OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

高峰古墳

2022.10.25(火)。高峰古墳。大津市日吉台4丁目日吉台第10号公園

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平石古墳の北東150m、「古墳通」に面する公園内に1号墳・2号墳が保存されている。弥生時代中期末の竪穴建物跡と古墳2基の複合遺跡で高峰遺跡が本来の呼称。

1号墳は前方部を東に向けた全長45mの前方後円墳。埴輪や葺石が確認され、古墳時代中期と思われる。

道標           1号墳後円部北望見上げ   南望           西望

    *PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

案内           前方部近景西望      後円部西望        後円部から前方部東望

東側の2号墳は、径18m・高さ3mの円墳で、現在の墳頂は平坦。埋葬施設は木棺直葬で、副葬品は発見されなかった。墳頂から東側を見ると前方部の様に見えるが、案内板の地形図では、単なる小高い平坦地のようだ。

2号墳南東望        東望                        墳頂から東望

古墳と重複する位置に竪穴建物跡があり、高地性集落(標高120m前後)で、周囲に防御用の環濠が巡っていたらしい。建物内では巨大な砥石や未完成の鏃が発見されている。

すぐ南側には木の岡このおか古墳群があり、琵琶湖を望む高台の日吉台一帯は平石古墳含め、大規模な群集墳を形成していたのだろうか?

平石古墳

2022.10.25(火)。平石古墳 滋賀県大津市日吉台1丁目。

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日吉台第3号公園に保存されている7世紀後半の方墳。施錠されており、見学するには大津市の文化財保護課に事前連絡が必要とのこと(077-528-2638=後記案内写真参照)。

木の岡このおか丘陵の背尾根筋に造られた、横口式石槨をもつ古墳時代終末期の方墳(標高140m)。石槨の形式が奈良県飛鳥の高松塚古墳や志賀町の小野妹子墓と類似しているらしい。追葬施設に副葬された土師器から7世紀後半築造と考えられている。石槨の規模は幅1.4m、残存長3.37m。墳丘は南北5m・東西14m。墳頂に露出した石室が保存されている。

公園北東望                     北側の登り口       案内

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石槨保存区域                    注意書き         墳頂部北望見上げ

 

袋古墳群

2022.10.25(火)。袋古墳群・鶏塚。滋賀県大津市坂本6丁目。

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日吉大社の東本宮裏山にある日吉古墳群から北へ450m行った所に八講堂千体地蔵がある。

日吉古墳群から北へ   琵琶湖西望          八講堂千体地蔵

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袋古墳群

千体地蔵から直線距離で東へ350m(行程500m)。大津市坂本6丁目12。平成10年の発掘調査で発見され、現在古墳公園となっている。3基とも石室は埋め戻され、1号・3号は墳丘様に復元されている。詳細は案内写真を確認下さい。

古墳群南東望       入口            案内

1号墳南望      案内        墳頂        2号墳跡北望     案内  

3号墳北東望       案内            墳頂           墳頂から琵琶湖

なお、千体地蔵から県道47号線を北に行くと西教寺がある。明智光秀ゆかりの寺で、天台真盛宗しんせいしゅうの総本山だが、西教寺前交差点の西側住宅地内に獄古墳(だけこふん=交差点から300m程=坂本8丁目19)が存在した。

鶏塚にわとりづか

大津市坂本6丁目34。坂本市民体育館の北側の公園内にある。詳細は案内写真を確認下さい。

遠景東望         北東望          近景北東望        北西望 

案内           北西望          西望           公園西望見上げ

 

日吉古墳群

2022.10.25(火)。日吉ひよし古墳群は滋賀県大津市坂本5丁目にある日吉大社東本宮の裏山周辺に広がる。

*なお「日吉」はかって「ひえ」と読んだが、第二次世界大戦後は「ひよし」を正式の読みとしているとのこと。

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なお、後述の(⑤)の高札にあったが、本来は日吉大社に立入り許可を得ないといけなかったのだろう。後になりましたが無許可での立入り謝罪いたします。

