天皇陵 その六
30代『敏達天皇陵』、31代『用明天皇陵』、32代『崇峻天皇陵』、33代『推古天皇陵』、『聖徳太子墓』
*天皇の和風諡号や陵名・事蹟は『日本書紀』(以下『紀』)をベースにしています。『古事記』(以下『記』)は、24代仁賢天皇以降、事蹟の記述は殆ど無く、非常に簡素な内容になっているので、『紀』によるしかないというのが実情です。なお『紀』の記事には、真偽に関して諸説ありますが、ここでそれを論じてもキリが無いので、原則『紀』の記事に準拠します(記事中の月日は陰暦のままです。)
陵、諡号等の基本知識は、『天皇陵』を参照ください。
30代『敏達びたつ天皇陵』
2015年10月22日参拝。大阪府南河内郡太子町。第30代「沼名倉太玉敷ぬなくらのふとたましき=敏達天皇(在位572年~585年)」の『河内磯長中尾陵こうちのしながのなかのおのみささぎ』に治定されている。即位当初の宮は百済大井宮。比定地は河内長野市太井(河内国錦部郡百済郷)、富田林市甲田、北葛城郡広陵町百済(大和国広瀬郡百済)、桜井市吉備、橿原市(十市群大井)等諸説ある。即位4年に占いで宮を譯語田(訳語田おさた)の幸玉宮さきたまのみや(桜井市戒重かいじゅう春日神社辺り)に遷した。(『記』は他田宮おさだのみや)
29代欽明天皇の第2皇子。母は皇后石姫皇女いしひめのひめみこ。父の欽明天皇は継体天皇と手白香皇女(たしらかのひめみこ=仁賢と春日大娘皇女との娘)との息子。皇后石姫皇女は宣化天皇(継体の子)と橘仲皇女(たちばなのなかつひめみこ=手白香皇女の同母妹)との娘。つまり父方・母方双方から24代仁賢・26代継体・28代宣化・29代欽明の血を引くこととなり、皇統の血脈が濃くなっている。即位4年(575)2月に広姫(ひろひめ=息長真手王の女)を皇后とするが、皇后が同11月崩御する。翌年(576)4月敏達の16歳年下の異母妹額田部皇女ぬかたべのひめみこ(後の推古天皇)を、改めて皇后に立てる。額田部皇女は571年に既に妃となっていたのに、何故皇女でない広姫が先に立后されたのかは不明。
即位した年に高麗から烏の羽に墨で書かれた表(ふみ=国書)を献じてきた。誰も読めなかったが、王辰爾オウジンニが飯の気(け=蒸気)で蒸して、絹に羽の文字を写して読み解いた。「烏羽に書く=はっきりわからないこと、見分けがたい」という故事の由来になっている。
また即位時に、物部弓削守屋もののべのゆげのもりやを大連、蘇我馬子宿禰そがのうまこすくねを大臣にしたとあり、後の崇仏論争当事者の初見である。即位13年条に馬子が四方に使者を送り、播磨国にいた還俗げんぞく僧=高麗の恵便エベンを探し出した。そして鞍部村主くらつくりのすぐり司馬達等(しば だっと/しば たちと/しば の たちと/しめ たちと=法隆寺金堂本尊釈迦三尊像の作者鞍作止利の祖父)の娘らを出家させ、仏殿を邸宅の東に作ったりしたが、これが尼や崇仏の萌芽と思われる。
敏達14年(585)2月馬子は塔を建て、舎利(シャリ=仏陀の骨)を塔の柱頭に収めたが、馬子自身が病になり、国に疫病が流行った。同年3月物部守屋はその塔を切り倒し、仏殿・仏像と共に焼き、焼け残った仏像を難波の堀江に捨てた。そして敏達天皇に働きかけ仏教禁止令を出させる。ただ、6月に敏達天皇は蘇我馬子に「汝一人で仏法すべし」として、馬子にのみ許可している。
