OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

石上大塚古墳周辺

天理市岩屋町~石上いそのかみ町。ハミ塚古墳、岩屋大塚古墳、ウワナリ塚古墳、石上大塚古墳。2022.10.6(木)再訪。

]

ハミ塚古墳

天理市岩屋町。6世紀末~7世紀初の方墳。元は東西48.8m・南北45.6m。奈良県下の終末期古墳としては、石舞台古墳(高市郡明日香村島庄、外堤含め辺約80m)、カナヅカ古墳(高市郡明日香村平田、辺約35m、2段築成)と共に最大級。周濠痕跡あり。巨大な花崗岩切石で構成される両袖式の横穴式石室が南に開口する。現存長12m、羨道現存長5m・幅1.8m、玄門幅3.44m、玄室長5.7m・奥壁幅2.92m。玄室床面には平らな石の上に、白と黒の玉砂利を厚さ5~10㎝に敷きつめ、その上に兵庫県加西市の長石(おさいし。竜山石?)製の刳抜式家型石棺(縄掛突起6個)を置いていた。石室内面と石棺表面には、(朱ではなく)漆喰が塗られていた。須恵器片・土師器片・金環2・捩環頭太刀ねじりかんとうたちの鉄地銀張り環頭片・刀装具と思われる金銅製品2・長頸鏃片等出土。白黒の玉砂利、白い漆喰等は、陰陽道や道教の影響が見られるとのこと。今は埋め戻され、コンクリートで補強され、羨道部の一部石材が見えるのみ。

開口部北望        西側羨道石材       東側羨道石材        案内   

      *PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

岩屋大塚古墳

天理市岩屋町~櫟本いちのもと町。6世紀前半の前方後円墳。前方部を東に向け、現全長76m(本来100m超の規模と言われる)。復元後円部径60m・高さ6.5m、前方部幅42m・高さ約3mで、2段築成らしい。名阪国道側道の整備時に墳丘南側半分が削られ、後円部の一部が残るのみ。同時に後円部の横穴式石室、前方部にも在ったとされる横穴式石室や石棺も消滅している。

残存墳丘西望       残存後円部北望                    前方部から西望

ウワナリ塚古墳

天理市石上町。6世紀中頃~後半の前方後円墳。石上・豊田古墳群を構成する古墳の1つ。石上大塚古墳と並ぶように築かれている。前方部をほぼ北に向け、前方部北西隅に方形の張り出し部があり、前方部の東・北・西面を円筒埴輪を伴う平坦面が囲み、この部分を含めると総長約128mになる。墳長110m、後円部径68m・高さ16m、前方部幅80m・高さ14m。後円部に花崗岩の巨石で築いた全長約10.4mの横穴式石室が残り、現在も南向きに開口。東側の葡萄畑の横を通って登るルートと、西側の石上大塚古墳との間から登るルート(下記参照)があります。
写真は2019年7月のもので、開口部は施錠されていました。季節や経過年数により周辺の様子や目印が変わることが多いので注意ください。

東側ルート登り口         進入口      石室方面

開口部南望        施錠部分         羨道から玄室

石上いそのかみ大塚古墳

天理市石上町。6世紀中頃~後半の前方後円墳。石上・豊田古墳群を構成する古墳の1つ。石上北低区配水池から東進し、分岐を北に向かう山の辺の道の途中に登り口がある。前方部は北向きで全長107m、後円部径67m ・高さ14m、前方部幅82m・高さ約14m、各2段築成。北・西・南に空濠が残る。西側に造出し(東側にもある可能性あり)。葺石、埴輪あり。後円部南側に片袖式の横穴式石室の下半分が遺存する。玄室長6.3m・幅2.8m・高さ推定3.8m(残存2.8m)。現状は1段目の石材が見える程度。凝灰岩製の石棺片が出土している。東側に隣接するウワナリ塚古墳に後続して築造されたらしい。県下後期古墳ではウワナリ塚と共に(五条野)丸山古墳に次ぐ規模。玄室はウワナリ塚より少し小さく、石材から物部氏関連の有力者との説もある。

石上大塚古墳方面             分岐道標(黄=ウワナリ塚、赤=山の辺の道)

後円部西望      山の辺の道     南側の道標     北側の道標

登り口        石室方面

残存石室北望                                    後円部東望

 

和爾小倉谷古墳群

天理市和爾わに町小倉谷。白川ダム入口にある和爾小倉谷古墳群。2022.10.6(木)。

]

