OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

谷脇古墳周辺

谷脇古墳周辺

2020年6月9日(火)。アカサカ古墳・ニコ塚古墳→谷脇古墳。

「松源院香久山古墳」からの続き・・・・。

国道166号線)→赤坂天王山古墳=桜井市倉橋→《女寄(みより)トンネル》→(農免農道)→松源院香久山古墳=大宇陀迫間はさま→(国道166号)→《拾生交差点》→(国道370号)→(県道219号)→(農道)→アカサカ古墳・ニコ塚古墳=大宇陀守道もち谷脇古墳=大宇陀守道→(農道)→(県道219号)→(県道135号)→(農道)→稲戸宮山古墳=菟田野稲戸→不動塚古墳群=菟田野稲戸→(農道?)→古市場古宮谷1号墳=菟田野町古市場ふるいち→(農道?)→(国道166号)→(県道218号)→見田・大沢古墳群→(県道218号)→(国道369号)→檜牧石風呂古墳=榛原町檜牧ひのまき→(国道369号)→北谷古墳群=榛原町福地→(国道369号)→(農道?)→赤瀬古墳群=榛原赤瀬あかぜ→(国道369号)→(県道31号)→(国道370号)→(県道198号)→心境荘苑古墳=榛原笠間→(国道166号線

*なお、画像はクリックすると拡大されます。

アカサカ古墳・ニコ塚古墳

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「松源院香久山古墳」から国道166号に出て、拾生ひろ交差点を南下→(国道370号)→県道219号に入る。そして219号から古墳方面への分岐がポイント。カーブミラーを左折すると、「えッ?こんなとこ?」という車1台がヤッとの道。ここを道なりに350m行くと、左手道沿いに車1台停められる程度の離合スペースがある。この辺りが目的地。

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*Yahoo!地図を編集・加工しています。

370号から219号の分岐   219号からの分岐    古墳への道        離合スペース

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ここからの話が少しややこしい。「他の古墳ブログ」と「遺跡地図等」の位置関係が逆になっている。

30年程前と5~6年前のブログでは道の南側がアカサカ古墳。

しかし「遺跡地図」や「前方後円墳データベース」では道の北側となっている。

ここからの説明は、遺跡地図の番号(15D-00××の後2桁)を使います。

なお、確実な事実としては「62」には「金毘羅大権現」の石碑がある。

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奈良県遺跡地図Web/奈良県公式ホームページ    前方後円墳データベース を編集・加工。

「過去のブログ」は石碑のある「62」をアカサカ古墳、「61」をニコ塚古墳とする。

・「遺跡地図」→ 道の北側の「60」がアカサカ古墳。「62」は無名の円墳。

         そして「28」がニコ塚で径25mの円墳。

・「前方後円墳データベース」→ 遺跡地図の「60」がアカサカ古墳。「62」がニコ塚古墳。

 

私の見方。アカサカ古墳は「60」。そして「62」はニコ塚古墳かどうか名称不明だが前方後円墳。というのは「60」の墳裾を巡る道の形。道を作る時は山や谷等の地形に沿う。「60」古墳では、以下の写真のように西から東に道が墳形に沿う。

西から右に一度カーブ(くびれ部)、そのすぐ先で左にカーブ(後円部)、円を描くように回り込む(後円部東端)

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また「62」については、一見すると古墳とは分からないが、碑があるというのは、それなりに伝承があったのだろう。

*金毘羅権現 は日本の神仏習合の神で、中世から近世にかけて「こんぴらさま」「こんぴらさん」で知られた。江戸時代に天狗の面を背負った白装束の金毘羅道者が全国を巡って金毘羅信仰を普及し、江戸後期には、いわゆる四国の金毘羅参りが盛んになったらしい。

「62」へ                           「金毘羅大権現」の石碑  前方部?

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道を挟んですぐ北側に「61」がある。先程の離合スペース先の、三差路の向こう側。素人目には切通しの様にしか見えない。

三差路         道沿い墳丘東望       近景西望        遠景西望

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まー、どっちでもいいが、谷脇古墳に行くのにどうせ通るので・・・寄ってみては?

谷脇古墳

アカサカ古墳から200m程下ると鶏舎がある。鶏舎東端の分岐(☆印)がポイント。

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たまたま鶏舎のご主人がおられたので、倉庫前に車を置かせていただいた。

*了解を得ず駐車厳禁。もっと麓に降りて邪魔にならないところに駐車し、そこから歩くしかない。

分岐北西望      谷脇古墳はここを上がって、北西突き当りの鶏舎手前から草叢に入ったところ。

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*私有地なので、鶏舎のご主人に了解を得るべきだが、ここには住んでおられないようだ(来られるまで待つしかない?)。 ご主人談。「古墳が分かりにくい場所にあり、ウロウロ鶏舎などに入られると、感染等の恐れもある。相当以前、県に鶏舎とは逆の西側に道を作るよう依頼したが、認められなかった」とのこと。

