OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

天皇陵 その十

天皇陵 その十(最終回)

(46代『孝謙天皇』)、47代『淳仁天皇陵』、48代『称徳天皇陵』、49代『光仁天皇陵』井上内親王陵・志貴親王(春日宮天皇)陵*太安万侶墓所、50代『桓武天皇陵』早良親王(崇道天皇)陵・皇后藤原乙牟漏(高畠)陵

日本書紀』に続く六国史りっこくしである『続日本紀しょくにほんぎ』(以下『続紀』)と、桓武期の延暦11年以降は『日本後紀』(以下『後紀』)等を、ベースにしています。記事中の月日も陰暦のまま記載します。

*『続紀』は42代文武元年(697)~50代桓武期の延暦10年(791)の95年間を全40巻で記録しており、菅野真道らが延暦16年(797)編纂したとされる。『紀』に比べ記事の正確性は格段に増すものの、簡略な「一種のメモ書き」様の内容で、『紀』の様な物語的な部分は殆どなく、記事の解釈に関して諸説あります。それを論じてもキリが無いので、原則『続紀』の記事に準拠します。

*『後紀』は『続紀』に続く桓武期の延暦11年(792)~平城・嵯峨~淳和期の天長10年(833)に至る42年間の記録。藤原緒嗣らにより、承和7年(840)完成。全40巻で、現存は巻5、8、12、13、14、17、20、21、22、24の10巻。抜けている部分は六国史等の抜粋版である『日本紀略』や、六国史の項目分類である『類聚国史』を主に、諸本からの引用により部分的に復元できている。

なお、陵、諡号しごう等の基本知識は、『天皇陵』を参照ください。

天皇陵 - OSAKA-TOM’s diary

 

(46代『孝謙こうけん天皇』) 

在位749年~758年。宮は平城京。生前譲位しているので、当然「孝謙天皇」としての陵は無い。後に48代称徳天皇として重祚してから崩御するので『称徳天皇陵』として後述します。

出自

(いみな=本名)阿倍内親王。父は45代聖武天皇、母は光明皇后。養老2年(718)に誕生し、天平10年(738)1月、史上唯一の女性皇太子とされた。聖武光明皇后の皇子が神亀4年(727)うるう9月誕生していたが、翌年9月1歳直前で夭逝している。なお立太子当時は、聖武県犬養広刀自あがたのいぬかいのひろとじとの間に生まれた安積あさか親王がいたが、まだ12歳。またこの時点では光明皇后等との間に皇子誕生の可能性もあり、元明元正天皇同様、中継ぎの即位が想定されていたのだろう。

即位の経緯

唯一の後継男子=安積親王天平16年(744)閏1月難波宮行啓の途中で脚病(脚気)になり、恭仁京に戻り2日後に17歳で急逝。新たな親王誕生は望めず、天平感宝*1元年(749)7月32歳で譲位され、46代孝謙天皇として即位、元号天平勝宝に再改元した。

左大臣橘諸兄(もろえ=光明の異父兄)・右大臣に藤原豊成(「藤原不比等の長男=武智麻呂」の長男)、同時に藤原仲麻呂ふじわらなかまろ(豊成の弟)*2を大納言、石上乙麻呂いそのかみのおとまろ・紀麻呂きのまろ・多治比広足たじひのひろた中納言、大伴兄麻呂・橘奈良麻呂・藤原清河を参議(さんぎ=政策合議集団員の呼称)とした。天平勝宝8年(756)聖武崩御時の遺詔で道祖ふなど(「天武と鎌足五百重娘(いおえのいらつめ)の子=新田部(にいたべ)親王」の子)立太子するが、翌年天平宝字元年(757)*3 3月侍童との姦淫や素行不良等で廃太子。翌月、藤原仲麻呂の推挙で大炊おおい(「天武の子=舎人(とねり)親王」の子で、仲麻呂の亡き息子である真従(まより)の妻(=粟田諸姉もろね)を娶っており、仲麻呂邸に住んでいた。後の淳仁天皇)立太子する*4

*1 天平感宝 天平21年(749)2月に陸奥国(現宮城県)北部の遠田(とおだ)郡湧谷(わくや)町で金が発見された。これを祥瑞(吉兆)として同年4月14日天平天平感宝改元した。当時大仏建立のため大量の金が必要だった時期で4月22日に陸奥守の百済王敬福(こしききょうふく)から黄金900両(13kg)が献上された。改元自体は歴史上何でもない事だが、この金の産出は日本歴史に少なからぬ影響を及ぼす。まず、聖武天皇が仏を尊んだお陰だとのことで、ますます仏教に没頭し、果ては天平感宝元年(749)閏5月「太上天皇沙弥(しゃみ=受戒して比丘となる前の修行僧)勝満」と称し出家し、7月に譲位する。次に産地である東北を独占すべく蝦夷征伐=一般に言う「38年戦争」の契機となる。さらに、海外交易時の支払いを金で行うようになり、マルコ・ポーロの「東方見聞録」で「黄金の国ジパング」として紹介されることになる。なお749年4月天平感宝改元した僅か3か月後の7月に、孝謙により天平勝宝に再改元される。

*2 藤原仲麻呂 光明太上皇后の信任を得、天平勝宝元年(749)8月に太上皇后の家政機関=紫微中台(しびちゅうだい)の長官を兼務し、大炊王淳仁天皇即位で、権力を掌握する。しかし天平宝字8年(764)孝謙太上天皇に反旗を翻し、討伐される(藤原仲麻呂の乱)。

*3 天平宝字 本来の天平勝宝9歳(8・9年のみ「歳」とされた)、*4の「橘奈良麻呂の変」の翌月8月18日、「駿河国から献上された蚕が「五月八日開下帝釈標知天皇命百年息」の好字を成した。5月8日は亡き(聖武)太上天皇の周忌法要の最終日であり、これを祥瑞として「天平宝字」に改元した。

*4 これを直接の契機として、天平宝字元年(757)7月初旬、橘諸兄の子「橘奈良麻呂(ならまろ)の変」が起こる。藤原仲麻呂専横に強い不満を持ち、仲麻呂を排除し、大炊皇太子に代え、塩焼王(しおやきおう=後述)等の天武別系統からの天皇擁立を画策するが、密謀が漏れ、443名が処刑された。塩焼王はこの時臣籍降下され「氷上(ひかみ)」姓とされた。この一件で反藤原勢力が一掃され、結果仲麻呂が公卿筆頭になった。なお、父で左大臣であった橘諸兄は、天平勝宝7年(755)11月聖武上皇が病気で伏していた際、酒席で上皇への不敬発言をし=謀反気配がある旨の讒言(ざんげん=嘘の密告)があった。聖武上皇は取り合わなかったが、諸兄はこのことを知り翌年2月辞職し、翌々年の天平宝字元年(757)1月74歳で薨去。こうしたことも奈良麻呂の変の動機の一因だったのだろう。

