OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

馬口山古墳周辺

奈良県天理市の馬口山古墳・星塚古墳

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馬口山ばぐちやま古墳

天理市兵庫町。3世紀後半~4世紀前半の前方後円墳。2019年7月17日(水)訪問。

主軸は南北方向。前方部の南に池がある。墳丘は畑や果樹園となっているが、何とか墳形は分かる。全長約110m、後円部径約62m・高さ約12m、前方部幅52m・高さ約8m。墳丘上から特殊器台型埴輪が採取されており、最古級古墳の一つと考えられるとのこと。また後円部で板石が採集され、埋葬施設は竪穴式石室と推定されるらしい。

後円部遠景東望      前方部遠景東望      西側墳裾南望(前方部方面)  前方部南西角

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後円部近景東望                                北東望

星塚古墳

天理市新泉町星山、大和おおやまと神社境内。前方部を南に向ける前方後方墳?。全長約60m、後方辺約30m・ 高さ約7m・頂辺約10m、前方部幅約20m・長さ約30m・高さ2.6m、くびれ幅約1.5m、後前高差2.9m。埋葬施設・出土遺物・築造年代いずれも不明。墳丘図では二つの方墳が南北に連結しているようにも見える。2022.10.6(木)再訪。

大和神社参道       縁起           社殿           戦艦大和展示室

進入口西望        案内           西側北望         全景南望

 

峯塚古墳周辺

保昌塚古墳→峯塚古墳→西・東天井山古墳→笠神山古墳→小墓古墳→西乗鞍古墳→東乗鞍古墳。2019.7.17(水)。

 天理市内の古墳23ヵ所散策の詳細版「西山古墳」からの続き・・・・・。

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                             *YAHOO!地図を編集・加工しています。

保昌塚古墳

県道51号沿い。現状は直径約17m。著しく削平され本来の形や大きさは不明な点が多い。直径25~35m程度の円墳との調査結果がある。椀を伏せたような古墳。峯塚案内の地図にも記されている。上図参照。

峯塚古墳

天理市杣之内町峯堂。7世紀中葉の円墳。

東から延びる尾根の南裾にあり、南向きに開口する「岩屋山式」横穴式石室がある。墳丘は3段築成、各段裾の直径は下段から約35m・28m・17mで、高さ約5m。墳丘上段葺石は凝灰岩質砂岩の長方形の切石をレンガ様に葺いていたらしい。中段・下段の葺石には径5cm程度の円礫が使われていた。墳丘周囲には周濠が巡っていた可能性もあるとのこと。石室は全長約11m、羨道の入口付近を除き築造当時の姿のまま。玄室は長さ4.5m、奥壁幅2.6m、天井石までの高さ2.4m。石材は、最大で幅4.5m、高さ1.2m、2段積みで天井石を支える。どれも綺麗に加工された切石。石室内は早い時期に盗掘され、副葬品や棺は不明。石室の特徴から7世紀代と推定されるとのこと。塚穴山古墳とともに大和の古墳時代終末期を代表する。西山古墳から東約500mほどにあり、墓地の下に位置するため墓山とも呼ばれるらしい。

*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

古墳方面へ    古墳案内   フェンス端を北へ           祠の手前を東へ

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無施錠のフェンス   東へ30m    北へ15m            開口部

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玄室全景      西側壁       東側壁        奥壁(A4ファイルは大きさ比較)

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奥壁上部     天井石     床       楣石部分    右袖石      左袖石

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西・東天井山古墳

天理市杣之内町。円墳。

発掘調査は未実施だが、S52年(1977)に天理大歴史研究会が墳丘測量調査実施。西天井山古墳は直径28mの円墳、墳丘には埴輪片が散布していた。東天井山古墳は直径37mの円墳で、墳丘斜面に葺石が露出、円筒・家形・蓋形埴輪等が採集されたらしい。

笠神山古墳

天理市仙之内町。古墳時代中期の前方後円墳。 

全長45mで前方部を北西に向ける。標高110mの丘陵上。発掘は未実施だが、H2年(1990)に天理大歴史研究会が墳丘測量調査。円筒埴輪や須恵器、桂甲(小札)等採集。

