、後見たる持統によるものだろう。
*3大宝 日本最初の元号は36代孝徳即位時の「大化」。大化の由来は『紀』には記載されていないが、中国の『漢書』や『宋書』に、「広大で無辺の徳化(=徳を積む)」という意味で「大化」という語があり、これを引用したとすれば、かなり高尚な命名である。そして、大化6年(650)2月9日に穴戸国(あなとのくに=長門=現山口県)から白い雉(きじ)が献上された。『紀』には「・・・聖王が天下を治める時に、天は祥瑞(しょうずい=瑞祥=縁起の良い兆し=吉兆)を示した。昔、西土の君主である周の成王(ジョウオウ)の世と、漢の明帝の時に白い雉子が見られた・・・白雉(はくち)と改める」とある。祥瑞=吉兆による「こじつけ?」だが、分かり易い命名方法ではある。以後、斉明・天智期は元号が中断され、天武崩御年(686)7月20日に「朱鳥(しゅちょう・あかみとり)」と建元する。『紀』に由来は記されていないが、赤雀(朱雀=すざく)とか赤雉の類で、天武病気平癒のためとされている。持統期にまた中断した。『続紀』では文武5年正月から「大宝元年」と記されているが、大宝元年3月21日記事に「対馬嶋貢金 建元為大宝元年」=」「対馬から金が献上され、大宝元年と為す」とある。年度途中での建元だが、公式記録上はその年の正月から元号を適用している。文武期の「大宝」に次ぎ、大宝3年の翌年(704)5月10日「慶雲=藤原京西楼上に祥瑞の雲」に改元し、次代元明期の「和銅=武蔵国秩父から銅献上」・・・・・と、現在の「令和」まで連綿と続くことになる。
橘(県犬養)三千代
橘(県犬養あがたのいぬかい)三千代の名は、文武期にはまだ見えないが、文武4年(700)に藤原不比等に再嫁し、翌年光明子(45代聖武に嫁ぎ、皇族以外で初めて皇后となった)を産む。29代欽明期に蘇我氏が娘を天皇に嫁がせ、外戚として権勢を振るった構図と同じである。余談であるが、文武には宮子以外に、賓として紀竃門娘きのかまどのいらつめと石川刀子娘いしかわのとじこのいらつめの2人がいたが、次代元明期の和銅6年(713)に「貶石川・紀二嬪号。不得称嬪」とあり、賓称号を禁じられている(貶黜へんちゅつ・へんちつ=貶斥へんせき)。つまり、他氏族系を皇籍から排除したわけだが、不比等と三千代の策謀ともされる。ただし、こうした天皇の妻の座を限定することで、後継者不足となり、結果天武の皇統がいずれ途絶えることになった。
陵
陵の考古学名は栗原塚穴古墳。高松塚古墳から南南東へ約200m、キトラ古墳からは北北東へ約1kmの位置にある。北側の丘陵を削り、ほぼ南向きに墳丘が設けられている。径約15m・高さ約3.5mの円丘で、背面の北側丘陵は高さ約9.3mであるとのこと。そして、円丘は切石造り石室(横口式石槨の可能性もある)を覆って築いたとされる山寄せの終末期古墳と思われる。1881年明治政府によって治定されたが、元禄修陵時には高松塚、「大和志」(1736年刊)では中尾山古墳、文久修陵の時点では野口王墓古墳が文武陵とされた。学界では、長く中尾山古墳が真陵とされている。
北東望 制札 拝所 案内 遠景北東望
*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。
中尾山古墳
キトラ古墳から北へ1.4km程、文武陵から北北西へ約400m。高松塚古墳から北へ200m。飛鳥歴史公園館の南東側、209号線を挟んだ、飛鳥歴史公園入口から東方面に登って行く。
キトラ古墳北望 高松塚北望 登り口 案内
*写真は2016年2月。季節や経過年数により周辺の様子や目印が変わることが多いので注意ください。
