立子塚古墳周辺
2021年11月26日(金)。立子塚古墳・立石古墳・クノボ古墳
立子塚古墳
桜井市穴師あなし。渋谷向山古墳(景行陵)から直線距離で300m南東の尾根上。渋谷向山古墳(景行陵)東のシウロウ塚古墳の南側を通る農道から行ける。
*Yahoo地図と奈良県遺跡地図を編集加工しています。
シウロウ塚南側の農道の東端分岐を南へ 約130mで進入路
*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。
立子塚古墳への進入路 開口部
6世紀後半~7世紀前半の径20m・高さ4m程の円墳。外部施設・遺物は不詳。花崗岩の巨石を使用した横穴式石室が南西に開口。
羨道部はかなり埋もれているが、本来は長さ1.5m以上・幅1.3m・高さ1.5m以上、玄室長4.6m・幅2.3m・高さ2.5mの両袖式とのこと。奥壁は巨石が2段積みされ、その上に細長い石が積まれている。側壁は基本巨石の2段積みで、その隙間や上部に小さめの石材が埋められている。天井石は2つの巨石。
開口部は横幅は50cm程あるが、縦幅=高さは狭い所で30~40㎝程しかない。しかも、開口部から下向きに落ち込んでいる。脚立を先に落とし込むか(無理?)、ロープをセットしてから入室しないと一人では脱出できそうにない。そこで開口部脇の竹にロープをかけて、仰向けで半身だけ羨道に入り、そこから自撮り棒で石室内を撮影。それでも脱出には一苦労だった。
入室準備 玄室 墳丘西望
立石古墳・クノボ古墳
天理市渋谷町クノボ。遺跡地図470立石古墳、471クノボ古墳。
立子塚古墳東奥の墓地の、さらに奥。11月でも熊笹が茂る。その中央から何となく隙間っぽいところを行った様子が以下の通り。これが立石古墳?クノボ古墳?どちらでもない?
立子塚古墳東奥の墓地 進入路 たぶんクノボ古墳東側?
もっと左から進入すれば墳丘の西側に行けるはずだが・・・・・? 二度目のチャレンジはパス。ヤレヤレ・・・の気分。
立子塚古墳へは、珠城山古墳群方面の南側から行く方法もある。立子塚古墳への分岐を東に行くと相撲神社・穴師坐兵主神社がある。
立子塚古墳方面
相撲神社・穴師坐兵主神社
日本書紀では、第11代垂仁天皇7年、野見宿禰のみのすくね*と当麻蹴速たいまのけはやが、勅命で捔力すまひを命じられた。これが日本の国技である相撲のはじまりとされている。案内には「大兵主だいひょうず神社神域内小字カタヤケシにおいて」とある。
*野見宿禰 天照大神の子=天穂日命(あめのほひのみこと)の14世子孫と伝えられる出雲の勇士。垂仁天皇の命により当麻蹴速と捔力をとり、互いに蹴り合った末にその腰を踏み折って勝ち、蹴速の領地であった大和国当麻の地(現葛城市當麻)を与えられ、以後垂仁天皇に仕えた。また、垂仁皇后=日葉酢媛(ひばすひめ)の葬儀の時、それまで行われていた殉死に代わる埴輪の制を案出し、土師臣(はじのおみ)の姓を与えられた。後裔氏族である土師氏は代々天皇の葬儀・陵造営を司ることとなった。つまり古墳造営関連の祖先でもある。
穴師坐兵主あなしにますひょうず神社は、(延喜式の)式内社で旧社格は県社。元は穴師坐兵主神社(名神大社)、巻向坐若御魂神社(式内大社)、穴師大兵主神社(式内小社)の3社で、室町時代に合祀されたらしい。現鎮座地は穴師大兵主神社のあった所。
相撲神社手前の休憩所 相撲神社 穴師坐兵主神社