OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

中ノ瀬古墳群周辺

中ノ瀬古墳群周辺

2021年4月11日(日)。名阪国道=壬生野IC→(東山古墳跡)→御旅所古墳→宮山古墳群→波敷野古墳群→御墓山古墳→勘定塚寺音寺古墳中ノ瀬古墳群

寺音寺古墳

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上図⑦、伊賀市かしき村。元は全長約100mの5世紀中頃の前方後円墳とのこと。現在前方部の大半は削られ、長さ60m・径40mの後円部が田んぼの真ん中にポツンと佇む。周囲には20mの周濠が巡っていたらしい。

隣接する農道は狭く、車を置く場所は付近にもありません。車が来ないことを確かめて、碑の前に車を止め、パパッと写真を撮るのが精一杯です。

*前回の②御旅所古墳~⑥勘定塚はコチラ宮山古墳群 - OSAKA-TOM’s diary

遠景西望      〇印の碑      近景南望      現存墳頂南望    南東望

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画像をクリックすると拡大されます。

中ノ瀬古墳群

上図⑧。伊賀市真泥みどろ

国道163号線から服部川を挟んだ南対岸に10軒程の集落がある。集落の南西側急斜面に獣除けの頑丈な防護フェンスがあり、その向こう側に5基の円墳がある。私は集落西奥の防護フェンスの可動扉部分から、フェンス沿いに南東側に回り込み、そこから1→2→5→4→3号墳と巡りましたが、後から考えると、集落入口近くの可動扉部分から3→4→5→1→2号墳と回る方が余程判り易かったようです。
なので、その順に紹介します。   *下図の〇数字は「号数」

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*古墳の位置は計測に基づくものではなく、あくまでイメージです。

集落一番手前のお宅を左へ。  防護フェンス沿いに開閉可能フェンスへ  開扉防止フックは外せる。

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中ノ瀬3号墳

径15m程、高さ4m程の円墳とのことで、見た目に墳丘傾斜が急。横穴式石室が南東に開口。

開閉扉から右へ登る    開口部         墳丘北東望       開口部反対側

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開口部は幅80cm、高さ65cm程で入室可能。玄室は全長6.1m、玄室長4.9m・幅1.8m・高さ2.1mの両袖式とのこと。

開口部       玄室        開口部見返り    貧弱な左袖部    右袖部

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中ノ瀬4号墳・5号墳

3号墳の15m程上、竹林の中の4号墳は径12mの円墳とのこと。墳丘傾斜はなだらかで、半分削られ石材が露出している。
4号墳の更に上にある5号墳は径13mの円墳で、墳丘に石材が見える。

4号墳見上げ               横から      5号墳       4号墳から1号墳方面

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中ノ瀬1号墳

4号墳辺りから西~北西方面に1号墳が窺える(上の右端の写真。小さな赤〇が開口部)。径20mの円墳で、横穴式石室が完存。全長7.5m、玄室長4.5m・幅2.3m・高さ2.3mの両袖式とのことだが、開口部が狭く、入室は無理。

開口部       羨道から玄室方面  右袖部       左袖部       墳丘

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中ノ瀬2号墳

1号墳の20m程上、径15mの円墳、墳頂が陥没している。

なお、1号墳から集落側はかなり急で、西側の可動フェンスに降りる急斜面には数多くの石材が散乱している。

2号墳右赤〇(黄〇1号墳) 墳頂の陥没    1号墳見上げ    集落側       散乱石材

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①御旅所古墳から⑧中ノ瀬古墳群を見終わるのに約4時間。続いて伊賀市寺田、岡山の南斜面に点在する前塚・桐ノ木古墳群へ回りましたが、詳しくは次回のブログで紹介します。

前塚・桐ノ木古墳群 - OSAKA-TOM’s diary (hatenablog.com)

宮山古墳群周辺

宮山古墳群周辺

2021年4月11日(日)。名阪国道=壬生野IC→(東山古墳跡)→御旅所古墳宮山古墳群→波敷野古墳群→御墓山古墳勘定塚 →寺音寺古墳・中ノ瀬古墳群(別ページに掲載)