8世紀初頭の対辺間長約19.5m・高さ4m程の八角墳。1974年等の調査で、3段築成で、1・2段目は石積み、3段目は盛土を版築で仕上げている。墳丘の外周には3重に石敷きが巡り、その対辺間長は約30mになる。埋葬施設は横口式石槨で、底石1・側壁2・奥壁1・閉塞石1・天井石1・隅石(柱石)4の計10石(現存9石)。底石は石英閃緑岩製、天井石は花崗岩製で、それ以外は凝灰岩(竜山石)製とのこと。石槨は幅約90cm・奥行約90cm。高さ87㎝の立方体で、成人の遺骸をそのまま葬るには狭すぎるので、火葬後の骨蔵器を収めるためのものとされる。床面中央にある60cm四方の掘り込みは、骨蔵器の安置台を据えていた跡らしい。側壁や天井石内面は非常に丁寧に磨かれ、全面に水銀朱が塗られていた。終末期の天皇陵に特有の八角墳であり、持統に次いで2人目の火葬とされる文武陵にほぼ間違いないとされている。
遠景東望 近景西望 案内 南東望
43代『元明げんめい天皇陵』
2016年(H28)2月9日(火)参拝。奈良市奈良阪町。43代「日本根子天津御代豊国成姫やまとねこあまつみよ(みしろ)とよくになりひめ=元明天皇(在位707年~715年)」の『奈保山東陵なほやまのひがしのみささぎ』に治定されている。
出自
諱は阿閇皇女あべのひめみこ。宮は藤原京。710年に平城京に遷都する。38代天智の第4皇女、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘=姪娘めいのいらつめ。天武8年(679)「天武と持統の子=草壁皇子」の正妃となった。つまり、持統は父方では異母姉、母方では従姉。夫の母であるため姑にもあたる。大友皇子(39代弘文)は異母兄。天武9年(680)に氷高皇女(ひだかひめみこ=後の44代元正)を、天武12年(683)に軽皇子(42代文武)を産む。息子である文武が崩御した時、文武の子=首皇子(おびとおうじ=後の45代聖武)はまだ7歳で、首皇子の母である宮子は今で言う鬱病。そのため慶雲4年(707)7月17日46歳で中継ぎ天皇として、女性としては、初めて皇后を経ないで即位した。なお、元明即位の際、『続紀』には「・・・近江大津宮御宇大倭根子天皇 与天地共長与日月共遠不改常典 立賜敷賜法・・・」=「・・・近江の大津の宮に御宇あめのしたしらしめす大倭根子天皇(=天智天皇) 天地とともに長く日月とともに遠く改めまじき常の典と立て賜たまひ敷き賜へる法・・・」により、草壁皇子の子である文武天皇が即位し、自分はその母で正当な後継者であるという趣旨の詔(みことのり=天皇の言葉)が記されている。以降、幾多の天皇が即位時、慣例のように用いた、いわゆる「不改常典(ふかいじょうてん/あらためまじきつねののり)」の初見である。
事蹟
事蹟としては、慶雲4年の翌年(708)1月11日武蔵国秩父(黒谷)から銅が献じられ「和銅」に改元し、和同開珎を鋳造させた。安価な銅で高価値を産み平城造営財源としたとの説もある。708年2月遷都の詔をし、翌月に左大臣に69歳の石上麻呂いそのかみのまろ、右大臣に50歳の藤原不比等を任用。和銅3年(710)3月10日平城京に遷都。その際、左大臣石上麻呂は藤原京の管理者として残されたため、新京では不比等が最高権力者となっている。 和銅5年(712)には天武の勅令であった「古事記*4」を献上させた。翌和銅6年(713)5月2日にいわゆる「風土記」編纂の全国指示をする。『続紀』には「畿内七道諸国郡郷名 着好字 其郡内所生 銀銅彩色草木禽獣魚虫等物 具録色目 及土地沃▢ 山川原野名号所由 又古老相伝旧聞異事 載于史籍亦宜言上」と、各地名を好字(縁起のよい文字)にすることと、各地の産出品・土地の様子・古来からの伝承等を報告するよう指示している。さらに京から各国への幹道に駅うまやを設置する等、現在の国土交通省並の整備を行っている。和銅7年(714)6月25日14歳で元服した首皇子が正式に立太子するが、翌霊亀れいき*5元年(715)9月2日に、娘の氷高内親王に譲位した。女性同士の皇位継承は日本史上唯一。『続紀』には「今精華漸衰。耄期斯倦・・・欲譲皇太子 而年歯幼稚・・・今伝皇帝位於内親王・・・」=「徐々に衰え、倦れた(疲れた)・・・皇太子(孫の首皇子)に譲りたいがまだ若い・・・(氷高)内親王に皇位を伝える・・・」とある。
