OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

寺崎白壁塚古墳

2018年11月23日(金) 寺崎白壁塚古墳。

高市郡高取町大字寺崎。カンジョ古墳西脇から、北側の与楽鑵子塚古墳方面に行き、分岐を左(北西)に進み竹藪に入って行く。竹藪内には道標もある。

カンジョ古墳 - OSAKA-TOM’s diary

 

与楽鑵子塚古墳脇から竹藪へ

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*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

*写真は2018年11月。季節や経過年数により周辺の様子や目印が変わることが多いので注意ください。

 

一辺30m、見かけの高さ9mの2段築成の方墳と考えられている。墳裾には幅6m・深さ2mのコの字形の掘割りが巡る。墳丘前面には長さ約30m・幅9mの壇(テラス)がつき、墳丘背面の地形は風水思想を反映しているとのこと。埋葬施設は閃緑岩の切石を使用した横口式石槨で石槨部は長さ2.8m・幅1.1m・高さ0.9mで、前面に長さ8.2m・幅1.6~1.9mの前室と羨道がつく。石材間には漆喰が充填され、出土遺物などから7世紀前半と考えられている。

遠景           テラス見上げ       近景           案内

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石室へ                       羨道左          羨道右

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横口式石槨とは終末期古墳に多く見られる横穴式の埋葬施設で、石棺式石室とも呼ばれ、横穴式石室の玄室のような広い空間ではなく、棺を納められる程度に造られた小さな石室を意味する。前室や羨道が付くこともあり、当古墳にも前室と羨道が付く。

前室内の床面には榛原石が散乱しており、この榛原石は前室床面に敷かれていた敷石の可能性が高いとのこと。石材の隙間に白い漆喰が充填されていることが名称の由来。方墳でなく八角墳説もある。墳丘前方の斜面が台形の基壇状になっており、桜井市の舒明陵(段ノ塚古墳)とよく似た造りで、八角墳ならば天皇陵の可能性もあるらしい。

石槨                        前室左壁残存漆喰     前室右壁

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カンジョ古墳

2018年11月23日(金)カンジョ古墳周辺を散策。

カンジョ古墳

高市郡高取町与楽ようらく。飛鳥病院のすぐ東、東西に走る道路()の北側にあるので、すぐ分かる。与楽古墳群の一つ。地名を冠して与楽カンジョ古墳、乾城古墳とも言う。

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                              Yahoo!地図を編集加工しています。

 

カンジョ古墳前の道路を東に1km程行くと鑵子塚古墳・牽牛子塚古墳等がある。

牽牛子塚古墳・真弓鑵子塚古墳 - OSAKA-TOM’s diary

 

墳丘の北側と西側が掘削され、原形・規模が不明だったが、一辺約36mの方墳と判明している。埋葬施設として、両袖式の横穴式石室をもち、石室天井の高さ5.27mと極めて高い。当初、玄室床面に土砂が流入していたため、正確な天井高は不明だったが、平成20年の再調査により高さが判明した。石室の高さは、石舞台古墳(高さ4.8m)を上回り、奈良県内最高近いと見られる(烏土塚古墳でも高さ4.3m)。また石室の長さ6m・幅3.7mと判明。更にこの調査で、石室床面から、渡来人系の古墳で多く見られるミニチュア炊飯具の一部や銀製指輪、玄室中央部から棺台の一部と推定される高さ15cmの盛り上がりや木棺に使用される鉄釘が出土した。石室や出土品の特徴から6世紀末~7世紀前半頃の築造と推定され、渡来系の有力氏族(東漢氏等)の首長墓と見られている。さらに7世紀末~8世紀初めの土器片が出土し、築造から100年が経過してなお追葬が行われた可能性が指摘されている。鉄扉越しに石室内を観察できる。

全景           石室へ                       玄室

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*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

玄室西側壁        東側壁          天井部          棺台の一部

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与楽鑵子塚古墳

カンジョ古墳西脇の道を200m程北側に行くと(黄色矢印)分岐があり、この分岐の北側(内側)にある。ここから北東に行くと(小さな白色矢印)寺崎白壁塚古墳がある。

カンジョ古墳西脇      北進

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貝吹山の南西丘陵に位置、6世紀後半早期、墳丘径24m・高さ7mの円墳で、与楽古墳群の一つ。南に開口した片袖式の横穴式石室が確認されており、羨道長さ2m以上・幅1.4m・高さ1m以上、玄室長さ4.15m・ 幅3.15m・高さ4.5m以上。発掘調査が行われていないため、出土品等は確認されていない。極めて高い玄室を有する特徴が指摘されており、カンジョ古墳と同じく、極めて強力な権力を持った氏族の墳墓であると考えられている。 

2015年当時の写真では墳丘に樹木は無く、墳頂に登れたようだが・・・・・。

北望               北西望              案内

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ここから北東の竹藪を抜けると、寺崎白壁塚古墳がある。

新沢千塚古墳群

新沢千塚古墳群は奈良県橿原市北越智町~川西町に位置する日本有数の大古墳群(群集墳)。1976年(S51)国の史跡に指定。2018年11月23日(金)訪問。

 

2015年11月にも神武天皇陵周辺や宣化天皇陵・斉明天皇陵等散策の途中で立ち寄ったが、当時はまだ公園施設整備工事中だった。3年振りに訪れて、あまりにも立派な公園施設になっていたので驚いた。

2015年11月当時

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2018年11月南群駐車場       龍の広場南望           南群サブエントランスから北群

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詳しい公園案内図は以下を参照してください。

橿原市/新沢千塚古墳群

 

畝傍山の南方、東西2㎞、南北2㎞の丘陵(越智岡丘陵、標高150m)にある径約10〜15mの円墳等総数600基以上の群集墳。県道戸毛・久米線によって南北に分かれる。4世紀末~7世紀に造営され、特に5世紀半ば~6世紀末までが全盛で、最盛期は鳥屋ミサンザイ古墳(宣化天皇陵)の築造時期に重なる6世紀前半。丘陵上に次々と小古墳が造られる時期に、東側では鳥屋ミサンザイ古墳墳丘ができあがっていったことになる。埋葬者・氏族は特定されていない。木棺直葬が主流だが、S37年には本格的調査で粘土槨を内部主体とする前方後円墳である500号墳を含む23基が確認された。500号墳では古墳前期の副葬品が検出され、その中には懸垂鏡という珍しい銅鏡もあり、その後史跡に指定された。さらに約130基を調査し、武具・馬具をはじめとする副葬品が豊富に出土した。5世紀後半の126号墳からは金・銀・ガラス・ヒスイを用いた大量の装飾品が遺骨に装着したままの状態で出土したらしい。火熨斗(ひのし=炭を入れてアイロンとして使った金属器)が日本で初めて出土したり、中国を経由せず西域から新羅経由でもたらされたと見られるローマンガラス製品が出土するなど話題となった。2014年には出土ガラス皿の化学組成がローマ帝国領内出土のローマンガラスとほぼ一致することが蛍光X線分析で判明し、日本国内の古墳出土品のガラス器がローマ帝国伝来と裏付けられた初例とのこと。126号墳の出土品は東京国立博物館に所蔵され、一括して国の重文に指定されている。