敏達天皇は14年8月病で崩御する。殯もがり宮で馬子が誄しのびごとを奉った。その際、守屋は馬子に「矢で射られた雀の様だ」と、馬子は守屋に「(震えていたので)鈴を懸けたらよい」と言ったと『紀』にある。仏教を巡る争いは次代に持ち越されることになる。
陵の考古学名は太子西山古墳。6世紀築造と推定される前方後円墳で、全長93m、後円部径58m・高さ11m、前方部幅67m・高さ12m、各2段築成。二上山山麓の磯長谷しながだに古墳群のうちでは唯一の前方後円墳。前方部を北西に向ける。墳丘周辺では埴輪片が採集され、墳丘周囲には空壕が巡らされている。主体部埋葬施設は不明だが、横穴式石室が推測される。磯長谷では他に用明・推古・孝徳陵と聖徳太子墓が伝わり、「梅鉢御陵」と総称される。
『紀』では敏達14年(585)に崩御し、その後崇峻4年(591)に、先に亡くなっていた母の石姫皇女の墓に追葬され、その陵号を「磯長陵」としたとある。また『記』では「御陵在川内科長」とある。『延喜式』諸陵寮では、敏達陵は河内国石川郡所在の「河内磯長中尾陵」と記載され、石姫皇女墓は河内国石川郡敏達天皇陵内所在の「磯長原墓」として記載されている。その後、元禄時代の探陵の時点では叡福寺領となっていたほか、元治元年(1864)に拝所設置、1899年(M32)には御在所修補がなされている。本古墳が敏達陵なら、天皇陵としては最後の前方後円墳に位置づけられるとともに、埴輪列を有する陵としても最後に位置づけられる。なお敏達陵・石姫皇女墓が別々に記載されることから、後円部・前方部での別埋葬とする説もある。一方で円筒埴輪の存在から、時代的に敏達天皇陵への比定には否定的な説もあり、真陵の所在に関しては葉室塚古墳(太子町葉室)に比定する説もある。
参道 拝所
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【磯長谷の天皇陵等】
31代『用明ようめい天皇陵』
2015年10月22日参拝。大阪府南河内郡太子町。第31代「橘豊日たちばなのとよひ=用明天皇(在位586年~587年)」の『河内磯長原陵こうちのしながのはらのみささぎ』に治定されている。崩御後は一旦、磐余池上陵いわれのいけがみのみささぎに葬られたが、推古天皇元年(593)9月に河内磯長陵に改葬されたとある。『記』では「御陵は石寸掖上いわれのわきがみに在りしに、後に科長しながの中の陵に遷しき」とある。宮は磐余いわれ池辺双槻宮いけのへのなみつきのみや(『記』では池邊宮=桜井市)。
29代欽明天皇の第4子。母は馬子の娘堅鹽媛きたしひめ。585年敏達崩御時、先代皇后広姫との子=押坂彦人おしさかのひこひと大兄皇子が母の身分も含め最有力だったが、兄弟相続を大義に、敏達の異母弟の用明が即位。一方、馬子娘の小姉君(あおねのきみ=堅鹽媛の妹)の子で、敏達や用明の異母弟に当たる穴穂部皇子あなほべおうじもいたが、敏達天皇の皇后「額田部皇女=炊屋姫(後の推古)」を犯そうと(もしくは文句を言おうと)、殯宮もがりのみやに押し入ろうとした事件があった。先帝の寵臣三輪逆みわのさかうがこれを拒んだ。穴穂部皇子は馬子と守屋に「逆は不遜である」と訴え、守屋の兵が磐余池で逆を包囲する。逆は一旦は逃れ炊屋姫の後宮に隠れたが、密告により見つかり、穴穂部皇子は逆とその子らを殺すよう守屋に命じ、自らも赴いた。馬子は「王者は刑人に近づくべからず」と諫言する。守屋が逆を斬ったと報告すると、馬子は「天下の乱は近い」と嘆くが、守屋は馬子に「汝のような小臣の知るところにあらず」と答えている。
