OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

琴平山古墳周辺

琴平山古墳周辺

2021年5月11日(火)琴平山古墳→横山古墳群1号墳

琴平山古墳

名張市赤目町檀。高善山より派生した丘陵頂部。全長70mで名張で最大かつ最古(6世紀初頭頃)の前方後円墳。道はいたって分かり易く、道標もあった。

f:id:OSAKA-TOM:20210515131036j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515131045j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515131109j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515131123j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515131156j:plain

*画像をクリックすると拡大されます。

3段築成で円筒埴輪が各段に巡っていた。後円部径36m、横穴式石室で、調査当時、既に玄室は左側壁が崩れ内部は埋まっていた。羨道長5m、玄室長4.5m・奥壁幅2.4m、右片袖(袖幅1.2m)、玄門幅1.2m。溶結凝灰岩の板石を積上げ、持送りが大きかったらしい。羨門は端石材で閉塞し、さらに大きな一枚石で二重に閉塞していたとのこと。羨道部から衝角付冑・直刀・剣等の武具を検出。くびれ部にも横穴式石室があり、右片袖式で、全長6.5m、羨道長2m・幅1.1m、玄室長4.5m・幅2mだが、崩壊しており内部調査は実施せず埋め戻された。

後円部墳頂        石室現状        くびれ部         くびれ部石室天井石材

f:id:OSAKA-TOM:20210515131734j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515131759j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515131844j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515131856j:plain

前方部にも石室があったが、完全に石材が抜かれ掘形のみ残る。前方部に金比羅社の祠があることが名の由来。

前方部          石室堀形                     金比羅社祠

f:id:OSAKA-TOM:20210515132233j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515132245j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515132323j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515132335j:plain

くびれ部南側に土器集積場があり、祭祀に用いられた大量の須恵器の蓋坏・器台や陶質土器等が出土したらしい。出土武具や須恵器から渡来系軍事氏族の首長墓と思われる。なお当古墳は名張盆地内最初の前方後円墳で、美旗古墳群最後の前方後円墳貴人塚古墳と同時期かやや遡ると見られるとのこと。

美旗古墳群 - OSAKA-TOM’s diary 

横山1号墳

赤目町檀字横山周辺。横山古墳群は琴平山古墳周辺に広く分布する。琴平山古墳から60m南の道路沿い西側に1号墳等への進入路がある。古いフェンスがあるが、横からいくらでも入れる。フェンスからすぐの墳丘で、西向きに小型の右片袖式石室が開口。その北側にもいくつか墳丘がある。木棺直葬墓から初期横穴式石室を持つ前方後円墳へと続く在地集団の古墳群で、5世紀~6世紀。

進入路フェンス                     1号墳         開口部

f:id:OSAKA-TOM:20210515133224j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515133239j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515133332j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515133352j:plain

開口部は幅50cm・高さ30㎝程しかない。玄室幅・高さとも1.8~1.9cm程か。

羨道           玄室           天井部         玄門部

f:id:OSAKA-TOM:20210515133748j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515133758j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515133827j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515133836j:plain

北側奥にもいくつかの墳丘がある。

f:id:OSAKA-TOM:20210515133959j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515134009j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515134040j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515134049j:plain
【豆知識その12】石室内の生き物

玄室壁に点の様に見えるのはカマドウマというバッタの仲間。どの石室にも居るが、ピョンピョン飛び回るでもなく、藪蚊よりよっぽど無害。羨道天井部にもビッシリ張り付いていることもあるので、念のため入室前に木の枝等で、羨道部天井や側壁をパンパン叩いておけば、結構居なくなる。なお、今まで何百という石室に入ったが、カマドウマやクモ以外見たことは無い。
それより、林の中で野生の鹿や野兎、雉を見た時の方がかなり驚いた。

 

続いて、すぐ近くの高善山古墳や滝谷古墳へ向かう。

osaka-tom.hatenablog.com

中村古墳群周辺

中村古墳群周辺

2021年5月11日(火)芝出古墳群→中村古墳群→尻矢古墳群

芝出古墳群

f:id:OSAKA-TOM:20210515094525j:plain

百合ケ丘団地への道が右に大きくカーブする所のすぐ左側に、フェンスで囲まれた小さな施設(グーグルマップでは報恩院流宗家)がある。その少し手前、道路から北側林内の尾根筋を下ったすぐ左の所に2基。上の2号墳は径11mの円墳で陥没壙のある墳丘。更にやや左下の3号墳は径15mの円墳で小型の横穴式石室が開口。土砂で埋没しているが、全長6.3m、玄室長2.8m・幅1.38m・高さ1.8mとのこと。

進入路                      2号墳          3号墳

f:id:OSAKA-TOM:20210515094858j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515094906j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515094941j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515094953j:plain

*画像をクリックすると拡大されます。

3号墳開口部       内部                       南望見上げ

f:id:OSAKA-TOM:20210515095244j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515095311j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515095321j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515095347j:plain

尾根は、3号墳から更に北に下って行くが、墳丘らしきものは見当たらなかった。

中村古墳群

6世紀頃の群集墳。保存区域は百合ヶ丘団地内の4ヶ所に分散している。

f:id:OSAKA-TOM:20210515100708j:plain

市立病院東側の16号公園内には、高尾支群の5・6・7・8・13・14・15・16号墳が保存されており、木棺直葬で群中では初期の築造とのこと。案内が見つからず、どれがどれか分からないし、墳丘らしきものは6基位しか確認できなかった。公園半ばに人参峠遺跡の案内があり、この案内から西側は急な谷になっており、この公園が尾根筋であることがよく分かる。

進入路          墳丘例                     遺跡案内

f:id:OSAKA-TOM:20210515101018j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515101040j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515101120j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515101143j:plain

19号(ニレの木)公園北東近くに11号墳。墳丘下のフェンスで入れない。ニレの木公園には案内も設置されており、18号墳は石室が開口している。17号墳は笹で覆われ、19号墳・20号墳辺りは石材が散乱している。

11号墳          18号墳         案内           18号墳開口部

f:id:OSAKA-TOM:20210515112658j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515112714j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515112722j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515112745j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515112917j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515112956j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515113005j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515113018j:plain

17号墳          19号墳         20号墳          公園南望見上げ

f:id:OSAKA-TOM:20210515113220j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515113728j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515113259j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515113347j:plain

17号(シイの木)公園に2基。12号墳は群内最大の円墳だそうだが、墳丘は明瞭ではなく、公園最高所から見下ろせば、それとなく分かる程度。1号墳は石材が露出。なお、案内には「1号墳の西側に12号墳」とあるが、どう考えても東側。
案内           12号墳          1号墳見下ろし  

f:id:OSAKA-TOM:20210515114103j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515114113j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515114141j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515114156j:plain