*500号墳は南群の南西端から200~300m南西の新沢小学校から、南南西600m辺り、橿原市一町の丘陵上にある(奈良県遺跡地図14C-0427=別称「新沢茶臼山古墳」)。

南群

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*新沢千塚古墳群公園総合案内図から部分引用。

 

212号墳(前方後円墳)       213号墳(前方後円墳)      (復元古墳道標)

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*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

2015年11月当時の(復元古墳道標)  南群散策路の様子

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221号墳 新沢千塚の中では数少ない横穴式石室の古墳。5世紀後半頃に築かれた径約13m、高さ約3.3mの円墳である。近畿地方における初期の横穴式石室の例として重要で、石室の様子が見られるよう復元されている。南に開口する右片袖式で、羨道長さ約1.4m・幅0.7m、玄室長さ約3m・幅約1.3m。厚さ20cm前後の石を積み上げて造られており、石室上部は失われている。羨道の床面は玄室よりも15cm程高い。石室内は中世に盗掘され、副葬品の大半が持ち出されていたが、わずかながらも馬具の一部である木芯鉄板張輪鐙や須恵器・土師器が出土したとのこと。

221号墳南望            復元石室北望

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221号脇ビューポイント         225号復元石室         224号復元古墳 

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南群散策路途中の墳丘       281号墳?

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棚田の広場            四季の広場南東見下ろし      ふれあいの里屋上から南東望

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北群

北群への渡橋から二上山      北群シルクの杜          南群駐車場方面

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北群東側公園地図         道標

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 公園地図は新沢千塚古墳群公園総合案内図を部分引用(以下同じ)

119号墳 案内          前方部→後方部望         後方部→前方部望

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              115号墳          案内

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126号墳 ペルシャ地方のローマンガラス製椀・皿や、青銅製火熨斗等、中国か朝鮮半島からもたらされた装身具・武器等が出土したことで著名で、新沢千塚古墳群の代名詞と言える。古墳群北側の丘陵の中央付近に位置する東西約22m、南北約16mの長方形墳。5世紀後半頃に築かれたと考えられる。埋葬施設は長さ約3.1mの刳抜式の割竹形木棺で、棺内および棺外に多くの副葬品が納められていた。古墳の被葬者は、朝鮮半島あるいは中国東北部から日本に渡ってきた女性との説等がある。

126号墳              案内              北望

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139号墳 北西望    畝傍山北東望       案内

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畝傍山              北群東端東望           北群東端南望

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道標            81号墳 北西望          案内

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48号墳 北西望         案内              

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173号墳 北西望         北望               案内

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高安千塚古墳群

大阪府八尾市の高安千塚古墳群は、生駒山系の高安山麓に造られた6世紀代を中心とした大型群集墳。230基が確認されている(大正期には565基あったとされる)。北から大窪・山畑やまたけ支群(50基)、服部川支群(137基)、郡川こおりがわ北支群(6基)、郡川南支群(37基)の4つの支群に、谷筋で分けられている。郡川南支群を除く3支群のうちの110基が2015年(H27)3月国の史跡に指定され、保存整備が進められた。

6世紀~7世紀前半にわたり造営され、最盛期は6世紀後半。ほぼ全てが円墳で、埋葬施設は横穴式石室だが、造墓開始期にはドーム状天井石室も認められるとともに、韓式系土器やミニチュア炊飯具といった副葬品の出土等、渡来系集団との関わりがうかがえる。こうした要素は次第に影を潜め、代わりに大和に準じた規模や構造の大型石室が増え、7世紀半ばには急に築かれなくなった。

こうした状況から、高安千塚古墳群の麓に広がる河内平野に居住した渡来系集団と地域社会との関係を知ることができる古墳群であり、我が国の古代国家形成過程を考える上で、欠くことのできない重要な古墳群とされる。

古墳研究の第一人者、白石太一郎氏は『河内に移り住んだ渡来系氏族が、次第に地域に溶け込みつつ、ヤマトの有力豪族の支配下に組み込まれた』とし、その有力豪族は河内を拠点とした物部氏だと唱える。ならば、587年、蘇我馬子との抗争で物部守屋が敗死した後、高安の古墳群を築いた一族も衰えたのだろうか・・・?。

横穴式石室が密集する景観は古くから知られ、大坂城を築く際に石材を調達した記録がある。江戸期には観光地となり、「河内名所図会」などにも紹介されている。近代以降は幾多もの考古学者の関心を集めた。「日本考古学の父」とされる英国人研究者ウィリアム・ゴーランドも訪れ、様々な写真等を残している。

2018年9月に一度訪れたが、当時は下調べが中途半端で、何号墳か分からなかったり、見逃したところも結構あったので、2022年1月17日(月)再び訪れた。

【行程】

近鉄信貴線「服部川」駅→①大窪・山畑27号墳(俊徳丸鏡塚古墳)→②大窪・山畑36号墳(河内ドルメン)→③大窪・山畑6・8号墳、大窪・山畑7号墳(抜塚)→④服部川支群の群集墳→⑤服部川7・8・9・10号墳等、服部川25号墳(二室塚古墳)→⑥郡川1号墳(開山塚古墳)→⑦郡川30号墳→近鉄「信貴山口」駅 
直線距離では5~6km程だが、アップダウンが結構きついし、行程途中にはコンビニ・食堂等一切ないので、ご注意ください。

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*Yahoo!地図を編集加工しています。

なお、古墳記事は号数順ではなく、私が巡った順に掲載しています。また写真等は2022年1月、季節や経過年数により周辺の様子や目印が変わることが多いので注意下さい。

①大窪・山畑やまたけ27号墳(俊徳丸鏡塚)

