OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

天皇陵 その七

天皇陵 その七

34代『舒明天皇陵』・鏡王女「押坂墓」・舒明天皇大伴皇女「押坂内墓」、(35代『皇極天皇』)、36代『孝徳天皇陵』、37代『斉明天皇陵』

*『古事記』は33代推古天皇までなので、以下の記事は『日本書紀』(以下『紀』)をベースにしています。また『紀』の記事には、真偽に関して諸説ありますが、ここでそれを論じてもキリが無いので、原則『紀』の記事に準拠します(記事中の月日は陰暦のままです。)

陵、諡号等の基本知識は、『天皇陵』を参照ください。

天皇陵 - OSAKA-TOM’s diary

 

34代『舒明じょめい天皇陵』

2017年8月8日(火)参拝。桜井市忍阪おっさか。第34代「息長足日広額おきながたらしひひろぬか舒明天皇(在位629年~642年)」の『押坂内陵おしさかのうちのみささぎに治定されている。宮は即位2年10月に飛鳥岡あすかのおか辺りの、岡本宮おかもとのみや(奈良県高市郡明日香村雷いかつち~奥山)に遷した。
父は押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとおおえのおうじ=30代敏達天皇の皇子)。母は糠手姫皇女(ぬかでのひめみこ=敏達と最初の皇后広姫の子で、押坂彦人大兄皇子とは異母妹)。諱(いみな=本名)は田村皇子。
33代推古天皇は(嫡子竹田皇子が既に亡くなっていたが)、明確な後継指名をせず崩御する。後継候補者筆頭は、田村皇子(後の舒明天皇と、聖徳太子の子とされる山背大兄王ましろのおおえのおう『紀』では田村皇子が皇位継承者になった経緯について、前段の推古36年条と同じ内容も含めて(わざわざ?)即位前紀に記し、異例の長文となっている。当時の群臣トップは蘇我蝦夷(そがのえみし=馬子の子)で、経緯はさておき、結果として(蘇我の血を引かない)田村皇子を推した。田村皇子は舒明天皇として即位し、宝皇女(たからのひめみこ=後の皇極天皇)を皇后とする。他の古代史料によると49歳前後での崩御と伝えられている。紀では(約14ヶ月の殯の後)皇極1年(642)12月滑谷岡(なめはざまのおか=明日香村岡)に葬り、皇極2年(643)9月に「忍坂陵」に改葬したとある。付近に飛鳥時代前半の大王墓級古墳がないことが、押坂内陵として治定された主因。なお桜井市忍阪は、明日香村岡から、直線距離で北東約6km。明日香村八釣やつりから桜井市高家たいえ~倉橋を通るルートが最短道。

事蹟面では、舒明2年(630)唐に遣使を送っている。推古22年(614)の遣隋使派遣後、618年に隋が滅び、唐が建国されていた。これが歴史の教科書に載る「第一回目の遣唐使」である。推古期から活性化した外交と文化受容・振興が再開する。

朝鮮半島では4世紀代、百済新羅高句麗三国時代を迎え、伽耶諸国(「紀でいう任那」を含む半島南東端地域)との関連から、21代雄略期・26代継体期・29代欽明期にわたり、日本も争いの渦中に巻き込まれていく(紀の欽明条には「任那」という語が120回以上登場する)。推古期には百済新羅高句麗との平和的な外交と文化受容・振興に遷って行く。

陵の考古学名は段ノ塚古墳。外鎌山とがまやまの尾根先端を使った南向きの終末期古墳。大王墓は前方後円墳から6世紀末の用明・推古陵型の方墳に変わり、7世紀古墳時代終末期の段ノ塚古墳では八角墳になる。文久修陵後の墳丘は南北77m、東西105mの範囲に及んだらい。1990年代の宮内庁による墳丘外形調査の結果、上下に分かれ、下段は方形、上段は基本が八角形と判明。拝所背後から方形段が上に向かって3段(最下段幅105m)。「段ノ塚」の名称は、この形が由来らしい。調査では(終末期古墳の特徴である)最下段墳丘表面に帯状の貼石が見つかった。貼石は花崗岩で、大きなものは1.5m、東西約90m分が確認されたとのこと。