*4古事記 『続紀』には一切記事がない。現存する古事記の序文中に「和銅四年九月十八日を以ちて、(元明天皇は)安萬侶に詔りして・・・」とあり、文末に「和銅五年(712)正月二十八日。正五位上勲五等太朝臣安萬侶謹上」とある。なお、序文偽書説もある。
*5霊亀 『続紀』には、和銅7年の翌年(715)9月2日元正が即位した日、「左京職から瑞亀(縁起の良い亀)が献上され、「天が嘉瑞を表した」とし、「和銅八年を改め、霊亀元年と為す」とある。
陵
元明太上天皇は養老5年(721)5月に発病し、次女吉備きび内親王の婿である長屋王(ながやおう=後述)達に後事を託し、葬送の簡素化を遺詔*6し、同年12月7日に61歳で崩御。13日葬儀は行わず(旧)大倭国添上郡椎山ならやま陵に葬った。陵の公式形式は山形。考古学的な古墳名は無い。
*6葬送簡素化の遺詔 崩御前の10月13日「・・・朕崩之後 宜於大和国添上郡蔵宝山雍良岑造竈火葬 莫改他処・・・」=「朕崩ずるの後、大和国添上郡蔵宝山(さほやま)雍良岑(よらのみね)に竈を造り火葬し、他処に改むるなかれ」、10月16日「・・・丘体無鑿。就山作竈 芟棘開場 即為喪処 又其地者 皆殖常葉之樹 即立刻字之碑」=「丘体鑿(うが)つ事なく、山に就いて竈を作り、棘(いばら)を芟(か)り場を開き 即ち喪処とせよ。又其地は、皆常葉の樹を植え、即ち刻字之碑を立てよ」
元明陵から44号線を挟んで西側には娘である元正陵、直線距離で1.2km南には孫の聖武陵がある。
位置関係 進入路 全景北望 拝所遠景
制札 拝所 拝所東側 西側
44代『元正げんしょう天皇陵』
2016年(H28)2月9日(火)参拝。奈良市奈良阪町。44代「日本根子高瑞浄足姫やまとねこたかみずきよたらしひめ=元正天皇(在位715年~724年)」の『奈保山西陵なほやまのにしのみささぎ』に治定されている。
出自
諱は氷高皇女ひだかのひめみこ。宮は平城京。「40代天武の皇太子=草壁皇子」の長女。母は阿閉皇女(43代元明天皇)。42代文武の3歳上の実姉。霊亀元年(715)9月2日に母から譲位され即位するが、歴代天皇の中で唯一、母から娘への譲位。また未婚であり、皇后・皇太子も経ず36歳で即位するという「初尽くし」の女帝である。この時点で、天武の男系皇子として舎人とねり親王・新田部にいたべ親王が存命だったが、天武・持統の直系である「42代文武の子=首皇子」への承継の意思が相当根強く、そのための「中継ぎの即位」とされる。独身故継嗣を産むことは無く、不比等の娘である宮子が文武に嫁いだ後、天皇の妻の座から藤原氏以外を排除したことや、天武・持統直系継承にこだわったことが、結果として天武系皇統の断絶に繋がることになるとは、知る由もなかっただろう。
事蹟
元正期の事蹟としては、養老*7 4年(720年)5月21日に、日本書紀が完成し、奏上されている。またこの年8月3日藤原不比等が病気で薨去する。翌年1月5日長屋王を右大臣に任じ、政務を委ねる。長屋王の父は40代天武の子=高市たけち皇子。母=御名部皇女みなべのひめみこは「元正の母=43代元明」の実姉。つまり元正の従兄妹(または従姉弟)。さらに、「元正の妹=吉備内親王」の夫という皇族であるため、一種の皇親政治の再来である。当時、不比等の長男=武智麻呂むちまろは中納言、次男=房前ふささきは参議であり、長屋王が筆頭であった。長屋王の実績か元正の実績か不明だが、国・郡の整備等国土開発面で色々な手を打った。和同2年(709)陸奥・越後の蝦夷討伐。霊亀2年(716)5月に駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・上野の高麗人(技術者)を武蔵に移動させたり、霊亀2年(716)9月や養老元年(717)2月に信濃・上野・越前・越後の一部を出羽に移動させている。さらに、養老7年(723)4月田地不足を解消するために、「・・・開闢田疇 其有新造溝池 営開墾者 不限多少 給伝三世・・・」と、いわゆる三世一身法を制定した。ただし20年後、この流れを継いだ次代聖武期に施行された墾田永年私財法により、公地公民制は崩れ始めていくこととなる。
