天皇陵 その八
38代『天智天皇陵』・藤原鎌足墓、39代『弘文天皇陵』、40代・41代『天武天皇・持統天皇合葬陵』・草壁皇子「真弓丘陵」
*『古事記』は33代推古天皇までなので、以下の記事は『日本書紀』(以下『紀』)をベースにしています。また『紀』の記事には、真偽に関して諸説ありますが、ここでそれを論じてもキリが無いので、原則『紀』の記事に準拠します(記事中の月日は陰暦のままです。)
38代『天智てんぢ天皇陵』
2016年3月29日(火)参拝。京都市山科区御陵上御廟野みささぎかみごびょうの町。38代「天命開別あめみことひらかすわけ=天智天皇(661年~称制しょうせい=後継者がすぐ即位せずに政務を執ること、在位668年~672年)の『山科陵やましなのみささぎ』に治定されている。宮は斉明崩御後の称制当初は、筑紫の長津宮ながつのみや。『紀』では、斉明天皇が斉明7年(661)7月朝倉宮で崩御する直前の3月に立ち寄った娜大津なのおおつ=博多の磐瀬行宮いわせのかりみやで、斉明天皇が名を長津に改めたとある。天智即位2年(663*)7月に白村江で大敗後、即位6年(667)3月に近江宮(おおみのみや=現大津市錦織)へ遷都した。
*『紀』の天智条の年紀は、661年斉明天皇崩御の翌年=662年を「即位1年」として以降の記事を記している。なので本来は「称制2年」とすべきだが、『紀』に合わせ掲載する。正式に即位してから何年目かは「即位〇年から「6」を引けばよい。
34代舒明の第2皇子。母は35代皇極(=37代斉明)。皇后は「天智の異母兄古人大兄皇子ふるひとのおおえのおうじ」の娘=倭姫王やまとひめのおおきみ(皇后との間に子はない)。一般には中大兄皇子なかのおおえのおうじと呼ばれるが、「大兄」は長兄である皇位継承資格称号で、「中大兄」は「二番目の大兄」を意味する。諱(いみな=本名)は葛城かつらぎ皇子。
通説では皇極4年(645)6月、皇極の目前で、中臣鎌足らと蘇我入鹿いるかを暗殺、入鹿の父蘇我蝦夷えみしは、翌日館に火を放ち自害した(「乙巳いっしの変」)。その翌日、皇極の同母弟=孝徳が即位し、自分は皇太子となった。後世「大化の改新」と呼ばれる様々な改革は、彼と中臣鎌足の事蹟ともされるが、諸説ある。また、孝徳が遷都した難波長柄豊碕宮から、白雉4年(653)「何故か?」孝徳皇后(間人皇女=天智の同母妹)・皇祖母尊(35代皇極)・臣下共々飛鳥に戻ってしまった。孝徳は翌年崩御するが、皇太子である中大兄皇子ではなく「何故か?」前天皇の皇極が重祚した。
百済が660年に唐・新羅に滅ぼされ、人質として日本に滞在していた百済王子豊璋ほうしょうを復興のため帰国させた。更に、百済救援のため斉明等は筑紫に従軍したが、斉明7年(661)7月斉明が崩御。天智即位2年(663)7月に、朝鮮半島の白村江はくすきのえの戦で唐軍に大敗する。翌年即位3年(664)対馬・壱岐・筑紫に防(防人=さきもり=辺境防備兵)と烽(烽火=とぶひ=急報の「のろし」設備)を設置。大宰府に水城(みずき=高さ10mの堤)を築いたとある。また即位4年(665)には長門国や筑紫国の大野と椽きに(朝鮮式)山城を築いた。即位6年(667)には高安城(たかやすのき=奈良県生駒郡と大阪府八尾市の境)、讚吉国さぬきのくに山田郡に屋嶋城(やしまのき=香川県高松市屋島)、対馬国に金田城かなたのきを築く(なお、9年2月にも高安城、長門に城1つ、筑紫に城2つを築いたとの記事が重複している)。これらは、唐による日本侵攻への備えというのが通説だが、唐の羈縻きび政策(戦勝国に都督府を置き、旧族長を通じ間接統治すること)を受け入れ、「唐の筑紫都督府*」を守るため築かされたという異説もある。
*白村江敗戦後、何度か唐から使者が来日している。即位3年(664)防人と烽火設置・水城築造の年、百済に置かれた唐の都督府から5月郭務悰(カクムソウ)が来日、品物を与え宴会をして12月に帰す。また即位4年(665)長門や筑紫に城を築いた年、9月唐は劉徳高(リュウトクコウ)等を派遣してきて、宴会をし品物を与え12月に帰す。更に、即位6年(667)高安城・屋嶋城・金田城を築いた年、11月百済の熊津(ウンジン)都督府の法聡(ホウソウ)等を派遣してきて、同月帰る。
即位6年(667)3月に近江宮へ遷都する。当時の人々は遷都を願わず、批判の声もあったという。「何故近江か?」については、「即位4年(665)2月百済の百姓たみ男女400人余りを近江国の神前郡(かむさきのこおり=滋賀県東南部)に置いた」等の記事との関連性や、唐の侵攻への備えとか、大和を唐の都督府とするため近江に移転させられたとか諸説ある。