京阪坂本比叡山口駅から                古墳群の配置イメージ図

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*配置イメージ図は、記憶を辿って作ったもので正確ではありません。また点線のルートはハッキリ道らしいものがある訳でなく、距離は目安です。

 

東本宮への参道左脇に「連理の枝」というスポットがある。別々に生えた木の枝が途中で繋がっており、縁結びの象徴とのこと。そこから東本宮手前で、北に向かう。

日吉大社東本宮へ     連理の枝                      日吉古墳群へ

東本宮手前から北に向かう道の左手に「日吉大社古墳群」の標識があり、ここが進入口。黄色のプラスティック鎖があるが、施錠されてはいない。これを越えると、右手に大きな窪みがある。石室の堀形(石室石材の設置敷地)の様だ。

見返り          進入口                       大きな窪み

   *写真は2022年10月。季節や経過年数により周辺の様子や目印が変わることが多いので注意下さい。

窪みを越えて左手=東本宮側に行くと、露出した石室石材が積み重なっている所がある(①)。その石材の後ろ(北西側)にも、石材の積み重なっている所(①’)がある。

①西望          ①’北望          ①’西望 

本線に戻り、暫く進むと、左手に大きな石材(②)。石材の手前に少し隙間があり、内部には石組らしいものが見える。

②遠景北西望       石材手前の隙間       隙間内部

後方の石材の間にも隙間がある。

後方の石材        別角度から                      隙間内部

②から本線に戻り、更に北西に進む。暫く行くと左手(西側)の東本宮北端方向へ向かう道があり、その北側にがある。天井石は滅失している。

本線見返り     北西へ進む      ③方面        ③  

③俯瞰          ③奥壁下部        上部            全体

③(黄〇)から7~8m西奥にがある。ここも天井石が滅失している。

④俯瞰(右=奥壁)      奥壁           (奥から見て)左側壁    右側壁

右片袖式の様であるが、玄室・羨道とも、結構土砂が埋まっている。

奥壁            羨道側                       羨道

少し南側に、本来の開口部らしき隙間がある。奥壁部分が僅かに見える。

東本宮北端から北に向かう道があり、掘り出された?石材が多数積み重なっている。

東本宮北端方面      東本宮北端       東本宮北端から北へ

さらにその北西奥にも群集墳らしきものが見受けられるが、よく分からない。本格調査をすればもっと見つかりそうだが・・・。

 

進入口に戻り、北へ20m程行った左手にが開口している。

⑤方面          見返り           ⑤

⑤開口部                                    玄室全景

天井部は渡来系墳墓の特徴であるドーム状になっており、天井石は滅失している。

参考までに、日吉神社東本宮側から見た日吉古墳群と西本宮へ向かう参道の大宮橋西側右手にある石室開口部を最後に掲載します。

奥の早尾神社横から北望  拝殿横から北東望     西本宮参道の大宮橋案内  開口部



 

大津市の比叡山東麓から琵琶湖西岸に挟まれた地域には古墳群が多数ある。坂本近辺には、古墳時代中期=5世紀から終末期=7世紀後半(38代天智期=大津宮)当時の古墳があり、渡来系の古墳も多く見られる。古代朝鮮半島と倭(日本)の交流は弥生時代から盛んになると知られているが、百済が660年に滅び、復興を期した663年白村江の戦いで倭・旧百済連合軍が大敗し、大勢の難民が渡ってきた。中大兄皇子(38代天智天皇)が667年近江に遷都するに当たり、造営に渡来系難民も多く駆り出されたのだろう。

眞葛原古墳群

2022.10.25(火)。眞葛原まくずがはら古墳群は滋賀県大津市坂本4丁目~5丁目にあったとされるが、今は「幸塚さいわいづか」とか「伝教大師の胞衣えな」とも呼ばれる塚と石材が見られるのみ。

