OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

大通寺古墳群

2022.11.16(金)。大通寺古墳群・赤塚古墳。滋賀県大津市滋賀里しがさと
大通寺古墳群
滋賀里2丁目。大通寺から西大津バイパス(湖西道路)を挟んだ北西側周辺。1968年(S43)住宅地開発に伴って調査され、西大津バイパス建設に伴って1990年代にも調査された。5世紀後半〜7世紀前半の群集墳で、40~50基程あったらしい。今は住宅地になっており大半は消滅しているようだったが、桐畑古墳群から穴太野添古墳群に歩いて向かう途中なので、ついでに寄ってみた。

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ネットから得られる大通寺古墳群の資料はあまり無かったが、1978年の「滋賀文化財だより」No11・12を参考に掲載します。

No11

http://www.shiga-bunkazai.jp/download/dayori/011.pdf

No12

http://www.shiga-bunkazai.jp/download/dayori/012.pdf

以下の図は、現在の地図と、「滋賀文化財だより」No12に掲載されていた「滋賀里大通寺古墳群分布図」(一部加工)を比べたもの。

それらしい所が住宅地内に残されている。石室石材らしいものがある以外、案内板等はない。

遠景北東望        近景北望         北西望          南西望 

    *PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

*後で下記の参考ブログがあることを知りました。ここでは「大通寺F1号墳」と紹介されています。

大通寺F1号墳【滋賀県大津市】 - ぺんの古墳探訪記

 

住宅地の西端の更に西側にある山手に登ってみた。位置的には大谷西古墳群辺り?で、真剣に探せば石室等が出てきそうな雰囲気だが・・・・・。

なお、大津周辺の古墳群の分布については、「京都橘大学 文化財調査報告 2012」(醍醐寺清瀧宮拝殿・橿原丸山古墳・鹿谷古墳群大市・茶ノ木山支群)の『第5章近江湖西地域の横穴式石室』に『図16横穴式石室を内部主体とする古墳と花崗岩の分布』があり、古墳群の分布が分かり易い。その一部を切り取ったのが以下の図で、「18」が大通寺古墳群で、「17」が大谷西古墳群です。

醍醐寺清瀧宮拝殿・橿原丸山古墳・鹿谷古墳群大市・茶ノ木山支群 - 全国遺跡報告総覧

 

赤塚古墳

大津市滋賀里3丁目1。墳丘上に倭しどり神社が鎮座する。神社由来に「赤塚古墳は東向きの前方後円墳か径30~40m・高さ2.5~4mの円墳で、5世紀前半と推定」とある。

 

桐畑古墳群(熊ケ谷古墳群)

2022.11.16(金)。桐畑古墳群(熊ケ谷古墳群) 大津市滋賀里しがさと1丁目。

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滋賀里駅から八幡神社を経由して桐畑古墳まで800m程。すぐ南西側には百穴古墳群がある。

百穴古墳群 - OSAKA-TOM’s diary

千体地蔵堂脇から北へ向かい、200m程で崇福寺へ。

     *PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

 

桐畑 1号墳

崇福寺の境内にある。

6世紀後半の径20m程の円墳で、石室は南東(案内では東)に開口する両袖式。羨道長さ6m・幅1.4m・高さ1.6m程、玄室の長さ5m・幅3.1m・高さ4m。玄室の天井石は滅失しているが、側壁を持ち送りドーム状を呈し、渡来人系と思われる。玄室内に不動尊が祀られている。

開口部          羨道                        玄門部

玄室           (奥から見て)右側壁    左側壁          天井部

玄室全景         玄門部           開口部方面  

開口部横の案内では「6基の円墳から構成され、このうち3基から横穴式石室が見つかっている」とあったが、下調べでは「桐畑古墳群は熊ケ谷古墳群の支群で、10基の円墳が確認され、うち3基で横穴式石室が確認されている」とあった。

しかし今回石室は6基確認できた。石室は基本的に南方向に開口しドーム状を呈する。

 