*以前から皇子と皇女の近親婚は見られたが、欽明天皇時代に、臣下である馬子が、外戚となって権力強化を図るため、娘二人を妃として入内させたことにより、以降その兄弟子弟との近親婚により皇統譜はやたら複雑となる。
用明2年(587)4月用明天皇は疱瘡で急逝する。
陵の考古学名は春日向山古墳。公式形式は方丘。67×63mの3段築成の方墳。周濠と外提がある。
32代『崇峻すしゅん天皇陵』
2016年2月4日参拝。奈良県桜井市倉橋。第32代「泊瀬部はつせべ=崇峻天皇(在位587年~592年)」の『倉梯岡陵くらはしのおかのみささぎ』に治定されている。宮は倉梯宮(『記』では倉橋の柴垣宮)。
29代欽明天皇の第12子。母は馬子の娘小姉君おあねのきみ。用明2年(587)4月用明天皇が急逝。物部守屋は崇峻の同母兄の穴穂部皇子を推したが、蘇我馬子は炊屋姫(後の推古)を奉じ、弟の泊瀬部皇子(崇峻)を推した。馬子の妻は守屋の妹であったが、初めて渡来した仏教を巡り対立し、皇位継承でも対立することになる。同年6月馬子の命で、穴穂部皇子は誅殺される。さらに7月馬子は兵を挙げて、守屋を討伐した。
泊瀬部皇子・竹田皇子(たけだのみこ=敏達と炊屋姫の子)・廐戸皇子(うまやとのみこ=後の聖徳太子=用明の子)・難波皇子(なにわのみこ=敏達の子)・春日皇子(かすがのみこ=敏達の子=難波の同母弟)らも馬子軍として従軍した。戦況不利な折り、15才前後の廐戸皇子は、白膠木ぬるでで四天王像を彫り、「勝利すれば四王のために寺塔を建てる」と誓ったという(四天王寺の由来)。また馬子も「諸天と大神王のために寺塔を建て、三宝を流通つたへよう」と誓ったという(法興寺=飛鳥寺の由来)。
8月泊瀬部皇子が崇峻天皇として即位する。しかし崇峻天皇は、反蘇我の大伴氏の糠手ぬかて/あらての娘小手子こてこを皇后に迎える等、蘇我氏と一線を画するようになる。崇峻4年(591)任那を再興する名目で大伴氏を含め筑紫へ派遣した。無防備となった宮で崇峻5年(592)「東国の調(みつぎ=税)献上儀式」と称し崇峻天皇を誘い出し、東漢値駒やまとのあやのあたいこまに暗殺させた。天皇の遺体は即日(殯もがり儀式もせずに)埋葬された。天皇家の兄弟同士の殺害事件はあったが、臣下による天皇の殺害は始めてである。 *暫くして、東漢値駒は密通の罪で処刑される。
1876年(M9)奈良県十市郡倉橋村にあった雀塚と呼ばれる古墳(現陵墓参考地)が一旦陵として治定されたが、1889年(M22)に現陵に改定された。同地に崇峻天皇の位牌を祀る金福寺があったことから陵として決定したという。陵は、宮内庁の記録上の形式では、円丘とされている。
33代『推古すいこ天皇陵』
2015年10月22日参拝。大阪府南河内郡太子町。第33代「豊御食炊屋姫とよみけかしきやひめ=推古天皇(在位593年~628年)」の『磯長山田陵しながのやまだのみささぎ』に治定されている。宮は豊浦宮(とゆらのみや=現奈良県高市郡明日香村豊浦)。推古11年10月小墾田宮おはりだのみやに遷る。(『記』では小治田宮おはりだのみや)。奈良県高市郡明日香村に比定される。
30代敏達天皇の皇后額田部皇女ぬかたべのひめみこ(29代欽明と馬子娘堅塩姫きたしひめの子=31代用明天皇の同母妹)。 『紀』に「幼い頃は額田部皇女といい、姿色みかお端麗きらきらしく、挙措動作は乱れなく整っていた。18歳で渟中倉太玉敷天皇(敏達)妃となり、敏達4年(575)に(先代)皇后広姫ひろひめが11月崩御し、翌年(576)4月改めて皇后に立てられた。34歳の時敏達天皇が崩御。祟峻5年(592)年に32代崇峻天皇が馬子により暗殺され、翌月12月、馬子ら群臣まへつきみたちに請われ豊浦宮で即位。時に39歳で、史上初の女帝(神功皇后と飯豊皇女を除外の場合)。
