OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

皇子山古墳群

2022.11.4(金)。皇子山古墳群(皇子山1号墳・2号墳) 大津市錦織にしこおり1丁目 皇子山(164m)頂上。国指定史跡。

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皇子山古墳のある錦織・皇子が丘地域は、38代天智天皇期の近江大津宮(667~672年)が営まれていた地だが、縄文時代の土器片が錦織やJR湖西線の大津京駅(旧西大津駅)付近から出土しており、縄文時代には人々の活動が始まっていた。弥生時代から古墳時代にかけて徐々に活動が活発になる。古墳時代前期から中期(4~5世紀)には近江で最古級といわれている皇子山1号墳等が築造される。これに続いて、6世紀後半~7世紀初めにかけて、山手の丘陵一帯に小さな古墳がいくつも造られるようになる。宇佐山の麓一帯には、30基余りの古墳(宇佐山古墳群・山田古墳群)が知られている。当地域を含めた坂本から皇子が丘にかけての同時代の古墳は大部分が横穴式石室で、しかもその他の地域とは異なったドーム状の天井を持つ。当地域一帯に居住していた渡来系の氏族(錦織・大友・穴太・三津氏等)の墓域というのが定説となっている。この渡来系氏族達が、大津宮造営に大きな力となったことは容易に推測できる。(案内板要約)

*古代朝鮮半島と倭(日本)の交流は弥生時代から盛んになると知られている。4世紀に入り、(朝鮮半島で)高句麗・百済・新羅の三国時代には朝貢使等含め、多くが渡来した。百済が660年に滅び、復興を期した663年白村江の戦いで倭・旧百済連合軍が大敗し、大勢の難民が渡ってきた。中大兄皇子(38代天智天皇)が667年近江に遷都するに当たり、造営に渡来系難民も多く駆り出されただろう。

登り口横の案内           登り口  

たかだか100m位の登り道だが、かなりキツいので、そのつもりで・・・。

皇子山2号墳

1号墳北東下の丘陵斜面にある径約20mの円墳。1号墳に到る途中に、2号墳回りのルートがある。埋葬施設は未確認だが、墳裾では幅2mの溝が検出されたらしい。墳裾から弥生時代後期の土器が大量に見つかっており、案内には『これが直接供献されたものであれば、築造年代は弥生時代末頃築造と考えられる』とある。ただ、丘陵斜面の上側を掘り込んで墳丘マウンドを成形し、墳裾に掘った溝の土で盛土整形する際、下層から掘り出した土器であれば、築造年代の参考にはならないかも?

2号墳への分岐           2号墳              案内

 

皇子山1号墳

前方部を南に向ける4世紀後半築造の前方後方墳。全長約60m、後方部長さ約35m・幅約35m・先端部幅約28m、前方部幅約28m。斜面には葺石が確認された(なお現在の葺石は復元)

東面南西見上げ           案内               後方部東面1段目南望

後方部東面2段目南望        後方部墳頂南望          南西望

後方部に4ヶ所、前方部に1ヶ所埋葬施設(粘土槨)があったようで、現在その区域が石敷きで表示されている。葺石の間の土器から4世紀後半頃と推定され、大津市内では最古級の古墳。墳丘の東側が極端に開き、更に東側面の葺石が丁寧で、琵琶湖岸から見上げた時の威容を意識したと見られるとのこと。

後方部墳頂東望           後方部北望            後方部東面北西望     

後方部から前方部南望        前方部東面北西望         前方部東面南西望   

琵琶湖の眺望

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近江大津宮錦織遺跡

近江大津宮跡の所在は江戸時代から諸説あり、論争が近年まで続いた。昭和49年、錦織2丁目の住宅地の一角での発掘調査で、大規模な掘立柱建物跡の一部が発見された。昭和53年2月には、この建物跡に連続する柱穴が発掘され、宮は錦織を中心とする地域が確実となった。その後10数地点で調査が行われ、大津宮の建物の位置もほぼ確定し、その中枢部の構造も復原されるまでに判明している。昭和54年7月に国史跡に指定。

第8地点       第1地点                             第4地点