上段平面図は対辺間約48m(一辺14m)・高さ約12m、南を正面とする八角形。八角形壇は、扁平な長方形の室生安山岩(榛原石。小山田古墳も墳丘部分に同じ種類の石材使用)の板石3~4枚分を外側面を揃えて重ね、高さ30㎝前後の垂直な面を造っている(宮内庁報告書では「護石」と呼ぶ)。護石の上に(階段状)斜面が載る。長方形の板石を水平に、1枚毎に少しずつ奥へずらすことで、階段状に積んでいた(これも小山田古墳と同様の積み方)。また、上段の角部分石材も見つかっている(同報告書では「隅角石」と呼ぶ)。隅角石は頂点の内角135度(正八角形の内角と同じ)の扁平五角形で、それを基準に上段が築かれたと考えられている。また南正面に、推定幅4.3mで角を落とした隅切り部分があり、その部分は護石もなく、他辺と異なる形状なので、横穴式石室の入口につながる部分と見られている。

遠景東望      制札        拝所        拝所から西望見下ろし 案内

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*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

鏡王女「押坂墓」

舒明陵から山道を東方面に登ると鏡王女かがみおおきみの「押坂(忍坂)墓」と伝えられる古墳がある。王女は、本居宣長が随筆「玉勝間」で記し、額田王の姉説がある万葉歌人。「紀」では天武12年(683)条に王女の薨去記事がある(別人物説もある)。押坂墓は、談山保存会の制札や門扉があるが、宮内庁管理の陵墓ではない。南向きの三方山囲みの終末期古墳。上下部分からなり、下の方形段は一辺15m程で、立地の様子から段ノ塚古墳に続く時期の築造と推測されるらしい。

舒明陵西望        案内           制札          碑

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舒明天皇大伴皇女「押坂内墓」

更に、山道を北東に登ると大伴皇女「押坂内墓」がある。外鎌山尾根を削り墳丘を造営。「明治十二年山陵絵図」に平面図と鳥瞰図が含まれていた。「大和国式上郡忍阪村東方之上」と所在地も記されていた。平面図では、2枚分の天井石を載せた埋葬施設が確認される。南側は穴が開き、そこから東西側壁になる石材も見える。縮尺240分の1とあり、天井石が覆う範囲は長さ7m・幅5.6m程度と推測され、巨石を用いた横穴式石室と判断できるとのこと。絵図に描かれた玄室の様子では、石材が大きく、石材の数が少ない7世紀後半の特徴が窺える。段ノ塚古墳、それから鏡王女墓、大伴皇女墓と順次築かれたと思われる。

参道           制札           拝所           案内

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35代『皇極こうぎょく天皇

第35代「天豊財重日足姫あめとよたからいかしひたらしひめ皇極天皇(在位642年~645年)」は、舒明天皇の皇后。諱は寶女王たからのひめみこ。30代敏達天皇の孫(「敏達天皇皇子である押坂彦人大兄皇子の子=茅渟王(ちぬのおおきみ)」の第一王女)推古天皇に次ぐ二人目の女帝であるが、ある意味で特異な女帝であった。先ず一つ目は、先に別の男性と結婚して子を儲けた後に(舒明天皇の)皇后になったこと。二つ目は、後世「乙巳いっしの変」と呼ばれる古代史上で最も著名な政変に臨場したこと。三つ目は、初めて生前中に譲位したこと。四つ目は、初めて2回天皇になった(重祚ちょうそした)こと。更に(斉明天皇として重祚し)従軍先で崩御したこと(14代仲哀天皇に次ぎ二人目)。皇極天皇としての在位期間中は存命なので、皇極天皇陵は無い。宮は即位1年12月一旦小墾田宮を仮宮とし、2年4月飛鳥板蓋宮あすかいたぶきのみや(明日香村大字岡)に遷る。