伊賀市北部をグルっと巡るので、今回は車で。巡った順に記載していきます。

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東山古墳跡

上図①。伊賀市円徳院。壬生IC~約1.2km、県道49号沿いに登り口がある。山の中で跡だけなのでパスしました。

円徳院東山の丘陵先端で、比高差約25m。中世に城館一部として利用され墳形は不詳。長径21m・短径17mの楕円形だったとのこと。墳丘に葺石や埴輪は無く、1986年の発掘調査で、長さ6,9m・幅2.3mの墓壙に割竹形木棺が納められていた。棺底に朱が敷かれ、四獣鏡1・銅鏃3・鉄鏃1・鉄剣1・小型高杯・小型器台1・砥石1が棺内から出土。副葬品の土器の形状や調整の仕方から、3世紀末~4世紀初めと推定され、県下最古級だったらしい。

御旅所古墳

上図②。伊賀市馬場。6世紀後半。陽夫多やぶた神社参道南側。石舞台のようにむき出しの両袖式の横穴式石室。羨道長4.8m、玄室長5m・幅2.6m・高さ2.2m。

遠景南望      近景南望      案内        南西望   〇印穴から石室内羨道方面

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画像をクリックすると拡大されます。

宮山古墳群

上図③。伊賀市馬場。陽夫多神社の裏山。 

陽夫多神社参道   境内北望      〇印の処の案内         神社拝殿へ=古墳群登り口

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拝殿見上げ=進入路    古墳群へ

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宮山古墳群2号墳

少し登ると、2号墳と3号墳の分岐に道標があり、左へ行くと2号墳。反対側に回り込むと、2号墳の石室開口部がある。

分岐道標         2号墳東面        開口部         案内

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開口部は幅50cm・高さ30㎝程、床まで180cm位斜めに下る。無理して入らず、自撮り棒で外撮り。

石室全景        奥に向かって左側壁    右側壁         天井石 

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宮山古墳群1号墳

分岐に戻って1号墳へ。墳丘は明確。3号城郭跡の空堀跡は写真では分かりにくいが、U字型に抉れている。

北西望       案内        北東望       3号城跡案内    空堀

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宮山古墳群3号墳

3号墳方面      道標        開口部       案内        開口部

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羨道含め完存。開口部は高さ65cm程あり、入室し易い。玄室も高さ180cm以上ある。

羨道部                      玄門部

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石室全景   側壁     奥壁上部   開口部方面   両袖部          楣(まぐさ)石

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波敷野古墳群

伊賀市波敷野はじきの 陽夫多神社~5.5km程。7C前半の群集墳らしいが、目的地直前で断念。

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確かに車ですぐ近くまで行けます。分岐から880m登った処に大きな溜池があり、ここを過ぎる辺りから、車幅ギリギリ。4月でも道の両側から笹が張り出し、車の両サイドをガサガサこする音が激しく、サイドミラーを畳んで進みました。「道を間違っていて、この先行き止まりでは?」という不安を抱えながら更に700m程進んだ処で、道が直角に右折しており、その先が割と広くなっています。車から降り確認しましたが半信半疑のせいもあり、先の道がハッキリ確認できず、ここで諦めてUターン。後で思えば、ここに車を止めてもっと探せばよかったのかも・・・。ただし、この道が正解ならですが・・・。なお、スリップしやすい雨の日や、新車ならお勧めできません。また、分岐地点に車を置き、歩くと約2km、標高差110mの登りです。

直前でリタイアしたのは残念ですが、大きな溜池に戻る途中、目の前で母?子3羽の雉キジが道を歩いて横切りました。これは日本書紀にある瑞祥?(または祥瑞=吉兆のことで飛鳥・奈良時代などに年号を改めるキッカケになったりした)。確かにこの後は順調でした・・・。

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常々参考にさせていただいているブログ「大和國古墳墓取調室」の当古墳群が掲載されている「伊賀市(旧阿山町)」を参考でリンクします。

大和國古墳墓取調室

御墓山古墳

下図⑤。伊賀市佐那具町。5世紀前半、三重県最大の前方後円墳

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墳長約180~190m、2段築成の前方後円墳。後円部径約100m、前方部幅70~80m(進入路の案内と墳裾の石碑で計測値が微妙に違う)。木々に覆われ墳形は不明瞭だが墳丘を歩くと前方後円墳と分かる。