奈良市高樋町の弁天塚古墳からの続き。

白川ダム建造で、ダム北端にあった古墳群を、現在の古墳公園に移築。6世紀前半~7世紀中頃の古墳群。1号墳=6世紀前半の径16mの円墳。南に開口する片袖式の横穴式石室で全長3.3m程。羨道部に排水溝も確認。天井石は滅失していたが、石室床から須恵器の杯・鉄刀・鉄鏃が出土。2号墳=7世紀前半、辺約14mの方墳。花崗岩を切石状に加工した石室は全長8.5m、玄室長3.7m・幅1.7mで小倉谷古墳群では最大規模。須恵器のみ出土。3号墳=7世紀中頃の辺7mの方墳で、2号墳の半分。羨道部は滅失し、全長約5.8m。発掘時に玄室床が二重になっていたと判明しており、下面が石敷き、上面が砂利敷きで、追葬時に砂利が敷かれた模様。追葬は7世紀末か8世紀初め。

白川ダム北端南望     南望             案内          1号墳案内

  *PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

2号墳方面         案内  

2号墳方面        2号墳石室         俯瞰           3号墳石室  

 

栗塚古墳周辺 

奈良市高樋たかひ町の割塚古墳、栗塚古墳、弁天塚古墳。2022.10.6(木)。

]

割塚古墳

奈良市高樋町。古墳時代前期~中期(4世紀後葉~5世紀)の円墳。径約30m・高さ3.8m。未調査で詳細不明。

*下の写真の「北側墳裾のテント」は、発掘現場と思いきや、椎茸栽培木の保護カバーでした。

南望           西望           北側墳裾のテント     北東望

    *PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

栗塚古墳

奈良市高樋町。古墳時代前期(4世紀中葉?)の前方後円墳。前方部を南東に向け、復元全長100m、後円部径60m(現状30m程)・高さ8m(現高3m前後)、前方部幅50m・高さ3m。現状は後円部が果樹園。前方部の北東側は殆ど畑になっており、現状の前方部幅は20m程と思われる。

南東望          南望            案内(上が南)       北西望

弁天塚古墳

奈良市高樋町。6世紀後半の円墳。径約17m。両袖式の横穴式石室で南側に開口、全長約8m、羨道長3.9m・幅1.5m・高さ1m、玄室長4.1m・幅2.2m・高さ2.1m。完全予約制の和食店の敷地内で、「予約客以外立入禁止」。知らずに訪れ、店主に許可を得ようとしたが、ケンもホロロに断られた。この店は21年目になるらしい。予約して食事をすれば見れるかも・・・?

帯解黄金塚古墳周辺

奈良市山町やまちょう~田中町の帯解狐塚古墳ベンショ塚古墳シズカ塚古墳帯解黄金塚古墳。2022.10.6(木)。

]

帯解おびとけ狐塚古墳

奈良市山町。6世紀末の円墳。奈良県遺跡地図では径10mとある。両袖式の横穴式石室が見れる。開口部は本来南側だが、笹が邪魔している。しかし玄室奥壁部が崩壊しており、ここから入室できる。石室は復元推定全長7.5m、本来の羨道長3.5m・幅1.5m・高さ1.5m、玄室長約4m・幅約2m。天井部は木の根が張り出すが高さ2mを超える。須恵器・土師器・馬具・鉄鏃が出土したらしい。

遠景南望         近景南望         進入口 

    *PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

羨道方面南望       両袖部と羨道       玄室奥壁方面北望     奥壁崩壊部

*帯解狐塚古墳東側を走る188号線を少し北東に行くと崇道天皇陵がある。

天皇陵 その十 - OSAKA-TOM’s diary

逆に少し南に行くと、円照寺への参道がある。円照寺裏山の歴代門跡の墓地辺りに、墓山1号・2号・3号墳があるが、円照寺は一般拝観しておらず寺の境内には入れない。

ベンショ塚古墳

奈良市山町。5世紀前半(帯解周辺では最古)の前方後円墳。前方部は殆ど削平され畑になっているが、ほぼ西に向く。復元全長70m、後円部径38m・,高さ5m、前方部幅42m・高さ3m。盾形周濠が巡っていたらしい。葺石なし、埴輪あり。後円部墳頂に森常稲荷神社の祠があり、埋葬施設は後円部に3基あったとのこと。第1埋葬は中央部で築造時の造営だが盗掘がひどく詳細不明。第2埋葬は南側の粘土槨。第3埋葬は東側の粘土槨。革盾・短甲・眉庇付冑や馬具等が出土。

