OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

牧野車塚古墳周辺

牧野車塚古墳周辺

2020年12月15日(火)

大阪府枚方市 御殿山神社→渚院跡→牧野車塚古墳百済寺跡→禁野車塚古墳

御殿山神社

枚方市渚本町12番。京阪本線御殿山ごてんやま駅から約400m、小高い丘の上。

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文政年間(1818-29)に、渚院跡(後述)の観音寺境内に隣接して建立された粟倉あわくら神社が、明治初年の神仏分離令で、1869年(明治2)御殿山に社殿を造営し、当地に遷宮後、御殿山神社と改称。遷宮当時の模様を描いた、極彩色の奉納額が拝殿内に掲げられている。縦76cm、横176.5cmで、粟倉神社から御殿山の新社殿への遷宮行列が描かれ、当時の建物構造が正確に描かれている。平成14年に有形民俗文化財に指定。

御殿山神社へ    神社案内      拝殿        絵馬        遷宮行列絵馬

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渚院跡

御殿山神社から牧野車塚古墳に向かう途中にある。奈良~平安時代天皇家別荘。771年49代光仁天皇の交野ケ原行幸の頓宮(とんぐう=仮宮)が始まり。以後約500年に亘り利用された。

55代文徳天皇皇子の惟喬これたか親王が遊猟拠点とした記録が多く残るとのこと。

標識               渚院跡              案内

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牧野車塚古墳

枚方市車塚1丁目。御殿山神社から約1.8km。

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古墳時代前期中葉4世紀後半の前方後円墳。車塚公園の南に隣接し、きれいに整備され、墳丘にも登れる。1978年(昭和53)以降、発掘調査が実施されたらしい。主軸は東西方向で、前方部は東に向く。墳丘長107.5m、後円部2段築成・径58m、前方部2段築成・幅45m。墳丘周囲に幅10mの周濠(空堀。今は散策路)が巡り、周濠を含めた規模は北河内地域で最大規模。現在、西側から南側には外堤も遺存している(築造当時は全周)。

墳丘表面では葺石・埴輪が認められた。特に葺石は板石を使った特異なもので、徳島県兵庫県産の石材が使用される点で注目されるとのこと。主体部の埋葬施設は明らかでなく、副葬品も不詳。北河内地域では禁野車塚古墳(後述)とともに淀川流域の交通と関わった有力な首長墓(禁野車塚古墳の後続)に位置づけられる。古墳域は1922年(大正11)に国の史跡に指定されている。付近には「赤塚」・「権現塚」・「子供塚」・「ショーガ塚」という地名が残るほか、古墳北側の小倉東遺跡では方墳群が検出されており、一帯は7C初頭頃まで墓域であったとされるとのこと。
周濠外提や墳丘の3~4ヶ所で、ちょうど発掘作業が行われていた。

西側進入路        参道        後円部(右手前は南側の周濠外提)  外提発掘現場

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後円部登り口       後円部墳裾から前方部望 南側周濠跡(右は南側外提) 後円部墳頂

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後円部北面の発掘現場               後円部西端北東望     同左南西望  

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後円部北側北東望     後円部北面発掘現場   前方部墳頂        前方部東端見下ろし

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前方部から後円部東望   くびれ部から後円部東望 くびれ部北側発掘現場   くびれ部南側

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前方部東端西望      前方部南側全景     車塚公園側から墳丘南西望 案内

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百済寺

中宮西之町4340番にある特別史跡。牧野車塚古墳から百済寺跡まで約3km。2021年3月15日まで整備工事中だが、百済寺跡の南側から回り込み、西に隣接する百済王神社側から行ける。神社に行く途中、百済寺跡の南側から伽藍跡の全景が臨める。

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東北地方に赴任していた百済宗家の子孫集団が陸奥国で金を採掘し、東大寺大仏造立に際し、天平21年(749)、黄金900両を献上した功により、翌年宮内卿兼河内守に任ぜられた。以後一族がこの地に移住した際に建立した、氏寺の跡と考えられる。平成17年度から再整備に伴う発掘調査によって、当時の最新技術を駆使して造営され、堂塔のほか、築地塀によって区画された寺院経営にかかわる施設が整然と配置され、中央官寺と比べても遜色ない伽藍だったことが判明したらしい。昭和27年特別史跡に指定、42年には全国で初めて史跡公園として整備されたとのこと。

本来の東側進入路     案内          百済寺跡北西望      百済王神社方面

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百済寺跡全景北望  百済王神社     拝殿        縁起        拝殿扁額

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西塔跡東望        同左西望        東塔跡東望        同左西望

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金堂跡北望       講堂跡北望        西回廊跡北望   左写真の黄色矢印辺りの遺存礎石

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禁野車塚古墳

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枚方市宮之阪5丁目。百済寺跡から800m。

大阪府北部の淀川東岸、天野川右岸の低位段丘上に築造された大型前方後円墳。1970年(昭和45)から発掘調査。主軸を東西方向として前方部は西方向に向く。墳丘長120m。後円部2段築成・径63m、前方部2段築成・幅55m。前方部が「バチ形」に開き、後円部からくびれ部にかけて下降スロープが存在する点で、箸墓古墳との類似が指摘される。墳丘表面では葺石・埴輪が認められたらしい。主体部の埋葬施設は明らかでないが、後円部上で板石が散乱していたことから、竪穴式石室の存在が推定されるとのこと。副葬品は詳らかでない。古墳時代前期前半の4世紀中頃の築造と推定され、大阪府内では最古級の古墳で、北河内地域では牧野車塚古墳とともに淀川流域の交通と関わった有力な首長墓(牧野車塚古墳に先行)に位置づけられるとのこと。1972年(昭和47)国の史跡に指定。現在では史跡公園として公開されている。*後円部は規制線があり登れなかった。

後円部西望        後円部南側北望     墳丘南側西望       案内

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前方部跡西望       前方部跡        前方部北西角       前方部南西角

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前方部は、なんかグランドみたいでしたけど・・・。

ほぼ3時間の行程、ただ歩くだけなら6km程。