OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

鳥谷口古墳周辺

鳥谷口古墳周辺

2021年3月26日(金) 奈良県葛城市 當麻寺周辺の古墳散策

近鉄南大阪線当麻寺駅首子古墳群新宮原古墳→當麻山口神社・傘堂→鳥谷口古墳→ 當麻寺竹内古墳群→(旧)竹内街道磐城駅

首子古墳群

葛城市染野そめの、当麻寺駅より徒歩約15分。古墳時代後期(6世紀初頭~7世紀中頃)の古墳群。古くから首子七塚として知られていた。帆立貝式前方後円墳1基、円墳6基、方墳3基で構成されていたが、1・4・5・8号墳のみ現存。1981(S56)年に県史跡に指定された。中心的古墳は「5号墳(=首子塚)」で、説明板も5号墳のところにある。いずれも墳丘には登れるが、知らない方には崩れかけた小山にしか見えないだろう。いずれもこの地の当麻氏関連の墳墓と思われる。

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印辺りは奈良県景観資産の一ヶ所になっている。

奈良県景観資産―二上山を眺望できる首子古墳群周辺―/奈良県公式ホームページ

*当麻氏=日本の古代氏族。日本書紀11代垂仁天皇条に、大和国の当麻邑(たいまむら)に住んでいた当麻蹴速(けはや)の記事がある。野見宿禰との捔力(すまひ=相撲)で敗死したという。葛城市當麻には蹴速塚がある。その他、31代用明天皇の第三皇子で当麻皇子も著名。麻呂子皇子ともいう。征新羅大将軍であった異母弟の来目皇子薨去後、翌推古天皇11年(603年)4月に征新羅将軍となり、難波から船出したが、播磨国(明石)で妻が薨去したため、引き返したという。

首子8号墳

径12mの円墳で埋葬施設は横穴式石室(全長7.4m、玄室長3.7m・幅1.4m、羨道幅1m)。殆ど破壊され石室の1段目の一部及び凝灰岩製組合式家型石棺の底石のみが残っていて、須恵器・土師器・金環・鉄鏃・飾鋲等が出土とのこと。今は墳丘も半壊している。

上図★から(左8号墳 右5号墳) 遠景南西望      墳丘南西望       現在の墳頂

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首子5号墳

8号墳から道を挟んで北東側。帆立貝式前方後円墳で「首子塚」と呼ばれる。全長25m・後円部径20m前後。円筒埴輪列検出。古墳群中では一番大きく、盟主的存在。埋葬施設は未確認だが木棺直葬と思われ、6世紀前半と考えられるらしい。

遠景北望         登り口南東望       案内         墳頂碑南西望(○が8号墳) 

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首子4号墳

5号墳の北西に隣接。墳丘が一部残る程度。1辺27m・高さ4~5mの方墳らしい。埋葬施設は破壊されていたが、片袖式横穴式石室と判明。玄室長4.4m・幅2.5m、羨道部長2m以上で家型組合式石棺の底石の一部が出土し、副葬品は須恵器のみ。6世紀後半と思われるとのこと。

北望           南東望-黄○は案内                 東望

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首子1号墳(別名 櫟山くぬぎやま古墳)

現状径10m・高さ3m程の円墳。(復元径18m・高さ約5m)。調査当時埋葬施設はよく残っており、先行する第1主体は家型石棺直葬で、1953年土取り工事中にこの石棺から人骨3体が発見されたとのこと。第2主体は、1978年再調査時発見され、破壊された両袖式横穴式石室(玄室長3m・幅1.5m、羨道長3m・幅1m程)と判明。副葬品として金環・棗玉・素玉・須恵器が出土。凝灰岩の破片が玄室内から出土しており、凝灰岩製組合式石棺の可能性が強いとのこと。第1主体が6世紀中頃、第2主体が6世紀後半らしい。

遠景北西望        近景南望        南西望          墳頂

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・首子2号墳(削平され水田) 一辺15mの方墳で、埋葬施設は破壊されていたが、木棺直葬の可能性が高い。円筒埴輪片・家型埴輪片・須恵器が出土し、須恵器から6世紀中頃と思われるらしい。

・首子3号墳(削平) 墳形不明。鉄釘が出土し、組合式木棺直葬らしい。鉄製武器(鉄刀等)が検出された。6世紀中頃とのこと。
・首子6号墳(削平され畑) 東西23m・南北11m・高さ2mの古墳の可能性があるが古墳痕跡未検出。。
・首子7号墳=只塚廃寺跡 当初、辺17mの方墳とされていたが、金堂と考えられる白鳳時代の建物基壇検出。多種類の道具瓦も出土し、後年調査で寺院跡と判明。
・首子9号墳 古墳時代の須恵器片が検出されたが、古墳かどうかは不明らしい。
・首子10号墳(削平され水田) 調査で径13mの円墳と判明。須恵器砕片が出土し6世紀中頃とのこと。

 

首子古墳群から西進。下図右の点線○が新宮原古墳。左の青●が鳥谷口古墳

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新宮原古墳

当麻寺奥院駐車場の道を挟んだ北側。また當麻山口神社の石鳥居の北側でもある。山車倉庫で墳丘が削られている。墳形・規模は不明で、6世紀後半と見られるらしい。須恵器と石棺の一部を検出。近所の民家に凝灰岩製組合式石棺の一部が保存されているらしいとのこと。

