OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

高安千塚古墳群

大阪府八尾市の高安千塚古墳群は、生駒山系の高安山麓に造られた6世紀代を中心とした大型群集墳。230基が確認されている(大正期には565基あったとされる)。北から大窪・山畑やまたけ支群(50基)、服部川支群(137基)、郡川こおりがわ北支群(6基)、郡川南支群(37基)の4つの支群に、谷筋で分けられている。郡川南支群を除く3支群のうちの110基が2015年(H27)3月国の史跡に指定され、保存整備が進められた。

6世紀~7世紀前半にわたり造営され、最盛期は6世紀後半。ほぼ全てが円墳で、埋葬施設は横穴式石室だが、造墓開始期にはドーム状天井石室も認められるとともに、韓式系土器やミニチュア炊飯具といった副葬品の出土等、渡来系集団との関わりがうかがえる。こうした要素は次第に影を潜め、代わりに大和に準じた規模や構造の大型石室が増え、7世紀半ばには急に築かれなくなった。

こうした状況から、高安千塚古墳群の麓に広がる河内平野に居住した渡来系集団と地域社会との関係を知ることができる古墳群であり、我が国の古代国家形成過程を考える上で、欠くことのできない重要な古墳群とされる。

古墳研究の第一人者、白石太一郎氏は『河内に移り住んだ渡来系氏族が、次第に地域に溶け込みつつ、ヤマトの有力豪族の支配下に組み込まれた』とし、その有力豪族は河内を拠点とした物部氏だと唱える。ならば、587年、蘇我馬子との抗争で物部守屋が敗死した後、高安の古墳群を築いた一族も衰えたのだろうか・・・?。

横穴式石室が密集する景観は古くから知られ、大坂城を築く際に石材を調達した記録がある。江戸期には観光地となり、「河内名所図会」などにも紹介されている。近代以降は幾多もの考古学者の関心を集めた。「日本考古学の父」とされる英国人研究者ウィリアム・ゴーランドも訪れ、様々な写真等を残している。

2018年9月に一度訪れたが、当時は下調べが中途半端で、何号墳か分からなかったり、見逃したところも結構あったので、2022年1月17日(月)再び訪れた。

【行程】

近鉄信貴線「服部川」駅→①大窪・山畑27号墳(俊徳丸鏡塚古墳)→②大窪・山畑36号墳(河内ドルメン)→③大窪・山畑6・8号墳、大窪・山畑7号墳(抜塚)→④服部川支群の群集墳→⑤服部川7・8・9・10号墳等、服部川25号墳(二室塚古墳)→⑥郡川1号墳(開山塚古墳)→⑦郡川30号墳→近鉄「信貴山口」駅 
直線距離では5~6km程だが、アップダウンが結構きついし、行程途中にはコンビニ・食堂等一切ないので、ご注意ください。

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*Yahoo!地図を編集加工しています。

なお、古墳記事は号数順ではなく、私が巡った順に掲載しています。また写真等は2022年1月、季節や経過年数により周辺の様子や目印が変わることが多いので注意下さい。

①大窪・山畑やまたけ27号墳(俊徳丸鏡塚)

八尾市服部川8丁目。巻頭地図①。「服部川」駅から徒歩約8分、住宅街の一角。右片袖の横穴式石室をもつ6世紀の円墳(径15m)。謡曲「弱法師よろほうし」、浄瑠璃「摂州合邦ヶ辻がっぽうがつじ」で名高い俊徳丸の故地とされている。開口部は南側。玄室内は本来立入禁止なのだが、規制線テープが壊されていたので、ちょっと入室(スミマセン)。仮に規制線テープがあっても充分玄室が窺える。

服部川駅前        進入路          全景北西望         解説

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*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

開口部          羨道            玄室

右片袖式         楣石(まぐさいし)      開口部高さ約1m     全景南西望

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②大窪・山畑36号墳(河内ドルメン)