南望        後円部参道      祠         祠南側       祠東側

シズカ塚古墳

奈良市山町。東西約17m・南北16m・高さ2mの方墳。測量以外の調査はされておらず、築造時期等不明。古書に『「シツカ」は「スズカ」の訛りで、「40代天武天皇の第1皇子=高市皇子」の第2皇子鈴鹿王の墓・・』とあるが、鈴鹿王は745年薨去。少し周辺の古墳の築造時期と合わないかも・・・。

西望           北望           南東望           Google Maps航空写真

帯解黄金塚古墳

奈良市田中町。7世紀中頃の方墳。宮内庁により「黄金塚陵墓参考地」(被葬候補者は40代天武天皇の第6皇子=舎人とねり親王)に治定されている。舎人親王は735年薨去なので、築造年代と1世紀程開きがある。奈良市埋蔵文化財調査では33代推古~34代舒明天皇時代の皇族か、トップクラスの豪族との見解。また乙巳の変に加わり、大化の改新政権で右大臣となった蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ=649年薨去)との説もある。墳丘は一辺30m(現状27m)で2段築成。石室は、板状の榛原石を積み上げた磚積式の横穴式石室で、全長16mで、羨道は副室構造の様になっており、玄室は長さ3m・幅3.3m・高さ2.6mでほぼ正方形の平面で、壁は四方とも下半分位は垂直で、上方は持ち送っているとのこと。陵墓参考地であるが、S2年撮影の石室内部写真では、羨道部・玄室部壁面に漆喰跡が残っていたらしい。2009年調査で墳裾周囲に石列・石敷が巡らされていたことが判明。石敷きは寺院や宮殿のものと類似するとのこと。その外側の東・西・北には外堤があり、外堤を含めた古墳域は東西約120m・南北約65mで、終末期古墳としてはかなりの規模である。また外堤上北東側には陪塚様の田中古墳がある。

進入口東望        拝所=開口部        案内           拝所北望 

東面北西望        西面北東望         西面北望         南面東望

北面東望         北側斜面東望        北西角南東望       墳頂部西望

 

古市方形墳

奈良市の護国神社周辺の護国神社境内古墳、護国神社前池中古墳、石ケ平古墳、古市方形墳。2022.10.6(木)。

]

護国神社境内古墳

奈良市古市町。現在護国神社の境内になっている地にあった、6世紀頃の円墳群だが全て消滅している。下の遺跡地図の(05D-00)64=1号墳と思われ、径約10m・高さ4m、横穴式石室。2号墳=遺跡ID67、径約10m・横穴式石室。3号墳=遺跡ID65、径約10m・横穴式石室。4号墳=遺跡ID66、径約10m・横穴式石室。拝殿・本殿東側に2号墳・4号墳があったようだが、痕跡らしいものは見つけられなかった。

遺跡地図         社殿遠景東望       近景南望        本殿南・東側

*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

護国神社前池中古墳

奈良市古市町。古墳時代中期=4世紀末~5世紀代の前方後円墳?。神社西側の池の中に有り、現在太陽光発電パネルで埋め尽くされているが、その中央に小島の様に遺存している。

西望           南西望          南望           北望 

石ケ平古墳

奈良市鹿野園ろくやおん町。辺33mの方墳とのこと。

南東望          南西望          北東望          北面西望 

古市方形墳

奈良市古市町。4世紀末~5世紀初頭の方墳。辺27m・高さ3m、2段築成、葺石あり。墳丘基底部と墳頂部に円筒埴輪等が並んでいたとのこと。東西に木棺痕跡の残る粘土槨があり、西棺は殆ど盗掘されていたが、東棺は長さ約6m・幅約1mで、盤龍鏡・画文帯神獣鏡・二鏡二獣鏡・内行花文鏡と刀子類、棺中央部から小型の.内行花文鏡、棺北端から鉄斧・鎌・刀子等工具類、勾玉・管玉・滑石棗玉(重文で東京国立博物館蔵)等の玉類、琴柱形製品・櫛、棺外東側からも鉄剣2点等が出土したとのこと(『奈良市史 考古編』1968、『三次元デジタル・アーカイブを活用した古鏡の総合的研究』橿考研2005)