*7養老 『続紀』では霊亀2年の翌年(717)正月から「養老」となっている。しかし養老元年(717)11月17日の詔に「朕以今年九月 到美濃国不破行宮 因覧当耆郡多度山美泉 自盥手面 皮膚如滑 亦洗痛処 無不除愈・・・又就而飲浴之者 或白髪反黒。或頽髪更生・・・後漢光武時 醴泉出 飲之者 痼疾皆愈 符瑞書曰 醴泉者美泉 可以養老・・・改霊亀三年 為養老元年」=「今年九月、美濃国の不破(ふわ)の行宮(あんぐう=仮の宮)に至り、当耆郡(たきぐん)多度山で美しい泉を見つけ、手や顔をすすぐと、肌が滑るようで、痛い処を洗うと癒え・・・飲浴した者は、或いは白髪が黒くなり、或いは禿げ頭に毛が生えた・・・。後漢光武の時、醴(甘酒)が泉出し、これを飲む者は、痼疾(持病)が皆平癒した。符瑞書(祥瑞についての書)では醴泉は美泉で老いを養うことができる・・・霊亀三年を改め、養老元年と為す」とある。という訳で、実際には11月17日の改元である。
譲位
養老7年の翌年(724)=神亀元年2月4日45歳で、甥の首皇太子(45代聖武)に譲位する。退位の詔では新帝=聖武を「我子」と呼んで、退位後も後見としての立場で聖武を補佐した。聖武の母=宮子は鬱病で、聖武が37歳の時やっと面会できた程で、独身であった元正が母代りとも言われている。天平15年(743)5月5日、元正は太上天皇(上皇)として、改めて「我子」と呼んで天皇を擁護する詔を出す等、晩年期の上皇が、聖武天皇の治政を見守っていたようである。
陵
天平20年(748)4月21日69歳で崩御し、4月28日佐保山陵で火葬された。
陵の公式形式は山形。考古学的な古墳名は無い。
遠景北西望 拝所遠景北望 制札
拝所 拝所東側 西側
45代『聖武しょうむ天皇陵』
2016年(H28)2月9日(火)参拝。奈良県奈良市法蓮ほうれん町。45代「天璽国押開豊桜彦あめしるしくにおしひらきとよさくらひこ=聖武天皇(在位724~749)」の『佐保山南陵さほやまのみなみのみささぎ』に治定されている。
出自
諱は首皇子。宮は当初平城京であるが、後述のように遷都を繰り返すことになる。父は42代文武天皇、母は藤原不比等の娘=宮子。妃は藤原不比等と橘(県犬養あがたのいぬかい)三千代との娘=光明子こうみょうし。
慶雲4年(707)6月7歳の時、父の文武が崩御、母の宮子は鬱病。翌7月祖母である元明が中継として即位。和銅7年(714)6月元服し立太子するが、若い故即位は先延ばしにされ、翌霊亀元年(715)9月に文武の実姉で、聖武の伯母である元正が「中継ぎの中継ぎ」として即位。養老2年(718)光明子との間に阿倍内親王(後の46代孝謙)が誕生している。
即位後の経緯
神亀元年(724)9月24歳で元正から譲位され即位する。この時も「不改常典」が用いられている。治政初期は元正期に続き左大臣の長屋王が執政するが、724年宮子の「大夫人」呼称問題等で藤原氏と対立し、更に神亀5年(728)9月光明子との子=基親王が1才直前で夭逝したことに絡み、神亀6年(729)2月長屋王の変*8で自害する。これにより藤原不比等の長男=藤原武智麻呂(むちまろ=右大臣)を筆頭に、4兄弟(次男=房前ふささき・三男=宇合うまかい・四男=麻呂)が実権を握る。しかし天平9年(737)4兄弟が疫病で逝去する。