OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

佐紀盾列古墳群

佐紀盾列古墳群とは・・・

佐紀盾列たてなみ/たたなみ古墳群は奈良市北部の佐紀丘陵の南西斜面先端部に立地する大小60程あった古墳群。主要古墳として、西から東に五社神古墳、佐紀石塚山古墳、佐紀高塚古墳、佐紀陵山古墳、衛門戸丸塚古墳、佐紀瓢箪山古墳、猫塚古墳、塩塚古墳、オセ山古墳、市庭古墳、ヒシアゲ古墳、小奈辺古墳、宇和奈辺古墳が並ぶ。そしてその南側に平城京跡が広がる。

「盾列」は周濠が盾(楯)型で、前方部を南に向けるいくつかの古墳が、南北方向に平行して並ぶ様子を言い表したようで、五社神古墳(神功皇后陵)と佐紀石塚山古墳(成務天皇陵)の陵墓名に「狭城盾列」とあることから、平城京遷都後の言葉と推定される。

主要古墳

2015(H27)年11月11日(水)訪問。近鉄京都線の平城へいじょう駅北側の五社神古墳(上図①)から巡った順路に沿って掲載します。また天皇陵や后妃陵が多く存在しますので、下記も参照下さい。

天皇陵 - OSAKA-TOM’s diary

①五社神ごさし古墳

奈良市山陵町。(4世紀末頃~)5世紀初頭の、前方部を南に向ける前方後円墳。左右非対称な前方後円墳で、復原推定全長267m、後円部は4段築成で径約190m・高さ27m、前方部は3段築成で幅150m・高さ約21m。佐紀盾列古墳群中では最大級で、全国13位の規模。くびれ部西側では造出しの存在も推定され、墳丘表面では葺石と円筒・朝顔形・壺形・盾形・家形・蓋きぬがさ形埴輪が検出されたとのこと。江戸時代の盗掘史料から、埋葬施設は長持形石棺を納めた竪穴式石室と考えられている。かつて後円部墳頂に存在した祠が「五社神」の名称由来。現在、「14代仲哀ちゅうあい天皇の皇后=神功じんぐう皇后=日本書紀では気長足姫尊おきながたらしひめのみこと古事記では息長帯比売命」の『狹城盾列池上陵さきのたたなみのいけのえのみささぎ』に治定されている。すぐ南に13代成務天皇陵や日葉酢媛ひばすひめ陵があるが、「続日本後記」に「神功皇后陵と成務天皇陵を混同していた」という記事かあり、その後も現日葉酢媛陵が神功皇后陵とされていたとか、文久3年(1863)現陵に治定されるまで、二転三転していた。なお、陪塚として域内陪冢・飛地い・ろ・は・に号が宮内庁管理されている。

日本書紀」では、「仲哀天皇が九州の熊襲討伐途上に香椎宮にて急死し、その後神功皇后熊襲を討伐。そして住吉大神の神託に従い、子供(15代応神天皇)を身ごもったまま玄界灘を渡り朝鮮半島に出兵し、新羅は戦わずして降服、高句麗百済朝貢を約した」という『三韓征伐』の記事等、仲哀天皇より事蹟記事が多く、69年間執政したとある。日本書紀編纂者が「卑弥呼」に擬したとの説もある。なお、応神天皇を主神として、比売神ひめがみ神功皇后を加えた八幡三神は、武家社会の神として祀られている。 

平城駅北口から北東望   八幡神社北望       陵方面北東望       参道下制札

参道                        拝所遠景北東望      拝所北望  

*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

*写真は2015年11月。季節や経過年数により周辺の様子や目印が変わることが多いので注意ください。

②佐紀石塚山古墳

奈良市山陵町。4世紀後半の、前方部を南に向ける前方後円墳で、全長218m、後円部は3段築成で径132m・高さ19m、前方部も3段築成で幅121m・高さ16m。周濠は前方部南側を除き、幅が狭く、東側は極端に狭い。これは下記「佐紀陵山古墳」の後円部がくびれ部東側に食い込んでいるためで、佐紀陵山古墳が少し先に築造されたと考えられるが、巨大古墳がこのような形で近接するのは珍しく、理由は分からない。現在、「13代成務天皇=稚足彦尊(わかたらしひこのみこと、「古事記」では若帯日子)」の『狹城盾列池後陵さきのたたなみのいけじりのみささぎ』に治定されている。江戸時代の記録には後円部に竪穴式石室と長持形石棺があり、鏡・玉類・剣等が盗掘されたらしいが詳細は不明。なお、陪塚として後円部北側から北東にかけて3基(い・ろ・ほ号)が宮内庁管理されている。

