OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

珠城山古墳群・纒向古墳群

珠城山古墳群、纒向古墳群

珠城山古墳群(珠城山1・2号墳)、巻野内石塚古墳周辺纒向古墳群(ホケノ山古墳周辺・箸墓古墳・東田大塚古墳・纒向矢塚古墳・纒向勝山古墳・纒向石塚古墳)、纏向遺跡

2021年8月コロナ禍で古墳散策を自粛しており、空いた時間でブログにあげていなかった過去の散策地を記事化したものです。

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珠城山古墳群

上図①。奈良県桜井市穴師。渋谷向山古墳(景行陵)の南400mに位置する。6世紀代の前方後円墳が3基あったが、3号墳は昭和33年の採土工事で削平されている。なお、一帯は第11代垂仁天皇期の纏向珠城宮伝承地ともなっている。

1号墳は前方部が東向きの前方後円墳で、墳丘は全長53m、後円部径20m、前方部長32m・幅20m。横穴式石室が後円部南側に開口する。羨道は滅失しているが、右片袖式で、玄室の長さ3.4m、幅は奥壁で1.65m、高さは約2m。玄室中央には主軸に合わせて凝灰岩製の組合式石棺が据えられていた*。棺内には遺骨の一部が残り、玻璃製小玉、琥珀製棗玉が、また棺外では、奥壁沿いに須恵器・土師器、棺の東側には馬具・太刀が配置され、棺の西側では甲冑のほか、見事な馬具が検出された。これらの副葬品はかなり豪華なもので、石室内には埴輪片もあるなど、小規模ながら、そこそこ有力な被葬者が考えられる。  *石棺は橿原考古学研究所附属博物館前庭に移設されている。

(2019.7撮影) 案内(少し墳丘の測量値が違う)     1-2号墳登り口      1号墳石室進入路 

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*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

(2019.7撮影) 1号墳石室        大きさ比較(私は170cm)

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2号墳は前方部西向きの前方後円墳。全長75m、後円部径40m、前方部幅40m。後円部は前方部より2mほど高い。埋葬施設等は不明だが、墳形からして、3基中最も早く営まれたと推察されている。おそらく2号→3号→1号の順に築かれたとのこと。削平された3号墳の後円部と前方部には横穴式石室があり、馬具や環頭太刀等が出土たらしい。2号墳の北側には平安時代の木棺墓、3号墳前方部の石室からは火葬墓が見つかり、古墳時代以後も葬地として使われていたと推定される。

(2019.7撮影)2号墳へ  案内        後円部墳頂西望  前方部方面     3号墳案内

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巻野内石塚古墳周辺

上図②。桜井市巻野内まきのうち。巻野内石塚古墳は本来全長60m・後円部径40m・前方部長20mの纒向型(帆立貝式)前方後円墳だが、現状は径40mの円墳状。詳細は以下を参照ください。

巻野内石塚古墳 - OSAKA-TOM’s diary

ホケノ山古墳周辺 

上図③。桜井市箸中。古墳時代前期初頭の纒向型(帆立貝式)前方後円墳。全長約80m、後円部径約55m・高さ約8.5m・3段築成、前方部長約25m・高さ約3.5m。

ホケノ山古墳のすぐ南の三差路を、西に向かえば箸墓古墳、東には慶運寺裏山古墳、そこから南に茅原大墓古墳と続く。詳細は以下を参照ください。

ホケノ山古墳 - OSAKA-TOM’s diary

箸墓古墳

上図④。桜井市箸中。正式考古学名は箸中山古墳。古墳時代初頭=3世紀中~後半の最古の定型化前方後円墳とされている。「大市墓おおいちのはか」として第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命やまとととひももそひめのみこと(『古事記』では夜麻登登母母曾毘売命やまととももそびめ)の墓に治定され、宮内庁により管理されている。

現状の規模は墳長278mで全国規模第11位。後円部径約150m・高さ約30m、前方部前面幅約130m・高さ約16m。前方部は後円部よりやや狭く、緩やかな曲線を描く撥形(6Cになると、後円部の2倍近くまで前方部は広がる)。 周辺の調査から、本来はもう一回り大きかったとも言われる。前方部側面の段築は不明瞭だが、前面に4段の段築があるとされる。後円部は5段築成(4段築成で、その上に径約45m、高さ4mの土壇が載ったものとする研究者もいる)で、5段は箸墓古墳のみで、4段築成(3段築成+後円部小円丘)西殿塚古墳(大和古墳群)、行燈山古墳(崇神陵=柳本古墳群)、渋谷向山古墳(景行陵=柳本古墳群)、桜井茶臼山古墳(鳥見山古墳群)、メスリ山古墳(鳥見山古墳群)、築山古墳(馬見古墳群)等が考えられ、他の陵墓クラスの古墳は全て三段築成(後円部も前方部も三段)とされ、被葬者の格付けを表すのかも知れない。