『続紀』の天平7年(735)8月12日記事に「大宰府疫死者多」、8月23日「太宰府・・・管内諸国 疫瘡大発」と疫病発生が記されており、9月30日に天武第7皇子=新田部親王、11月8日宮子の母=賀茂比売かもひめ、11月14日天武第3皇子=舎人親王が相次いで薨去。「是歳・・・自夏至冬 天下患豌豆瘡(天然痘)死者多」とある。天平9年(737)4月17日次男房前、7月13日四男麻呂、7月25日長男武智麻呂、8月5日三男宇合、相前後してその他政府高官の殆どが逝去した。そこで9月28日急遽、長屋王の実弟=鈴鹿王すずかおうを知太政官事に、橘諸兄(もろえ=「橘三千代と前夫の子」=光明子の異父兄)を大納言に任じた。翌天平10年(738)1月13日阿倍内親王を立太子(女性唯一)し、同日諸兄は右大臣に任ぜられ政権を握ることとなる。なお、この頃下道朝臣真備と玄昉*9がクローズアップされる。
*8長屋王の変 聖武の母=宮子に正一位「大夫人」の称号を与える等の藤原氏の策謀に批判的だった。そんな状況下、神亀5年(728)9月、長屋王が写経中に基親王が夭折し、長屋王の呪詛という噂を生んだ。長屋王側の家系は皇位継承権者としても有力で、我が子を哀惜する聖武が、長屋王に不信感を抱いた感もある。そして中臣宮処東人(なかとみのみやところのあずまびと)らの讒言で、神亀6年(729)2月11日謀反の嫌疑が問われ、舎人親王・新田部親王・多治比池守・藤原武智麻呂・藤原宇合らに囲まれ、12日に妃=吉備内親王や4人の子(吉備・膳夫・桑田・葛木王)と共に自害する。『続紀』では長屋王はその翌13日「・・・葬長屋王・吉備内親王屍於生馬山・・・」とあり、2人の墓は、現在の奈良県生駒郡平群(へぐり)町にある。藤原氏(特に武智麻呂)の陰謀説、聖武主犯説=天皇しか動かせない六衛(衛門府・左右兵衛府・左右衛士府・中衛府)が動員されていた=がある。長屋王の友人であった大伴旅人(家持の父)は大宰府に左遷され、酒に明け暮れたと万葉集の歌から窺える。なお、長屋王の子の内、安宿・黄文・山背王は藤原不比等の二女(藤原長娥子)の子であったので罪を免れた。讒言の張本人の東人は、10年後に大伴子虫(長屋王派)に讒言の旨を明かし、子虫に斬殺されている。なお、長屋王邸跡(240×230m)とされる所から711~717年間の家政機関での木簡(もっかん=木の札)が35,224枚出土し貴重な資料となっている。長屋王陵は以下を参照下さい。
*9下道朝臣真備(したみちのあそんまきび) 元正期の養老元年(717)藤原馬養(=宇合)・阿倍仲麻呂・井真成(いのまなり)らとともに遣唐使として渡唐する。次の遣唐使船で天平6年(734)11月種子島に漂着。真備は翌天平7年(735)4月、持ち帰った『唐礼』130巻(経書)、『大衍暦経』1巻・『大衍暦立成』12巻(天文書)、測影鉄尺(日時計)、銅律管1部・鉄如方響写律管声12条(音階調律管)、『楽書要録』10巻(音楽書)、絃纏漆角弓・馬上飲水漆角弓・露面漆四節角弓各1張、射甲箭20隻・平射箭10隻(矢)を献上した。物品の詳細が正史に記されており、献上品がいかに重要だったか推察される。真備はその功労により、帰朝時に従八位下という30位階中の下から5番目だったが、翌天平8年(736)正月、一挙に十階昇進の正六位下に叙せらた。最短でも4年に1階しか昇進しない当時としては異例中の異例だった。天平13年(741)7月正五位下となっていた真備は東宮学士(皇太子=阿倍内親王の家庭教師)に任じられる。天平15年(743)5月詔の中で「・・・下道朝臣真備 冠二階上賜・・」と、特に名を挙げて従四位下に叙せられた。更に翌6月春宮大夫(皇太子に関する諸事を司る役所の長官)に任官した。天平18年(746)「吉備」の姓を賜る(これ以降は「46代孝謙天皇陵」で後述)。