巻頭地図②。前回2018年9月は、大窪・山畑27号墳(俊徳丸鏡塚)から北東の「佐麻多度神社」前を抜け、急坂を上がり、農免道路を200m北上。

神社方面          神社           農免道路へ       北へ

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今回は、左下図の様に大窪・山畑27号墳(俊徳丸鏡塚)から東へ、大窪・山畑25号墳、26号墳を経由して、法浄霊園手前から農免道路へ出た。

今回ルート        25号墳          26号墳         農免道路へ

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法浄霊園手前から農免道路を北へ350m程行くと、右手にブロック塀があり、その先から東に上っていく(*この時は工事中だったが、工事が終わると、少し様子が変わっているかもしれません)。進入口には、真冬の1月でも熊笹が繁茂している。*2018年当時は進入口の笹薮がひどく、たどり着けず。

熊笹の間の何となく道っぽい所を、36号墳位置の目印である大きな木を目指して、40~50歩かき分けて進む。

進入路        〇部分が36号墳                        進入口

ドルメンとは本来「支石墓」の事。石の支柱を持った埋葬施設には違いないが、全体をすっぽり囲む石室とは異なる。明治時代に大森貝塚を発見した米国人の博物学者エドワード・S・モースが、明治時代初期に周辺を調査して、その結果を「日本におけるドルメン」として紹介しているが、支石墓ではなく、明らかに崩壊寸前の石室である。

西望                        北望 

南望

なお八尾市HPの高安千塚古墳群関連の資料では、(危険なのか?)載っていません。

③大窪・山畑8号墳・6号墳・7号墳(抜塚)等

巻頭地図③。来迎寺の墓地内にある。本堂右横に古墳案内がある。

8号墳は、墓地東側に上った所、左手(北側)に開口部が見える。開口部は幅約1m・高さ約90cm。現存羨道長さ約3m・幅1.1~1.2m。玄室長さ約4.5m・幅約1.6m・高さ約1.9mの縦長で、石材を5~6段に積んでおり、6世紀中頃のものとされる。*石室寸法は、私がメジャーで雑に測ったものですので、あくまで参考です(以下同じ)。

墓地全景南望        案内           8号墳へ

6号墳は、8号墳のほぼ真南、6世紀前半の円墳。ここの横穴式石室も縦長の玄室で、小振りの石材を7~8段積みにしているとのことだが、崩落危険があり、開口部は土嚢で塞がれている。

8号から南望(左が6号)   南東望          北東望          開口部

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7号墳は、7世紀前半の円墳で、右片袖式の横穴式石室だが、玄室全体が失われ、羨道のみがトンネル状に残っているため「抜塚」と呼ばれる。高安古墳群最大の横穴式石室と言われる郡川地区「開山塚古墳」と同等規模と考えられ、古墳群の中でも最有力者の墓とみられる。残存する羨道は長さ8m・幅2.2~2.3m・高さ2.2m程で、軽自動車なら楽々通れる。羨道だけ見れば「開山塚古墳」を圧倒的に上回る規模である。北側の楣石(玄門上部の石)は縦幅1.5m前後ある。滅失した玄室は長さ5m以上あり、石室全長は13~14mになるらしい。

6号から見下ろし          北東望                     

北東望                       南望

7号墳(抜塚)から農免道路に出ると、道路右手(西側)にコンクリート塀で囲まれた個人の大邸宅?がある。この塀内に大窪・山畑11~18号墳がある。塀越しに自撮り棒で撮影しても全貌はよく分からない。

7号から農免道路へ                       15号墳?      16号墳?