そして、ようやく即位7年(668)1月天智天皇として即位する。「何故7年も即位しなかったのか?」についても諸説あるが、定説は無い。即位直前の記事は、前述の即位6年(667)高安城・屋嶋城・金田城を築いた年に、11月百済の熊津都督府の法聡等を派遣してきて同月帰る。即位後の記事では、即位8年(669)唐に使者を派遣し、唐は郭務悰等2000人余りを派遣してきている。つまり、唐との何らかの関連性も考えられる。
*当時の朝鮮半島情勢は、一つの画期を迎える。668年(天智即位7年)10月唐が高句麗を滅ぼす。新羅は唐が西方で吐蕃と戦争する隙に、文武王が即位し671年唐に反旗を翻す。唐は676年熊津都督府(旧百済)、678年安東都督府(旧高句麗)から撤退し、新羅が朝鮮半島を統一する。つまり、670年代に唐の支配が急激に衰えるのである。
即位7(668)年2月倭姫王を皇后とするが、他に4人を妃としている。一人目は、蘇我山田石川麻呂大臣(そがのやまだいしかわまろ=入鹿討伐者の一人)の長娘=遠智娘おちのいらつめ。大田皇女おおたのひめみこ・鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ=後の40代天武天皇皇后=41代持統天皇)・建皇子たけるのみこの母。二人目は、遠智娘の妹=姪娘めいのいらつめ。御名部皇女(みなべのひめみこ=天武天皇の長男の妃)・阿陪皇女(あべのひめみこ=後の43代元明天皇)の母。三人目は、阿倍倉梯麻呂大臣あべのくらはしのまろの娘=橘娘たちばなのいらつめ。飛鳥皇女あすかのひめみこと新田部皇女にいたべのひめみこの母。四人目は蘇我赤兄大臣そがのあかえの娘=常陸娘ひたちのいらつめ。山辺皇女やまべのひめみこの母。更に、後宮(江戸時代の大奥)の女官にも天智天皇の子をもうけた者が4人いた。忍海造おしぬみのみやつこの娘=色夫古娘しこぶこのいらつめの子が大江皇女おおえのひめみこ・川嶋皇子かわしまのみこ・泉皇女いずみのひめみこ。栗隈首徳万くるくまのおびととこまろのの娘=黒媛娘くろめのいらつめの子が水主皇女もいとりのひめみこ。越の道君伊羅都売みちのきみいらつめの子が施基皇子しきのみこ。伊賀采女宅子娘いがのうねめやかこのいらつめの子が伊賀皇子=大友皇子(おおとものみこ=後の39代弘文天皇)。
天智の皇女のうち、大田皇女・鸕野讚良・新田部皇女・大江皇女の4人を大海人皇子に嫁がせており、「何故4人も弟に嫁がせたのか?」、「何故それ程、弟に気を使ったのか?」、「何故同父母弟を姻戚関係でがんじがらめにする必要があったのか?」についても諸説ある。また、天智と大海人皇子の確執の原因についても諸説ある。額田王ぬかたのおおきみを巡る三角関係、大海人皇子は皇極とその前夫である「用明の孫=高向王たかむくのおおきみ」との子=漢皇子あやのみこで、天智天皇の弟ではなく兄である等々。
また、大化1年(645)古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ=「34代舒明の子」=「天智の異母兄」)の謀殺や、大化5年(649)蘇我山田石川麻呂(天智の二人の妃の父)の謀殺、斉明4年(658)有間皇子(ありまのみこ=「36代孝徳の子」=「天智の従弟」)謀殺の首謀者説もあり、天智天皇は、歴代天皇の中でも「何故?」という謎の多い人物である。
事蹟面では、即位3年(664)2月大皇弟(大海人皇子=後の天武とされる)に命じて冠位26階制を敷く。即位7年(668)通称近江令編纂(「藤氏家伝』という藤原氏の家伝書にある。『紀』には即位10年(671)1月「東宮太皇弟が、冠位と法度の施行を奉宣した」とあるのみ)、即位9年(670)2月通称庚午年籍作成(『紀』には「二月造戸籍」とあるのみ)。即位10年(671)4月漏剋(ろうこく=水時計=明日香村飛鳥の水落遺跡)を設置(『紀』には、「この漏剋は皇太子になった時に、初めて自ら製作した」とある)。『紀』にある漏剋設置日(4月25日)をグレゴリオ暦に補正した6月10日が、現在の「時の記念日」となっている。
(2016.2撮影) 水落遺跡 案内
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後継者については、即位7年(668)に、同母弟の大海人皇子(天武)を皇太弟とした(『紀』の天智条に記事はなく、天武条の即位前紀にある)。即位10年(671)1月第一皇子大友皇子(後の39代弘文)を史上初の太政大臣とした。9月天智の病が悪化し、10月東宮(大海人皇子)を呼び寄せ「後事を託す」と伝えるが、大海人皇子は辞退し、出家して吉野に向かった。つまり、ここに大友皇子の後継者資格が確定する。12月天智天皇は近江宮で崩御した。
