奈良市山町やまちょう~田中町の帯解狐塚古墳、ベンショ塚古墳、シズカ塚古墳、帯解黄金塚古墳。2022.10.6(木)。
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帯解おびとけ狐塚古墳
奈良市山町。6世紀末の円墳。奈良県遺跡地図では径10mとある。両袖式の横穴式石室が見れる。開口部は本来南側だが、笹が邪魔している。しかし玄室奥壁部が崩壊しており、ここから入室できる。石室は復元推定全長7.5m、本来の羨道長3.5m・幅1.5m・高さ1.5m、玄室長約4m・幅約2m。天井部は木の根が張り出すが高さ2mを超える。須恵器・土師器・馬具・鉄鏃が出土したらしい。
遠景南望 近景南望 進入口
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羨道方面南望 両袖部と羨道 玄室奥壁方面北望 奥壁崩壊部
*帯解狐塚古墳東側を走る188号線を少し北東に行くと崇道天皇陵がある。
逆に少し南に行くと、円照寺への参道がある。円照寺裏山の歴代門跡の墓地辺りに、墓山1号・2号・3号墳があるが、円照寺は一般拝観しておらず寺の境内には入れない。
ベンショ塚古墳
奈良市山町。5世紀前半(帯解周辺では最古)の前方後円墳。前方部は殆ど削平され畑になっているが、ほぼ西に向く。復元全長70m、後円部径38m・,高さ5m、前方部幅42m・高さ3m。盾形周濠が巡っていたらしい。葺石なし、埴輪あり。後円部墳頂に森常稲荷神社の祠があり、埋葬施設は後円部に3基あったとのこと。第1埋葬は中央部で築造時の造営だが盗掘がひどく詳細不明。第2埋葬は南側の粘土槨。第3埋葬は東側の粘土槨。革盾・短甲・眉庇付冑や馬具等が出土。
南望 後円部参道 祠 祠南側 祠東側
シズカ塚古墳
奈良市山町。東西約17m・南北16m・高さ2mの方墳。測量以外の調査はされておらず、築造時期等不明。古書に『「シツカ」は「スズカ」の訛りで、「40代天武天皇の第1皇子=高市皇子」の第2皇子鈴鹿王の墓・・』とあるが、鈴鹿王は745年薨去。少し周辺の古墳の築造時期と合わないかも・・・。
西望 北望 南東望 Google Maps航空写真
帯解黄金塚古墳
奈良市田中町。7世紀中頃の方墳。宮内庁により「黄金塚陵墓参考地」(被葬候補者は40代天武天皇の第6皇子=舎人とねり親王)に治定されている。舎人親王は735年薨去なので、築造年代と1世紀程開きがある。奈良市埋蔵文化財調査では33代推古~34代舒明天皇時代の皇族か、トップクラスの豪族との見解。また乙巳の変に加わり、大化の改新政権で右大臣となった蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ=649年薨去)との説もある。墳丘は一辺30m(現状27m)で2段築成。石室は、板状の榛原石を積み上げた磚積式の横穴式石室で、全長16mで、羨道は副室構造の様になっており、玄室は長さ3m・幅3.3m・高さ2.6mでほぼ正方形の平面で、壁は四方とも下半分位は垂直で、上方は持ち送っているとのこと。陵墓参考地であるが、S2年撮影の石室内部写真では、羨道部・玄室部壁面に漆喰跡が残っていたらしい。2009年調査で墳裾周囲に石列・石敷が巡らされていたことが判明。石敷きは寺院や宮殿のものと類似するとのこと。その外側の東・西・北には外堤があり、外堤を含めた古墳域は東西約120m・南北約65mで、終末期古墳としてはかなりの規模である。また外堤上北東側には陪塚様の田中古墳がある。
進入口東望 拝所=開口部 案内 拝所北望
東面北西望 西面北東望 西面北望 南面東望
北面東望 北側斜面東望 北西角南東望 墳頂部西望