*9玄昉(げんぼう) 真備と同じく養老元年(717)遣唐使として渡唐し、次の遣唐使船で天平6年(734)11月種子島に漂着。経論5000余巻と諸仏像を持ち帰った。来天平8年(736)2月封戸100戸・田10町等を賜る。天平9年(737)8月僧侶の最高位=僧正に任じられる。そして同年12月聖武母=藤原宮子の幽憂(鬱病)を沈めた。これにより聖武が誕生以来初めて面会できたことで、褒賞品を賜り、仲介した真備も従五位下から従五位上に昇進した(これ以降は「46代孝謙天皇陵」で後述)。
このように、朝廷は両名の唐留学実績を高く評価して、異例の抜擢人事を行った。
彷徨と遷都
天平12年(740)藤原広嗣の乱*10が起こるが、討伐の最中10月26日に、都に居た聖武は討伐大将に「縁有所意 今月之末 暫往関東」=「思う所があって、今月末暫く東へ行く」と彷徨を始める。聖武の彷徨ルートは、平城京→天平12年(740)10月29日大和国山辺郡堀越頓宮(奈良市都祁)→11月伊勢国名張郡阿保頓宮(三重県伊賀市)→伊勢国志郡河口頓宮(三重県津市)→伊勢国鈴鹿郡赤坂頓宮(三重県亀山市)→伊勢国朝明あさけ郡朝明頓宮(三重県四日市市)→伊勢国桑名郡石占頓宮(三重県桑名市)→12月美濃国不破郡不破頓宮(岐阜県垂井町)→近江国坂田郡横川頓宮(滋賀県米原市)→近江国犬上郡犬上頓宮(滋賀県多賀町辺り)→近江国蒲生郡蒲生郡宿(滋賀県近江八幡市辺り)→近江国野洲郡野洲頓宮(滋賀県野洲市)→近江国禾津あわづ頓宮(滋賀県大津市)→山城国相楽郡玉井頓宮(京都府綴喜郡井手町)→12月15日恭仁宮。何故か壬申の乱での天武の東行ルートに重なる所が多い。この後、4度の遷都を行う。天平12年(740)12月恭仁京(京都府相楽郡加茂町)→天平16年(744)2月難波京(後期難波の宮)→天平17年(745)1月紫香楽宮(=甲賀宮=滋賀県甲賀市信楽町)→同17年(745)5月平城京に戻った。
即位以降、天平に入り台風・日照り・地震が交互に数回起こり、天平7年(735)頃から疫病(天然痘)が広がり、天平9年(737)にピークを迎える。恭仁京遷都は、平城京の疫病汚染等の国難に対処し、何とか王都復興を目指したいとの思いからという説が強い。地理的には、恭仁京の南側に甕原みかのはら離宮があり元明・元正・聖武も何度か行幸していたし、聖武が行幸したことのある橘諸兄の相楽さがら別業(別荘=現木津川市木津)も近くにあった。更に、木津川に接する恭仁京が、唐の長安・洛陽・太原城という三都制での、大河に面する洛陽に擬されたとの説もある。
*10藤原広嗣の乱 天平12年(740)8月29日、大宰少弐として太宰府に左遷されていた藤原広嗣(ひろつぐ=藤原宇合の長男)が、異例の抜擢人事をされた真備・玄昉両名排除の上表を行い(真意は諸兄批判と藤原氏の政権回復)、9月3日に筑前国遠賀郡(北九州)で挙兵する。大野東人(果安の子)を討伐大将に任じ、佐伯常人・阿倍虫麻呂が板櫃川を挟んだ論戦で鎮圧。広嗣は五島列島から朝鮮済州島へ逃亡を図るが、風で押し戻され五島列島に漂着し捕縛され、斬首された。約2ヶ月で鎮圧され、死罪26人・没官5人・流罪47人等287人が処罰された。
遷都の経緯
本来は事前にある程度造営し、遷都の詔をし、宮を移転し、京の整備造営という順序が普通だが、聖武の場合は、自分が先ず移動してから本格造営を開始し、明確な遷都の詔がない。恭仁京は、天平12年(740)12月6日「右大臣橘宿禰諸兄 在前而発・・・以擬遷都故也」。同年12月15日「皇帝在前幸恭仁宮 始作京都矣」。天平13年(741)1月1日「天皇始御恭仁宮受朝(朝賀を受け) 宮垣未就(未だ成らず)」。同年1月11日「・・伊勢大神宮・・奉幣 以告遷新京之状也」。同年11月21日「大養徳やまと恭仁大宮」と命名している。この後、天平14年(742)5月10日に越智山陵(斉明陵)が崩壊したり、地震・風雨・日照りに見舞われた。そして天平15年(743)12月26日には「遷造於恭仁宮四年・・・至是 更造紫香楽宮 仍停恭仁宮造作焉」と恭仁京造営を止めている。