OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

和泉黄金塚古墳

2017年9月6日(水) 大阪府和泉市の和泉黄金塚いずみこがねづか古墳

和泉市上代うえだい町の北西端。泉北クリーンセンターの東横。進入路の信号は右折禁止なので、北東側からアクセスする。

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クリーンセンターに隣接して建設会社の空地がある。また、古墳をグルっと囲むように田畑があり、畦道を辿れば一周できる。和泉市文化財紹介の写真(いつ頃の写真か不詳)では墳丘が明瞭だが、現在は草が生い茂り、往時の姿はない。

クリーンセンター隣接空地          遠景東望             以前の墳丘の様子

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     *PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

*なお、詳細は下記参照下さい。

和泉黄金塚古墳 | 信太エリア | 和泉市の文化財紹介 | 弥生時代の歴史が眠る街 和泉市の文化財

 

墳丘東望 後円部          くびれ部             前方部

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古墳前期末の4世紀末頃築造と推定される前方後円墳。全長94m、後円部径57m・高さ9m、前方部幅42m・高さ6.5m。2段築成と推定される。後円部の埋葬施設は主軸に平行して3基の粘土槨(中央・東・西槨)があり、各々に木棺が納められていたとのこと。1945年(S20)当時17歳の森浩一氏が末永雅雄氏とともに調査し、旧信太山陸軍演習場の塹壕横(現東槨)から巴形銅器3個が着いた革製漆塗盾(隼人の盾*)が、後円部西(現西槨)からは短甲・鉄刀・打製石鏃等が出土。1950年(S25)には後円部から粘土槨に木棺を納めた埋葬施設3基(中央・東・西槨)を検出。中央槨(8.7m)棺内からは半三角縁二神二獣鏡・勾玉・棗玉・管玉・石釧・車輪石等、棺外から景初三年銘画文帯四神四獣鏡・鉄刀・鉄剣・鉄斧・鉄鎌等が出土。東槨(8.5m)棺内から三角縁盤龍鏡・画文帯四神四獣鏡(2面)・甲冑・勾玉・棗玉・管玉・鍬形石・水晶製大型切子玉(日本最大)等、棺外から鉄槍・鉄鉾・鉄鏃等が出土。2001年(H13~17)に、前方部墳裾で円筒埴輪列が出土し古墳規模が確認されたらしい。また東のくびれ部から形象埴輪が多く出土している。2008年(H20)国の史跡指定。出土品は一括して国の重文に指定(東京国立博物館所蔵)。

森浩一氏の見解では、中央棺は武具が無いので女性で、かつ中心となる被葬者。東棺は同規模の舟形木棺で、中央棺に寄り添う形で、武具があるため男性。西棺も壮年男性。中央槨棺外出土の四神四獣鏡に景初三年(239年)の銘があるが、卑弥呼が魏皇帝から授かった銅鏡ではなく、仿製鏡としている。

*隼人はやとの盾(革製漆塗盾)

武器・武具ではなく儀式用とのこと。平城宮跡では木製盾(長さ152cm・幅48cm)が出土している。元日や天皇即位などの重要儀式の際、隼人が帯刀し、槍と盾を持って整列した。隼人が大和朝廷服従を誓った儀式のなごりだという。天武朝以後の隼人は朝貢し、相撲・歌舞を奏上した。8世紀以後は隼人の首長層は位を授けられ、早くに朝廷に 服属した者の一部は、畿内各地に移住させられ、屯倉みやけ警衛などにあたった模様。律令制では衛門府えもんふに隼人司が設置され、 祭儀参加のほか竹細工などの製作にあたっていたらしい。 

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2021年1月10日に再び訪れた。周辺の様子は2017年当時と殆ど変わっていない。後円部東側から、墳頂方面への小路があるが、墳頂手前にフェンスがあり、墳頂には上がれない。そこに古墳案内がある。平成31年(2019)3月と割と最近のものだが、案内板に比べ、墳丘の荒れ様は痛々しい。

後円部東面の小路                  墳頂手前のフェンス    案内

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