OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

長瀬藪1号墳

長瀬藪1号墳

2021年11月26日(金)長瀬藪1号墳・平野古墳・高家春日神社古墳・飛鳥資料館

165号線「阿部」交差点から、県道15号線を南へ。阿倍小学校手前の歩道橋を左(東)折し、突き当りを右折=南へ1.8km程上っていく。

基本道なりだが、途中の分岐には田舎茶屋の案内があるのでそちらへ。車なら桜井市高家たいえの長瀬藪1号墳近くへは、比較的簡単に辿り着く。

f:id:OSAKA-TOM:20211202085006j:plain

長瀬藪ながせやぶ1号墳

桜井市高家たいえ、上図①。一乗寺の北東に広がる田圃地帯、北側から2本目の畦道(獣除けフェンスがあるが可動式)を、東にある小屋を目指して行く・・・のだが・・・。ちょうどその畦道辺りで農作業をしていた方に聞くと、「あそこは行けない。ここはフェンスが開くが、向こうの小屋の少し先に、開けられないフェンスを所有者が設置した。この前も『行ってみたがダメでした』と言って戻ってきた人がいた」と・・・・・。念のため確認したい気もしたが、そこまで言われて行くのは、教えてくれた方に申し訳ない気がして・・・・・断念。田圃の東側を上る道の中程に「高家古墳群」の案内がある。

進入路          目印の小屋           「高家古墳群」の案内

f:id:OSAKA-TOM:20211202072916j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20211202072923j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20211202072942j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20211202072955j:plain

*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

*写真は2021年11月26日。季節や経過年数により周辺の様子や目印が変わることが多いので注意ください。

で、情報だけ・・・・・。

桜井市と明日香村に挟まれた標高200~250m程にある高家たいえ古墳群の盟主墳と言われる。6世紀後半の辺14m・高さ4mの方墳で、花崗岩の巨石を積んだ、両袖式の横穴式石室が西向きに開口する。元は長瀬藪古墳群(約24基)とされていたが、平成5・6年度の圃場整備事業時の調査で、100基を超える群集墳に含まれると推定され、高家古墳群と改称されたとのこと(現在大半は農地として削平・埋没している)。石室は全長10.9m、羨道長4.9m・幅1.4m・高さ1m、玄室長6m・幅2.5m・高さ現状2.4m(土砂が結構堆積している)。北の阿部地区に向かって広がる谷地形上に位置するので、被葬者は阿部氏に繋がる人々と考えられている。石室の様子は過去に行った方のブログを参照ください。

 

平野古墳

上図②。農免道路沿いにある六地蔵(実際は10体)の道向かい、コンクリート石垣の上。天井石の滅失した南西向きの両袖式横穴式石室。6世紀後半の築造。墳丘は円墳と思われるが、不明。現存石室全長9.3m、羨道長5.2m・幅1.6m・高さ1.7m、玄室長4.1m・幅2.6m・高さ2.5m。「石室・羨道には石敷が施され(草で見えない)、羨道部の袖から約1.2mの地点に、落差約15cmの段を設けているとある。辻金具等馬具・金環・須恵器・土師器や鉄釘も多数検出され木棺と考えられるらしい。

六地蔵          道向かい         案内

f:id:OSAKA-TOM:20211202073633j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20211202073642j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20211202073807j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20211202073715j:plain

全景北東望                     奥壁残存部        両袖

f:id:OSAKA-TOM:20211202073959j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20211202074010j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20211202074024j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20211202074046j:plain

 

高家春日神社古墳

上図③。六地蔵前の三差路を南に250m上ったところに高家春日神社への登り口がある。その昔、高家の郷は多武峰とうのみね寺領で、針道はるみち・椋橋くらはし・細川と多武峰四郷の一つだったとのこと。四郷の中で最も近いのが高家。現在の談山たんざん神社まで直線距離で北西に2.5km程。登り口の階段は135段。上がり切った鳥居右手に談山大明神の石灯籠がある。拝殿右手前に6世紀の片袖式横穴式石室が南に開口。石室内は天井石近くまで土砂で埋まり、羨道上部が少し覗ける程度。本格的な発掘調査はされておらず、被葬者も不明。高家春日神社の御祭神は武甕槌たけみかづち命、経津主ふつぬし命、天児屋根あめのこやね命、比咩ひめ大神の四柱で奈良の春日大社に同じ。境内のアチコチに五輪塔の残骸がある。

                  登り口           目印        春日神社へ

f:id:OSAKA-TOM:20211202075140j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20211202075153j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20211202075223j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20211202075228j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20211202075255j:plain

鳥居         石灯籠       春日神社古墳 

f:id:OSAKA-TOM:20211202075515j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20211202075536j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20211202075551j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20211202075608j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20211202080042j:plain

西面         東面         石室内部

f:id:OSAKA-TOM:20211202075837j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20211202075851j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20211202080230j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20211202080246j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20211202080304j:plain

一説にこの地は天武天皇第三子(母は新田部皇女)の舎人とねり親王が住んだ所とも言われてるらしい。舎人親王高家付近を詠んだと思われる万葉集歌・・・・・・

『ぬばたまの 夜霧は立ちぬ 衣手の 高屋の上に 棚引くまでに(巻9・1706)』

ここでいう高屋を高家にあてる説があるという。『夜霧が立ちこめている。高屋の上にたなびくほどに……』という意味。 神社鳥居前から西方面の眺望は、畝傍山二上山が望め絶景だった。ここから、西に約2kmの飛鳥資料館に向かった。

f:id:OSAKA-TOM:20211202080727j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20211202080809j:plain

 

飛鳥資料館 八釣マキト5号墳の復元石室

飛鳥資料館は、この時庭園は無料だったが、庭園には猿石等奈良県下の石像レプリカが並んでいる。その南西角に八釣やつりマキト5号墳の復元石室がある。なんだか平野古墳と規模や構造がそっくりな気がする。築造時期も同じ頃なので、おそらく同じ造営集団によるものだろう。庭園内には斉明天皇期の石造物レプリカ等がいくつか置かれていた。館内では高松塚やキトラ古墳飛鳥寺山田寺等関連の展示物が多数陳列されていた。なお、無料駐車場は11台分しかないのでご注意を(近隣に有料駐車場はあります)

館内案内図     復元石室

f:id:OSAKA-TOM:20211202081714j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20211202081738j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20211202081802j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20211202081844j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20211202081855j:plain

飛鳥資料館すぐ西の15号線「奥山」交差点を南に400mの信号から左(東)に入り、130mで右(南)に少し行くと、八釣集会所の先に小さな「八釣マキト古墳公園」があり、八釣マキト1号墳の石室がある。今回はパス。なお、信号から真っすぐ東に行くと高家の農免道路に繋がっている。

飛鳥資料館|公式サイト