(2016.2撮影)板蓋宮跡北西望 北望          南西望          案内

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特異な理由の一つ目

はじめ用明天皇の孫=高向王たかむくのおおきみと結婚して、漢皇子(=後の天武天皇説がある)を産んでいる。離別の詳細は不詳で、舒明2年(630)37歳で再嫁し皇后となる。

特異な理由の二つ目・三つ目

在位中初期は、群臣トップの大臣として蘇我蝦夷そがのえみしが、その子蘇我入鹿そがのいるかと共に国政を牛耳り、専横を極めた。皇極2年11月(643)には入鹿が、(聖徳太子の皇子とされる)山背大兄王を攻め、王一族は自害した。皇極4年(645)6月、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ=舒明天皇と皇極の子)中臣鎌足らが、皇極天皇の目前、宮中で蘇我入鹿を討つ。翌日、蘇我蝦夷が自害する。その翌日、皇極天皇は同母弟の軽皇子(かるのみこ=後の孝徳天皇)に大王位を譲った。日本史上初の天皇の譲位とされる。

*日本の「乙巳の変」の前後に、朝鮮半島各国でも政変が起きている。百済では641年(舒明13年)最後の王=31代義慈ギジ王が即位し、642年(皇極1年)異母弟とその母妹を含む40数人を配流した。その一方で新羅を侵攻し続けた。高句麗では、642年淵蓋蘇文(エン ガイソブン=紀では伊梨柯須彌いりかすみ)が27代栄留エイリュウ王や貴族180数人を弑逆(しぎゃく=部下が上位者を殺害)し、栄留王の弟の子=宝蔵ホウゾウ王を擁し政権を掌握した。新羅では百済の侵攻に対し唐に救援を求めた。唐が27代善徳ゼントク女王の廃位を条件としたため、647年親唐派で最高位官人の毗曇ヒドンが女王廃位を求めて反乱を起こすが、反唐派の金春秋(人質として日本に滞在経験がある)らにより制圧された。

特異な理由の四つ目

(孝徳10年)孝徳天皇崩御後、前皇極天皇が62歳で斉明天皇として、飛鳥板蓋宮で即位した。百済支援のため赴いた筑紫の従軍先で崩御する。経緯は斉明天皇の項参照。

 

紀の皇極条では、やたら天候の記事が多く、雨・日照り・雷・大風・霰あられ・霙みぞれ・霜・月蝕等々。天皇自身の事蹟は、百済との親密度合いを深めた等だが、変わった所では、「即位1年7月百済の王子を宴会に招き、相撲を見学させた(初の天覧試合)」とか「即位1年8月長い日照りで皇極天皇が祈ると、大雨が降った」とか。

36代『孝徳こうとく天皇陵』

2015年10月22日(木)参拝。南河内郡太子町大字山田。第36代「天万豊日あめよろずとよひ孝徳天皇(在位645年~654年)」の『大阪磯長陵おおさかのしながのみささぎに治定されている。宮は難波長柄豊碕宮なにわのながらのとよさきのみや(即位後半年程して遷都=現大阪市中央区法円坂1丁目)。ただし天皇が遷り住むのは、即位の6年後(651)である。      