いずれもそれらしい場所を撮影はしたが・・・・・。自信なし。

たぶん西・東天井山古墳              笠神山古墳辺り

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小墓古墳

天理市杣之内町小墓。5世紀末~6世紀前半の前方後円墳。

西乗鞍・東乗鞍古墳と同じ丘陵上に築かれたらしい。いずれも古墳時代後期。全長約80m、後円部径約50m、現状は高さは6m(上部が削平され本来の高さは不明)とのこと。前方部幅は約70mで前方部を南南西に向ける。幅約12~13mの周濠も確認されたとのこと。1978年(S53)発掘調査で周濠から埴輪状木製品(蓋きぬがさ形・さしば形木製品等)が多数出土。埴輪では、全国でも十数例しかない円柱を持つ高床式の家型埴輪が注目されるらしいが、今回は墳丘を眺めただけ。

北東望                       北西望

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西乗鞍古墳

天理市杣之内町乗鞍。古墳後期の5世紀末~6世紀前半の前方後円墳。

杣之内古墳群では西山古墳に次いで2番目の規模。前方部を南に向け、全長約118m、高さ18m。墳丘周辺に、周囲より一段高い幅広の平坦地が一周するように巡り、それを含めると南北約165mになるらしい。発掘調査で、墳丘は上下2段に造られている可能性が高く、周濠と外堤が埋没して現在の広大な平坦地になっているとのこと。外堤の外側にも掘割がめぐっていたらしいことなどが確認されている。埋葬施設は不明だが横穴式石室の可能性がある。円筒・形象埴輪、土師器・須恵器などが出土している。同時期の古墳としては大王墓に次ぐ規模で、王権を支えた有力豪族の首長墳に匹敵する規模。H30年2月付で国史跡。

後円部南望        墳裾の解説板      登ってすぐの平坦地    墳丘登り口

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墳丘へ                           後円部墳頂     前方部碑

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東乗鞍古墳

天理市杣之内町乗鞍。6世紀中葉の前方後円墳。

全長75m、後円部径44m、前方部幅68m、前方部は西向き。全長14.8m(玄室長5.7m、幅2.4m、高さ3.3m)の右片袖式横穴式石室。馬具、甲冑の小札等出土の言い伝えがあるとのこと。2018年2月に前方部の一部を発掘し2段築成であることが判明、従来埴輪の存在は知られていなかったが、一段目のテラスから円筒埴輪の破片が見つかった。後円部墳頂は大きく凹み土砂が多量に石室内に入り込んでいる。石室は南に開口し、玄室に2棺置かれていたらしい。奥に阿蘇ピンク石の刳抜式家型石棺、手前に組合式石棺の底石の一部が残存している。現在石室内入室禁止。物部氏墳墓との説がある。

前方部遠景      墳丘南面     石室開口部方面   開口部       前方西面

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以下アクセス方法等、別掲載記事をご覧ください。

東乗鞍古墳 - OSAKA-TOM’s diary

 

続いて、マニアックなノムギ古墳から馬口山古墳周辺へ向かう。

osaka-tom.hatenablog.com

西山古墳周辺

2019.7.17(水) 塚穴山古墳西山古墳

天理市内の古墳23ヵ所散策の詳細版「星塚古墳」からの続き・・・・・。

塚穴山古墳

天理市勾田町(天理高校敷地内)。6世紀末~7世紀初頭の終末期円墳。 

17mの巨石石室円墳。 *↓ YAHOO!地図を編集・加工しています。

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以下をを参照ください。

塚穴山古墳 - OSAKA-TOM’s diary

 