譲位

天平宝字2年(758)8月1日孝謙が譲位し太上天皇(上皇)となり、大炊王が47代淳仁天皇として即位する。淳仁天皇即位時の孝謙の譲位の詔(みことのり=天皇の命令文書)には「年長 日多 此座坐 荷重力弱 不堪負荷 加以 掛畏朕婆婆皇太后朝 人子之理 不得定省 朕情 日夜不安」=「年長く、日多く、この座に坐いますは、荷重く力弱まり、負荷に堪えず。加えて以って、掛けまくも畏かしこき朕の母(光明)太后おおみおやのみかどにも、人の子としての理ことわりたる定省(ていせい=親孝行)を得ず、朕の情こころは日夜不安」とある。社交辞令の部分もあるが、光明皇太后に頭が上がらなかった心情も読み取れる。そしてこの日、僧綱(そうごう=諸寺を監督するために設けられた僧職の総称)が、孝謙に「宝字称徳孝謙皇帝」、光明皇太后に「天平応真仁正皇太后」という尊号を奉上する旨上表している(尊号の初見)。なお、8月9日には聖武天皇の尊号として「勝宝感神聖武皇帝」、諡号として「天璽国押開豊桜彦あめしるしくにおしはらきさくらひこのみこと」が、さらに聖武の祖父であった草壁皇子に「岡宮御宇天皇」の尊号が奉呈された。

 

47代『淳仁天皇陵』

在位758年~764年。宮は平城京。一時平城京改作のため大津の保良ほら宮。陵は、宮内庁により兵庫県南あわじ市賀集かしゅうにある『淡路陵あわじのみささぎに治定されている。

出自

天武天皇の皇子=舎人とねり親王」の七男。母は当麻老たいまのおゆの娘=当麻山背ましろ。3歳で父が薨去しており、天武天皇の皇統でありながら全く目立たない存在だった。諱は大炊おおい王。漢風諡号は明治3年(1870)7月24日に、39代弘文天皇(大友皇子)・85代仲恭ちゅうきょう天皇と共に、明治天皇から諡号を贈られている。

即位後の経緯

淳仁期ではあるが、孝謙上皇藤原仲麻呂道鏡といった周辺人物の動向の方が、歴史的影響が圧倒的に大きく、記事もそちらが主となっている。】

天平宝字2年(758)8月1日、前述の通り孝謙が譲位し太上天皇となり、大炊が25歳で47代淳仁天皇として即位する。しかし当初から政策の最終決定権は孝謙上皇にあったのだろう。その証拠に、代始改元(=天皇交替時の改元)もなされていない。また天平宝字3年(759)6月に光明皇太后から淳仁に「父である舎人親王追号する」よう勧められた際も、孝謙太上天皇からは一旦「辞退すべし」と言われ、再度の光明皇太后の勧めで、ようやく「崇道尽敬皇帝すどうじんきょうこうてい」の追号が為された。なお、『続紀』では孝謙上皇は度々「高野天皇」と表記され、また後に廃位される淳仁は(淡路)廃帝と表記されている。
一方、淳仁の義父的立場にある藤原仲麻呂は、即位年の天平宝字2年(758)8月25日に紫微中台しびちゅうだいの長官と兼務し大保(たいほう=当時の右大臣)に任ぜられる。その際「晨昏不怠 恪勤守職 事君忠赤 施務無私・・・・・・准古無匹 汎恵之美 莫美於斯 自今以後 宜姓中加恵美二字 禁暴勝強 止戈静乱 故名曰押勝」=「晨昏(しんこん=朝と夕)怠らず恪勤(かっきん=真面目に勤め)職を守る。君に事つかうること忠赤(ちゅうせき=赤胆忠心=忠実)にて、施務(しむ=務める)に私無し。・・・・・古いにしえに准なずらえるに匹たぐい無し。汎ひろく恵む美は、これ以上は莫し。今自より以後、姓の中に恵美の二字を加う宜し。暴を禁いさめ強に勝ち、戈ほこを止め乱を静む。故に名押勝と曰う」として、「藤原恵美押勝」と名乗ることになる。雑徭(ぞうよう=税としての労役)の半減や東国からの防人中止・調庸の運脚夫に食料給付(本来は自前)・地方財源システムの整備・問民苦使(もんみんくし=地方行政の実情を監察する官吏)派遣等推進も行った。仲麻呂天平宝字4年(760)1月4日80年振りに、孝謙太上天皇から従一位乾政官けんじょうかんの大師(当時の太政大臣)に任じられ、実質的に政権実務を掌握することとなる。しかし、天平宝字4年(760)6月7日光明皇太后崩御し、仲麻呂は最大の後ろ盾を亡くし、孝謙太上天皇は(ある意味で)「重石おもし」が亡くなり独壇場となる。

天平宝字5年(761)近江国(現滋賀県)保良宮ほらのみや*5滞宮時に何かがあり(=一般的な説は、孝謙上皇が発病し、看病した道鏡が寵愛された)、その件もあり上皇天皇の不和が顕在化した。『続紀』には天平宝字6年(762)5月23日「高野天皇(孝謙上皇)と帝(淳仁)に隙有り。是に於いて、車駕(しゃか=天子の乗り物)平城宮へ還る。帝は中宮院で御于(治政・執務)、高野天皇法華寺で御于」とある。そして6月3日孝謙上皇は、五位以上の官人を集め、詔の中で淳仁を非難した上で出家を宣言し、更に「祭祀と小事は今帝(淳仁)、大事と賞罰は朕(自分)が行う」とした。道鏡天平宝字7年(763)*6 9月4日少僧都(しょうそうず=僧侶監督組織の高官)に任ぜられ、孝謙上皇に近侍した。 

*5 保良宮 平城京改作時の仮宮であり、平城京に対して北京(ほっきょう)とも呼ばれた。『続紀』には、天平宝字3年(759)11月造営に着手した記事がある。滋賀県大津市石山寺の近くとする説が有力で、仲麻呂天平17年(745)に近江国守であり、祖父の不比等淡海公、父の武智麻呂も近江守だったことから、藤原氏に縁の深い近江に造営したと推測される。天平宝字5年(761)10月28日淳仁が「為改作平城宮。暫移而御近江国保良宮」と詔している。

*6 藤原宿奈麻呂(すくなまろ)の変がこの年に起きている。「不比等の三男で式家の祖=宇合」の次男。兄である藤原広嗣の乱連座し伊豆へ流罪となる。天平14年(742)に赦免され、天平18年(746)従五位下に叙位するが、南家(武智麻呂の次男=仲麻呂)・北家(藤原永手)に比べ式家は衰退しており、不遇の日々を送った。天平宝字6年(762)大伴家持ら3人と謀った仲麻呂暗殺計画が、仲麻呂側に漏洩し、天平宝字7年(763)捕らえられ、宿奈麻呂は単独犯と主張し、大不敬罪により解任され、姓も剥奪された。2年後仲麻呂の乱の功績で復帰。 白壁王(光仁)擁立に尽力し、正三位中納言に叙任された。同年良継(よしつぐ)に改名。宝亀2年(771)光仁擁立の功臣として藤原氏一門の中心的存在となり、中納言から一挙に内臣に任ぜられ、右大臣に次ぐ太政官の次席の座に就いた。娘の乙牟漏(おとむろ)は山部王(後の桓武天皇)の夫人。