八尾市服部川8丁目。巻頭地図①。「服部川」駅から徒歩約8分、住宅街の一角。右片袖の横穴式石室をもつ6世紀の円墳(径15m)。謡曲「弱法師よろほうし」、浄瑠璃「摂州合邦ヶ辻がっぽうがつじ」で名高い俊徳丸の故地とされている。開口部は南側。玄室内は本来立入禁止なのだが、規制線テープが壊されていたので、ちょっと入室(スミマセン)。仮に規制線テープがあっても充分玄室が窺える。

服部川駅前        進入路          全景北西望         解説

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*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

開口部          羨道            玄室

右片袖式         楣石(まぐさいし)      開口部高さ約1m     全景南西望

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②大窪・山畑36号墳(河内ドルメン)

巻頭地図②。前回2018年9月は、大窪・山畑27号墳(俊徳丸鏡塚)から北東の「佐麻多度神社」前を抜け、急坂を上がり、農免道路を200m北上。

神社方面          神社           農免道路へ       北へ

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今回は、左下図の様に大窪・山畑27号墳(俊徳丸鏡塚)から東へ、大窪・山畑25号墳、26号墳を経由して、法浄霊園手前から農免道路へ出た。

今回ルート        25号墳          26号墳         農免道路へ

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法浄霊園手前から農免道路を北へ350m程行くと、右手にブロック塀があり、その先から東に上っていく(*この時は工事中だったが、工事が終わると、少し様子が変わっているかもしれません)。進入口には、真冬の1月でも熊笹が繁茂している。*2018年当時は進入口の笹薮がひどく、たどり着けず。

熊笹の間の何となく道っぽい所を、36号墳位置の目印である大きな木を目指して、40~50歩かき分けて進む。

進入路        〇部分が36号墳                        進入口

ドルメンとは本来「支石墓」の事。石の支柱を持った埋葬施設には違いないが、全体をすっぽり囲む石室とは異なる。明治時代に大森貝塚を発見した米国人の博物学者エドワード・S・モースが、明治時代初期に周辺を調査して、その結果を「日本におけるドルメン」として紹介しているが、支石墓ではなく、明らかに崩壊寸前の石室である。

西望                        北望 

南望

なお八尾市HPの高安千塚古墳群関連の資料では、(危険なのか?)載っていません。

③大窪・山畑8号墳・6号墳・7号墳(抜塚)等

巻頭地図③。来迎寺の墓地内にある。本堂右横に古墳案内がある。

8号墳は、墓地東側に上った所、左手(北側)に開口部が見える。開口部は幅約1m・高さ約90cm。現存羨道長さ約3m・幅1.1~1.2m。玄室長さ約4.5m・幅約1.6m・高さ約1.9mの縦長で、石材を5~6段に積んでおり、6世紀中頃のものとされる。*石室寸法は、私がメジャーで雑に測ったものですので、あくまで参考です(以下同じ)。

墓地全景南望        案内           8号墳へ

6号墳は、8号墳のほぼ真南、6世紀前半の円墳。ここの横穴式石室も縦長の玄室で、小振りの石材を7~8段積みにしているとのことだが、崩落危険があり、開口部は土嚢で塞がれている。

8号から南望(左が6号)   南東望          北東望          開口部

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7号墳は、7世紀前半の円墳で、右片袖式の横穴式石室だが、玄室全体が失われ、羨道のみがトンネル状に残っているため「抜塚」と呼ばれる。高安古墳群最大の横穴式石室と言われる郡川地区「開山塚古墳」と同等規模と考えられ、古墳群の中でも最有力者の墓とみられる。残存する羨道は長さ8m・幅2.2~2.3m・高さ2.2m程で、軽自動車なら楽々通れる。羨道だけ見れば「開山塚古墳」を圧倒的に上回る規模である。北側の楣石(玄門上部の石)は縦幅1.5m前後ある。滅失した玄室は長さ5m以上あり、石室全長は13~14mになるらしい。

6号から見下ろし          北東望                     

北東望                       南望

7号墳(抜塚)から農免道路に出ると、道路右手(西側)にコンクリート塀で囲まれた個人の大邸宅?がある。この塀内に大窪・山畑11~18号墳がある。塀越しに自撮り棒で撮影しても全貌はよく分からない。

7号から農免道路へ                       15号墳?      16号墳?

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④服部川支群 群集墳

巻頭地図④。服部川支群で一番密集する区域。農免道路西沿い下の「信院寺」辺りから「安国寺」への参道に入る。多数の石室の大半が、殆ど露出した状態で存在する。入室できるところもかなりある。古墳号数標識は殆ど無いので、行く折は、以下の地図や巻末の「八尾市教育委員会・文化財課の紹介冊子」等を参考にしてください。史跡指定地は殆ど民有地で、本来無断では立入れないので、所有者らしき方がもし近くにおられたら、許可を得た方が良いです。

【服部川支群の密集区域のうち国史跡に指定されている古墳の所在地図】

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右上の地図は、以下の『高安千塚古墳群保存活用計画』のPDFファイル「第6章前半」の「149ペーシ図6-9」を部分引用しています。

『史跡高安千塚古墳群保存活用計画』の策定 | 八尾市

 

今回、服部川支群内で巡った所は下図の通り。史跡に指定されていない所も巡っているので、「史跡に指定されている古墳の所在地図」とは一部異なります。赤い〇は入室した所。青い〇は開口部等から石室内が確認できた所。黒い〇は外観のみ確認した所。

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以下、巡った順に掲載します。

服部川支群北側=39号墳等の周辺

【石室の開口方向等が分かる地図】

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上の地図は、『高安千塚古墳群保存活用計画』のPDFファイル「第6章後半」の「181ペーシ図6-27」を部分引用。

39号墳は、安国寺への参道に入ってすぐ右手(西側)に、トタンで囲われた焼却炉があり、その西隣にある。西側の開口部から右片袖式の石室内が窺える。

目印の焼却炉       39号露出石室南望     西側の開口部      石室内

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41号墳は、39号墳の北西隣。農免道路沿いにあり、その反対側が開口部。割と小さ目の右片袖式の石室。

農免道路からの41号    開口部                      石室内

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40号墳は、39号墳の南西隣。開口部は幅約1m、高さ45cm、無理すれば入れないでもない。ここも右片袖式。