遠景西望         近景西望         案内           東望

 

佐紀盾列古墳群

 

佐紀盾列古墳群とは・・・

佐紀盾列たてなみ/たたなみ古墳群は奈良市北部の佐紀丘陵の南西斜面先端部に立地する大小60程あった古墳群。主要古墳として、西から東に五社神古墳、佐紀石塚山古墳、佐紀高塚古墳、佐紀陵山古墳、衛門戸丸塚古墳、佐紀瓢箪山古墳、猫塚古墳、塩塚古墳、オセ山古墳、市庭古墳、ヒシアゲ古墳、小奈辺古墳、宇和奈辺古墳が並ぶ。そしてその南側に平城京跡が広がる。

「盾列」は周濠が盾(楯)型で、前方部を南に向けるいくつかの古墳が、南北方向に平行して並ぶ様子を言い表したようで、五社神古墳(神功皇后陵)と佐紀石塚山古墳(成務天皇陵)の陵墓名に「狭城盾列」とあることから、平城京遷都後の言葉と推定される。

主要古墳

2015(H27)年11月11日(水)訪問。近鉄京都線の平城へいじょう駅北側の五社神古墳(上図①)から巡った順路に沿って掲載します。また天皇陵や后妃陵が多く存在しますので、下記も参照下さい。

天皇陵 - OSAKA-TOM’s diary

①五社神ごさし古墳

奈良市山陵町。(4世紀末頃~)5世紀初頭の、前方部を南に向ける前方後円墳。左右非対称な前方後円墳で、復原推定全長267m、後円部は4段築成で径約190m・高さ27m、前方部は3段築成で幅150m・高さ約21m。佐紀盾列古墳群中では最大級で、全国13位の規模。くびれ部西側では造出しの存在も推定され、墳丘表面では葺石と円筒・朝顔形・壺形・盾形・家形・蓋きぬがさ形埴輪が検出されたとのこと。江戸時代の盗掘史料から、埋葬施設は長持形石棺を納めた竪穴式石室と考えられている。かつて後円部墳頂に存在した祠が「五社神」の名称由来。現在、「14代仲哀ちゅうあい天皇の皇后=神功じんぐう皇后=日本書紀では気長足姫尊おきながたらしひめのみこと、古事記では息長帯比売命」の『狹城盾列池上陵さきのたたなみのいけのえのみささぎ』に治定されている。すぐ南に13代成務天皇陵や日葉酢媛ひばすひめ陵があるが、「続日本後記」に「神功皇后陵と成務天皇陵を混同していた」という記事かあり、その後も現日葉酢媛陵が神功皇后陵とされていたとか、文久3年(1863)現陵に治定されるまで、二転三転していた。なお、陪塚として域内陪冢・飛地い・ろ・は・に号が宮内庁管理されている。

「日本書紀」では、「仲哀天皇が九州の熊襲討伐途上に香椎宮にて急死し、その後神功皇后が熊襲を討伐。そして住吉大神の神託に従い、子供(15代応神天皇)を身ごもったまま玄界灘を渡り朝鮮半島に出兵し、新羅は戦わずして降服、高句麗・百済も朝貢を約した」という『三韓征伐』の記事等、仲哀天皇より事蹟記事が多く、69年間執政したとある。日本書紀編纂者が「卑弥呼」に擬したとの説もある。なお、応神天皇を主神として、比売神ひめがみ、神功皇后を加えた八幡三神は、武家社会の神として祀られている。 

平城駅北口から北東望   八幡神社北望       陵方面北東望       参道下制札

参道                        拝所遠景北東望      拝所北望  

*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

*写真は2015年11月。季節や経過年数により周辺の様子や目印が変わることが多いので注意ください。

②佐紀石塚山古墳

奈良市山陵町。4世紀後半の、前方部を南に向ける前方後円墳で、全長218m、後円部は3段築成で径132m・高さ19m、前方部も3段築成で幅121m・高さ16m。周濠は前方部南側を除き、幅が狭く、東側は極端に狭い。これは下記「佐紀陵山古墳」の後円部がくびれ部東側に食い込んでいるためで、佐紀陵山古墳が少し先に築造されたと考えられるが、巨大古墳がこのような形で近接するのは珍しく、理由は分からない。現在、「13代成務天皇=稚足彦尊(わかたらしひこのみこと、「古事記」では若帯日子)」の『狹城盾列池後陵さきのたたなみのいけじりのみささぎ』に治定されている。江戸時代の記録には後円部に竪穴式石室と長持形石棺があり、鏡・玉類・剣等が盗掘されたらしいが詳細は不明。なお、陪塚として後円部北側から北東にかけて3基(い・ろ・ほ号)が宮内庁管理されている。

