OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

岩橋千塚古墳群

2017年10月5日。和歌山県北部の釜山古墳・車駕之古址古墳跡・高芝古墳群1号墳・大谷古墳・岩橋千塚古墳群

f:id:OSAKA-TOM:20220226113237j:plain

釜山古墳

和歌山市木ノ本。上図左上水色枠線。径40m・高さ7mの円墳で、葺石・周濠を備える。明治時代の発掘調査で玉類や直刀・鉄鏃・挂甲小札等が出土している。5世紀代の築造。1958年(昭和33)県指定史跡指定。

車駕之古址しゃかのこし古墳跡

和歌山市木ノ本。上図左上水色枠線。古墳時代中期の前方後円墳跡。釜山古墳(円墳)、茶臼山古墳(前方後円墳)と共に釜山古墳群(木ノ本古墳群)を形成。元は全長86m、後円部径51m、前方長約35m・幅41m、周濠の存在も明らかとなっている。周濠を含めた全長は120m。周濠部分からは造出部から落ちたと思われる円筒・家形・蓋形埴輪が出土し、紀伊初の囲形埴輪(古墳時代の導水祭祀を忠実に表現したもの)も出土。外側に4~5mの溝が複数箇所で検出され、周濠は二重の可能性も指摘されている。 出土した埴輪などの資料から築造時期は、5世紀第3四半期と考えられる。2次堆積層からは金製勾玉1個(中空、18mm、1.6gでほぼ16金で日本唯一)が出土。現在は公園として整備されている。

                釜山全景西望            車駕之古址全景西望 

f:id:OSAKA-TOM:20220226113830j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226113848j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226113910j:plain

*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

車駕之古址全景北望    案内 

f:id:OSAKA-TOM:20220226114103j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226114102j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226114112j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226114115j:plain

*写真は2017年10月。季節や経過年数により周辺の様子や目印が変わることが多いので注意ください。

高芝古墳群1号墳

和歌山市栄谷。上図左上水色枠線。和歌山大学グランドの南端に隣接。7世紀中頃築造の、径8mの円墳。

墳丘        案内

f:id:OSAKA-TOM:20220226114440j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226114442j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226114445j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226114455j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226114506j:plain

 

大谷古墳

和歌山市大谷。巻頭図青枠線。5世紀末(~6世紀初頭)築造の前方後円墳。全長67m、後円部径30m・高さ 6~8m、前方部幅48m。後円部の竪穴式石室(長さ4.8m・幅3m・深さ0.7m)から阿蘇凝灰岩製の組合せ式家形石棺が出土。石棺は長さ2.9m・幅1.6m・高さ1.6mで底石・4枚の側石・2枚繋ぎの蓋石(屋根形で3m×1.6m。両側に6個の環状縄掛突起がある)で形成されている。20~30歳の人骨が出土し、紀氏一族の武人の奥津城おくつきと推定されるとのこと。石棺内からは素文鏡すもんきょう13点、ガラス製勾玉21個等の玉類、耳飾り5点や帯金具7点等の装飾品、鉄刀7点・鉄鏃等の武器、横矧板よこはぎいた鋲留びょうどめ衝角付冑しょうかくつきかぶと・短甲・胡籙(ころく=腰に装着する矢筒)28片等の武具が出土。石棺外からは、轡くつわ・鐙あぶみ・馬鈴等の馬具や馬冑(ばちゅう=馬の顔を覆う鉄製の覆面で、完品出土は日本唯一)・馬甲、ミニュチア農具・工具等出土している。後円部から円筒埴輪も40個以上出土。副葬品から、大陸文化との深い関連も推定される。

             南西側登り口       案内           墳丘北西面北東望

f:id:OSAKA-TOM:20220226115059j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226115125j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226115127j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226115141j:plain

後円部から前方部方面        案内

f:id:OSAKA-TOM:20220226115313j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226115317j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226115323j:plain

 

岩橋いわせ千塚古墳群

和歌山市岩橋。巻頭図緑枠線。「紀伊風土記の丘」資料館の南斜面に広がる公園として整備されている。古墳(群)では全国に9ヶ所しかない国の特別史跡の一つで、古墳時代後期後半の700基を超える古墳群。円墳が大半で、前方後円墳27基、方墳4基が確認されている紀伊国造一族集団の関係する古墳群と推定さる。 史跡指定地内には400基ほど所在するらしい。

f:id:OSAKA-TOM:20220226120104j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226120113j:plain

公園の南西端辺りが大日山地区。この地区の大日山35号墳は、墳丘長88(~100)mの前方後円墳

前方部見上げ       案内           前方部から北望     後円部から南望

f:id:OSAKA-TOM:20220226120303j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226120306j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226120321j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226120330j:plain

西側造出し        東側造出し        案内           復元埴輪

f:id:OSAKA-TOM:20220226123836j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226123837j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226123848j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226123901j:plain

造出しから円筒埴輪、家形埴輪以外に、特異な「翼を広げた鳥形」・「両面人物」・「胡籙(ころく=腰に装着する矢筒)形」埴輪等出土。いずれも国内唯一。

資料館展示と解説リーフレット

f:id:OSAKA-TOM:20220226124127j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226124140j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226124203j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226124217j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226124232j:plain

大日山地区の東側に前山地区があり、5基の前方後円墳(6世紀中葉~後半)と342基の円墳が確認されている。公園のメイン地区である。

前山B134号                     前山B109号

f:id:OSAKA-TOM:20220226124459j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226124449j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226124518j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226124521j:plain

郡長塚古墳=前山B112号墳は墳長30.5mの前方後円墳(帆立貝形)。

B112号後円部方面    案内            B111号石室埋戻し後   案内

f:id:OSAKA-TOM:20220226131533j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226124836j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226124845j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226124911j:plain

知事塚古墳=前山B67号墳は墳長34.5mの前方後円墳

将軍塚古墳=前山B53号墳は 墳長42.5mの前方後円墳。石室内は公開されている。

B67号          案内           B53号案内         石室開口部

f:id:OSAKA-TOM:20220226131832j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226131842j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226131850j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226131858j:plain

B53号羨道         玄室          天井部          開口部方面

f:id:OSAKA-TOM:20220226132040j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226132049j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226132102j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226132114j:plain

B41号          展望台          和泉山脈         未調査墳

f:id:OSAKA-TOM:20220226132306j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226132322j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226132334j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226132344j:plain

A67号墳丘        開口部          羨道           案内

f:id:OSAKA-TOM:20220226133404j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226133411j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226133419j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226133427j:plain

A65号          案内           竪穴式石室        俯瞰

f:id:OSAKA-TOM:20220226133540j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226133552j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226133619j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226133633j:plain

A56号案内     開口部                  玄室        天井部

f:id:OSAKA-TOM:20220226133910j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226133918j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226133930j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226133944j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226133956j:plain

A47号案内             竪穴式石室

f:id:OSAKA-TOM:20220226134138j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226134147j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226134156j:plain

前山A46号墳は径27m・高さ8mの前山A地区最大の円墳。6世紀後半築造。石室内が公開されている。

A46号案内        開口部          羨道           玄室

f:id:OSAKA-TOM:20220226134336j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226134344j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226134354j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226134410j:plain

玄室床          奥壁           天井部          両袖部

f:id:OSAKA-TOM:20220226134544j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226134553j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226134605j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226134611j:plain

A24号案内        開口部          玄室           盗掘坑から石梁

f:id:OSAKA-TOM:20220226135118j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226135128j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226135135j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226135148j:plain

A23号案内        開口部          玄室           天井部

f:id:OSAKA-TOM:20220226135340j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226135352j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226135407j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226135413j:plain

A17号案内        竪穴式石室        A9号案内         石室跡

f:id:OSAKA-TOM:20220226135607j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226135621j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226135635j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226135646j:plain

A13号案内     開口部        羨道        玄室         天井部

f:id:OSAKA-TOM:20220226135929j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226135947j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226135951j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226140005j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220226140017j:plain

【全地区の位置図】

f:id:OSAKA-TOM:20220226140153j:plain

他に花山地区(上図左上隅赤枠内)=北西に離れた独立丘陵で群中で最も古い古墳があり、粘土槨を有する8号墳(上図㉔、全長52m・高さ4.6mの帆立貝形前方後円墳)は5世紀初頭、6号墳(㉓、全長49m・高さ4.5mの前方後円墳)は5世紀後半築造。なお44号墳(㉘)は4世紀後半築造ともされる。

また井辺前山地区には、井辺八幡山古墳(上図㉜)がある。全長88mの前方後円墳で、左右の造出しから人物・動物・家等の形象埴輪(鉢巻をした力士埴輪が有名)と装飾付須恵器(6世紀前半)が多数出土。横穴式石室と推定される。井辺地区の井辺1号墳(㉛)は、一辺40mの方墳。

大谷山地区の大谷山22号墳(上図⑲)は、6世紀前半築造の68mの前方後円墳。南に横穴式石室が開口。羨道が右(=東側)に偏った平面プランである。南側に造出しがあり、人物等形象埴輪と須恵器が出土している。

和佐地区(和歌山市吉礼~下和佐)には、県下最大級の天王塚(天王塚山)古墳(上図①)がある。全長88mの前方後円墳で6世紀中葉~後半築造とされる。横穴式石室は高さ6mで、全国でも最大級。石室には石棚と石梁が8本が架かる。紀伊国造であった紀直きのあたいの古墳とも言われる。*「紀伊風土記の丘」公園の南東端(休憩所)から東に560m程離れている。

岩橋千塚は7世紀に入ると、あまり造られなくなる。ただ支群である井辺地区の方墳=井辺1号墳等、族長クラスの盟主墳的古墳は造営された。7世紀中葉の(大化の)薄葬令より約半世紀前に終わっている。埋葬施設としては本古墳群築造初期~5世紀中頃までは、粘土槨や箱式石棺が用いられ、5世紀末~6世紀前半にかけては竪穴式石室や横穴式石室が造られるようになる。最初の頃の横穴式石室は大谷6号のような右片袖式と大谷28号のような両袖式両方があるが、6世紀前半以降は両袖式が中心となる。石室の石材は、本古墳群周辺で採取される緑泥片岩。板状に剝離できるのが特徴で、板状に割った石材を床面から持ち送りながら積み上げ、石棚や数本の石梁を架け、天井部は大きな板石で覆っている。岩橋型横穴式石室とも呼ばれる。

詳しくは「和歌山県紀伊風土記の丘」ホームページの下記を参照下さい。

岩橋千塚古墳群の概要

天皇陵 その八

天皇陵 その八

38代『天智天皇陵』藤原鎌足、39代『弘文天皇陵』40代・41代『天武天皇持統天皇合葬陵』・草壁皇子「真弓丘陵」

*『古事記』は33代推古天皇までなので、以下の記事は『日本書紀』(以下『紀』)をベースにしています。また『紀』の記事には、真偽に関して諸説ありますが、ここでそれを論じてもキリが無いので、原則『紀』の記事に準拠します(記事中の月日は陰暦のままです。)

陵、諡号等の基本知識は、『天皇陵』を参照ください。

天皇陵 - OSAKA-TOM’s diary

 