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④服部川支群 群集墳

巻頭地図④。服部川支群で一番密集する区域。農免道路西沿い下の「信院寺」辺りから「安国寺」への参道に入る。多数の石室の大半が、殆ど露出した状態で存在する。入室できるところもかなりある。古墳号数標識は殆ど無いので、行く折は、以下の地図や巻末の「八尾市教育委員会・文化財課の紹介冊子」等を参考にしてください。史跡指定地は殆ど民有地で、本来無断では立入れないので、所有者らしき方がもし近くにおられたら、許可を得た方が良いです。

【服部川支群の密集区域のうち国史跡に指定されている古墳の所在地図】

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右上の地図は、以下の『高安千塚古墳群保存活用計画』のPDFファイル「第6章前半」の「149ペーシ図6-9」を部分引用しています。

『史跡高安千塚古墳群保存活用計画』の策定 | 八尾市

 

今回、服部川支群内で巡った所は下図の通り。史跡に指定されていない所も巡っているので、「史跡に指定されている古墳の所在地図」とは一部異なります。赤い〇は入室した所。青い〇は開口部等から石室内が確認できた所。黒い〇は外観のみ確認した所。

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以下、巡った順に掲載します。

服部川支群北側=39号墳等の周辺

【石室の開口方向等が分かる地図】

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上の地図は、『高安千塚古墳群保存活用計画』のPDFファイル「第6章後半」の「181ペーシ図6-27」を部分引用。

39号墳は、安国寺への参道に入ってすぐ右手(西側)に、トタンで囲われた焼却炉があり、その西隣にある。西側の開口部から右片袖式の石室内が窺える。

目印の焼却炉       39号露出石室南望     西側の開口部      石室内

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41号墳は、39号墳の北西隣。農免道路沿いにあり、その反対側が開口部。割と小さ目の右片袖式の石室。

農免道路からの41号    開口部                      石室内

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40号墳は、39号墳の南西隣。開口部は幅約1m、高さ45cm、無理すれば入れないでもない。ここも右片袖式。

40号開口部                    石室内

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38号墳は、40号墳の南側にある。服部川支群の大半が南方面に開口するが、この38号墳は北東向きに開口している。開口部は高さ20cm程しかなく、自撮り棒を突っ込んで撮影。中はそこそこ広いようだ。なお、40号墳と38号墳の間を東に行くと参道に出る。

38号開口部                     石室内          参道から西望

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35号墳は、38号墳の南隣で、墳丘が目立つ。南西側に少し下った所に開口部がある。現存羨道長さ約3m・幅約1m。玄室長さ約4m・幅約2.4m・高さ約2.6mで、そこそこの大きさの右片袖式石室。この玄室の規格は服部川支群の石室に結構見られた。

35号墳丘南望       開口部          羨道           玄室

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奥壁上部         高さ比較(私は170cm)   右片袖部         左側

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36号墳は、35号墳の東隣で、石室上部に露出する大きな石材が目立つ。南西側に開口し、開口部の高さは約70cm。奥壁上部石材が一部欠損している。

36号南東望        開口部                       玄室

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37号墳は、35・36号墳の東側で、参道寄りにある。石室が完全に露出しており、奥壁部分は崩れている。

37号東望         羨道側          玄室           参道から西望

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42号墳は、37号墳から参道を少し南に行った左手(東側)にある。石室が完存しており、開口部に「42号墳」の古墳号数標識がある。

42号方面                      開口部

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開口部高さ約1m。現存羨道長さ約3.8m・幅1.2m前後・高さ約1.2m。玄室長さ約3.7m・幅約2.4m・高さ約2.4m。服部川支群では珍しい両袖式だが、左袖石に比べ右袖石がかなり大きい。

開口部          羨道           右袖上部         玄室

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右片袖部         左側           楣石           天井部

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33号墳は、参道最初の分岐の角。石材が露出している。西側に羨道崩落部?がある。

33号石材北望       東望           石室西端         羨道崩落部 

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31・46・45・44号墳

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この地図は、『高安千塚古墳群保存活用計画』のPDFファイル「第6章後半」の「181ペーシ図6-27」を部分引用しています。

31号墳は、次の分岐の手前右手(西側)。径16.6m・高さ4.8mの墳丘が良く残る。石材が露出している。

31号南西望        石材北東望        31号東望         南東望

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46・45号墳は、31号墳脇の分岐を真っすぐ安国寺方面に行き、大きな安国寺の寺標の左手にある大きな墳丘。45号墳の北側に見える石材は50号墳か?