成務天皇の事蹟として「記紀」に「山河等を境に国郡くにこおり・県邑あがたむらを定め、造長くにのみやつこ・稲置いなぎを任命し、地方行政機構整備を図った」とあるが、実年代である4世紀では考えられないとの説が一般的。

参道登口東望       前方部参道西望      制札           拝所北望

西側周濠北望       前方部南側周濠西望    東望           東側周濠北望

③佐紀陵山みささぎやま古墳 

奈良市山陵町。4世紀末の、前方部を西に向ける前方後円墳で、全長207m、後円部は3段築成で径131m・高さ約20m、前方部も3段築成で幅約87m・高さ12.3m。西側に接する佐紀石塚山古墳のくびれ部東側に後円部がくい込んでいる。現在、「11代垂仁天皇皇后=日葉酢媛命(ひばすひめのみこと、日葉酢根命とも日葉洲媛命とも。「古事記」では氷羽州比売命、比婆須比売命)」の『狭木之寺間陵さきのてらまのみささぎ』に治定されている。 

1915年(T4)に盗掘され、翌年宮内省が復旧工事を行なった際に、石室付近と出土遺物の詳細調査記録が作成された。後円部墳頂中央の方形区画下に、ほぼ南北方向の竪穴式石室があり、長さ約8.5m・幅約1.1m。東西側壁は扁平割石の小口積みだが、南北側壁は一枚石で、その石の上半中央部に孔が開けられていた。同じ様な孔が開いた石は、大阪府柏原市の松岳山まつおかやま古墳に見られ、特異な例である。内部には長大な木棺を納めていたと思われる。石室天井石は5枚で、各々に縄掛突起が付いていた。さらにこの天井石の上に、石棺の蓋の様な大型の石が置かれており、表面に直線の平行文様が線刻されていたとのこと。石室上部には、小さく円形に土を盛り、そこに7~8個の蓋きぬがさ形埴輪と数個の盾形埴輪が立てられていた。また、その盛土最高所の蓋形埴輪は高さ1.5m・幅2mと大きく、キヌガサ上部には複雑な直弧文が巡り、4枚の突出部分=鰭ひれにも直弧文があった。盾形埴輪は高さ1.08m・最大幅0.8mで、木製盾を模したと推測され、これも直弧文で飾られていた。石室内からは流雲文縁変形方格規矩ほうかくきく鏡・唐草文縁変形方格規矩鏡・直弧文縁変形内行花文鏡(いずれも径33cm前後)、管玉1、車輪石3・鍬形石3・石釧いしくしろ1の石製腕飾り、刀子とうす3・斧1・高杯2・椅子1の石製模造品、琴柱形ことじがた石製品、石製臼1等が出土したらしい。

日葉酢媛の父は「10代崇神天皇期の四道すどう将軍」の1人丹波道主王たにはのみちぬしのみこと。「日本書紀」に「前皇后狭穂姫命が垂仁5年に薨去の後、その遺志により垂仁15年に丹波から後宮に迎え、立后された。垂仁との間に12代景行天皇の他2皇子・2皇女を産む」とある。②佐紀石塚山古墳の被葬者とされる13代成務天皇にとっては祖母に当たる。更に、「日本書紀垂仁32年条」に、「葬儀に際し従来の殉死習慣につき天皇が群臣に問うと、野見宿禰が『生人に替えて土物(はにもの=土で作った人形等)埋納』を進言し、この土物を名付けて『埴輪』と呼んだ。野見宿禰はその功で土部はじべの職に任じられ、土師氏の祖となった・・・」とある。つまり埴輪の起源とされるのがこの古墳ということになるが・・・?