開口部前の解説板     開口部                      羨道

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羨道は長さ4m程、幅 1.5m程で、入ってすぐに石棺が見える。羨道はやや片側(東側)に寄っているが、一応両袖式。玄室は長さ 2.5~2.9m,幅が 3.5mで横長の長方形。いわゆるT字型石室。石材は川原石で、四方から壁を持ち送り、天井石1枚を載せている。床には全面に小礫がある。床面ほぼ中央に切石(流紋岩質溶結凝灰岩=榛原石か花崗岩製)を使った組合式箱式石棺が埋め込まれている。東西逆向きに頭を向けた2体分の人骨が出土したらしいが、幅は一人分位しかない。

石棺                                石棺西小口(鞄は30cm四方)↓

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西側壁       東側壁中央部     天井石(左が西)  開口部       石棺俯瞰

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墳丘はやや楕円形で、東西18m・南北15m・高さ2.5mとのこと。石室内からは金環4個(2対)・須恵器(平瓶・壺・坏身・坏蓋各1個)や鉄製品(鏃・刀子)が検出され、築造時期は古墳時代後期の6世紀中葉頃と推定されるらしい。

鶏舎のご主人がおられたことは、本当にラッキーだった。マニアでもあまり訪れる方はないのだろう。

鶏舎東端の分岐(☆部分)を南東に下り、350mで京大の観測所脇の三差路を右(南東)に折れ、道なりに南西に大きくカーブし、県道219号に戻る。

続きは「不動塚古墳」へ。

osaka-tom.hatenablog.com

 

松源院香久山古墳

松源院香久山古墳

2020年6月9日(火)  「赤坂天王山古墳」からの続き・・・・。

国道166号線)→赤坂天王山古墳=桜井市倉橋→《女寄(みより)トンネル》→(農免農道)→松源院香久山古墳=大宇陀迫間はさま→(国道166号)→《拾生交差点》→(国道370号)→(県道219号)→(農道)→アカサカ古墳・ニコ塚古墳=大宇陀守道もち→谷脇古墳=大宇陀守道もち→(農道)→(県道219号)→(県道135号)→(農道)→稲戸宮山古墳=菟田野稲戸→不動塚古墳群=菟田野稲戸→(農道?)→古市場古宮谷1号墳=菟田野町古市場ふるいち→(農道?)→(国道166号)→(県道218号)→見田・大沢古墳群→(県道218号)→(国道369号)→檜牧石風呂古墳=榛原町檜牧ひのまき→(国道369号)→北谷古墳群=榛原町福地→(国道369号)→(農道?)→赤瀬古墳群=榛原赤瀬あかぜ→(国道369号)→(県道31号)→(国道370号)→(県道198号)→心境荘苑古墳=榛原笠間→(国道166号線

*なお、画像はクリックすると拡大されます。

 

国道166号線の女寄トンネルを南東へ抜け、560m行ったところに消防施設等がある交差点(「心の森総合福祉公園」の標識)を右=南西方向に曲がる。そこから約2.6~2.7kmで古墳への進入路がある。信号とかもないので、素通りしないよう注意。進入路左に4~5台分の駐車場がある。車ならここに停めて、歩いた方が良い。南東に120m程下ると、左に民芸館がある。この民芸館の裏山(南東側)にある。

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*Yahoo!地図を編集・加工しています。

166号からの分岐 古墳進入路   駐車場     民芸館方面    左にお堂    民芸館

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民芸館は午前10時からのようだ。民芸館の手前から裏手へ回ると、古墳への道がある。今はきれいに整備され分かりやすい。

裏手へ      民芸館裏手の道                    墳丘手前から右へ回り込む↓

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南に回ると開口部がある。すごい頑丈そうな鉄柵で閉ざされているが、施錠されていない。というか、柵が老朽化し壊れている。重いので開くというより、手前に倒した方が楽だった。羨道は結構高く、かがむ程度で入れる。ただ、入室して開口部の頑丈な鉄柵の意味が分かった。いつ崩壊してもおかしくない感じ。石室は千何百年も残っているのだろうが、あちこちに壁石が落ちているし、右=東側壁の大石がずり落ちないよう石柱で支えてある。鉄柵が壊れているのをいい事に勝手に入るからには、全くの自己責任。懐中電灯と共に、ヘルメットが必要かもしれない。まー、本当は入ってはいけないのだろう?! そのうち鉄柵が修理され立入禁止になるだろう・・・・・。

開口部          鉄柵                       大きさ比較

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羨道                            玄室        照明用ランタン

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奥壁        奥壁最上部      左=西側壁    右=東側壁     大きさ比較

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玄門部西側上段(左下に開口部) 同左下段(黄が袖石)  東側上段       同左下段(黄が袖石)

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玄門部楣石        天井前方部        開口部

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墳丘東面             墳頂部              開口部見下ろし

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もちろん柵は元通りにしたが、墳頂から降りるとき、笹の落葉で滑って転んだ。

バチがあたったかも・・・・・?