38代『天智てんぢ天皇陵』

2016年3月29日(火)参拝。京都市山科区御陵上御廟野みささぎかみごびょうの町。38代「天命開別あめみことひらかすわけ天智天皇(661年~称制しょうせい=後継者がすぐ即位せずに政務を執ること、在位668年~672年)の『山科陵やましなのみささぎに治定されている。宮は斉明崩御後の称制当初は、筑紫の長津宮ながつのみや『紀』では、斉明天皇が斉明7年(661)7月朝倉宮で崩御する直前の3月に立ち寄った娜大津なのおおつ=博多の磐瀬行宮いわせのかりみやで、斉明天皇が名を長津に改めたとある。天智即位2年(663)7月に白村江で大敗後、即位6年(667)3月に近江宮(おおみのみや=現大津市錦織)へ遷都した。

『紀』の天智条の年紀は、661年斉明天皇崩御の翌年=662年を「即位1年」として以降の記事を記している。なので本来は「称制2年」とすべきだが、『紀』に合わせ掲載する。正式に即位してから何年目かは「即位〇年から「6」を引けばよい。

34代舒明の第2皇子。母は35代皇極(=37代斉明)。皇后は「天智の異母兄古人大兄皇子ふるひとのおおえのおうじ」の娘=倭姫王やまとひめのおおきみ(皇后との間に子はない)。一般には中大兄皇子なかのおおえのおうじと呼ばれるが、「大兄」は長兄である皇位継承資格称号で、「中大兄」は「二番目の大兄」を意味する。諱(いみな=本名)は葛城かつらぎ皇子。

通説では皇極4年(645)6月、皇極の目前で、中臣鎌足らと蘇我入鹿いるかを暗殺、入鹿の父蘇我蝦夷えみしは、翌日館に火を放ち自害した(「乙巳いっしの変」)。その翌日、皇極の同母弟=孝徳が即位し、自分は皇太子となった。後世「大化の改新」と呼ばれる様々な改革は、彼と中臣鎌足の事蹟ともされるが、諸説ある。また、孝徳が遷都した難波長柄豊碕宮から、白雉4年(653)「何故か?」孝徳皇后(間人皇女=天智の同母妹)・皇祖母尊(35代皇極)・臣下共々飛鳥に戻ってしまった。孝徳は翌年崩御するが、皇太子である中大兄皇子ではなく「何故か?」前天皇の皇極が重祚した。

百済が660年に唐・新羅に滅ぼされ、人質として日本に滞在していた百済王子豊璋ほうしょうを復興のため帰国させた。更に、百済救援のため斉明等は筑紫に従軍したが、斉明7年(661)7月斉明が崩御。天智即位2年(663)7月に、朝鮮半島白村江はくすきのえの戦で唐軍に大敗する。翌年即位3年(664)対馬壱岐・筑紫に防(防人=さきもり=辺境防備兵)と烽(烽火=とぶひ=急報の「のろし」設備)を設置。大宰府に水城(みずき=高さ10mの堤)を築いたとある。また即位4年(665)には長門国筑紫国の大野と椽に(朝鮮式)山城を築いた。即位6年(667)には高安城(たかやすのき=奈良県生駒郡大阪府八尾市の境)、讚吉国さぬきのくに山田郡に屋嶋城(やしまのき=香川県高松市屋島)対馬国に金田城かなたのきを築く(なお、9年2月にも高安城長門に城1つ、筑紫に城2つを築いたとの記事が重複している)。これらは、唐による日本侵攻への備えというのが通説だが、唐の羈縻きび政策(戦勝国に都督府を置き、旧族長を通じ間接統治すること)を受け入れ、「唐の筑紫都督府」を守るため築かされたという異説もある。
白村江敗戦後、何度か唐から使者が来日している。即位3年(664)防人と烽火設置・水城築造の年、百済に置かれた唐の都督府から5月郭務悰(カクムソウ)が来日、品物を与え宴会をして12月に帰す。また即位4年(665)長門や筑紫に城を築いた年、9月唐は劉徳高(リュウトクコウ)等を派遣してきて、宴会をし品物を与え12月に帰す。更に、即位6年(667)高安城・屋嶋城・金田城を築いた年、11月百済の熊津(ウンジン)都督府の法聡(ホウソウ)等を派遣してきて、同月帰る。

即位6年(667)3月に近江宮へ遷都する。当時の人々は遷都を願わず、批判の声もあったという。「何故近江か?」については、「即位4年(665)2月百済の百姓たみ男女400人余りを近江国の神前郡(かむさきのこおり=滋賀県東南部)に置いた」等の記事との関連性や、唐の侵攻への備えとか、大和を唐の都督府とするため近江に移転させられたとか諸説ある。

そして、ようやく即位7年(668)1月天智天皇として即位する。「何故7年も即位しなかったのか?」についても諸説あるが、定説は無い。即位直前の記事は、前述の即位6年(667)安城・屋嶋城・金田城を築いた年に、11月百済熊津都督府の法聡等を派遣してきて同月帰る。即位後の記事では、即位8年(669)唐に使者を派遣し、唐は郭務悰等2000人余りを派遣してきている。つまり、唐との何らかの関連性も考えられる。

*当時の朝鮮半島情勢は、一つの画期を迎える。668年(天智即位7年)10月唐が高句麗を滅ぼす。新羅は唐が西方で吐蕃と戦争する隙に、文武王が即位し671年唐に反旗を翻す。唐は676年熊津都督府(旧百済)、678年安東都督府(旧高句麗)から撤退し、新羅朝鮮半島を統一する。つまり、670年代に唐の支配が急激に衰えるのである。

即位7(668)年2月倭姫王を皇后とするが、他に4人を妃としている。一人目は、蘇我山田石川麻呂大臣(そがのやまだいしかわまろ=入鹿討伐者の一人)の長娘=遠智娘おちのいらつめ大田皇女おおたのひめみこ鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ=後の40代天武天皇皇后=41代持統天皇)・建皇子たけるのみこの母。二人目は、遠智娘の妹=姪娘めいのいらつめ御名部皇女(みなべのひめみこ=天武天皇の長男の妃)・阿陪皇女(あべのひめみこ=後の43代元明天皇)の母。三人目は、阿倍倉梯麻呂大臣あべのくらはしのまろの娘=橘娘たちばなのいらつめ。飛鳥皇女あすかのひめみこ新田部皇女にいたべのひめみこの母。四人目は蘇我赤兄大臣そがのあかえの娘=常陸ひたちのいらつめ山辺皇女やまべのひめみこの母。更に、後宮(江戸時代の大奥)の女官にも天智天皇の子をもうけた者が4人いた。忍海造おしぬみのみやつこの娘=色夫古娘しこぶこのいらつめの子が大江皇女おおえのひめみこ・川嶋皇子かわしまのみこ泉皇女いずみのひめみこ栗隈首徳万くるくまのおびととこまろのの娘=黒媛娘くろめのいらつめの子が水主皇女もいとりのひめみこ越の道君伊羅都売みちのきみいらつめの子が施基皇子しきのみこ。伊賀采女宅子娘いがのうねめやかこのいらつめの子が伊賀皇子=大友皇子(おおとものみこ=後の39代弘文天皇)
天智の皇女のうち、大田皇女・鸕野讚良・新田部皇女・大江皇女の4人大海人皇子に嫁がせており、「何故4人も弟に嫁がせたのか?」、「何故それ程、弟に気を使ったのか?」、「何故同父母弟を姻戚関係でがんじがらめにする必要があったのか?」についても諸説ある。また、天智と大海人皇子の確執の原因についても諸説ある。額田王ぬかたのおおきみを巡る三角関係、大海人皇子は皇極とその前夫である「用明の孫=高向王たかむくのおおきみ」との子=漢皇子あやのみこで、天智天皇の弟ではなく兄である等々。

また、大化1年(645)古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ=「34代舒明の子」=「天智の異母兄」)の謀殺や、大化5年(649)蘇我山田石川麻呂(天智の二人の妃の父)の謀殺、斉明4年(658)有間皇子(ありまのみこ=「36代孝徳の子」=「天智の従弟」)謀殺の首謀者説もあり、天智天皇は、歴代天皇の中でも「何故?」という謎の多い人物である。

事蹟面では、即位3年(664)2月大皇弟(大海人皇子=後の天武とされる)に命じて冠位26階制を敷く。即位7年(668)通称近江令編纂(「藤氏家伝』という藤原氏の家伝書にある。『紀』には即位10年(671)1月「東宮太皇弟が、冠位と法度の施行を奉宣した」とあるのみ)、即位9年(670)2月通称庚午年籍作成(『紀』には「二月造戸籍」とあるのみ)。即位10年(671)4月漏剋(ろうこく=水時計=明日香村飛鳥の水落遺跡)を設置(『紀』には、「この漏剋は皇太子になった時に、初めて自ら製作した」とある)『紀』にある漏剋設置日(4月25日)グレゴリオ暦に補正した6月10日が、現在の「時の記念日」となっている。

(2016.2撮影) 水落遺跡      案内

f:id:OSAKA-TOM:20220222114512j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220222114528j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220222114543j:plain

*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

後継者については、即位7年(668)に、同母弟の大海人皇子(天武)を皇太弟とした(『紀』の天智条に記事はなく、天武条の即位前紀にある)。即位10年(671)1月第一皇子大友皇子(後の39代弘文)を史上初の太政大臣とした。9月天智の病が悪化し、10月東宮(大海人皇子)を呼び寄せ「後事を託す」と伝えるが、大海人皇子は辞退し、出家して吉野に向かった。つまり、ここに大友皇子の後継者資格が確定する。12月天智天皇は近江宮で崩御した。

 

陵の考古学名は御廟野古墳。被葬者の実在性や真陵であることに異論がない数少ない天皇陵。大正時代当時には上円下方墳とされたが、現在の宮内庁公式形式は上円下方(八角)。2段の方形壇(下方辺長約70m・高さ8m)の上に、対辺間距離42mの八角形墳丘がのる八角(上円下方墳と見做す場合は、上円対辺長約46m)明治天皇伏見桃山陵以降、天皇陵は上円下方墳の形式だが、その原型が本古墳とされる。築造年代は7世紀末から8世紀。7世紀の中葉から、八角墳は大王墓のみで造営されるようになり、初めての大王固有型式の陵墓といえる。他では、段ノ塚古墳(現舒明陵)・牽牛子塚古墳(真の斉明陵説あり)・野口王墓(現天武・持統合葬陵)・中尾山古墳(真の42代文武陵説あり)があり、更に束明神古墳(奈良県高市郡高取町=草壁皇子の真弓山稜説あり)・岩屋山古墳(明日香村)等が八角形墳の可能性がある。なお、『紀』の天智条には「12月新宮で殯した」とあるだけで、天武・持統条にも、天智の埋葬=陵造営記事はない。

*おそらく「壬申の乱」のため造営できなかったのだろう。『紀』の後代を記録する『続日本紀』の文武3年(699)10月条に「為欲営造越智 山科二山陵也」とあり、斉明・天智陵造営記事と思われる。

最寄り駅は地下鉄東西線の「御陵みささぎ」駅(=京阪京津線御陵駅)三条通(=県道143号)を南西に10分程。

f:id:OSAKA-TOM:20220222115356j:plain

三条通北西望       南東望          道標           参道入口

f:id:OSAKA-TOM:20220222115450j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220222115455j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220222115457j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220222115502j:plain

参道は約400m。北側の半分は木々に覆われている。

参道入口      制札         参道

f:id:OSAKA-TOM:20220222115706j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220222115707j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220222115717j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220222115735j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220222115736j:plain

拝所遠景         拝所           拝所東側         西側

f:id:OSAKA-TOM:20220222115905j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220222115913j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220222115921j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220222120002j:plain

