OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

辻堂古墳周辺

辻堂古墳周辺

2021年4月20日(火)。名阪国道=中瀬IC→前塚・桐ノ木古墳群→鳴塚古墳→鳳凰寺古墳群→辻堂古墳→(安部山・墓の谷・神林・下中島・向山・前山古墳群)→中切古墳→(阿弥陀寺山古墳)→猪田神社古墳→(吉田谷古墳群)→(石山古墳)→王塚古墳→(天童山古墳群)

*()内は明確に墳丘が確認しにくく、かなりストレスが溜まるため、初級者にはお勧めしません。

辻堂古墳

f:id:OSAKA-TOM:20210804090851j:plain上図⑫。横穴式石室の基底部が残るだけで、古墳と言うより「古墳跡」と言うべきかも。公園の様に保存されていて、駐車場もある。元は6世紀前半の、径23mの円墳か前方後円墳。両袖式の石室は、全長11.5m以上、羨道幅1.5m、玄室長5.5m・幅2m・高さ1.9m以上。敷石と排水溝をもち、玄室には中央奧寄りと右袖部に二基の組合せ式箱式石棺が納められていたとのこと。

 

外観         案内石碑     南望         北望        石棺

f:id:OSAKA-TOM:20210429124406j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429124411j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429124438j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429124449j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429124513j:plain

*画像をクリックすると拡大します。

(安部山・墓の谷・神林・下中島・向山・前山古墳群)

広い農免道路に沿っていくつかの群集墳が存在する。

f:id:OSAKA-TOM:20210429124800j:plain

安部山古墳群 ⑬-1

元は3基からなるが、なんとか確認できるのは竹林の中の1基。進入路すぐに、朽ちた作業場と廃車になった軽トラがあった。

墓の谷古墳群 ⑬-2

狭い農道を挟む林の4基のうち、3基が確認できるとのこと。北側林の1基は石材が残るのみで、南側に2基。農道側の1基は墳丘のみ。南側のもう1基は横穴式石室(現存長約6m、幅・高さとも1.8m程の右片袖式)が開口するらしいが、見つけられず。おそらく、農道側から林に入るのでなく、田んぼ沿いにグルっと林を南側に回り込むと、見つかったのだろう。ただ、田んぼのアチコチに獣感知警報機があり、前を通ると「ワンワン・ガーオ・ウーー(サイレン音)・・・」と、かなりうるさい。

神林古墳群 ⑬-3

元は16基とのことだが、確認できるのは道路北側沿いの1基のみ。道路南側の獣除けフェンスからずっと奥に多くありそうだ。フェンスには可動扉があり、中には入れるが、時間の都合でパス。

-4下中島古墳群 道路南側林内に8基あるらしいが、農道から見渡しても、全く見つかる気配がしなかったのでパス。
⑭-1野台古墳群は消滅している。

安部山古墳群              墓の谷古墳群(農道側) 神林古墳群     可動扉

f:id:OSAKA-TOM:20210429125531j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429125548j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429125623j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429125633j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429125705j:plain
向山古墳群 ⑭-2

20基程で、谷間奧の南支群と道路北側の北支群とに分かれる。南支群は、林道脇の中部電力送電塔を越え、奧へ2~3分程進んだ所辺り、谷川の両側に分布する。林道沿い西側に3基、東側に4基あるらしいが、どれも墳丘に見え、細かな位置地図でもないと、中級者には難しい。谷川を越える橋は途中の仮設橋と鉄板橋があったが東側には渡らず断念。北支群もパス。

南支群進入路   送電塔     林道西脇     東側への仮設橋  鉄板橋     林道東側

f:id:OSAKA-TOM:20210429130103j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429130114j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429130144j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429130232j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429130305j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429130351j:plain
前山古墳群 ⑭-3

農免道路沿いに西支群、さらに道路を200m程東に行くと、南に登る林道周辺が東支群。西支群は道路を挟み3基が近接するらしいが見分けがつかない。東支群では、林道を南に登るとすぐ、右(西)側崖上に横穴式石室の開口部が見える。林道東側の北向き斜面に円墳が1基等、周辺に墳丘らしきものが点在。なお、林道登り口に「高電圧 さわるな」と注記された頑丈な可動フェンスがある。電気は通ってなかったが、念のためご注意ください。

東支群進入路    可動フェンス     西側見上げ     開口部        石室内

f:id:OSAKA-TOM:20210429131022j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429131031j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429131105j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429131126j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429131159j:plain

