新沢千塚古墳群は奈良県橿原市北越智町~川西町に位置する日本有数の大古墳群(群集墳)。1976年(S51)国の史跡に指定。2018年11月23日(金)訪問。
2015年11月にも神武天皇陵周辺や宣化天皇陵・斉明天皇陵等散策の途中で立ち寄ったが、当時はまだ公園施設整備工事中だった。3年振りに訪れて、あまりにも立派な公園施設になっていたので驚いた。
2015年11月当時
2018年11月南群駐車場 龍の広場南望 南群サブエントランスから北群
詳しい公園案内図は以下を参照してください。
畝傍山の南方、東西2㎞、南北2㎞の丘陵(越智岡丘陵、標高150m)にある径約10〜15mの円墳等総数600基以上の群集墳。県道戸毛・久米線によって南北に分かれる。4世紀末~7世紀に造営され、特に5世紀半ば~6世紀末までが全盛で、最盛期は鳥屋ミサンザイ古墳(宣化天皇陵)の築造時期に重なる6世紀前半。丘陵上に次々と小古墳が造られる時期に、東側では鳥屋ミサンザイ古墳墳丘ができあがっていったことになる。埋葬者・氏族は特定されていない。木棺直葬が主流だが、S37年には本格的調査で粘土槨を内部主体とする前方後円墳である500号墳を含む23基が確認された。500号墳では古墳前期の副葬品が検出され、その中には懸垂鏡という珍しい銅鏡もあり、その後史跡に指定された。さらに約130基を調査し、武具・馬具をはじめとする副葬品が豊富に出土した。5世紀後半の126号墳からは金・銀・ガラス・ヒスイを用いた大量の装飾品が遺骨に装着したままの状態で出土したらしい。火熨斗(ひのし=炭を入れてアイロンとして使った金属器)が日本で初めて出土したり、中国を経由せず西域から新羅経由でもたらされたと見られるローマンガラス製品が出土するなど話題となった。2014年には出土ガラス皿の化学組成がローマ帝国領内出土のローマンガラスとほぼ一致することが蛍光X線分析で判明し、日本国内の古墳出土品のガラス器がローマ帝国伝来と裏付けられた初例とのこと。126号墳の出土品は東京国立博物館に所蔵され、一括して国の重文に指定されている。
*500号墳は南群の南西端から200~300m南西の新沢小学校から、南南西600m辺り、橿原市一町の丘陵上にある(奈良県遺跡地図14C-0427=別称「新沢茶臼山古墳」)。
南群
*新沢千塚古墳群公園総合案内図から部分引用。
212号墳(前方後円墳) 213号墳(前方後円墳) (復元古墳道標)
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2015年11月当時の(復元古墳道標) 南群散策路の様子
221号墳 新沢千塚の中では数少ない横穴式石室の古墳。5世紀後半頃に築かれた径約13m、高さ約3.3mの円墳である。近畿地方における初期の横穴式石室の例として重要で、石室の様子が見られるよう復元されている。南に開口する右片袖式で、羨道長さ約1.4m・幅0.7m、玄室長さ約3m・幅約1.3m。厚さ20cm前後の石を積み上げて造られており、石室上部は失われている。羨道の床面は玄室よりも15cm程高い。石室内は中世に盗掘され、副葬品の大半が持ち出されていたが、わずかながらも馬具の一部である木芯鉄板張輪鐙や須恵器・土師器が出土したとのこと。
221号墳南望 復元石室北望
221号脇ビューポイント 225号復元石室 224号復元古墳
南群散策路途中の墳丘 281号墳?
棚田の広場 四季の広場南東見下ろし ふれあいの里屋上から南東望
北群
北群への渡橋から二上山 北群シルクの杜 南群駐車場方面
北群東側公園地図 道標
*↑ 公園地図は新沢千塚古墳群公園総合案内図を部分引用(以下同じ)
119号墳 案内 前方部→後方部望 後方部→前方部望
115号墳 案内
126号墳 ペルシャ地方のローマンガラス製椀・皿や、青銅製火熨斗等、中国か朝鮮半島からもたらされた装身具・武器等が出土したことで著名で、新沢千塚古墳群の代名詞と言える。古墳群北側の丘陵の中央付近に位置する東西約22m、南北約16mの長方形墳。5世紀後半頃に築かれたと考えられる。埋葬施設は長さ約3.1mの刳抜式の割竹形木棺で、棺内および棺外に多くの副葬品が納められていた。古墳の被葬者は、朝鮮半島あるいは中国東北部から日本に渡ってきた女性との説等がある。
126号墳 案内 北望
139号墳 北西望 畝傍山北東望 案内
畝傍山 北群東端東望 北群東端南望
道標 81号墳 北西望 案内
48号墳 北西望 案内
173号墳 北西望 北望 案内