続きは、更にマニアックな「谷脇古墳」へ。

osaka-tom.hatenablog.com

 

赤坂天王山古墳群

赤坂天王山古墳群

本ブログの趣旨は、もちろん散策記録ではあるが、「古墳への行き方」を詳述することでもある。私は、先人の古墳に関するブログ等を参考にマニアックな処を散策しているが、5・6年前とか、もっと古いものも多く、周辺や古墳の状況が変わっているケースがあり、迷うことも多い。そこで、最新の情報を提供したいと思っている。

もっとも、このブログも1年以上経てば、同じ羽目になるわけだが・・・・・。

 

2020年6月9日(火)

今回は奈良県桜井市宇陀市のマニアックな古墳・石室をグルっと一周。

遠距離なので車で回った。

*なお、掲載画像はクリックすると拡大されます。

今回のルート

国道166号線)→赤坂天王山古墳桜井市倉橋→《女寄みよりトンネル》→(農免農道)→松源院香久山古墳=大宇陀迫間はさま(国道166号)→《拾生交差点》→(国道370号)→(県道219号)→(農道)→アカサカ古墳・ニコ塚古墳=大宇陀守道もち→谷脇古墳=大宇陀守道→(農道)→(県道219号)→(県道135号)→(農道)→稲戸宮山古墳=菟田野稲戸→不動塚古墳群=菟田野稲戸→(農道?)→古市場古宮谷1号墳=菟田野町古市場ふるいち→(農道?)→(国道166号)→(県道218号)→見田・大沢古墳群→(県道218号)→(国道369号)→檜牧石風呂古墳=榛原町檜牧ひのまき→(国道369号)→北谷古墳群=榛原町福地→(国道369号)→(農道?)→赤瀬古墳群=榛原赤瀬あかぜ→(国道369号)→(県道31号)→(国道370号)→(県道198号)→心境荘苑古墳=榛原笠間→(国道166号線

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Yahoo!地図を編集・加工しています。

場所的には分かりやすい。2018年4月にも一度来たが、当時に比べかなり整備されていた。国の史跡に指定されており、指定名称は「天王山古墳」とのこと。ただあちこちに同名の古墳があるので、調べるときは「赤坂」を付けた方がいい。

登坂道沿い右=西の解説板 古墳入口    アクセス道     白矢印が1号墳   黄矢印が2・3号墳

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 1号墳

1号墳は3段築成の方墳。北辺約50m、南辺約43m、東辺約46m、西辺約47m、南がやや狭いらしい。石室や石棺の形式などから築造時期は6世紀末から7世紀初頭と見られているとのこと。

石室は、上の右端写真の白矢印を登ってすぐ木の後。前回2018年4月に来た時は、開口部に土砂が埋まっており、入室を断念したが、今回は入室できた。最初、開口部を見ると、上部にカマドウマ(バッタの一種)がビッシリ=下の真ん中の写真。木の枝で追い払い、さらに入室前に羨道部を木の枝で何度かパンパン叩くと、全く居なくなった。

開口部前       1号墳全景     開口部のカマドウマ           大きさ比較(私は170cm)

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羨道から入ると、向こうにうっすら石棺が見える。懐中電灯は必携。四つん這いや、仰向けで入室するため、汚れてもいい服装で、軍手もはめた方がよい。(軍手は人差し指第一関節分を切り取っておけば、携帯操作も可能)

南に開口する両袖式の横穴式石室。全長17mとかなり大きい。羨道の長さ8.5m、幅1.8m、高さ約2m、玄門(玄室入口部分)以外は1m程の花崗岩を使っているようだ。羨道を入ってすぐ右側に閉塞石らしき石が転がっている。玄室は長さ6.3m、幅約3m、高さ約4m。奥壁は高さ2mを超える巨石と1m前後の巨石2枚を用いた三段積。左右の側壁も花崗岩の自然石が三段に積まれ、その隙間に小石を詰めてある。側壁は持ち送り(上に行くほど狭くなる終末期古墳の特徴)が見られる。床面には礫石が敷かれている。

羨道入口         開口部見返り      玄門部          玄室全景

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玄室中央に二上山産白色凝灰岩製の刳抜式家形石棺が主軸に平行に置かれ、蓋と身を別個に作って組み合わせてある。長さ約2.4m、幅約1.7m、高さ1.1m。蓋の前後(狭い辺=小口)には一個ずつ、側面(長い辺=長手)に二個ずつ(残存は1個ずつ)「縄掛け突起」が蓋斜面に付いている。

石棺全景     前方(南小口)の縄掛け突起 後方(北小口)   東側       西側

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石棺の南小口部(手前側)は、蓋から身にかけて50cm弱の四角い彫込みがあり、そこに盗掘孔がある。奥壁側=北小口にも、小さな孔が開いている。前の盗掘孔から石棺内が見られる。当然今は空っぽだが、なぜか落書が一杯。蓋裏にも落書が一杯。こんな狭い孔から入れるはずもないし、棒状のものを突っ込んで書くにしても、右下の赤枠内の「参上」は書けない。つまり、蓋が外されて置かれていた時期があるのだろう。出土遺物はないとのこと。なお石棺と東側壁の間に結構大きな石が落ちている。側壁とかの楔石が落ちたのかも・・・・。

南小口部(手前側)          奥壁側=北小口         石棺内

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奥壁(上半分は天井部)  東側壁         石棺東側        東側床上の石材(奥から)