中切古墳

f:id:OSAKA-TOM:20210429131419j:plain

伊賀市喰代ほおじろ。上図⑮。正光寺の北東、直線距離300mの段丘上。径15m程の円墳だが、墳丘はほぼ壊されている。横穴式石室の石材が露出。

北東望       東望         南東望       北西望       西望

f:id:OSAKA-TOM:20210429131623j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429131659j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429131704j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429131849j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429131733j:plain

(阿弥陀寺山古墳)

f:id:OSAKA-TOM:20210429132035j:plain

伊賀市中友生なかともの。上図⑯(実際にはもう少し北側?)。県道56号線北側、界外かいげ区公民館北側の二つの池の間の丘陵上にあるらしい。径12m程の円墳で、右片袖式の横穴式石室の一部が残り、玄室長3.3m・幅1.4m・高さ2.3m、床面は半分くらい埋まっているとのことだが、上図青点線から先は私有地で入れないし、そもそも墳丘など全く見えない。おそらく西光寺の少し北にある細い道を東に進むのだろうが、この日の時間対効果を考えればパスするしかなかった。

猪田神社古墳

f:id:OSAKA-TOM:20210429132703j:plain

伊賀市には、猪田神社が二つある。お互い近くだが、丘陵を隔てており、ともに『延喜式神名帳の猪田神社の論社延喜式の神社と同一かその後裔と推定される神社)。元は同じ丘陵を聖地としていたが、集落ごとで祭祀が分化したとのこと。北側の猪田神社本殿は国の重要文化財で、裏側の古墳とその東方の井戸が県指定。古墳は、埋蔵文化財包蔵地としては3基からなる猪田神社古墳として登録されており、そのうちの1号墳に相当する。径約24m・高さ約4mの円墳で、横穴式石室を有する(埋め戻されている)。古墳時代後期だが、当期の円墳としては大きめの規模である。井戸は1.2m四方の方形石組があり、「天真名井」と呼ばれている。この井戸と伊勢神宮外宮の忍穂井とが通じているとの伝説もあるそうだ。

阿弥陀寺山古墳方面 猪田神社参道    本殿方面       猪田神社古墳    南側の猪田神社

f:id:OSAKA-TOM:20210429133001j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429133009j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429133036j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429133056j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429133128j:plain

(吉田谷古墳群)

f:id:OSAKA-TOM:20210429133310j:plain

伊賀市才良ざいりょう吉田谷。以下平成25年三重県埋蔵文化財センターの発掘調査報告を抜粋します。
「比自岐ひじき川流域には、古墳時代前期=4世紀後葉頃に後述の石山古墳、6世紀前半に流域低地に、王塚古墳が築造される。5世紀後半から7世紀代には才良東部の丘陵内に多くの群集墳が築造されたらしい。才良吉田谷古墳群は才良地区東部に広がる低丘陵中にあり、約25基で構成される。農免農道設置に伴い、平成21~23年度にかけて発掘調査が実施された。1号墳の調査時に、すぐ近くで2・3号墳が見つかった。

1号墳は径約12mの円墳で、出土遺物が示す時期は6世紀末。周溝は墳丘を全周せず、北側部分のみ馬蹄形に巡ると想定される。周溝埋土から、須恵器甕片・土師器長頸壺の破片がまとまって出土。左片袖式の花崗岩製の石室は、玄室長3.25m・奥壁高2.45m・幅約1.6~1.8m(「胴張り」形態)。基底部に基底石=腰石を立て、その上に小さ目の石を小口積し持ち送っている。馬具・鉄刀・刀子・鉄鏃・須恵器の高坏や坏なども出土。

2号墳は径約10mの円墳で、出土遺物が示す時期は7世紀中葉。花崗岩製の両袖式で、羨道長1.45m、玄室長約2.75m・奥壁残存高1.5m・幅約1.5m~1.6m。右玄門付近と奥壁前に意図的に破砕された須恵器片があり、木棺用の鉄釘も見つかった。

3号墳は墳形・墳丘規模ともに不明。出土遺物が示す時期は6世紀後葉、2号墳丘一部を利用して石室だけが築かれていた。花崗岩製の左片袖式石室は、全長2.2m以上、羨道長約1.5m。(奥壁を含む玄室掘形基底面からして)玄室奥行き0.8m以上・最大幅約1.1m・高さは最もよく残っているところで1.3m程でかなり低い。崩壊が激しいが、右側壁の一部はよく残っていた。玄門部右側壁寄りに須恵器高坏2・平瓶1・土師器坏1・壺1が乱雑に置かれ、鉄刀がその上にあった。鉄刀は元々は左側壁に切先を上に向けた状態で立てかけられていたのが倒れたと考えられる。」*詳しく知りたい方は以下を参照ください。