陵のすぐ東側から北側にかけて琵琶湖疎水が流れている。参道途中から東に入ると疎水に行ける。また東海道本線を挟み、南側に旧東海道が残る。

疎水への進入口南望    参道見返り        疎水大津方面      京都方面

f:id:OSAKA-TOM:20220222120153j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220222120158j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220222120209j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220222120216j:plain

疎水登り口見返り    旧東海道西望        東望           道標

f:id:OSAKA-TOM:20220222120337j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220222120342j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220222120401j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220222120408j:plain
藤原鎌足」墓

中大兄皇子時代から、二人三脚で歩んだ中臣鎌足(『紀』では皇極期は「鎌子」)。

皇極3年(644)1月神祗伯に任命されたが、再三固辞して就任せず、病だと称して三嶋の地に隠遁した。しかし当時の軽皇子(かるのみこ=後の36代孝徳)は居所に呼び厚遇する。そして蘇我入鹿の専横を正すべく中大兄皇子に近づく。つまり有名な蹴鞠での出会いの場面である。そして翌年皇極4年(645)6月「乙巳の変」を起こす。36代孝徳天皇即位時に、内臣うちつおみという特別職として中枢に参画する。孝徳10年(654)=白雉5年1月大紫冠の位を授けられた。以後事蹟記事は殆ど無く、天智即位3年(664)10月郭務悰や即位7年(668)9月新羅の使者の応対に名が見えるのみ。

即位8年(669)5月天智が山科で狩りをし、大皇弟(大海人皇子)と藤原内大臣達が従ったとある。俗説では、鎌足はこの時の落馬による負傷が原因で逝去したとされるが、『紀』にも、『藤氏家伝』等の古代史料にもそうした記事は無いと思われる。

即位8年(669)10月10日天智が病に伏せる中臣鎌足を見舞い、15日東宮大皇弟(大海人皇子)を派遣して大織冠・大臣の位・藤原姓を与えるが、翌日16日に逝去した。また『紀』には「日本世記(高句麗からの亡命僧道顕の著とされる)に享年56歳」とある。

談山たんざん神社 鎌足の埋葬先としては、先ず奈良県桜井市多武峰とうのみねにある談山神社がある。元は「多武峯妙楽寺みょうらくじ」という寺院。寺伝によると、天武7年(678)天智の長男=定恵じょうえ遣唐使からの帰国後に、父の墓を摂津国安威あいの大織冠神社(茨木市西安威2丁目=現将軍塚古墳)から大和国の当地に移し、その墓の上に十三重塔を造立したとある。社名は、鎌足中大兄皇子が「乙巳の変」の談合を行い、後に「談い山かたらいやまと呼んだことに由来するとされる。

(2016年2月撮影)参道 拝殿        楼門        本殿         案内

f:id:OSAKA-TOM:20220222130114j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220222130136j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220222130153j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220222130205j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220222130223j:plain

神廟拝所・権殿   十三重塔       案内        神廟拝所      案内

f:id:OSAKA-TOM:20220222130352j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220222130430j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220222130448j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220222130502j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220222130513j:plain

将軍塚古墳 茨木市西安にしあい2丁目。参道石段傍に『大織冠神社』という石碑がある。『平安時代鎌足の墓は摂津の安威にあり、後に大和多武峯に改葬された』との伝承から、江戸時代には当古墳が鎌足の墓とされ、鳥居を建て大織冠神社として祀られたようだ。しかし、考古学的な造築時期は6世紀後期で、鎌足の逝去時期との間にズレがある。鳥居の石段を登った所に、花崗岩を積み上げた横穴式石室がある。玄室の長さは約4.5m・幅約1.7m・高さ2.4m、5枚の天井石が積まれ、副葬品は無かったらしい。開口部には鉄柵があり、入室はできない。石室をとりまく円墳の規模はあまり大きくはないが、この山全体が古墳という可能性もあるとのこと。
*左手奥には将軍山古墳があるが、規模も築造年代も全く異なる別の古墳。元はもっと南側にあった4世紀後半の古墳で、全長約107m、後円部径約70m、前方部端幅約44mの前方後円墳だったが、宅地造成のため破壊され、後円部の竪穴式石室のみを現在の所に移設、復元している。

(2019年5月撮影)  参道         案内        碑          石室

f:id:OSAKA-TOM:20220222131032j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220222131051j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220222131439j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220222131127j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220222131142j:plain

阿武山あぶやま古墳 高槻市大字奈佐原なさはら。1934年京大地震観測施設建設中、瓦や巨石が発見された。盛り土はなく、浅い溝で囲まれた、7世紀末=古墳時代終末期の径82mの円形墓域であった。墓室は墓域中心の地表直下。切石で組み内側を漆喰で塗り固め、地表と同じ高さになるよう、墓室上を瓦で覆っていた。内部には棺台があり、漆で布を何層にも固め、外側を黒漆・内部を赤漆で塗った夾紵棺きょうちょかんが日本で初めて発見された。棺内には、60歳前後の男性で、肉や毛髪、衣装も残存した状態で、ミイラ化した遺骨がほぼ完全に残っていた。鏡や剣、玉などは副葬されていなかったが、ガラス玉を編んで作った玉枕の他、遺体が錦をまとっており、胸から顔面や頭にかけ金糸が散らばっていた。分布状態から冠の刺繍糸と判明。1982年埋め戻す前のX線写真原板を観測所で発見。1987年の分析で、腰椎等骨折の大けがをし、治療後寝たきり状態のまま、二次的合併症で死亡したと判明(これが落馬によるとされる由縁?)。漆の棺や玉枕を敷いていたこと等から、最上位クラスの人物と思われる。冠が当時の最高冠位である大織冠であるなら、授けられたのは、史上では百済王子余豊璋と鎌足しかいない。なお、被葬者としては同時期の蘇我倉山田石川麻呂や阿倍倉梯麻呂説もあるが、高槻という地との関連性はない。

     (2019年5月撮影)京大地震研究所 道標        進入路        標識

f:id:OSAKA-TOM:20220223092034j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220222132042j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220222132053j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220222132113j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220222132124j:plain

墓室全景      案内                             西望

f:id:OSAKA-TOM:20220222132256j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220222132303j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220222132323j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220222132331j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220222132402j:plain

 

39代『弘文こうぶん天皇陵』

2018年3月27日(火)参拝。大津市御陵町。39代「弘文天皇」の『長等山前陵ながらのやまさきのみささぎに治定されている。天皇として追号されたのは、明治3年なので、『紀』に弘文条は無い。在位はあえて言えば:672年1月~ 672年8月。諱は大友皇子。父は38代天智。母は後宮女官であった伊賀采女宅子娘。天智即位10年(671)1月太政大臣となる。同年12月天智は近江宮で崩御し、大海人皇子が「壬申の乱」後、正式に天武天皇として即位するまでの間(空位としないためか?)、結果として天皇として追号された。日本最古の漢詩集『懐風藻』に、その人となりについて「年甫はじめて弱冠、太政大臣を拝す。百揆を総べて以てこれを試む。皇子博学多通、文武の材幹有り。始めて萬機に親しむ。群下畏れて粛然たらざる莫し。年二十三にして立ちて皇太子と為る。・・・天性明悟、雅より博古を愛す。筆を下せば章と成り言を出せば論と為る。時に議する者其の洪学を歎ず。未だ幾ばくならずして文藻日に新たなり。壬申の年の乱に会ひて天命を遂げず。時に年二十五」。なお、皇位には天智天皇皇后=倭姫王を立て、自らは皇太子として称制していたとする説もある。

陵の考古学名は「園城寺亀丘古墳」、径20m程の円丘。明治9年陸軍分営設置で破壊された際に、鏡・鏃・剣等の出土があり、その後盛り土整備したとも言われるが、詳細は不明。三重県伊賀の鳴塚古墳、滋賀県大津市の皇子山古墳・膳所茶臼山古墳弘文天皇陵との伝承があり、また壬申の乱後東国へ逃れた伝承からか、愛知県・神奈川県・千葉県にも弘文天皇陵伝承古墳等がある。

           参道南望      制札        拝所南望

f:id:OSAKA-TOM:20220222133140j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220222133218j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220222133230j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220222133242j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220222133302j:plain
壬申の乱

乙巳の変」、「大化の改新」共々、非常に著名な歴史ドラマであるので、詳述は避けるが、天智即位10年(671)10月東宮(大海人皇子)を呼び寄せ「後事を託す」と伝えるが、大海人皇子は辞退し、出家して吉野(奈良県吉野郡吉野町大字宮滝)に向かった。『紀』には、「この時ある人は、虎に翼を着けて放った、と言った」とある。更に、天智崩御の翌年(672)「5月、大友側が美濃・尾張で天智陵造営と称して兵を集めている。また近江京から倭京まで所々に監視を置き、吉野への食料補給路であった菟道うじ橋を抑えた等の情報がもたらされた」。(大海人皇子は)「朕、天皇位を譲り、世を隠遁した理由は、独り病気を治療し、身体を健康にして、永遠に100年を過ごそうと思っていた。しかし、今禍わざわいを受けている。どうして黙って身を滅ぼすことがあろうか」と、挙兵を決意する。

(2020.7撮影)吉野宮滝周辺案内   宮滝(上が南)          吉野川

f:id:OSAKA-TOM:20220222133854j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220222133916j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220222133930j:plain

(2017.8撮影)吉野宮跡         案内              碑

f:id:OSAKA-TOM:20220222134204j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220222134228j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220222134303j:plain

6月24日、妃の鸕野讚良皇女、子の草壁皇子くさかべのみこ忍壁皇子おさかべのみこ等40人余りで吉野を発ち、名張を通り、25日柘植つげで嫡男高市皇子(たけちのみこ=当時19歳)軍と合流、鈴鹿をぬけ、26日朝明あさけ大津皇子(当時10歳)軍と合流、天照太神を遥拝した。美濃では多品治おおのほむじが挙兵。27日大海人皇子は不破(当時美濃国岐阜県古代東山道の関所)に到着する。一方大友側は東国と吉備・筑紫に派兵要請使者を送るが、東国への使者は大海人部隊に阻まれ、筑紫では、栗隈王くりくまのおおきみが国防を理由に派兵を断る。大海人皇子は7月2日軍を大和と近江二方面に向かわせた。大和では大海人側の大伴吹負ふけい軍と美濃からの紀阿閉麻呂あべまろ軍が応戦。村国男依おより率いる主力軍は7月7日横河で開戦し、着々と近江に迫った。7月22日遂に瀬田に到着し、近江朝廷の大友軍を打ち破った。7月23日大友が山前やまさきで首を吊り自決した。約1ヶ月で天智血縁者同士の争いが終わる。過去にも大王家血縁者同士の争いはあったが、 正否は別として、天下を分ける大王家同士のクーデターは日本初である。

壬申の乱での大友側の蘇我果安はたやすの裏切や(海部系)尾張氏の支援、天武天皇の殯もがりの際の誄(しのびごと=生前の功績・徳行を称えたたえ追憶する弔辞)のメンバー等を見ると、天武と尾張氏や漢氏・高向氏、更には蘇我氏と密接な関係があったと推測される。こうしたことが大海人皇子は、皇極と前夫の「用明天皇の孫=高向王」との子=漢皇子(蘇我系)説の論拠でもある。

 