進入路          進入路左側の案内    登り口の碑       案内石碑

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丘陵先端を切断して築造しているとのこと。前方部が北東を向く。墳丘は2段築成だが、前方部裾に葺石を伴う地山があり、前方部墳頂から見ると3段のように見える。後円部北西側に造出が設けらている。墳丘表面は葺石で覆われ、円筒・形象・家形埴輪などを検出したらしい。後円部南側に周濠があった模様(前方部周囲はない)。後円部南東側、周濠外側に接し陪塚らしき10mの墳丘2基がある模様(石碑案内では円墳とある)。後円部墳頂の径30m程の平坦面に窪みがあり、主体部の盗掘壙と見られるが詳細不詳。

東側くびれ部方面  東側くびれ部から後円部 残存葺石    後円部北東望 

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後円部平坦部  中央窪み(大きさ比較タバコ) 後円部から前方部  前方部から後円部  前方部

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柘植つげ川流域で東山古墳・山神寄建やまがみよつたて神社古墳に次ぐ首長墓だが、規模が格段に大きい。被葬者は、伊賀地域を代表する首長と思われ、地元では第8代孝元天皇皇子の大彦命おおびこのみこと=日本書紀にある第10代崇神天皇期の四道将軍の一人)の墓と伝わる(注)。なお、御墓山古墳以降の首長墓は柘植川対岸に場所を移し、規模はかなり縮小する。1921年(T10)に国の史跡に指定、1970年(S45)には丘陵切断部・堀の一部・造出・陪塚の範囲が追加指定されたとのこと。

(注)因みに、古事記では孝元天皇の宮も陵も奈良県橿原市。また日本書紀崇神10年9月「四道将軍大彦命が和珥坂(現奈良県天理市和爾町)で不思議な歌を詠う少女に出会い、その歌を天皇に報告する。倭迹迹日百襲媛(やまとととひももそひめ=あの著名な箸墓古墳の被葬者説も)は、これを武埴安彦とその妻吾田媛による謀反前兆であると告げた。果たして謀反が起こったが、すぐ鎮圧された。」ともあり、伊賀との関係は無いように思うが・・・・・。

勘定塚古墳

下図⑥。伊賀市外山。7世紀前半。古墳と言うより残存石室。

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外山集落の丘陵裾の民家横。墳丘は大半流失し、横穴式石室の巨大な天井石とそれを支える側壁が残存。残存長約4.5m・幅約3.5m・高さ約2m。1964年(S39)に市の史跡指定。

勘定塚方面   左へ(右に上がると塚の裏)     階段を上り斜め右へ(夏場は草深いかも?)

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正面北望      奥壁と祠      西側壁       東側壁       天井石

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東側壁外側     西側壁外側    北東に残る墳丘の一部 裏側       裏側から南東見下ろし

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続いて、寺音寺古墳~中ノ瀬古墳群へ向かいました。

中ノ瀬古墳群周辺 - OSAKA-TOM’s diary

鳥谷口古墳周辺

鳥谷口古墳周辺

2021年3月26日(金) 奈良県葛城市 當麻寺周辺の古墳散策

近鉄南大阪線当麻寺駅首子古墳群新宮原古墳→當麻山口神社・傘堂→鳥谷口古墳→ 當麻寺竹内古墳群→(旧)竹内街道磐城駅

首子古墳群

葛城市染野そめの、当麻寺駅より徒歩約15分。古墳時代後期(6世紀初頭~7世紀中頃)の古墳群。古くから首子七塚として知られていた。帆立貝式前方後円墳1基、円墳6基、方墳3基で構成されていたが、1・4・5・8号墳のみ現存。1981(S56)年に県史跡に指定された。中心的古墳は「5号墳(=首子塚)」で、説明板も5号墳のところにある。いずれも墳丘には登れるが、知らない方には崩れかけた小山にしか見えないだろう。いずれもこの地の当麻氏関連の墳墓と思われる。

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印辺りは奈良県景観資産の一ヶ所になっている。

奈良県景観資産―二上山を眺望できる首子古墳群周辺―/奈良県公式ホームページ

*当麻氏=日本の古代氏族。日本書紀11代垂仁天皇条に、大和国の当麻邑(たいまむら)に住んでいた当麻蹴速(けはや)の記事がある。野見宿禰との捔力(すまひ=相撲)で敗死したという。葛城市當麻には蹴速塚がある。その他、31代用明天皇の第三皇子で当麻皇子も著名。麻呂子皇子ともいう。征新羅大将軍であった異母弟の来目皇子薨去後、翌推古天皇11年(603年)4月に征新羅将軍となり、難波から船出したが、播磨国(明石)で妻が薨去したため、引き返したという。