2号墳以降は、崇福寺西側の丘陵上にあるが、寺側からは電気柵があり行けない。寺の参道(寺標)手前へ戻り、北西方面へ50~60m上がって行くと墓地があり、そこに獣除けのフェンスがある。私有地なんだろうが、立入禁止の掲示はなく、可動式で無施錠だったので、ここから北西に上って行った。

  *写真は2022年11月。季節や経過年数により周辺の様子や目印が変わることが多いので注意下さい。

1号墳をⒶとし、以下巡った順にⒷ~Ⓘで掲載します(なお下図は大体のイメージです)。

可動式の獣除けフェンスから北西へ上って行く。

 

Ⓑ=7号墳

まず最初に見えたのが7号墳。

7号遠景北西望      近景西望          残存天井石南西望     西望  

7号墳は径10m程の円墳。ほぼ南に開口。玄室の天井部が崩れ石室内が見える。南側斜面にある本来の開口部から見ると羨道側は埋没している。長さ3.4m、玄室長2.5m・幅2m・高さ2.2m、ドーム状のの両袖式石室とのことらしい。

天井部の隙間       内部(奥壁)         本来の開口部       羨道 

   白い四角は大きさ比較のA5ファイル(約15×21cm)。以下同じです。

 

Ⓒ=おそらく10号墳

Ⓑ=7号墳から少し北西に上った所で、南側谷筋への崖っぷちに石材が見える。南側急斜面に開口部がある。羨道はやっと匍匐前進できる程度の幅しかない。長さは2mちょっと。玄室の高さも2m以上ありそうだ。

崖っぷちの石材      開口部北西望       北東望          A5ファイル=大きさ比較

羨道                                     奥壁

奥壁           (奥から見て)右側壁     左側壁          天井部(下が奥壁側)

すぐ左手(西側)に、もう一つ小さな石室が開口する。自撮り棒が差し込める程度の開口部だが、中はそこそこ広い。「京都橘大学 文化財調査報告 2012」(醍醐寺清瀧宮拝殿・橿原丸山古墳・鹿谷古墳群大市・茶ノ木山支群)の『表1-2湖西地域の石室 湖西南部地域』に熊ケ谷10号墳1号石室・2号石室のデータが掲載されている。2つの石室が並ぶこの地点が10号墳と思われる。
この辺りから更に北西に登ると、送電線の鉄塔が見える。

開口部          奥壁下部         更に北西に上る      鉄塔

*「京都」橘大学 文化財調査報告 2012」のダウンロードは以下から。

醍醐寺清瀧宮拝殿・橿原丸山古墳・鹿谷古墳群大市・茶ノ木山支群 - 全国遺跡報告総覧

 

Ⓓ=おそらく8号墳

Ⓒから北西に3~4分登ると墳丘がある。南側に回り込むと、石室石材が見える。

北西へ登る                     墳丘南西望        石材西望

隙間から石室らしき空間は見えるが、殆ど埋没している。

下の石材北西望      隙間から         上の石材北西望      隙間から  

 

Ⓔ辺り

Ⓓから更に北西の丘陵最高所へかけて墳丘らしき高まりがいくつかある。

 

Ⓕ=5号墳

ⒺからⒷ=7号墳まで戻り、北東の丘陵(鉄塔)方面に行くと、5号墳の開口部がある。

7号墳から北東へ(赤▢は何かの石標)                       5号墳開口部遠景

径10m程の円墳。南南東に開口し、羨道の長さ1.4m・幅0.8m、玄室の長さ2.4m・幅1.4m・高さ1.6mの右片袖式石室である。

開口部          羨道           玄門部          玄室

奥壁           (奥から見て)右側壁     左側壁          天井部(下が奥壁側)

 