天平16年(744)閏1月1日朝堂に全官人を集め、恭仁京と難波京どちらを都とするか問い、恭仁京は五位以上24人、六位以下57人。難波京は五位以上23人、六位以下130人。更に天平16年(744)閏1月4日市人(町人・商人)に問わせると皆恭仁京で、難波京は1人、平城京1人だった。難波宮は、天平16年(744)閏1月11日「行幸難波宮」。同年2月に恭仁京から駅鈴・内外印(天皇印と太政官印)や高御座・大楯(宮門に立てる盾)・武器を難波宮に遷し、26日に左大臣が代理で「今以難波宮定為皇都」と伝えた。紫香楽宮は、天平14年(742)2月5日恭仁京から近江国甲賀郡を通る東北道が通じ、天平14(742)8月11日「・・・近江国甲賀郡紫香楽村・・・為造離宮司」と離宮造営司を任命し、天平14年(742)8月27日・同年12月29日・天平15年(743)7月26日紫香楽宮に行幸した。同年10月19日には「大仏を建立するため、紫香楽宮で寺地を開く」と詔し、天平16年(744)4月23日「以始営紫香楽宮」と造営開始。同年11月14日太上天皇(元正)行幸の際の記事では「甲賀宮」と言い改められている。天平17年(745)1月1日「廃朝(=天皇が政務に臨まない) 乍遷新京。伐山開地、以造宮室」とある。平城京に戻る際も、天平17年(745)5月2日太政官が全官人等を集め、何処を京とするか問うと皆平城と答えた。また5月4日四大寺の僧を集め問わせたところ、皆「平城京」と答えた。そして5月11日「・・・是時 甲賀宮空而無人 盗賊充斥 火亦未滅・・・行幸平城」と平城京に戻った。天皇が居住する所が「宮」なので、わざわざ遷都の詔をしなくても良いのかもしれないが、それにしても官人・従者は「えーーーっ?!」って感じだったろう。
そもそも聖武は、自分を謙遜・卑下する詔を度々発している。文武は「朕以菲薄之躬」、元明は「朕以菲薄之徳」、元正は「朕之薄徳」と、詔で謙遜の言葉を発してはいるが、中国の古王に準なぞらえた慣例的なもの。しかし聖武の場合は、神亀2年(725)9月「朕以寡薄・・・戦戦兢兢・・・(種々の天災)責深在予・・・」=「自分は人徳・見識が少なく・・・戦々恐々とし・・・(種々の天災)責任は深く予にある・・・」、天平3年(730)12月「(祥瑞である神馬が見つかった時に)・・・朕以不徳 何堪独受 天下共悦・・」=「徳が無い自分が一人で受けられない。天下共に悦よろこびたい・・」、天平4年(732)7月「春亢旱 至夏不雨 実以朕之不徳所致也・・・」=「春の日照りや、夏の不雨・・・実に自分の不徳の致すところ也・・・」、天平9年(737)疫病のピーク時にも「・・・良由朕之不徳 致此災殃 仰天慚惶 不敢寧処・・・」=「自分の不徳で、この災殃(さいおう=災難)に致った。天を仰いで畏れ恥じ入っており、どうしても安らかに居られない・・・」等々、「自分の徳がない」ことを儀礼的に謙遜するというより、真の悩みとして吐露しているように思える。そして20回以上「大赦(国家として種々の罪を許すこと)」を行っているが、吉事より圧倒的に凶事の際が多く、その度に「朕之不徳・・・」と詔する程で、深く仏教に帰依したことや、彷徨・遷都といった行動も、こうした性格の故なのかもしれない。とはいえ天平17年(745)4月の3ヶ所での山火事や同月27日から始まり、天平19年(747)5月まで20数回を数える地震は、過去に例を見ない災害であり、為政者としては心が打ちひしがれる状況だったかもしれない。
事蹟と譲位