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京阪石山坂本線の坂本比叡山口駅から日吉大社への参道沿いにある。

坂本比叡山口駅      周辺案内         日吉大社方面西望     幸塚=胞衣塚西望 

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幸塚=胞衣塚の東側にある石材

幸塚=胞衣塚   東望                       西望

考古学的には、眞葛原古墳群は、北側にある日吉古墳群と同一墓域だったと思われる。

ここから少し西に行くと、比叡山へのケ-ブル坂本駅があり、まさに比叡山の東麓。天台宗・延暦寺の開祖最澄=伝教大師は、坂本比叡山口駅北側の生源寺で生まれたとされる。胞衣とは出産後に排出される胎盤・羊膜・臍帯等で、伝教大師出産時の胞衣が埋められている???

大和古墳群

天理市萱生かよう町・中山町・成願寺じょうがんじ町辺りに点在する。

天理市萱生町・中山町周辺。ノムギ古墳・ヒエ塚古墳・クラ塚古墳・波多子塚古墳・西山塚古墳・二ノ瀬池古墳・西殿塚古墳(衾田陵)・火矢塚古墳・燈籠山古墳・中山大塚古墳・小岳寺塚古墳

天理市成願寺町周辺。マバカ古墳・馬口山古墳・星塚古墳・フサギ塚古墳・栗塚古墳・下池山古墳・平塚古墳・矢ハギ塚古墳・マトバ古墳・弁天塚古墳

山の辺の道沿いの古墳群案内             分布      

     *PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

天理市萱生町・中山町周辺

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ノムギ古墳

天理市佐保庄町。古墳時代前期前半(3世紀後半~4世紀前半)の前方後方墳。

東西に主軸、前方部を西に向ける。墳丘は現状で全長63m。後方部の周囲には幅10~14mの周濠がめぐっていた。周濠跡から大量の古式土師器や鰭付円筒埴輪、須恵器が出土したとのこと。出土した土器から大和古墳群に分布する前方後方墳の中では、築造時期が最も遡る古墳と考えられるとのこと。2019年7月17日(水)訪問。

遠景北西望     後方部近景北望    南側前方部方面西望  案内

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ヒエ塚古墳

天理市萱生町。古墳時代前期前半の前方後円墳。

県道51号線を挟んでノムギ古墳の東側にある。西向きの前方部は果樹園になり、くびれ部上を農道が横切っている。全長130m。外提部の溝跡から大量の古式土師器が出土したとのこと。2019年7月17日(水)訪問。

前方部北望        後円部北望       全景北望         後円部とくびれ部南望

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クラ塚古墳

天理市萱生町。ヒエ塚の南東約100m程、道を挟んだ南側。径30m程の円墳らしいが、未調査の為詳細不明。2019年7月17日(水)訪問。

波多子塚古墳

天理市萱生町。3世紀後半~4世紀前葉、全国最大級の前方後方墳。

全長約140m。特殊器台型の埴輪で知られていたが、1998年発掘調査では古墳北側に周濠が見つかり多量の埴輪が出土したとのこと。2019年7月17日(水)訪問。

後方部南東望       北望           すぐ東側の山の辺の道沿いに案内がある

西山塚古墳

下記参照下さい。

西殿塚古墳 - OSAKA-TOM’s diary

二ノ瀬池古墳 

天理市萱生町大仏芝ノ内。前方部を北方向に向ける前方後円墳。全長約44m、後円部高3m・前方部高3m。二ノ瀬池の周辺は奈良県の「まほろば眺望スポット百選」。墳丘は果樹園となっている。2022.10.6(木)訪問。

二ノ瀬池                                   二ノ瀬池古墳北望

火矢塚ひやづか古墳 

天理市中山町。後述の西殿塚古墳(衾田陵)西側の果樹園内の農道沿いにある。前方部を南に向ける前方後円墳で、全長49m、後円部径約30m・高さ3.5m、前方部幅約26m・長さ20m・高さ2mとのことだが、殆ど果樹園になっている。埋葬施設・出土遺物・築造年代等不明。2022.10.6(木)訪問。

