OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

岩瀬谷古墳群

滋賀県湖南市正福寺しょうふくじ。岩瀬神社を囲む山中に17基から構成された古墳時代後期の古墳群。A~F支群に分けられる。2023年12月14日(木)訪問。

 

2012年3月17日(土)に、(財)滋賀県文化財保護協会により、C・D支群の発掘調査の現地説明会が実施されている。

湖南市岩瀬谷古墳群の現地説明会を開催しました! - 文化財イベント日記

同協会のホームページの「岩瀬谷古墳群発掘調査地説明会」資料には下図の分布図等が掲載されている。

*なお、当記事中の実測値等は大半同資料に基づいています。

「岩瀬谷古墳群発掘調査地説明会」資料=図2 岩坂古墳群の分布状況

A支群

岩瀬神社のすぐ東側、砂防堰堤えんていへ向かう道があり、神社との間にA1・A2号墳がある。この道はC・D支群を経由する「十二坊トレイル(登山用遊歩道)」の進入口でもある。

     実際には字が薄く殆ど読めないので明瞭度調整加工

*画像は、(スマホでも)PC版ならクリック(タップ)すると拡大されます。スマホ版ならピンチ拡大下さい。

*季節や経過年数により周辺の様子や目印が変わることが多いので注意下さい。

 

A2号墳の方が見つけやすいので、そちらから記述します。

A2号墳 

道路右側のガードレールが途切れた所から、50歩程上に行った左手、木々がやや少ない所から、林の中に入る。

目印は二股に分かれた木と小さな石標で、その間から北北西に40歩程下る。

林道っぽい所の左手側崖下には大砂川(渓流)、右手側にA2号墳が開口している(黄〇)。

北東望                   崖下の大砂川

A2号墳の開口部。開口部は幅0.8m・高さ0.65m。

残存羨道長1m弱・幅1m弱、玄室長2.1m程・幅1.6m程・高1.6m程、左片袖式で、割石を積んだ小型の石室。

現在の開口部は羨道から斜めに落ち込んでいる。

側壁はやや内傾する(持ち送る)が、左側壁の方がややキツい。

*側壁は、袖部同様、奥から見て左右を著します。

右側壁                       左側壁              

 左袖部                       天井部

A1号墳 

A2号墳の南西50m程。墳丘の南側が流失し、石室が開口している。径12m、羨道は崩壊しているが玄室は遺存。砂防堰堤へ向かう道のすぐ脇にあるが、背の高い笹等で道からは見えなかった。

A1号南西望                     墳裾から北東見上げ

開口部。

*開口部中央に笹が一本生えています。以後の写真は、この笹を曲げて撮っています。1年後には曲げられないくらい成長しているかも・・・?

玄室長4m(右側壁側)・幅2m弱・高さ2.5m程。A2号墳に比べ奥壁石材は少し大きめ。

側壁がやや内傾する(持ち送る)。

玄門部・袖部が崩れているが、左側壁の方が内傾がキツいので左片袖っぽい・・・?。

6世紀後半築造か・・・?

左側壁                                右側壁

奥側天井石                      前側天井石

後で分かったが、岩瀬神社参道途中からも来れた様だ・・。
A1号から参道への(見返り)写真。  黄〇がトレイルのガードレール

B・C・D支群

A支群~砂防堰堤手前~十二坊トレイルを進む途中にある。A2号横の道に戻った地点からC・D支群迄は250~300m程だが、途中(大砂川)渓流の岩場を進むので15分程かかる。岩にペイント表示があり、道は分かり易い。