首子8号墳

径12mの円墳で埋葬施設は横穴式石室(全長7.4m、玄室長3.7m・幅1.4m、羨道幅1m)。殆ど破壊され石室の1段目の一部及び凝灰岩製組合式家型石棺の底石のみが残っていて、須恵器・土師器・金環・鉄鏃・飾鋲等が出土とのこと。今は墳丘も半壊している。

上図★から(左8号墳 右5号墳) 遠景南西望      墳丘南西望       現在の墳頂

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画像をクリックすると拡大されます。

首子5号墳

8号墳から道を挟んで北東側。帆立貝式前方後円墳で「首子塚」と呼ばれる。全長25m・後円部径20m前後。円筒埴輪列検出。古墳群中では一番大きく、盟主的存在。埋葬施設は未確認だが木棺直葬と思われ、6世紀前半と考えられるらしい。

遠景北望         登り口南東望       案内         墳頂碑南西望(○が8号墳) 

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首子4号墳

5号墳の北西に隣接。墳丘が一部残る程度。1辺27m・高さ4~5mの方墳らしい。埋葬施設は破壊されていたが、片袖式横穴式石室と判明。玄室長4.4m・幅2.5m、羨道部長2m以上で家型組合式石棺の底石の一部が出土し、副葬品は須恵器のみ。6世紀後半と思われるとのこと。

北望           南東望-黄○は案内                 東望

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首子1号墳(別名 櫟山くぬぎやま古墳)

現状径10m・高さ3m程の円墳。(復元径18m・高さ約5m)。調査当時埋葬施設はよく残っており、先行する第1主体は家型石棺直葬で、1953年土取り工事中にこの石棺から人骨3体が発見されたとのこと。第2主体は、1978年再調査時発見され、破壊された両袖式横穴式石室(玄室長3m・幅1.5m、羨道長3m・幅1m程)と判明。副葬品として金環・棗玉・素玉・須恵器が出土。凝灰岩の破片が玄室内から出土しており、凝灰岩製組合式石棺の可能性が強いとのこと。第1主体が6世紀中頃、第2主体が6世紀後半らしい。

遠景北西望        近景南望        南西望          墳頂

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・首子2号墳(削平され水田) 一辺15mの方墳で、埋葬施設は破壊されていたが、木棺直葬の可能性が高い。円筒埴輪片・家型埴輪片・須恵器が出土し、須恵器から6世紀中頃と思われるらしい。

・首子3号墳(削平) 墳形不明。鉄釘が出土し、組合式木棺直葬らしい。鉄製武器(鉄刀等)が検出された。6世紀中頃とのこと。
・首子6号墳(削平され畑) 東西23m・南北11m・高さ2mの古墳の可能性があるが古墳痕跡未検出。。
・首子7号墳=只塚廃寺跡 当初、辺17mの方墳とされていたが、金堂と考えられる白鳳時代の建物基壇検出。多種類の道具瓦も出土し、後年調査で寺院跡と判明。
・首子9号墳 古墳時代の須恵器片が検出されたが、古墳かどうかは不明らしい。
・首子10号墳(削平され水田) 調査で径13mの円墳と判明。須恵器砕片が出土し6世紀中頃とのこと。

 

首子古墳群から西進。下図右の点線○が新宮原古墳。左の青●が鳥谷口古墳

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新宮原古墳

当麻寺奥院駐車場の道を挟んだ北側。また當麻山口神社の石鳥居の北側でもある。山車倉庫で墳丘が削られている。墳形・規模は不明で、6世紀後半と見られるらしい。須恵器と石棺の一部を検出。近所の民家に凝灰岩製組合式石棺の一部が保存されているらしいとのこと。