百合ヶ丘団地の東端、名張青峰高校北側斜面一帯に15基の奥出古墳群もある(明確に墳丘が確認できるのは1基のみらしい)。

大阪府柏原市に8つの支群を擁する平尾山古墳群があり、確認できるだけでも1400基を超えるという巨大群集墳。この百合ヶ丘一帯は、釜石川・宇陀川流域に居住した集団の、数代にわたる家族墓と考えられるそうですが、芝出・中村・奥出古墳群を含む、大規模群集墳だったと思います。狭い日本で住宅開発は必要不可欠ですが、古墳マニアには、すこし残念なような・・・。

尻矢古墳群

f:id:OSAKA-TOM:20210515114613j:plain

百合ヶ丘団地南側の立派な一般農道?で繋がる赤目町すみれが丘。S55年(1980)当宅地造成で、尾根筋全域調査を実施。木棺直葬墳や、大形横穴式石室を有する8基の古墳等を発見。そのうち2号墳は径14m、墳頂部に楕円形(長軸5.4m、短軸3m)の墓壙が掘られ、木棺2基が納められていたとのこと。西棺は長さ4.65m・幅70cm程の割竹型木棺で北頭位埋葬。棺内遺物は、剣・鏃以外に鏡面を下にした銅鏡(五獣鏡)とガラスの勾玉・小玉を連ねた首飾り。五獣鏡は径11.8cm・縁部厚さ約4mm・重量189g。頭部には鏡面を上にした銅鏡(四神四獣鏡)があり、径9.7cm・縁部厚さ約3mm・重量106gらしい。5世紀後半(~6世紀前半)築造とされるが、今はただの空き地で、その前に案内があるだけ。

f:id:OSAKA-TOM:20210515114800j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515114815j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515114842j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515115040j:plain

 

ここから横山古墳群琴平山古墳等へ向かう。

osaka-tom.hatenablog.com

大屋戸古墳群周辺

大屋戸古墳群周辺

2021年5月11日(火) (平岩古墳)→塚穴山古墳群→(塚原古墳群・遺跡)→大屋戸古墳群→小谷古墳群→上山古墳群

f:id:OSAKA-TOM:20210515075916j:plain

(平岩古墳)

奈良県山添村岩屋。ある古墳専門ブログの位置情報(緯度経度)辺り(上図①)を探したが、全く気配がなく断念。

f:id:OSAKA-TOM:20210515080159j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515080222j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515080225j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515080229j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515080306j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515080313j:plain

*画像をクリックすると拡大されます。

塚穴山古墳群 

名張市蔦生こもお(上図②)。1号・2号墳の2基があるとのこと。東洋ハトメ工業・クラウン工業敷地から782号線を西に140m程。道沿い北側にある小屋の東40mに尾根に上がる小道があり、上がると小さな椎茸栽培場がある。その上方に点在石材が見える(1号墳?)。最高所=獣除けフェンス手前に、陥没壙がある(2号墳石室跡?)。どれか区別はつかないが、この辺りが群集墳だったことは想像できる。

f:id:OSAKA-TOM:20210515080726j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515080745j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515081000j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515081005j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515081022j:plain

石材           1号墳?         尾根最高所       2号墳?

f:id:OSAKA-TOM:20210515081215j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515081226j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515081250j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515081313j:plain

塚原古墳群・遺跡

名張市蔵持町里。武道交流館の北側一帯。古墳時代後期の横穴式石室の古墳群(30基)。H12年(2000)市道新設工事で発見。弥生時代後期を中心とする集落跡でもある。石室がわずかに残る程度だし、見つけられそうもないので、パスし名張川対岸から遠景東望。

f:id:OSAKA-TOM:20210515081743j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515081808j:plain

大屋戸古墳群

f:id:OSAKA-TOM:20210515081959j:plain

名張市大屋戸、杉谷神社本殿(上図③)の裏。4基の古墳が残存。拝殿の右側に回り、塀沿いに登る。(左側は薮がひどかった)

f:id:OSAKA-TOM:20210515082206j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515092357j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515082242j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515082251j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515082314j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515082321j:plain
1号墳

本殿すぐ裏の1号墳は完存石室が開口。開口部は縦50cm・横90cm程。右片袖横穴式石室、全長5.4m、玄室長約3m・幅約1.5m・高さ約2m。

f:id:OSAKA-TOM:20210515082621j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515082626j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515082654j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515082706j:plain

玄室全景         奥壁上部         天井奥側        北側壁

f:id:OSAKA-TOM:20210515082935j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515083001j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515083010j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515083032j:plain

玄門               玄門上部             天井前側

f:id:OSAKA-TOM:20210515083223j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515083248j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515083256j:plain
2号墳

大きな陥没壙を挟み、すぐ上隣に2号墳石室。天井部が一部開口し、穴の深さは70cm程なので入室できる。羨道は崩壊している。玄室長約3m・幅約1m・高約1.5m。

f:id:OSAKA-TOM:20210515083537j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515083543j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515083618j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515083648j:plain

奥壁中段              奥壁上段            羨道方面

f:id:OSAKA-TOM:20210515083841j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515083851j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515083928j:plain
3号墳・4号墳

2号墳から尾根を北西へ登る。石室は埋没し、羨道部の石材1個と天井石1個が露出しているらしいが、石材が2ヶ所程あり、よく分からない。尾根はかなり高い所まで登っており、4号墳もよく分からない。

f:id:OSAKA-TOM:20210515084256j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515084324j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515084341j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515084355j:plain

 

f:id:OSAKA-TOM:20210515084448j:plain

小谷古墳群

名張市蔵持町芝出、稲荷大神のある小丘陵。古墳群は円墳7基と方墳1基で、S59年(1984)区画整理事業に伴い1~5号墳を発掘調査。いずれも横穴式石室で、最大規模で径約20mの小谷3号墳を中心に6世紀末頃築造。丘陵南西角から、階段を登った中腹に1号墳石室の基底部が、移築保存されている。右片袖式で全長約6m、羨道長約2.7m・幅約90cm。

f:id:OSAKA-TOM:20210515084835j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515084842j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515084905j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515084918j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515084941j:plain

上山古墳群

名張市春日丘1番町、上図④。本来14基からなる群集墳だが団地建設でいくつか消滅。団地入口にあるファミリーマート東横の竹林内に1~4号墳があるらしい。小さなマウンドが並んでいる程度とのことでパス。団地内春日丘4号公園に13号墳が移築保存されている。公園西側斜面にも5・6・15・16号墳が保存されているらしいが、頑丈なフェンスで囲まれている。 13号墳丘背後にも石室石材が組まれている。

ファミマ横竹藪    4号公園     案内      公園西側斜面          墳丘背後石組

f:id:OSAKA-TOM:20210515085411j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515085423j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515085428j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515085502j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515085511j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515085534j:plain

13号墳は、東西径12mの楕円形墳で、馬蹄形周溝が巡っていたとのこと。右片袖式の石室は全長約6m。石室内には組合せ式箱型石棺も復元されている。須恵器・耳管・土師器・棒状かんざし・金銅製花形飾りが出土。

13号墳東望        玄室全景        箱型石棺         奥壁

f:id:OSAKA-TOM:20210515085808j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515085831j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515085835j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515085905j:plain