西山古墳

天理市御経野-杣之内町。4世紀、下段が前方後方、中段以上は前方後円形。

杣之内古墳群の中でも最も古い時期の古墳。 前方後方墳の中で全国最大規模。墳丘は1段目のみが前方後方形で、その上に前方後円形が乗るというきわめて珍しい形をし、当初からこの形であったことは間違いないとみられている。前方部を西に向けた3段築成で、全長183m、高さ16m。下段の後方部は一辺90mの正方形で、これに同じ長さで、幅72mの前方部が付いている。中段は前方後円形で、後円部径72m、前方部全長90m。後円部墳頂は径30mが平坦で、前方部方向に7m下がって細長い前方部が続く。後方部中心には竪穴式石室があるが、すでに盗掘を受けているとみられている。 第2次大戦中に対空砲陣地がおかれ、この時に竪穴式石室の石材(柏原市芝山産)が掘り出されたらしい。 緩やかな傾斜地に立地し、三本の尾根の中央部を墳丘に、北と南の尾根を外堤として、自然地形を有効に利用しているため濠の幅は一定しないが、全長200m以上の双方中方墳とも考えられるとのこと。濠は現在埋め立てられているが、階段状の方形の濠が巡らされていたと考えられる。 後方部からは、銅鏡片、碧玉製鏃、管玉、鉄剣・鉄刀片が出土。前方部南側濠内から碧玉製車輪石1が出土。傾斜斜面には葺き石や埴輪片がみられ、円筒埴輪、鰭付ひれつき円筒埴輪、家形埴輪が見つかっているらしい。

かなり有名な古墳なので、説明はこれくらいで・・・・・。

*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

塚穴山古墳下から後方部南望    前方部南望            墳丘全景南東望 

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全景東望         後方部駐車場      後方部東面        後方部南西望

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続いて、峯塚古墳等に向かう・・・・・。

osaka-tom.hatenablog.com

 

星塚古墳周辺

2019.7.17(水)。天理市上総町の御墓山古墳と天理市二階堂上ノ庄町の星塚古墳(星塚2号墳)*

 *天理市新泉町にある大和おおやまと神社内の星塚古墳とは異なります。

天理市内の古墳23ヵ所散策の詳細版「赤土山古墳」からの続き・・・・・。

御墓山古墳

天理市上総町。5世紀末~6世紀前半の前方後円墳。

*YAHOO!地図を編集・加工しています。      前方部南西望

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 全長約74m。1993年の発掘調査で、古墳の東側に周濠が発見され、濠の内部から円筒埴輪や盾形木製品などが多数出土したとのこと。後円部の南側には遊具が設置されている。

前方部南東望           東面北望            後円部北望

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*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

星塚古墳(星塚2号墳)

天理市二階堂上ノ庄町。6世紀前半の前方後円墳。

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                             *YAHOO!地図を編集・加工しています。

 公園内にあるのは2号墳。前方部は既に消滅、残存墳丘規模は約30m(現在は墓地)。1952年の発掘で、全長7m、玄室長4.7m・幅2.3mの横穴式石室が見つかり、凝灰岩製の組合式石棺の一部も出土した。金製の耳飾り、ガラス製勾玉、丸玉、小玉、メノウ製管玉、水晶製三輪玉や、鉄刀の柄頭が出土したとのこと。柄頭には金銀線の象嵌亀甲文様があり、日本でも類例は少ない。墳丘周囲には馬蹄形の二重周濠も認められた。後円部を取り巻く部分は、現在雨水調整用地に利用されている。

また、先に1号墳があり、2号墳はそれを一部壊して造営されたことが1985年に判明。1号墳は、前方部を西に向ける全長38mの前方後円墳。後円部径27-28m。5~8mの周濠があった。周濠からは埴輪、須恵器、土師器等が見つかっている。中でも筒形器台は朝鮮半島南部に見られ、日本には類例が少ない。また笛状木製品等の木製品も出土したとのこと。

星塚公園         残存後円部       後円部内墓地       前方部跡

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東側北望                      解説

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ここから、天理高校南側の塚穴山古墳、西山古墳へ向かう。

osaka-tom.hatenablog.com

赤土山古墳周辺

赤土山古墳周辺

櫟本墓山古墳→東大寺山古墳→和爾下神社古墳→赤土山古墳→東大寺古墳群移築石室

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櫟本いちのもと墓山古墳

天理市櫟本町。5世紀末~6世紀前半の前方後円墳。

前方部を北西に向ける。全長64m、後円部径40m・高さ7m、前方部幅18mとのこと。江戸時代からの墓地で、現在も古墳と知らなければ単なる墓地である。北側のスーパー方面からアクセスした方が道は広い。2019.7.17(水)。

墓地駐車場        北面遠景         北東面近景        南面

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*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