左=成務右=日葉酢媛陵 後円部西側周濠      拝所遠景南東望      西側周濠方面北望

制札           拝所           拝所西側         東側

*マエ塚古墳 佐紀陵山古墳の後円部北側に隣接した4世紀末~5世紀初頭の円墳だが、消滅している。2段築成・径50m・高さ7mで、幅13mの周濠が巡り、更にその外堤が幅28m・高さ1.5mという大規模なものだったらしい。消滅前に調査され、南北方向の長さ9m・深さ2mの墓壙の基底部に小礫を敷き、その上を厚さ1mの粘土で覆っていた。更に、その上にベンガラを浸した布を敷き、朱塗りの割竹形木棺(径60cm・長さ不祥)が納められていた。また、棺の北に接して、櫃の様な施設=副室(東西115cm・南北65cm)が検出されたとのこと。棺内から碧玉製石釧の完形品1・破片9、副室から銅鏡9・石製合子2・石製坩1が出土。また棺の外側にも遺物置き場?として布が敷かれ、鉄斧・鍬刃先・鉄鎌・直刀・剣形鉄器(鉄剣119・鉄刀24)・刀子等多くの鉄器も出土した。墳裾では円筒埴輪列、朝顔形埴輪が検出され、墳頂部からは家形埴輪・形象埴輪片が検出された。更に墳丘中段からも円筒棺1基が検出され、外堤部からも2基の円筒棺が検出されたとのこと。   

④佐紀高塚古墳

奈良市山陵町。4世紀代の前方後円墳だが、唯一前方部を西に向ける。全長127m、後円部は3段築成で径84m、前方部も3段築成で幅70m。墳丘周囲には、不連続ながら鍵穴形で幅の狭い周濠が巡る。主体部の埋葬施設や副葬品は不詳。現在、「48代稱德しょうとく天皇(46代孝謙天皇が重祚=再度即位=在位749~770)」の『高野陵たかののみささぎ』に治定されている。ただ、築造年代、墳丘方向や規模から疑問視される。

前方部遠景東望   制札         拝所        拝所南側から北望  東望

⑤佐紀瓢箪山古墳

奈良市佐紀町。5世紀の、前方部を南に向ける前方後円墳。全長96m、後円部径60m・高さ10m、前方部幅45m・高さ7m。陵墓には治定されておらず立入可能。大正時代の採土の際、前方部から粘土槨が見つかり、碧玉製琴柱形ことじがた石製品3点が出土したと伝わるとのこと。周濠は前方部正面から西側隅にかけて途切れているが、前方部南西に隣接する衛門戸丸塚古墳(よもんどまるつか=4世紀後半の径50mの円墳?)が先行しており、その濠を共存させた模様だが、なぜ一部を重ねて築いたか理由は不明。丸塚はT3年に採土のため、墳丘半分が削平された。

前方部北望        案内           後円部北面        墳丘西面南望

*猫塚古墳 佐紀瓢箪山古墳の南東にある径30mの円墳(または120mの前方後円墳)。S29年、割竹形木棺を収めた竪穴式粘土石槨(天井部は粘土・割石で被履)が発見された。石釧21・短剣22・鉄刀8・車輪石2・石釧8・碧玉製管玉10・ヒスイ製勾玉1の他、銅鏡も出土しているとのこと。

⑥塩塚古墳 

奈良市佐紀町~歌姫町。5世紀前半から中頃の、前方部を南に向ける前方後円墳。2段築成と推定され、全長105m、後円部径65m・高さ8.5m、前方部幅52m・高さ1.5m程(案内には3.2mとあるが、見た目ではもっと低い)。周濠は前方部にはなく、後円部を中心に馬蹄形に巡り、本来水があった様子はない。前方部が後円部と比べ極端に低く、7世紀~8世紀奈良時代の瓦が出土していることから、削平後に建物が建てられたと思われる。奈良時代当時、この付近は皇族が曲水の宴などを催した平城宮外苑「松林苑しょうりんえん」の一部であったとされている。

1956年の後円部発掘調査で、粘土槨が検出されている。全長6.8m、幅は1.45m~1.3mで木棺痕跡が認められた。盗掘により遺物は少なかったが鉄剣・刀子・鉄斧・鉄鎌が出土したとのこと。

前方部北西望       案内           墳丘東面北西望      くびれ部と周濠

後円部と周濠北望    墳丘東面南望       後円部東面西望      後円部北側周濠西望

*オセ山古墳 塩塚古墳後円部北側から県道751号線に抜ける道沿い北側にある(猫塚北端から北東に約90m)。本来は全長65m程で、西側に短い前方部がつく帆立貝式前方後円墳と考えられているが、前方部は削平され、後円部だけが残り、それを巡る周濠跡(幅4~5m)が残っている。