即位元年4月、甥である厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ=聖徳太子)を皇太子とし、治世下で冠位十二階(推古11年(603))・十七条憲法(12年(604))を制定し、法令・組織の整備を進めた。また推古15年(607)に小野妹子を隋に派遣した(遣隋使)*1。翌年からは遣隋使に学問生・学問僧を同行させたりし、隋や朝鮮三国との本格的な外交と文化受容・振興が開始する*2。また推古元年、法興寺(飛鳥寺)に仏舎利を納めたり、四天王寺建立を始めた。推古2年(594)には「三宝(仏・法・僧)を敬うべし」という詔をし、斑鳩の法隆寺建立等を含め仏法興隆に努めた。*推古32年には寺の縁起や僧尼の経歴等を調べ、この時で寺46箇所、僧816人・尼569人・合わせて1385人とある。
政権運営でも、皇太子と馬子ら蘇我勢力の均衡を保ち、豪族の反感を買わぬように、巧みに政権存続を図った。蘇我氏の最盛期であるが、外戚で重臣でもある馬子が、推古32年(624)、葛城県(馬子の本居)の支配権を望んだ時、「大臣は私の叔父であるが、この県を失えば(私人に譲っては)、後の君主が愚かな婦人と評し、大臣もまた不忠だと言われる」と言って要求を退けたという。
*1 遣隋使 『紀』には記載がないが、『隋書卷81列傳第46東夷傳俀國』には――― 開皇二十年(600)、王、姓は阿毎アメ、字アザナは多利思比孤タリシヒコ、號は阿輩彌アハケミ=オオキミ、使を遣して闕(宮中)に詣る。上、所司に其の風俗を訪わしむ。使者言う『王は天を以って兄と爲し、日を以って弟と爲す。天、未だ明けざる時、出でて政を聽き跏趺して座し、日出ずれば便ち理務を停め、云う、我弟に委ねん』と。高祖曰く『これ太いに義理無し』と。是に於て訓して之を改めしむ。―——と600年に倭王から使いが来たとある。多利思比孤のヒコは男性に名付けられるもので、女帝と言う概念の無い中国に対し、摂政たる厩戸皇子(聖徳太子)が代理したとの説もある。
『紀』には―――推古15年(607)7月小野臣妹子おののおみいもこを大唐もろこしに派遣した―――とだけ記されている。一方『隋書』には―――大業三年(607)其の王多利思比孤、使を遣し朝貢す。使者曰う『海西の菩薩天子重ねて佛法を興すと聞く。故に遣して朝拜せしめ、兼ねて沙門數十人來りて佛法を學ぶ』と。其の國書に曰く『日出ずる處の天子、書を、日没する處の天子に致す。恙無きや云云』と。帝、之を覧て悦ばず。鴻臚卿に謂いて曰く『蠻夷(蛮夷)の書、無禮なる者有り。復た以って聞するなかれ」と。―――という有名な「日出ずる処の天子・・・・・』の経緯が記されている。更に『紀』に、推古16年4月小野臣妹子が、大唐からの使者=裴世清ハイセイセイと下客しもべ12人を伴い筑紫に到着し、歓待した云々と記されている。『隋書』でも―――明年、上、文林郎裴清を遣し國に使せしむ。・・・・・王、小德阿輩臺アハタイを遣し數百人を従え、儀仗を設け鼓角を鳴らし來りて迎えしむ・・・・・彼の都に至る。———とあり主旨は符合している。なお、小野妹子は帰路途中、百済で先方皇帝からの書を奪われたと言っているが、天皇に見せづらい内容だったので、奪われたことにしたとの説があるが真偽不明。推古16年9月裴世清の帰国時、小野妹子も再び随行した。この時の国書は『東の天皇、敬しみて西の皇帝に・・・・・』と呼称が変わっている。その後、推古22年(614)6月犬上君御田鍬いぬかみのきみみたすきらを遣隋使として派遣したと『紀』にある。
