OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

マルコ山古墳

2018年11月23日(金)マルコ山古墳。

高市郡明日香村真弓。真弓丘陵にある7世紀末~8世紀初め=古墳時代終末期の六角墳。

169号線の檜前ひのくま交差点のすぐ南の信号を西へ入る。小さな橋を越え左(南)に道なりに行くと近鉄吉野線の狭い踏切がある。踏切を越え、左に行きすぐ右に曲がって、道なりに450m程行くと、マルコ山古墳への進入路がある。

*車の場合、専用の駐車場は無いので、近くの空地に停めるしかないです。

進入路                                    遠景

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*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

 

当初は円墳と思われていたが、最近の調査により六角墳と考えられる(一辺12m・対角長さ約24m・高さ約5.3m、2段築成)。周辺には牽牛子塚古墳や真弓鑵子塚古墳、束明神古墳など終末期の古墳がある。墳丘は版築(土を層状につき固めて壁などを作る方法)で築かれ、凝灰岩の切石で作られた南向きの横口式石槨があった。床を含む内壁には漆喰が塗られていた。これは高松塚古墳キトラ古墳等と同様の石槨構造で、天井部が屋根型に刳り込まれている点はキトラ古墳に近いが壁画はない。内部からは大量の漆塗木棺の破片や棺金具、玉類等が出土したらしい。

昭和52年度・平成1年度の調査で墳丘北裾に暗渠排水溝やバラスが敷かれていることも確認された。これらの施設は山側からくる水を防ぐためのもので、同じ石室構造をした奈良市の「石のカラト古墳」でも数本の排水溝が確認されており、山側からの水の処理が重要課題であったと思われる。マルコ山古墳の場合、バラスと暗渠排水溝の二重構造で排水を行っており、バラス面は排水以外にも墳丘の装飾的な意味合いもあり、視覚的に立派に見せる効果があったと考えられるとのこと。現在は史跡整備により築造当時の姿に復元されている。

被葬者は不詳だが、皇族であることはほぼ間違いないとされている (天智天皇皇子=川島皇子との説もある) 。

墳裾           案内           南面見上げ        南西望

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束明神古墳

近鉄吉野線の狭い踏切を越え、左に真っすぐ行き、高取国際高校北側沿いの道から西方面に行くと春日神社があり、境内に束明神古墳がある。

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径20m・高さ4mの円墳状の終末期古墳。丘陵斜面を削って整地した所に墳丘を版築で築造しているとのこと。南側に開口する凝灰岩製の横口式石槨(内部長さ約3m・幅約2m・高さ約2.5m)があった。壁面は5段積みで、床には漆喰が塗られていた。盗掘で副葬品はないが、被葬者と思われる歯牙や木棺破片等があり、釘も50本以上出土したらしい。歯牙から推定される年齢や古墳様式から、真の草壁皇子陵墓説もある(現陵はここから260mほど南下した岡宮天皇陵)。詳しくは以下を参照下さい。

束明神古墳 - 高取町観光ガイド