⑦ヒシアゲ古墳

奈良市佐紀町。5世紀中葉~後半の、前方部を南に向ける前方後円墳。全長219mは全国24位。後円部は3段築成で径125m・高さ16m、前方部も3段築成で幅145m・高さ13m程。南半分に2重周濠があり、前方部南側の中央付近の内濠は幅30m・内堤は幅20m、外濠の幅20m・外堤の幅12m。1993年調査で外濠を横切る渡堤が確認され、東側くびれ部辺りの内堤で円筒埴輪列が見つかったらしい(後円部東側に複製埴輪が置かれている)。現在、「16代仁徳天皇皇后=磐之媛いわのひめ」の『平城坂上陵ならさかのえのみささぎ』に治定されている。江戸中期、元禄時代の修陵では51代平城天皇陵とされたが、1875(M8)年に「仁徳天皇皇后=磐之媛陵」とされた。なお、墳丘周辺の陪塚として、飛地い号(大和21号墳=42mの円墳)・ろ号(径約30mの円墳)・は号(径約27mの円墳)・に号(辺約42mの方墳)・ほ号(辺約27mの方墳)・(へ・と・ち=消滅)・り号(航空自衛隊敷地内=大和17号墳=辺25mの方墳)・ぬ号(大和16号墳=20mの方墳)がある。

遠景東望         前方部南側周濠西望     拝所遠景東望      拝所

拝所西側       東側        制札        参道西望       陪塚位置

磐之媛命 葛城襲津彦そつひこの娘。8代孝元天皇の男系来孫(=ひ孫の孫、古事記では玄孫)。17代履中天皇・住吉仲皇子・18代反正天皇・19代允恭天皇の母。仁徳2年(314)立后。「日本書紀」では「嫉妬深く、仁徳30年(342)磐之媛が熊野に遊びに出た隙に、仁徳が八田皇女(磐之媛命崩御後に立后)を宮中に入れたことに激怒し、山背の筒城宮(現京田辺市)に隠棲したまま同地で没した。仁徳37年11月乃羅山(ならやま=奈良市奈良坂付近)に葬られた」とある。

⑧小奈辺こなべ古墳

奈良市法華寺町。ヒシアゲ古墳の南東、5世紀前半の、前方部を南に向ける前方後円墳。全長204mは全国31位。後円部は3段築成で径125m・高さ20m、前方部も3段築成で幅129m・高さ17.5m。「16代仁徳天皇皇后=磐之媛命」の『小奈辺陵墓参考地』に治定されている。江戸時代や明治時代の史料でも、くびれ部左右の台形状の造出しや、円筒埴輪・葺石の存在が確認されている。1979年(S54)前方部南側外堤調査で、円筒埴輪列が発見された。埴輪は野焼き時の黒斑があり、突帯断面形状や胴部外面ハケ目方向等から、後述の市庭古墳や宇和奈辺古墳に先行するとされた。1997年(H9)の調査では、周濠東側で外周溝も確認され、外周溝からは、三角板革綴短甲片や鉄鏃が出土したらしい。

西側濠南望        北東望          前方部南側周濠東望    東側周濠北望

なお、墳丘周辺の陪塚として、後円部北東から前方部の西側にかけて10基が並んでいる。後円部東の航空自衛隊敷地内に飛地い号(大和20号墳=30mの方墳)、後円部北東=ろ号(大和18号墳=37mの方墳)、北西=は号(大和22号墳=25mの方墳)、周濠西側には北から、に号(大和23号墳=20mの方墳)・ほ号(大和24号墳=15mの方墳)・へ号(大和25号墳=11mの方墳)・と号(大和26号墳=35mの方墳)の4基が整然と並び、古墳時代中期の陪塚の典型例とされている。更に、1997年(H9)調査では、後円部中心から陪塚へ延伸した線と、各方墳陪塚の中軸線が重なる可能性を確認した。また、い号(大和20号墳)は陪塚ながら周濠を伴い、その周濠脇から石敷苑池の遺構が見つかり、円筒・朝顔形埴輪や家形・壺形・蓋形等の形象埴輪も出土したとのこと。石敷苑池の遺構は、平城宮外苑「松林苑しょうりんえん」の一部との説もあり、そうであるなら、古墳が庭園の築山として利用されとも考えられる。