廃位と陵 

天平宝字8年(764)9月11日淳仁天皇擁護派筆頭の恵美押勝(仲麻呂)の反乱計画が露見した。仲麻呂一味は近江に逃げ、急遽塩焼王(「天武の第十皇子=新田部親王」の長男)を帝に立てるが、近江の三尾(高島郡)塩焼王・妻子共々敗死し、9月18日その首が都に届いた。その日の乱の顛末記事に、直接の動機として「時道鏡常侍禁掖 甚被寵愛 押勝患之・・」=「時に道鏡常に禁掖(きんえき=天子の在所)に侍はべり甚だ寵愛を被る。押勝之を患うれえる・・」とある。そして9月20日の戦勝凱旋時の詔で、孝謙上皇道鏡を「己が師」と呼び、大臣禅師に任じる。淳仁は乱に参戦していなかったが、仲麻呂と同じ考えだったとして、天平宝字8年(764)10月9日居所で捕縛され、親王の待遇で淡路国に配流されることとなった。この時点で孝謙は実質的に重祚している。

天平神護元年(765)10月22日淡路廃帝は逃亡を図り翌日薨去する。死因は記事にないが、実際は殺害されたと推定され葬礼記録もない。陵の宮内庁上の形式は山形。『続紀』では、宝亀3年(772=光仁期)8月18日記事に「改葬廃帝於淡路」、「僧侶60人を派遣し、斎を設けて、その魂を鎮めた」とあり、更に宝亀9年(778)3月23日記事に「淡路親王墓宜称ぎしょう山陵」とあり、ようやく「陵」扱いとされた。

          制札         拝所北望      東側南望      北望

*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

 

「48代称徳天皇陵」

2015年11月11日(水)参拝。在位764年~770年。宮は平城京。陵は奈良県奈良市山陵町の『高野陵たかののみささぎに治定されている。

即位後の経緯

孝謙上皇は、天平神護元年(765)1月7日の詔で「朕以眇身 忝承宝祚」=「朕眇身(びょうしん=我が身)を以って、忝かたじけなくも宝祚(皇位)を承る」と宣べ重祚し、天平神護(仲麻呂の乱平定は霊の加)改元する。出家のまま皇位に着いた史上唯一の天皇で、この時より称徳天皇と表記される。なお、この詔の中でも「賊臣仲麻呂・・・」として非難している。そして淡路先帝の所に通う官人等もいたため2月14日に廃帝との面会禁止を命じ、更に3月5日先帝復帰を図る勢力残存に危機感を抱き警戒強化の詔を出している。

天平神護元年(765)8月「舎人親王の長男=御原みはら(淳仁の長兄)」の子である和気わけ王の謀反計画が発覚する。和気王は、仲麻呂の乱の折(仲麻呂が軍備を整えていると)孝謙上皇に密告し従三位に昇叙されていた。また淳仁天皇の捕縛の際、山村王らとともに数百人の兵を率いた。孝謙派だったはずだが、孝謙に跡継ぎが決まっておらず、皇位を狙い、当時有名な巫女の紀益女きのますめに呪詛を依頼した。それが露見し伊豆へ流罪となるが、途中山背国相楽郡で絞殺されたという。この事件だけ見れば大した事では無さそうだが、757年橘奈良麻呂の変761年保良宮での淳仁との不和764年恵美押勝(藤原仲麻呂)の謀反、そして765年この和気王の謀反計画と連続し、気丈な孝謙上皇も流石に孤独感に悩み、ますます道鏡(=仏の加護)に傾倒したのだろう。

法王道鏡

天平神護元年(765)10月22日、孝謙上皇紀伊国行幸中に、淡路廃帝が逃亡を図り翌日薨去する。この後も行幸は続き、道鏡生地の河内国の弓削ゆげ行宮(あんぐう=仮宮)や弓削寺に立ち寄った。そして閏10月2日、道鏡を大臣禅師から太政大臣禅師に任じた。さらに天平神護2年(766)10月20日、隅寺(現海龍王寺)の毘沙門像から出た仏舎利を大々的な行列を仕立て法華寺に搬入した際に、称徳天皇道鏡を法王に任命した。そして10月23日の詔に「法王の月料 供御(くご=天皇に供する食料)に准ずる」とあることから、法王は天皇位に准ずる立場と思われる。なお法王任命時、同時に藤原永手(ながて=母である光明の異母系の甥)左大臣吉備真備(孝謙が皇太子当時の家庭教師)が右大臣に任命されている。ここでようやく「己が師」と仰ぐ道鏡に加え、信頼できる臣下を得て、称徳の気持ちも多少和らいだかもしれない。

更なる異変

しかし、4年後の神護景雲3年(769)5月25日に、また異変が起こる。氷上志計志麻呂ひかみしけしまろの変である。彼は塩焼王(仲麻呂の乱で敗死)不破内親王(ふわないしんのう=聖武の娘で、安積親王の次姉)の子である。主犯は不破内親王とされ、県犬養姉女あねめ・忍坂女王おしさかのおおきみ・石田女王らと共に、志計志麻呂を皇位につけようと「称徳を呪詛した」との密告で処罰された。29日の宣命では、称徳天皇の髪の毛を盗み佐保川の髑髏どくろに入れ、呪詛3度に及んだという。不破は内親王位と皇親身分を奪われ「厨真人厨女くりやのまひとくりやめ」と改名させられ平城京を所払いされた。志計志麻呂は土佐に配流。*後に事件に関する密告が誣告(ぶこく=嘘の訴え)とされ、771年に県犬養姉女・忍坂女王が赦免される。不破内親王の復帰は翌宝亀3年(772)11月にずれこんだ。(772年3月姉の光仁皇后井上内親王廃后事件の関係か?)

