OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

西陵古墳周辺

西陵古墳周辺

2021年3月15日(月)。

(JR阪和線)和泉橋本駅→500m地蔵堂丸山古墳→1.2km(南海本線)二色浜駅====

==淡輪駅→宇度墓うどはか古墳西小山古墳跡西陵さいりょう古墳→淡輪駅

地蔵堂丸山古墳

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貝塚市地蔵堂。4世紀後半の前方後円墳で国の史跡。周囲は住宅で囲まれている。2000-2002年度に墳丘周囲部で発掘調査が実施されたらしい。前方部を西に向け、3段築成と推定されるとのことだが、現状では段築は殆ど分からない。葺石・円筒埴輪列(朝顔形埴輪含む)、形象埴輪(家形・靱形・盾形・冠帽形)を検出。冠帽形埴輪の出土は全国的に珍しいとのこと。周濠はなく、埋葬施設・副葬品は不詳。和泉地方では摩湯山古墳(岸和田市)に次ぐ時期に位置づけられる。100m北側の南小学校で、古墳時代中期5世紀後半の埋没古墳6基(円墳4基・方墳2基=地蔵堂1-6号墳)が発見され、地蔵堂古墳群を形成する。当地で4世紀後半~5世紀代の首長層の存在が考えられる。

進入口          案内          後円部墳頂南西望     前方部西望

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 *画像をクリックすると拡大されます。
後円部墳頂から南望    東望          北望           前方部から後円部東望

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地蔵堂丸山古墳から南海本線の二色浜にしきのはま駅→淡輪たんのわ駅へ移動。

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地蔵堂丸山古墳は基本的に西側には抜けられませんが、私は前方部南西角からフェンスを廻り込んで抜けました(お薦めはできません)。

宇度墓古墳

泉南郡岬町。南海本線淡輪駅の南側に隣接。淡輪ニサンザイ古墳とも呼ばれ、宮内庁により11代垂仁天皇の皇子(=12代景行天皇の同母兄)の五十瓊敷入彦命いにしきいりひこのみこと墓に治定されている。古墳時代中期5世紀中頃~後半=西暦440~460年頃の前方後円墳。1kmほど西にある西陵古墳、西小山古墳などとともに、淡輪古墳群を構成する。現在は宮内庁の管理下にあるが、2014年度(H26)に発掘調査が実施された。前方部を西南西方に向ける。

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淡輪駅から南望   道標        西角南東望     淡輪駅と周回道北側 北側造出

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墳丘長約170m(築造時約180mとも)。後円部3段築成・径約110m・高さ約13m。前方部3段築成・幅約120m・高さ約12m。南造出2段築成・東西約24m×南北約21m。北造出は上面は削平されているが、東西約20m×南北約11m。墳丘周囲には濠が巡らされており、この濠の波で墳丘裾部が徐々に削られているらしい。墳丘は、1段目・2段目に比べて3段目が著しく高いという特徴がある。1段目途中までは地山の削出で、その上は盛土で築造されている。地山の削出は造出でも認められるので、造出も墳丘本体と同時期のものとされる。この南・北造出では埋葬施設または副葬品埋納施設の存在が推定されており、特に南造出では壇状施設(通常は前方部墳頂で見られる)として機能した可能性が指摘されているとのこと。墳丘表面には葺石が葺かれ、須恵質の円筒埴輪列、家・盾・蓋・鳥などの形象埴輪が見つかっている。埴輪の一部には淡輪独特の技法が見られ、「淡輪系埴輪」と称される。埋葬施設は明らかでない。墳丘周囲の濠は2重に巡っていたが、現在は1重目のみ残存する。

*淡輪系埴輪=埴輪を作る際に、蔓などを輪っか状に敷いて作ったため、底部下端にその痕跡の段がある。 横から見ると湯飲みの糸切りみたいな感じ。

案内         拝所       制札        前方部南角     南面北東望

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出土埴輪から5世紀中期~後半頃(440-460年)築造と推定される。5世紀中期~後半に限って築造された淡輪の大型古墳3基(西陵・西小山・宇度墓)のうちでは、西陵古墳に次ぐ西小山古墳と同時期の築造で、本古墳で当地の大型古墳築造は終る。五十瓊敷入彦命の墓について『記紀』に記載はないが、『延喜式』諸陵寮では和泉国日根郡に所在する「宇度墓」とあり、兆域は東西3町・南北3町、守戸3烟で遠墓とある。しかし中世に荒廃して所在が失われた。M7年(1874)に『泉州志』の記載に基づき、一旦玉田山に定められたが、M13年(1880)に現古墳に改められている(明確な根拠はないらしい)。なお『紀』雄略9年条に「田身輪邑(=たむわのむら淡輪村)に葬られた」とある5世紀後半の将軍=紀小弓きのおゆみに比定する説がある。『和泉志』でも紀小弓の墓とする説があるが、『泉州志』では西陵古墳・宇度墓古墳どちらか一方が紀小弓の墓、もう一方が紀船守ふなもりの墓とする説を挙げる。ただし、紀船守は8世紀の人物(731-792)なので、整合性が無い。