Ⓖ=2号墳

5号墳の15~20m東側に行くと、先ず大きな天井石が目に入る。その南側下に開口部がある。開口部の南側はかなり開けており、ここを東方面に下ると崇福時なのだろう。

天井石東望        南西望           開口部遠景北望     同地点から南東望

石室は南南東に開口するが、開口部は高さ82cm・幅70cm程。羨道の長さ4.1m・幅1.2m、玄室の長さ3.1m・幅約2m・高さ3.4m、ドーム状の両袖式石室。奥壁下部に石仏5体が置かれている。

玄室

楣石                                 天井部(下が玄門部側)

玄門部               左袖               右袖

 

Ⓗ=3号墳・Ⓘ=4号墳

2号墳のすぐ北側=丘陵最高所の東に3号墳、径21m・高さ2.2m以上、木棺直葬と考えられ築造は5世紀代。3号墳の西にある4号墳は、径24m・高さ3.6mの円墳。主体部の痕跡が確認されなかったため、主体部は木棺直葬であったと推定される。詳細な築造年代は不明ながら、立地や当古墳周溝の上に3号墳の盛土がされていることなどから、3号墳に先行し4世紀に遡る可能性も考えられるらしい。

3号墳北東見上げ                           墳頂から南西見下ろし

3号墳から4号墳西望        墳頂から西望           墳頂の石標

4号墳頂から3号墳東望       2号墳見下ろし           5号墳見下ろし

1時間ほどで終わるかと思っていたが、下調べ時、進入口や各古墳の位置情報が得られず、結局2時間かかった。分かっていれば1時間で十分だろう。

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桐畑古墳群と西大津バイパスを挟んだ東側の大津市埋蔵文化財調査センターにも寄ってみた。来館記念として縄文時代の貝塚出土の貝殻を戴いた。

 

皇子山古墳群

2022.11.4(金)。皇子山古墳群(皇子山1号墳・2号墳) 大津市錦織にしこおり1丁目 皇子山(164m)頂上。国指定史跡。

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皇子山古墳のある錦織・皇子が丘地域は、38代天智天皇期の近江大津宮(667~672年)が営まれていた地だが、縄文時代の土器片が錦織やJR湖西線の大津京駅(旧西大津駅)付近から出土しており、縄文時代には人々の活動が始まっていた。弥生時代から古墳時代にかけて徐々に活動が活発になる。古墳時代前期から中期(4~5世紀)には近江で最古級といわれている皇子山1号墳等が築造される。これに続いて、6世紀後半~7世紀初めにかけて、山手の丘陵一帯に小さな古墳がいくつも造られるようになる。宇佐山の麓一帯には、30基余りの古墳(宇佐山古墳群・山田古墳群)が知られている。当地域を含めた坂本から皇子が丘にかけての同時代の古墳は大部分が横穴式石室で、しかもその他の地域とは異なったドーム状の天井を持つ。当地域一帯に居住していた渡来系の氏族(錦織・大友・穴太・三津氏等)の墓域というのが定説となっている。この渡来系氏族達が、大津宮造営に大きな力となったことは容易に推測できる。(案内板要約)

*古代朝鮮半島と倭(日本)の交流は弥生時代から盛んになると知られている。4世紀に入り、(朝鮮半島で)高句麗・百済・新羅の三国時代には朝貢使等含め、多くが渡来した。百済が660年に滅び、復興を期した663年白村江の戦いで倭・旧百済連合軍が大敗し、大勢の難民が渡ってきた。中大兄皇子(38代天智天皇)が667年近江に遷都するに当たり、造営に渡来系難民も多く駆り出されただろう。

登り口横の案内           登り口  

たかだか100m位の登り道だが、かなりキツいので、そのつもりで・・・。

皇子山2号墳

1号墳北東下の丘陵斜面にある径約20mの円墳。1号墳に到る途中に、2号墳回りのルートがある。埋葬施設は未確認だが、墳裾では幅2mの溝が検出されたらしい。墳裾から弥生時代後期の土器が大量に見つかっており、案内には『これが直接供献されたものであれば、築造年代は弥生時代末頃築造と考えられる』とある。ただ、丘陵斜面の上側を掘り込んで墳丘マウンドを成形し、墳裾に掘った溝の土で盛土整形する際、下層から掘り出した土器であれば、築造年代の参考にはならないかも?