30代敏達天皇の孫。父は茅渟王.(ちぬのおおきみ=「敏達天皇皇子である押坂彦人大兄皇子」の長男)。母は吉備姫王(きびひめのおおきみ=29代欽明の孫。「33代推古天皇の弟である桜井皇子」の王女)。諱は軽皇子かるのみこ。35代皇極天皇の同母弟であり、38代天智・40代天武天皇の叔父にあたる。皇后は姪である間人皇(はしひとのひめみこ=中大兄皇子の同母妹)。また、小足媛(おたらしひめ=阿倍倉梯麻呂の娘)を妃として有間ありま皇子を産んだ。更に蘇我倉山田石川麻呂の娘の乳娘ちのいらつめも妃とした。『紀』では、「仏法を尊び神道は軽んじた。柔仁で儒者を好み、貴賎を問わず頻繁に恩勅を下した」と評されている。乙巳の変により、皇極天皇から譲位され後継となるが、『紀』には蘇我馬子の娘を母とする古人大兄皇子(第一皇子)と、皇極天皇を母とする中大兄皇子(第二皇子)が固辞した結果、『断り切れず』即位したとされる。即位後、皇極に皇祖母尊すめみおやのみことという称号を与え、中大兄皇子を皇太子とした。阿倍倉梯麻呂(阿倍内麻呂)を左大臣蘇我倉山田石川麻呂を右大臣、中臣鎌子(鎌足)を内臣、高向玄理たかむくのくろまろと僧であった旻みんを国博士とした。旻と高向玄理は共に推古16年(608)遣隋使小野妹子に従って隋へ渡り、旻は24年後の舒明4年(632)に帰国、高向玄理は舒明12年(640)に帰国していた。

事蹟面では、即位元年(645)6月史上初の元号=大化を定め、土地制度、戸籍制度、税制、畿内・地方官制、民の身分制度・官人の冠位制度、墓造営(薄葬)規定等々、諸分野で改革を指示した。古代史で誰もが知る大化の改新である。あまりにも有名なので詳述は避けるが、ただ「改新」に関しては、真偽を含め諸説ある。「即位2年改新之詔4ケ条のうち、第1条と第4条は後代の官制を基に改変されたもので、改新は存在しない」との説や、「改新は蘇我氏の方針を引き継いだとの説」等挙げるとキリが無い。蘇我氏と言う強権勢力の衰退により、天皇権力が相対的に増大したとはいえ、今まで『紀』には兆しもなかったこのような大改革が為し得るのかと言う、素朴な疑問の結果であろう。
即位6年(大化6年=650)2月穴戸国(あなとのくに=長門=現山口県)で見つかった白い雉が献上され、これを祥瑞(吉兆)として白雉はくち改元した。

しかし、白雉2年(651)に難波長柄豊碕宮に遷り住んでから、2年後の白雉4年(653)中大兄皇子が孝徳天王皇后(間人皇女)・皇祖母尊(皇極)・臣下共々飛鳥に戻ってしまった。翌年発病し、年末に崩御するという寂しい晩年を送った。華々しい『大化の改新』の事蹟と、あまりにも対照的である。

陵の考古学名は山田上ノ山古墳。磯長谷しながたに古墳群を構成する古墳の1つ。径32mの小規模な円墳。埋葬施設等は不詳。かつて陪塚(現在不明)から出土したという海獣葡萄鏡があったらしいが、詳細は不明。7世紀の大王陵としては疑問の見解もあるが、小さな墳丘規模が薄葬令を反映するという説もある。磯長谷では他に敏達・用明・推古天皇陵と聖徳太子墓があり、総称して「梅鉢御陵」と言われる。

位置関係         参道           拝所           制札

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37代『斉明さいめい天皇陵』

2015年11月1日(日)参拝。高市郡高取町大字車木。第37代「天豊財重日足姫あめとよたからいかしひたらしひめ=斉明天皇(在位655年~661年)」の『越智崗上陵おちのおかのえのみささぎに治定されている。宮は即位時は「飛鳥板蓋宮」、即位年末火災のため一旦「飛鳥河原宮」に遷り、即位2年「後飛鳥岡本宮のちのあすかのおかもとのみやを造営。