北側壁                       南側壁

f:id:OSAKA-TOM:20210515090423j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515090430j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515090501j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210515090512j:plain

 

続いて、名張市百合ヶ丘の芝出古墳群・中村古墳群へ向かう。 

osaka-tom.hatenablog.com

美旗古墳群

美旗古墳群

2021年4月22日(木)馬塚→毘沙門塚→女郎塚→殿塚→貴人塚→赤井塚 全行程10km

伊賀地方を代表する古墳群。1978年(S53)10月国史跡指定。古墳時代前期~後期にかけ、地域を支配した首長が築造し、伊賀地方で最大規模の古墳群。現存は、5基の前方後円墳と横穴式石室を持つ円墳1基、方墳1基。(カブト塚・矢羽塚・玉塚などの方墳と円墳の多くは消滅)。

食事のできるところは、貴人塚~赤井塚に向かう途中に2カ所ある。行程10km程なので、昼食をはさんで4時間位で回れる。

f:id:OSAKA-TOM:20210429204607j:plain

馬塚

名張市美旗町中1番。5世紀後期の前方後円墳近鉄美旗駅のすぐ南側。県内第2位、美旗古墳群では最大の規模(県下最大の御墓山古墳190mに次ぐ)。全長142m。後円部径98m・高さ14m・3段築成。前方部幅100m・2段築成。両側に造出し・幅12mの完周周溝が有り。伊賀全域を支配した首長墓と思われる。

後円部南東望    前方部南望     石碑        後円部東望      くびれ部南東望

f:id:OSAKA-TOM:20210429205118j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429205123j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429205129j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429205146j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429205150j:plain

後円部墳頂南西望  墳頂から前方部    墳頂から北東望   西望       南東望=小塚・貴人塚

f:id:OSAKA-TOM:20210429205330j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429205341j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429205410j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429205409j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429205429j:plain

小塚

名張市美旗町中1番。馬塚の東60m。辺約15m・高さ3.5mの方墳。馬塚古墳の陪塚と考えられている。

意外と西側住宅街からは見えない。馬塚後円部墳頂からの方が良く見える(上の右端写真)

毘沙門塚

美波多神社を経由して毘沙門塚へ。美波多神社境内の案内には、当地の開墾状況が記されている。

毘沙門塚は5世紀中頃の帆立貝式前方後円墳。全長約65m、後円部径44m・高さ7m、前方部幅20m・高さ3m。両くびれ部に造出し(東部は削平)、葺石・埴輪を検出。幅6mの完周周濠を備える。後円部に板石が散乱していて竪穴式石室があったとみられるが、盗掘されているとのこと。周濠が綺麗に残り、帆立貝型の前方部と、造出しがよく分かる。

美波多神社    北東望         前方部東望    くびれ部南望    後円部西望

f:id:OSAKA-TOM:20210429205945j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429205949j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429210145j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429210036j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429210227j:plain

女郎塚

毘沙門塚から東へ、狭い踏切を越えると、「こども園」の東にある。名張市新田。5世紀前半の帆立貝式前方後円墳。全長約100m、後円部径73m・高さ9m、前方部幅40m・高さ3m。葺石・埴輪が検出され、全周に幅10m程の周濠跡が今も残る。

殿塚古墳

名張市新田。4世紀末~5世紀初頭の前方後円墳。美旗古墳群で最初に築造された。全長約90m、後円部径56m・高さ7m・3段築成、前方部幅40m・高さ6m・2段築成。北の丘陵を整形して築造された。葺石・埴輪を備え、周囲は空堀状の平坦地だが、今は墓地として利用されている。後円部北西側に2基ワキ塚陪塚群があるが、木々で覆われている。ワキ塚1号墳は23mの方墳で、木櫃に銅鏡・衝角付兜・鋳造鉄斧等出土。2号墳は長径26mの楕円形で、粘土槨2つに、各々鉄刀や鉄鏃検出。

女郎塚西面北望  案内         東面北望      殿塚東面     後円部周囲の墓地

f:id:OSAKA-TOM:20210429210551j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429210555j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429210616j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429210621j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429210655j:plain

 

途中の風景

初瀬街道奈良県桜井市初瀬と三重県松阪市六軒を結ぶ街道。壬申の乱に備え、大海人皇子(天武天皇)が東に逃れた道とも伝わる。以前は参宮表街道とも呼ばれ、大和と伊勢神宮とを結ぶ道のうち、比較的平地が多い街道としてよく利用された。貴人塚に向かう途中に、江戸時代の新田宿の様子を記した案内があり、旧旅籠には暖簾が掛かっている。また「新田用水の日時計」というのがあったが、大きさは20cm程でかなり小さい。さらに貴人塚への分岐には大きな常夜灯(陸の燈台)がある。

新田宿案内     旧旅籠         日時計案内と日時計         常夜灯

f:id:OSAKA-TOM:20210429210923j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429210943j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429210949j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429211002j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429211028j:plain

貴人塚

f:id:OSAKA-TOM:20211105110037j:plain

名張市小波しもおばた。田んぼの中にポツンとある。6世紀初頭、元は全長約55mの前方後円墳(現存47m)。後円部径約35m・高さ4.5m、前方部幅35m・高さ4m。幅約5mの全周濠あり。墳頂に径3mの円形陥没があり、横穴式石室の可能性がある。後円部墳丘北東側面に隙間が開いているが、石室かどうか不明。

全景南西望     後円部墳頂陥没    前方部       後円部墳丘側面隙間 内部

f:id:OSAKA-TOM:20210429211327j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429211355j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429211415j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429211438j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429211445j:plain

赤井塚古墳

f:id:OSAKA-TOM:20211105110159j:plain

名張市上小波田みおばた。6世紀後半の円墳。民家の東裏にある。現状径約20m(元は30m程)・高さ6.5m。両袖式の横穴式石室で南側に開口するが、今はフェンスがあり入室できない。花崗岩製の石室は全長約12.8m、羨道長6.8m・幅1.3m・高さ1.4m、玄室長約5.7m・幅約2.4m・高さ約3.6mで、奥壁と前壁の持ち送りが大きいとのこと。

赤井塚への分岐   遠景東望       近景東望            開口部

f:id:OSAKA-TOM:20210429211704j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429211713j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429211737j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429211745j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429211804j:plain

辻堂古墳周辺

辻堂古墳周辺

2021年4月20日(火)。名阪国道=中瀬IC→前塚・桐ノ木古墳群→鳴塚古墳→鳳凰寺古墳群→辻堂古墳→(安部山・墓の谷・神林・下中島・向山・前山古墳群)→中切古墳→(阿弥陀寺山古墳)→猪田神社古墳→(吉田谷古墳群)→(石山古墳)→王塚古墳→(天童山古墳群)