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西側壁          石棺西側         奥壁最下段       奥壁東角中段

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玄門           楣(まぐさ)石       楣石上部と天井石    天井石前方部

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(奥から見て)玄門左袖部   右袖部         羨道左側壁       羨道右側壁

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墳頂は10m前後四方の平坦地となっている。各段の斜面には葺き石が施されていたが、埴輪は知られていないらしい。

墳頂北望      北面見下ろし    東面見下ろし    南面見下ろし   西面見下ろし=2号墳

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2号墳

2号墳へは1号墳の南側から西へ回る。1号墳の西側墳裾にある。1辺25mの方墳とのことだが、墳丘はかなり崩れて、方墳とはわからない。南側の石室も埋まっている。

黄矢印が2・3号墳方面                           2号墳石室

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3号墳

3号墳は1号墳のすぐ北側。フェンスで囲まれているが、1号墳側の一角は紐で閉じてあるだけなので、開閉可能。径約11m、高さ約4.5mの円墳で二段築成。墳丘はきれいに残っており、石室は南に開口している。

フェンス開閉可能部                         3号墳全景

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開口部              大きさ比較

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両袖式の横穴式石室で全長10m程、羨道は長さ6mで幅1.7mとのこと。羨道入口には閉塞石(何個かの自然石)が転がっている。玄室の長さ4.3m、幅2.5m、高さ約2.6m。玄室の床石も残っている 。出土品については知られていないらしいが、築造年代については横穴式石室の特徴から6世紀末~7世紀初頭らしい。

羨道               玄室全景    玄室西=左壁   東=右壁    奥壁

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                      ↑ 白煙様のものは土埃等のフラッシュ反射

玄門部      東=奥から見て左袖部  西=右袖部     楣石        楣石上部

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天井南=前方部      羨道開口部方面     閉塞石          脱出風景 

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3号墳から帰る時、1号墳の北側・東側を回った。方墳ということがよく分かる。

なお、古墳前の道幅は結構広く、車も停められる。

1号墳北側墳裾             東側墳裾                 古墳入口前

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ここから国道166号線の女寄トンネルを抜け、大宇陀麻生田に入る。

続きは「松源院香久山古墳」へ。

osaka-tom.hatenablog.com

 

室宮山古墳

 天皇陵を含めた「おすすめコース」=近鉄(またはJR)御所駅24号線①鴨都波神社→②第5代孝昭陵室宮山古墳・ネコ塚古墳309号線巨勢山古墳群(条池支郡)日本武尊白鳥陵⑤第6代孝安陵御所まち御所駅 =約11Km+α。

本記事は室宮山古墳のみを掲載していますが、①鴨都波神社→②第5代孝昭陵③ネコ塚古墳巨勢山古墳群(条池支郡)日本武尊白鳥陵⑤第6代孝安陵は、以下を参照下さい。

なお掲載写真は2018年6月1日の散策分です。

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                       *Yahoo!地図を編集加工しています

室宮山古墳むろみややまこふんは別称「室大墓むろのおおはか」とも呼ばれる。 

・御所市大字室。5世紀初頭の前方後円墳で組合式長持形石棺の一部が露出。国の史跡

・古くから後円部に八幡神社が祀られことが「宮山」の由来。

 「室=むろ」は古地名で、『和名抄』にも大和国葛上郡に「牟婁郷」とある。

蛇穴交差点        道標          室宮山古墳へ      前方部西側の寶國寺

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            *PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

・南側墳裾の八幡神社の拝殿西隣に古墳への登り口がある。

・被葬者は、武内宿禰とする説がある。武内宿禰は『記紀』によれば12代景行~16代仁徳天皇に仕えたという伝説上の忠臣。記紀ではその墓に関する記載はないが、中世の『帝王編年記』仁徳78年条の一説では、「大和国葛下郡で薨じ死所は「室破賀墓」である」とあり、同記編纂当時(南北朝時代頃)には本古墳に関して武内宿禰被葬者説が存在したことが知られる。武内宿禰は7世紀頃の創出と見られ、史実性は薄いかも。
最近では被葬者を葛城襲津彦かずらきのそつひことする説が有力。襲津彦は『記』で武内宿禰の子に位置づけられ、記紀以前の『百済記』にも類似名称の記載があるので、4世紀末~5世紀前半頃の実在性が有力。襲津彦の活動時期は本古墳の築造時期とも一致し、朝鮮半島に派遣された点は、北石室出土の船形陶質土器とも関連づけられるとのこと。ただ襲津彦に比定する場合でも、彼のモデル人物が複数存在する可能性がある。

*かつては孝昭や孝安天皇陵説もあった。孝安天皇の宮が、室の「秋津島宮(葛城室之秋津島宮)」で、その宮を当地とする説が古くからあり、八幡神社境内に「室秋津島宮阯」碑が立つ。

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・墳丘全長238m。後円部は3段築成で直径105m(推定復元148m)、高さ25m。前方部 は3段築成で、幅110m(推定復元152m)、高さ22mで西南西を向く。  