2号墳への分岐           2号墳              案内

 

皇子山1号墳

前方部を南に向ける4世紀後半築造の前方後方墳。全長約60m、後方部長さ約35m・幅約35m・先端部幅約28m、前方部幅約28m。斜面には葺石が確認された(なお現在の葺石は復元)

東面南西見上げ           案内               後方部東面1段目南望

後方部東面2段目南望        後方部墳頂南望          南西望

後方部に4ヶ所、前方部に1ヶ所埋葬施設(粘土槨)があったようで、現在その区域が石敷きで表示されている。葺石の間の土器から4世紀後半頃と推定され、大津市内では最古級の古墳。墳丘の東側が極端に開き、更に東側面の葺石が丁寧で、琵琶湖岸から見上げた時の威容を意識したと見られるとのこと。

後方部墳頂東望           後方部北望            後方部東面北西望     

後方部から前方部南望        前方部東面北西望         前方部東面南西望   

琵琶湖の眺望

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近江大津宮錦織遺跡

近江大津宮跡の所在は江戸時代から諸説あり、論争が近年まで続いた。昭和49年、錦織2丁目の住宅地の一角での発掘調査で、大規模な掘立柱建物跡の一部が発見された。昭和53年2月には、この建物跡に連続する柱穴が発掘され、宮は錦織を中心とする地域が確実となった。その後10数地点で調査が行われ、大津宮の建物の位置もほぼ確定し、その中枢部の構造も復原されるまでに判明している。昭和54年7月に国史跡に指定。

第8地点       第1地点                             第4地点

 

宇佐山古墳群

2022.11.4(金)。宇佐山古墳群 大津市神宮町1。宇佐八幡宮の参道脇から近江神宮南側に分布する。

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財団法人滋賀県文化財保護協会による、2010年7月4日の現地説明会資料の「図1分布図」が分かりやすい。

宇佐山古墳群 現地説明会資料1(2010/7/4)

その「図1分布図」を一部加工したのが下図。

上記分布図の番号に従って、巡った順に掲載します。ただしアクセス不可能な8号墳は、最初に近江神宮時計館南側の駐車場から臨みました。13号墳発掘現場への進入口は施錠されていますが、横に案内板があります(写真加工技術で明瞭度を上げていますが、実際には殆ど読めません)。そこから「よいこのもり保育園」入園口に廻り込み、南側の側道から宇佐八幡宮へ向かいました。

8号墳遠景西望      13号墳案内         宇佐八幡宮方面へ

  *PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

宇佐八幡宮へは、麓の鳥居から350m程だが、かなり勾配がキツイのでそのつもりで・・・。また、鳥居から100m程の所に「御足形」という宇佐八幡宮の神域がある。

先ずは1・2号墳を経由して宇佐八幡宮まで登り、そこから番号順に巡る。

1号墳・2号墳

墳丘はよく分からない。多分この辺だろうと言うのが以下の写真。

1号墳辺り西望=黄〇        1.・2号墳辺り           2号墳辺り南東望=赤〇

宇佐八幡宮

舞殿(神楽殿)     中門         縁起        本殿        宇佐山城跡

3号墳・4号墳

3号墳辺りにそれらしい墳丘は見当たらないが、4号墳は墳丘が確認できる。

3号墳辺り北望            4号墳南東望           4号墳見返り

5号墳・6号墳

4号墳から、南東に延びる尾根を下って行く。

5号墳南東望        5号墳見返り       6号墳南東望        6号墳見返り 

13号墳・9号墳

6号墳の東側に開けた空地があり、13号墳辺りが望める。13号墳からは2010年6月に、5世紀前半の古墳の箱式石棺と、赤く染まった成人男性の頭蓋骨等が見つかっている。