*()内は明確に墳丘が確認しにくく、かなりストレスが溜まるため、初級者にはお勧めしません。

辻堂古墳

f:id:OSAKA-TOM:20210804090851j:plain上図⑫。横穴式石室の基底部が残るだけで、古墳と言うより「古墳跡」と言うべきかも。公園の様に保存されていて、駐車場もある。元は6世紀前半の、径23mの円墳か前方後円墳。両袖式の石室は、全長11.5m以上、羨道幅1.5m、玄室長5.5m・幅2m・高さ1.9m以上。敷石と排水溝をもち、玄室には中央奧寄りと右袖部に二基の組合せ式箱式石棺が納められていたとのこと。

 

外観         案内石碑     南望         北望        石棺

f:id:OSAKA-TOM:20210429124406j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429124411j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429124438j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429124449j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429124513j:plain

*画像をクリックすると拡大します。

(安部山・墓の谷・神林・下中島・向山・前山古墳群)

広い農免道路に沿っていくつかの群集墳が存在する。

f:id:OSAKA-TOM:20210429124800j:plain

安部山古墳群 ⑬-1

元は3基からなるが、なんとか確認できるのは竹林の中の1基。進入路すぐに、朽ちた作業場と廃車になった軽トラがあった。

墓の谷古墳群 ⑬-2

狭い農道を挟む林の4基のうち、3基が確認できるとのこと。北側林の1基は石材が残るのみで、南側に2基。農道側の1基は墳丘のみ。南側のもう1基は横穴式石室(現存長約6m、幅・高さとも1.8m程の右片袖式)が開口するらしいが、見つけられず。おそらく、農道側から林に入るのでなく、田んぼ沿いにグルっと林を南側に回り込むと、見つかったのだろう。ただ、田んぼのアチコチに獣感知警報機があり、前を通ると「ワンワン・ガーオ・ウーー(サイレン音)・・・」と、かなりうるさい。

神林古墳群 ⑬-3

元は16基とのことだが、確認できるのは道路北側沿いの1基のみ。道路南側の獣除けフェンスからずっと奥に多くありそうだ。フェンスには可動扉があり、中には入れるが、時間の都合でパス。

-4下中島古墳群 道路南側林内に8基あるらしいが、農道から見渡しても、全く見つかる気配がしなかったのでパス。
⑭-1野台古墳群は消滅している。

安部山古墳群              墓の谷古墳群(農道側) 神林古墳群     可動扉

f:id:OSAKA-TOM:20210429125531j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429125548j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429125623j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429125633j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429125705j:plain
向山古墳群 ⑭-2

20基程で、谷間奧の南支群と道路北側の北支群とに分かれる。南支群は、林道脇の中部電力送電塔を越え、奧へ2~3分程進んだ所辺り、谷川の両側に分布する。林道沿い西側に3基、東側に4基あるらしいが、どれも墳丘に見え、細かな位置地図でもないと、中級者には難しい。谷川を越える橋は途中の仮設橋と鉄板橋があったが東側には渡らず断念。北支群もパス。

南支群進入路   送電塔     林道西脇     東側への仮設橋  鉄板橋     林道東側

f:id:OSAKA-TOM:20210429130103j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429130114j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429130144j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429130232j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429130305j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429130351j:plain
前山古墳群 ⑭-3

農免道路沿いに西支群、さらに道路を200m程東に行くと、南に登る林道周辺が東支群。西支群は道路を挟み3基が近接するらしいが見分けがつかない。東支群では、林道を南に登るとすぐ、右(西)側崖上に横穴式石室の開口部が見える。林道東側の北向き斜面に円墳が1基等、周辺に墳丘らしきものが点在。なお、林道登り口に「高電圧 さわるな」と注記された頑丈な可動フェンスがある。電気は通ってなかったが、念のためご注意ください。

東支群進入路    可動フェンス     西側見上げ     開口部        石室内

f:id:OSAKA-TOM:20210429131022j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429131031j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429131105j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429131126j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429131159j:plain

中切古墳

f:id:OSAKA-TOM:20210429131419j:plain

伊賀市喰代ほおじろ。上図⑮。正光寺の北東、直線距離300mの段丘上。径15m程の円墳だが、墳丘はほぼ壊されている。横穴式石室の石材が露出。

北東望       東望         南東望       北西望       西望

f:id:OSAKA-TOM:20210429131623j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429131659j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429131704j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429131849j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429131733j:plain

(阿弥陀寺山古墳)

f:id:OSAKA-TOM:20210429132035j:plain

伊賀市中友生なかともの。上図⑯(実際にはもう少し北側?)。県道56号線北側、界外かいげ区公民館北側の二つの池の間の丘陵上にあるらしい。径12m程の円墳で、右片袖式の横穴式石室の一部が残り、玄室長3.3m・幅1.4m・高さ2.3m、床面は半分くらい埋まっているとのことだが、上図青点線から先は私有地で入れないし、そもそも墳丘など全く見えない。おそらく西光寺の少し北にある細い道を東に進むのだろうが、この日の時間対効果を考えればパスするしかなかった。

猪田神社古墳

f:id:OSAKA-TOM:20210429132703j:plain

伊賀市には、猪田神社が二つある。お互い近くだが、丘陵を隔てており、ともに『延喜式神名帳の猪田神社の論社延喜式の神社と同一かその後裔と推定される神社)。元は同じ丘陵を聖地としていたが、集落ごとで祭祀が分化したとのこと。北側の猪田神社本殿は国の重要文化財で、裏側の古墳とその東方の井戸が県指定。古墳は、埋蔵文化財包蔵地としては3基からなる猪田神社古墳として登録されており、そのうちの1号墳に相当する。径約24m・高さ約4mの円墳で、横穴式石室を有する(埋め戻されている)。古墳時代後期だが、当期の円墳としては大きめの規模である。井戸は1.2m四方の方形石組があり、「天真名井」と呼ばれている。この井戸と伊勢神宮外宮の忍穂井とが通じているとの伝説もあるそうだ。

阿弥陀寺山古墳方面 猪田神社参道    本殿方面       猪田神社古墳    南側の猪田神社

f:id:OSAKA-TOM:20210429133001j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429133009j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429133036j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429133056j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429133128j:plain

(吉田谷古墳群)

f:id:OSAKA-TOM:20210429133310j:plain

伊賀市才良ざいりょう吉田谷。以下平成25年三重県埋蔵文化財センターの発掘調査報告を抜粋します。
「比自岐ひじき川流域には、古墳時代前期=4世紀後葉頃に後述の石山古墳、6世紀前半に流域低地に、王塚古墳が築造される。5世紀後半から7世紀代には才良東部の丘陵内に多くの群集墳が築造されたらしい。才良吉田谷古墳群は才良地区東部に広がる低丘陵中にあり、約25基で構成される。農免農道設置に伴い、平成21~23年度にかけて発掘調査が実施された。1号墳の調査時に、すぐ近くで2・3号墳が見つかった。

1号墳は径約12mの円墳で、出土遺物が示す時期は6世紀末。周溝は墳丘を全周せず、北側部分のみ馬蹄形に巡ると想定される。周溝埋土から、須恵器甕片・土師器長頸壺の破片がまとまって出土。左片袖式の花崗岩製の石室は、玄室長3.25m・奥壁高2.45m・幅約1.6~1.8m(「胴張り」形態)。基底部に基底石=腰石を立て、その上に小さ目の石を小口積し持ち送っている。馬具・鉄刀・刀子・鉄鏃・須恵器の高坏や坏なども出土。