*2 主な外交と文化受容・振興
・新羅=推古5年11月難波吉子磐金なにわのきしいわかねを新羅に派遣、翌年4月鵲かささぎを持ち帰る。6年8月新羅が孔雀献上。8年2月新羅が任那に侵攻したため新羅に派兵、新羅は毎年の朝貢を約束。16年新羅人が多数帰化。24年7月新羅は奈末竹世士ナマチクセイシを派遣して仏像を献上。29年新羅が奈末伊弥買ナマイミバイを派遣して朝貢。31年7月新羅が奈末智洗爾ナマチセンニを派遣し仏像、金塔と舎利を献上。
・百済=推古3年百済僧慧聡エソウが帰化。5年4月百済王子阿佐が朝貢。7年9月百済が駱駝・驢馬・羊・白雉を献上。10年10月百済僧観勒カンロクが渡来し、暦・天文地理・遁甲方術を伝える。20年路子工ミチコノタクミが帰化し、宮中庭に須弥山・呉橋等造立。また味摩之ミマシが帰化し伎楽を伝えた。
・高麗=推古3年5月高麗僧慧慈エジが渡来し、皇太子の師となった。13年4月高麗の大興王ダイコウオウが黄金300両献上。推古18年3月高麗僧曇徴ドンチョウ・法定ホウジョウが渡来、曇徴は彩色・紙・墨・碾磑みずうすの製法を伝えた。26年8月隋撃退報告と武器等献上。33年高麗王が僧恵灌エカンを献上。
・隋=遣隋使以外に推古31年7月学問者の僧恵斉エサイ・恵光エコウと医者の恵日エニチ・福因フクインたちが、新羅の智洗爾チセンニと共に渡来。
こうした外交以外にも、推古21年掖上池(わきのかみのいけ=奈良県御所市井戸)・畝傍池(うねびのいけ=奈良県高市郡畝傍)・和珥池わにのいけを作ったり、難波から京みやこまで大道(現在の竹内街道?)を整備したともある。
推古天皇28年(620)皇太子(聖徳太子)と馬子は『天皇記』、『国記』、臣連伴造国造百八十部と公民等の本記を録しるしたとあり、29年2月に太子が49歳で薨去し、更に34年(626)5月蘇我馬子も亡くなった。そして天皇自身も、推古36年3月(628)、75歳で小墾田宮において崩御する。その前日に敏達天皇の嫡孫田村皇子(後の舒明天皇)を枕元に呼び、「天皇として万機(よろずのまつりごと=政治)を治め、国民を養うことは、容易ではない。汝は慎しみ、明らかにしなさい。軽々しく言ってはいけない」と、さらに聖徳太子の子山背大兄王も枕元に呼び、「汝はまだ未熟だ。心に望んでも、やかましく言わず、必ず群(まへつきみたち=臣下たち)の言葉を待ち、従いなさい」と諭しただけで、後継者の指名をせず、竹田皇子(たけだのみこ=敏達天皇と推古天皇の子)の陵に葬って欲しい」と告げて崩御した。
陵は竹田皇子との合葬陵墓で、宮内庁上の形式は方丘。考古学名は「山田高塚古墳」で、方墳または長方墳とのこと。方墳の上に円墳を乗せた、明治天皇陵等の上円下方墳に見えないでもないが・・・?。墳丘は3段築成。1段目はほぼ正方形(東西59m・南北55m)、3段目は長方形(東西34m・南北25m)で、北・西面は相当な急斜面。1段目の形は春日向山古墳(用明陵)と同じで、江戸時代の修陵の際に春日向山古墳に則って改変されたとも考えられ、元は1段目も東西に長い長方形であった可能性が指摘されるとのこと。墳丘南側には前庭部状の平坦地があり、それを含めた陵域全体は東西75m・南北72m。また墳丘東側・前面には空堀(幅8~9m)が認められるが、1979年(S54)の調査によれば、その堤は後世に水田上に造られたものと考えられる。墳丘表面では貼石が認められるが、埴輪は無いとされる。主体部埋葬施設は不詳だが、東西に長い墳丘の特徴から、横穴式石室2基が東西に並び、いずれも南方に開口したと推定される。古書ではいずれかの石室内部における石棺2基の存在が記述されているらしい。