40代『天武天皇』・41代『持統天皇』合葬陵

2016年2月4日(木)参拝。奈良県高市郡明日香村大字野口。第40代「天渟中原瀛真人あまのぬなはらおきのまひと=天武天皇(在位673年~686年)」と第41代「高天原広野姫たかまのはらひろのひめ持統天皇(686年~称制、在位690年~697年)」の『檜隈大内陵ひのくまのおおうちのみささぎに治定されている。

40代『天武天皇

壬申の乱」後、大和の嶋宮(しまのみや=高市郡明日香村島庄)に入り、3日後に岡本宮(高市郡明日香村大字岡)に移った。この年岡本宮の南に新宮を建て、冬に移った。これが飛鳥浄御原宮あすかきよみはらのみや。この地は、現在「伝飛鳥板蓋宮跡」と呼ばれ、34代舒明期の飛鳥岡本宮、35代皇極期の飛鳥板蓋宮、36代斉明期の後飛鳥岡本宮飛鳥浄御原宮のⅢ期の宮に比定されている。父は34代舒明、母はその皇后(=35代皇極)。天智の弟というのが通説。皇后は天智第二皇女=鸕野讚良皇女(後の41代持統天皇。諱は大海人皇子

妃としては、天智第一皇女の大田皇女=大来皇女おおくのひめみこ大津皇子おおつのみこの母。天智大江皇女おおえのひめみこ=長皇子ながのみこ弓削皇子ゆげのみこの母。天智皇女新田部皇女にいたべのひめみこ=舎人皇とねりのみこの母。夫人としては藤原鎌足娘の氷上娘ひかみのいらつめ但馬皇女たじまのひめみこの母。氷上娘の妹=五百重娘いおえのいらつめ=新田部皇子にいたべのみこの母。蘇我赤兄そがのあかえ娘の大蕤娘おおぬのいらつめ=穂積皇子ほずみのみこ・紀皇女きのひめみこ・田形皇女たかたのひめみこの母。嬪ひんには、鏡王かがみのおおきみ娘の額田姫王=十市皇女といちのひめみこの母。胸形君徳善むなかたのきみとくぜん娘の尼子娘あまこのいらつめ高市皇子命の母。宍人臣大麻ししひとのおみおおまろ娘のカジ(木偏に穀)媛娘かじひめのいらつめ忍壁皇子磯城皇子、泊瀬部皇女はつせべのひめみこ・託基皇女たきのひめみこの母。

壬申の乱」の翌年(673)正式に即位する。在位14年間大臣職を置かず、天皇・皇后・皇子のみによる「皇親政治」による大王家の中央集権体制を形成したことで著名。

『紀』の天武条の年紀は、天智天皇崩御の翌年=672年を「即位元年」として以降の記事を記している。正式な即位は673年だが、『紀』に合わせ掲載する。

具体的な事蹟==即位2年(673)4月伊勢神宮斎宮設置(初代は大来皇女)。 天智即位3年(664)に支給した部曲(かきべ=豪族の私有民)を即位4年(675)2月に廃止。 4年(675)4月「漁猟の罠の使用」禁止と「牛・馬・犬・猿・鶏の食用」禁止。10月諸王~初位の冠位にあるものに武装命令。 5年(676)4月有能者の官人採用許可。8月全国に大祓え(穢れを祓う儀式)命令。 7年(678)10月官人の勤務評定・考課制度。 8年(679)4月全国の寺の食封(へひと=じきふ=俸禄の一種)の適正化。5月吉野宮の盟約(皇后・草壁皇子大津皇子高市皇子河嶋皇子忍壁皇子・芝基(施基・志貴等とも)皇子を集め、皇子達の結束=草壁皇子(当時17歳)への忠誠を誓わせた。11月竜田山・大坂山に関所設置。難波宮に羅城(らじょう=都の周囲の城壁)を築く。 9年(680)4月全国の寺の(国の大寺である2~3つを除き)役人統治の禁止。10月京内の諸寺僧尼や百姓に賑給(にぎわえたまい=しんごう=貧しいものへの配給)11月皇后の病気平癒のため薬師寺建立。 10年(681)2月律令制定の詔草壁皇子立太子と執政(=摂政)宣明。3月川嶋皇子・忍壁皇子等に帝紀(日本書紀)製作の詔。 11年(682)4月男女全員の結髪の詔。9月跪礼・匍匐礼の廃止。12月氏族の氏上(代表者)の選定と報告義務の詔。 12年(683)3月僧正・僧都・律師の任命。4月銅銭使用推奨(和同開珎以前の銅銭?)12月難波宮造営を宣明。 13年(684)4月「全ての政要は軍事である」として、文武官にも武装と乗馬修練の詔(馬が無いものは歩兵に)。男女の衣服を規定。10月八色の姓やくさのかばね制定(真人まひと朝臣あそみ・あそん宿禰すくね、忌寸いみき、道師みちのし、臣おみ、連むらじ、稲置いなき。守山公・路公みちのきみ・高橋公・三国公・当麻公たいまのきみ・茨城公うまらきのきみ・丹比公たじひのきみ・猪名公・坂田公・羽田公・息長公おきながのきみ・酒人公・山道公やまじのきみの13氏を真人とした。11月52氏を朝臣、12月50氏を宿禰とした。 14年(685)1月位階を改定。諸王より上を明位みょうい2階・浄位じょうい4階、階しな毎に「大と広」で12階に。また、諸臣の位を正位しょうい4階・直位じきい4階・勤位ごんい4階・務位むい4階・追位ついい4階・進位しんい4階、階毎に「大と広」で48階*とした。6月11氏を忌寸とした。 15年(686)1月難波宮で失火。5月天武発病。6月占いで病の原因が「草薙剣の祟り」とされ、剣を尾張国熱田社に送った。7月元号を朱鳥あかみとりに改める。9月崩御=皇后が称制。2年2ヶ月の殯の後、持統即位2年(688)11月大内陵に葬られた。
*なお、朝鮮半島では678年(天武7年)新羅が半島を統一するが、天武在位中に、新羅から頻繁に使者が渡来してきており、天武天皇が親新羅派といわれる由縁にもなっている。

冠位=氏族に与えられる「姓」と違い、官人個人に与えられる位階で、冠の色や材質で区別し、公式行事等で着用した。日本初の冠位は推古11年(603)の12階(徳・仁・礼・信・義・智の各々大小)。続いて孝徳=大化3年(647)の七色13階冠(織冠・繍冠・紫冠・錦冠・青冠・黒冠の各々大小と建武)、更に孝徳=大化5年(649)に19階に改定される(織・繍・紫の各々大小=6階、花・山・乙の各々大小と上下=12階と立身)。そして天智3年(664)の冠位26階(織・縫・紫の各々大小=6階、錦・山・乙の各々大小と上中下=18階、建の大小=2階)。天武期に48階となり、チョコチョコ昇格させ執務意識向上の方策なのだろう。

41代『持統天皇

707年火葬の際「大倭根子天之広野日女尊おおやまとねこあめのひろのひめのみこと」に改号されている。朱鳥元年(686)天武崩御後、皇后が称制し、690年持統天皇として即位する。称制当初の宮は飛鳥浄御原宮。正式即位の4年後(694)藤原宮に移り住んだ。*「京」全体の完成は慶雲元年(704)とされる。

藤原京=日本初の本格的な都城=都市計画に基づき造営された都市で、天子の居所(宮城)、その南に官庁(皇城)、その周辺に市街地(京域)が形成された都市。「宮都」と呼ぶこともある。藤原京以前にも、飛鳥京難波京等が該当するともされる。日本では都城が置かれた土地を「京」と称し、「みやこ」と呼んだ。『紀』天武・持統条には藤原京の造営経緯が、比較的細かく記されている。「天武5年(676)新城(にいき=奈良県大和郡山市新木=にき)に新宮を造営しようとするが断念。天武11年(682)新宮造営の検討を再開し、天武13年(684)京師(けいし=当時では飛鳥宮辺りか?)を巡行し宮地を定めた。天武天皇崩御後、持統即位4年(690)10月高市皇子が藤原の宮地を視察、12月持統が藤原の宮地を視察。5年(691)10月「新益京しんやくのみやこ」の地鎮祭をさせた。12月「右大臣には宅地4町。直広弐より上には2町。大参より下には1町。勤より下、無位むいには・・・。王おおきみ達もこれに倣え」と詔している(つまり、この時点で、京の区画が大体決定されていたのかも)。即位6年(692)1月持統が新益京の路おおちを視察。6月持統が藤原の宮地を視察。7年(693)2月造京司みやこつくるつかさ達に詔し、掘り出した尸(かばね=遺体)を収めさせた。8月持統が藤原の宮地視察。8年(694)12月天皇が藤原宮に移って居住開始。

(2016/2撮影)藤原京資料館解説            資料館から全景南東望   西口から東望

f:id:OSAKA-TOM:20220223104908j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220223104916j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220223104929j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220223104933j:plain

大極殿復元柱東望 中央から北望=大極殿跡 南望=-南門跡朱  雀大路跡北望     南望

f:id:OSAKA-TOM:20220223105206j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220223105259j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220223105433j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220223105607j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220223105658j:plain

 

持統天皇は、天智天皇の2番目の皇女。母は遠智娘。斉明3年(657)13歳で大海人皇子の妃となる。天智即位元年(662)草壁皇子大津宮で産む。天智即位10年(671)10月に出家した大海人皇子とともに吉野に入った。天武天皇即位元年(672)6月大海人皇子に従って、壬申の乱に勝利。天武天皇即位2年(673)皇后となった。その人となりについて『紀』には、「深沈(しめやか=落ち着いており)、大度(おおきなるのり=大きな器)であった。帝王の皇女だが、礼を好み、節度があって完璧で欠けるところのない人物。母としての道徳もあり、皇后となってからも、天皇が天下を定めるのを助け、政務でも助け補うところが多かった」とある。
686年天武崩御時、皇太子である草壁皇子は23歳であったが、(病気のせいか?)持統が称制する。689年草壁皇子が28歳で薨去し、その子の軽皇子(=後の42代文武天皇)は、まだ7歳であったため、皇后が690年持統天皇として即位した(46歳)。

『紀』の持統条の年紀は、天武天皇崩御年翌年=687年を「即位元年」として以降の記事を記している。正式な即位は690年だが、『紀』に合わせ掲載する。

事蹟としては、天武崩御の翌月(686年10月)大津皇子が謀反を企て、24歳で逝去(11月姉であった斎宮大来皇女は京師に帰る=斎宮の身内に不幸があると配置転換させられた)。持統即位1年(687)京師の孤独高年(身寄りのない高齢者)に布帛ぬのきぬを配給(以後同年・4年・7年等度々行っている)。即位2年(688)2月「今から以後、国忌(はて=天武の命日)に当たるごとに必ず斎(おがみ=儀式)をするべし」と詔。11月天武を大内陵に葬る。 即位3年(689)2月筑紫の防人の年限設定。同月藤原不比等を判事に任命=不比等『紀』での初見4月草壁皇子薨去6月浄御原令施行閏8月戸籍=庚寅こういん年籍作成指示。12月双六(すぐろく=博打)禁止令。即位4年(690)1月1日正式即位4月人事考課制度明確化=役人と畿内人で位ある者は6年毎に評定。位の無いものは7年毎。勤務日数で9等評定。4等より上は善最(勤務態度)・功能(功績)・氏姓大小(氏族の大小)で、量って冠位を決定するとし、資格別に服の色を規定。7月高市皇子太政大臣に、丹比嶋真たじひのしまのまひとを右大臣に任命。八省百寮(全省庁の役人)を遷任、大宰・国司を遷任。朝服礼儀を規定。11月従前の元嘉げんか暦と新しい儀鳳ぎほう暦*の併用開始。 即位5年(691)10月過去の天皇陵の陵戸(みさざきのべ=りょうこ=墓守)の規定。なお、687年称制後、吉野宮に31回行幸している(称制前と合わせると計64回とも)。