古墳周辺         石鳥居         北西望          南東望

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當麻山口神社・傘堂

参道        拝殿        縁起        傘堂        案内  

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鳥谷口古墳

葛城市染野そめの。7世紀後半頃の方墳。奈良県指定史跡。大津皇子(40代天武天皇皇子)墓に比定する説あり。

二上山から東に延びる尾根の先端部付近。1983年(S58)溜池=大池の改修工事の際に発見された。方墳で、一辺約7.6m。墳丘表面で2段の貼石が認められたほか、墳丘南面以外の三方に掘割が巡っていたらしい。埋葬施設は横口式石槨で、石槨の主軸は東西方向で、南方向に開口。底石の上に板石を立て、その上に天井石をのせる。石槨は長さ160cm・幅60cm・高さ70cm、開口部は幅40cm・高さ50cm。二上山産の凝灰岩製で、底石および北側石には家形石棺蓋石の未成品が使用されているとのこと。石槨開口部側には、羨道状施設の存在も推定される。盗掘で石槨内の副葬品は認めらず、石槨前面付近で須恵器・土師器を検出。

          遠景北望           近景           案内(染野=しの)

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大津皇子は40代天武天皇の第三皇子。母は、(天武皇后)41代持統天皇の実姉大田皇女。朱鳥元年(686)9月天武崩御後、10月に謀反の疑い有りとの密告で自害した。一説には、持統実子の草壁皇子擁護のため、持統・藤原不比等の陰謀とも。大津皇子の墓について『万葉集』には姉の大来皇女(初代伊勢神宮斎王)大津皇子のために詠んだ歌として、
大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る(改葬)時に、大来皇女の哀傷して作らす歌ー
「うつそみの人なる我あれや明日よりは 二上山を弟いろせと我が見む」とある。
初葬地の所伝はないが、改葬地に関し『大和志』では「在二上山二上神社東」とあり、宮内庁では二上山雄岳山頂に治定。しかし当時、古墳が山頂に築造されることはなく、付近で当該時期の古墳はここだけなので、二上山山麓の本古墳を真墓とする説がある。さらに、「染野」は貴人の土地を意味する「標野」に由来すると考えられ、本古墳石槨が内法長150cmと小さいのは改葬墓故というのが根拠。

          保存石槨           開口部          発掘当時の石槨

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石槨内北側石       石槨内西側隅       開口部右側       見下ろし

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當麻寺・本堂下古墳

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當麻寺本堂の下に埋まっている。本堂はS32年(1957)から35年間もかけて解体修理が行われ、その際発見されたらしい。基壇中央部にほぼ南北方向に検出され、木棺の周辺や上部を塊石群で覆った礫槨。礫槨外寸法は、長さ2.4m・幅90cm、木棺は、長さ1.9m・幅58cm。鉄剣二振り、鉄斧2丁などが出土。5世紀中期頃か?。

本堂南望                      北面

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竹内古墳群

34基からなる古墳群。多くは径10m程度の円墳で、5世紀末から6世紀後半にかけて造り続けられた。県指定史跡。殆ど私有地で見学不可だが、うち4基が史跡の丘に保存されている。

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竹内22号墳

葛城市竹内。『ほんみち竹之内廟所』敷地内。見学を申し出たが許可されなかった。

全長42mの前方後円墳。後円部径24m・高さ5.5m、前方部幅31m・高さ4.5m。周囲に幅5.5mの周濠があったとのこと。前方部に横穴式石室が開口。後円部にも横穴式石室があったが、石材が抜取られた跡だけ。竹内古墳群で唯一石室が開口。22号墳のすぐ北側に34号墳=「茶山古墳」。S21年に調査され、疑灰岩を板石状に加工して組み合わせた家形石棺が直葬されていたとのこと。石棺内には、3体分の人骨と鉄刀・鉄鏃等があり、棺外から須恵器も出土。また『ほんみち廟所』の西側に墳丘全体が墓地になっている竹内15号墳がある。さらに西へ行くと「史跡の丘」に1~4号墳が保存されている。 

ほんみち竹之内廟東側   22号墳?        廟所南側         15号墳?