墳丘東望         後円部西望        後円部墳裾南西望     衾田陵西側農道南望   

西殿塚古墳(衾田陵)・燈籠山古墳・中山大塚古墳

下記参照下さい。

西殿塚古墳 - OSAKA-TOM’s diary

小岳寺塚しょうがくじづか古墳

天理市中山町。中山大塚古墳のある大和おおやまと神社御旅所南端から西に入る。前方部南西向き、全長45m、後円部径約25m・現状高さ5.4m、前方部幅約20m・現状高さ約5.4m。埋葬施設・出土遺物・築造年代等不明。2022.10.6(木)訪問。

小岳寺塚方面       墳丘南望         後円部墳頂から南望    南東望 

 

天理市成願寺町周辺

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マバカ古墳

天理市成願寺町。3世紀代の前方後円墳。前方部が西向きで、現全長約74m、後方部径約43m・高さ約7m、前方部幅約26m・高さ2m。クビレ部を農道が斜めに横切る。周濠痕跡あり。2002年に県道建設に伴い墳丘一部調査。墳丘西側の前方部に接する所で濠状の区画と池状の落ち込みが見つかり、出土した庄内式土器片から纒向石塚・纒向勝山古墳(3C前半?)に近い時期の可能性があり、「最古の前方後円墳」の期待が高まった。

2004年には北側隣接地の河川跡の上層でも古墳時代後期の須恵器、下層で古墳時代前期の埴輪片、濠跡でも濠の堆積土から古墳時代初期の土師器が少量出土。未だ築造時期を決定付けるまでには至っていないらしい。2022.10.6(木)再訪。

遠景東望         後円部南東望       前方部西望        くびれ部北西望

馬口山ばぐちやま古墳・星塚古墳

下記参照下さい。

馬口山古墳周辺 - OSAKA-TOM’s diary

フサギ塚古墳

天理市成願寺町。古墳時代前期?110mの前方後方墳。前方部一部が発掘されたが遺物は出土せず詳細不明とのこと。2019年7月17日(水)訪問。

フサギ塚後方部北望        案内               同左全景南望 

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栗塚古墳・下池山古墳

下記参照下さい。

下池山古墳周辺 - OSAKA-TOM’s diary

平塚古墳

天理市成願寺町。3世紀後半?の円墳。径45~55m・現状高さ約1.5m。その他埋葬施設等不明。大和おおやまと古墳群は主な古墳が50基近くあったが、円墳は比較的少なく、当古墳はかなり大型の円墳で、古墳群中では最大。現状は削平され一面が果樹園となっている。2022.10.6(木)訪問。

大和神社の星塚古墳から      遠景北東望             北望  

矢ハギ(矢矧)塚古墳

天理市成願寺町。前方部が西南西向きの前方後円墳で、全長約105m(復元長約120m)、後円部径46m(復元長約70m)、前方部幅約40m(復元幅60m)。周壕なし。築造年代・埋葬施設不明。墳丘全体は果樹園になっている。2022.10.6(木)訪問。

周辺地図       後円部南望     北側東望      前方部北側南東望   遠景東望 

マトバ古墳

天理市成願寺町。円墳で墳丘径30m(復元長50m?)。年代等詳細不明。果樹園になっており、墳丘を畦道が南北に通る。2022.10.6(木)訪問。

黄=マトバ 赤=弁天塚   南西望          南望

弁天塚古墳

天理市岸田町。前方部を西に向ける前方後円墳で、推定全長約70m、後円部径約40m、前方部幅約30mだが大半削平されている。埋葬施設・出土遺物・築造年代不明。

マトバ古墳を北から南に抜け、畦道を辿ってショートカットできる。

             遠景南西望        西望           近景南西望

 