2号墳は径約10mの円墳で、出土遺物が示す時期は7世紀中葉。花崗岩製の両袖式で、羨道長1.45m、玄室長約2.75m・奥壁残存高1.5m・幅約1.5m~1.6m。右玄門付近と奥壁前に意図的に破砕された須恵器片があり、木棺用の鉄釘も見つかった。

3号墳は墳形・墳丘規模ともに不明。出土遺物が示す時期は6世紀後葉、2号墳丘一部を利用して石室だけが築かれていた。花崗岩製の左片袖式石室は、全長2.2m以上、羨道長約1.5m。(奥壁を含む玄室掘形基底面からして)玄室奥行き0.8m以上・最大幅約1.1m・高さは最もよく残っているところで1.3m程でかなり低い。崩壊が激しいが、右側壁の一部はよく残っていた。玄門部右側壁寄りに須恵器高坏2・平瓶1・土師器坏1・壺1が乱雑に置かれ、鉄刀がその上にあった。鉄刀は元々は左側壁に切先を上に向けた状態で立てかけられていたのが倒れたと考えられる。」*詳しく知りたい方は以下を参照ください。

才良吉田谷古墳群・才良山ノ谷古墳群ほか発掘調査報告 - 全国遺跡報告総覧

 

周辺山林の尾根筋には、未調査の墳丘が多数残存するらしいが、何せ山の中なのでよくわかりません。ただ、農免道路の途中に、西側に降りる林道があったので、行ってみましたがよく分かりませんでした。この道は西側の平坦部=田んぼまで続くようです。

降り口       林道                   両脇には墳丘らしきものが点在

f:id:OSAKA-TOM:20210429134444j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429134454j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429134524j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429134554j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429134621j:plain

(石山古墳)→王塚古墳

f:id:OSAKA-TOM:20210429134756j:plain

石山古墳

伊賀市才良。上図⑲。丘陵の一端を利用した前方後円墳で、古墳時代前期に伊賀の中心的存在となる。4世紀後葉頃と考えられるこの古墳は、多種多量の副葬品で知られ、当地のみならず、広く伊賀盆地南部の王墓と考えられている。

葺石の多さが石山の由来らしい。S23-26年に学術発掘調査された。全長120m、後円部径70m・高さ9mの2段築成、前方部幅40m・高さ5mの3段築成(平野部に臨む東南側下に整形された1段含む)。前方部は南西を向く。円筒埴輪列は3段だが周回でなく、さらに後円部墳頂の内側に長方形の円筒埴輪列があり、さらにその内側に、家・盾・蓋・靫等の形象埴輪が置かれていたとのこと。くびれ部の墳丘外側にも長方形の円筒埴輪列があり、多数の家型埴輪が置かれていたとのこと。

後円部の埋葬施設は、同じ墓坑内に3つの粘土槨があり、各々に木棺を納めていた。中央槨は長さ8.1mの割竹形木棺で、盗掘されていたが、小札革綴冑・農工具・鉄鏃・石製模造品巴形銅器や幾枚もの盾が検出された。東槨は長さ7.7mの割竹形木棺で、棺内外から、巴形銅器を付けた盾、銅鏃・鉄鏃を収めた靫、玉類・石製模造品・内行花文鏡・櫛・鉄鏃・剣・長方板革綴短甲・草摺・弓・多数の石製模造品・臼玉・農工具類が出土。

西槨は長さ3.7mの箱式木棺で、内外に鍬形石13点・車輪石44点・石釧13点の他、琴柱形石製品・臼玉・紡錘車形石製品・勾玉・素環頭大刀と剣各1本・槍2本を検出。中央槨と東槨では石製腕飾類は1点も見られず、大量の武器・武具類が見つかったのに対し、西槨は武器類は僅かで、大量の石製腕飾類があった。つまり中央と東の被葬者は政治・軍事的役割をもつ首長で、西側の被葬者は呪術・宗教的役割をもつ首長と推定されるらしい。

王塚古墳

伊賀市比自岐。上図⑳。石山古墳の数代後=6世紀前半、比自岐川流域の低地に造られた前方後円墳。全長48mの前方後円墳。石山古墳の南東近くの水田の中にポツンとあるが、首長墓と推定されるとのこと。

石山古墳方面    王塚古墳北東望    南西望       東望        南面北東望

f:id:OSAKA-TOM:20210429140905j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429140913j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429140942j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429140954j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429141020j:plain

(天童山古墳群)

f:id:OSAKA-TOM:20210429141153j:plain

伊賀市上郡かみごおり。上図㉑。無量寿福寺の西側。横穴式石室を主体とした径10~15mの円墳十数基があったらしい。県道建設で2003年度に調査されたが、今は石室は壊され、石室跡・墳丘等に石仏が祀られている。進入路から北へ時計回りに行くと墓地。進入路から南へ反時計回りに行くと寺の南側に出る。30体の石仏が確認できたが、古墳巡りではなく石仏三十カ所巡りである。

県道686号から 駐車場所 進入路    石仏           墓地          無量寿福寺 

f:id:OSAKA-TOM:20210429141631j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429141649j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429141718j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429141727j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429141804j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429141812j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429141836j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429141839j:plain

 

前塚・桐ノ木古墳群~天童山古墳群まで、かなり足早に巡ったので、パスした所も多い。これではなかなか上級者にはなれないだろう。

鳳凰寺古墳群

鳳凰寺古墳群

2021年4月20日(火)。名阪国道=中瀬IC→前塚・桐ノ木古墳群→鳴塚古墳→鳳凰寺古墳群→辻堂古墳→(安部山・墓の谷・神林・下中島・向山・前山古墳群)→中切古墳→(阿弥陀寺山古墳)→猪田神社古墳→(吉田谷古墳群)→(石山古墳)→王塚古墳→天童山古墳群

 

f:id:OSAKA-TOM:20210430080233j:plain

鳴塚古墳

上図⑩。鳳凰寺の集落を抜け、農道を東方面に進むと、鳴塚古墳が田んぼの中にポツンと佇む。すごく狭いが、古墳下まで舗装道路が続き、古墳西側に小さな原っぱがある。Uターンできそうでもあるが、念のためバックで進入。

伊賀市鳳凰ぼおじ鳳凰寺古墳群のA支群でもある。6世紀前半、37mの前方後円墳。後円部径21m・高さ4.8m、前方部長さ16m・高さ2.85mとのこと。天皇のご譲位がある度に塚が鳴る」という伝説が由来で、小さいが割と著名。乳文鏡・玉類・須恵器等多くの副葬品が出土。他に類のないものもあり、文化の高さを示すという。墳丘前の石碑には、38代天智天皇の伊賀の采女うねめ「宅子やかこ」の墓とも、その子(=大友皇子)の墓とも伝わるという内容が書かれている。