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竹内1~4号墳

史跡の丘遠景       登り口         標識       案内(南ゲートの案内は判読不能      

                           なので4号墳脇の案内を掲載)

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1号墳方面        1号墳頂から南望     南西側見下ろし      1号墳から2号墳北西望

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2号墳から1号墳南東望   2号墳西側見下ろし    2号墳頂から北東望     2号墳北西面

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3・4号墳方面       3号墳南西面       4号墳

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無号古墳北西望      東望見上げ       無号古墳墳裾から南望  登り口付近から166号東望

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竹内街道

大阪府堺市大小路から16代仁徳・15代応神・31代用明・33代推古・36代孝徳天皇陵等の付近を東へ抜け、竹内峠を越え奈良県葛城市の長尾神社付近迄の約26 km で日本最古の街道。聖徳太子が、小野妹子ら遣隋使が帰国時(608年)に同行した隋使が通るため整備したとの説もある。大部分は推古天皇時代の官道と重なっており、奈良盆地南部を東西に横切る横大路に繋がっている。難波から上陸した大陸の先進文化や仏教が、竹内街道を通って大和へ伝えられたと思われる。中世には伊勢街道の一部として、現在は国道166号として利用されている。

竹内街道方面標識    竹内街道東進       竹内街道一里塚      長尾神社横の街道案内

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西陵古墳周辺

西陵古墳周辺

2021年3月15日(月)。

(JR阪和線)和泉橋本駅→500m地蔵堂丸山古墳→1.2km(南海本線)二色浜駅====

==淡輪駅→宇度墓うどはか古墳西小山古墳跡西陵さいりょう古墳→淡輪駅

地蔵堂丸山古墳

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貝塚市地蔵堂。4世紀後半の前方後円墳で国の史跡。周囲は住宅で囲まれている。2000-2002年度に墳丘周囲部で発掘調査が実施されたらしい。前方部を西に向け、3段築成と推定されるとのことだが、現状では段築は殆ど分からない。葺石・円筒埴輪列(朝顔形埴輪含む)、形象埴輪(家形・靱形・盾形・冠帽形)を検出。冠帽形埴輪の出土は全国的に珍しいとのこと。周濠はなく、埋葬施設・副葬品は不詳。和泉地方では摩湯山古墳(岸和田市)に次ぐ時期に位置づけられる。100m北側の南小学校で、古墳時代中期5世紀後半の埋没古墳6基(円墳4基・方墳2基=地蔵堂1-6号墳)が発見され、地蔵堂古墳群を形成する。当地で4世紀後半~5世紀代の首長層の存在が考えられる。

進入口          案内          後円部墳頂南西望     前方部西望

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 *画像をクリックすると拡大されます。
後円部墳頂から南望    東望          北望           前方部から後円部東望

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地蔵堂丸山古墳から南海本線の二色浜にしきのはま駅→淡輪たんのわ駅へ移動。

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地蔵堂丸山古墳は基本的に西側には抜けられませんが、私は前方部南西角からフェンスを廻り込んで抜けました(お薦めはできません)。

宇度墓古墳

泉南郡岬町。南海本線淡輪駅の南側に隣接。淡輪ニサンザイ古墳とも呼ばれ、宮内庁により11代垂仁天皇の皇子(=12代景行天皇の同母兄)の五十瓊敷入彦命いにしきいりひこのみこと墓に治定されている。古墳時代中期5世紀中頃~後半=西暦440~460年頃の前方後円墳。1kmほど西にある西陵古墳、西小山古墳などとともに、淡輪古墳群を構成する。現在は宮内庁の管理下にあるが、2014年度(H26)に発掘調査が実施された。前方部を西南西方に向ける。

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淡輪駅から南望   道標        西角南東望     淡輪駅と周回道北側 北側造出

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墳丘長約170m(築造時約180mとも)。後円部3段築成・径約110m・高さ約13m。前方部3段築成・幅約120m・高さ約12m。南造出2段築成・東西約24m×南北約21m。北造出は上面は削平されているが、東西約20m×南北約11m。墳丘周囲には濠が巡らされており、この濠の波で墳丘裾部が徐々に削られているらしい。墳丘は、1段目・2段目に比べて3段目が著しく高いという特徴がある。1段目途中までは地山の削出で、その上は盛土で築造されている。地山の削出は造出でも認められるので、造出も墳丘本体と同時期のものとされる。この南・北造出では埋葬施設または副葬品埋納施設の存在が推定されており、特に南造出では壇状施設(通常は前方部墳頂で見られる)として機能した可能性が指摘されているとのこと。墳丘表面には葺石が葺かれ、須恵質の円筒埴輪列、家・盾・蓋・鳥などの形象埴輪が見つかっている。埴輪の一部には淡輪独特の技法が見られ、「淡輪系埴輪」と称される。埋葬施設は明らかでない。墳丘周囲の濠は2重に巡っていたが、現在は1重目のみ残存する。