40号開口部                    石室内

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38号墳は、40号墳の南側にある。服部川支群の大半が南方面に開口するが、この38号墳は北東向きに開口している。開口部は高さ20cm程しかなく、自撮り棒を突っ込んで撮影。中はそこそこ広いようだ。なお、40号墳と38号墳の間を東に行くと参道に出る。

38号開口部                     石室内          参道から西望

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35号墳は、38号墳の南隣で、墳丘が目立つ。南西側に少し下った所に開口部がある。現存羨道長さ約3m・幅約1m。玄室長さ約4m・幅約2.4m・高さ約2.6mで、そこそこの大きさの右片袖式石室。この玄室の規格は服部川支群の石室に結構見られた。

35号墳丘南望       開口部          羨道           玄室

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奥壁上部         高さ比較(私は170cm)   右片袖部         左側

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36号墳は、35号墳の東隣で、石室上部に露出する大きな石材が目立つ。南西側に開口し、開口部の高さは約70cm。奥壁上部石材が一部欠損している。

36号南東望        開口部                       玄室

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37号墳は、35・36号墳の東側で、参道寄りにある。石室が完全に露出しており、奥壁部分は崩れている。

37号東望         羨道側          玄室           参道から西望

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42号墳は、37号墳から参道を少し南に行った左手(東側)にある。石室が完存しており、開口部に「42号墳」の古墳号数標識がある。

42号方面                      開口部

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開口部高さ約1m。現存羨道長さ約3.8m・幅1.2m前後・高さ約1.2m。玄室長さ約3.7m・幅約2.4m・高さ約2.4m。服部川支群では珍しい両袖式だが、左袖石に比べ右袖石がかなり大きい。

開口部          羨道           右袖上部         玄室

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右片袖部         左側           楣石           天井部

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33号墳は、参道最初の分岐の角。石材が露出している。西側に羨道崩落部?がある。

33号石材北望       東望           石室西端         羨道崩落部 

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31・46・45・44号墳

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この地図は、『高安千塚古墳群保存活用計画』のPDFファイル「第6章後半」の「181ペーシ図6-27」を部分引用しています。

31号墳は、次の分岐の手前右手(西側)。径16.6m・高さ4.8mの墳丘が良く残る。石材が露出している。

31号南西望        石材北東望        31号東望         南東望

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46・45号墳は、31号墳脇の分岐を真っすぐ安国寺方面に行き、大きな安国寺の寺標の左手にある大きな墳丘。45号墳の北側に見える石材は50号墳か?

31号脇分岐        46・45号         45号部分         50号?

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44号墳は、45号墳の墳裾を北西側に下って行くと開口部がある。羨道幅約1.4m・高さ約1.2m。玄室長さ約4.3m・幅約2.4m・高さ約2.8m。ここも右袖石がかなり大きい。

44号方面         開口部                       右袖部

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玄室           羨道方面          楣石           天井部  

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62号~76号~116号の周辺

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この地図は、『高安千塚古墳群保存活用計画』のPDFファイル「第6章後半」の「178ページ図6-24」を部分引用しています。

31号墳脇の分岐に戻り、鋭角的に左手(南向き)に進む(白矢印)。60号墳は削平されているが、一部石材が埋没している。

62号墳は、60号墳からの道がやや右にカーブする左手(東側)やや奥に、石室が露出している。石室内はゴミ屋敷状態。

76号墳は、62号墳の南東側にあり、封土は殆ど失われているが、西向きに開口している。開口部は幅1.2m・高さ約1.1m。珍しく左片袖式である。更に東奥に64号墳?があるが、石室はかなり崩落している。

31号脇分岐        61号埋没石材       62号方面        62号

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62号石室内        76号開口部                     64号?

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77号墳は、62号墳辺りから右にカーブする道を少し南に行ったところ、左手(南東)に入る脇道の角にあり墳丘が良く見える。南側に開口し、開口部の高さは約1m。見た目に持ち送りが割ときつく、天井も結構高い。羨門部の楣石上部は一部崩落している。

77号墳丘         開口部                       玄門部

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玄室           天井部          羨道方面         楣石周辺

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73号墳は、77号墳から更に南東に入った、道のやや右手(南側)奥に、ほぼ西側に開口する。奥壁上部は滅失している。73号墳開口部の少し南奥に、史跡指定されていない小さな74号墳があり、石材が露出している。73号墳と道を挟んだ北側に75号墳があり、ここも石材が露出し、石材の隙間から少し内部が窺える。

73号開口部        玄室東望         滅失奥壁西望

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74号露出石材                    75号露出石材       75号内部

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72号墳は、73号墳から更に南東に入った、道の右手(南側)沿いにあり、石室は殆ど崩落しているが、内部は少し見える。71号墳は72号墳の南側に隣接し、石室が露出している。奥壁側が半分崩落している。

72号崩落石室    内部         71号南望      羨道方面南西望   開口部北東望

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116号墳は、71号墳の南東側斜面を上った所に開口する。開口部の高さは80cm弱。羨道幅約1.6m。玄室幅約2.4m・高さ約2.6mで完存している。珍しく両袖式である。

*バッテリー残量が無く、石室内部の写真が暗いです。

116号開口部遠景      近景                        羨道

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玄門部          玄室           両袖部           楣石

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119号墳は、116号墳の北側、石材が露出し内部が窺える。道を挟んで真北に69号墳?がある。開口部は殆ど埋まっているが、僅かな隙間から石室が見える。

119号南望                 石室内       69号?       内部

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68号墳?は、69号墳のすぐ北西下側で、小振りの石室石材が露出している。おそらく奥壁側が崩落しているのか、そこから石室内部が見える。67号墳?は、更に68号墳の西下に、かなり大きな石材が露出している。

68号墳?露出石材     石室内部         67号?西望        北望

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29号墳は、史跡指定外だが77号墳から道を挟んだすぐ西側にある。おそらく玄室側壁の片側一部と大きな楣石が残り、羨道部は礫土で埋まっているようだ。

78号墳は、29号墳とと77号墳の間の道を南に進んだ十字路の左手(東側)にある(ここを反対の西に進むと神光寺の墓地=服部川7号墳等に至る)。古墳号数標識があり、南西方向に開口している。開口部の高さは約1.1m。羨道幅約1.25m、玄室長さ約3.8m・幅約2.2m・高さ約3mの右片袖式。

29号墳残存石室西望    南望           十字路          78号墳開口部

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78号墳玄門        玄室           奥壁           天井部

