二子塚古墳は大阪府南河内郡太子町山田にある7世紀中頃~後半の双方墳。2023年3月末まで古墳の保存整備工事が行われていた。2023年5月11日(木)訪問。
磯長谷しながだに古墳群を構成する古墳の1つ。墳丘は3段築成。東西69m・南北35mの長方形の基段上に、辺約25・高さ5~6mの方墳が北東-南西方向に2つ並ぶ。また両墳丘の真ん中に、(南北軸の長方形壇の様な)高まりがある。
北東側墳丘
南西側墳丘
工事中の南東面
南西側墳丘南西望 東望見上げ
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北東側墳丘北東望 石室天井石
各々の墳丘内には、長方形でほぼ同規模の横穴式石室があり南東方向に開口。北東側の墳丘石室は、羨道部の天井石が抜けており、そこから玄室・石棺が見える。規模は長さ約5m・幅約1.8m・高さ約1.6mとのこと。南西側の墳丘石室は、長さ約5.3m・幅約1.5m・高さ約1.55mらしい。側壁は切石に近い加工をした石を2~3段に積み、隙間に礫石が詰められている。また漆喰が塗られていた模様。羨道は極めて短く、人頭大の礫石を積んで閉塞されていたとのこと。石棺は、ほぼ同形同大の二上山凝灰岩製の刳抜式家形石棺で、両墳丘に各1基ずつ納められていた。
北東側墳丘の石室開口部
石棺は、通常蓋石にある縄掛突起が無く、蒲鉾形をしている。
石棺後面(天井石隙間から)
盗掘故か、出土品は羽釜形土器・小皿形土器・鉄釘のみ。双方墳という特異な形式は、古墳時代終末期の合葬墳の出現とも関連するらしい。被葬者は不明だが、33代推古天皇と子の竹田皇子の真の合葬陵とする伝承もある。現在、推古天皇陵に治定されている山田高塚古墳は北西約200mにあり、いずれが真陵かは不明だが、両古墳が当時の大王級陵墓には違いないと思われる。1956年(S31)11月に国史跡指定。2016年度(H28)以降に発掘調査が実施されている。
【参考】
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推古天皇陵
推古天皇陵は下記を参照下さい。