*淡輪系埴輪=埴輪を作る際に、蔓などを輪っか状に敷いて作ったため、底部下端にその痕跡の段がある。 横から見ると湯飲みの糸切りみたいな感じ。

案内         拝所       制札        前方部南角     南面北東望

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出土埴輪から5世紀中期~後半頃(440-460年)築造と推定される。5世紀中期~後半に限って築造された淡輪の大型古墳3基(西陵・西小山・宇度墓)のうちでは、西陵古墳に次ぐ西小山古墳と同時期の築造で、本古墳で当地の大型古墳築造は終る。五十瓊敷入彦命の墓について『記紀』に記載はないが、『延喜式』諸陵寮では和泉国日根郡に所在する「宇度墓」とあり、兆域は東西3町・南北3町、守戸3烟で遠墓とある。しかし中世に荒廃して所在が失われた。M7年(1874)に『泉州志』の記載に基づき、一旦玉田山に定められたが、M13年(1880)に現古墳に改められている(明確な根拠はないらしい)。なお『紀』雄略9年条に「田身輪邑(=たむわのむら淡輪村)に葬られた」とある5世紀後半の将軍=紀小弓きのおゆみに比定する説がある。『和泉志』でも紀小弓の墓とする説があるが、『泉州志』では西陵古墳・宇度墓古墳どちらか一方が紀小弓の墓、もう一方が紀船守ふなもりの墓とする説を挙げる。ただし、紀船守は8世紀の人物(731-792)なので、整合性が無い。

  南側造出北東望・北西望       南面南西望        後円部東面・北東面

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後円部外周の東側には陪塚7基があり、5基が現存し宮内庁の管理下にある。今回は4基しか確認しなかった。

南東側陪塚 (住宅の裏側にあり、住宅と住宅の間の小道を入る)  東側陪塚

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線路沿い陪塚2基    線路南沿い陪塚北望 西望       線路北沿い陪塚北望  東望

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実際には宇度墓古墳の北・西側を半周し、南角から西小山古墳跡・西陵古墳へ向かった。復路で宇度墓古墳の南・東側と陪塚を回った。

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西陵古墳と西小山古墳の真ん中あたりに道の駅、また752号線沿いで西陵古墳後円部の南側に中華料理店がありますので、念のため。

西小山古墳跡

泉南郡岬町淡輪。5世紀後半の円墳(削平滅失)。淡輪古墳群の1つ。径40m。開墾前のS5年(1930)京大末永雅雄が発掘調査を実施。墳頂部から長さ3.3m・幅0.7mの竪穴石室を検出。石室南北両側壁から、鉄刀23点、鋒2点、鉄鏃107点、石室東端から三角板鋲留短甲、金銅装小札鋲留眉庇付冑1点、石室西端から鋲留式頸甲1点、肩甲1点、挂甲小札約800枚が出土したとのこと。金銅装眉庇付冑の他の出土例は、仁徳陵前方部、大阪府天平塚古墳、奈良県五条猫塚古墳、三重県佐久米古墳、福岡県月岡古墳、千葉県祇園山古墳など。出土遺物から5世紀後半と考えられる。1981年大阪府教育委員会が発掘調査時、竪穴式石室は削平されていたが、葺石と埴輪列は良く残っていた。墳丘の本来の直径は50mと推定され、高さは7mの2段築成で、北西に造出しが確認された。周囲の水田の畦などから周濠があったと推定される。埴輪は円筒埴輪、朝顔形埴輪、蓋形埴輪があり、硬質の須恵質のものが15%を占める。葺石は付近で産出される和泉砂岩だったとのこと。

なお、案内や碑には「西小山陵」古墳とある。進入口にフェンスはあるが施錠はされていなかった。

進入口       案内        赤○が西陵古墳    碑        北東望

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西陵古墳

登り口への分岐   登り口方面

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西二山在にしにさんざい古墳とも。泉南郡岬町淡輪。大阪湾に面した台地上に位置。5世紀前半頃の前方後円墳で、淡輪古墳群では最大、墳丘長約210mで全国第28位の規模。この規模だが墳丘に登れる。