東大寺山古墳

天理市櫟本町。4世紀中頃の前方後円墳。

天理教城法しきのり大教会敷地の北東側。朝早くからでも開放されている。事務所が開いていれば一声掛けて下さい(開いていなければそのまま登っていいらしい)。2022.10.6(木)再訪。

教会敷地内登り口                  案内           登り口見返り

墳頂方面                                   墳頂北東望

天理市和邇わに町から櫟本町にかけて和邇(わに=和珥とも)氏の支配地で、一族の墳墓が丘陵上に築造された。和邇氏は5~6世紀の中央豪族。2世紀頃日本海側から畿内に進出した太陽信仰を持つ鍛冶集団とする説がある。一族の本業は、朱の生産であったとされ、この朱を採掘し尽したことが一族の移住の要因との説もある。丘陵には県下最大規模の弥生後期の高地性遺跡もあり、東西約400m・南北300mの範囲内に竪穴式住居があって、二重の空堀が巡り、空堀の構造は大阪府和泉市観音寺山遺跡と類似しているらしい。東大寺山古墳はこの高地性遺跡と重複するようにあり、その遺跡の消滅後、150~200年ほど経ってから築造されたとのこと。前方部を北に向ける推定140mの前方後円墳。墳丘中腹や墳裾に円筒埴輪列、墳頂部には形象埴輪列が巡っていた。後円部墳頂の埋葬施設は、南北主軸に平行する木棺を覆った粘土槨で、長さ推定南北12m・東西8m、深さ3.7m。今はその痕跡と見られる窪みが見られる。

粘土槨跡の窪み北西望   北東望          墳頂西望         墳頂東端

粘土槨の東西に墓壙が掘られ、武器や武具が多数副葬されていた(主要部分は盗掘)。東側墓壙から、中国古代=後漢末の「中平」年号(184~189年)の鳥形飾環頭大刀が出土。この「中平」銘鉄刀を含め、5本の装飾環頭付きの鉄刀(柄頭に「輪っか」が付いた大刀)の環頭(輪っか)部分には、様々な細工(鳥形・家形)がされている。また鉄剣の列に沿って7点の巴形銅器(革製の盾や靫に装着する飾り)も出土。その他、 鉄刀20本・鉄剣9本等の武器類、玉類、鍬形石27・車輪石26(腕輪形碧玉製品)、滑石製壺等が出土。出土品大半は国宝になっている。

「中平■年 五月丙午 造作支刀 百練清剛 上応星宿 下辟不詳」

「中平■年五月丙午の日に、この銘文を入れた刀を造った。百鍛の鋼の刀で、天上では神の御意にかない、下界では災いを避けることができる」刀身は内反り(刃側に反る)で、日本の前期古墳に特有の直刀とは違い中国後漢製。中国製刀身に、日本で日本式環頭を付けたと推定されるらしい。

和爾下わにした神社古墳

天理市櫟本町治道山。4世紀末~5世紀初頭の前方後円墳。

東大寺山古墳や赤土山古墳等と共に東大寺山古墳群に属する。前方部を北に向け、全長105m、後円部径60m・高さ12m、前方部幅39m・高さ7m。後円部墳頂に和爾下神社が鎮座するためか、墳丘はかなり改変されている。1984年にくびれ部東西方向、後円部北側斜面や後円部平坦面の一部のみ調査されたとのこと。古代有力豪族の和爾氏の本貫地とされる辺りで、被葬者は和爾氏一族と考えられている。神社西側の柿本寺跡に竜山石製の石棺石材と思われる板状の巨石がある(この古墳のものか不明)。2022.10.6(木)再訪。

北側参道         柿本寺跡南望       石棺石材西望       北望

神社参道階段東望     拝殿東望         縁起           後円部北東望

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赤土山あかんどやま古墳

天理市櫟本町。4世紀後半=古墳時代前期後半の前方後円墳。 

全長106m。前方部を西に向ける。後円部東先端に突出部(造出し)があり、双方中円形ともいえる形になる。墳丘は2段築成で、葺石円筒埴輪(朝顔形埴輪含む)の他、形象埴輪(蓋形・短甲形・盾形埴輪等)が出土している。周濠はないが、前方部の先端が掘割で区画されている。また後円部突出部の南側には、家形埴輪や囲形埴輪による祭祀遺構が認められた。埋葬施設は 粘土槨らしいが、損壊しており粘土槨片や朱と、石製腕輪類・石製模造品の副葬品が見つかったとのこと