陵の考古学名は御廟野古墳。被葬者の実在性や真陵であることに異論がない数少ない天皇陵。大正時代当時には上円下方墳とされたが、現在の宮内庁公式形式は上円下方(八角)。2段の方形壇(下方辺長約70m・高さ8m)の上に、対辺間距離42mの八角形墳丘がのる八角墳(上円下方墳と見做す場合は、上円対辺長約46m)。明治天皇の伏見桃山陵以降、天皇陵は上円下方墳の形式だが、その原型が本古墳とされる。築造年代は7世紀末から8世紀。7世紀の中葉から、八角墳は大王墓のみで造営されるようになり、初めての大王固有型式の陵墓といえる。他では、段ノ塚古墳(現舒明陵)・牽牛子塚古墳(真の斉明陵説あり)・野口王墓(現天武・持統合葬陵)・中尾山古墳(真の42代文武陵説あり)があり、更に束明神古墳(奈良県高市郡高取町=草壁皇子の真弓山稜説あり)・岩屋山古墳(明日香村)等が八角形墳の可能性がある。なお、『紀』の天智条には「12月新宮で殯した」とあるだけで、天武・持統条にも、天智の埋葬=陵造営記事はない。
*おそらく「壬申の乱」のため造営できなかったのだろう。『紀』の後代を記録する『続日本紀』の文武3年(699)10月条に「為欲営造越智 山科二山陵也」とあり、斉明・天智陵造営記事と思われる。
最寄り駅は地下鉄東西線の「御陵みささぎ」駅(=京阪京津線の御陵駅)。三条通(=県道143号)を南西に10分程。
三条通北西望 南東望 道標 参道入口
参道は約400m。北側の半分は木々に覆われている。
参道入口 制札 参道
拝所遠景 拝所 拝所東側 西側
陵のすぐ東側から北側にかけて琵琶湖疎水が流れている。参道途中から東に入ると疎水に行ける。また東海道本線を挟み、南側に旧東海道が残る。
疎水への進入口南望 参道見返り 疎水大津方面 京都方面
疎水登り口見返り 旧東海道西望 東望 道標
「藤原鎌足」墓
中大兄皇子時代から、二人三脚で歩んだ中臣鎌足(『紀』では皇極期は「鎌子」)。
皇極3年(644)1月神祗伯に任命されたが、再三固辞して就任せず、病だと称して三嶋の地に隠遁した。しかし当時の軽皇子(かるのみこ=後の36代孝徳)は居所に呼び厚遇する。そして蘇我入鹿の専横を正すべく中大兄皇子に近づく。つまり有名な蹴鞠での出会いの場面である。そして翌年皇極4年(645)6月「乙巳の変」を起こす。36代孝徳天皇即位時に、内臣うちつおみという特別職として中枢に参画する。孝徳10年(654)=白雉5年1月大紫冠の位を授けられた。以後事蹟記事は殆ど無く、天智即位3年(664)10月郭務悰や即位7年(668)9月新羅の使者の応対に名が見えるのみ。
即位8年(669)5月天智が山科で狩りをし、大皇弟(大海人皇子)と藤原内大臣達が従ったとある。俗説では、鎌足はこの時の落馬による負傷が原因で逝去したとされるが、『紀』にも、『藤氏家伝』等の古代史料にもそうした記事は無いと思われる。
即位8年(669)10月10日天智が病に伏せる中臣鎌足を見舞い、15日東宮大皇弟(大海人皇子)を派遣して大織冠・大臣の位・藤原姓を与えるが、翌日16日に逝去した。また『紀』には「日本世記(高句麗からの亡命僧道顕の著とされる)に享年56歳」とある。
談山たんざん神社 鎌足の埋葬先としては、先ず奈良県桜井市多武峰とうのみねにある談山神社がある。元は「多武峯妙楽寺みょうらくじ」という寺院。寺伝によると、天武7年(678)天智の長男=定恵じょうえが遣唐使からの帰国後に、父の墓を摂津国安威あいの大織冠神社(茨木市西安威2丁目=現将軍塚古墳)から大和国の当地に移し、その墓の上に十三重塔を造立したとある。社名は、鎌足と中大兄皇子が「乙巳の変」の談合を行い、後に「談い山かたらいやまと呼んだことに由来するとされる。
(2016年2月撮影)参道 拝殿 楼門 本殿 案内
神廟拝所・権殿 十三重塔 案内 神廟拝所 案内
将軍塚古墳 茨木市西安威にしあい2丁目。参道石段傍に『大織冠神社』という石碑がある。『平安時代、鎌足の墓は摂津の安威にあり、後に大和多武峯に改葬された』との伝承から、江戸時代には当古墳が鎌足の墓とされ、鳥居を建て大織冠神社として祀られたようだ。しかし、考古学的な造築時期は6世紀後期で、鎌足の逝去時期との間にズレがある。鳥居の石段を登った所に、花崗岩を積み上げた横穴式石室がある。玄室の長さは約4.5m・幅約1.7m・高さ2.4m、5枚の天井石が積まれ、副葬品は無かったらしい。開口部には鉄柵があり、入室はできない。石室をとりまく円墳の規模はあまり大きくはないが、この山全体が古墳という可能性もあるとのこと。
*左手奥には将軍山古墳があるが、規模も築造年代も全く異なる別の古墳。元はもっと南側にあった4世紀後半の古墳で、全長約107m、後円部径約70m、前方部端幅約44mの前方後円墳だったが、宅地造成のため破壊され、後円部の竪穴式石室のみを現在の所に移設、復元している。
(2019年5月撮影) 参道 案内 碑 石室