宇佐八幡宮神託事件=称徳と道鏡体制終焉の契機

氷上志計志麻呂の乱の4か月後、称徳と道鏡体制終焉の契機となった事件が起こる。一般的に「宇佐八幡宮神託事件」と呼ばれる。神護景雲3年(769)9月25日の詔で、和気清麻呂とその姉=法均ほうきんが処罰された。その主旨が以下の通りである。「大宰だざい主神かむつかさ習宜阿曾麻呂すげのあそまろが、『道鏡皇位に就ければ天下太平になると八幡神のお告げがあった』と上奏した。称徳天皇の夢に大神の使いが現れ、法均を来させるよう請うが、清麻呂が代って神宮に詣でた。大神は「我国家開闢以来、臣下を君主にすることなど未だ有らず」と詫宣した。清麻呂が京に帰ってそう報告すると、道鏡は激怒し、清麻呂を解任して因幡に左遷、更に大隅に配流した。法均も還俗させ備後に配流。また清麻呂別部穢麻呂わけべのきたなまろ法均は別部広虫わけべのひろむしめと改名させられている。

ただ、習宜阿曾麻呂という主神ごときの位の者が、宣託を上奏するのはかなり不自然で、称徳が道鏡に帝位を継がせるための方便とか、道鏡自身の演出だとか諸説ある。称徳が道鏡を帝位に准ずる法王に任じたことは、明らかに帝位継承の意図があったかもしれず、いかに側近の清麻呂が宣託と逆の報告をしようが、称徳ならねじ伏せることもできただろう。10月1日の称徳の詔では、聖武天皇の言葉を引用して「みだりに皇位を求めてはならない事や、皇位継承者は聖武天皇の意向に沿って自らが決める」と表明しており、道鏡を後継とすることに迷いが出たのかもしれない。

崩御と陵

宝亀元年(770=本来は神護景雲4年=実際の改元は10月光仁即位時)6月由義宮(ゆげのみや河内国若江郡(大阪府八尾市)あったとされる離宮で西京」と呼ばれた)行幸後に具合が悪くなり、平城京に帰るが、群臣は誰も謁見えっけんさせず、ただ一人吉備真備の娘=由利のみ出入を許し取り次ぎさせた。ここで、(反道鏡派の)群臣だけでなく、道鏡すら謁見させなかったということは、あの気丈な称徳も、弱気になり自暴自棄になったのかもしれない。宝亀元年(770)8月4日、53歳で称徳天皇崩御する。その日群臣が集まって評議し、左大臣藤原永手が遺宣として白壁王(後述)を後継とする旨宣言した。8月21日その白壁王は「道鏡法師 挟舐粳之心・・・今顧先聖厚恩 不得依法入刑」=「道鏡法師、舐粳(しこう=うるち米を舐める=皇位を狙う)の心を挟み・・・今先聖の厚恩を顧みて(称徳の厚恩を考えると)、法に依り刑に入ることを得ず(処刑できない)」として、道鏡を下野しもつけ国の造薬師寺別当に任じた。その2年後、次代光仁期の宝亀3年(772)4月7日下野国から道鏡の死が報告された。

称徳天皇宝亀元年(770)8月17日大和国添下郡佐貴郷高野山陵に葬られていたが、この時の『続紀』記事には、「道鏡は梓宮(しきゅう=君主の葬送地)の陵の下の廬に留まった」とある。更に「道鏡擅権(だんけん=好き勝手に権力をふるい)、力役(大変な仕事)を興すことを軽んじ、伽藍を繕うことに務め、公私を彫喪(ちょうそう=なくす?)、国用(国費)が不足した。政は刑(罰)日ごとに峻(厳しくなり)、殺戮(刑として殺す)を妄加(みだりに臆断)す。故に後の者は、頗すこぶる其の冤(罪)を称となえた」と批判されている。
陵の考古学名は佐紀高塚古墳。前方後円墳で、佐紀盾列さきたたなみ古墳群を構成するが、比定は疑問視されている。

佐紀盾列古墳群    拝所遠景北東望  制札         拝所        北西望

 

49代『光仁天皇陵』井上内親王陵・志貴親王(春日宮天皇)陵 *太安万侶墓所

2019年4月8日(月)参拝。奈良県奈良市日笠町。49代「天宗高紹あまつむねたかつぎ光仁天皇(在位770年~781年)」の『田原東陵たはらのひがしのみささぎに治定されている。

出自

諱は白壁しらかべ王。「38代天智の第7皇子=志貴(しき=また施貴)親王」の第6皇子。母は紀橡姫きのとちひめ。皇后は井上(いのえ/いがみ)内親王(聖武の娘で、安積親王の長姉)。宮は平城京。62歳で即位したが、即位年齢としては最高齢。

48代称徳は独身で直系の後嗣はなく、後継者(皇太子)を決めないまま崩御したため、当時の左大臣藤原永手らによって宝亀元年(770)8月4日急遽立太子された(41代持統以来、天武天皇の直系継承を守ろうとする余り、結果として直系が途絶えていた)。50歳位まで全く目立たない存在だったが、当時妃であった井上内親王は一応聖武の娘であり、その子=他戸おさべ王が761年に産まれると、天武系嫡流の血を引く唯一の男性皇族ということになり、天平宝字6年(762)12月1日54歳で(参議を経ず)中納言に任ぜられ、藤原仲麻呂の乱後、天平神護2年(766)1月8日には58歳で大納言に昇進*7している。ただ『続紀』の「光仁天皇即位前紀」には「・・・自勝宝以来 皇極無弐 人疑彼此 罪廃者多 天皇深顧横禍時 或縦酒晦迹・・・」=「(天平)勝宝以来より、皇(称徳)極めて無弐(むに=二心の無い)人を彼此かれこれ疑い、罪廃(刑罰を加え廃する)者多し。天皇(光仁)深く顧み、横禍(おうか=不慮の災難)を深く顧みる時 縦酒(しょうしゅ=ほしいままに酒を飲む)、晦迹(かいせき=隠れてくらます)・・・」とあり、酒を飲んで凡庸を装い難を逃れたと言われている。

*7 昇進の記事は『続紀』にはない。10世紀後半の「公卿補任(くぎょうぶにん)」という歴代朝廷の高官名を列挙した、いわゆる職員録に掲載されている。

即位後の経緯

宝亀元年(770=本来は神護景雲4年)10月1日即位し、肥後国から献上された白亀を祥瑞として宝亀改元する。そして宝亀元年(770)11月6日井上内親王を皇后とし、宝亀2年(771)1月23日他戸おさべ親王立太子する。

宝亀3年(772)3月2日裳咋足嶋もくいの たるしまの自首で、皇后の井上内親王が巫蠱(ふこ=巫女による呪詛)の罪で皇后を廃された。更に宝亀3年(772)5月27日他戸親王も皇太子を廃され、庶人(しょにん/しょにん=一般人)とされた。井上内親王の魘魅(えんみ=呪い殺す行為)が一度や二度でなく、その子を皇太子にしておく訳にはいかないとのことであった。翌宝亀4年(773)1月2日光仁天皇の宮人(正妻以外の者)であった高野新笠たかのにいがさとの子である山部やまべ親王が皇太子に立てられた(後の桓武天皇)。この背景には、藤原百川ももかわ藤原式家の兄弟と山部親王の陰謀説もある。更に、宝亀4年(773)10月14日天皇の同母姉=難波内親王薨去すると、巫蠱の罪で皇后を廃された井上内親王が、後にまた難波内親王を厭魅したとして、10月16日井上内親王他戸親王大和国宇智郡(現奈良県五條市)に幽閉された。二人は宝亀6年(775)4月27日逝去したとある。高齢の天皇の皇后と皇太子は、何もせずに待てば、皇太后皇位に就くはずが、わざわざ巫蠱・魘魅を行う動機はみあたらない。鎌倉時代初期(1195年頃)成立とされる「水鏡」には少しドロドロした物語として記されている。原因はどうであれ、結果として、天武天皇の皇統は完全に絶えることになる。

