2022.10.25(火)。日吉ひよし古墳群は滋賀県大津市坂本5丁目にある日吉大社東本宮の裏山周辺に広がる。
*なお「日吉」はかって「ひえ」と読んだが、第二次世界大戦後は「ひよし」を正式の読みとしているとのこと。
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なお、後述の(⑤)の高札にあったが、本来は日吉大社に立入り許可を得ないといけなかったのだろう。後になりましたが無許可での立入り謝罪いたします。
京阪坂本比叡山口駅から 古墳群の配置イメージ図
*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。
*配置イメージ図は、記憶を辿って作ったもので正確ではありません。また点線のルートはハッキリ道らしいものがある訳でなく、距離は目安です。
東本宮への参道左脇に「連理の枝」というスポットがある。別々に生えた木の枝が途中で繋がっており、縁結びの象徴とのこと。そこから東本宮手前で、北に向かう。
日吉大社東本宮へ 連理の枝 日吉古墳群へ
東本宮手前から北に向かう道の左手に「日吉大社古墳群」の標識があり、ここが進入口。黄色のプラスティック鎖があるが、施錠されてはいない。これを越えると、右手に大きな窪みがある。石室の堀形(石室石材の設置敷地)の様だ。
見返り 進入口 大きな窪み
*写真は2022年10月。季節や経過年数により周辺の様子や目印が変わることが多いので注意下さい。
窪みを越えて左手=東本宮側に行くと、露出した石室石材が積み重なっている所がある(①)。その石材の後ろ(北西側)にも、石材の積み重なっている所(①’)がある。
①西望 ①’北望 ①’西望
本線に戻り、暫く進むと、左手に大きな石材(②)。石材の手前に少し隙間があり、内部には石組らしいものが見える。
②遠景北西望 石材手前の隙間 隙間内部
後方の石材の間にも隙間がある。
後方の石材 別角度から 隙間内部
②から本線に戻り、更に北西に進む。暫く行くと左手(西側)の東本宮北端方向へ向かう道があり、その北側に③がある。天井石は滅失している。
本線見返り 北西へ進む ③方面 ③
③俯瞰 ③奥壁下部 上部 全体
③(黄〇)から7~8m西奥に④がある。ここも天井石が滅失している。
④俯瞰(右=奥壁) 奥壁 (奥から見て)左側壁 右側壁
右片袖式の様であるが、玄室・羨道とも、結構土砂が埋まっている。
奥壁 羨道側 羨道
少し南側に、本来の開口部らしき隙間がある。奥壁部分が僅かに見える。
東本宮北端から北に向かう道があり、掘り出された?石材が多数積み重なっている。
東本宮北端方面 東本宮北端 東本宮北端から北へ
さらにその北西奥にも群集墳らしきものが見受けられるが、よく分からない。本格調査をすればもっと見つかりそうだが・・・。
進入口に戻り、北へ20m程行った左手に⑤が開口している。
⑤方面 見返り ⑤
⑤開口部 玄室全景
天井部は渡来系墳墓の特徴であるドーム状になっており、天井石は滅失している。
参考までに、日吉神社東本宮側から見た日吉古墳群と西本宮へ向かう参道の大宮橋西側右手にある石室開口部を最後に掲載します。
奥の早尾神社横から北望 拝殿横から北東望 西本宮参道の大宮橋案内 開口部
大津市の比叡山東麓から琵琶湖西岸に挟まれた地域には古墳群が多数ある。坂本近辺には、古墳時代中期=5世紀から終末期=7世紀後半(38代天智期=大津宮)当時の古墳があり、渡来系の古墳も多く見られる。古代朝鮮半島と倭(日本)の交流は弥生時代から盛んになると知られているが、百済が660年に滅び、復興を期した663年白村江の戦いで倭・旧百済連合軍が大敗し、大勢の難民が渡ってきた。中大兄皇子(38代天智天皇)が667年近江に遷都するに当たり、造営に渡来系難民も多く駆り出されたのだろう。