天智天皇と宅子の子=大友皇子は、明治3年に39代弘文天皇追号されているが、壬申の乱(672年)で敗れ自決したとされる。大津に陵がある。

全景               石碑               南面前方部方面

f:id:OSAKA-TOM:20210430081249j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430081250j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430081309j:plain

*画像をクリックすると拡大します。

後円部南側に開口部がある。片袖型の横穴式石室で全長約9.2m、羨道長4.4m・最大幅1m・最大高1.4m、玄室長4.5m・最大幅1.6m・最大高1.9mらしい。開口部さえクリアすれば、這ってそこそこの所まで行けるかもしれないが・・・・・。

f:id:OSAKA-TOM:20210430081618j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430081613j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430081641j:plain

前方部から後円部     後円部墳頂から西望   南側見下ろし       後円部から前方部

f:id:OSAKA-TOM:20210430100506j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430100515j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430100534j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430100542j:plain


鳳凰寺古墳群

当古墳群については、殆ど資料が無く、大半「大和國古墳墓取調室」さんの記事を参考にさせていただいています。

大和國古墳墓取調室

鳳凰寺集落の東に分布する。76基あり、A~Kの11支群に分かれ、A支群は、唯一の前方後円墳である鳴塚古墳とのこと。

f:id:OSAKA-TOM:20210430082545j:plain

B支群はパスし、C支群→E支群→F支群と巡ったので、巡った順に記載します。

*B支群 北側尾根に10基。4号墳のみ方墳(消滅)で他は円墳。西端から3~5号墳が並び、尾根中央に6~9号墳が並ぶらしい。

C支群

鳴塚古墳から東の森に500m進むと、割と広い市道との三差路に出る。そこから更に400m程行き、道が北西にカーブしてすぐ左=西側に車1台置けるほどスペースがある。ここがC支群の進入路。そこから西に小道が続き、道沿いに分布するので、かなり分かり易く、30~40分で回れた。
進入路すぐ西の大きな墳丘がC18号墳。径20m程で、墳頂は大きく陥没。西側の17号墳は低い墳丘のみ。

進入路       18号墳裾東望    全景        墳頂の陥没     17号墳

f:id:OSAKA-TOM:20210430083055j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430083058j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430083116j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430083123j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430083141j:plain

西隣の16号墳は径18mで周溝が残る。小道の反対側に、右片袖式の横穴式石室が開口。元は羨道長5m・幅1.5m・高さ2m、玄室長4.6m・幅2.1m・高さ2.5mらしいが羨道は殆ど破壊されている。側壁はかなり持ち送っている。なお玄室床は水没していている。

16号墳(青矢印が周溝) 墳頂南東望     開口部                 大きさ比較

f:id:OSAKA-TOM:20210430083409j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430083418j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430083500j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430083504j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430083525j:plain

羨道        玄門部        玄室                  入室装備

f:id:OSAKA-TOM:20210430083749j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430083810j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430083837j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430083902j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430083920j:plain

         *上の写真右端は、私の装備=軍手・自撮り棒・ランタン・懐中電灯(指さし式)

更に、少し西にある15号墳は、墳頂がやや陥没。14号墳は南側に横穴式石室が開口し、大きな羨道天井石が目立つ。羨道部はかなり残っているが、玄門辺りから土砂で埋まっている。墳頂北側が陥没し、そこに15~20cmの穴が3ケ所開いており、ここから盛土が流入したのだろう。

15号墳西望     墳頂        14号墳西望     開口部       石室内

f:id:OSAKA-TOM:20210430084343j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430084350j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430084418j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430084444j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430084454j:plain

13号墳は墳頂が大きく陥没。13号墳から西はかなり下っており、墳丘らしきものが見える。

13号墳西望      墳頂        西側見下ろし    北西側        13号墳以西

f:id:OSAKA-TOM:20210430084810j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430084816j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430084847j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430084850j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430084918j:plain
E支群

C支群とは谷間を挟んで南側。市道北側の杉林内に2基並ぶ。6号墳は径10mで、墳頂は陥没し、石材が散乱。

6・5号墳      6号墳北西望     墳頂         A4ファイルと比較   散乱石材 

f:id:OSAKA-TOM:20210430085213j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430085220j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430085246j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430085251j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430085310j:plain

西側の5号墳は横穴式石室の天井石が露出しているが内部は埋没。少し下ると1号墳で径10m。石材が散乱。

5号墳北西望        5号墳から1号墳方面西望  1号墳         墳頂

f:id:OSAKA-TOM:20210430085542j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430085549j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430085615j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430085624j:plain

市道南側の『斜面を100m程登ると、林の中に3号墳、墳丘はなく石材が散乱。その50m上方の4号墳は径10mの円墳、石材が一部露出。少し南の道沿いに2号墳、径20mで墳頂に石材が散乱』とのことだが、墳丘らしいものが多すぎて、中級者にはよく分からなかった。

市道南側の林道   林道見返り      林道東側  

f:id:OSAKA-TOM:20210430085924j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430085932j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430090110j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430090121j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430090009j:plain
F支群

林道に入ってすぐ東脇に、低い墳丘らしきものがあり、石材が転がっているのが5号墳??。その南東すぐに明らかな墳丘=7号墳があり、天井石の隙間が少し開いているが、内部は土砂で埋まっている。8号墳は見過ごしてしまった。

F支群方面      林道東脇の石材   7号墳遠景      近景        天井石露出部分

f:id:OSAKA-TOM:20210430090632j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430090649j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430090710j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430090718j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430090742j:plain

林道を更に進み、北へ急カーブする内側辺りに9~12号墳があるとのこと。林道東側、やや奥の9号墳は分り易いが、10~12号墳らしき墳丘は??? 下の右端写真(=林道が北にカーブしきった所で振り返った写真)に写っているのが12号墳かも

7号天井石の隙間   隙間内部              9号墳遠景        12号墳?  

f:id:OSAKA-TOM:20210430091110j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430091116j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430091142j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430091154j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430091216j:plain

7号墳と林道を挟んだすぐ西側にF18号墳。F支群で唯一横穴式石室が開口し、玄室奥側が残存。元は全長6.4m、羨道長1.8m・幅1m、玄室長4.5m・幅1.5m・高さ1.5mとのこと。北西に市道側へ少し下った所に17号墳。石室石材が露出するが内部は埋没。

18号墳北西望    南側開口部      石室内            17号墳露出石材 

f:id:OSAKA-TOM:20210430091528j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430091532j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430091602j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430091624j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430091632j:plain

17号墳の北西、市道を西に越えたすぐに13号墳。西に隣接して12号墳の石材が露出。更に西に11号墳。墳丘がよく残り、石室入口の天井石が露出するが内部は埋没。

13号墳       12号墳       11号墳        開口部        内部

f:id:OSAKA-TOM:20210430091951j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430092002j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430092026j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430092034j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430092059j:plain

三差路の北脇に20号墳、墳頂が陥没し石材が散乱。

三差路北西望       20号墳         墳頂の陥没        鳴塚に戻る

f:id:OSAKA-TOM:20210430092301j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430092308j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430092332j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210430092348j:plain