詳細は前掲の「財団法人滋賀県文化財保護協会による、2010年7月4日の現地説明会資料」を参照下さい。

13号墳南東望       13号墳東望        9号墳方面東望      9号墳北西望  

10号墳・7号墳

殆ど下りきった辺りに10号墳らしき僅かな高まりがあり、南東下側には「よいこのもり保育園」が見える。6号墳まで一旦戻り、西南西の7号墳へ。

10号墳南東望            7号墳東望            7号墳北東望

11号墳・12号墳

7号墳から西南西に11号墳。横に「御足形」の赤い結界柵が見える。12号墳は、場所は分かり易いが古墳とは気付かないだろう。

11号墳北西望       11号墳南東望       11号墳東望        12号墳東望

山林斜面の群集墳は、密集せずバラけている場合、分布図があっても方向を見失い易いので、コンパスは必携かも。また雨の日の翌日はぬかるむので、避けた方がよいと思います。当然、笹や蚊の盛んな夏場も避けるべきです。

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近江神宮

38代天智天皇が主祭神。全国16勅祭社の一社。ご鎮座はS15年11月7日、R2年11月で80周年を迎えているそうだ。

時計館 天智期671年、大津京では漏刻(水時計)を設置し、鍾鼓で時を知らせたという日本書紀の記事がある。S58年わが国最初の時計博物館が設けられ、H22年「時計館宝物館」として改装。1階時計館には高松宮家から下賜された最古級の懐中時計や各種和時計等古今東西の時計を展示している。

 

福王子古墳群

2022.11.4(金)。福王子古墳群 大津市南志賀2丁目19 福王子神社境内等

福王子古墳群は6世紀中頃~後半の円墳が10数基確認されているそうだが、正興寺北側の福王子神社境内にミニチュア炊飯型土器等が出土した石室が、何基か遺存する。

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福王子神社参道北望        拝殿西望             本殿西望

  *PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

巡った順に付番したのが下図。

は拝殿南側(正興寺との間)に大きめの石材がある。正式には10号墳

Ⓐ社殿南側石材西望                           南望

は拝殿の北側、南東に開口する結構大きな右片袖式の石室で、玄室の側壁と奥壁が遺存する。玄室は長さ3m・幅2.5m程で、本来の奥壁の高さは軽く2m以上あったようだ。側壁と奥壁の接合部に丸みがありドーム状らしい。正式には2号墳

Ⓑの北東角にあるは、小さめの石材が積み重なっているだけで、Ⓑのものだろう。

Ⓑ社殿から北へ                            Ⓑ北西望

天井石が全て滅失しているが、却って石室の平面構造を俯瞰できて、これはこれで問題なし。当然、羨道の笹を掻き分けて行けば入室できるが、俯瞰でも充分だった。

Ⓑ(奥から見て)左側壁   Ⓑ奥壁           Ⓑ右側壁         Ⓒ石材

Ⓑの少し西側に、大きめの石材が1個あるのが

は、Ⓓの西側に隣接する玄室石組の残存で、南東に開口していた玄室の下部のみが残る。写真の黄〇が奥壁部、赤〇が右片袖石と羨道閉塞小礫らしい。玄室の(奥から見て)右側壁と羨道部は滅失している。正式には1号墳

Ⓓ西望          Ⓓ南望          Ⓔ南望          Ⓔ南東望

もそこそこ大きな右片袖式の石室で、ほぼ南東に開口。玄室の側壁と奥壁が遺存し、天井石もかろうじて1個残っている。玄室長さ3m強、幅2.5m、高さ2m以上。ここも羨道の笹を掻き分ければ入室できる。正式には6号墳。  

Ⓕ西望               Ⓕ俯瞰              Ⓕ奥壁

は、ⒷやⒻと同じ位の規模の両袖式石室で、ほぼ東に開口。玄室の側壁・奥壁以外に、玄門部の楣石まぐさいしらしき石材と、玄室天井石1個が残っている。羨道は玄門部から開口部に向かって「ハ」の字形に開いている(Ⓑ・Ⓕも同様)。奥壁側の隙間から見ると、左袖部幅は小さく20~30㎝、右袖部が80cm程。玄室は長さ3m弱・幅2.5m程・高さ2.5m程。正式には8号墳