阿武山あぶやま古墳 高槻市大字奈佐原なさはら。1934年京大地震観測施設建設中、瓦や巨石が発見された。盛り土はなく、浅い溝で囲まれた、7世紀末=古墳時代終末期の径82mの円形墓域であった。墓室は墓域中心の地表直下。切石で組み内側を漆喰で塗り固め、地表と同じ高さになるよう、墓室上を瓦で覆っていた。内部には棺台があり、漆で布を何層にも固め、外側を黒漆・内部を赤漆で塗った夾紵棺きょうちょかんが日本で初めて発見された。棺内には、60歳前後の男性で、肉や毛髪、衣装も残存した状態で、ミイラ化した遺骨がほぼ完全に残っていた。鏡や剣、玉などは副葬されていなかったが、ガラス玉を編んで作った玉枕の他、遺体が錦をまとっており、胸から顔面や頭にかけ金糸が散らばっていた。分布状態から冠の刺繍糸と判明。1982年埋め戻す前のX線写真原板を観測所で発見。1987年の分析で、腰椎等骨折の大けがをし、治療後寝たきり状態のまま、二次的合併症で死亡したと判明(これが落馬によるとされる由縁?)。漆の棺や玉枕を敷いていたこと等から、最上位クラスの人物と思われる。冠が当時の最高冠位である大織冠であるなら、授けられたのは、史上では百済王子余豊璋と鎌足しかいない。なお、被葬者としては同時期の蘇我倉山田石川麻呂や阿倍倉梯麻呂説もあるが、高槻という地との関連性はない。
(2019年5月撮影)京大地震研究所 道標 進入路 標識
墓室全景 案内 西望
39代『弘文こうぶん天皇陵』
2018年3月27日(火)参拝。大津市御陵町。39代「弘文天皇」の『長等山前陵ながらのやまさきのみささぎ』に治定されている。天皇として追号されたのは、明治3年なので、『紀』に弘文条は無い。在位はあえて言えば:672年1月~ 672年8月。諱は大友皇子。父は38代天智。母は後宮女官であった伊賀采女宅子娘。天智即位10年(671)1月太政大臣となる。同年12月天智は近江宮で崩御し、大海人皇子が「壬申の乱」後、正式に天武天皇として即位するまでの間(空位としないためか?)、結果として天皇として追号された。日本最古の漢詩集『懐風藻』に、その人となりについて「年甫はじめて弱冠、太政大臣を拝す。百揆を総べて以てこれを試む。皇子博学多通、文武の材幹有り。始めて萬機に親しむ。群下畏れて粛然たらざる莫し。年二十三にして立ちて皇太子と為る。・・・天性明悟、雅より博古を愛す。筆を下せば章と成り言を出せば論と為る。時に議する者其の洪学を歎ず。未だ幾ばくならずして文藻日に新たなり。壬申の年の乱に会ひて天命を遂げず。時に年二十五」。なお、皇位には天智天皇皇后=倭姫王を立て、自らは皇太子として称制していたとする説もある。
陵の考古学名は「園城寺亀丘古墳」、径20m程の円丘。明治9年陸軍分営設置で破壊された際に、鏡・鏃・剣等の出土があり、その後盛り土整備したとも言われるが、詳細は不明。三重県伊賀の鳴塚古墳、滋賀県大津市の皇子山古墳・膳所茶臼山古墳も弘文天皇陵との伝承があり、また壬申の乱後東国へ逃れた伝承からか、愛知県・神奈川県・千葉県にも弘文天皇陵伝承古墳等がある。
参道南望 制札 拝所南望
「壬申の乱」
「乙巳の変」、「大化の改新」共々、非常に著名な歴史ドラマであるので、詳述は避けるが、天智即位10年(671)10月東宮(大海人皇子)を呼び寄せ「後事を託す」と伝えるが、大海人皇子は辞退し、出家して吉野(奈良県吉野郡吉野町大字宮滝)に向かった。『紀』には、「この時ある人は、虎に翼を着けて放った、と言った」とある。更に、天智崩御の翌年(672)「5月、大友側が美濃・尾張で天智陵造営と称して兵を集めている。また近江京から倭京まで所々に監視を置き、吉野への食料補給路であった菟道うじ橋を抑えた等の情報がもたらされた」。(大海人皇子は)「朕、天皇位を譲り、世を隠遁した理由は、独り病気を治療し、身体を健康にして、永遠に100年を過ごそうと思っていた。しかし、今禍わざわいを受けている。どうして黙って身を滅ぼすことがあろうか」と、挙兵を決意する。
(2020.7撮影)吉野宮滝周辺案内 宮滝(上が南) 吉野川
(2017.8撮影)吉野宮跡 案内 碑
6月24日、妃の鸕野讚良皇女、子の草壁皇子くさかべのみこ・忍壁皇子おさかべのみこ等40人余りで吉野を発ち、名張を通り、25日柘植つげで嫡男高市皇子(たけちのみこ=当時19歳)軍と合流、鈴鹿をぬけ、26日朝明あさけで大津皇子(当時10歳)軍と合流、天照太神を遥拝した。美濃では多品治おおのほむじが挙兵。27日大海人皇子は不破(当時美濃国=現岐阜県で古代東山道の関所)に到着する。一方大友側は東国と吉備・筑紫に派兵要請使者を送るが、東国への使者は大海人部隊に阻まれ、筑紫では、栗隈王くりくまのおおきみが国防を理由に派兵を断る。大海人皇子は7月2日軍を大和と近江二方面に向かわせた。大和では大海人側の大伴吹負ふけい軍と美濃からの紀阿閉麻呂あべまろ軍が応戦。村国男依おより率いる主力軍は7月7日横河で開戦し、着々と近江に迫った。7月22日遂に瀬田に到着し、近江朝廷の大友軍を打ち破った。7月23日大友が山前やまさきで首を吊り自決した。約1ヶ月で天智血縁者同士の争いが終わる。過去にも大王家血縁者同士の争いはあったが、 正否は別として、天下を分ける大王家同士のクーデターは日本初である。