別所大塚古墳周辺

天理市豊田とよだ町・別所町。別所大塚古墳豊田トンド山古墳豊田狐塚古墳別所鑵子塚古墳。2022.10.6(木)。

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石上大塚古墳方面から。

別所大塚古墳

天理市別所。6世紀代の前方後円墳。前方部を北東方向に向け、全長約125m、後円部は 2段築成で、径85m・高さ14m、前方部も2段築成で、幅105m・高さ15m。墳丘の北側半分のみ周濠を築く。石室は破壊されているが、石室内部に石棺が存在しており、内部から金銅製の鈴や鏃、鎧、大刀、土器、人骨などが出土したと言われる。
写真は2019年7月のもので、季節や経過年数により周辺の様子や目印が変わることが多いので注意ください。

進入口西望                北東へUターン  

      *PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

後円部西望        前方部南東角        前方部北西望

後円部方面                     後円部周濠・外提北望   墳丘北西側北東望

 

豊田トンド山・豊田狐塚古墳は特定できませんでしたが、一応情報のみ掲載します。

豊田トンド山古墳

天理市豊田町。7世紀前半の円墳。豊田町集落北側=別所丹波市線の道路延伸工事区域の北側、集落を見下ろす丘陵頂上辺り(標高114m)。径30m程度。両袖式の横穴式石室で、天井石と側壁一部は滅失し、全長約9.4m、羨道長約4.5m・玄門幅約1.7m、玄室長約4.9m・奥壁幅約2m・高さ2.6m。床面には長径30㎝程度の床石が敷き詰められていた。調査時、玄室内を中心に二上山凝灰岩片が多数見つかった。羨道床面にはベンガラで赤く変色した部分があり、付近から鉄釘が多数見つかっているため、羨道部には木棺が追葬されていた可能性がある。盗掘を受けていたが土師器・須恵器のほか鉄製品(鉄鏃、太刀の破片)等が出土した。立地条件や石室規模から見て布留遺跡に関わる有力な首長墓とみられる。調査後埋め戻されている。

詳しくは下記を参照下さい。

豊田トンド山古墳現地説明会資料(平成27年5月2日開催)/天理市

豊田神社前から東へ   フェンス端から北東に登って行く

分岐         目印の少し先から南東に登る        墳丘?

豊田狐塚古墳

天理市豊田町。6世紀中頃の円墳。豊田トンド山古墳の南東約100mにあり、径20m程度。両袖式の横穴式石室が南方向に開口しており、調査区内に玄室全体と羨道の一部が含まれていた。両袖式の横穴式石室で、玄室は全長約4.4m・奥壁幅約2.2m・高さ約2.2m。羨道は玄門の幅約0.8mで、調査区内では長さ約1mのみを確認した(本来はもっと長い)。盗掘を受けているものの、鏡・馬具・玉類等多数の副葬品が出土。床面には木質が残存する箇所があり、少なくとも3基の木棺(推定)が安置されていた可能性があるとのこと。豊田集落の家並みを抜け(巻頭図参照)、豊田狐塚古墳の南側に回り込むが、墳丘への道は施錠されており、先には行けず、墳丘方面を眺めるだけだった。

詳しくは下記を参照下さい。

豊田狐塚古墳現地説明会資料(平成28年4月9日開催)/天理市

墳丘南側から北望     施錠された鉄柵      墳丘方面

別所鑵子塚古墳

天理市別所。6世紀前半の前方後円墳。前方部をほぼ北に向け、全長57m、後円部径31m・現状高5.5m、前方幅43.5m・高さ5.5m。周濠痕跡あり。葺石、埴輪あり。造出しの痕跡もあり。埋葬施設は未調査で詳細不明。2015年発行の「天理の古墳100(天理市教育委員会)」には、「後円部は板石を組合せた組合式石棺らしく、前方部にも石棺の長測板と思われる2枚の板石が確認されている」とある。円筒埴輪片が出土。駐車場内なので墳丘はよく確認できるが・・・。

遠景北望         後円部近景北望       西望           前方部西望