ただ雨天は勿論の事、雨天翌日でも増水の可能性があるので、日程には注意が必要。
A支群横から砂防堰堤まで

B支群

砂防堰堤のすぐ東横にB支群-1号墳があるはずだが、よく分からない。

冒頭「岩瀬谷古墳群発掘調査地説明会」資料=図2岩坂古墳群の分布状況にあるB1号墳辺り

なかなか立派な砂防堰堤。豪雨時は、砂・岩だけでなく流木も流れて来るのかスリット型になっている。

C・D支群へは、砂防堰堤脇から細いトレイルを進む。

砂防堰堤脇に降り口(階段)がある。

堰堤から2分程で渓流に降りる。以後渓流内の岩場を行く。

C支群

堰堤から7~8分で、渓流西側の崖上にC支群があるはずだが、草木が繁茂しており、登るのは断念。

「岩瀬谷古墳群発掘調査地説明会」=図3C支群の古墳  図4 C2号墳の横穴式石室

C1号墳 西側にあり封土は流失し、全長3m程の石室が露出しているらしい。

C2号墳 墳丘が流失し墳長等不明。天井は滅失し、石室の左側壁は完全に崩れ、右側壁も半壊状態だったらしい。南西向きで全長4.2m以上、玄室長3.2m・幅1.6m。須恵器(坏身・提瓶)・鉄器(鉄鏃等)・玉類(ガラス小玉・土玉・滑石製臼玉・緑色凝灰岩製棗玉・同管玉)が出土。6世紀後半築造らしいとのことだが、今も残っているのか・・・?

ズームでC2号墳らしい所を撮ったが、よく分からない・・・・。

*10年程前の古墳ブログで、西崖上をC支群からD支群に向かう動画があったので、D支群からC支群に行けるかも?と思い試みたが、樹木に阻まれ断念。

D支群

更に1分程行き、渓流を西側に渡って少し上ると石積みが見え、その先にD支群がある。

「岩瀬谷古墳群発掘調査地説明会」=図9D支群の古墳

D1号墳                       D2・3・4号墳

D1号墳
径15m程、石室は完存し、6世紀後半築造と考えられるらしい。南西向きで全長7.6m、羨道長3.85m・幅1.2m前後・高1.55mとのこと。玄門部下部には梱石きしみいし(敷居石・閾石しきみいし・框石かまちいしとも)が残る。

左片袖式の玄室長3.45m・幅1.65~1.9m・高2.2mで、側壁がやや内傾=持ち送る。

石材の表面加工が丁寧になされている。

玄門部                        前壁

天井部奥側                      天井部前側

出土遺物は、須恵器(蓋坏・高坏・壺・提瓶)、土師器(椀)、鉄器(鉄刀・銀象嵌鐔(つば)・鉄鏃)の他、中世の黒色土器、瓦器、土師皿、銅銭(=中世には開口していた模様)。

 

D2号墳

6世紀後半築造らしい。南南東向きの石室全長は5.6m、羨道長2.4m・幅1.2m。開口部付近に閉塞石が一部残る。

両袖式の玄室はほぼ完存し、長3m・幅1.75m・高2.3mとのこと。

側壁は両側とも内傾する(持ち送る)が、上下石材が凸凹でなく、弓状に弧を描くよう綺麗に積み上げられ、表面加工も丁寧。横目地も意識されている。

天井部奥側            開口部俯瞰南望           玄室天井外面西望    

出土遺物は須恵器(蓋坏・高坏等)、土師器(椀)、鉄器(不明鉄器)、玉類(ガラス小玉)の他、中世の黒色土器、瓦器、土師皿。

D3号墳

ほぼ南に開口する6世紀後半の小型石室。左片袖式の石室全長3.45m、羨道長1.45m以上・幅0.8m。玄室は奥半分が遺存し、長1.85m・幅1.2m・高1.7m。

東望                        開口部俯瞰南望

出土遺物は須恵器(高坏・甕)、刀子の他、中世の黒色土器、瓦器椀、土師皿。

D4号墳

2021年3月の「十二坊~岩瀬谷古墳群~登山・山行記録」の写真では、まだ遺存していたが、現在は完全に崩壊している。6世紀前半築造らしく、元は石室全長1.98m、羨道幅0.64m、左片袖式の小型玄室長1.32m・幅0.8m。天井石は一枚岩だったようだ。須恵器(蓋坏)、刀子、ガラス小玉の他、中世の土師皿が出土したとのこと。

北望(下の大き目の石が天井石)   南望              岩瀬谷古墳群発掘調査地説明会資料

 

*なおD1・2号墳の石室内部には煤が付着していて、火を焚くなどの形跡が見られたらしい。大砂川の川床で、中世の石切場痕跡が見つかっており、石室内の中世遺物と考え合わせると、石工等の活動拠点に利用されていたと思われる。

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岩瀬神社

社伝等は不明。鳥居は桜の木で覆われ、春は綺麗そう。