*元嘉暦=中国南北朝時代の宋~梁の暦法南朝の宋(439~)・斉(479~)・梁(502~)の諸王朝で、元嘉げんか22年(445)~天監8年(509)の65年間用いられた。日本には百済から6世紀頃に伝えられたとされる=『紀』では欽明15年(554)平安時代の『政事要略』に、「推古12年(604)初めて日本人の作った暦の頒布を行った」とあり、元嘉暦によるものと考えられる。
*儀鳳暦=唐代の太陰太陽暦暦法。麟徳2年(665)~開元16年(728)の73年間用いられた。唐での名称は麟徳暦りんとくれきだが、日本では儀鳳暦と呼ばれ、飛鳥から奈良時代にかけて使用された。元嘉暦より1年で2.75分短い(=523.6年で1日ずれる)
なお中国での暦は、早くも殷(BC1600年頃~)・周(BC1000年頃~)代で、太陽・月・星や植物の成長等を観察し決めた観象授時暦が使われ始めた。現在天気予報でよく使われる「二十四節気」は春秋戦国(BC770年頃~BC220年)に導入されたという。

日本書紀の古い時代の前半部分が、主に(新しい暦の)儀鳳暦が使われ、新しい時代の後半部分は(古い暦)元嘉暦が使われているという小川清彦氏の研究がある。つまり『紀』の前半と後半の編纂者が別ということになる。

 

持統即位11年(697)軽皇子が15歳となり(従前の皇位継承は20歳以降であったが)42代文武天皇として即位した(文武即位は持統と不比等の主導説が強い)。持統は(病もあり)同年53歳で上皇太上天皇となった(35代皇極に次ぐ二番目の生前譲位)。大宝2年(702)12月58歳で薨去する。翌年大宝3年(703)12月飛鳥岡にて火葬され(天皇として初の火葬)、同月「大内山陵に合葬」された。

『檜隈大内陵ひのくまのおおうちのみささぎ

陵の考古学名は野口王墓古墳。江戸時代には「王墓」・「王墓山」・「皇ノ墓」等とも呼ばれた上円下方八角墳。江戸時代に入り、天武・持統合葬陵は野口王墓説と丸山古墳説が入り乱れる。元禄修陵(1699年)迄は野口王墓であったが、文久修陵(1862年)では野口王墓は文武陵として修陵され、丸山古墳が天武・持統陵とされていた。その後、いつの頃か再度野口王墓に治定変更されたにもかかわず、明治4年(1871)にまた治定変更され、野口王墓は天武持統陵ではなくなった。
決着がついたのは明治14年(1881)。前年(1880)京都市高山寺で発見された『阿不幾乃あおきの山陵記』に、1235年盗掘後の石室内の記述があり、現陵に治定変更された。また、2012年に複数報道機関が宮内庁に情報開示請求し、1959年・1961年に、宮内庁が墳丘を発掘調査していたことがわかった。開示資料には、八角墳丘裾での石材の様子や各側辺の実長などが示された。2014年には学会要望による立入り観察があった。天智陵とともに、被葬者の実在性も問題なく治定が信頼できる数少ない天皇陵である。

「阿不幾乃山陵記」は盗掘の検分記録の書写本。高山寺の方便智院ほうべんちいんに所蔵されていた。「文暦ぶんりゃく2年(1235=鎌倉中期)3月20・21日の夜、阿不幾乃山陵(=檜隈大内陵)盗堀される」とあった。冒頭には「陵の形が八角で・・・石壇一匝めぐり・・・五重也」とあり、当時八角五段の墳丘だったのだろう。更に「此の石門を盗人等纔わずかに人一身の通る許ばかり切り開く」とあり、「棺の大半の副葬品は盗掘されていたが、遺骸はそのままで、天武の頭蓋骨には白髪が残っていた。持統の遺骨は火葬され金堂製桶に入っていたが、遺骨は近くに遺棄されていた」ことが記されていた。また室内には「石帯・枕・金銅桶、遺骨と紅の御衣、銅製品(銅鏡?)片、御念珠と記された銅糸で連ねられた琥珀製玉類等、多くのものが残されていた」と記されている。更に「遺存品を橘寺へ移送した」ことや「御念珠を多武峯の法師が持ち帰った」こと等も記されている。

*歴史書「百練抄」では侵入先を「天武天皇御陵」、侵入者を「群盗」と記している。「帝王編年記」には「南都ならびに京中の諸人が多く陵中に入って、御骨を奉拝した」、「盗人が侵入、場所は天武天皇山陵也」と記している。歌人藤原定家の「明月記=1180年~1235年の間の日記」にも、「山陵を見奉る者がいると聞いて哀慟の思いが増す」と記している。持統期~平安時代に定められた陵墓・陵戸制度が、武家・戦乱時代に入り、かなり杜撰な状況となっていたのだろう。 

江戸時代等の書物から、上円下方八角墳の墳裾の一辺15m前後・対辺間距離37m・高さ7.7mと推定されているが、現状は東西約58m・南北45m・高さ9mの円墳状である。墓室は羨道とみられる「外陣」、玄室とみられる「内陣」に分かれる。全長は7.7m、外陣は長さ3.5m・幅2.4m・高さ2.2m、内陣は長さ4.2m・幅2.8m・高さ2.4m。外陣と内陣は獅子面の取っ手が付いた両開きの金銅製扉で仕切られ、内陣壁は朱が塗られていた。玄室には花崗岩や凝灰岩が一般的だが、石室石材には「馬脳(めのう=実際は大理石)が使われていた可能性があるとのこと。 

内陣には格狭間ごうざまのある金銅製の棺台があり、その上に朱塗りの夾紵棺きょうちょかんが置かれていた(格狭間は仏壇の基壇の装飾、夾紵棺は重ねた布を漆で固めた最高級の棺)。床には金銅製桶も置かれていた。夾紵棺の被葬者は持統2年(688)11月に葬られた天武、金銅製桶は火葬された後に合葬された持統の蔵骨容器とされる。

(2016.2撮影)全景西望   登り口見返り       参道見返り        参道見上げ

f:id:OSAKA-TOM:20220222155049j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220222155101j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220222155119j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220222155126j:plain

拝所        制札        墳丘北側への進入路  墳丘北側側道    墳頂南望

f:id:OSAKA-TOM:20220222155300j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220222155305j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220222155316j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220222155331j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220222155338j:plain

丸山古墳 後円部墳頂は『畝傍陵墓参考地(被葬候補は天武・持統天皇合葬)』に治定されているが、石棺が2基あり、火葬された持統との整合性がない事や、築造年代から29代欽明天皇の真陵説等もある。以下を参照下さい。

天皇陵 その五 - OSAKA-TOM’s diary

草壁皇子「真弓丘まゆみのおか陵」

2015年11月1日(日)参拝。高取町大字佐田。岡宮天皇という非実在天皇の陵。宮内庁は、大海人皇子(天武)と鵜野皇女(持統)の子として662年筑紫の那大津(なのおおつ=長津宮)で生まれ、持統3年(689)4月、28歳で亡くなった皇太子草壁皇子の真弓丘陵として管理している。「続日本紀」に天平宝字2年(758)、46代孝謙天皇が47代淳仁天皇に譲位する際、草壁に岡宮御宇天皇追号したため岡宮天皇陵と呼んでいる。『紀』の後継六国史りっこくしである「続日本紀」には、天平神護元年(765)、48代称徳天皇(孝謙重祚)一行は紀伊国への行幸のため、飛鳥川のほとりの小治田宮から紀路きぢを南下した。その途中、草壁皇子の「檀まゆみ山陵」を通過する際に、従者全員を下馬させ、儀衛には「旗幟はた」を巻くように命じ、拝礼したと記されている。「延喜式」には「真弓丘陵」として載せられている。また「万葉集」には、柿本人麻呂や皇子に仕えた舎人らによる草壁皇子への挽歌があり、「真弓(檀)の岡」「佐太の岡辺」と詠みこまれている。

長期間所在不明だった「真弓丘陵」を探したのは、文久修陵の中心人物の谷森善臣。享保21年(1736)刊の「大和志」では、被葬者の伝えがない墓をまとめて「荒墳」として載せているが、高市郡の荒墳のうち、森村に「王墓」とあり、谷森はこの記事に着目し、彼の著書「山陵考」(1867)でこの「王之墓」を真弓丘陵に当てた。この案が採用されて現陵墓治定になったとみられる。

1984・86年に発掘調査された岡宮天皇陵の少し北の束明神つかみょうじん古墳もその最有力候補で、凝灰岩の切石を組み上げた横口式石槨を有する。陵よりも規模は大きい。

考古学名は森王墓もりおうのはか古墳。すぐ東側には、素盞嗚命神社(もとは牛頭天王社)が隣接する。境内地の木々の隙間から墳丘を確認でき、北側背後の丘陵斜面を掘り込んで南斜面に造られた山寄せの終末期古墳。陵墓測量図に約15mの円形墳丘が示されている。過去に調査された記録がなく詳細不明。

参道               拝所                拝所から南望

f:id:OSAKA-TOM:20220227075608j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220227075625j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220227075644j:plain

 

金山古墳周辺

金山古墳・お亀石古墳。2017年9月21日(木)訪問。

金山古墳

大阪府南河内郡河南町大字白木1359-6。二つの円丘を合わせた日本では珍しい双円墳。6世紀末~7世紀初頭頃、前方後円墳が終了する古墳末期から終末期にかけての築造とされる。

f:id:OSAKA-TOM:20220213080141j:plain

 昭和21年(1946)発見時のデータでは、墳丘長85.5m、南主丘径55.4m、北副丘38.6m。空濠と思われる周濠があり、それを含めた総長は104m。墳丘は南主丘3段築成、北副丘2段で、各段に貼石をはったテラスが巡っていた。前期・中期の古墳に見られる、墳丘斜面を覆う葺石は、くびれ部西側以外には確認できなかった。
全景南西望        南主墳北東望       北副丘北東望      北副丘裾から南望

f:id:OSAKA-TOM:20220213080611j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220213080851j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220213080905j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220213080937j:plain

*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

くびれ部の北副丘側に、横穴式石室が開口する。花崗岩の自然石を用いた石室で、全長10.6m。凝灰岩の蓋と身からなる縄掛突起を備えた「刳抜き式家形石棺」で、玄室と羨道各々に一つずつ置く。手前の石棺は盗掘を受けていたが、ガラス丸玉・銀環(奥石棺内)、金銅製金具片・鉄製革帯金具や馬具、鉄刀、土器の破片等が見つかった。石室前にはくびれ部西側へとつづく幅4.2mの墓道(通路)があり、築造時は石室入口を塞いだ後、墓道は埋められていた。墓道からは須恵器が出土した。この出土土器から6世紀末~7世紀初頭と推定された。現在この部分だけ埋葬直後の姿に復元されている。南主丘でも墓道とともに墓道暗渠、墳丘内暗渠、横穴式石室があることは確認されているが、主丘は未調査のため、石室内の様子は不明。H2年に国の史跡、H7年に史跡公園として開放された。

石室周辺北西望      北副丘墓道        開口部          南主丘墓道跡

f:id:OSAKA-TOM:20220213081701j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220213081710j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220213081722j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220213081745j:plain

