OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

福王子古墳群

2022.11.4(金)。福王子古墳群 大津市南志賀2丁目19 福王子神社境内等

福王子古墳群は6世紀中頃~後半の円墳が10数基確認されているそうだが、正興寺北側の福王子神社境内にミニチュア炊飯型土器等が出土した石室が、何基か遺存する。

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福王子神社参道北望        拝殿西望             本殿西望

  *PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

巡った順に付番したのが下図。

は拝殿南側(正興寺との間)に大きめの石材がある。正式には10号墳

Ⓐ社殿南側石材西望                           南望

は拝殿の北側、南東に開口する結構大きな右片袖式の石室で、玄室の側壁と奥壁が遺存する。玄室は長さ3m・幅2.5m程で、本来の奥壁の高さは軽く2m以上あったようだ。側壁と奥壁の接合部に丸みがありドーム状らしい。正式には2号墳

Ⓑの北東角にあるは、小さめの石材が積み重なっているだけで、Ⓑのものだろう。

Ⓑ社殿から北へ                            Ⓑ北西望

天井石が全て滅失しているが、却って石室の平面構造を俯瞰できて、これはこれで問題なし。当然、羨道の笹を掻き分けて行けば入室できるが、俯瞰でも充分だった。

Ⓑ(奥から見て)左側壁   Ⓑ奥壁           Ⓑ右側壁         Ⓒ石材

Ⓑの少し西側に、大きめの石材が1個あるのが

は、Ⓓの西側に隣接する玄室石組の残存で、南東に開口していた玄室の下部のみが残る。写真の黄〇が奥壁部、赤〇が右片袖石と羨道閉塞小礫らしい。玄室の(奥から見て)右側壁と羨道部は滅失している。正式には1号墳

Ⓓ西望          Ⓓ南望          Ⓔ南望          Ⓔ南東望

もそこそこ大きな右片袖式の石室で、ほぼ南東に開口。玄室の側壁と奥壁が遺存し、天井石もかろうじて1個残っている。玄室長さ3m強、幅2.5m、高さ2m以上。ここも羨道の笹を掻き分ければ入室できる。正式には6号墳。  

Ⓕ西望               Ⓕ俯瞰              Ⓕ奥壁

は、ⒷやⒻと同じ位の規模の両袖式石室で、ほぼ東に開口。玄室の側壁・奥壁以外に、玄門部の楣石まぐさいしらしき石材と、玄室天井石1個が残っている。羨道は玄門部から開口部に向かって「ハ」の字形に開いている(Ⓑ・Ⓕも同様)。奥壁側の隙間から見ると、左袖部幅は小さく20~30㎝、右袖部が80cm程。玄室は長さ3m弱・幅2.5m程・高さ2.5m程。正式には8号墳

Ⓖ南西望              Ⓖ西南西望            Ⓖ羨道俯瞰

Ⓖ奥壁               Ⓖ東望             Ⓖ隙間から玄門部=袖部見下ろし

福王子神社北側奥の階段下からも石材らしきものが見える(多分Ⓔ)。ここから、谷道を挟んだ大伴黒主神社に行ける。

大伴黒主神社へ          Ⓗ東望見上げ            大伴黒主神社参道

なお詳細史料として、1969年滋賀県教育委員会作成の「滋賀県文化財調査報告書」の「第 2章福王子古墳群発掘調査報告」があります。詳しく知りたい場合は、下記のPDFファイルを参照下さい。なお袖部等の左右は、現在一般に奥から見て表現するが、開口部から見た左右の表現となっているようです。

野添古墳群発掘調査報告・福王子古墳群発掘調査報告 - 全国遺跡報告総覧

 

大伴黒主神社にも古墳墳丘らしき所が散見される。=鳥居横の祠の中には御不動様と、もう1体安置されている。

Ⓘ北東望         Ⓘ北望          祠の仏像         黒主神社社殿北東

 

福王子神社と大伴黒主神社

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榿木原はんのきはら遺跡

福王子神社鳥居の、道を挟んですぐ南側に榿木原遺跡がある。白鳳時代から平安時代にかけての瓦窯跡10基と工房跡が、この周辺で見つかっており、現在1基がここに移設されている。

大津のかんきょう宝箱 榿木原(はんのきはら)遺跡(南滋賀1)