『紀』では崩御年9月に「竹田皇子之陵」に葬ったとするが、所在地・陵名の記載は無い。一方『記』では、「御陵在大野岡上、後遷科長大陵也」として「大野岡上」から「科長大陵」へ改葬されたとあるが、竹田皇子との合葬の記載は無い。『延喜式』諸陵寮では、推古天皇陵は「磯長山田陵」として記載され、河内国石川郡の所在とある。その後、元禄の探陵の際には堺奉行が現陵の存在を報告している。なお現陵近くの二子塚古墳を真陵に比定する説があるほか、改葬前の陵(大野岡上)については植山古墳(奈良県橿原市)に比定する説がある。
拝所 墳頂
東面北望 南面東望 西面北望 北面西望
『聖徳太子墓』
2015年10月22日参拝。大阪府南河内郡太子町、叡福寺えいふくじの境内にある。第33代推古天皇皇太子「厩戸豊聰耳皇子うまやとのとよとみみのみこ=いわゆる聖徳太子」の『磯長しなが墓』に治定されている。なお「聖徳太子」という表現は後世の呼称で、『紀』には無い。『記』には、用明条に「間人の穴太部王はしひとのあなほべのみこを娶りて生みし御子が、上宮の厩戸の豊聰耳の命」とのみ記されている。「聖徳」は706年造営の法起寺の塔の台座に「上宮太子聖徳」とあるのが初見。「聖徳太子」の呼称は、天平勝宝3年(751)に編纂された『懐風藻』が初出と言われる。平安時代の史書である『日本三代実録』『大鏡』『東大寺要録』『水鏡』等はいずれも「聖徳太子」と記載し、「厩戸」「豐聰耳」などの表記は見えず、遅くともこの時期には「聖徳太子」が一般呼称となっていたらしい。
*叡福寺=仏教寺院。山号は磯長山(しながさん)、本尊は如意輪観音。開基は、聖徳太子または推古天皇とも、聖武天皇ともいわれる。真言宗系の寺院で、太子宗。また「上之太子」と呼ばれ、「中之太子」野中寺(羽曳野市)、「下之太子」大聖勝軍寺(八尾市)とともに三太子の一つに数えられている。
『紀』ではその出自について、以下の様に記されている。
(推古即位元年4月)厩戸豊聡耳皇子を立てて皇太子と為す。仍かさねて摂政と録しるす。万機(よろずのまつりごと=政治)を悉ことごとく委ねる。橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと=用明天皇)の第二子。母は皇后穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのすめらみこと=欽明天皇と馬子娘の小姉君の子=32代崇峻天皇の姉)。皇后懐妊し開胎(=生まれる)の日、禁中(みやのうち=宮中)を巡行し、諸司を監察し、馬官(うまのつかさ=馬の司)に至りて、厩(うまや=馬舎)の戸に当たり、苦しまず、忽たちまち之を産む。生まれて能よく言い(話せ)、聖知有り。壮(年)に及び、一(度)に十人の訴えを聞き、その内容を失う事勿なし。兼あわせて未然(ゆきさきのこと=未来)を知る。且つ内教(=仏教)を高麗僧の慧慈エジに習い、外典(仏教以外の典籍=主として儒学)を博士の覚哿カクカに学ぶ。並に悉く達す(達成)。父天皇(用明)は愛し、宮の南の上殿かみつみやに居おく(住まわせた)。その名を称たたえ上宮廐戸豊聡耳太子かみつみやのうまやとのとよとみみのひつぎのみこと謂いう。