成務天皇の事蹟として「記紀」に「山河等を境に国郡くにこおり・県邑あがたむらを定め、造長くにのみやつこ・稲置いなぎを任命し、地方行政機構整備を図った」とあるが、実年代である4世紀では考えられないとの説が一般的。

参道登口東望       前方部参道西望      制札           拝所北望

西側周濠北望       前方部南側周濠西望    東望           東側周濠北望

③佐紀陵山みささぎやま古墳 

奈良市山陵町。4世紀末の、前方部を西に向ける前方後円墳で、全長207m、後円部は3段築成で径131m・高さ約20m、前方部も3段築成で幅約87m・高さ12.3m。西側に接する佐紀石塚山古墳のくびれ部東側に後円部がくい込んでいる。現在、「11代垂仁天皇皇后=日葉酢媛命(ひばすひめのみこと、日葉酢根命とも日葉洲媛命とも。「古事記」では氷羽州比売命、比婆須比売命)」の『狭木之寺間陵さきのてらまのみささぎ』に治定されている。 

1915年(T4)に盗掘され、翌年宮内省が復旧工事を行なった際に、石室付近と出土遺物の詳細調査記録が作成された。後円部墳頂中央の方形区画下に、ほぼ南北方向の竪穴式石室があり、長さ約8.5m・幅約1.1m。東西側壁は扁平割石の小口積みだが、南北側壁は一枚石で、その石の上半中央部に孔が開けられていた。同じ様な孔が開いた石は、大阪府柏原市の松岳山まつおかやま古墳に見られ、特異な例である。内部には長大な木棺を納めていたと思われる。石室天井石は5枚で、各々に縄掛突起が付いていた。さらにこの天井石の上に、石棺の蓋の様な大型の石が置かれており、表面に直線の平行文様が線刻されていたとのこと。石室上部には、小さく円形に土を盛り、そこに7~8個の蓋きぬがさ形埴輪と数個の盾形埴輪が立てられていた。また、その盛土最高所の蓋形埴輪は高さ1.5m・幅2mと大きく、キヌガサ上部には複雑な直弧文が巡り、4枚の突出部分=鰭ひれにも直弧文があった。盾形埴輪は高さ1.08m・最大幅0.8mで、木製盾を模したと推測され、これも直弧文で飾られていた。石室内からは流雲文縁変形方格規矩ほうかくきく鏡・唐草文縁変形方格規矩鏡・直弧文縁変形内行花文鏡(いずれも径33cm前後)、管玉1、車輪石3・鍬形石3・石釧いしくしろ1の石製腕飾り、刀子とうす3・斧1・高杯2・椅子1の石製模造品、琴柱形ことじがた石製品、石製臼1等が出土したらしい。

日葉酢媛の父は「10代崇神天皇期の四道すどう将軍」の1人丹波道主王たにはのみちぬしのみこと。「日本書紀」に「前皇后狭穂姫命が垂仁5年に薨去の後、その遺志により垂仁15年に丹波から後宮に迎え、立后された。垂仁との間に12代景行天皇の他2皇子・2皇女を産む」とある。②佐紀石塚山古墳の被葬者とされる13代成務天皇にとっては祖母に当たる。更に、「日本書紀垂仁32年条」に、「葬儀に際し従来の殉死習慣につき天皇が群臣に問うと、野見宿禰が『生人に替えて土物(はにもの=土で作った人形等)埋納』を進言し、この土物を名付けて『埴輪』と呼んだ。野見宿禰はその功で土部はじべの職に任じられ、土師氏の祖となった・・・」とある。つまり埴輪の起源とされるのがこの古墳ということになるが・・・?

