大阪府和泉市三林みばやし町。(池田)春日神社の本殿裏や参道の両脇に分布する。
2024年1月17日(水)訪問。
車は春日神社駐車場に停められる。なお、春日神社参道前にバス停がある。
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6世紀後半~7世紀前半の古墳群。春日神社参道の左右、本殿周辺に、現在19基が確認されている。大正時代に開墾のため48基が取り壊されたとの記録もあり、もとは70基以上~100基近くが存在したらしい。
春日神社/三林古墳群 | 池田エリア | 和泉市の文化財紹介 | 弥生時代の歴史が眠る街 和泉市の文化財
春日神社参道 春日神社拝殿
春日神社創建が神護景雲2年(768)と伝えられ、古墳群築造後1世紀後に、神社が創建されたことになるが・・・・(春日神社は巻末参照)。
大阪府地図情報システム(埋蔵文化財)には以下の通り19基の表示がある。
以下、当日巡った順(①~⑨)に掲載します。
番号〇は巡った順。緑〇は大阪府地図情報システム(埋蔵文化財)に表示はあるが、確認できなかった墳丘。
上図①
本殿裏の1基は最も規模が大きく(40m程?)、本殿裏のやや高所に位置する等からして盟主墳丘の可能性があるとのこと。
南西望 北西望
北東望 墳丘から南西望=本殿
大阪府地図情報システム(埋蔵文化財)には、この北西にもう1基表示されているが、それっぽい所は確認できなかった。
上図②
参道に戻り、参道入り口付近の石標東横に、それらしき高まりがある。
南東望 南望
大阪府地図情報システム(埋蔵文化財)には、ここから東に2基並んで表示があるが、それらしき所は確認できなかった。
石標から林の中=北東に少し入ると3基の墳丘が見える。
赤〇=上図④ 水色〇=上図⑥ 黄〇=上図③
上図③ (ある資料では12号墳とある)
石室が遺存し、入室できる。
東望 北東望
南西向きに開口する。開口部前には羨道跡(3.6m)が残る。開口部は幅60㎝程・高さ80㎝弱。
壁面は全て人頭大の川原石が内傾して積まれている。奥壁には盗掘孔?がある。
無袖式の玄室長5.4m・幅1.2m・高1.4m前後。今迄あまり見たことのない石室である。
上図④
墳頂に窪みがあり、南西向きの石室跡と思われる。
北西望 墳頂北東望
上図⑤
墳頂に明瞭な窪みがあり、南西向きの石室跡と思われる。
④から遠景北西望 近景 墳頂の窪み北東望
上図⑥ (ある資料では10号墳とある)
南西向きの石室が遺存し、何とか入室できる。開口部前に長さ3m・幅0.6mの羨道跡がある。
遠景北東望 近景北東望
開口部は幅55㎝・高さ80㎝。仰向けに寝て滑り込むように入室。
前記③よりかなり小振りだが、同じ様式。玄室長2.8m・幅0.9m・高0.85m。
上図⑦
⑥の北西。
上図⑧
大阪府地図情報システム(埋蔵文化財)では、この南東側にも4基表示されているが、それらしき墳丘は確認できなかった。
⑧の墳丘 ⑧の南東側
上図⑨
参道入り口付近の南側。墳頂に僅かな石材が残るのみ。
大阪府地図情報システム(埋蔵文化財)には、この東側にも3基表示されているが、樹木が茂り確認できなかった。
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春日神社
御祭神は武甕槌たけみかづち命・経津主ふつぬし命・天児屋根あめのこやね命・比賣ひめ大神。
拝殿 縁起
奈良時代、神護景雲2年(768)常陸国より武甕槌命・経津主命が大和国の御遷座の折、近郷の民がこの地に集い頓宮を造営した。次いで河内の天児屋根命、比賣大神を祭祀して春日大明神とし、和泉国池田郷の鎮守として崇敬した。
拝殿前の道標 拝殿南東側(左:意賀美社・右:穂椋神社)
参道脇の古墳官地にして御林みばやし、上林かみばやしとも称され、固有の神として氏神、産土うぶすなの神、鎮守の杜 となり広く生活の中に伝承されてきた。江戸時代享保3年6月19日正一位の神位を授かり、南池田村・北池田村(7か村)を氏子として守護、その社地は40680坪(境内5100坪)を所有したとのこと。
当日も朝早くから参拝者がおられた。
拝殿北東側の水屋権現社
拝殿北東側の玉福稲荷社
下のHPには三林古墳群の記事も見られる。