壬申の乱での大友側の蘇我果安はたやすの裏切や(海部系)尾張氏の支援、天武天皇の殯もがりの際の誄(しのびごと=生前の功績・徳行を称えたたえ追憶する弔辞)のメンバー等を見ると、天武と尾張氏や漢氏・高向氏、更には蘇我氏と密接な関係があったと推測される。こうしたことが大海人皇子は、皇極と前夫の「用明天皇の孫=高向王」との子=漢皇子(蘇我系)説の論拠でもある。
40代『天武天皇』・41代『持統天皇』合葬陵
2016年2月4日(木)参拝。奈良県高市郡明日香村大字野口。第40代「天渟中原瀛真人あまのぬなはらおきのまひと=天武天皇(在位673年~686年)」と第41代「高天原広野姫たかまのはらひろのひめ= 持統天皇(686年~称制、在位690年~697年)」の『檜隈大内陵ひのくまのおおうちのみささぎ』に治定されている。
40代『天武天皇』
「壬申の乱」後、大和の嶋宮(しまのみや=高市郡明日香村島庄)に入り、3日後に岡本宮(高市郡明日香村大字岡)に移った。この年岡本宮の南に新宮を建て、冬に移った。これが飛鳥浄御原宮あすかきよみはらのみや。この地は、現在「伝飛鳥板蓋宮跡」と呼ばれ、34代舒明期の飛鳥岡本宮、35代皇極期の飛鳥板蓋宮、36代斉明期の後飛鳥岡本宮・飛鳥浄御原宮のⅢ期の宮に比定されている。父は34代舒明、母はその皇后(=35代皇極)。天智の弟というのが通説。皇后は天智第二皇女=鸕野讚良皇女(後の41代持統天皇)。諱は大海人皇子。
妃としては、天智第一皇女の大田皇女=大来皇女おおくのひめみこと大津皇子おおつのみこの母。天智大江皇女おおえのひめみこ=長皇子ながのみこと弓削皇子ゆげのみこの母。天智皇女新田部皇女にいたべのひめみこ=舎人皇子とねりのみこの母。夫人としては藤原鎌足娘の氷上娘ひかみのいらつめ=但馬皇女たじまのひめみこの母。氷上娘の妹=五百重娘いおえのいらつめ=新田部皇子にいたべのみこの母。蘇我赤兄そがのあかえ娘の大蕤娘おおぬのいらつめ=穂積皇子ほずみのみこ・紀皇女きのひめみこ・田形皇女たかたのひめみこの母。嬪ひんには、鏡王かがみのおおきみ娘の額田姫王=十市皇女といちのひめみこの母。胸形君徳善むなかたのきみとくぜん娘の尼子娘あまこのいらつめ=高市皇子命の母。宍人臣大麻呂ししひとのおみおおまろ娘のカジ(木偏に穀)媛娘かじひめのいらつめ=忍壁皇子、磯城皇子、泊瀬部皇女はつせべのひめみこ・託基皇女たきのひめみこの母。
「壬申の乱」の翌年(673)正式に即位する。在位14年間大臣職を置かず、天皇・皇后・皇子のみによる「皇親政治」による大王家の中央集権体制を形成したことで著名。
*『紀』の天武条の年紀は、天智天皇崩御の翌年=672年を「即位元年」として以降の記事を記している。正式な即位は673年だが、『紀』に合わせ掲載する。
具体的な事蹟==即位2年(673)4月伊勢神宮斎宮設置(初代は大来皇女)。 天智即位3年(664)に支給した部曲(かきべ=豪族の私有民)を即位4年(675)2月に廃止。 4年(675)4月「漁猟の罠の使用」禁止と「牛・馬・犬・猿・鶏の食用」禁止。10月諸王~初位の冠位にあるものに武装命令。 5年(676)4月有能者の官人採用許可。8月全国に大祓え(穢れを祓う儀式)命令。 7年(678)10月官人の勤務評定・考課制度。 8年(679)4月全国の寺の食封(へひと=じきふ=俸禄の一種)の適正化。5月吉野宮の盟約(皇后・草壁皇子・大津皇子・高市皇子・河嶋皇子・忍壁皇子・芝基(施基・志貴等とも)皇子を集め、皇子達の結束=草壁皇子(当時17歳)への忠誠を誓わせた。11月竜田山・大坂山に関所設置。難波宮に羅城(らじょう=都の周囲の城壁)を築く。 9年(680)4月全国の寺の(国の大寺である2~3つを除き)役人統治の禁止。10月京内の諸寺僧尼や百姓に賑給(にぎわえたまい=しんごう=貧しいものへの配給)。11月皇后の病気平癒のため薬師寺建立。 10年(681)2月律令制定の詔。草壁皇子の立太子と執政(=摂政)宣明。3月川嶋皇子・忍壁皇子等に帝紀(日本書紀)製作の詔。 11年(682)4月男女全員の結髪の詔。9月跪礼・匍匐礼の廃止。12月氏族の氏上(代表者)の選定と報告義務の詔。 12年(683)3月僧正・僧都・律師の任命。4月銅銭使用推奨(和同開珎以前の銅銭?)。12月難波宮造営を宣明。 13年(684)4月「全ての政要は軍事である」として、文武官にも武装と乗馬修練の詔(馬が無いものは歩兵に)。男女の衣服を規定。