葛城地方では古墳時代前期に大型古墳はなく、中期に入り室宮山古墳が突如出現する。室宮山古墳に次ぐ葛城地方の首長墓は掖上鑵子塚古墳(御所市柏原、墳丘長149m、5世紀中葉)だが、その規模は室宮山古墳に比べかなり小さい。なお、御所市域では室宮山古墳を契機とする遺跡として、5世紀中頃-後半に最盛期を迎えた広域集落の南郷遺跡群や、5世紀末から営まれた巨勢山古墳群が知られる。

 登り口見返り      登り道         後円部墳頂見上げ    後円部墳頂東望

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埋葬施設は、後円部に2ヶ所、前方部に2ヶ所(推定)、北張出部に1ヶ所、南張出部に1ヶ所(推定)の計6ヶ所。主体となる後円部の2ヶ所は、墳丘中軸線(東西)を挟み南北に平行に並ぶ。

・後円部南石室

1950年(S25年)に盗掘を受け、同年緊急発掘調査を実施したとのこと。天井石の西端1枚が欠損し、その欠損部分から長持形石棺の小口面が見られる。石室は、緑泥片岩・石墨片岩など結晶片岩紀の川産)製の割石を積んだ竪穴式石室で、長さ5.5m、幅1.9m(東側)・1.7m(西側)、高さ約1.1m。天井石は凝灰岩(流紋岩質溶結凝灰岩:加古川市付近の姫路酸性岩)製の切石で、西端1枚を除く5枚が残る。石棺内から玉類=管玉など(棺外からの流入かも)、石室内からは玉類=勾玉・管玉など、琴柱形石製品、刀剣 11口、革綴短甲残片、鏡破片=唐草文帯二神二獣鏡。石室の封土からは、(天井石閉塞後の祭祀によるものか)滑石製の石製模造品、土師器片、鉄剣などの鉄製品が出土したらしい。

天井石欠損部                         石室西望(木枝で石室外形を再現)

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石棺は、凝灰岩製の竜山石(加古川流域産)の組合式長持形石棺。全面に朱を塗り、長さ3.5m(縄掛突起を含め3.8m)、幅約1.4m。蓋石には格子亀甲文が有るほか、縄掛突起が4面各2個の計8個有る。被葬者は東枕で、石室は石棺を据えた後に築かれたと見られる。石棺は現在も石室に納めた状態で遺存。長持形石棺は「王者の石棺」とも称される王墓に特有の棺であるが、本古墳の棺はその中でも大規模な部類。

天井石欠損部    石棺の縄掛突起  石棺盗掘跡?(足は大きさ比較)       石棺内

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石室上部周囲には、2重の埴輪列が長方形に巡らされていた。外側列は甲冑形埴輪(冑は革製)・靫(ゆぎ=矢を入れて背負う)形埴輪・盾形埴輪など高さ約1.5mの埴輪40体前後から成る大規模な武器形埴輪列。内側列は円筒埴輪・朝顔形埴輪列。武器形埴輪は正面を外側に向け被葬者を守る意味で、そのうち冑形埴輪が当時一般的な鉄製冑形でなく革製冑形であることから、被葬者を守護する親衛隊の象徴と見られる。また2重埴輪列のさらに南側には、大型の家形埴輪5体以上が置かれていた。以上の埴輪の一部や埴輪列の復元模型は橿原考古学研究所付属博物館に展示。

靫形埴輪レプリカ           埴輪列解説           天井石欠損部南西望

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後円部北石室

後円部の北石室は、発掘調査されず詳細不明。ただ1998年(H10)台風7号に伴う倒木被害の際、倒木の根跡調査から若干様子が分かっている。南石室同様に緑石片岩を積み上げた竪穴式石室。内部に竜山石製の長持形石棺が安置され、石棺は閃緑岩で根固めされていた。石室周囲にも同様に埴輪列が巡らされていたが、元の位置から大きく動いており、乱掘により多くが破壊されたと見られる。また副葬品のうちには、加耶朝鮮半島南部)産の陶質土器4点以上があり、中でも精巧な船形陶質土器1点が注目されている。陶質土器の副葬はあまり類例がなく、土器自体も一般的な日本の須恵器と色調が異なることから、朝鮮半島からの伝世品と推測されるとのこと。

北石室辺り南東望        北西望               天井石?

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・その他、前方部墳丘上に推定2基。1基は1908年(M41)耕作に伴い発掘され、木片(木棺材か)・鏡・玉・石製品が出土。鏡は11面(うち絵模様神獣鏡2面・三角縁神獣鏡1面・獣首鏡1面)、滑石製勾玉・管玉・棗玉・玻璃玉など4種170余個、石製刀子1個。鏡には鉄錆があり鉄器類の可能性もあるとのこと。北張出部には粘土槨1基。内部の木棺が、推定長8.6mという長大な埋葬施設。1971年(S46)の発掘調査で漆塗製品(革製冑か)・鉄鏃・短甲片・鉄刀片が出土。鉄製冑でなく革製冑が出土したことから、この被葬者は後円部被葬者の親衛隊長と推測されているらしい。