左=成務右=日葉酢媛陵 後円部西側周濠      拝所遠景南東望      西側周濠方面北望

制札           拝所           拝所西側         東側

*マエ塚古墳 佐紀陵山古墳の後円部北側に隣接した4世紀末~5世紀初頭の円墳だが、消滅している。2段築成・径50m・高さ7mで、幅13mの周濠が巡り、更にその外堤が幅28m・高さ1.5mという大規模なものだったらしい。消滅前に調査され、南北方向の長さ9m・深さ2mの墓壙の基底部に小礫を敷き、その上を厚さ1mの粘土で覆っていた。更に、その上にベンガラを浸した布を敷き、朱塗りの割竹形木棺(径60cm・長さ不祥)が納められていた。また、棺の北に接して、櫃の様な施設=副室(東西115cm・南北65cm)が検出されたとのこと。棺内から碧玉製石釧の完形品1・破片9、副室から銅鏡9・石製合子2・石製坩1が出土。また棺の外側にも遺物置き場?として布が敷かれ、鉄斧・鍬刃先・鉄鎌・直刀・剣形鉄器(鉄剣119・鉄刀24)・刀子等多くの鉄器も出土した。墳裾では円筒埴輪列、朝顔形埴輪が検出され、墳頂部からは家形埴輪・形象埴輪片が検出された。更に墳丘中段からも円筒棺1基が検出され、外堤部からも2基の円筒棺が検出されたとのこと。   

④佐紀高塚古墳

奈良市山陵町。4世紀代の前方後円墳だが、唯一前方部を西に向ける。全長127m、後円部は3段築成で径84m、前方部も3段築成で幅70m。墳丘周囲には、不連続ながら鍵穴形で幅の狭い周濠が巡る。主体部の埋葬施設や副葬品は不詳。現在、「48代稱德しょうとく天皇(46代孝謙天皇重祚=再度即位=在位749~770)」の『高野陵たかののみささぎ』に治定されている。ただ、築造年代、墳丘方向や規模から疑問視される。

前方部遠景東望   制札         拝所        拝所南側から北望  東望

⑤佐紀瓢箪山古墳

奈良市佐紀町。5世紀の、前方部を南に向ける前方後円墳。全長96m、後円部径60m・高さ10m、前方部幅45m・高さ7m。陵墓には治定されておらず立入可能。大正時代の採土の際、前方部から粘土槨が見つかり、碧玉製琴柱形ことじがた石製品3点が出土したと伝わるとのこと。周濠は前方部正面から西側隅にかけて途切れているが、前方部南西に隣接する衛門戸丸塚古墳(よもんどまるつか=4世紀後半の径50mの円墳?)が先行しており、その濠を共存させた模様だが、なぜ一部を重ねて築いたか理由は不明。丸塚はT3年に採土のため、墳丘半分が削平された。

前方部北望        案内           後円部北面        墳丘西面南望

*猫塚古墳 佐紀瓢箪山古墳の南東にある径30mの円墳(または120mの前方後円墳)。S29年、割竹形木棺を収めた竪穴式粘土石槨(天井部は粘土・割石で被履)が発見された。石釧21・短剣22・鉄刀8・車輪石2・石釧8・碧玉製管玉10・ヒスイ製勾玉1の他、銅鏡も出土しているとのこと。

⑥塩塚古墳 

奈良市佐紀町~歌姫町。5世紀前半から中頃の、前方部を南に向ける前方後円墳。2段築成と推定され、全長105m、後円部径65m・高さ8.5m、前方部幅52m・高さ1.5m程(案内には3.2mとあるが、見た目ではもっと低い)。周濠は前方部にはなく、後円部を中心に馬蹄形に巡り、本来水があった様子はない。前方部が後円部と比べ極端に低く、7世紀~8世紀奈良時代の瓦が出土していることから、削平後に建物が建てられたと思われる。奈良時代当時、この付近は皇族が曲水の宴などを催した平城宮外苑「松林苑しょうりんえん」の一部であったとされている。

1956年の後円部発掘調査で、粘土槨が検出されている。全長6.8m、幅は1.45m~1.3mで木棺痕跡が認められた。盗掘により遺物は少なかったが鉄剣・刀子・鉄斧・鉄鎌が出土したとのこと。