宝亀6年(775)7月1日百川とともに光仁を支えた藤原蔵下麻呂くらじまろが急死、同年10月2日、即位時の右大臣だった吉備真備薨去地震・台風・落雷・飢饉等の天変地異も続き、宝亀8年(777)3月19日記事には「大祓 為宮中頻有妖怪也」=「宮中に頻しきりに妖怪が出たため、大祓した」ともある。そして宝亀8年(777)4月・5月・6月・8月・9月と従二位・三位・四位の者が亡くなり、遂には11月1日に光仁が、更に12月25日に山部親王が発病する。『続紀』には宝亀8年(777)12月28日井上内親王を改葬し、その墳はかを「御墓みはか」と称し、守戸(墓守)を置くようにしたとあり、井上内親王母子の祟りが一因と考えたのだろう。なお、この年の冬は、雨が降らず、井戸が皆涸れたとある。翌年宝亀9年(778)1月1日も皇太子の容体は良くなく、宝亀9年(778)3月23日淡路親王(淳仁)の墓を「陵」扱いし、(淳仁の)母の墓も「御墓」と称することとしているので、淳仁の祟りも恐れたのだろう。翌日24日「皇太子の容体が悪く、治療を施しても良くならない」として大赦も命じている。

東北の蝦夷えみし動向

東北情勢に関しては、古くは倭王武が中国南朝の宋の皇帝に送った「倭王武の上表文」中に「・・・東は毛人を征すること、五十五国・・・」と、21代雄略期に東征の形跡がある。『紀』には大化3年(647)に越国に渟足柵(ぬたりのさく=城柵=現新潟市)と大化4年(648)に磐舟柵(いわふねのさく=現新潟県村上市)の設置が記されているが、いわゆる『蝦夷』の反乱記録はない。斉明5年(659)3月阿倍臣比羅夫ひらふによる飽田(あぎた=秋田)・渟代(ぬしろ=能代)津軽を征した旨の記事も見えるが、『蝦夷』は従属的であったようだ。大宝年間(701~)に入り、小競り合いが発生し出す。『続紀』には和銅2年(709)3月5日「陸奥・越後二国蝦夷 野心難馴 屡害良民」=「陸奥・越後二国の蝦夷 野心(従わない心)難馴(飼いならすのが難しく) 屡しばしば良民を害す・・・」とあり、陸奥鎮東将軍・征越後蝦夷将軍を征伐に派遣している。これより以後、蝦夷との衝突は史料上「蝦夷反乱」という形で記録されるようになる。

天平21年(749)2月に陸奥国(現宮城県)北部の遠田とおだ郡湧谷わくや町で金が発見され、大仏建立のため黄金900両(13kg)が献上された。産地である東北を巡る政策が、一般に言う「38年戦争」の契機となる。宝亀11年(780)3月22日陸奥国蝦夷族長の伊治これはり呰麻呂あざまろが反乱を起こす(伊治城で道嶋大楯・紀広純らを殺害し、更に多賀城を襲撃し略奪放火)。その後の蝦夷征伐の戦費が、いずれ国費を圧迫することになる。

譲位と陵

天応元年(781)1月1日伊勢斎宮に現れた美雲を祥瑞(しょうずい=吉兆=瑞祥)とし「天より之に応じ」=天応に改元する。そしてその元年(781)4月3日光仁は健康と高齢を理由に、皇太子(山部親王)に譲位する。同年12月23日73歳で崩御天応2年(782)1月7日広岡山陵(後佐保山陵とも=聖武陵の西)に埋葬されたが、喪の明けた延暦元年(782)8月9日改葬先の検分で、治部卿・左中弁や陰陽師ら13人が大和国に赴いている。その後都が長岡に遷り、延暦5年(786)10月28日大和国田原陵=現「田原東陵」に改葬された。歴代陵墓とは違い、奈良盆地東端から5~6km東の山間の地で、今でも田んぼの中にポツンと佇んでいる。近くに光仁の父=志貴(施基)親王墓があったからかも知れないが、わざわざ改葬したのは、平城京から遠ざけたかったのかもしれない。陵は径40m前後・高さ7~8mの2~3段築成の不整形円墳で、幅7mの空濠がある。「塚ノ本古墳」「王の墓」とも呼ばれていた。                                     

遠景北望         制札           拝所           北面南望

井上内親王

50代桓武天皇期の延暦19年(800)7月に、皇后位への復位や御墓を山陵と称することとされ、その頃に御霊ごりょう神社(本殿祭神が井上内親王)も創建されたと伝わる。現在、奈良県五條市御山みやま町の『宇智陵うちのみささぎ』に治定されている。

             遠景西望         制札           拝所

志貴親王(春日宮天皇)陵

奈良県奈良市矢田原たわら町。『田原西陵たはらにしのみささぎに治定されている。光仁天皇の父=志貴(施基)親王の陵。天智天皇の第七皇子。持統3年(689)撰善言司(よきことえらぶつかさ=良い説話・教訓の撰上役)に任ぜられた程度で要職任官記録はない。文武朝に四品、703年持統葬儀では造御竃司(火葬の設営責任者)務め、707年文武の殯宮にも参列。元明(志貴の異母姉)が即位し、708年三品、715年二品。元正朝の霊亀2年(716)8月11日に薨去。天武系皇統期は皇位継承とは無縁で、和歌などの道に生きたらしい。宝亀元年(770)11月6日光仁が、父を春日宮天皇と追尊号している。

制札           参道           遠景北望         拝所

太安万侶の墓

光仁天皇等とは直接関係ないが、古事記(712年)の編纂者とされる。光仁陵南西側600m、奈良県奈良市此瀬町の茶畑の中にある。墓は方形の土壙に、火葬骨を納める木櫃きびつを木炭槨で覆う構造で、墓誌が木櫃の下から発見された。墓誌は短冊形(縦29cm×横6㎝)の薄い銅板で、表面に2行41字の銘文が刻まれていた。安万侶が平城京左京四条四坊に居住したことや養老7年(723)7月6日に没したことが判明した。元明・元正期の人物で、709年生まれの光仁とは多少重なっているので、ひょっとして面識があったかもしれないが・・・。

位置関係         茶畑           墓所           案内

 

50代『桓武天皇陵』早良親王(崇道天皇)陵・皇后藤原乙牟漏(高畠)陵

2017年5月9日(火)参拝。京都市伏見区桃山町永井久太郎ながいきゅうたろう。50代「桓武天皇(在位781年~806年)」の『柏原陵かしわばらのみささぎに治定されている。

出自

諱は山部親王光仁天皇の長男(第一王子)。母は、百済系渡来人氏族で「史ふひと姓の和やまと氏」出身の高野新笠たかのにいがさ。中央政権に官人を出す氏族ではなかったため、光仁天皇の皇后=井上内親王が廃され、子の山部親王が皇太子となっても、光仁の皇后にはなれず、従三位「夫人」の位ままであった。宮は平城京から、784年長岡京、そして794年平安京に遷都したことは著名である。