 

osaka-tom.hatenablog.com

池ノ谷古墳群

池ノ谷古墳群

【今回のルート】2020.5.25(月)

名阪国道=針IC~(国道369号)~(農免農道)~[奈良市都祁南之庄町]~(県道781号)~三陵墓古墳群~市場古墳群~観音山古墳群~(国道369号)~貝那木古墳群~(国道369号)~(広域農道)~奈良県立野外活動センター=池ノ谷古墳群~(広域農道・農免農道)~名阪国道=針IC

 

【貝那木古墳群~(369号外の橋→吐山交差点)~(広域農道)~野外活動センター 3.2km】(針IC~7.8km)

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池ノ谷古墳群

奈良市都祁吐山町字池ノ谷。県立青少年野外活動センター内。

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*Yahoo!地図を編集・加工       奈良県遺跡Webを編集・加工

センター前信号から、駐車場に至る道の右手に、小さな丘陵があり、その中央辺りから頂上目指して20m程真っすぐ登ると池ノ谷4号墳、その右上10m程に5号墳があるらしいが、とても登れそうにないのでスルー。行った方には敬服する。

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野外活動センターは広大な施設だった。コロナ騒動で暫くは利用者も少なかっただろう。この日は月曜と言うこともあって、全く一人だった。

駐車場から管理棟への道。

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池ノ谷1号墳

保存状態の良い1号墳は、管理棟前広場のすぐ西隣で、すぐ分かる。径19mの円墳で、粘土質の盛り土で築かれている。横穴式石室は、全長8.1m、玄室長3m、幅1.8m、高さ2.1m、羨道長5.1m、幅1.25mの右片袖式で、南東に開口。石室の前に1.6m×1.2mの巨石があり、閉塞石と見られている。

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玄室天井石    西側壁玄門側     奥壁側       東側壁玄門側    奥壁側 

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玄門西上隅        東上隅          羨道部東壁       西壁(右片袖)

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墳丘西面       墳頂東望     管理棟見下ろし   南東面見下ろし

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池ノ谷3号墳

1号墳をグルッと回り、残炭処理場へ向け200m程北に下る。左側の笹薮の中に3号墳の石室が開口する。

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内部はかなり埋まっている。それにしても両側壁の間がやたら狭い。1mあるかないか、羨道にしても狭い???? 道が奥壁側で施設道路を造る際削平されたのだろう。

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残炭処理場の向いが、石材で埋め尽くされている。まさかこんな地山があるはずはなく、おそらく施設建設の際に、削平した石室石材の捨て場だったのだろう・・・?

3号墳見返り(赤矢印が残炭処理場) 

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ウシガシバ古墳(12B-55)

野外活動センター前の信号から、北西に200mほど進むと左手に最初のY字路がある。道の反対側にカーブミラーがあり、短いガードレールでふさがれている。ある古墳関連ブログで、「その脇から北の山林に山道がある。山道を100mほど行くと道が途切れるので、そこから左の山頂に向って30mほど上るとウシガシバ古墳(12B-55)の墳丘が見える」とあったが、今はとても入れそうにないのでスルー。

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【野外活動センター~針IC 5km】

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*Yahoo!地図を編集・加工 

 

(今回のルート全行程計13km)

最寄り駅があれば、歩いて回れない距離ではない。とは言え、車で行っても、あちこちウロウロで10km近くは歩いた。

絶好の古墳散策時期が、コロナ騒動で自粛となった。夏場は藪蚊・蛇・クマ笹等々で山あいの古墳探訪はヤッカイになるなー。

 

貝那木古墳群

貝那木古墳群

【今回のルート】2020.5.25(月)

名阪国道=針IC~(国道369号)~(農免農道)~[奈良市都祁南之庄町]~(県道781号)~三陵墓古墳群~市場古墳群~観音山古墳群~(国道369号)~貝那木古墳群~(国道369号)~(広域農道)~奈良県立野外活動センター=池ノ谷古墳群~(広域農道・農免農道)~名阪国道=針IC

 

【三陵墓古墳群~(国道369号)~貝那木古墳群 1.6km】

観音山古墳群を見るために、私は369号線の白石交差点の手前で右折し、田んぼ道を行きましたが、狭いので普通に、白石交差点から369号線を通る方が良いかも・・・。

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*Yahoo!地図を編集・加工。

貝那木古墳群

城山丘陵に分布する7基の古墳群。

369号線の左側、カーブミラー脇に、登り道がある。道は車1台分の幅はある。しかし坂が急で、4WD車なら登れるかもしれないが、健康のためにも歩いた方が良い。

*車は登り口から369号沿い50m先の右側に停めるスペースがある。

                        奈良県遺跡地図Webを編集加工

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*YGoogleマップを編集・加工。

登り口から山道に入り、70mで左へ登る最初の分岐がある。そこから170mほど登る。貝那木山城址への分岐付近に、「12B-44、12B-45、12B-46」が有る。

登り口       城跡方面          右端の写真が城跡分岐北東望(赤が本線、黄は城跡方面)

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12B-45

最初にあるのは「12B-45」。分岐のすぐ手前左(西)にある。よく見るとピンクテープが2カ所巻き付けてあった。径15mの円墳とのこと。石室は残っておらず、窪みのみ。

なお、ピンクテープは時期によっては無くなっているかもしれないので、ご注意を!