Ⓖ南西望              Ⓖ西南西望            Ⓖ羨道俯瞰

Ⓖ奥壁               Ⓖ東望             Ⓖ隙間から玄門部=袖部見下ろし

福王子神社北側奥の階段下からも石材らしきものが見える(多分Ⓔ)。ここから、谷道を挟んだ大伴黒主神社に行ける。

大伴黒主神社へ          Ⓗ東望見上げ            大伴黒主神社参道

なお詳細史料として、1969年滋賀県教育委員会作成の「滋賀県文化財調査報告書」の「第 2章福王子古墳群発掘調査報告」があります。詳しく知りたい場合は、下記のPDFファイルを参照下さい。なお袖部等の左右は、現在一般に奥から見て表現するが、開口部から見た左右の表現となっているようです。

野添古墳群発掘調査報告・福王子古墳群発掘調査報告 - 全国遺跡報告総覧

 

大伴黒主神社にも古墳墳丘らしき所が散見される。=鳥居横の祠の中には御不動様と、もう1体安置されている。

Ⓘ北東望         Ⓘ北望          祠の仏像         黒主神社社殿北東

 

福王子神社と大伴黒主神社

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榿木原はんのきはら遺跡

福王子神社鳥居の、道を挟んですぐ南側に榿木原遺跡がある。白鳳時代から平安時代にかけての瓦窯跡10基と工房跡が、この周辺で見つかっており、現在1基がここに移設されている。

大津のかんきょう宝箱 榿木原(はんのきはら)遺跡(南滋賀1)

百穴古墳群

2022.11.4(金)。百穴古墳群。大津市滋賀里しがさと町甲。

百欠ひゃっけつ古墳群は、6世紀後半~7世紀にかけて造営され、山林の南斜面一帯に分布する。60基程が確認されており、殆ど径10m程の円墳だが、大半は封土が滅失し、石室が露出している。埋没したものを含めると100基位になるらしい。ドーム状の石室やミニチュアの炊飯土器等の副葬品から渡来人系の墓域とされる。国指定史跡。すぐ東側には熊ケ谷(桐畑)古墳群がある。

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進入口の道標    案内板

   *PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

古墳号数は不明なので、案内板設置場所を起点に、廻った順に付番したのが下図。

明確ではないが道らしきところを巡ったルート順に、3グループに分けて掲載します。なお、石室は基本的に南方面に開口しています。また、石室開口部写真にある四角いクリアファイルはA5サイズ=15.5cm×22㎝で、大きさ比較のためです(各石室等に案内はありません)

 

①~⑭(古墳群南側=下側)

開口部遠景           ①開口部近景           ①奥壁(奥から見て)左隅

①(奥から見て)右側壁        ①奥壁              ①左側壁(ドーム状がよく分かる)

開口部遠景           ②開口部近景            ②奥壁         

石材              ③石材の隙間内部        東望     

④内部北東望         北東望(立入禁止)       北東望(立入禁止)

開口部遠景           ⑦近景              ⑦残存石棺

開口部北西望     ⑧奥壁           開口部         ⑨奥壁

墳丘北東望      ⑩石材           墳丘西望        墳丘

開口部遠景           ⑬内部              ⑬奥壁

*⑭は通り過ぎてしまったようだ。

 

⑮~㉒(古墳群中央)

東望              ⑮北東望              ⑮奥壁

は群中最大規模で、奥壁と側壁の奥側半分がよく残っている。

⑯遠景              ⑯近景               ⑯奥壁下部

⑯(奥から見て)右側壁        ⑯奥壁               ⑯左側壁

開口部             ⑰内部はかなり土砂が流入

⑰開口部俯瞰南望         ⑰奥壁側北西望           ⑰隙間から右側壁と奥壁接合部

北望              ⑱下の隙間から           ⑱上の隙間から奥壁方面

⑱南望               ⑱コンパスで方向確認         ⑱コンパス

石材南西望                             ⑲北望(上の赤線がルート)