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79号墳は、78号墳から少し東に上る。石室が露出している。更に東に上ると、110号墳の開口部。右片袖式で、玄室はやや細長い。更にその東上に111号墳が開口している。奥壁が割と整っている。110・111号墳の南向いに113号墳の墳丘がある。

79号墳      110号               111号              113号

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⑤神光寺墓地周辺の服部川支群

78号墳西脇の十字路(角にプレハブ倉庫がある)を西に下ると神光寺の墓地に至る。その道の途中北側、フェンス網の西脇に石材が露出した26号墳がある。そして26号墳を過ぎて墓地に入る(一つ目の)三差路を右に行くと、もう一つ三差路がある。この三差路一帯の墓地内に、史跡指定されていない8号墳等がある。

8・25(二室塚)・9・23号墳

8号墳は、三差路の角。南に開口し、開口部の高さ約1.2m、羨道長さ4~5m・幅約1.3m強。玄室長さ約3.7m・幅約2.3m・高さ約2.5mで、右片袖式。

8号墳羨道        玄室            奥壁           天井部(奥壁向き) 

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開口部          右片袖部         左側           楣石

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25号墳は別称「二室塚古墳」。8号墳から少し北側のブロック小屋から東に入った所。6世紀後半頃築造。名前の通り、石室は右肩袖式の玄室を縦に2列につないだ構造で、全国的にも類例がない。南に開口し、入室禁止だが、開口部から見学できる。*案内に郡川支群には、右片袖式に左片袖式の横穴式石室を連結した交互二室塚というのがあると記載されている。

25号墳進入口       開口部(2018.9)      案内           玄門(2018.9)

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前室天井部        前室           後室玄門         後室奥壁

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9号墳は、25号墳(二室塚)進入口から北に向かう道を25m行った所の、左下にある。南に開口し、開口部の高さ約1m、羨道幅約1.3m。玄室長さ約3.6m・幅約2.5m・高さ約2.5mで、右片袖式。8号墳と殆ど同じ規格のようだ。

23号墳は、9号墳から、更に道を北に行った突き当り。史跡に指定されているが、墳丘は低木でビッシリ覆われている。この低木の中に開口部があるのかもしれない。

9号開口部      玄室         羨道方面      楣石        23号

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10・11・3号墳

10号墳は、9号墳のやや北東側。墓地の真ん中の大きな木の根元にある。ブロックで囲われているが、南に開口する。開口部の高さ1.5m、羨道は4~5mあるだろうが、玄室奥壁が完全に崩壊している。

10号遠景      開口部        羨道        玄室        開口部方面   

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11号墳は、10号墳の西側、墓地の北西隅辺りに隣接する。史跡指定されてはいるが、樹木の覆われた墳丘が確認できたのみ。3号墳は、8号墳から(7号墳への)道を挟んだ南西にある。古い小さな墓石が数基並ぶ空地奥に墳丘らしきものが確認できた。

10号北面         11号北西望        西望           3号南望

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5・6・7号墳

5・6号墳は、神光寺駐車場の両脇。石室は完存するが、神光寺の庭園の一部に取り込まれているせいか?史跡指定はされていない。

東側の5号墳は、ガレージの南に隣接する。開口部の高さは1.5~1.6m程もあり、玄室も3m近く、3枚の天井石もかなり大きい。

5号北望          開口部          玄室          全景北西望

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西側の6号墳は、駐車場南西隅の築山の中に開口する。開口部の高さは約1.26m、羨道幅約1.5m。玄室長さ約5m・幅約2.3m・高さ約2.5m。右片袖式。

6号進入路西望       開口部                      玄門部

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玄室           右袖部          左側壁          楣石

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7号墳は、神光寺駐車場(5・6号墳)と道を挟んだ北側。史跡指定されており、古墳号数表示もある。羨道長さ4~5m・幅約1.7m・高さ約1.2m、玄室長さ約4.5m・幅約2.8m・高さ約2.5m。ここまで見てきた入室できる玄室と規格が殆ど同じである。

開口部北望        羨道                        玄室

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右袖部          左側           楣石           天井部(奥壁向き)

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12・13号墳

7号墳から西に20mの三差路を北東に(農免道路を)40m行った右手(東側)に、フェンスで囲まれた12・13号墳があり、古墳号数標識も設置されている。

防護フェンスは開閉可能                              案内

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12号墳は、狭い開口部で、規制線が張られている。自撮り棒を差し込んで撮影。

12号開口部                     石室内

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13号墳は、石室の一部が露出する。中段部分に少し隙間があり、内部が少し窺えた。防護フェンスに沿って北側に回り、漆寶寺というプレハブっぽいお寺の西隣の階段を上がると、13号の墳丘があり、石材が露出している。またお寺の東隣には130号墳跡がある。

             隙間のある部分                   内部

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北側へ          露出石材                      漆寶寺東隣

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⑥郡川1号墳(開山塚古墳) 、郡川2~4号墳

服部川支群の7号墳から西の住宅街に下り、薬王禅寺南側の道から、法蔵寺まで上っていく。かなりの急阪で、前回2018年9月の時に結構キツかった覚えがある。なので、この日はパス。以下の写真等は当時のものを掲載しています。

法蔵寺への道見返り    法蔵寺へ         古墳群案内        古墳解説

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江戸時代法蔵寺を開いた好山こうざん和尚の廟塔(清涼塔)が、当古墳東に隣接することで開山塚と呼ばれる(清涼塔は東に隣接する4号墳の墳頂に位置する)。清涼塔に上る階段右横にある鉄柱標識が進入口。6世紀中頃の古墳で、高安古墳群中最大(全長13m)の両袖式の横穴式石室墳。玄室は10畳分=15.74㎡あるらしい。明治時代に大森貝塚を発見した米国人の博物学者エドワード・S・モースが調査し、欧米の学界にいち早く紹介されたとのこと。石室内部見学可。2・3・3B号墳も外から見えるのかも知れないが、よく分からなかった。

清涼塔への階段      (清涼塔)         開山塚標柱       開口部

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羨道                                     見返り

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奥壁下部(A4ファイル)      上部          両袖部          楣石

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⑦郡川30号墳

信貴山への西信貴ケーブルの南側、本照寺の墓地内にある。本堂北東側の会館前から北東奥の墓地に入る。八尾市の紹介冊子には「お寺に声をかけてから・・・」とあるが、進入口には「寺務所には声かけ不要」とある。また、開口部を囲う庵の入口にも「ドアを開けて自由に見学下さい」と、親切な掲示がある。