上記の様な性格からか、聖武は深く仏教に帰依し、天平13年(741)3月24日国分寺(金光明四天王護国之寺)・国分尼寺(法華滅罪之寺)建立を詔し、天平15年(743)5月27日墾田永年私財法を制定する。これがいずれ律令制の根幹が崩れることに繋がる。天平15年(743)10月15日東大寺盧舎那仏=大仏建立の詔をする。聖武唯一の皇子=安積あさか親王が、天平16年(744)閏1月18歳で急逝する。天平勝宝元年(749)5月史上初めて天皇在位のまま出家し、7月娘で皇太子の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位した。一説には、自らを「三宝の奴」と称した天皇が独断で出家し、それを受けた朝廷が慌てて手続を執ったとも。 譲位した初の男性天皇である。天平勝宝4年(752)4月東大寺で大仏の開眼法要が行われた。なお、天平勝宝6年(753)唐から鑑真が遣唐使の帰国に便乗し来日している。
陵
「天武と中臣鎌足娘=五百重娘いおえひめの子=新田部親王」の子である道祖王ふなどおうを皇太子にするよう遺詔を残し同8年(756)5月56歳で崩御する。
陵の考古学名は法蓮北畑古墳だが、詳細不詳。
聖武陵参道 制札 拝所遠景 拝所
基親王墓
2021年(R3)8月26日(木)参拝。奈良市法蓮佐保山3丁目。2006年に閉園した奈良ドリームランド跡地東に隣接。44号線沿いに進入口があり、進入口脇に碑がある。神亀4年(727)閏9月29日誕生し、32日目に立太子されるが、翌年9月13日1才直前で夭逝する。『続紀』には「9月19日葬於那富山」とある。
進入口の碑(左図赤〇) 拝所遠景 制札
安積あさか親王墓
2019年(R1)11月8日(金)参拝。京都府相楽郡和束町。「県犬養広刀自(あがたのいぬかいのひろとじ=光明の母方の従姉妹)との子」で、基親王誕生の少し後に誕生したとされる。基親王夭折後、聖武唯一の皇子であったが、天平16年(744)閏1月11日難波宮行啓の途中で脚病(脚気)になり、恭仁京に戻り2日後の13日に17歳で急逝する。藤原仲麻呂による暗殺説もある。考古学名は太鼓山古墳。円形で径8m・高さ1.5m、墓域988㎡。明治11年(1878)に治定された。
遠景北東望 拝所遠景 制札 拝所 裏(北東)側
光明皇后陵『佐保山東陵』
2016年(H28)2月9日(火)参拝。奈良市法蓮町。聖武陵の東に隣接。
藤原不比等と橘三千代の娘(不比等の三女)。幼名は光明子、安宿媛あすかべひめとも。持統・橘三千代と同じく幼少期に河内国「安宿あすかべの里(河内飛鳥の北=羽曳野市東部・南河内郡太子町。別称近つ飛鳥)」で養育された。特に、光明子はこの地の飛鳥戸造あすかべのみやつこに養育された。飛鳥戸造は「新撰姓氏録しんせんしょうじろく」では百済人とある。霊亀2年(716)16歳で同年齢の皇太子=首皇子の妃となった。718年阿倍内親王(後の孝謙=称徳)を産む。神亀元年(724)夫の首が24才で即位。神亀4年(727)基皇子を産み即立太子させたが翌年夭折。天平元年(729)8月24日皇后に立后。本来、家臣の娘は「妃」までで、皇女でないと「皇后」にはなれない慣例だったが、唯一の仁徳天皇皇后=磐之媛(=葛城襲津彦そつひこの娘)の先例を引き合いに出し立后される。2例目の皇族以外からの立后であり、以後、皇族以外の子女が皇后になる先例となった。
娘である阿倍内親王が天平勝宝元年(749)46代孝謙天皇としての即位後、従来の皇后宮職(皇后の諸事を司る家政機関)を紫微中台しびちゅうだいと改め、甥の藤原仲麻呂(藤原武智麻呂の次男)を長官に任じ、仲麻呂台頭の契機を作った。更に、聖武天皇共々、仏教に深く帰依し、東大寺および国分寺の設立を進言したとの説もある。両親の藤原不比等と県犬養橘三千代を供養するために一切経を発願したり(五月一日経)、救貧施設=悲田院ひでんいんや医療施設=施薬院せやくいんを設置して慈善活動に従事した。夫の聖武天皇崩御後、四十九日に遺品を東大寺に寄進し、現在までいわゆる「正倉院」の宝物として伝わっている。さらに、興福寺・法華寺・新薬師寺等多くの寺院創建や整備にも関わった。
天平勝宝8年(756)崩御し、その2年後に「天平応真仁正皇太后」の尊号が贈られている。
聖武陵参道 分岐 拝所遠景 拝所