前方部北西望       案内           墳丘東面北西望      くびれ部と周濠

後円部と周濠北望    墳丘東面南望       後円部東面西望      後円部北側周濠西望

*オセ山古墳 塩塚古墳後円部北側から県道751号線に抜ける道沿い北側にある(猫塚北端から北東に約90m)。本来は全長65m程で、西側に短い前方部がつく帆立貝式前方後円墳と考えられているが、前方部は削平され、後円部だけが残り、それを巡る周濠跡(幅4~5m)が残っている。

⑦ヒシアゲ古墳

奈良市佐紀町。5世紀中葉~後半の、前方部を南に向ける前方後円墳。全長219mは全国24位。後円部は3段築成で径125m・高さ16m、前方部も3段築成で幅145m・高さ13m程。南半分に2重周濠があり、前方部南側の中央付近の内濠は幅30m・内堤は幅20m、外濠の幅20m・外堤の幅12m。1993年調査で外濠を横切る渡堤が確認され、東側くびれ部辺りの内堤で円筒埴輪列が見つかったらしい(後円部東側に複製埴輪が置かれている)。現在、「16代仁徳天皇皇后=磐之媛いわのひめ」の『平城坂上ならさかのえのみささぎ』に治定されている。江戸中期、元禄時代の修陵では51代平城天皇陵とされたが、1875(M8)年に「仁徳天皇皇后=磐之媛陵」とされた。なお、墳丘周辺の陪塚として、飛地い号(大和21号墳=42mの円墳)・ろ号(径約30mの円墳)・は号(径約27mの円墳)・に号(辺約42mの方墳)・ほ号(辺約27mの方墳)・(へ・と・ち=消滅)・り号(航空自衛隊敷地内=大和17号墳=辺25mの方墳)・ぬ号(大和16号墳=20mの方墳)がある。

遠景東望         前方部南側周濠西望     拝所遠景東望      拝所

拝所西側       東側        制札        参道西望       陪塚位置

磐之媛命 葛城襲津彦そつひこの娘。8代孝元天皇の男系来孫(=ひ孫の孫、古事記では玄孫)。17代履中天皇・住吉仲皇子・18代反正天皇・19代允恭天皇の母。仁徳2年(314)立后。「日本書紀」では「嫉妬深く、仁徳30年(342)磐之媛が熊野に遊びに出た隙に、仁徳が八田皇女(磐之媛崩御後に立后)を宮中に入れたことに激怒し、山背の筒城宮(現京田辺市)に隠棲したまま同地で没した。仁徳37年11月乃羅山(ならやま=奈良市奈良坂付近)に葬られた」とある。

⑧小奈辺こなべ古墳

奈良市法華寺町。ヒシアゲ古墳の南東、5世紀前半の、前方部を南に向ける前方後円墳。全長204mは全国31位。後円部は3段築成で径125m・高さ20m、前方部も3段築成で幅129m・高さ17.5m。「16代仁徳天皇皇后=磐之媛命」の『小奈辺陵墓参考地』に治定されている。江戸時代や明治時代の史料でも、くびれ部左右の台形状の造出しや、円筒埴輪・葺石の存在が確認されている。1979年(S54)前方部南側外堤調査で、円筒埴輪列が発見された。埴輪は野焼き時の黒斑があり、突帯断面形状や胴部外面ハケ目方向等から、後述の市庭古墳や宇和奈辺古墳に先行するとされた。1997年(H9)の調査では、周濠東側で外周溝も確認され、外周溝からは、三角板革綴短甲片や鉄鏃が出土したらしい。

西側濠南望        北東望          前方部南側周濠東望    東側周濠北望

なお、墳丘周辺の陪塚として、後円部北東から前方部の西側にかけて10基が並んでいる。後円部東の航空自衛隊敷地内に飛地い号(大和20号墳=30mの方墳)、後円部北東=ろ号(大和18号墳=37mの方墳)、北西=は号(大和22号墳=25mの方墳)、周濠西側には北から、に号(大和23号墳=20mの方墳)・ほ号(大和24号墳=15mの方墳)・へ号(大和25号墳=11mの方墳)・と号(大和26号墳=35mの方墳)の4基が整然と並び、古墳時代中期の陪塚の典型例とされている。更に、1997年(H9)調査では、後円部中心から陪塚へ延伸した線と、各方墳陪塚の中軸線が重なる可能性を確認した。また、い号(大和20号墳)は陪塚ながら周濠を伴い、その周濠脇から石敷苑池の遺構が見つかり、円筒・朝顔形埴輪や家形・壺形・蓋形等の形象埴輪も出土したとのこと。石敷苑池の遺構は、平城宮外苑「松林苑しょうりんえん」の一部との説もあり、そうであるなら、古墳が庭園の築山として利用されとも考えられる。