31号脇分岐        46・45号         45号部分         50号?

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44号墳は、45号墳の墳裾を北西側に下って行くと開口部がある。羨道幅約1.4m・高さ約1.2m。玄室長さ約4.3m・幅約2.4m・高さ約2.8m。ここも右袖石がかなり大きい。

44号方面         開口部                       右袖部

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玄室           羨道方面          楣石           天井部  

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62号~76号~116号の周辺

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この地図は、『高安千塚古墳群保存活用計画』のPDFファイル「第6章後半」の「178ページ図6-24」を部分引用しています。

31号墳脇の分岐に戻り、鋭角的に左手(南向き)に進む(白矢印)。60号墳は削平されているが、一部石材が埋没している。

62号墳は、60号墳からの道がやや右にカーブする左手(東側)やや奥に、石室が露出している。石室内はゴミ屋敷状態。

76号墳は、62号墳の南東側にあり、封土は殆ど失われているが、西向きに開口している。開口部は幅1.2m・高さ約1.1m。珍しく左片袖式である。更に東奥に64号墳?があるが、石室はかなり崩落している。

31号脇分岐        61号埋没石材       62号方面        62号

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62号石室内        76号開口部                     64号?

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77号墳は、62号墳辺りから右にカーブする道を少し南に行ったところ、左手(南東)に入る脇道の角にあり墳丘が良く見える。南側に開口し、開口部の高さは約1m。見た目に持ち送りが割ときつく、天井も結構高い。羨門部の楣石上部は一部崩落している。

77号墳丘         開口部                       玄門部

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玄室           天井部          羨道方面         楣石周辺

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73号墳は、77号墳から更に南東に入った、道のやや右手(南側)奥に、ほぼ西側に開口する。奥壁上部は滅失している。73号墳開口部の少し南奥に、史跡指定されていない小さな74号墳があり、石材が露出している。73号墳と道を挟んだ北側に75号墳があり、ここも石材が露出し、石材の隙間から少し内部が窺える。

73号開口部        玄室東望         滅失奥壁西望

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74号露出石材                    75号露出石材       75号内部

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72号墳は、73号墳から更に南東に入った、道の右手(南側)沿いにあり、石室は殆ど崩落しているが、内部は少し見える。71号墳は72号墳の南側に隣接し、石室が露出している。奥壁側が半分崩落している。

72号崩落石室    内部         71号南望      羨道方面南西望   開口部北東望

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116号墳は、71号墳の南東側斜面を上った所に開口する。開口部の高さは80cm弱。羨道幅約1.6m。玄室幅約2.4m・高さ約2.6mで完存している。珍しく両袖式である。

*バッテリー残量が無く、石室内部の写真が暗いです。

116号開口部遠景      近景                        羨道

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玄門部          玄室           両袖部           楣石

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119号墳は、116号墳の北側、石材が露出し内部が窺える。道を挟んで真北に69号墳?がある。開口部は殆ど埋まっているが、僅かな隙間から石室が見える。

119号南望                 石室内       69号?       内部

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68号墳?は、69号墳のすぐ北西下側で、小振りの石室石材が露出している。おそらく奥壁側が崩落しているのか、そこから石室内部が見える。67号墳?は、更に68号墳の西下に、かなり大きな石材が露出している。

68号墳?露出石材     石室内部         67号?西望        北望

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29号墳は、史跡指定外だが77号墳から道を挟んだすぐ西側にある。おそらく玄室側壁の片側一部と大きな楣石が残り、羨道部は礫土で埋まっているようだ。

78号墳は、29号墳とと77号墳の間の道を南に進んだ十字路の左手(東側)にある(ここを反対の西に進むと神光寺の墓地=服部川7号墳等に至る)。古墳号数標識があり、南西方向に開口している。開口部の高さは約1.1m。羨道幅約1.25m、玄室長さ約3.8m・幅約2.2m・高さ約3mの右片袖式。