開口部          石棺                        案内

f:id:OSAKA-TOM:20220213082019j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220213082047j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220213082059j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220213082124j:plain

 

お亀石古墳

大阪府富田林市大字中野。7世紀前半頃築造と推定される1辺21mの方墳。2002年(H14)に周辺の新堂廃寺、オガンジ池瓦窯跡と共に国の史跡に指定。標高約97mの所に築かれている。

170号線=外環状線沿いの、「龍泉寺」の看板の所から西に入って行く。

f:id:OSAKA-TOM:20220213082555j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220213082603j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220213082616j:plain

グランド下の池の北西端畔にオガンジ池瓦窯跡の古びた案内がある。そこから90m西に墳丘への登り口がある。墳丘の東側と南側に、丘陵を削った平坦な面が形成されている。葺石や貼石などの外部施設は確認されていない。以前は、地形や古墳の構造などから、径約15mの飛鳥時代の円墳と考えられていたが、2002年の発掘調査で、中世に改変を受けたものの、墳丘東側と北東側で築造時の盛土が裾部まで残っていて、裾部が直線的に伸びることから、東西辺21mの方墳と推定されたとのこと。

窯跡案内         墳頂見上げ        墳頂付近         案内

f:id:OSAKA-TOM:20220213083027j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220213083035j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220213083100j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220213083117j:plain

主体部は南に開口する横口式石槨。切石を布積みにした羨道正面に、小口面に長方形の開口部を設けた家形石棺が置かれている。開口部を塞ぐ角形の石蓋も遺存していた。石棺の棺蓋には6個の縄掛突起がある。露出する石槨が、亀の形に似ていることが「お亀石」の名称由来らしい。石棺は二上山産の白色凝灰岩製で、羨道は花崗岩が使われている。2002年調査で、羨道は本来河原石を用いた閉塞石で塞がれていたと判明。遺物は瓦片・須恵器片等のみ。石棺周囲には飛鳥時代の平瓦が壁状に多数積まれていることが確認された。瓦は、南東にある新堂廃寺の百済系瓦と同じで、被葬者は同寺院と関係ある者と思われるとのこと。

羨道北望         家形石棺         石槨天井部        羨道見下ろし

f:id:OSAKA-TOM:20220213083614j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220213083630j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220213083652j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220213083716j:plain

石棺                                     オガンジ池と富田林市街

f:id:OSAKA-TOM:20220213084309j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220213084318j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220213084328j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220213084347j:plain

*写真は2017年9月。季節や経過年数により周辺の様子や目印が変わることが多いので注意ください。

黒姫山古墳

2017年9月21日(木)訪問。黒姫山古墳は堺市美原区黒山=阪和自動車道北側沿いにある前方後円墳、国の史跡である。1989年度~1992年度にかけて「黒姫山古墳歴史の広場」として整備され、古墳の東側には前方部の竪穴式石室と墳丘上段部の埴輪列の一部が実物大で復元展示され、前方部の一部には円筒埴輪列が復元されている。 なお、出土した甲冑は、保存処理のうえ堺市立みはら歴史博物館に展示されている。造り出しや前方部の斜面などの発掘で、戦国時代には城砦に利用され、防御力を大きくするためにさらに盛り土して斜面を急にし段を高くしていることなどが分かっている。

位置               左図赤矢印             青矢印

f:id:OSAKA-TOM:20220212095248j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220212095308j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220212095314j:plain

*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

前方部を西側に向ける5世紀中頃の前方後円墳。全長114m、後円部径64m・高さ11m、前方部幅65m・高さ11.6m、各2段築成で葺石も確認された。北側くびれ部に造り出しがあり、墳丘周囲には幅約15~20m・深さ約2mの濠が巡る。更に、その外側に、平坦部の古墳としては珍しい幅約5mの周庭帯しゅうていたいが、濠を取り巻くように存在する。古墳時代の中期に周辺を勢力圏としていた豪族の丹比たじひ氏によって築造されたと考えられている。

前方部西面南望      墳丘北面東望       北側周庭帯西望      案内

f:id:OSAKA-TOM:20220212095735j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220212095738j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220212095745j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220212095755j:plain

墳丘には上・下2段の円筒埴輪列があり、上段には円筒埴輪が359本並べられていた。円筒は高さ約80cm、直径は上縁で約40cm、下は少しすぼんでいる。また、円筒埴輪と段の縁との間に3.6m間隔に一つの割合で25個以上の蓋形きぬがさがた埴輪が置かれていた。 後円部主体部上には形象埴輪列が配されていた。前方部上段や後円部東側の管理事務所脇等に復元埴輪が置かれている。

前方部上段復元埴輪    後円部東側復元埴輪

f:id:OSAKA-TOM:20220212100034j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220212100043j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220212100054j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220212100112j:plain

前方部墳頂中央辺りで、東西に長い竪穴式石室が発見された。石室は川原石を積み重ね、内法長さ4.3m・幅約0.8m・高さ約1mで、埋葬用ではなく、副葬品を納めるためのものでに、砂岩製の天井石8枚で覆われ、底部粘土床上には小礫が敷き詰められていた。

石室位置等案内      復元石室         発掘当時         案内

f:id:OSAKA-TOM:20220212100329j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220212100345j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220212100400j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220212100418j:plain

石室から24領の甲冑が、正立で2領ずつ並列した状態で出土した。この24領という甲冑の数は、一つの古墳の単一埋納施設の出土数としては、2010年現在で日本最多。また、付属具として頸甲あかべよろい11、肩甲かたよろい12、草摺くさずり4、鉄刀14、鉄剣10、鉄鉾9、石突6、鉄鏃56、刀子5が出土した。なお、古墳の被葬者が埋葬されたとみられる後円部墳頂は既に盗掘されており、埋葬施設は確認されなかった。

案内           復元石室内甲冑

f:id:OSAKA-TOM:20220212100721j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220212100738j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220212100740j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220212100747j:plain

なお周辺には、少なくとも6基の陪塚と考えられる小型古墳が確認されている。

f:id:OSAKA-TOM:20220212100900j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220212100904j:plain

 

天皇陵 その七

天皇陵 その七

34代『舒明天皇陵』・鏡王女「押坂墓」・舒明天皇大伴皇女「押坂内墓」、(35代『皇極天皇』)、36代『孝徳天皇陵』、37代『斉明天皇陵』

*『古事記』は33代推古天皇までなので、以下の記事は『日本書紀』(以下『紀』)をベースにしています。また『紀』の記事には、真偽に関して諸説ありますが、ここでそれを論じてもキリが無いので、原則『紀』の記事に準拠します(記事中の月日は陰暦のままです。)

陵、諡号等の基本知識は、『天皇陵』を参照ください。

天皇陵 - OSAKA-TOM’s diary

 

34代『舒明じょめい天皇陵』

2017年8月8日(火)参拝。桜井市忍阪おっさか。第34代「息長足日広額おきながたらしひひろぬか舒明天皇(在位629年~642年)」の『押坂内陵おしさかのうちのみささぎに治定されている。宮は即位2年10月に飛鳥岡あすかのおか辺りの、岡本宮おかもとのみや(奈良県高市郡明日香村雷いかつち~奥山)に遷した。
父は押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとおおえのおうじ=30代敏達天皇の皇子)。母は糠手姫皇女(ぬかでのひめみこ=敏達と最初の皇后広姫の子で、押坂彦人大兄皇子とは異母妹)。諱(いみな=本名)は田村皇子。
33代推古天皇は(嫡子竹田皇子が既に亡くなっていたが)、明確な後継指名をせず崩御する。後継候補者筆頭は、田村皇子(後の舒明天皇と、聖徳太子の子とされる山背大兄王ましろのおおえのおう『紀』では田村皇子が皇位継承者になった経緯について、前段の推古36年条と同じ内容も含めて(わざわざ?)即位前紀に記し、異例の長文となっている。当時の群臣トップは蘇我蝦夷(そがのえみし=馬子の子)で、経緯はさておき、結果として(蘇我の血を引かない)田村皇子を推した。田村皇子は舒明天皇として即位し、宝皇女(たからのひめみこ=後の皇極天皇)を皇后とする。他の古代史料によると49歳前後での崩御と伝えられている。紀では(約14ヶ月の殯の後)皇極1年(642)12月滑谷岡(なめはざまのおか=明日香村岡)に葬り、皇極2年(643)9月に「忍坂陵」に改葬したとある。付近に飛鳥時代前半の大王墓級古墳がないことが、押坂内陵として治定された主因。なお桜井市忍阪は、明日香村岡から、直線距離で北東約6km。明日香村八釣やつりから桜井市高家たいえ~倉橋を通るルートが最短道。

事蹟面では、舒明2年(630)唐に遣使を送っている。推古22年(614)の遣隋使派遣後、618年に隋が滅び、唐が建国されていた。これが歴史の教科書に載る「第一回目の遣唐使」である。推古期から活性化した外交と文化受容・振興が再開する。

朝鮮半島では4世紀代、百済新羅高句麗三国時代を迎え、伽耶諸国(「紀でいう任那」を含む半島南東端地域)との関連から、21代雄略期・26代継体期・29代欽明期にわたり、日本も争いの渦中に巻き込まれていく(紀の欽明条には「任那」という語が120回以上登場する)。推古期には百済新羅高句麗との平和的な外交と文化受容・振興に遷って行く。

陵の考古学名は段ノ塚古墳。外鎌山とがまやまの尾根先端を使った南向きの終末期古墳。大王墓は前方後円墳から6世紀末の用明・推古陵型の方墳に変わり、7世紀古墳時代終末期の段ノ塚古墳では八角墳になる。文久修陵後の墳丘は南北77m、東西105mの範囲に及んだらい。1990年代の宮内庁による墳丘外形調査の結果、上下に分かれ、下段は方形、上段は基本が八角形と判明。拝所背後から方形段が上に向かって3段(最下段幅105m)。「段ノ塚」の名称は、この形が由来らしい。調査では(終末期古墳の特徴である)最下段墳丘表面に帯状の貼石が見つかった。貼石は花崗岩で、大きなものは1.5m、東西約90m分が確認されたとのこと。

上段平面図は対辺間約48m(一辺14m)・高さ約12m、南を正面とする八角形。八角形壇は、扁平な長方形の室生安山岩(榛原石。小山田古墳も墳丘部分に同じ種類の石材使用)の板石3~4枚分を外側面を揃えて重ね、高さ30㎝前後の垂直な面を造っている(宮内庁報告書では「護石」と呼ぶ)。護石の上に(階段状)斜面が載る。長方形の板石を水平に、1枚毎に少しずつ奥へずらすことで、階段状に積んでいた(これも小山田古墳と同様の積み方)。また、上段の角部分石材も見つかっている(同報告書では「隅角石」と呼ぶ)。隅角石は頂点の内角135度(正八角形の内角と同じ)の扁平五角形で、それを基準に上段が築かれたと考えられている。また南正面に、推定幅4.3mで角を落とした隅切り部分があり、その部分は護石もなく、他辺と異なる形状なので、横穴式石室の入口につながる部分と見られている。

遠景東望      制札        拝所        拝所から西望見下ろし 案内

f:id:OSAKA-TOM:20220211092924j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220211092949j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220211093011j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220211093030j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220211093040j:plain