陪塚位置         後円部北東側遠景     は号=大和22号辺り    に号=大和23号 

ほ号=大和24号      へ号=大和25号辺り    と号=大和26号      周濠西側遠景

航空自衛隊 幹部候補生学校

奈良の米軍キャンプ跡地で、昭和31年開設とのこと。航空自衛隊の幹部自衛官となるために必ず入校する全国唯一の学校。申請すれば見学できるらしい(約90~120分程度)。

基地遠景北東望      正門           基地内西望        標識

⑩宇和奈辺うわなべ古墳 

奈良市法華寺町。佐紀盾列古墳群の東端。5世紀中頃の、前方部を南に向ける前方後円墳2020年の調査結果で全長270~280mと判明し、全国12位の規模となる。3段築成で、後円部径128m・高さ約20m、前方部幅約130m・高さ16m。前方部南側の周濠幅は60mを超える。西側くびれ部辺りにある造出し(周濠の中に埋没している)からは、須恵器、祭祀関係のものと思われる土師器の小形高杯・鉢・笊ざる形土器・魚形土製品・棒状土製品・杓子形土製品が出土したらしい。後円部北側にあった陪塚(大和6号墳=径25mの円墳)からは鉄鋋(てってい=板状の鉄素材)が見つかっている。墳頂中央の表土下に、長さ30~48㎝・幅5~10㎝の鉄鋋282枚が、ひもで束ねられていた。更に、長さ8~18㎝・幅1~2.5cmのものが590枚埋まっていた。総重量は140kgで国内最大の出土量。形態的な類似性から洛東江下流域の釜山・金海地域から供給された可能性もあるが、2017年5月宮内庁は国内で製作された可能性があるとの調査結果を発表している。現在、「16代仁徳天皇の後の皇后=八田皇女やたのひめみこ」の『宇和奈辺陵墓参考地』に治定されている。

墳丘西面東望       北東望          西面北望         前方部南側周濠東望

⑪市庭いちにわ古墳 

奈良市佐紀町。平城京大極殿跡すぐ北、5世紀前半の前方後円墳。当初円墳と考えられていたが、1962~63年の調査で、前方部が平城京築造時削平された前方後円墳と判明した。復元推定墳長253m・後円部径147m・前方部幅164m。円筒埴輪の特徴から、小奈辺古墳よりやや新しいとのこと。現在、「51代平城へいぜい天皇」の『楊梅陵やまもものみささぎ』に治定されている。在位延暦25年(806)~大同4年(809)、天長元年(824)崩御からすると、かなり無理がある。

制札と参道北望      拝所           拝所周辺北東望     前方部跡から大極殿南西望

平城天皇 50代桓武天皇の第1皇子。母は皇后藤原乙牟漏おとむろ延暦4年(785)藤原種継暗殺の嫌疑で早良さわら親王廃太子され、替わって立太子された(後に早良親王の祟りが歴史を動かす)。妃の母で夫のある藤原薬子くすこを寵愛したことで、桓武天皇と折り合いが悪かった。大同4年(809)、在位3年で発病し同母弟の嵯峨天皇に譲位し太上天皇となる。同年平城上皇は、「平安京より遷都すべからず」との桓武の意思に背き、旧都平城京に移り住んだ。大同5年(810)薬子らと図り、平安京の貴族達に平城京への遷都の詔を出し、政権掌握を図った。しかし、嵯峨側が機先を制し、薬子の官位を剥奪。これに対し平城は翌日挙兵、薬子と共に東国に逃れようとしたが阻まれ、翌日平城京に戻り剃髮し、薬子は服毒自殺した。平城の追号は、平城京に因むものとされる。

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平城宮跡や⑬平城宮跡資料館を経由して大和西大寺駅まで単純経路で約8km。