即位後の経緯

天応元年(781)4月3日父の光仁から譲位され、翌日の4日には早くも同母弟の早良親王を皇太子と定めた。既に安殿親王(あて=後の平城(へいぜい)天皇)が774年に生まれていたが、一般に「たすき掛け継承*8」と呼ばれる皇位継承を企図したのだろう。そして15日に即位する。翌年延暦1年(本来は天応2年=782)閏1月1日氷上川継ひかみかわつぐの謀反計画*9が発覚する。8月19日「延暦えんりゃく」に改元する*10延暦2年(783)4月18日に藤原良継(藤原百川の兄)の娘=藤原乙牟漏おとむろを皇后*11とし、786年神野親王(かみの=後の嵯峨天皇)を儲けた。また同年に、百川の娘=藤原旅子(夫人)との間に大伴親王(後の淳和天皇)を儲けている。

*8 たすき掛け継承 「父→子」でなく「兄→弟」→「弟→兄の子」へといった継承。弟への継承は、ある意味で、幼少の子が成年となるまでを繋ぐ継承方式。ただ予定した皇太子の廃位で、51代平城→52代嵯峨(平城の弟)→53代淳和(嵯峨の弟)→54代仁明(嵯峨の子)という変則的な「たすき掛け」で終わる。

*9 氷上川継の謀反計画 「新田部親王の子=塩焼王」と「聖武皇女=不破内親王」との子。神護景雲3年(769)5月29日称徳天皇呪詛の罪で配流された氷上志計志麻呂の弟。父塩焼王仲麻呂の乱で敗死し、母の不破内親王も称徳呪詛の嫌疑で皇親の身分を奪われ、皇位継承候補ではなかった。しかし天武血統で、反政府勢力の期待を集めていた。781年山部親王桓武天皇として即位後、同年12月光仁太上天皇崩御する。翌天応2年(782)閏正月10日に川継の従者=大和乙人が、密かに武器を帯び宮中に侵入し捕縛された。尋問を受け「川継一味が当夜、宮に押し入り朝廷を転覆する」という謀反計画を自白。翌11日川継召喚勅使が派遣されたが、川継は逃亡。14日川継は大和国葛上郡(かつじょうぐん=御所市周辺)で捕らえられた。光仁上皇喪中のため罪一等を減じられ、川継と妻藤原法壱(ほうい)共々伊豆国へ遠流。不破内親王と川継姉妹は淡路国へ配流。法壱の父参議藤原浜成は解任。浜成の属する藤原京家はこれを契機に凋落に向かう。天武系皇統は実質的に廃絶した。

*10 延暦 『後漢書』の一節に由来するとされ、漢籍による命名。これ以後年号は祥瑞によるものが漸減。

*11 藤原乙牟漏 藤原式家藤原良継の娘で桓武の皇后となった。つまり臣下の娘で、光明子以来の臣下氏族出身者。桓武の子=平城・嵯峨天皇の皇后も臣下氏族出身で、皇女が皇后となる時代ではなくなり、女帝誕生の眼は無くなった。

事蹟

健児こんでい(一般農民等からの徴発でなく、専任の兵士集団)導入や蝦夷討伐等もあるが、最も著名なのは延暦3年(784)11月11日長岡京への遷都と、延暦13年(794)10月22日平安京への遷都であろう。

長岡京

延暦3年(784)11月11日遷都。現在の京都府向日むこう市・長岡京市京都市西京区に亘る、東西4.3kmで8坊・南北4.9kmで9条半とされている。『続紀延暦3年(784)5月16日中納言藤原小黒麻呂藤原種継(式家清成の子で、宇合の孫)らを遷都予定地の山背国乙訓郡長岡村に検分に行かせている。更に、同年6月10日藤原種継らを造長岡宮使に任命し、宮殿造営に取り掛かった。難波宮大極殿だいごくでん平城京の建物が移築された。そして11月11日桓武天皇が長岡宮に遷った。
この地は桂川宇治川等、3本の大きな川が合流して淀川となり、物資を船で効率よく運ぶことができ、陸路中心だった平城京の問題を解消できた。京内も水利が良く、道路脇の流水を邸内に引き込み、下水が都南東から川へ流れ出ることで、平城京での下水問題も解消した。また、平城京の街区は条坊の道路の中心線を基準にしているため、(道路沿いは道路幅分狭くなる=)分割地割なので街区の形が多類型だったが、長岡京(最初から道路幅を計算に入れ地割を行う=)集積地割のため街区の類型は少なかったと言われている。『続紀延暦10年(791)9月16日平城宮の諸門を移築したとあり、平城京は名実ともに廃都となり、藤原京以降の大寺のみが残る仏教相承の街区となった。遂に天武系の都と皇統は途絶え、天智系の都と皇統に移った。     

S29年(1954)大極殿跡を中心に発掘調査が始まり、出土した木簡等の遺物は向日市文化資料館に展示されている。京都府向日市鶏冠井かいで町=阪急京都線西向日駅北の大極殿公園(S40年史跡公園指定)では、道路北側に小安殿しょうあんでん跡、南側に大極殿跡が整備保存されている。また150m程南(駅側)には朝堂院公園として、朝堂院の西第四堂・南面回廊跡が整備保存されている。更に線路を挟んだ東側200mに内裏だいり公園があり、大極殿・朝堂院が内裏から完全に分離された様子を伝えている(聖武彷徨後の後期平城京では内裏・大極殿・朝堂院が南北に連なっていた)

長岡宮跡北東口   案内                   小安殿跡      大極殿

朝堂院公園案内              西第四堂跡               南面回廊跡

平安京遷都の間接的契機=藤原種継暗殺事件

続紀延暦4年(785)9月23日記事に「藤原朝臣種継被賊射薨」とあり、長岡宮造営責任者の種継が夜に矢で射られ翌日薨去するという事件が起こる。24日には大伴継人・大伴竹良ちくら等数十人が捕縛され、斬首や配流となる。また、事件直前の8月28日蝦夷征伐中に死去していた大伴家持も、首謀者として官籍を除名された(結果、大伴氏が没落する)。更に皇太子=早良親王も廃位される。『続紀』には、延暦4年(785)10月8日家臣たちを山科山陵(天智陵)・田原山陵(志貴親王陵)・後佐保山陵(改葬前の光仁陵)に遣り、皇太子廃位の旨報告させ、11月25日安殿親王(あて=桓武第一皇子)立太子したという記事しかないが、『日本紀略(六国史の抜粋だが、正史から削除された部分も掲載されている)から次の内容が読み取れる。
長岡京遷都の一因は、平城京の南都寺院の影響力排除であり、種継暗殺はそれを阻止するために南都寺院が企てたとの嫌疑がかけられた。東大寺の指導者的高僧でもあった早良親王にも嫌疑が及び、廃太子され乙訓寺に幽閉された。親王は無実を訴えるため絶食し、淡路に配流される途中に河内国高瀬橋付近(現守口市高瀬神社付近)で衰弱死した。」
早良親王は皇太子であり、敢えて種継暗殺に加担する動機はやや希薄で、むしろ藤原式家以外の藤原氏による大伴等反藤原勢力潰しの説がある。