遠景東望            ⑳近景              ⑳北望

⑳隙間内部             石材北西望           石材東望

 

㉓~㉛(古墳群北側=上側)

北望           ㉓東望            北望

西望              ㉕北望               石材

北東望             北望              ㉘上(北)側の石材 

玄室天井崩壊部西望       ㉙方位確認             ㉙コンパス

㉙西側壁              ㉙奥壁              ㉙羨道側

㉙開口部             ㉙上記玄室崩壊部側が見える

西望          ㉚北望          石材北望

探して、撮影して、場所等の記録を取って約2時間半。ただ見て歩くだけなら、1時間掛からないかも?

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百穴古墳群への道標から、150m西に進むと左手に磨崖仏がある。更にそこから西に70m程に御堂があり、志賀大仏が安置されている。

見世・阿弥陀磨崖仏 

志賀の大仏

高さ約3.5m・幅約2.7mの花崗岩を彫り出した、高さ3.1mの阿弥陀如来坐像で、13世紀頃につくられたと考えられている。御堂の横を通る道は、崇福寺(大津宮遷都翌年=668年、天智天皇建立)跡を経て、京都(左京区)北白川へ抜ける「旧山中越」とのこと。

 

木の岡古墳群

2022.10.25(火)。木の岡このおか古墳群。滋賀県大津市木の岡町。本塚古墳・首塚古墳・新塚古墳・御前塚古墳・茶臼山古墳。少し南側に車塚古墳がある。

本塚古墳(または丸山古墳)=Ⓐ・首塚古墳=Ⓑ・新塚古墳=Ⓒ・御前塚古墳=Ⓓ・茶臼山古墳=Ⓔ、車塚古墳=Ⓕ。

本塚古墳(丸山古墳)

上図Ⓐ。宮内庁により倭姫王(やまとひめのおおきみ=38代天智天皇皇后=7世紀後葉)の「下坂本陵墓参考地」に治定されている。丘陵頂部(標高140m程)にある帆立貝形古墳で、墳長73m・高さ10m、前方部長さ18m・幅38m・高さ1.5m、2段築成で葺石あり(埴輪はない)。木の岡古墳群は5世紀代と推定され、倭姫の時代とはかなりズレがあるようだ。

参道入口              案内               参道

    *PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

参道                制札               拝所

首塚古墳

上図Ⓑ。円墳だが詳細不明。下坂本陵墓参考地飛地ろ号に治定されている。そのため墳丘は柵で囲われている。

北望                南望見上げ

新塚古墳

上図Ⓒ。割と大きな円墳だが詳細不明。下坂本陵墓参考地飛地ほ号に治定されている。

北東望                       制札           北西望

御前塚古墳

上図Ⓓ。児童公園の北側にある。円墳らしいが詳細不明。下坂本陵墓参考地飛地い号に治定されている。

北東望                        制札           東望

茶臼山古墳

上図Ⓔ。下坂本陵墓参考地飛地は号に治定されている。5世紀代の前方後円墳で、墳丘長83m、後円部径39m、前方部長さ48m・幅23.5m・高さ3.6m。空堀と葺石・埴輪が確認された。木棺直葬か粘土槨と推定されているらしい。S53年(1978)前方部北側の発掘調査で、幅5m・深さ1mの周濠が確認され、壺形土器が出土したとのこと。

北望                制札               前方部北東端北西望

東面南西望             後円部北西望           案内

車塚古墳

上図Ⓕ。大津市比叡辻2丁目17。下坂本陵墓参考地飛地に号に治定されているが、厳密には車塚古墳群。径25m・高さ3.3mの円墳。

遠景南西望        南西望           南東望          制札

*車塚古墳付近に鹿道古墳(径14m程の円墳)があったが、場所が特定されていないらしい。