本照寺へ     本堂と進入口   掲示               開口部

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開口部の高さは約1.5m、玄室長さ約2.9m・幅2.9m・高さ2.7m強で服部川支群石室とは違い、正方形に近い形をしている。奥壁上段石材には、日蓮宗のお寺らしく「南無妙法蓮華経」と彫られている。

羨門部          奥壁           奥壁上段         楣石

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なお庵の東側には龍神さんを祀る小さな祠があり、墓地からは観音様のはるか遠方に、日本一高い阿倍野ハルカスが望めた。

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なお八尾市教育委員会の以下の記事は非常に参考になります。

高安千塚古墳群を歩いてまわろう! | 八尾市

また八尾市教育委員会・文化財課の散策「紹介冊子(散策マップ付)」も道順等参考になります。*ただ、②大窪山畑36号墳(通称「河内ドルメン」)は掲載されていません。見つかりにくいとか危険とかの判断でしょうか?

https://www.city.yao.osaka.jp/cmsfiles/contents/0000047/47196/sassi.pdf

 

和泉黄金塚古墳

2017年9月6日(水) 大阪府和泉市の和泉黄金塚いずみこがねづか古墳

和泉市上代うえだい町の北西端。泉北クリーンセンターの東横。進入路の信号は右折禁止なので、北東側からアクセスする。

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クリーンセンターに隣接して建設会社の空地がある。また、古墳をグルっと囲むように田畑があり、畦道を辿れば一周できる。和泉市文化財紹介の写真(いつ頃の写真か不詳)では墳丘が明瞭だが、現在は草が生い茂り、往時の姿はない。

クリーンセンター隣接空地          遠景東望             以前の墳丘の様子

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     *PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

*なお、詳細は下記参照下さい。

和泉黄金塚古墳 | 信太エリア | 和泉市の文化財紹介 | 弥生時代の歴史が眠る街 和泉市の文化財

 

墳丘東望 後円部          くびれ部             前方部

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古墳前期末の4世紀末頃築造と推定される前方後円墳。全長94m、後円部径57m・高さ9m、前方部幅42m・高さ6.5m。2段築成と推定される。後円部の埋葬施設は主軸に平行して3基の粘土槨(中央・東・西槨)があり、各々に木棺が納められていたとのこと。1945年(S20)当時17歳の森浩一氏が末永雅雄氏とともに調査し、旧信太山陸軍演習場の塹壕横(現東槨)から巴形銅器3個が着いた革製漆塗盾(隼人の盾*)が、後円部西(現西槨)からは短甲・鉄刀・打製石鏃等が出土。1950年(S25)には後円部から粘土槨に木棺を納めた埋葬施設3基(中央・東・西槨)を検出。中央槨(8.7m)棺内からは半三角縁二神二獣鏡・勾玉・棗玉・管玉・石釧・車輪石等、棺外から景初三年銘画文帯四神四獣鏡・鉄刀・鉄剣・鉄斧・鉄鎌等が出土。東槨(8.5m)棺内から三角縁盤龍鏡・画文帯四神四獣鏡(2面)・甲冑・勾玉・棗玉・管玉・鍬形石・水晶製大型切子玉(日本最大)等、棺外から鉄槍・鉄鉾・鉄鏃等が出土。2001年(H13~17)に、前方部墳裾で円筒埴輪列が出土し古墳規模が確認されたらしい。また東のくびれ部から形象埴輪が多く出土している。2008年(H20)国の史跡指定。出土品は一括して国の重文に指定(東京国立博物館所蔵)。

森浩一氏の見解では、中央棺は武具が無いので女性で、かつ中心となる被葬者。東棺は同規模の舟形木棺で、中央棺に寄り添う形で、武具があるため男性。西棺も壮年男性。中央槨棺外出土の四神四獣鏡に景初三年(239年)の銘があるが、卑弥呼が魏皇帝から授かった銅鏡ではなく、仿製鏡としている。

*隼人はやとの盾(革製漆塗盾)

武器・武具ではなく儀式用とのこと。平城宮跡では木製盾(長さ152cm・幅48cm)が出土している。元日や天皇即位などの重要儀式の際、隼人が帯刀し、槍と盾を持って整列した。隼人が大和朝廷服従を誓った儀式のなごりだという。天武朝以後の隼人は朝貢し、相撲・歌舞を奏上した。8世紀以後は隼人の首長層は位を授けられ、早くに朝廷に 服属した者の一部は、畿内各地に移住させられ、屯倉みやけ警衛などにあたった模様。律令制では衛門府えもんふに隼人司が設置され、 祭儀参加のほか竹細工などの製作にあたっていたらしい。 

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2021年1月10日に再び訪れた。周辺の様子は2017年当時と殆ど変わっていない。後円部東側から、墳頂方面への小路があるが、墳頂手前にフェンスがあり、墳頂には上がれない。そこに古墳案内がある。平成31年(2019)3月と割と最近のものだが、案内板に比べ、墳丘の荒れ様は痛々しい。

後円部東面の小路                  墳頂手前のフェンス    案内

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愛宕塚古墳周辺

大阪府八尾市、愛宕塚古墳向山古墳、心合寺山古墳、鏡塚古墳、西の山古墳。

2019年5月13日訪問。

【散策行程】

近鉄信貴線「服部川」駅→700m→①歴史民俗資料館→1km→②愛宕塚古墳→100m→③向山古墳→700m→④心合寺山古墳→300m→⑤鏡塚古墳→(④心合寺山古墳)→600m→⑥西の山古墳→2.9km→近鉄奈良線「瓢箪山」駅

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*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

①八尾市立歴史民俗資料館 

近鉄「服部川」駅から徒歩約8分。午前9時から午後5時(入館は4時半まで)。休業日=毎週火曜日(祝日にあたる場合は開館)

八尾市立歴史民俗資料館

 

②愛宕あたご塚古墳(河内愛宕塚古墳) 

八尾市神立4丁目。6世紀頃の円墳で横穴式石室が開口している。かつては楽音寺・大竹古墳群を構成する古墳とされていたが、現在は楽音寺・大竹古墳群の範囲からは外されている。1967年(S42)に調査され、多数の遺物が発見されている。周辺には500基以上(現存100基以上)の後期群集墳(高安古墳群)が分布する。