なお、『紀』で皇太子が主体になっている記事は以下の通り。
(推古9年2月)皇太子は初めて宮室を斑鳩いかるがに建てる。
*斑鳩は当時の宮と直線距離で約17㎞離れ、執務には不便なはずだが、馬子から距離を置くためとか、難波からの奈良へ至るルートにあり、いち早く情報を得るためとか言われている。
(推古11年11月)皇太子は諸大夫(まへつのきみたち=臣下)に謂いいて曰く「我尊仏像有り(持つ)。誰かこの像を得て恭拜せよ(祀れ)」。時に秦造河勝はたのみやつこかわかつ進みて曰く「臣(やつかれ=私め)が之を拝す」。仏像を便(運び)受け、因以、蜂岡寺(現京都市右京区太秦蜂岡町の広隆寺)を造る。
(推古12年4月)皇太子親肇(自ら始めて)憲法十七条を作る。
(推古13年閏7月)皇太子、諸王と諸臣に命じ褶(ひらみ=貴族階級の衣服、男子袴の上から腰にまとった)を着しむ。(10月)皇太子斑鳩宮に居る(住む)。
(推古14年7月)天皇、皇太子に勝鬘經の講(義)を請う。三日で之を説き竟おわる。是この歲、皇太子亦また法華經を岡本宮に於いて講ず。天皇大いに之を喜び、播磨国水田百町を皇太子に施す。因以、斑鳩寺に納む。
(推古21年12月)皇太子、片岡(現奈良県北葛城郡香芝町今泉)に遊行す。時に飢えた者、道に臥し垂たれる・・・・以下要約=皇太子は飲物を与え、衣服を脱いで覆ってやった。二日後使者に見に行かせると既に亡くなっていたので、墓を作らせ葬った。数日後、皇太子が「この前の飢えた人は、凡人でなく、きっと真人(聖ひじり)だ」と言って、使者を見に行かせると、墓の屍骨かばねは既に空で、衣服が畳んで置いてあった。皇太子は、またこの衣服を着た。人は不思議がって「聖者が聖者を知る」と言った。
(推古28年)是歲、皇太子・嶋大臣(馬子)共に之を議はかり、天皇記及び国記、臣連伴造国造百八十部と公民等本記を録しるす。
(推古29年2)半夜、厩戸豊聰耳皇子命、斑鳩宮にて薨みまかる。是時、諸王諸臣及び天下百姓悉ことごとく、長老や愛兒を失った如し、また鹽(塩)や酢之味が口に在りても嘗なめず。少幼が、慈しむ父母が亡くなり、以て哭泣する声が行路に満ちる如し。乃び耕夫が耜すきを止めて、舂うすつく女は杵をつかず、皆「日月輝を失い、天地既に崩れる。今より以後、誰を恃たのむのか」と言った。
先述の通り、推古元年条に『摂政として万機(よろずのまつりごと=政治)を悉ことごとく委ねる』とあるので、主語が厩戸豊聰耳皇子となっていなくても、彼が関わっていた事蹟はもっと多いはずだ。
陵は、考古学上は叡福寺北古墳(または上城うえんじょう古墳)で、径約50~55mの2段築成の円墳。墳丘周囲は「結界石」といわれる石列で二重に囲まれている。2002年結界石保存のため、宮内庁書陵部が整備し、墳丘裾部が3カ所発掘された。後世に定められたとの説もある。母穴穂部間人皇女と妃膳部菩岐々美郎女かしわでのほききみのいらつめを合葬する三骨一廟。 1940年梅原末治により石室復元がなされており、岩屋山式石室で全長12.7m、玄室長5.45m。奥に石棺らしきものが奥壁と平行にあり、その手前に夾紵棺を置く棺台(2.4m×1.1m、高さ0.67m)が2基側壁と平行に置かれていたらしい。石室復元模型が「近つ飛鳥博物館」に展示されている。
拝所 近つ飛鳥博物館展示