 

時間の都合で、その他パスし辻堂古墳から最後の行程へ向かう。

辻堂古墳周辺 - OSAKA-TOM’s diary

前塚・桐ノ木古墳群

前塚・桐ノ木古墳群

2021年4月20日(火)。名阪国道=中瀬IC→前塚・桐ノ木古墳群→鳴塚古墳→鳳凰寺古墳群→辻堂古墳→(安部山・墓の谷・神林・下中島・向山・前山古墳群)→中切古墳→(阿弥陀寺山古墳)→(猪田神社古墳)→(吉田谷古墳群)→(石山古墳)→王塚古墳→天童山古墳群

*()内は、墳丘の明確な確認に至らなかった所です。

f:id:OSAKA-TOM:20210426062841j:plain

伊賀市寺田。上図⑨。南宮山(349m別名伊賀小富士=頂上が浅間社)の南に位置する岡山の南斜面。広範囲に分布する古墳群。A~H支群と3基の単独墳。上野市史には計39基とあるらしいが、なんかもっと多そう・・・・・。

―念のための注意事項です―

・記事・写真は2021年4月です。月・季節が違うと見え方や様子がかなり異なる場合が多いです。また年数がたつと更に・・です。

長袖・軍手必須(笹や小枝から防御。スマホ操作のため、軍手は人差し指先を切っておく)石室見学時は懐中電灯・大きなナイロン袋必携(狭い開口部の腹這い入室時使用)春~秋は虫除けスプレーも。

スマホ・自撮り棒(入室できない石室撮影用)。晴れた日は影で大体の方角が分かりますが、コンパスもあった方が良いでしょう。

・一般的に山中の古墳は、笹・草・蚊・蛇等の大敵が多い夏場は、避けるべきです。

【豆知識その11】

蚊:活動温度は20度位以上。夕方~夜間に活動する家蚊と違い、藪蚊は昼間が主な活動相時間帯。
蛇:冬眠は10度以下。逆に10度を超えると活動し出す。マムシは子を産む時期=8月~10月は攻撃的。

笹:成長し皮が剥がれていくのが竹、成長しても皮が残るのが笹。まー、大きいのが竹、小さいのが笹ぐらいの感覚で良いらしい。ともに地下茎により横方向に伸び、そこから何本も芽を出す。4月位に芽を出し、5~6月急成長する。クマザサとよぶ種類は、高さが1-2mになる大型の笹で、葉の長さが20cmを越え、幅は4-5cm。葉に隈取りがあるのが名前の由来。隈取りは若葉にはなく、葉が越冬するときに縁が枯れて隈取りになる。なお稲・竹などの中空になっている茎の事を稈(かん)と呼ぶらしい。

 

f:id:OSAKA-TOM:20210426112623j:plain

*支群の位置や各墳丘の位置(数字)はあくまでイメージです。特にA・F支群の位置は自信がありません。
案内図→行者堂→北向地蔵→A支群→27号墳→B支群→C支群→D支群→E支群→H支群→参道→39号墳(発見できず)→4号墳→(B支群を再び南下)→F支群→G支群と、巡った順に記載します。
私の場合2021年4月11日に2/3程回り、その続きを4月20日に回りましたが、大体の位置がわかっていても全行程10時間程掛かりました。この記事はそれらをまとめて掲載しています。
なお上図の太い点線は山道なんでしょうが、あまり笹が茂っていない4月でも殆ど見分けがつかないので、アテになりません。

A支群

毘沙門寺南側分岐(岡山遊園地の案内図)から東へ、大光寺へ向け参道(=山道)を登る。行者堂を過ぎ、北向地蔵から1~2分程、「右だいし道」の石道標から左(=北)の獣道へ向かう。

f:id:OSAKA-TOM:20210426065557j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426065623j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426065631j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426065649j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426065742j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426065750j:plain

 *画像をクリックすると拡大します。

暫くは割と判り易い山道を道なり。上に登る道から道なき道を水場近くまで行く。
ここで斜面を駆け上がる3匹の鹿を見ました。また「ケーン」という雉の鳴き声と、母衣打(ほろうち)と呼ばれる両翼を胴体に打ちつけて鳴らすブルブルという羽音を聞きました。

石道標分岐から1分程 更に2~3分後  更に1分程で北に登る道 4~5分で水場手前  水場

f:id:OSAKA-TOM:20210426070232j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426070243j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426070303j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426070313j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426070318j:plain

水場のやや手前から、真上=北東へ真っ直ぐ登って行く。尾根上の杉林に3・2号墳。3号墳は径16m、すぐ上の2号墳は径12m、いずれも墳丘が良く残るらしいが、中級者には微妙。急斜面を更に1~2分程登ると1号墳。径13mで、南向き石室の欠損穴が先ず見える。

2~3分で左に石材  1号墳見上げ     欠損穴                墳頂

f:id:OSAKA-TOM:20210426110449j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426110508j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426110526j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426110549j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426110611j:plain

左へ回ると、奧壁側=北側が開口。羨道幅約1m、玄室長さ4m弱・幅2m・高さ1mの左片袖式。

欠損穴内部               奥壁側の開口部           埋まっている羨道方面

f:id:OSAKA-TOM:20210426110846j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426072244j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426072318j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426072325j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426072343j:plain

27号墳

元の分岐に戻り、参道を東に行ってすぐの、もう一つの石道標から南西側に少し登ると27号墳。径16mらしいが詳細は不明。

分岐を東方面    進入路       石道標       南望        南東望

f:id:OSAKA-TOM:20210426073013j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426073018j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426073037j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426073046j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426073112j:plain

B支群

A支群への分岐から東へ100m程、参道左脇に5号墳(石材を抜いた跡だけ)がある。B支群はそこから南側真下にあるが木々が茂るので、5号墳少し手前の比較的降り易い所から、南東に斜面を下りきると、唯一の目印の溜池がある。この溜池が見つかればB支群以降のメドが立つ

5号墳石室跡     少し手前の境界標  降り口       9号墳東望     青〇が溜池

f:id:OSAKA-TOM:20210426073744j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426073750j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426073815j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426073826j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426073835j:plain

池のすぐ上=北に径14mの9号墳、池側に石室が開口、狭いが奥は見れる。その東横に11号墳があり、石材が露出。9号墳すぐ上に7号墳、石室内部は埋没している。その西側すぐに8号墳=径13mで入室可能な横穴式石室(全長6m、玄室は長さ約3m・幅1.9m・高さ1.4mとのこと)。更にその少し北東に6号墳があるが、石室は埋没。その北に10号墳、開口部は狭いが奥壁は見れる。

9号墳近景東望    ピンク〇は7号墳   開口部       石室内

f:id:OSAKA-TOM:20210426074240j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426074248j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426074308j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426074410j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426074434j:plain

11号墳北東望=ピンク〇9号墳 墳頂南西望  7号墳       開口部       石室内

f:id:OSAKA-TOM:20210426074645j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426074654j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426074722j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426074731j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426074754j:plain