径25m・高さ6.5m。主体部の埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、南方に開口する。羨道長8.7m・幅2m前後・高さ2.2m、玄室長7m・幅2.5~3.1m・高さ4.1m。石室は、一帯に分布する高安古墳群の他の古墳とは隔絶した大きさ。羨道・玄室とも基本的に2段積み。7世紀頃の新しい石室様式とされるが、出土須恵器(6世紀前半~末)や周辺古墳の様相と比較して時期差に問題点が指摘される。石室内には2基の組合式石棺があったとされるが、現在は破壊されている。この石室内からは多数の副葬品が出土。

進入路           開口部                      石碑

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*写真は2019年5月。季節や経過年数により周辺の様子や目印が変わることが多いので注意ください。

出土品は、須恵器(有蓋高坏及び同蓋23、無蓋高坏15、𤭯3、広口壺・蓋3、台付長頸壺3、器台4、甕 1)。馬具・帯金具・飾金具類(金銅製麦わら帽子形飾金具5、同勾玉形飾金具8、同長方形有孔飾金具7、鉄地金銅貼垂飾大2、同小2、鉄地金銅貼鞍金具片3、鞖金具同残片3、鉄地金銅貼f字形鏡板片6、轡鉄製環状鏡板付二連式銜1、同破片1、手引金具同残片2、鉄地金銅貼子持剣菱形杏葉大4、同小4、同辻金具7以上、雲珠残欠1、鉄地金銅貼革帯飾金具20以上、同釣金具13、鉄製鉸具類4、尾錠類6、障泥釣金具 1、鉄地菱形飾金具2、木心鉄板貼壺鐙残欠5、銅製尾錠金具2、金銅製長方形飾金具2)。武器類(大刀片1、刀子片2、龍文銀象嵌鞘口金具捩り、環頭大刀飾金具、水晶製三輪玉1、鉾4、石突3、弓飾金具2、鉄鏃多数、ガラス製小玉152)とのこと。
出土品のうち龍文銀象嵌鞘口金具は、捩りねじり環頭大刀(柄頭に鉄棒を螺旋状に捩り銀箔を張った大刀)の鞘の金具で、龍2頭と蕨手文が銀象嵌で描かれている。龍文銀象嵌の大刀は各地域で見つかる一方、捩り環頭大刀は畿内周辺で多く見つかるため、龍文銀象嵌鞘金具付捩り環頭大刀は畿内と各地域との関係性を表す資料とされる。また馬具類のうち、垂飾板の文様には朝鮮半島の金銅冠製品等の文様との一致が認められる。土器類には須恵器・土師器があり、須恵器は6世紀前半~末頃のもので、特に6世紀後半のものが多いとのこと。

羨道西側      東側         玄室         (鞄は30㎝四方)    天井部

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羨道            楣石           左袖          右袖

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*楽音寺がくおんじ・大竹古墳群

八尾市北東部、生駒山地西側の麓に分布する4世紀~5世紀の古墳群。現在の八尾市高安地区北部(楽音寺・大竹・神立地区あたり)に巨大な勢力を持った部族が造ったとされる。その多くが数十mから百数十m程度の中規模の前方後円墳。現在ではその多くが農地の開墾や住宅地・学校の造成等で削り取られて、現存しないものも多い。最大規模のものは「心合寺山しおんじやま古墳」。③向山古墳・⑥西の山古墳は古墳時代前期、④心合寺山古墳・⑤鏡塚古墳は古墳時代中期に区分される。

③向山古墳

八尾市大竹8丁目。古墳時代前期に属し、独立丘陵を利用して設けられた西向きの前方後円墳。墳丘は早くから開墾され植木畑となり、後円部は大半が採土されている。向山瓦窯址が併存しており、後円部南側の池の斜面を利用して窯を作り、焼かれた瓦は、宇治平等院、京都醍醐寺や近畿各地に運ばれていた。当地西方約1kmの池島・福万寺遺跡周辺は、摂関家の荘園で、のちに平等院領であった「玉櫛庄たまくしのしょう」があり、平等院等の維持管理に必要な瓦を供給したらしい。

古墳周辺         石碑            前方部         後円部

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④心合寺山しおんじやま古墳

八尾市大竹5丁目。当時この周辺を支配していた豪族の墓と考えられている。古墳時代の中期、5世紀初頭の前方後円墳で、全長約160m、後円部径92m・高さ13m、前方部幅90m・高さ12m。前方部を南方に向け、墳丘は3段築成。 生駒山地の麓に等高線に沿うように築かれ、周濠は南側と北側の2か所で堤で区切られているため、東西で水位の異なるつくりとなっている。「囲形埴輪」が出土し、類似した構造の板塀跡が奈良県御所市の秋津遺跡から発見されている。また導水施設と見做される「家形埴輪」も出土。墳丘各段の平坦部に約3116本の円筒埴輪が並べられていた。並べ方に規則性があり、円筒埴輪、器財埴輪、形象埴輪を規則正しく組み合わせて並べられていた。墳丘部の斜面は全面に葺石が葺かれていた。前方部墳頂部の中央に「方形壇」が確認された。その下に埋葬施設1基があった。後円部墳頂部に長さの異なる粘土槨の埋葬施設が3基あり、そのうち西側の「西槨」で木棺が確認された。周囲から、夔鳳きほう鏡・甲冑・大刀・鉄剣等の副葬品が発掘された。西側くびれ部には「造り出し」があり、さまざまな埴輪が置かれていたと考えられている。史跡公園として整備され、復元墳丘の平坦部にはレプリカの円筒埴輪が並ぶ。また、墳丘西側には「しおんじやま古墳学習館」がある。

公園南東入口        案内                        墳丘模型

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前方部北望        前方部2段目        前方部墳頂方形基壇     解説

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後円部北望        後円部墳頂         解説           墳頂南望

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西側くびれ部俯瞰      墳丘西面北望       造出し          解説

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前方部西側南東望      くびれ部東望       後円部北東望       古墳学習館

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⑤鏡塚古墳

八尾市大竹5丁目182。標高17m、俗に松山とか腹痛山という。墳丘の上部には粘土郭が残り、また火葬跡が二ヵ所発見され、石櫃の蓋の破片も出土。古噴時代の中期末の環濠式前方後円墳で、数年前に採土され、その跡に小神祠をまつる。入口に宝山神社の碑がある。周辺から出土した円筒埴輪や朝顔形埴輪、蓋埴輪から5世紀末頃と考えられるとのこと。