かなり整備されており、墳丘にも登れ、墳裾各所に解説がある。時代の最先端を行く電気メーカーに隣接し、今はいかにも過去の名残の様に見えるが、築造当時は最先端の人工構造物だったはずで、感慨深い。2019.7.17(水)。

古墳入口         掘割遺構解説      墳丘北側東望(奥が後円部)  後円部南東望

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復元祭祀遺構                            後円部南面

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東大寺古墳群移築石室

シャープ正門右手に移築されている。不審者と思われないよう、守衛さんには一言、言っておいた方が良い。2019.7.17(水)。

正門前の移築位置  移築先の案内    石室

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檜牧石風呂古墳周辺

檜牧石風呂古墳周辺

2020年6月9日(火)。「不動塚古墳」からの続き・・・・。

今回のルート

国道166号線)→赤坂天王山古墳=桜井市倉橋→《女寄(みより)トンネル》→(農免農道)→松源院香久山古墳=大宇陀迫間はさま→(国道166号)→《拾生交差点》→(国道370号)→(県道219号)→(農道)→アカサカ古墳・ニコ塚古墳=大宇陀守道もち→谷脇古墳=大宇陀守道→(農道)→(県道219号)→(県道135号)→(農道)→稲戸宮山古墳=菟田野稲戸→不動塚古墳群=菟田野稲戸→(農道?)→菟田野小学校=古市場古宮谷1号墳=菟田野町古市場ふるいち→(農道?)→(国道166号)→(県道218号)→見田・大沢古墳群→(県道218号)→(国道369号)→檜牧石風呂古墳榛原町檜牧ひのまき→(国道369号)→北谷古墳群榛原町福地→(国道369号)→(農道?)→赤瀬古墳群=榛原赤瀬あかぜ→(国道369号)→(県道31号)→(国道370号)→(県道198号)→心境荘苑古墳=榛原笠間→(国道166号線

最後のパートは、檜牧石風呂古墳以外は、眺めるだけとか、場所が分かってもパスせざるをえなかったりだったので一挙に掲載。

*なお、画像はクリックすると拡大されます。

古市場古宮谷1号墳

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                             *Yahoo!地図を編集・加工しています。

不動塚古墳から約1km。右に菟田野小学校に上がる道がある。古墳は小学校敷地北側。校門を入った左手に墳丘に上がる道が造られている。校門脇をすり抜けて、無理やり墳丘に昇ることもできないではないが、良い子がマネをしてはいけないので・・・。大人の対応は、事前に小学校へ連絡等するのだろう。

校門左の木の後辺りに、墳丘への登り道がある。

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2001年小学校建設に伴い発掘調査され副葬品約180点が出土したとのこと。径20~25mの円墳(前方後円墳説も)。埋葬施設は2基あり、1号主体に長さ4m・幅1.5mの組合式木棺、2号主体に長さ約6m・幅約0.8mの割竹形木棺が検出されたらしい。径16cmの画文帯神獣鏡・鉄製刀剣・槍先の様な武器、鉄斧、勾玉・管玉等の玉類約160点などが出土したからスゴい。築造は4世紀末~5世紀初めとされ、古墳時代前期~中期の副葬品が揃っている。ヤマト政権と深く結びついた集団の首長墓と見られるとのこと。小学校に上がる道の西側丘陵にも4基程ある。

見田・大沢古墳群

県道218号からのアクセス道は北と南にある。2020年1月に来たばかりなので、北側から眺めただけでスルーした。しかし、1月の真冬の様子と、この6月とで、ここまで違いがある。詳細は以下の過去の記事を参照ください。

見田・大沢古墳群 - OSAKA-TOM’s diary

北側アクセス道     2020年1月冬    登り口望遠     2020年1月冬     狸?発見

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檜牧石風呂古墳

国道369号線の榛原バイパス=榛原トンネルの東手前で山手に向かう道を登る。

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                             *Yahoo!地図を編集・加工しています。

そこから車で行ける突当りまで行く。(道が狭いので運転に自信ない方は歩きで。途中に車を置けるスペースはありませんので、369号から登りの300m。)