才良吉田谷古墳群・才良山ノ谷古墳群ほか発掘調査報告 - 全国遺跡報告総覧

 

周辺山林の尾根筋には、未調査の墳丘が多数残存するらしいが、何せ山の中なのでよくわかりません。ただ、農免道路の途中に、西側に降りる林道があったので、行ってみましたがよく分かりませんでした。この道は西側の平坦部=田んぼまで続くようです。

降り口       林道                   両脇には墳丘らしきものが点在

f:id:OSAKA-TOM:20210429134444j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429134454j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429134524j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429134554j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429134621j:plain

(石山古墳)→王塚古墳

f:id:OSAKA-TOM:20210429134756j:plain

石山古墳

伊賀市才良。上図⑲。丘陵の一端を利用した前方後円墳で、古墳時代前期に伊賀の中心的存在となる。4世紀後葉頃と考えられるこの古墳は、多種多量の副葬品で知られ、当地のみならず、広く伊賀盆地南部の王墓と考えられている。

葺石の多さが石山の由来らしい。S23-26年に学術発掘調査された。全長120m、後円部径70m・高さ9mの2段築成、前方部幅40m・高さ5mの3段築成(平野部に臨む東南側下に整形された1段含む)。前方部は南西を向く。円筒埴輪列は3段だが周回でなく、さらに後円部墳頂の内側に長方形の円筒埴輪列があり、さらにその内側に、家・盾・蓋・靫等の形象埴輪が置かれていたとのこと。くびれ部の墳丘外側にも長方形の円筒埴輪列があり、多数の家型埴輪が置かれていたとのこと。

後円部の埋葬施設は、同じ墓坑内に3つの粘土槨があり、各々に木棺を納めていた。中央槨は長さ8.1mの割竹形木棺で、盗掘されていたが、小札革綴冑・農工具・鉄鏃・石製模造品巴形銅器や幾枚もの盾が検出された。東槨は長さ7.7mの割竹形木棺で、棺内外から、巴形銅器を付けた盾、銅鏃・鉄鏃を収めた靫、玉類・石製模造品・内行花文鏡・櫛・鉄鏃・剣・長方板革綴短甲・草摺・弓・多数の石製模造品・臼玉・農工具類が出土。

西槨は長さ3.7mの箱式木棺で、内外に鍬形石13点・車輪石44点・石釧13点の他、琴柱形石製品・臼玉・紡錘車形石製品・勾玉・素環頭大刀と剣各1本・槍2本を検出。中央槨と東槨では石製腕飾類は1点も見られず、大量の武器・武具類が見つかったのに対し、西槨は武器類は僅かで、大量の石製腕飾類があった。つまり中央と東の被葬者は政治・軍事的役割をもつ首長で、西側の被葬者は呪術・宗教的役割をもつ首長と推定されるらしい。

王塚古墳

伊賀市比自岐。上図⑳。石山古墳の数代後=6世紀前半、比自岐川流域の低地に造られた前方後円墳。全長48mの前方後円墳。石山古墳の南東近くの水田の中にポツンとあるが、首長墓と推定されるとのこと。

石山古墳方面    王塚古墳北東望    南西望       東望        南面北東望

f:id:OSAKA-TOM:20210429140905j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429140913j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429140942j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429140954j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429141020j:plain

(天童山古墳群)

f:id:OSAKA-TOM:20210429141153j:plain

伊賀市上郡かみごおり。上図㉑。無量寿福寺の西側。横穴式石室を主体とした径10~15mの円墳十数基があったらしい。県道建設で2003年度に調査されたが、今は石室は壊され、石室跡・墳丘等に石仏が祀られている。進入路から北へ時計回りに行くと墓地。進入路から南へ反時計回りに行くと寺の南側に出る。30体の石仏が確認できたが、古墳巡りではなく石仏三十カ所巡りである。

県道686号から 駐車場所 進入路    石仏           墓地          無量寿福寺 

f:id:OSAKA-TOM:20210429141631j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429141649j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429141718j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429141727j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429141804j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429141812j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429141836j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20210429141839j:plain

 

前塚・桐ノ木古墳群~天童山古墳群まで、かなり足早に巡ったので、パスした所も多い。これではなかなか上級者にはなれないだろう。