*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

鏡王女「押坂墓」

舒明陵から山道を東方面に登ると鏡王女かがみおおきみの「押坂(忍坂)墓」と伝えられる古墳がある。王女は、本居宣長が随筆「玉勝間」で記し、額田王の姉説がある万葉歌人。「紀」では天武12年(683)条に王女の薨去記事がある(別人物説もある)。押坂墓は、談山保存会の制札や門扉があるが、宮内庁管理の陵墓ではない。南向きの三方山囲みの終末期古墳。上下部分からなり、下の方形段は一辺15m程で、立地の様子から段ノ塚古墳に続く時期の築造と推測されるらしい。

舒明陵西望        案内           制札          碑

f:id:OSAKA-TOM:20220211094705j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220211094718j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220211094734j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220211094746j:plain

舒明天皇大伴皇女「押坂内墓」

更に、山道を北東に登ると大伴皇女「押坂内墓」がある。外鎌山尾根を削り墳丘を造営。「明治十二年山陵絵図」に平面図と鳥瞰図が含まれていた。「大和国式上郡忍阪村東方之上」と所在地も記されていた。平面図では、2枚分の天井石を載せた埋葬施設が確認される。南側は穴が開き、そこから東西側壁になる石材も見える。縮尺240分の1とあり、天井石が覆う範囲は長さ7m・幅5.6m程度と推測され、巨石を用いた横穴式石室と判断できるとのこと。絵図に描かれた玄室の様子では、石材が大きく、石材の数が少ない7世紀後半の特徴が窺える。段ノ塚古墳、それから鏡王女墓、大伴皇女墓と順次築かれたと思われる。

参道           制札           拝所           案内

f:id:OSAKA-TOM:20220211095050j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220211095100j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220211095114j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220211095126j:plain

35代『皇極こうぎょく天皇

第35代「天豊財重日足姫あめとよたからいかしひたらしひめ皇極天皇(在位642年~645年)」は、舒明天皇の皇后。諱は寶女王たからのひめみこ。30代敏達天皇の孫(「敏達天皇皇子である押坂彦人大兄皇子の子=茅渟王(ちぬのおおきみ)」の第一王女)推古天皇に次ぐ二人目の女帝であるが、ある意味で特異な女帝であった。先ず一つ目は、先に別の男性と結婚して子を儲けた後に(舒明天皇の)皇后になったこと。二つ目は、後世「乙巳いっしの変」と呼ばれる古代史上で最も著名な政変に臨場したこと。三つ目は、初めて生前中に譲位したこと。四つ目は、初めて2回天皇になった(重祚ちょうそした)こと。更に(斉明天皇として重祚し)従軍先で崩御したこと(14代仲哀天皇に次ぎ二人目)。皇極天皇としての在位期間中は存命なので、皇極天皇陵は無い。宮は即位1年12月一旦小墾田宮を仮宮とし、2年4月飛鳥板蓋宮あすかいたぶきのみや(明日香村大字岡)に遷る。

(2016.2撮影)板蓋宮跡北西望 北望          南西望          案内

f:id:OSAKA-TOM:20220211100306j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220211100324j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220211100334j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220211100350j:plain

特異な理由の一つ目

はじめ用明天皇の孫=高向王たかむくのおおきみと結婚して、漢皇子(=後の天武天皇説がある)を産んでいる。離別の詳細は不詳で、舒明2年(630)37歳で再嫁し皇后となる。

特異な理由の二つ目・三つ目

在位中初期は、群臣トップの大臣として蘇我蝦夷そがのえみしが、その子蘇我入鹿そがのいるかと共に国政を牛耳り、専横を極めた。皇極2年11月(643)には入鹿が、(聖徳太子の皇子とされる)山背大兄王を攻め、王一族は自害した。皇極4年(645)6月、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ=舒明天皇と皇極の子)中臣鎌足らが、皇極天皇の目前、宮中で蘇我入鹿を討つ。翌日、蘇我蝦夷が自害する。その翌日、皇極天皇は同母弟の軽皇子(かるのみこ=後の孝徳天皇)に大王位を譲った。日本史上初の天皇の譲位とされる。

*日本の「乙巳の変」の前後に、朝鮮半島各国でも政変が起きている。百済では641年(舒明13年)最後の王=31代義慈ギジ王が即位し、642年(皇極1年)異母弟とその母妹を含む40数人を配流した。その一方で新羅を侵攻し続けた。高句麗では、642年淵蓋蘇文(エン ガイソブン=紀では伊梨柯須彌いりかすみ)が27代栄留エイリュウ王や貴族180数人を弑逆(しぎゃく=部下が上位者を殺害)し、栄留王の弟の子=宝蔵ホウゾウ王を擁し政権を掌握した。新羅では百済の侵攻に対し唐に救援を求めた。唐が27代善徳ゼントク女王の廃位を条件としたため、647年親唐派で最高位官人の毗曇ヒドンが女王廃位を求めて反乱を起こすが、反唐派の金春秋(人質として日本に滞在経験がある)らにより制圧された。

特異な理由の四つ目

(孝徳10年)孝徳天皇崩御後、前皇極天皇が62歳で斉明天皇として、飛鳥板蓋宮で即位した。百済支援のため赴いた筑紫の従軍先で崩御する。経緯は斉明天皇の項参照。

 

紀の皇極条では、やたら天候の記事が多く、雨・日照り・雷・大風・霰あられ・霙みぞれ・霜・月蝕等々。天皇自身の事蹟は、百済との親密度合いを深めた等だが、変わった所では、「即位1年7月百済の王子を宴会に招き、相撲を見学させた(初の天覧試合)」とか「即位1年8月長い日照りで皇極天皇が祈ると、大雨が降った」とか。

36代『孝徳こうとく天皇陵』

2015年10月22日(木)参拝。南河内郡太子町大字山田。第36代「天万豊日あめよろずとよひ孝徳天皇(在位645年~654年)」の『大阪磯長陵おおさかのしながのみささぎに治定されている。宮は難波長柄豊碕宮なにわのながらのとよさきのみや(即位後半年程して遷都=現大阪市中央区法円坂1丁目)。ただし天皇が遷り住むのは、即位の6年後(651)である。      

30代敏達天皇の孫。父は茅渟王.(ちぬのおおきみ=「敏達天皇皇子である押坂彦人大兄皇子」の長男)。母は吉備姫王(きびひめのおおきみ=29代欽明の孫。「33代推古天皇の弟である桜井皇子」の王女)。諱は軽皇子かるのみこ。35代皇極天皇の同母弟であり、38代天智・40代天武天皇の叔父にあたる。皇后は姪である間人皇(はしひとのひめみこ=中大兄皇子の同母妹)。また、小足媛(おたらしひめ=阿倍倉梯麻呂の娘)を妃として有間ありま皇子を産んだ。更に蘇我倉山田石川麻呂の娘の乳娘ちのいらつめも妃とした。『紀』では、「仏法を尊び神道は軽んじた。柔仁で儒者を好み、貴賎を問わず頻繁に恩勅を下した」と評されている。乙巳の変により、皇極天皇から譲位され後継となるが、『紀』には蘇我馬子の娘を母とする古人大兄皇子(第一皇子)と、皇極天皇を母とする中大兄皇子(第二皇子)が固辞した結果、『断り切れず』即位したとされる。即位後、皇極に皇祖母尊すめみおやのみことという称号を与え、中大兄皇子を皇太子とした。阿倍倉梯麻呂(阿倍内麻呂)を左大臣蘇我倉山田石川麻呂を右大臣、中臣鎌子(鎌足)を内臣、高向玄理たかむくのくろまろと僧であった旻みんを国博士とした。旻と高向玄理は共に推古16年(608)遣隋使小野妹子に従って隋へ渡り、旻は24年後の舒明4年(632)に帰国、高向玄理は舒明12年(640)に帰国していた。

事蹟面では、即位元年(645)6月史上初の元号=大化を定め、土地制度、戸籍制度、税制、畿内・地方官制、民の身分制度・官人の冠位制度、墓造営(薄葬)規定等々、諸分野で改革を指示した。古代史で誰もが知る大化の改新である。あまりにも有名なので詳述は避けるが、ただ「改新」に関しては、真偽を含め諸説ある。「即位2年改新之詔4ケ条のうち、第1条と第4条は後代の官制を基に改変されたもので、改新は存在しない」との説や、「改新は蘇我氏の方針を引き継いだとの説」等挙げるとキリが無い。蘇我氏と言う強権勢力の衰退により、天皇権力が相対的に増大したとはいえ、今まで『紀』には兆しもなかったこのような大改革が為し得るのかと言う、素朴な疑問の結果であろう。
即位6年(大化6年=650)2月穴戸国(あなとのくに=長門=現山口県)で見つかった白い雉が献上され、これを祥瑞(吉兆)として白雉はくち改元した。

しかし、白雉2年(651)に難波長柄豊碕宮に遷り住んでから、2年後の白雉4年(653)中大兄皇子が孝徳天王皇后(間人皇女)・皇祖母尊(皇極)・臣下共々飛鳥に戻ってしまった。翌年発病し、年末に崩御するという寂しい晩年を送った。華々しい『大化の改新』の事蹟と、あまりにも対照的である。

陵の考古学名は山田上ノ山古墳。磯長谷しながたに古墳群を構成する古墳の1つ。径32mの小規模な円墳。埋葬施設等は不詳。かつて陪塚(現在不明)から出土したという海獣葡萄鏡があったらしいが、詳細は不明。7世紀の大王陵としては疑問の見解もあるが、小さな墳丘規模が薄葬令を反映するという説もある。磯長谷では他に敏達・用明・推古天皇陵と聖徳太子墓があり、総称して「梅鉢御陵」と言われる。

位置関係         参道           拝所           制札

f:id:OSAKA-TOM:20220211102910j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220211102917j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220211102928j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220211102937j:plain

37代『斉明さいめい天皇陵』

2015年11月1日(日)参拝。高市郡高取町大字車木。第37代「天豊財重日足姫あめとよたからいかしひたらしひめ=斉明天皇(在位655年~661年)」の『越智崗上陵おちのおかのえのみささぎに治定されている。宮は即位時は「飛鳥板蓋宮」、即位年末火災のため一旦「飛鳥河原宮」に遷り、即位2年「後飛鳥岡本宮のちのあすかのおかもとのみやを造営。

天皇が変わる度に、宮が遷される。45代聖武天皇は自分の在位中に何度も宮を遷している。宮は基本的に天皇の居所・住居(プラス行政府)で、藤原京以降の様に大勢の官人や庶民が暮らす何kmか四方の『京=都城』とは違う。『遷都』と言う言葉があるが、藤原京までは、宮を遷すというのは天皇家の引っ越しの様なものと考える方が分かり易い。なので、掘立柱建物で茅葺が基本だった。

前述の通り、孝徳天皇崩御後、前皇極天皇が62歳で再び即位(重祚)した。即位2年「後飛鳥岡本宮」造営と共に、『紀』には「田身嶺(多武峰)に両槻たつき宮を造った。また石上山(いそのかみやま=奈良県天理市石上神宮の山)から香久山まで水路を掘らせ、舟二百隻で石を運び宮の東に石垣を造った。当時の人々は『狂心たぶれこころの渠みぞだ。3万人余りの人手を費やし、石垣造りに7万人余りを費やした等々』と誹謗した。また吉野宮も造営した」とあり、「工事を好んだ」と記されている。奈良県明日香村の飛鳥寺の北西250mにある石神いしがみ遺跡は、斉明天皇期等の遺構で、一種の噴水である須弥山しゅみせん石・石人像が出土、迎賓館や饗宴施設と推定されている。また飛鳥寺の400m程南東には亀形石や酒船さかふね石を含む湧水施設である酒船石遺跡があり、『紀』の「宮の東に造った石垣」に当たる遺跡と言われている。度々、渡来使節や東北の蝦夷等を招き饗宴を開いたという。こうした水路・石垣造営行為等を、蘇我赤兄そがのあかえのおみ有間皇子に「天皇の政事に三失有り」と吹き込み、結果として即位4年(658)有間皇子は謀反の罪で処刑されることとなる。