      

突当り駐車スペース      山林に入る       山林に入ってすぐ右上へ  

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少し登って道なりに左へ  目印右斜面上に石室

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右手斜面に小さな高まりが見える。本来は径約18mの円墳らしいが、石室がほぼ露出している。墳丘は雨風でかなり削られたのだろう。羨道天井部が崩れているので、そこから入室できる。両袖式の横穴式石室で本来の全長は9.5m。玄室は長さ4.5m、高さ2.3m。古墳時代後期6世紀代の築造とのこと。東側に縄文時代の石風呂遺跡があったり、西側丘陵で鉄刀が出土したとも伝えられるらしい。なお、楣石部分にはカマドウマがビッシリ。虫が苦手な方は、木の枝でパンパン叩くか、冬場に行ってください。

露出石室        崩落部                       崩落部下部

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玄室                        右側壁(奥から見て)   左側壁

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戻る時にまわりの斜面を見渡すと、大きな石がゴロゴロ転がっていた。

石室側面         石室背面         周辺の斜面

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北谷古墳群

北谷古墳群周辺地図                北谷古墳群を擁する杜 赤矢印は太陽光発電施設前

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*Yahoo!地図と奈良県遺跡地図Webを編集・加工しています。

場所は分かりやすいが、今は石室へのアクセスが難しい。美榛苑手前から左=西に降り、簡単に古墳に直結しそうな道があるが、私有地なのかフェンスで更に西側には行けないようになっている。また、もう少し手前(南西)の太陽光発電施設から古墳に向かえそうにも見えるが、崖っぽくなっており本来のアクセス道ではなさそうだ。あとは、榛原バイパス高架下から田んぼの畦道を北東にアクセスするルートも考えられるが、時間もないので、今回はパス。ご存知の方があれば教えていただきたい。もちろん地元の方に聞けば早いのだろうが、この時は人影が全くなく断念。

赤瀬古墳群

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                             *Yahoo!地図を編集・加工しています。

北谷古墳群から(榛原バイパスに戻り369号線を通り)1.8kmの地点。信号のない変則三差路を北東に降りる。道なりに春日神社脇を抜け、榛原天満台西4丁目の住宅街の北側縁を迂回するような狭い道を、東~北東へ道なりに向かう。農村地域に入った所のY字路を右(東北東)に少し行くと、消防団施設がある。ここの分岐の坂道を北西にあがった所が赤瀬古墳の麓。しかし登り口は民家の敷地?で、ここの方に了解を得ないと、とても古墳に登れない。お留守だったので、止む無くパス。

消防団施設             古墳へ            古墳麓の納屋 *民家は映像自粛

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ネット検索すると2012年や2013年の先達のブログ記事がヒットしますので、そちらを参考にしてください。行き方は完璧なんですが・・・。

心境荘苑古墳

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                             *Yahoo!地図を編集・加工しています。

帰り道=県道198号線沿いの未訪問の古墳を探したら、ここがヒットした。遺跡地図で確認すると、同名の社会福祉法人敷地内に表示があったが見つけられなかった。この施設のすぐ西隣の方に聞いてみたが、分からないという。ただ、この方が言うには「自分もパイロット事業に参加したが、その時に色んな遺跡等の破壊前調査に加わった。地図では施設前の隧道辺りだが、その事業の時になくなったかもな」と。向いの何かの敷地に大きな石が記念のように置いてあった。それ以外のことは分からない。

遺跡地図の表示辺り                               向いの施設の巨石

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申し訳ないことに、何だか尻すぼみで終わった。

まー、マニアックな古墳巡りでは見つからない事はいつものことである。


しかし、古墳ファンとして若輩の私が、常に参考にさせて頂いているブログの先人達には、「よー、こんなとこ見つけたなー」という驚きと、感謝しかない。また、いろいろなデータの無断転載等があればご容赦願いたい。 