8号墳        開口部       石室内

f:id:OSAKA-TOM:20210426075020j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426075030j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426075105j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426075122j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426075141j:plain

6号墳開口部     石室内       10号墳開口部    石室内

f:id:OSAKA-TOM:20210426075349j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426075411j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426075438j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426075446j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426075700j:plain

C支群

B支群11号墳から、池の北側を東へ横切り、細い水路を越え尾根の上に登る。

11号墳から     青線が水路     13号墳方面     13号墳頂西望    南望

f:id:OSAKA-TOM:20210426080111j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426080118j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426080147j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426080346j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426080254j:plain

13号墳はC支群の最北(上)部にあり径13mで、崩壊した石室が露出。14号墳は径12m。15号墳は径9mで石材が少し露出。

13号墳頂の石材   矢印から内部    14号墳方面     14号墳       15号墳

f:id:OSAKA-TOM:20210426080703j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426080710j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426080739j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426080748j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426080904j:plain

15号墳から南東に少し下った所に12号墳、径13mで、横穴式石室の玄室奧側が残存露出。現存長1.6m、幅1.8m、高さ1.8m程。

12号墳方面     12号墳東望     残存石室                高さ比較

f:id:OSAKA-TOM:20210426081131j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426081137j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426081156j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426081206j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426081230j:plain

12号墳から西、池の南端辺りの16号墳は径18m、墳丘がよく分かる。墳頂窪みが少し開口しているが、薄っすら側壁が見える程度。12号墳との間位に、径12m程の17号墳があり石材が散乱。18号墳は、更にその南に下った所に、少し離島の様な感じ。

16号墳       墳頂の窪み     開口部       17号墳(ピンク〇16号墳) 18号墳

f:id:OSAKA-TOM:20210426081627j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426081638j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426081646j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426081715j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426081725j:plain

D支群

C支群12号墳辺りから南東、谷へ降りる。19号墳は一番南端で径16m、163号線が窺える。20号墳は径10m、崩れかかった石室壁の一部が露出し、少し中が見える程度(現存長1.3m・幅1m・高さ1m程)。21号墳は径14mだが、崖っぷちに石材が露出。中が見える。現存長8mとのこと。

19号墳方面見上げ  20号墳開口部    内部        21号墳西望     石室内部

f:id:OSAKA-TOM:20210426082113j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426082117j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426082144j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426082211j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426082227j:plain

E支群

D支群21号墳から緩やかな斜面を北へ登る。22号墳は径14mで、横穴式石室の両側壁奥側と奥壁が完全に露出。幅1.5m・高さ1.2m程。墳裾に大きな石材が残る。23号墳も径14m程で墳頂がやや陥没。24号墳は径9mで、H支群側に、幅1m程の小型石室が開口し、奧側が見える。

22号墳北望     石室残存部     23号墳窪み西望   24号墳北東望    開口部

f:id:OSAKA-TOM:20210426082620j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426082622j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426082659j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426082723j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426082746j:plain

H支群

E支群23号墳辺りから東隣りの尾根に登ると37号墳。径16.5mで両袖式の横穴式石室が完存。全長8.3m、羨道幅1.8m・高さ1.2m、玄室長4.5m・幅2m・高さ2.3mとのこと。

37号墳北東望    開口部       石室内

f:id:OSAKA-TOM:20210426083054j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426083101j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426083359j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426083126j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426083141j:plain

南東隣の38号墳は径20mと大きいが埋葬施設は不詳。その南東下の36号墳も径20m。南側に開口するが、天井石が落ちかかっている。

38号墳北東望    36号墳南望     36号開口部     石室内

f:id:OSAKA-TOM:20210426083647j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426083709j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426083742j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426083751j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426083811j:plain

35号墳は径13mで、横穴式石室は全長6.7m、羨道幅1.25m・高さ1.15m、玄室長4.2m・幅1.9m・高さ2.3mの右片袖式とのことで、西に開口する。

35号墳開口部              石室内

f:id:OSAKA-TOM:20210426084119j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426084148j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426084211j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426084235j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426084245j:plain

34号墳は径7.5mで、石材が散乱。33号墳は径13.5mで。全長4.9m、玄室長3.6m・幅1.3m・高さ1.4m、無袖式の横穴式石室が西に開口。尾根南端の32号墳は径9.5mで石材が散乱。

34号墳北東望    33号墳開口部    A4ファイルとの比較  石室内       32号墳

f:id:OSAKA-TOM:20210426084607j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426084625j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426084704j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426084740j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426084805j:plain

なお、37号の北東に割と大きな墳丘があった。ここから、勘で尾根をひたすら北上したら、大光寺への参道に出た。

?号墳北東望     墳丘の穴                      H支群真北の参道脇石仏

f:id:OSAKA-TOM:20210426085039j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426085105j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426085114j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426085157j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426085206j:plain

39号墳・4号墳

参道脇の石仏から東に進み、参道が北西に急カーブする分岐からやや南東に下って行き、竹林手前まで行ったが、39号は断念。参道をB支群まで戻る途中、参道南脇に4号墳があった。

参道分岐      39号方面?               4号墳見上げ     東望

f:id:OSAKA-TOM:20210426085424j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426085434j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426085508j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426085545j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426085559j:plain

F支群・G支群

B支群を再び下り、9号墳辺りから笹・倒木・沢を越え、更に南西へ下る。本来なら、行者堂からG支群→F支群と行く方が判り易いはずなので、このルートはお勧めできない。案の定F支群では25号墳26号墳か確信が持てない。
更に西に行くとG支群。上方崖っぷちに開口した石室が見えた。どなたかが発見したG支群の号数の付されていない墳丘だ(地図上にはNで表示)。羨道も2m程残り、玄室はキレイに持ち送り、高さも2mを越えそうな感じ。

25号墳?北望    26号墳?      N号墳開口部              玄室

f:id:OSAKA-TOM:20210426090309j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426090337j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426090405j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426090428j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426090449j:plain

28号墳は径13mで墳頂は長方形に陥没している。29号墳はその南西下で、径12mで墳丘は判り易い。30号墳はその南東下で径10m、横穴式石室がわずかに開口。南西下の竹がはえている辺りの31号墳は径10mで石室跡が陥没。ここから行者堂方面に戻る際、獣除けの紐製の網が何カ所か進路を阻んでいるが、何とかクリアして戻れた。

28号墳頂      29号墳       30号墳見下ろし   北東見上げ     31号墳方面

f:id:OSAKA-TOM:20210426090744j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426090813j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426090848j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426091205j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210426090911j:plain

 

前塚・桐ノ木古墳群は、まさに古墳散策上級者の領域です。私が思う上級者とは、笹や地形に惑わされず墳丘を探し当て、開口部の狭い石室でも躊躇なく入室できる方です。

という意味では、私はまだまだ中級者。

ここから、有名な鳴塚古墳(鳳凰寺古墳群)へ向かいました。

鳳凰寺古墳群 - OSAKA-TOM’s diary