遠景南西望      進入路       墳裾         墳頂        墳頂東望

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⑥西の山古墳

八尾市楽音寺7丁目。大阪経済法科大学の北東側、熊野神社の裏手にあり、古墳時代前期の全長55mの前方後円墳とのこと。昔、楽音寺の村落がこの地の東の山麓にあった当時に、古墳のある丘は「西ノ山」と呼ばれており、それが古墳名の由来らしい。1881年(M14)開墾中に後円部から石棺が発見され、中から人骨・勾玉・刀剣等が出土したとのこと。現在、前方部は植木畑となっており、古墳と言うイメージはない。南の谷をへだて、同時期の前方後円墳の花岡山古墳があったとも言われる。

進入路           熊野神社                     神社裏(東側)

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西殿塚古墳周辺

天理市萱生町、西山塚古墳・西殿塚古墳(衾田陵)。天理市中山町、燈籠山古墳・中山大塚古墳。2017年8月8日(火)訪問。

 

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西山塚古墳

天理市萱生かよう町。6世紀前半(古墳時代後期前半)築造と推定される前方後円墳。26代継体天皇皇后の手白香皇女たしらかのひめみこの真陵との説がある。墳丘長114m、後円部3段築成・径65m・高さ13m、前方部2段築成・幅70m・高さ8mで前方部を北方に向ける。墳丘表面では葺石・埴輪が検出されているが、26代継体天皇自身の真陵とされる今城塚古墳(高槻市)の埴輪と同じ新池窯製とも言われる。主体部の埋葬施設は不詳。墳丘周囲には周濠が巡らされ、現在もその名残は周囲4ヶ所の溜池として見られるほか、周濠外側には外堤の遺構も認められている。(詳細は下記解説参照ください。)

後円部南西望            西望               解説

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*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

 

西殿塚古墳

天理市中山町。26代継体天皇(*)皇后の手白香皇女の『衾田陵ふすまだのみささぎに治定されている。出土した特殊器台形埴輪から3世紀後半(古墳時代前期前半)の築造と推定され、6世紀初頭の継体天皇皇后である手白香皇女陵にしては築造が早すぎるため、古墳時代最初期の箸墓古墳に後続する大王墓とする説が主流となっている。

前方後円墳で、墳丘長約230mは全国第24位の規模。傾斜地に築造されたため左右対称にはなっていない。後円部(東側3段築成、西側4段築成)径約145m・高さ約16m(東側)。前方部(東側1段築成、西側2段築成)幅約130m・高さ約12m(東側)。後円部・前方部各々の上部に方形壇がある。後円部の方形壇は、東西25m・南北26m・高さ3m。前方部のは東西13m・南北14m・高さ1.8m。墳丘各所から宮山型特殊器台と、箸墓古墳類似の都月型埴輪等が出土。東側くびれ部に口縁部に段差のある円筒埴輪があり、場所による埴輪の使い分けが想定されるとの説もある。

墳丘のテラスは後円部と前方部は直結せず、テラス段のズレはくびれ部で解消されている(前方部上段の斜道が後円部4段目に続く)。墳丘西側には西殿塚古墳特有の幅広の平坦面(エプロン)が最下段として形成されている。墳丘東側には陸橋状施設が後円部中央・前方部南側の2ヶ所に設けられ、いずれも隣接する東殿塚古墳に接続していたと思われる。西殿塚古墳が先行し、続いて東殿塚古墳が連続的に築造されたとのこと。(詳細は下記写真の解説を参照下さい)

山の辺の道沿いにある小さな五社神社から東に入り、田畑と果樹園の間の農道を南に行けば拝所まで楽に行ける。*なお農道途中の西側沿いに火矢塚古墳がある。

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五社神社         東に墳丘が見える     後円部北東望       前方部南東望

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拝所遠景東望       制札           拝所           解説

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(*)継体天皇については下記を参照下さい。

天皇陵 その五 - OSAKA-TOM’s diary

燈籠山とうろうやま古墳

天理市中山町。山の辺の道沿いにある。4世紀前半の前方後円墳だが、現在前方部分は念仏寺の境内で墓地として利用されており、後円部墳裾は果樹園?になっている。全長110m、後円部径55m・高さ約6.4m、前方部幅41mで、前方部を西に向ける。葺石・ 埴輪が確認され、 墳丘東側に張り出し部がある。埋葬施設は後円部から板石が多く採集されており、竪穴式石室と思われる。出土遺物は埴製枕、円筒埴輪、朝顔形埴輪、勾玉、管玉、石釧等。(詳細は下記写真の解説を参照下さい)

(2021.10撮影)前方部東望               赤○が後円部        解説

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2022.10.6(木)再訪時の写真。

案内           前方部東望        北面南東望        墳後円部北東望

前方部南西角から     前方部南面北望       後円部北東望       後円部北東望

 

中山大塚古墳

天理市中山町。大和おおやまと古墳群の枝群である萱生古墳群に属する。古墳時代前期前半=4世紀前半の前方後円墳で、全長約130m、後円部径約67m・高さ約15m・2段築成で、前方部を南西に向ける。後円部北側の墳裾に三角形の張り出し部分が付属することが確認された。後円部に張り出しが付くということは、双方中円墳の櫛山古墳の墳形に繋がるかもしれないが、通路的施設とされている。西側くびれ部にも三角形の張り出しが付けられている。前方部は大和神社の御旅所のため削平されているが、後円部より前方部が低く、前方部前面が緩やかに曲線を描いており、出現期前方後円墳の特徴を備えている。また、後円部の張り出し付近等から宮山型特殊器台の破片が見つかり、箸墓古墳に次ぐ最古級の前方後円墳であると推定されている。南側に延びた尾根を切取り、その土を後円部の上に積み、前方部も尾根を低く細く削って形を整えたと考えられている。後円部の墳頂部の4m以上は盛り土で、盛り土の仕方は、粘土と砂利を互層に堅く積み上げる工夫がなされていたとのこと。後円部墳頂からも宮山型・都月型の特殊器台、壺形埴輪が出土し、それらの埴輪が囲む中央に合掌式の竪穴式石室(長さ7.5m・深さ約2m)があった。石室内から銅鏡片2点、鉄槍や鉄鏃等の鉄器36点が出土。(詳細は下記写真解説を参照下さい)

御旅所全景北望          案内

墳丘へは大和神社御旅所南側の東奥、前方部の南東の角辺りから登る道がある。墳頂には墓壙・石室部分を示す植込みがある。

2022.10.6(木)再訪時の写真。

墳頂への進入口と登り道                        

後円部墳頂北望                    西望           南望