古墳周辺         石鳥居         北西望          南東望

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當麻山口神社・傘堂

参道        拝殿        縁起        傘堂        案内  

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鳥谷口古墳

葛城市染野そめの。7世紀後半頃の方墳。奈良県指定史跡。大津皇子(40代天武天皇皇子)墓に比定する説あり。

二上山から東に延びる尾根の先端部付近。1983年(S58)溜池=大池の改修工事の際に発見された。方墳で、一辺約7.6m。墳丘表面で2段の貼石が認められたほか、墳丘南面以外の三方に掘割が巡っていたらしい。埋葬施設は横口式石槨で、石槨の主軸は東西方向で、南方向に開口。底石の上に板石を立て、その上に天井石をのせる。石槨は長さ160cm・幅60cm・高さ70cm、開口部は幅40cm・高さ50cm。二上山産の凝灰岩製で、底石および北側石には家形石棺蓋石の未成品が使用されているとのこと。石槨開口部側には、羨道状施設の存在も推定される。盗掘で石槨内の副葬品は認めらず、石槨前面付近で須恵器・土師器を検出。

          遠景北望           近景           案内(染野=しの)

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大津皇子は40代天武天皇の第三皇子。母は、(天武皇后)41代持統天皇の実姉大田皇女。朱鳥元年(686)9月天武崩御後、10月に謀反の疑い有りとの密告で自害した。一説には、持統実子の草壁皇子擁護のため、持統・藤原不比等の陰謀とも。大津皇子の墓について『万葉集』には姉の大来皇女(初代伊勢神宮斎王)大津皇子のために詠んだ歌として、
大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る(改葬)時に、大来皇女の哀傷して作らす歌ー
「うつそみの人なる我あれや明日よりは 二上山を弟いろせと我が見む」とある。
初葬地の所伝はないが、改葬地に関し『大和志』では「在二上山二上神社東」とあり、宮内庁では二上山雄岳山頂に治定。しかし当時、古墳が山頂に築造されることはなく、付近で当該時期の古墳はここだけなので、二上山山麓の本古墳を真墓とする説がある。さらに、「染野」は貴人の土地を意味する「標野」に由来すると考えられ、本古墳石槨が内法長150cmと小さいのは改葬墓故というのが根拠。

          保存石槨           開口部          発掘当時の石槨

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石槨内北側石       石槨内西側隅       開口部右側       見下ろし

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當麻寺・本堂下古墳

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當麻寺本堂の下に埋まっている。本堂はS32年(1957)から35年間もかけて解体修理が行われ、その際発見されたらしい。基壇中央部にほぼ南北方向に検出され、木棺の周辺や上部を塊石群で覆った礫槨。礫槨外寸法は、長さ2.4m・幅90cm、木棺は、長さ1.9m・幅58cm。鉄剣二振り、鉄斧2丁などが出土。5世紀中期頃か?。

本堂南望                      北面

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竹内古墳群

34基からなる古墳群。多くは径10m程度の円墳で、5世紀末から6世紀後半にかけて造り続けられた。県指定史跡。殆ど私有地で見学不可だが、うち4基が史跡の丘に保存されている。

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竹内22号墳

葛城市竹内。『ほんみち竹之内廟所』敷地内。見学を申し出たが許可されなかった。

全長42mの前方後円墳。後円部径24m・高さ5.5m、前方部幅31m・高さ4.5m。周囲に幅5.5mの周濠があったとのこと。前方部に横穴式石室が開口。後円部にも横穴式石室があったが、石材が抜取られた跡だけ。竹内古墳群で唯一石室が開口。22号墳のすぐ北側に34号墳=「茶山古墳」。S21年に調査され、疑灰岩を板石状に加工して組み合わせた家形石棺が直葬されていたとのこと。石棺内には、3体分の人骨と鉄刀・鉄鏃等があり、棺外から須恵器も出土。また『ほんみち廟所』の西側に墳丘全体が墓地になっている竹内15号墳がある。さらに西へ行くと「史跡の丘」に1~4号墳が保存されている。 

ほんみち竹之内廟東側   22号墳?        廟所南側         15号墳?

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竹内1~4号墳

史跡の丘遠景       登り口         標識       案内(南ゲートの案内は判読不能      

                           なので4号墳脇の案内を掲載)

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1号墳方面        1号墳頂から南望     南西側見下ろし      1号墳から2号墳北西望

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2号墳から1号墳南東望   2号墳西側見下ろし    2号墳頂から北東望     2号墳北西面

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3・4号墳方面       3号墳南西面       4号墳

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無号古墳北西望      東望見上げ       無号古墳墳裾から南望  登り口付近から166号東望

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竹内街道

大阪府堺市大小路から16代仁徳・15代応神・31代用明・33代推古・36代孝徳天皇陵等の付近を東へ抜け、竹内峠を越え奈良県葛城市の長尾神社付近迄の約26 km で日本最古の街道。聖徳太子が、小野妹子ら遣隋使が帰国時(608年)に同行した隋使が通るため整備したとの説もある。大部分は推古天皇時代の官道と重なっており、奈良盆地南部を東西に横切る横大路に繋がっている。難波から上陸した大陸の先進文化や仏教が、竹内街道を通って大和へ伝えられたと思われる。中世には伊勢街道の一部として、現在は国道166号として利用されている。

竹内街道方面標識    竹内街道東進       竹内街道一里塚      長尾神社横の街道案内

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