OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

岩屋山古墳

2020.3.21(土)。近鉄吉野線飛鳥駅のすぐ北側にある。3度目の訪問。

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奈良県高市郡明日香村(大字)越の古墳時代終末期古墳、墳丘は西側が破壊されているが、本来1辺45m前後、高さ12mで2段築成と確認されている。盛土は丁寧に版築(土を層状につき固めて壁等を作る)されていた。墳形は下段部が明らかに方形であるが、上段部は八角墳との説もある。斉明天皇の夫舒明天皇(段ノ塚古墳、桜井市忍坂)、子の天智天皇(御廟野古墳、京都山科)天武天皇陵(野口王墓、持統天皇との合葬墳)がいずれも八角墳で、当時八角墳は皇族陵墓の特徴だったと思われる。

 

 

切石加工をした巨石による横穴式石室があり、石室編年指標の一つとなっている。1968年(S43)に国の史跡に指定。開口する石室の存在が古くから知られていた。玄室は幅2.7m・高さ3m・長さ4.9m、花崗岩の両袖式で、壁石は精巧に切石加工がされており、壁面は2段積みで奥壁は上下各1枚、側壁は上段2枚、下段3枚、上段は内側へ傾いている。天井石は一枚岩。石室床部には1m程の穴の中に砂利が敷かれている(排水施設?)。羨道は幅1.9m・長さ12mで、羨道側壁の奥半分は1段、前半は2段積み。桜井市ムネサカ第1号墳は同形同大、橿原市小谷古墳や天理市峯塚古墳(7世紀前半)は一部縮小された規格。太子町の叡福寺北古墳(伝聖徳太子墓)石室も古記録によれば同じ形式とされる。なお石室内は乱掘されており、埋葬当時の遺物は発見されなかったらしい。

*白石太一郎氏はこれらを総称し「岩屋山式」と呼び古墳時代終末期横穴式石室の代表的形式の1つとする。また奈良県艸墓古墳、同県西宮古墳等は壁面構成を単純化しており、「岩屋山式」に後続する型の石室を「岩屋山亜式」と呼んでいる。

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横穴式石室出土の須恵器等から、築造時期を7世紀中期~7世紀第3四半期と推定し、667年(天智6)越智岡上陵に葬られたとされる37代斉明天皇陵の可能性があるとする説がある。一方、「岩屋山式」である前掲叡福寺北古墳(621年没の聖徳太子陵)、塚穴古墳(羽曳野、603年没の来目皇子陵)の被葬者没年からすると、造営を7世紀第3四半期とするのは無理があり、7世紀第1四半期とする説もある。ただ、この説は岩屋山式の1つ前段階の石室である石舞台古墳の造営を、被葬者とされる馬子の没年626年前後とするのでなく、馬子が572年に大臣となった時に着手したと考えないと成立しない。 この説なら、岩屋山古墳=斉明陵説は成り立たない。

古墳自体は2015年や2018年訪問時と殆ど同じ佇まいであった。