OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

一須賀古墳群A支群・B支群

一須賀いちすか古墳群は大阪府南河内郡河南町かなんちょう一須賀~東山~太子町葉室はむろにわたる丘陵上にある古墳群(国の史跡)。6世紀(5世紀末とも)~7世紀前半に築造された府内でも有数の群集墳。23支群・総数262基からなると言われる。うちB支群~M支群は「近つ飛鳥風土記の丘」として整備保存されている。

一須賀古墳群A支群

A支群は整備保存区域外で、「近つ飛鳥風土記の丘」北側。

 

殆ど林に覆われているので外観のみを遠望。2023年4月18日(火)訪問。

 *画像は、(スマホでも)PC版ならクリック(タップ)すると拡大されます。スマホ版ならピンチ拡大下さい。

一応、A支群北端からアクセスは試みたが、樹木の繁茂がすごく、断念。

 

一須賀古墳群B支群

2023年4月18日(火)・5月11日(木)・5月18日(木)訪問。

*訪問各日の写真が混在するので草の生え方が若干違います。

B支群は「近つ飛鳥風土記の丘」整備保存区域内で、かなり良好に保存されている。

5世紀末~6世紀前葉のI支群に後続する、6世紀前葉から7世紀前葉まで造営された。急な尾根上斜面にほぼ南北に並んで分布する。I支群は導入期の横穴式石室だが、そこから発展した「畿内型石室」が見られる。またI支群に比べ石材は大きく、石材の大型化は「畿内型石室」の変遷に沿った変化とのこと。また、基本的に石棺を用いないI支群とは異なり、初葬の棺として組合式家形石棺を採用する古墳が確認される。B9号はその典型例で、大型石材を用いた左片袖の横穴式石室に組合式の家形石棺を納め、追葬に釘付式木棺を用いているとのこと。

石室や石棺には日本固有の様相がある一方で、B支群においても朝鮮半島系の遺物が出土している。B7号の垂飾付耳飾や銀製空玉等のうち、前者は朝鮮半島の大加耶産ともされている。またB4・7・11・12・14号等で朝鮮半島系の特徴一つであるミニチュア炊飯具が多く出土した。

博物館受付で貰える散策路マップを編集加工(上が北) 青〇=3号 緑〇=4号 赤〇=7号 黄◇=9号

*マップ上の道は、濃いグレイは舗装された周回道。薄いグレイは階段、白っぽい所は地道。星印は解説板。

*なお石室測定数値等は、2004年近つ飛鳥博物館発行の「一須賀古墳群の調査」に準拠。ただし、現状の羨道や玄室の高さは土砂堆積で掲載測量数値より低い場合が多いです。

B3号

墳丘らしい高まりがあるのみ。

B4号

石室が完全に露出し、墳形や規模は不明。南南東方向に開口し、羨道長3.3m・幅1.3m、右片袖の玄室長3.4m・幅2.15m。天井石は現在滅失しており、元は高さ3~3.3m程と考えられるらしいが、現状残存奥壁の高さは1.5m程。出土した須恵器・土師器から6世紀後半とされる。

散策路北西望           進入口

北望

南望                        俯瞰

B7号

舗装された周回道のすぐ西側。元は径12m程の円墳。

南東方向に開口。右片袖式の横穴式石室で羨道長3.75m・幅1.25m、玄室長3.25m・幅2.1m。

すぐ北東側に須恵器窯跡が隣接する。

また散策マップには、B7号の南西側、散策路を挟んで古墳表示がある。石室石材が散乱しているだけだが・・・?