1994年北側の池の水を抜いた発掘調査で、墳裾に幅10mの周壕、さらにその外側に幅15m以上の外堤、幅50m程の落込み(土坑)が確認された。巨大な最古の前方後円墳が周壕を持つことが分かった。また周濠底から布留ふる0式土器が出土し、古墳時代前期初頭の築造であることが確定した。前方部先端の北側の墳丘斜面には、川原石を用いた葺石が存在していることも確認されている。埋葬施設は不明だが、墳裾から玄武岩の板石が見つかっており、竪穴式石室が作られた可能性がある。この石材は、柏原市芝山の石と判明しており、崇神紀に記す大坂山(二上山)の石ではない。後円部の東南側の周濠部分では両側に葺石を積み上げた渡堤が見つかっている。

(2015.8撮影) 遠景西望  拝所           東望          南東望 

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この時期には埴輪列はまだ存在しないが、最古の埴輪である都月型円筒埴輪、宮山型特殊器台・特殊壺などが採集されており、これらが墳丘上に置かれていたことは間違いない。また岡山市付近から運ばれたと推測できる特殊器台・特殊壺が後円部上でのみ認められるのに対して、底部に孔を開けた二重口縁の壺形土師器は前方部上で採集されており、器種によって置く位置が区別されていた可能性が高い。

また箸墓古墳よりも古いと考えられている纒向石塚墳丘墓などの突出部と箸墓古墳の前方部との形状が類似していること、渡堤を備えていること、周濠が墳丘の規模に比べ狭いことなどから、箸墓古墳弥生時代の墳丘墓が飛躍的に巨大化したものであり、弥生墳丘墓の諸要素を継承したものであるとの説がある。
*箸墓よりも築造が古かったともされる出現期の前方後円墳(ホケノ山古墳、纒向勝山古墳、纒向矢塚古墳、神門5号墳、神門4号墳、辻畑古墳等)も多数ある。

また、全国各地に墳丘の設計図を共有すると考えられる古墳が点在することや、出土遺物に埴輪の祖形である吉備系の土器が認められることや、墳丘規模など、それまでの墳丘墓と明らかに一線を画しており、当古墳の築造をもって古墳時代の開始と評価する研究者も多い。

*2009年、箸墓古墳の築造年代を西暦240-260年頃とする国立歴史民俗博物館春成秀爾名誉教授の研究成果が報告された。この年代であれば卑弥呼死去年とほぼ一致するため、邪馬台国畿内説研究者の中には、卑弥呼の墓とする説もある。

東田大塚古墳

上図⑤。東田ひがいだ町字勝山。古墳時代前期初頭=3世紀後半の前方後円墳。南西側の前方部が削られ、現在は円墳状。被葬者は不明。本来の全長約120m、後円部径約68m・高さ9m、前方部長約50m。周濠幅約21m・深さ1.3m、葺石・埴輪なし。

(2015.8撮影) 遠景南望  近景南望         案内          後円部墳頂

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纒向矢塚古墳

上図⑥。桜井市東田町字勝山。2世紀後葉~3世紀前半の纏向型(帆立貝式)前方後円墳。全長約96m、後円部径約64m(東西約64m、南北約56m)・高さ5m、前方部長さ32m。周濠幅約17~23m・深さ約0.6m。葺石・埴輪なし。埋葬施設は未調査だが、墳頂部に板石が露出しているので竪穴式石室または、箱式石棺が考えられるとのこと。

(2015.8撮影)遠景北望       近景北望             案内 

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纒向勝山古墳

上図⑦。桜井市東田町字勝山。3世紀初頭の纏向型(帆立貝式)前方後円墳。全長約115m、後円部径約70m・高さ7m、前方部長45m。くびれ部幅26m。周濠幅約25m。埋葬者は不明で、葺石・埴輪なし。埋葬施設は未調査のため詳細不明。周濠くびれ部埋土中より検出されたヒノキ板材の年輪年代測定の結果、伐採年代は、新しく見積もっても210年頃と推定。周濠跡から出土した布留0式よりも旧い庄内2式期土器が出土、土器編年では3C前半。ただ、これも周濠跡からの出土のため築造時期の決め手に欠く。鍛冶関連の遺物も出土している。

(2015.8撮影) 後円部東望  北東望         案内           全景北望

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纒向石塚古墳

上図⑧。桜井市太田字石塚にある纒向型前方後円墳(または墳丘墓)。全長96m、後円部径64m(主丘部東西59m・南北45m)、前方部長約32m・幅約34m。後円部は不整形円形、前方部は三味線の撥状に開く。くびれ部の幅16m。周濠幅約20m。葺石および特殊器台・埴輪なし。未調査だが、後円部深淵部に埋葬施設があると考えられる。墳丘盛土内や周濠から多くの土器のほか、鋤・鍬・建築部材・鶏形木製品・弧文円板などの木製品が出土。周濠のヒノキ材は年輪年代法で西暦177年、西側周濠出土の庄内0式期土器は3世紀初頭、盛土内出土の庄内1式期土器は3世紀前半、導水溝出土の庄内3式期土器は3世紀中頃、結果、2世紀第4四四半期~3世紀前半で、纏向古墳群内では最古の可能性があり、前方後円墳成立期の古墳として注目されている。被葬者は不明。第二次大戦中には高射砲陣地の設営のために埋葬施設とともに墳丘の上部が大きく削平されている。

(2015.8撮影)南西望         案内               西望

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纏向遺跡  

上図⑨。詳細は以下を参照ください。

巻野内石塚古墳 - OSAKA-TOM’s diary