不動塚古墳群周辺

不動塚古墳群周辺

2020年6月9日(火)。「谷脇古墳」からの続き・・・・。

国道166号線)→赤坂天王山古墳=桜井市倉橋→《女寄(みより)トンネル》→(農免農道)→松源院香久山古墳=大宇陀迫間はさま→(国道166号)→《拾生交差点》→(国道370号)→(県道219号)→(農道)→アカサカ古墳・ニコ塚古墳=大宇陀守道もち→谷脇古墳=大宇陀守道→(農道)→(県道219号)→(県道135号)→(農道)→稲戸八坂神社=稲戸宮山古墳=菟田野稲戸→不動塚古墳群菟田野稲戸→(農道?)→古市場古宮谷1号墳=菟田野町古市場ふるいち→(農道?)→(国道166号)→(県道218号)→見田・大沢古墳群→(県道218号)→(国道369号)→檜牧石風呂古墳=榛原町檜牧ひのまき→(国道369号)→北谷古墳群=榛原町福地→(国道369号)→(農道?)→赤瀬古墳群=榛原赤瀬あかぜ→(国道369号)→(県道31号)→(国道370号)→(県道198号)→心境荘苑古墳=榛原笠間→(国道166号線

*なお、画像はクリックすると拡大されます。

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*Yahoo!地図を編集・加工しています。

稲戸宮山古墳

稲戸八坂神社へは車道から歩いた方が早い。本殿の背後に古墳があるらしい。径8m・高さ2mの円墳。遺跡地図「18B-0079」。全長5m程の小規模な横穴式石室跡と思われる窪みのみで、さらに後の高所に「だけ山古墳18B-0076」(径12m、高さ3.5m)の円墳が有るとのこと。とても登れそうにもなく、見上げても古墳らしきものは見当たらない。

神社への分岐       稲戸八坂神社                  稲戸宮山古墳方面

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不動塚古墳群

稲戸八坂神社から300m程のところに不動塚古墳への分岐がある。

分岐      不動塚古墳方面の道順

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何かの施設の所で進行方向が反転し、林道に入っていく。5~6年前のブログでは、最初の標識では笹藪がひどく、とても表示方向には進めず、表示と逆の方向から1号墳に回り込んだらしいが、今回は比較的整備されていた。ただ、1~2年もすれば、どうなっているか分からない。

1号墳への道順(黄〇は獣罠)                  この標識から3~4分で1号墳

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1号墳

標識に従って登って行くと、道の間際に何やら黒いシートで覆われた箇所があった。横に「不動塚古墳1号墳」の標識があり、「立入禁止」の表示。シートは真新しくはなく、かといって古びてもいなく、せいぜい1年以内といった感じ。崩落危険があるからなのだろうが、ぜひ見学可能な状態に整備してほしい。下調べの時は、松源香久山古墳や谷脇古墳石室より、余程堅固に見えたが・・・。(各自ネット検索で調べてください)

1号墳は墳長50m、後円部径24m、前方部幅20mの前方後円墳。築造は6C後半。石室は、右片袖式で南に開口。石室全長7.7m。羨道長さ3.6m、幅約1.5m程。玄室長さ約4m、幅2m、高さ約3m。玄室には東西向きに箱式石棺が据えられているらしい。

1号墳を過ぎて、2・3号墳へ向かう。

現在の1号墳石室   2号墳方面    すぐ東のこんもりした小さな墳丘が2号墳  2号墳開口部

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2・3号墳

2号墳は径18m程、高さ約3.5m程の円墳。南側に開口するが、入室するには仰向けになるしかないが、ちょっと勇気が出ない。自撮り棒で内部を撮影してみたが、土埃り様のもので阻まれ、はっきり映らない。それだけ長期間誰も入室していないのだろうか?
3号墳は、2号墳の南南東に少し下った所、径12mの円墳。墳丘は確認できるが、石室跡の陥没坑のみ。

2号墳開口部   羨道      埃?(虫ではない)  玄室              3号墳

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続いて、今回の古墳巡り終盤=古市場古宮谷1号墳、見田・大沢古墳群、檜牧石風呂古墳、北谷古墳群、赤瀬古墳群、心境荘苑古墳を一挙に掲載。
なぜなら檜牧石風呂古墳以外は、結果的に場所の紹介のみになるので・・・。

osaka-tom.hatenablog.com

もっとも、このブログの主旨は、行き方の詳述。古墳や石室の詳細情報はネットで簡単に得られるから・・・です。