分岐手前       墳丘        石室跡?窪み             城跡側から分岐西望

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12B-46

「12B-45」から、道を挟んだ反対側(東)に「12B-46」がある。径15mの円墳で、石室は残っておらず、窪みのみ。

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12B-44

分岐から北西に20m程の左手(西)に「12B-44」があり、石室の一部が残っている。ここにもピンクテープが巻き付けてある。

「12B-46」から見た分岐  「12B-44」墳丘

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北西望                    天井裏にカマドウマ(竈馬)=バッタの仲間  南東望

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12B-42・43

「12B-44」からぐるっと南西に曲がった20m程先の左手側(南)に2基(12B-42、43?)が並ぶ。遺跡地図には何の表示も無い。というか、遺跡地図の「42・43」表示の所には古墳らしきものは無かった。なので、これを「12B-42、12B-43」としておく。

「12B-43」は計15mの円墳で、比較的大きな横穴式石室が開口。

墳丘南西望        反対側から北東望     石室開口部

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老骨にはキツいが、しゃがめば何とか入れた。

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奥壁               西壁               東壁

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「12B-43」のすぐ先(南西)に、「12B-42」が隣接する。径5mの円墳らしい。窪みがあるだけ。

                                  北東側には12B-43が見える

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12B-48=貝那木古墳

登ってきた道を戻り、最初の分岐を南東に。これから先は平たんな道。300m程先の緩い左カーブの先50~60mの右側に車1台分くらいのスペースがある。

そのスペースの手前が「12B-48」=貝那木古墳。今後来る方のために、落ちていたピンクテープを付けておいた。

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「12B-48=貝那木古墳」は径15mの円墳とされるが、墳丘はほとんど無い。石室前方部の天井石は欠損している。玄室は幅1.5m・高さ1m、玄室長2.5m程。

石室開口部                玄室

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玄室両側壁                    開口部は腰の高さ     しゃがんで入れる

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12B-47

スペースのすぐ北東側に「12B-47」。径10mの円墳。道脇にはっきりと墳丘が有る。「48=貝那木古墳」とほぼ同規模の石室である。開口部南側に崩れた石材が散乱。

墳丘           開口部                      玄室上から南望

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ここも、何とかしゃがんで入れた。

開口部       足の大きさと比較   玄室奥壁      開口部見返り

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ここにもカマドウマ           自撮り(大きさ比較)        脱出の様子

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「12B-47」の北東側斜面には、多くの石材が転がっていた。おそらくいくつもの石室が崩れた跡だろう。

47南西望         南東側斜面                    帰路(白〇が12B-47)

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5月25日(月)現在では、まだ藪蚊は殆どいなかったが、念のため虫除けスプレー使用。

雨の日の翌日なら、泥だらけになりそうなので、行かれる際はご用心ください。

 

池ノ谷古墳群に続く・・・・・。

osaka-tom.hatenablog.com

 

三陵墓古墳群周辺

三陵墓古墳群周辺

2020.5.25(月) 新型コロナの非常事態宣言解除となり、久々に奈良市の旧都祁村地域にある三カ所の古墳群を巡った。 まー、車だし、全く人はいなかったので、コロナとは無縁だろうが・・・・・。

【今回のルート】

名阪国道=針IC~(国道369号)~(農免農道)~(友田東山古墳大久保池ノ上古墳)~奈良市都祁南之庄町]~(県道781号)~三陵墓古墳群~(市場古墳群~観音山古墳群)~(国道369号)~貝那木古墳群~(国道369号)~(広域農道)~奈良県立野外活動センター=池ノ谷古墳群~(広域農道・農免農道)~(国道369号)~名阪国道=針IC

 

【針IC~三陵墓古墳群史跡公園 3km】

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*Yahoo!地図を編集・加工

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*Yahoo!地図を編集・加工

 

奈良県遺跡地図によると、農免農道沿いのライスセンター付近に友田東山古墳と大久保池ノ上古墳がある。

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奈良県遺跡地図Webを編集・加工

 

友田東山古墳 09D-0023 奈良市都祁友田町字ヒガイ山

径13.5mの円墳。1990年に発掘調査。横穴式石室らしいが埋まっているのか、痕跡は見当たらない。須恵器、土師器、玉類、鉄鏃、刀子、鉄刀、馬具等検出したらしい。

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大久保池ノ上古墳 09D-0024 奈良市都祁白石町字ヤクシ山

ライスセンター側からは、行けないのでスルー。南側か東側の道から行けるのだろう?