即位6年(660)百済が唐・新羅連合軍に滅ぼされる。百済の残存遺臣であった鬼室福信キシツフクシンが、当時人質として日本にいた百済王子豊璋ホウショウの返還と復興支援を日本に求め、7年(661)斉明天皇は、大海人皇子(後の天武天皇)やその妃大田皇女おおたひめみこと鸕野讃良(うののさらら=後の持統天皇)らを伴い筑紫の朝倉宮に出向いた。その2ヶ月後、朝倉宮で崩御する。中大兄皇子が、遺骸を筑紫から飛鳥の川原に連れ帰り殯を行った。

陵の考古学名は車木ケンノウ古墳(車木天皇山古墳)。径約45mの円墳。陵墓測量図から中心部分のみを墳丘とすれば、径約17mの円墳であるとのこと。斉明天皇と間人皇(斉明の娘=孝徳天皇皇后)中大兄皇子の子=建王たけるのみこの合葬墓。参道中腹には大田皇女(中大兄皇子の娘=斉明天皇の孫=大海人皇子妃で鸕野讃良の同母姉)の「越智崗上墓おちのおかのえぼ」に治定されている。『紀』では、中大兄皇子が称制(しょうせい=後継者がすぐ即位せずに政務を執ること)6年目に合葬陵墓に埋葬した。これは、建王が斉明即位4年(658)8歳で亡くなった時に「自分が死んだ後には、必ず自分の陵に合葬しなさい」という詔によるものであった。なお今では、斉明天皇の真陵は、2.4km程北東にある牽牛子塚けんごしづか古墳とする説が強い。

*大田皇女 中大兄皇子(後の天智天皇)の娘。母は蘇我倉山田石川麻呂の娘の遠智娘おちのいらつめ。同母妹は鸕野讚良、同母弟は建王。鸕野讚良と共に大海人皇子の妃となり、大伯皇女(大来皇女とも。おおくのひめみこ=伊勢神宮の斎王制度確立後の初代斎王)大津皇子を生むが、夫の即位前に薨去

位置        参道        制札         拝所        大田皇女墓拝所

f:id:OSAKA-TOM:20220211104827j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220211104846j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220211104907j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220211104925j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220211104951j:plain

牽牛子塚古墳は以下を参照下さい。

牽牛子塚古墳・真弓鑵子塚古墳 - OSAKA-TOM’s diary

 

市尾墓山古墳周辺

高市郡高取町。市尾墓山古墳、市尾宮塚古墳。2018年11月23日(金)訪問。

市尾墓山古墳

高市郡高取町大字市尾。近鉄吉野線「市尾駅」から直線距離で北東250m。6世紀前半築造の前方後円墳。国の史跡。

            遠景北望          後円部北西望      案内

f:id:OSAKA-TOM:20220129084620j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220129084645j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220129084700j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220129084712j:plain

*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

平坦地の水田地帯にある。古墳のすぐ南に、「紀路」と呼ばれる飛鳥村方面から吉野口・五條・橋本を経て紀ノ川沿いに河口まで通る古い街道が走る。前方部を北西に、後円部を南東に向ける。墳丘状態は、(墳丘裾部が削られている以外は)極めて良好で、墳丘上が樹木で覆われておらず、墳形全体が明瞭である。前方部の遺存状態も良好で、外郭線が良く分る。2段築成で段築面も明瞭である。くびれ部の両側には造り出しがあり、周りを濠と堤とが囲んでいたらしく総長100m、墳長は65~70m、高さ10m。

全景北望         前方部北西端見下ろし   後円部方面        くびれ部

f:id:OSAKA-TOM:20220129085119j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220129085132j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220129085146j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220129085203j:plain

石室は後円部に築造された横穴式石室で南東に開口する。全長は9.45m、羨道長さ約3.58m・幅1.82m、玄室長さ5.87m・幅2.6m・高さ3m、右片袖式のやや細長い形をしている。玄室壁は人頭大の角丸の小型石材を8~10段積んで持ち送り、大型の平らな石を天井に架けている。

石室案内         石室入口         羨道

f:id:OSAKA-TOM:20220129085417j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220129085426j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220129085451j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220129093045j:plain

石棺は、玄室の奥壁前、奥壁に向かって右側に片寄った位置、床面に敷き詰められた礫上に置かれている。最大の長さ2.71m・幅1.33m・高さ1.39mの刳り貫き家形石棺で、二上山周辺の凝灰岩製で、棺蓋には大きな楕円形の縄掛け突起が4ヶ所あり、内面には朱が残っていたとのこと。

*たまたま?石室扉が施錠されておらず、ほんの少し入室しました(ゴメンナサイ)。

玄室         石棺        側壁                  天井部

f:id:OSAKA-TOM:20220129085752j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220129085807j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220129085827j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220129085835j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220129085844j:plain

石室内は殆ど盗掘されていたが、遺物の破片を復元した出土品は、ガラス玉・水晶玉等の玉類、馬具、刀、鉄鏃、円筒埴輪等多数。大和盆地においては初期の横穴式石室で、巨大な凝灰岩製の刳り貫き家形石棺であり、出土遺物等から6世紀初め頃と考えられる。H16~18年度の調査で、築造に使われた多くの粘土の固まり、石室をつくるときに地下に埋め込まれた基底石、墳丘1段目と2段目の間のテラス部分に立て並べられた埴輪列、周濠からは鳥・笠・石見型等の木製品が出土した。

石見型=「盾形埴輪」の一種とされ、橿原市石見遺跡の出土品が名称由来。近年の研究で、盾ではなく権威を象徴する杖=「玉杖(ぎょくじょう)」の形との関連性も考えられるようになっている。

 

市尾宮塚古墳

高取町大字市尾。市尾墓山古墳から直線距離で250m程南西。6世紀中頃の前方後円墳。国の史跡。「紀路」北沿いの天満神社の境内にある。

天満神社前から北東望   神社鳥居         ご神木          参道

f:id:OSAKA-TOM:20220129090453j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220129090459j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220129090512j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220129090524j:plain

拝殿脇の遙拝所と遊具の間を入る。

拝殿           遙拝所          進入路          後円部

f:id:OSAKA-TOM:20220129090750j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220129090759j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220129090809j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220129090821j:plain

前方部を東に向ける前方後円墳で、墳丘は全長44m、後円部径23m・高さ7m、前方部幅24m・高さ4.5m。

前方部方面        案内           後円部          前方部

f:id:OSAKA-TOM:20220129091015j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220129091024j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220129091037j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220129091054j:plain

後円部には北側方向に開口する全長11.6mの両袖式の横穴式石室があり、羨道の長さ5.4m、玄室の長さ6.2m・幅2.5m・高さ3m。石室内にY字形の石組みの排水溝を設け、玄室に小石を敷いている。壁面は赤い顔料が塗られ、羨道に段をつくり、その上に閉塞石を載せているとのこと。

後円部南望        開口部                       現在の羨道

f:id:OSAKA-TOM:20220129091325j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220129091330j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220129091345j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220129091353j:plain

石室内には凝灰岩製の刳り貫き家形石棺が置かれている。石棺には朱が塗られ、棺身外側の長さ1.9m・幅1.2m、蓋には縄掛け突起が付く。石室内からは金銅装の大刀・馬具・鈴・耳環、金銀の歩揺、鉄製の小札・鉄鏃、水晶やガラス製の玉と土器等が出土。中でも金銅製の鈴は県内で2例目の出土。 飛鳥から紀州の港を結んでいた古道沿いでもあり、副葬品にも国際色が伺えることから、外交に従事していた有力豪族の首長墓とも考えられている。

石室全景      羨道側壁                 羨道天井部     復元?石棺

f:id:OSAKA-TOM:20220129091824j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220129091837j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220129091849j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220129091912j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220129091925j:plain

 

マルコ山古墳

2018年11月23日(金)マルコ山古墳。

高市郡明日香村真弓。真弓丘陵にある7世紀末~8世紀初め=古墳時代終末期の六角墳。

169号線の檜前ひのくま交差点のすぐ南の信号を西へ入る。小さな橋を越え左に道なりに行くと近鉄吉野線の狭い踏切がある。踏切を越え、左に行きすぐ右に曲がって、道なりに450m程行くと、マルコ山古墳への進入口がある。

*車の場合、専用の駐車場は無いので、近くの空地に停めるしかないです。

進入路                                    遠景

f:id:OSAKA-TOM:20220128083554j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220128083603j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220128083618j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220128083632j:plain

*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

 

当初は円墳と思われていたが、最近の調査により六角墳と考えられる(一辺12m・対角長さ約24m・高さ約5.3m、2段築成)。周辺には牽牛子塚古墳や真弓鑵子塚古墳、束明神古墳など終末期の古墳がある。墳丘は版築(土を層状につき固めて壁などを作る方法)で築かれ、凝灰岩の切石で作られた南向きの横口式石槨があった。床を含む内壁には漆喰が塗られていた。これは高松塚古墳やキトラ古墳等と同様の石槨構造で、天井部が屋根型に刳り込まれている点はキトラ古墳に近いが壁画はない。内部からは大量の漆塗木棺の破片や棺金具、玉類等が出土したらしい。

昭和52年度・平成1年度の調査で墳丘北裾に暗渠排水溝やバラスが敷かれていることも確認された。これらの施設は山側からくる水を防ぐためのもので、同じ石室構造をした奈良市の「石のカラト古墳」でも数本の排水溝が確認されており、山側からの水の処理が重要課題であったと思われる。マルコ山古墳の場合、バラスと暗渠排水溝の二重構造で排水を行っており、バラス面は排水以外にも墳丘の装飾的な意味合いもあり、視覚的に立派に見せる効果があったと考えられるとのこと。現在は史跡整備により築造当時の姿に復元されている。

被葬者は不詳だが、皇族であることはほぼ間違いないとされている (天智天皇皇子=川島皇子との説もある) 。

墳裾           案内           南面見上げ        南西望

f:id:OSAKA-TOM:20220128090758j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220128090803j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220128090846j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20220128090902j:plain

束明神古墳

近鉄吉野線の狭い踏切を越え、左に真っすぐ行き、高取国際高校北側沿いの道から西方面に行くと春日神社があり、境内に束明神古墳がある。

f:id:OSAKA-TOM:20220128091251j:plain

径20m・高さ4mの円墳状の終末期古墳。丘陵斜面を削って整地した所に墳丘を版築で築造しているとのこと。南側に開口する凝灰岩製の横口式石槨(内部長さ約3m・幅約2m・高さ約2.5m)があった。壁面は5段積みで、床には漆喰が塗られていた。盗掘で副葬品はないが、被葬者と思われる歯牙や木棺破片等があり、釘も50本以上出土したらしい。歯牙から推定される年齢や古墳様式から、真の草壁皇子陵墓説もある(現陵はここから260mほど南下した岡宮天皇陵)。詳しくは以下を参照下さい。

束明神古墳 - 高取町観光ガイド