天皇が変わる度に、宮が遷される。45代聖武天皇は自分の在位中に何度も宮を遷している。宮は基本的に天皇の居所・住居(プラス行政府)で、藤原京以降の様に大勢の官人や庶民が暮らす何kmか四方の『京=都城』とは違う。『遷都』と言う言葉があるが、藤原京までは、宮を遷すというのは天皇家の引っ越しの様なものと考える方が分かり易い。なので、掘立柱建物で茅葺が基本だった。

前述の通り、孝徳天皇崩御後、前皇極天皇が62歳で再び即位(重祚)した。即位2年「後飛鳥岡本宮」造営と共に、『紀』には「田身嶺(多武峰)に両槻たつき宮を造った。また石上山(いそのかみやま=奈良県天理市石上神宮の山)から香久山まで水路を掘らせ、舟二百隻で石を運び宮の東に石垣を造った。当時の人々は『狂心たぶれこころの渠みぞだ。3万人余りの人手を費やし、石垣造りに7万人余りを費やした等々』と誹謗した。また吉野宮も造営した」とあり、「工事を好んだ」と記されている。奈良県明日香村の飛鳥寺の北西250mにある石神いしがみ遺跡は、斉明天皇期等の遺構で、一種の噴水である須弥山しゅみせん石・石人像が出土、迎賓館や饗宴施設と推定されている。また飛鳥寺の400m程南東には亀形石や酒船さかふね石を含む湧水施設である酒船石遺跡があり、『紀』の「宮の東に造った石垣」に当たる遺跡と言われている。度々、渡来使節や東北の蝦夷等を招き饗宴を開いたという。こうした水路・石垣造営行為等を、蘇我赤兄そがのあかえのおみ有間皇子に「天皇の政事に三失有り」と吹き込み、結果として即位4年(658)有間皇子は謀反の罪で処刑されることとなる。

即位6年(660)百済が唐・新羅連合軍に滅ぼされる。百済の残存遺臣であった鬼室福信キシツフクシンが、当時人質として日本にいた百済王子豊璋ホウショウの返還と復興支援を日本に求め、7年(661)斉明天皇は、大海人皇子(後の天武天皇)やその妃大田皇女おおたひめみこと鸕野讃良(うののさらら=後の持統天皇)らを伴い筑紫の朝倉宮に出向いた。その2ヶ月後、朝倉宮で崩御する。中大兄皇子が、遺骸を筑紫から飛鳥の川原に連れ帰り殯を行った。

陵の考古学名は車木ケンノウ古墳(車木天皇山古墳)。径約45mの円墳。陵墓測量図から中心部分のみを墳丘とすれば、径約17mの円墳であるとのこと。斉明天皇と間人皇(斉明の娘=孝徳天皇皇后)中大兄皇子の子=建王たけるのみこの合葬墓。参道中腹には大田皇女(中大兄皇子の娘=斉明天皇の孫=大海人皇子妃で鸕野讃良の同母姉)の「越智崗上墓おちのおかのえぼ」に治定されている。『紀』では、中大兄皇子が称制(しょうせい=後継者がすぐ即位せずに政務を執ること)6年目に合葬陵墓に埋葬した。これは、建王が斉明即位4年(658)8歳で亡くなった時に「自分が死んだ後には、必ず自分の陵に合葬しなさい」という詔によるものであった。なお今では、斉明天皇の真陵は、2.4km程北東にある牽牛子塚けんごしづか古墳とする説が強い。

*大田皇女 中大兄皇子(後の天智天皇)の娘。母は蘇我倉山田石川麻呂の娘の遠智娘おちのいらつめ。同母妹は鸕野讚良、同母弟は建王。鸕野讚良と共に大海人皇子の妃となり、大伯皇女(大来皇女とも。おおくのひめみこ=伊勢神宮の斎王制度確立後の初代斎王)大津皇子を生むが、夫の即位前に薨去

位置        参道        制札         拝所        大田皇女墓拝所

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牽牛子塚古墳は以下を参照下さい。

牽牛子塚古墳・真弓鑵子塚古墳 - OSAKA-TOM’s diary