陪塚位置         後円部北東側遠景     は号=大和22号辺り    に号=大和23号 

ほ号=大和24号      へ号=大和25号辺り    と号=大和26号      周濠西側遠景

⑨航空自衛隊 幹部候補生学校

奈良の米軍キャンプ跡地で、昭和31年開設とのこと。航空自衛隊の幹部自衛官となるために必ず入校する全国唯一の学校。申請すれば見学できるらしい(約90~120分程度)。

基地遠景北東望      正門           基地内西望        標識

⑩宇和奈辺うわなべ古墳 

奈良市法華寺町。佐紀盾列古墳群の東端。5世紀中頃の、前方部を南に向ける前方後円墳。2020年の調査結果で全長270~280mと判明し、全国12位の規模となる。3段築成で、後円部径128m・高さ約20m、前方部幅約130m・高さ16m。前方部南側の周濠幅は60mを超える。西側くびれ部辺りにある造出し(周濠の中に埋没している)からは、須恵器、祭祀関係のものと思われる土師器の小形高杯・鉢・笊ざる形土器・魚形土製品・棒状土製品・杓子形土製品が出土したらしい。後円部北側にあった陪塚(大和6号墳=径25mの円墳)からは鉄鋋(てってい=板状の鉄素材)が見つかっている。墳頂中央の表土下に、長さ30~48㎝・幅5~10㎝の鉄鋋282枚が、ひもで束ねられていた。更に、長さ8~18㎝・幅1~2.5cmのものが590枚埋まっていた。総重量は140kgで国内最大の出土量。形態的な類似性から洛東江下流域の釜山・金海地域から供給された可能性もあるが、2017年5月宮内庁は国内で製作された可能性があるとの調査結果を発表している。現在、「16代仁徳天皇の後の皇后=八田皇女やたのひめみこ」の『宇和奈辺陵墓参考地』に治定されている。

墳丘西面東望       北東望          西面北望         前方部南側周濠東望

⑪市庭いちにわ古墳 

奈良市佐紀町。平城京大極殿跡すぐ北、5世紀前半の前方後円墳。当初円墳と考えられていたが、1962~63年の調査で、前方部が平城京築造時削平された前方後円墳と判明した。復元推定墳長253m・後円部径147m・前方部幅164m。円筒埴輪の特徴から、小奈辺古墳よりやや新しいとのこと。現在、「51代平城へいぜい天皇」の『楊梅陵やまもものみささぎ』に治定されている。在位延暦25年(806)~大同4年(809)、天長元年(824)崩御からすると、かなり無理がある。

制札と参道北望      拝所           拝所周辺北東望     前方部跡から大極殿南西望

平城天皇 50代桓武天皇の第1皇子。母は皇后藤原乙牟漏おとむろ。延暦4年(785)藤原種継暗殺の嫌疑で早良さわら親王が廃太子され、替わって立太子された(後に早良親王の祟りが歴史を動かす)。妃の母で夫のある藤原薬子くすこを寵愛したことで、桓武天皇と折り合いが悪かった。大同4年(809)、在位3年で発病し同母弟の嵯峨天皇に譲位し太上天皇となる。同年平城上皇は、「平安京より遷都すべからず」との桓武の意思に背き、旧都平城京に移り住んだ。大同5年(810)薬子らと図り、平安京の貴族達に平城京への遷都の詔を出し、政権掌握を図った。しかし、嵯峨側が機先を制し、薬子の官位を剥奪。これに対し平城は翌日挙兵、薬子と共に東国に逃れようとしたが阻まれ、翌日平城京に戻り剃髮し、薬子は服毒自殺した。平城の追号は、平城京に因むものとされる。

=======================================

⑫平城宮跡や⑬平城宮跡資料館を経由して大和西大寺駅まで単純経路で約8km。

室生向坊1号墳

2021年5月11日(火)。室生向坊1号墳は奈良県宇陀市室生大野、近鉄大阪線「室生口大野」駅のすぐ北側の丘の中程にある(下図⑪)。7世紀以降の径10m程度の円墳。1号墳の石室は露出してはいるが、開口部に笹が密集しており、中は見れなかった。碧玉製丸玉・鉄刀子・須恵器・土師器等が出土したらしい。すぐ近くに2号墳(6世紀末頃、径8m)の石材の一部がある。なお駅の北側の道は徒歩でしか通れない。

向坊1号墳方面 

1号墳東望 

1号墳開口部

1号墳南西望