10月八色の姓やくさのかばね制定(真人まひと、朝臣あそみ・あそん、宿禰すくね、忌寸いみき、道師みちのし、臣おみ、連むらじ、稲置いなき。守山公・路公みちのきみ・高橋公・三国公・当麻公たいまのきみ・茨城公うまらきのきみ・丹比公たじひのきみ・猪名公・坂田公・羽田公・息長公おきながのきみ・酒人公・山道公やまじのきみの13氏を真人とした。11月52氏を朝臣、12月50氏を宿禰とした。 14年(685)1月位階を改定。諸王より上を明位みょうい2階・浄位じょうい4階、階しな毎に「大と広」で12階に。また、諸臣の位を正位しょうい4階・直位じきい4階・勤位ごんい4階・務位むい4階・追位ついい4階・進位しんい4階、階毎に「大と広」で48階*とした。6月11氏を忌寸とした。 15年(686)1月難波宮で失火。5月天武発病。6月占いで病の原因が「草薙剣の祟り」とされ、剣を尾張国熱田社に送った。7月元号を朱鳥あかみとりに改める。9月崩御=皇后が称制。2年2ヶ月の殯の後、持統即位2年(688)11月大内陵に葬られた。
*なお、朝鮮半島では678年(天武7年)に新羅が半島を統一するが、天武在位中に、新羅から頻繁に使者が渡来してきており、天武天皇が親新羅派といわれる由縁にもなっている。
*冠位=氏族に与えられる「姓」と違い、官人個人に与えられる位階で、冠の色や材質で区別し、公式行事等で着用した。日本初の冠位は推古11年(603)の12階(徳・仁・礼・信・義・智の各々大小)。続いて孝徳=大化3年(647)の七色13階冠(織冠・繍冠・紫冠・錦冠・青冠・黒冠の各々大小と建武)、更に孝徳=大化5年(649)に19階に改定される(織・繍・紫の各々大小=6階、花・山・乙の各々大小と上下=12階と立身)。そして天智3年(664)の冠位26階(織・縫・紫の各々大小=6階、錦・山・乙の各々大小と上中下=18階、建の大小=2階)。天武期に48階となり、チョコチョコ昇格させ執務意識向上の方策なのだろう。
41代『持統天皇』
707年火葬の際「大倭根子天之広野日女尊おおやまとねこあめのひろのひめのみこと」に改号されている。朱鳥元年(686)天武崩御後、皇后が称制し、690年持統天皇として即位する。称制当初の宮は飛鳥浄御原宮。正式即位の4年後(694)藤原宮に移り住んだ。*「京」全体の完成は慶雲元年(704)とされる。
藤原京=日本初の本格的な都城=都市計画に基づき造営された都市で、天子の居所(宮城)、その南に官庁(皇城)、その周辺に市街地(京域)が形成された都市。「宮都」と呼ぶこともある。藤原京以前にも、飛鳥京や難波京等が該当するともされる。日本では都城が置かれた土地を「京」と称し、「みやこ」と呼んだ。『紀』天武・持統条には藤原京の造営経緯が、比較的細かく記されている。「天武5年(676)新城(にいき=奈良県大和郡山市新木=にき)に新宮を造営しようとするが断念。天武11年(682)新宮造営の検討を再開し、天武13年(684)京師(けいし=当時では飛鳥宮辺りか?)を巡行し宮地を定めた。天武天皇崩御後、持統即位4年(690)10月高市皇子が藤原の宮地を視察、12月持統が藤原の宮地を視察。5年(691)10月「新益京しんやくのみやこ」の地鎮祭をさせた。12月「右大臣には宅地4町。直広弐より上には2町。大参より下には1町。勤より下、無位むいには・・・。王おおきみ達もこれに倣え」と詔している(つまり、この時点で、京の区画が大体決定されていたのかも)。即位6年(692)1月持統が新益京の路おおちを視察。6月持統が藤原の宮地を視察。7年(693)2月造京司みやこつくるつかさ達に詔し、掘り出した尸(かばね=遺体)を収めさせた。8月持統が藤原の宮地視察。8年(694)12月天皇が藤原宮に移って居住開始。
(2016/2撮影)藤原京資料館解説 資料館から全景南東望 西口から東望
大極殿復元柱東望 中央から北望=大極殿跡 南望=-南門跡朱 雀大路跡北望 南望
持統天皇は、天智天皇の2番目の皇女。母は遠智娘。斉明3年(657)13歳で大海人皇子の妃となる。天智即位元年(662)に草壁皇子を大津宮で産む。天智即位10年(671)10月に出家した大海人皇子とともに吉野に入った。天武天皇即位元年(672)6月大海人皇子に従って、壬申の乱に勝利。天武天皇即位2年(673)皇后となった。その人となりについて『紀』には、「深沈(しめやか=落ち着いており)、大度(おおきなるのり=大きな器)であった。帝王の皇女だが、礼を好み、節度があって完璧で欠けるところのない人物。母としての道徳もあり、皇后となってからも、天皇が天下を定めるのを助け、政務でも助け補うところが多かった」とある。
686年天武崩御時、皇太子である草壁皇子は23歳であったが、(病気のせいか?)持統が称制する。689年草壁皇子が28歳で薨去し、その子の軽皇子(=後の42代文武天皇)は、まだ7歳であったため、皇后が690年持統天皇として即位した(46歳)。