29号墳残存石室西望    南望           十字路          78号墳開口部

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78号墳玄門        玄室           奥壁           天井部

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79号墳は、78号墳から少し東に上る。石室が露出している。更に東に上ると、110号墳の開口部。右片袖式で、玄室はやや細長い。更にその東上に111号墳が開口している。奥壁が割と整っている。110・111号墳の南向いに113号墳の墳丘がある。

79号墳      110号               111号              113号

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⑤神光寺墓地周辺の服部川支群

78号墳西脇の十字路(角にプレハブ倉庫がある)を西に下ると神光寺の墓地に至る。その道の途中北側、フェンス網の西脇に石材が露出した26号墳がある。そして26号墳を過ぎて墓地に入る(一つ目の)三差路を右に行くと、もう一つ三差路がある。この三差路一帯の墓地内に、史跡指定されていない8号墳等がある。

8・25(二室塚)・9・23号墳

8号墳は、三差路の角。南に開口し、開口部の高さ約1.2m、羨道長さ4~5m・幅約1.3m強。玄室長さ約3.7m・幅約2.3m・高さ約2.5mで、右片袖式。

8号墳羨道        玄室            奥壁           天井部(奥壁向き) 

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開口部          右片袖部         左側           楣石

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25号墳は別称「二室塚古墳」。8号墳から少し北側のブロック小屋から東に入った所。6世紀後半頃築造。名前の通り、石室は右肩袖式の玄室を縦に2列につないだ構造で、全国的にも類例がない。南に開口し、入室禁止だが、開口部から見学できる。*案内に郡川支群には、右片袖式に左片袖式の横穴式石室を連結した交互二室塚というのがあると記載されている。

25号墳進入口       開口部(2018.9)      案内           玄門(2018.9)

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前室天井部        前室           後室玄門         後室奥壁

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9号墳は、25号墳(二室塚)進入口から北に向かう道を25m行った所の、左下にある。南に開口し、開口部の高さ約1m、羨道幅約1.3m。玄室長さ約3.6m・幅約2.5m・高さ約2.5mで、右片袖式。8号墳と殆ど同じ規格のようだ。

23号墳は、9号墳から、更に道を北に行った突き当り。史跡に指定されているが、墳丘は低木でビッシリ覆われている。この低木の中に開口部があるのかもしれない。

9号開口部      玄室         羨道方面      楣石        23号

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10・11・3号墳

10号墳は、9号墳のやや北東側。墓地の真ん中の大きな木の根元にある。ブロックで囲われているが、南に開口する。開口部の高さ1.5m、羨道は4~5mあるだろうが、玄室奥壁が完全に崩壊している。

10号遠景      開口部        羨道        玄室        開口部方面   

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11号墳は、10号墳の西側、墓地の北西隅辺りに隣接する。史跡指定されてはいるが、樹木の覆われた墳丘が確認できたのみ。3号墳は、8号墳から(7号墳への)道を挟んだ南西にある。古い小さな墓石が数基並ぶ空地奥に墳丘らしきものが確認できた。

10号北面         11号北西望        西望           3号南望

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5・6・7号墳

5・6号墳は、神光寺駐車場の両脇。石室は完存するが、神光寺の庭園の一部に取り込まれているせいか?史跡指定はされていない。

東側の5号墳は、ガレージの南に隣接する。開口部の高さは1.5~1.6m程もあり、玄室も3m近く、3枚の天井石もかなり大きい。

5号北望          開口部          玄室          全景北西望

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西側の6号墳は、駐車場南西隅の築山の中に開口する。開口部の高さは約1.26m、羨道幅約1.5m。玄室長さ約5m・幅約2.3m・高さ約2.5m。右片袖式。

6号進入路西望       開口部                      玄門部

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玄室           右袖部          左側壁          楣石