B9号

B7号と舗装された周回道を挟んだ東側。B支群の案内板のすぐ上。

                 黄〇の案内(B7とB9の位置が違う)   赤〇の案内

赤〇案内拡大                     上が北

辺25m・高さ6mの方墳とのこと。     北望見下ろし

羨道長4m・幅1.4m、玄室長3.6m・幅2.45m・推定高さ3.5mとかなり大きな石室。

組合せ式石棺1基と組合せ式木棺2基が確認されている(現在置かれている石棺は復元)。当古墳群では数少ない左片袖式の石室で、出土した須恵器や土師器から、6世紀中頃~後半と思われるとのこと。

B10号

B9号から散策路の階段を少し上った左(東)側。散策マップ上は■(方墳)表示。全長1.7m・幅0.9mと小型の無袖式の横穴式石室らしいが、かなり埋まっている。出土須恵器や土師器から6世紀中頃築造とされている。

西望               北望               東望 

B11号

B10号からの散策路がカーブし切った左(東)側。

11号進入口から見返り       11号進入口

辺12m以上の方墳。玄室長2.9m・幅1.8mの右片袖式の横穴式石室らしいが、下部のみしか残存しておらず、よく分からない。6世紀中頃築造とされている。

東望                        南望 

B12号

12号墳は辺12×14m・高さ5m程の方墳とのこと。南西に開口する2基の横穴式石室が南北(上下)に並んでいる形。

B12-1号

B11号進入口見返り                 B12-1号進入口

1号石室は羨道長3.5m・幅1.05m、羨道西側壁は滅失している。開口部現状高さ約1.4m。玄室長3.2m・幅1.4mの右片袖式。組合式木棺が3基あったと考えられており、ミニチュアの炊飯具が出土したとのこと。

北東望

B12-2号

現在の進入口は、B12-1号進入口の少し南(上)にある。

羨道長3.7m・高さ1.5mで両側壁ともかなり良好に残っている。玄室長2.9m・幅1.7mの右片袖式の横穴式石室。天井石は滅失している。1号と同じく6世紀末だが、2号石室を築く際に1号の盛土が削られていることが分かっており、こちらが後だろうとのこと。

北東望                       南西望

石室後方同一地点から見た2号(左写真)と1号(右写真)。

B14号

B12号から散策路の階段を上り切った平坦面にある。

                                   B14東望

径13m・高さ3mの円墳。南方面に開口する右片袖の石室で、羨道側壁はかなり滅失しているが、本来の羨道長2.4m・幅は0.9m弱、開口部現状高さは0.9m強、玄室長2.9m・幅1.7m。須恵器・土師器・鉄鏃・ミニチュア炊飯具等が出土。6世紀中頃築造と考えられるとのこと。

北望

B15号

散策路の階段を上り切って真っすぐ(東方向)に行くと14号。右手(南方向)に行くと15号の開口部。

14号へ                      15号開口部へ

元は径15m・高さ3.4mの円墳。南西に開口する石室の天井石は滅失していたそうで、その部分は復元らしい。羨道は半分位しか残っていないが、本来の長さ3m・幅0.9~1.35m・高さ1.4m。開口部下部に閉塞石が残り、開口部の現状高さは0.8m程。玄室長3.5m・幅1.75m。側壁には大きな石材も使われている。須恵器・土師器・馬具・鉄鏃・鉄釘・鉄鎹かすがい等が出土し、6世紀中頃築造とされ、また木棺が3基あったと考えられている。

北東望

閉塞石を壊しそうなので、自撮り棒を差し込んで撮影。

B16号

B15号のすぐ南側。

西面北望(後方白〇=14号、黄〇=15号)         東面北望(後方が15号開口部)

古墳案内は極めて少ないが、16号には案内がある。

右上が北

径15m・高さ3.2mの円墳。南西に開口し、現在の開口部は幅1m強・高さ1.1m強。羨道長5.1m程・幅1m程・高さ1.4m。羨道に残る石材は閉塞石?。

玄室長3.4m・幅1.8m・高さ2.7m(現状高さ2.1m)。天井石は3枚。須恵器・土師器・金環・銀環・鉄釘・鉄鎹かすがいが出土しており、床面に敷石が敷かれ、羨道に2基、玄室に2基=計4基の木棺があったらしい。14号→15号に続く6世紀後半築造とされる。

玄室天井部                      開口部方面

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B支群かどうかわからないし散策マップにも古墳表示は無いが、B16号から15~20m南東に上った左手(北東)側に大きな石材がある。ただの地山か?

南東望              北東望(白いのはA4ファイル)