*『紀』の持統条の年紀は、天武天皇崩御年翌年=687年を「即位元年」として以降の記事を記している。正式な即位は690年だが、『紀』に合わせ掲載する。
事蹟としては、天武崩御の翌月(686年10月)大津皇子が謀反を企て、24歳で逝去(11月姉であった斎宮の大来皇女は京師に帰る=斎宮の身内に不幸があると配置転換させられた)。持統即位1年(687)京師の孤独高年(身寄りのない高齢者)に布帛ぬのきぬを配給(以後同年・4年・7年等度々行っている)。即位2年(688)2月「今から以後、国忌(はて=天武の命日)に当たるごとに必ず斎(おがみ=儀式)をするべし」と詔。11月天武を大内陵に葬る。 即位3年(689)2月筑紫の防人の年限設定。同月藤原不比等を判事に任命=不比等の『紀』での初見。4月草壁皇子尊薨去。6月浄御原令施行。閏8月戸籍=庚寅こういん年籍作成指示。12月双六(すぐろく=博打)禁止令。即位4年(690)1月1日正式即位。4月人事考課制度明確化=役人と畿内人で位ある者は6年毎に評定。位の無いものは7年毎。勤務日数で9等評定。4等より上は善最(勤務態度)・功能(功績)・氏姓大小(氏族の大小)で、量って冠位を決定するとし、資格別に服の色を規定。7月高市皇子を太政大臣に、丹比嶋真たじひのしまのまひとを右大臣に任命。八省百寮(全省庁の役人)を遷任、大宰・国司を遷任。朝服礼儀を規定。11月従前の元嘉げんか暦と新しい儀鳳ぎほう暦*の併用開始。 即位5年(691)10月過去の天皇陵の陵戸(みさざきのべ=りょうこ=墓守)の規定。なお、687年称制後、吉野宮に31回行幸している(称制前と合わせると計64回とも)。
*元嘉暦=中国南北朝時代の宋~梁の暦法。南朝の宋(439~)・斉(479~)・梁(502~)の諸王朝で、元嘉げんか22年(445)~天監8年(509)の65年間用いられた。日本には百済から6世紀頃に伝えられたとされる=『紀』では欽明15年(554)。平安時代の『政事要略』に、「推古12年(604)初めて日本人の作った暦の頒布を行った」とあり、元嘉暦によるものと考えられる。
*儀鳳暦=唐代の太陰太陽暦の暦法。麟徳2年(665)~開元16年(728)の73年間用いられた。唐での名称は麟徳暦りんとくれきだが、日本では儀鳳暦と呼ばれ、飛鳥から奈良時代にかけて使用された。元嘉暦より1年で2.75分短い(=523.6年で1日ずれる)。
なお中国での暦は、早くも殷(BC1600年頃~)・周(BC1000年頃~)代で、太陽・月・星や植物の成長等を観察し決めた観象授時暦が使われ始めた。現在天気予報でよく使われる「二十四節気」は春秋戦国(BC770年頃~BC220年)に導入されたという。
*日本書紀の古い時代の前半部分が、主に(新しい暦の)儀鳳暦が使われ、新しい時代の後半部分は(古い暦)元嘉暦が使われているという小川清彦氏の研究がある。つまり『紀』の前半と後半の編纂者が別ということになる。
持統即位11年(697)、軽皇子が15歳となり(従前の皇位継承は20歳以降であったが)42代文武天皇として即位した(文武即位は持統と不比等の主導説が強い)。持統は(病もあり)同年53歳で上皇=太上天皇となった(35代皇極に次ぐ二番目の生前譲位)。大宝2年(702)12月58歳で薨去する。翌年大宝3年(703)12月飛鳥岡にて火葬され(天皇として初の火葬)、同月「大内山陵に合葬」された。
『檜隈大内陵ひのくまのおおうちのみささぎ』
陵の考古学名は野口王墓古墳。江戸時代には「王墓」・「王墓山」・「皇ノ墓」等とも呼ばれた上円下方八角墳。江戸時代に入り、天武・持統合葬陵は野口王墓説と丸山古墳説が入り乱れる。元禄修陵(1699年)迄は野口王墓であったが、文久修陵(1862年)では野口王墓は文武陵として修陵され、丸山古墳が天武・持統陵とされていた。その後、いつの頃か再度野口王墓に治定変更されたにもかかわず、明治4年(1871)にまた治定変更され、野口王墓は天武持統陵ではなくなった。
決着がついたのは明治14年(1881)。前年(1880)京都市の高山寺で発見された『阿不幾乃あおきの山陵記*』に、1235年盗掘後の石室内の記述があり、現陵に治定変更された。また、2012年に複数報道機関が宮内庁に情報開示請求し、1959年・1961年に、宮内庁が墳丘を発掘調査していたことがわかった。開示資料には、八角墳丘裾での石材の様子や各側辺の実長などが示された。2014年には学会要望による立入り観察があった。天智陵とともに、被葬者の実在性も問題なく治定が信頼できる数少ない天皇陵である。