平安京遷都の直接的契機=「祟り」

この後、桓武の縁者が続けて亡くなる。『続紀』によると、桓武夫人の藤原旅子(延暦7年=788の5月4日、30歳)桓武生母高野新笠(延暦8年=789の12月28日)、皇后の藤原乙牟漏(延暦9年=790の閏3月10日)、妃の坂上又子(延暦9年=790の7月21日)。また、延暦9年(790)に日照りによる飢饉が多発。3月15日紀伊・淡路・参河・飛騨・美作、3月30日参河・美作、4月5日備前・阿波、4月29日和泉・参河・遠江・近江・美濃・上野・丹後・伯耆・播磨・美作・備前・備中・紀伊・淡路、8月1日太宰府(8・8万人の大飢饉)、更には7月以降天然痘が流行したとある。延暦10年(791)5月12日豊後・日向・大隅紀伊での飢饉。そして延暦10年(791)10月27日皇太子安殿親王が病気になる。『日本紀略』には延暦11年(792)6月10日安殿親王の病気を占わせると、「早良親王の祟りである」と出たため、諸陵頭らを淡路国に遣わして、その霊をなぐさめたとある。そして延暦11年(792)3月24日伊勢神宮で失火。6月22日雷雨による洪水で式部省の南門が倒壊し、8月9日には和歌山等で大雨による洪水が発生する。
さすがにここまで不吉な兆しが続くと、遷都の地が縁起が悪いと思わざるを得なかっただろう。天然痘による藤原4兄弟逝去等の異変により、聖武天皇恭仁京等に遷都したのに似ている。ただ、聖武の場合自然の天変地異だが、今回の場合は自分が廃した早良親王の祟りが一因でもあった。
『類聚國史るいじゅうこくし(六国史を項目ごとに分類再編集した一種の歴史辞書。892年完成)には、この頃相前後して、桓武が度々猟に出た記事がある。延暦11年(792)1月20日登勒野とろの(葛野川かどのがわ=現桂川周辺)、同年2月6日水生野みなせの、2月18日大原野(現向日市西側)、2月27日栗前野くりまえの、9月9日大原野、9月21日栗前野、9月25日登勒野、9月28日交野かたの、10月14日大原野、閏11月2日水生野、閏11月9日葛葉野くずはの、閏11月16日大原野、閏11月18日石作丘、閏11月24日登勒野。おそらく延暦10年(791)~11年(792)には長岡京からの遷都を考え始め、候補地の下見を兼ねていたとも言われている。

平安京

日本紀略延暦12年(793)1月15日記事に「遷都するため大納言らを山背國葛野かどの郡宇太村(現京都市辺り)に派遣」とあり、2月2日記事に「遷都報告のため参議を賀茂大神に派遣」とある。更に、3月1日「桓武自ら葛野に行き新京を巡覧(視察)」、3月7日「新京宮城の内となる四十四町に立退補償」し、3月10日「參議を伊勢神宮に遷都報告に派遣」、3月25日「天智陵・光仁陵・志貴親王陵にも遷都報告」をし、本格的な遷都事業が始まったと見られる。長岡京延暦10年~11年には造営が中断されていたのだろう。

『拾芥抄(しゅうがいしょう=鎌倉後期~南北朝頃の一種の辞典)延暦12年(793)6月23日記事に、諸國造に新宮諸門造営を命じたとある(内訳は尾張・美濃國=殷富門、越前國=美福門、若狭・越中國=安嘉門、丹波國=偉鑒門、但馬國=藻壁門、播磨國=待賢門、備前國=陽明門、備中・備後國=達智門、阿波國=談天門、伊與國=郁芳門。内裏や朝堂院を含む大内裏=平安宮を守る大垣に設置された東西南北各3門=12門のうちの10門)。また『類聚國史』延暦12年(793)11月2日にも新京を巡覧したとあり、平安京造営が、かなり進んでいたのだろう。

日本紀略』に延暦13年(794)10月22日「車駕遷于新京」、『拾芥抄』には延暦13年10月23日「天皇自南京 遷北京」とある。初代神武(崇神との説も)以降遷都を繰り返してきた宮が、50代桓武期以降、明治2年(1869)に東京(江戸)に移転するまでの1000年程の間、固定されることになった。『日本紀略延暦13年(794)10月28日遷都の詔で「葛野の大宮地は、山川も麗しく、四方國から百姓が參ずることが出來、便(利)」とあり、更に『日本紀略』同年11月8日の詔で、「此の國は山河が襟帶(きんたい=取り囲み)し、自然に城を作なす。斯の形勝に因り、新しい号(名)を制さだむべし。山背國を改め、山城國と為す。又、子來(しらい=慕って集まる)の民、謳歌(おうが=声を揃えて褒める)の輩(ともがら=人達)、異口同辭(いくどうじ=異口同音)に、平安京と号す。又、近江國滋賀郡古津は、先帝の舊都(旧都)、今輦下(れんか=天子のひざ元)に接し、追昔(ついせき=昔をしのび)改めて大津と称すべし」とある。

京域は、桂川と鴨川に囲まれた東西4.5kmで8坊・南北5.2kmで9条半(藤原・平城・長岡京とほぼ同規模=唐の長安城の1/4)。北辺の宮は東西約1.1km、南北約1.3km(藤原・平城・長岡宮とほぼ同規模)。116m四方を『町』とし、4×4町=16町の区画(『坊』)を大路で囲み、東西の列を『条』と呼び、南北方向の列も『坊』と呼んだ。坊長や条令という責任者を置いた。大路は幅30m(現9車線相当)・小路は12m(4車線程)。宮から見て東側を『左京』、西側を『右京』とし、その真ん中を分ける(宮の南端中門=朱雀門~南京極真ん中の羅城門)朱雀大路は実に幅84m(25車線相当)であった。

京の造作は、(原則)先ず『宮(「天皇の居所=」内裏と「儀礼開催スペースと役所=」朝堂院等)』を造営し天皇が遷り、それと並行して京域を順次造営していった。784年~794年の長岡京は、実質791年~792年には造営が中止されており、碁盤の目に整然と住居が立ち並んだ完成形ではなかっただろう。平安京も、蝦夷征伐(38年戦争)と京造営で国費がかさみ、延暦24年(805)12月7日造営が中断*12された結果、未開発地区がそこそこ残ったらしい。特に右京の西側は桂川(右京の真ん中を南北に流れていた)紙屋川に挟まれ、居住にも耕作にも不適な土地が多かったらしく、10世紀末までに衰退していく。また左京の南側も鴨川の洪水等で侵され、徐々に北側に集中していくことになる。