  南側造出北東望・北西望       南面南西望        後円部東面・北東面

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後円部外周の東側には陪塚7基があり、5基が現存し宮内庁の管理下にある。今回は4基しか確認しなかった。

南東側陪塚 (住宅の裏側にあり、住宅と住宅の間の小道を入る)  東側陪塚

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線路沿い陪塚2基    線路南沿い陪塚北望 西望       線路北沿い陪塚北望  東望

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実際には宇度墓古墳の北・西側を半周し、南角から西小山古墳跡・西陵古墳へ向かった。復路で宇度墓古墳の南・東側と陪塚を回った。

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西陵古墳と西小山古墳の真ん中あたりに道の駅、また752号線沿いで西陵古墳後円部の南側に中華料理店がありますので、念のため。

西小山古墳跡

泉南郡岬町淡輪。5世紀後半の円墳(削平滅失)。淡輪古墳群の1つ。径40m。開墾前のS5年(1930)京大末永雅雄が発掘調査を実施。墳頂部から長さ3.3m・幅0.7mの竪穴石室を検出。石室南北両側壁から、鉄刀23点、鋒2点、鉄鏃107点、石室東端から三角板鋲留短甲、金銅装小札鋲留眉庇付冑1点、石室西端から鋲留式頸甲1点、肩甲1点、挂甲小札約800枚が出土したとのこと。金銅装眉庇付冑の他の出土例は、仁徳陵前方部、大阪府天平塚古墳、奈良県五条猫塚古墳、三重県佐久米古墳、福岡県月岡古墳、千葉県祇園山古墳など。出土遺物から5世紀後半と考えられる。1981年大阪府教育委員会が発掘調査時、竪穴式石室は削平されていたが、葺石と埴輪列は良く残っていた。墳丘の本来の直径は50mと推定され、高さは7mの2段築成で、北西に造出しが確認された。周囲の水田の畦などから周濠があったと推定される。埴輪は円筒埴輪、朝顔形埴輪、蓋形埴輪があり、硬質の須恵質のものが15%を占める。葺石は付近で産出される和泉砂岩だったとのこと。

なお、案内や碑には「西小山陵」古墳とある。進入口にフェンスはあるが施錠はされていなかった。

進入口       案内        赤○が西陵古墳    碑        北東望

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西陵古墳

登り口への分岐   登り口方面

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西二山在にしにさんざい古墳とも。泉南郡岬町淡輪。大阪湾に面した台地上に位置。5世紀前半頃の前方後円墳で、淡輪古墳群では最大、墳丘長約210mで全国第28位の規模。この規模だが墳丘に登れる。

登り口       案内        進入路

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丘陵末端を利用して築造され、前方部を北東方に向ける。後円部3段築成・径約115m・高さ約18m。前方部3段築成・幅約100m・高さ約14m。西側くびれ部の造出は23m×13m。墳丘表面は葺石で覆われ、円筒埴輪・朝顔形埴輪や、蓋形・盾形・短甲形・家形埴輪といった器材埴輪が並べられていた。墳丘周囲に幅15~35mの周濠が巡るが、周濠の元々の形は明らかではないらしい。主体部の埋葬施設は、竪穴式石室に凝灰岩製の長持形石棺を納めていた。かつて後円部墳頂に、長辺側に縄掛突起2個を有する石棺蓋石が露出していたが、国の史跡指定に伴って埋め戻されている。出土埴輪から西暦420-440年頃築造と推定される。西小山・宇度墓古墳より先行する。岬町の大型古墳群では円筒埴輪に独特の技法(淡輪技法)が見られるが、同様の技法は木ノ本古墳群(和歌山市木ノ本)にも見られ、また当地の経済力のみで築造されたと考えにくく、紀伊勢力(紀氏)との強い関わりが考えられるとのこと。

     後円部墳頂       くびれ部    造出      葺石       前方部

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被葬者は『紀』雄略9年3月・5月条にある5世紀後半の将軍=紀小弓という説がある。『紀』によると、小弓は新羅征討の将軍に任じられたが、病気により新羅で亡くなった。そこで天皇は土師連小鳥に命じ、「田身輪邑」に墓を造らせたという。『和泉志』では紀船守の墓とする説を挙げ、また『南游紀行』では五十瓊敷入彦命とする説を挙げている。

西陵古墳の北側には第一・第二の円墳2基がある。いずれも西陵古墳の陪塚とされ、西陵古墳とともに国の史跡に指定されている。第一古墳は前方部向いの線路のすぐ北側にあり、前方部周回道から肉眼でも確認できる。第二古墳はさらにその北側にあるが、小さいうえ住宅の陰で見えない。かつては陪塚らしい古墳がもう1基存在したが、線路の敷設時に破壊された。その際に提瓶2個、高杯1個、壺2個、平瓶1個、刀身断片、鉄鏃2本が出土したとのこと。

前方部北面   前方部周回道北角から西望 陪塚(第一古墳)   墳丘西面南望   後円部北東望

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淡輪駅から約2時間もあれば、宇度墓・西小山・西陵古墳を十分見て歩けます。