径18mの円墳。墳丘は残っているらしい。南に開口する横穴式石室と思われるが、石室は破壊され、窪みと少し石材が残るだけ。遺物の報告はないそうだ。

 

ライスセンターから下る農道の両側に、川向古墳群がある(14基の小さな円墳と1基の前方後円墳。半数は半壊状態)

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奈良県遺跡地図Webを編集                     *Yahoo!地図を編集・加工

川向古墳群 道路東側                                               道路西側

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ここから、三陵墓古墳群はすぐそこ。下の地図の点線で囲った部分は川向古墳群。

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*Yahoo!地図を編集・加工

三陵墓古墳群

奈良市都祁南之庄町 5世紀中頃~6世紀の古墳群

かつてこの地域は有力豪族=闘鶏つげ氏の支配のもと「都祁王国」と呼ばれるほどに栄えたと言われている。「三陵」という名の通り東・西・南の3か所の古墳のうち、史跡公園の敷地内では東西2つの古墳の墳丘が復元され一般に公開されている。

三陵墓南古墳

公園から781号線を挟んだ南側、参道を登る。径約16mの円墳。発掘調査は未実施。古墳時代後期6世紀頃築造と推定されるらしい。

781号線から南古墳  参道        忠霊塔       忠霊塔奥に鳥居   南古墳

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墳頂に祠                      祠裏に窪み=石室跡?

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南古墳北側の史跡公園には、専用無料駐車場2カ所・手洗あり。

西・東古墳の間の駐車場(手洗あり)                      (参考)西古墳側の駐車場

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三陵墓西古墳

公園の西に位置する5世紀前半の円墳。1951年(S26)・1995年(H7)に墳丘・主体部の発掘調査を実施したとのこと。直径約40m、高さ約5m、墳頂部直径約16m。1段築成。墳丘表面で葺石、円筒埴輪列(朝顔形含む)が認められた。主体部の埋葬施設は2基が検出されている。

西古墳西望      右は南望 モニュメントは都祁高原マラソン実行委員会のマスコットキャラクター「つげまろくん」

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墳裾の周辺案内

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墳頂南望(後ろに都介野岳631m)   埋葬施設跡            (A4ファイルは大きさ比較)

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墳頂北望             埋葬施設等案内

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第1主体部(初葬)

墳頂中央部。割竹形木棺粘土槨。主軸は南北方向。木棺を埋納する墓壙は隅丸長方形で長さ13m・幅5.6m・深さ約1.5m、木棺は長さ8.35m・南小口幅1.20m・北小口幅0.95m。埋葬は南頭位と推定される。棺床には赤色顔料(ベンガラ)を散布してあった。 出土遺物のうち、棺内遺物としては鉄剣5・鉇ヤリガンナ2・鉄鑿タガネ1・鉄斧4・鉄鎌7・滑石製臼玉・琴柱形石製品8・碧玉製管玉・竪櫛多数。棺外遺物としては鉄鏃群・鉄剣6・直刀9・鉄鉾1とのこと。

第2主体部(追葬)

第1主体の東側。組合式木棺直葬。主軸は南北方向。木棺を埋納する墓壙は隅丸長方形で長さ5.5m・幅2m、木棺は長さ4.17m・南小口幅0.67m・北小口幅0.61m。埋葬は南頭位。棺内面には全面に赤色顔料(ベンガラ)が塗られていた。出土遺物のうち、棺内遺物としては臼玉108・竪櫛89・鉄鏃8・漆塗り靫1が、棺外遺物としては漆塗り盾1・鉄槍1・円礫1・鉄刀子2・鉇2・鉄鑿1があるとのこと。

 

副葬品の中では、竪櫛が多量に認められる点が特筆される。築造時期は墳丘・第1主体部が古墳時代中期の5C前半頃、第2主体部が5C中葉頃と推定され、東古墳に先行する首長墓に位置づけられるらしい。

なお、墳丘の東側には次のようなモニュメントがあり、真ん中を覗くと「つげまろくん」が見える。

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三陵墓東古墳

公園の東に位置。これまでに明治末年に発掘されているほか、墳丘の発掘調査が実施されたらしい。

墳形は前方後円形(帆立貝式)で前方部を西北西に向ける。墳丘長110m、後円部 3段築成,径70-72m、高さ11m。前方部 3段築成、長さ約39m、幅約50m、高さ5.7m。墳丘第1段目は地山整形により、2・3段目は盛土により構築。墳丘表面では葺石のほか、円筒埴輪列(朝顔形埴輪含む)・形象埴輪(家形埴輪)が認められる。主体部の埋葬施設は未発掘のため不明(箱式木棺粘土槨と伝承)。副葬品として、銅鏡2面・玉類・鉄製武器・工具類の多数出土が伝えられる。築造時期は古墳時代中期5C後半頃と推定され、西古墳に続く首長墓に位置づけられるとのこと。

東古墳案内               前方部東望

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後円部3段築成                   後円部墳頂       前方部見下ろし

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市場古墳群・観音山古墳群

三陵墓古墳群の東に隣接して、県道781号線の南側に両古墳群がある。

いずれも、アクセス道が見つからず、外からボンヤリ眺めるだけ。

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*Yahoo!地図を編集・加工

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奈良県遺跡地図Webを編集・加工

 

市場古墳群 奈良市都祁南之庄町

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観音山古墳群 奈良市都祁白石町

12B-27方面        12B-29方面        12B-31方面       12B-34方面

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貝那木古墳群に続く・・・・・。

osaka-tom.hatenablog.com