*12 『日本後紀延暦24年(805)12月7日「參議・・藤原朝臣緒嗣に、參議・・菅野朝臣眞道と天下の徳政の相論(討論する)を命じた。緒嗣は議して云く『方(まさ)に今天下の苦しむ所 軍事と(京)造作也 此の両事を停やめる。・・眞道は異議を唱えるが、帝は緒嗣の議(意見)を善(道理に叶っている)とした。即ち従い停廢(ていはい=予定を取りやめる)す。有識者之を聞きて、感歎(感心して褒め称える)せざる無し」。いわゆる「徳政相論」の結果である。

「祟り」の鎮魂

前述の通り、延暦10年(791)10月27日皇太子安殿親王が病気になり、(『日本紀略』)延暦11年(792)6月10日安殿親王の病気を占わせると、「早良親王の祟りである」と出たために、諸陵頭らを淡路国に遣わして、その霊をなぐさめたとある。そして『日本紀略延暦19年(800)7月23日記事に「詔曰 朕有所思 宜故皇太子早良親王 追稱祟道天皇 故廃皇后井上内親王 追復稱皇后 其墓並稱山陵 令・・大伴宿禰是成 率陰陽師衆僧 鎮謝在淡路國祟道天皇山陵」。つまり早良親王崇道天皇追号し、井上内親王を皇后位に復しその墓を陵とした。そして大伴是成に淡路国津名郡の山陵へ陰陽師や僧を率いて陳謝させるよう命じた。そして墓守も置いた。
それでも怨霊への恐れが止まなかったのか、『後紀』には、延暦24年(805)4月11日崇道天皇の改葬を命じたとある。そして同年6月に帰国した遣唐使(約1年前、空海最澄が渡唐した遣唐使)が持ち帰った唐の品物を7月27日に山科(天智陵)・後田原(光仁陵)崇道天皇陵に献じたとあり、天智・光仁と同格扱いしている。父の光仁も、皇后井上内親王等の祟りをかなり恐れており、桓武も皇太子時代から「祟り」には過敏になっていた事だろう。

崩御と陵

『後紀』延暦24年(805)4月6日記事に「天皇召皇太子已下(以下)參議已上(以上) 託以後事」とあり、桓武がかなり重体だったと思われる。そして翌年(大同元年806*13)1月1日「廢朝(天皇が執務しない) 聖躬(天子の体)不豫(不予=病気)也」。3月17日、延暦4年種継暗殺事件の罪人(大伴家持大伴継人等)を本位(元の位)に戻し、桓武天皇崩御した。70歳であった。同年3月19日山城國葛野郡宇太野(現京都市右京区北東部)を山陵の地としたが、3月23日「初七日の日、日赤く光無し。大井・比叡・小野・栗栖野等で山共に焼け、煙灰が四方に満ち、京中が昼なのに昏くらくなった・・・」。占うと賀茂神の祟りと出て、4月7日(山陵地を改め)山城國紀伊郡栢原かしわばら山陵に葬った。

*13 806年5月18日51代平城天皇が即位時に大同に改元。正史である『後紀』に「年を越えず改元するのは非礼だ。臣下としては、一年に二君あるのは忍びない」と批判している。

その栢原山陵は、現在、京都市伏見区桃山町永井久太郎の『柏原陵かしわばらのみささぎに治定されている。ただ、柏原陵の所在は中世の動乱で不明となり、更に秀吉がすぐ近くに伏見城を築いたため、深草と伏見の間辺りとのみ伝わった。元禄修陵で深草鞍ヶ谷町にある浄蓮華院境内の谷口古墳とされるが、幕末に改めて現陵に治定された。なお、伏見区深草大亀谷古御香ふるごこう町に大亀谷陵墓参考地おおかめだにりょうぼさんこうちがある。また柏原陵の南東200mに伏見桃山城、そこから南東400mに明治天皇陵がある。

参道東望      制札        遠景北東望      拝所

崇道天皇(早良親王)陵

2019年4月8日(月)参拝。奈良県奈良市八島町の『八島陵やしまのみささぎに治定されている。延暦24年(805)4月11日崇道天皇の改葬を命じ、大和国(奈良市八島町)に移葬した。陵の東300mには親王を祀る嶋田神社や、さらに北北西3kmに崇道天皇社等、近辺に親王を祀る社寺が点在する。京の鬼門に位置する高野村(現左京区上高野)には、京都で唯一早良親王のみを祭神とする崇道神社がある。延喜式諸陵式では「東西五町、南北四町、守戸二烟」。形はやや楕円形で、周囲に方形の土塀が廻り、樹木が繁るため方形墳のようだが、「陵墓要覧」では円墳と分類されている。陵のすぐ前の道路に、封土が失われ横穴式石室の天井石材が露出した古墳跡がある。南北長さ約7m・幅約3m。近隣ではこの巨石は「八つ石」と呼ばれ、言い伝えでは早良親王淡路国で死に際し石を9つ投げ、落ちたところに葬って欲しいと告げて絶命。そのうち8つがこの地で見つかり、親王の陵が当地で造営されたと伝わる他、一説には八島の地名の由来ともなったとされる。実際は、古墳時代後期の築造と見られ、早良親王とは直接の関係はない模様。石を除こうとする工事関係者が死んだり病で倒れたという祟りの伝承がある。

遠景北東望     制札         拝所        八つ石       案内

藤原乙牟漏(高畠)陵

2019年10月28日(月)参拝。京都府向日市寺戸町。50代桓武天皇皇后、藤原乙牟漏=天之高藤廣宗照姫あまのたかふじひろむねてるひめ『高畠陵たかばたけのみささぎに治定されている。『続紀延暦9年(790)閏3月10日薨去、同月28日記事に「葬於長岡山陵」とある。径約65m・高さ約7mの円形。もとは古墳時代前期の円墳だったとされる。皇后は式家藤原良継の娘で、安殿親王(51代平城)と神野親王(52代嵯峨)の母。

遠景北望             制札                拝所

 

結び

以上、第50代桓武天皇までの古代史を、『陵』という共通項で纏めた。冒頭にも書いたが、そもそも古墳に「はまった」のは、古代史への興味が最初。古代史の鍵の一つである大和政権の萌芽とともに、3世紀中頃に弥生時代の墳丘墓が古墳に変貌し、そして7~8世紀に到り政権構造の変化と薄葬意向等によって古墳が造られなくなるまで、古墳は古代の「大王おおきみ天皇すめらみこと」の系譜と密接にリンクする。そこで天皇陵にも興味を持ち、現在治定されている初代神武天皇~50代桓武天皇陵まで一通り巡った。その記録整理も兼ねて、気軽にブログを書き出したが、時代が下るにつれ=特に『続紀』以降=記録が細かく史実性を増し、陵よりも歴史部分の記載が主になってしまった。読む側にとっては、とても読み辛い内容で、結果自分の古代史の知り得た内容を整理しただけの形になってしまった。

ただ、どの陵も同形式の拝所で、立入禁止。見るだけならその他の古墳の石室等の方が余程面白い。なので、少しは古代史を知ったうえで参拝されることをお勧めしたい。