*「阿不幾乃山陵記」は盗掘の検分記録の書写本。高山寺の方便智院ほうべんちいんに所蔵されていた。「文暦ぶんりゃく2年(1235=鎌倉中期)3月20・21日の夜、阿不幾乃山陵(=檜隈大内陵)盗堀される」とあった。冒頭には「陵の形が八角で・・・石壇一匝めぐり・・・五重也」とあり、当時八角五段の墳丘だったのだろう。更に「此の石門を盗人等纔わずかに人一身の通る許ばかり切り開く」とあり、「棺の大半の副葬品は盗掘されていたが、遺骸はそのままで、天武の頭蓋骨には白髪が残っていた。持統の遺骨は火葬され金堂製桶に入っていたが、遺骨は近くに遺棄されていた」ことが記されていた。また室内には「石帯・枕・金銅桶、遺骨と紅の御衣、銅製品(銅鏡?)片、御念珠と記された銅糸で連ねられた琥珀製玉類等、多くのものが残されていた」と記されている。更に「遺存品を橘寺へ移送した」ことや「御念珠を多武峯の法師が持ち帰った」こと等も記されている。
*歴史書「百練抄」では侵入先を「天武天皇御陵」、侵入者を「群盗」と記している。「帝王編年記」には「南都ならびに京中の諸人が多く陵中に入って、御骨を奉拝した」、「盗人が侵入、場所は天武天皇山陵也」と記している。歌人藤原定家の「明月記=1180年~1235年の間の日記」にも、「山陵を見奉る者がいると聞いて哀慟の思いが増す」と記している。持統期~平安時代に定められた陵墓・陵戸制度が、武家・戦乱時代に入り、かなり杜撰な状況となっていたのだろう。
江戸時代等の書物から、上円下方八角墳の墳裾の一辺15m前後・対辺間距離37m・高さ7.7mと推定されているが、現状は東西約58m・南北45m・高さ9mの円墳状である。墓室は羨道とみられる「外陣」、玄室とみられる「内陣」に分かれる。全長は7.7m、外陣は長さ3.5m・幅2.4m・高さ2.2m、内陣は長さ4.2m・幅2.8m・高さ2.4m。外陣と内陣は獅子面の取っ手が付いた両開きの金銅製扉で仕切られ、内陣壁は朱が塗られていた。玄室には花崗岩や凝灰岩が一般的だが、石室石材には「馬脳(めのう=実際は大理石)が使われていた可能性があるとのこと。
内陣には格狭間ごうざまのある金銅製の棺台があり、その上に朱塗りの夾紵棺きょうちょかんが置かれていた(格狭間は仏壇の基壇の装飾、夾紵棺は重ねた布を漆で固めた最高級の棺)。床には金銅製桶も置かれていた。夾紵棺の被葬者は持統2年(688)11月に葬られた天武、金銅製桶は火葬された後に合葬された持統の蔵骨容器とされる。
(2016.2撮影)全景西望 登り口見返り 参道見返り 参道見上げ
拝所 制札 墳丘北側への進入路 墳丘北側側道 墳頂南望
丸山古墳 後円部墳頂は『畝傍陵墓参考地(被葬候補は天武・持統天皇合葬)』に治定されているが、石棺が2基あり、火葬された持統との整合性がない事や、築造年代から29代欽明天皇の真陵説等もある。以下を参照下さい。
草壁皇子「真弓丘まゆみのおか陵」
2015年11月1日(日)参拝。高取町大字佐田。岡宮天皇という非実在天皇の陵。宮内庁は、大海人皇子(天武)と鵜野皇女(持統)の子として662年筑紫の那大津(なのおおつ=長津宮)で生まれ、持統3年(689)4月、28歳で亡くなった皇太子草壁皇子の真弓丘陵として管理している。「続日本紀」に天平宝字2年(758)、46代孝謙天皇が47代淳仁天皇に譲位する際、草壁に岡宮御宇天皇と追号したため岡宮天皇陵と呼んでいる。『紀』の後継六国史りっこくしである「続日本紀」には、天平神護元年(765)、48代称徳天皇(孝謙の重祚)一行は紀伊国への行幸のため、飛鳥川のほとりの小治田宮から紀路きぢを南下した。その途中、草壁皇子の「檀まゆみ山陵」を通過する際に、従者全員を下馬させ、儀衛には「旗幟はた」を巻くように命じ、拝礼したと記されている。「延喜式」には「真弓丘陵」として載せられている。また「万葉集」には、柿本人麻呂や皇子に仕えた舎人らによる草壁皇子への挽歌があり、「真弓(檀)の岡」「佐太の岡辺」と詠みこまれている。
長期間所在不明だった「真弓丘陵」を探したのは、文久修陵の中心人物の谷森善臣。享保21年(1736)刊の「大和志」では、被葬者の伝えがない墓をまとめて「荒墳」として載せているが、高市郡の荒墳のうち、森村に「王墓」とあり、谷森はこの記事に着目し、彼の著書「山陵考」(1867)でこの「王之墓」を真弓丘陵に当てた。この案が採用されて現陵墓治定になったとみられる。
1984・86年に発掘調査された岡宮天皇陵の少し北の束明神つかみょうじん古墳もその最有力候補で、凝灰岩の切石を組み上げた横口式石槨を有する。陵よりも規模は大きい。
考古学名は森王墓もりおうのはか古墳。すぐ東側には、素盞嗚命神社(もとは牛頭天王社)が隣接する。境内地の木々の隙間から墳丘を確認でき、北側背後の丘陵斜面を掘り込んで南斜面に造られた山寄せの終末期古墳。陵墓測量図に約15mの円形墳丘が示されている。過去に調査された記録がなく詳細不明。
参道 拝所 拝所から南望