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7号墳は、神光寺駐車場(5・6号墳)と道を挟んだ北側。史跡指定されており、古墳号数表示もある。羨道長さ4~5m・幅約1.7m・高さ約1.2m、玄室長さ約4.5m・幅約2.8m・高さ約2.5m。ここまで見てきた入室できる玄室と規格が殆ど同じである。

開口部北望        羨道                        玄室

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右袖部          左側           楣石           天井部(奥壁向き)

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12・13号墳

7号墳から西に20mの三差路を北東に(農免道路を)40m行った右手(東側)に、フェンスで囲まれた12・13号墳があり、古墳号数標識も設置されている。

防護フェンスは開閉可能                              案内

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12号墳は、狭い開口部で、規制線が張られている。自撮り棒を差し込んで撮影。

12号開口部                     石室内

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13号墳は、石室の一部が露出する。中段部分に少し隙間があり、内部が少し窺えた。防護フェンスに沿って北側に回り、漆寶寺というプレハブっぽいお寺の西隣の階段を上がると、13号の墳丘があり、石材が露出している。またお寺の東隣には130号墳跡がある。

             隙間のある部分                   内部

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北側へ          露出石材                      漆寶寺東隣

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⑥郡川1号墳(開山塚古墳) 、郡川2~4号墳

服部川支群の7号墳から西の住宅街に下り、薬王禅寺南側の道から、法蔵寺まで上っていく。かなりの急阪で、前回2018年9月の時に結構キツかった覚えがある。なので、この日はパス。以下の写真等は当時のものを掲載しています。

法蔵寺への道見返り    法蔵寺へ         古墳群案内        古墳解説

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江戸時代法蔵寺を開いた好山こうざん和尚の廟塔(清涼塔)が、当古墳東に隣接することで開山塚と呼ばれる(清涼塔は東に隣接する4号墳の墳頂に位置する)。清涼塔に上る階段右横にある鉄柱標識が進入口。6世紀中頃の古墳で、高安古墳群中最大(全長13m)の両袖式の横穴式石室墳。玄室は10畳分=15.74㎡あるらしい。明治時代に大森貝塚を発見した米国人の博物学者エドワード・S・モースが調査し、欧米の学界にいち早く紹介されたとのこと。石室内部見学可。2・3・3B号墳も外から見えるのかも知れないが、よく分からなかった。

清涼塔への階段      (清涼塔)         開山塚標柱       開口部

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羨道                                     見返り

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奥壁下部(A4ファイル)      上部          両袖部          楣石

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⑦郡川30号墳

信貴山への西信貴ケーブルの南側、本照寺の墓地内にある。本堂北東側の会館前から北東奥の墓地に入る。八尾市の紹介冊子には「お寺に声をかけてから・・・」とあるが、進入口には「寺務所には声かけ不要」とある。また、開口部を囲う庵の入口にも「ドアを開けて自由に見学下さい」と、親切な掲示がある。

本照寺へ     本堂と進入口   掲示               開口部

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開口部の高さは約1.5m、玄室長さ約2.9m・幅2.9m・高さ2.7m強で服部川支群石室とは違い、正方形に近い形をしている。奥壁上段石材には、日蓮宗のお寺らしく「南無妙法蓮華経」と彫られている。

羨門部          奥壁           奥壁上段         楣石

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なお庵の東側には龍神さんを祀る小さな祠があり、墓地からは観音様のはるか遠方に、日本一高い阿倍野ハルカスが望めた。

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なお八尾市教育委員会の以下の記事は非常に参考になります。

高安千塚古墳群を歩いてまわろう! | 八尾市

また八尾市教育委員会・文化財課の散策「紹介冊子(散策マップ付)」も道順等参考になります。*ただ、②大窪山畑36号墳(通称「河内ドルメン」)は掲載されていません。見つかりにくいとか危険とかの判断でしょうか?

https://www.city.yao.osaka.jp/cmsfiles/contents/0000047/47196/sassi.pdf