登り口       案内        進入路

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丘陵末端を利用して築造され、前方部を北東方に向ける。後円部3段築成・径約115m・高さ約18m。前方部3段築成・幅約100m・高さ約14m。西側くびれ部の造出は23m×13m。墳丘表面は葺石で覆われ、円筒埴輪・朝顔形埴輪や、蓋形・盾形・短甲形・家形埴輪といった器材埴輪が並べられていた。墳丘周囲に幅15~35mの周濠が巡るが、周濠の元々の形は明らかではないらしい。主体部の埋葬施設は、竪穴式石室に凝灰岩製の長持形石棺を納めていた。かつて後円部墳頂に、長辺側に縄掛突起2個を有する石棺蓋石が露出していたが、国の史跡指定に伴って埋め戻されている。出土埴輪から西暦420-440年頃築造と推定される。西小山・宇度墓古墳より先行する。岬町の大型古墳群では円筒埴輪に独特の技法(淡輪技法)が見られるが、同様の技法は木ノ本古墳群(和歌山市木ノ本)にも見られ、また当地の経済力のみで築造されたと考えにくく、紀伊勢力(紀氏)との強い関わりが考えられるとのこと。

     後円部墳頂       くびれ部    造出      葺石       前方部

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被葬者は『紀』雄略9年3月・5月条にある5世紀後半の将軍=紀小弓という説がある。『紀』によると、小弓は新羅征討の将軍に任じられたが、病気により新羅で亡くなった。そこで天皇は土師連小鳥に命じ、「田身輪邑」に墓を造らせたという。『和泉志』では紀船守の墓とする説を挙げ、また『南游紀行』では五十瓊敷入彦命とする説を挙げている。

西陵古墳の北側には第一・第二の円墳2基がある。いずれも西陵古墳の陪塚とされ、西陵古墳とともに国の史跡に指定されている。第一古墳は前方部向いの線路のすぐ北側にあり、前方部周回道から肉眼でも確認できる。第二古墳はさらにその北側にあるが、小さいうえ住宅の陰で見えない。かつては陪塚らしい古墳がもう1基存在したが、線路の敷設時に破壊された。その際に提瓶2個、高杯1個、壺2個、平瓶1個、刀身断片、鉄鏃2本が出土したとのこと。

前方部北面   前方部周回道北角から西望 陪塚(第一古墳)   墳丘西面南望   後円部北東望

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淡輪駅から約2時間もあれば、宇度墓・西小山・西陵古墳を十分見て歩けます。

牧野車塚古墳周辺

牧野車塚古墳周辺

2020年12月15日(火)

大阪府枚方市 御殿山神社→渚院跡→牧野車塚古墳百済寺跡→禁野車塚古墳

御殿山神社

枚方市渚本町12番。京阪本線御殿山ごてんやま駅から約400m、小高い丘の上。

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文政年間(1818-29)に、渚院跡(後述)の観音寺境内に隣接して建立された粟倉あわくら神社が、明治初年の神仏分離令で、1869年(明治2)御殿山に社殿を造営し、当地に遷宮後、御殿山神社と改称。遷宮当時の模様を描いた、極彩色の奉納額が拝殿内に掲げられている。縦76cm、横176.5cmで、粟倉神社から御殿山の新社殿への遷宮行列が描かれ、当時の建物構造が正確に描かれている。平成14年に有形民俗文化財に指定。

御殿山神社へ    神社案内      拝殿        絵馬        遷宮行列絵馬

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画像をクリックすると拡大されます。

渚院跡

御殿山神社から牧野車塚古墳に向かう途中にある。奈良~平安時代天皇家別荘。771年49代光仁天皇の交野ケ原行幸の頓宮(とんぐう=仮宮)が始まり。以後約500年に亘り利用された。

55代文徳天皇皇子の惟喬これたか親王が遊猟拠点とした記録が多く残るとのこと。

標識               渚院跡              案内

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牧野車塚古墳

枚方市車塚1丁目。御殿山神社から約1.8km。

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古墳時代前期中葉4世紀後半の前方後円墳。車塚公園の南に隣接し、きれいに整備され、墳丘にも登れる。1978年(昭和53)以降、発掘調査が実施されたらしい。主軸は東西方向で、前方部は東に向く。墳丘長107.5m、後円部2段築成・径58m、前方部2段築成・幅45m。墳丘周囲に幅10mの周濠(空堀。今は散策路)が巡り、周濠を含めた規模は北河内地域で最大規模。現在、西側から南側には外堤も遺存している(築造当時は全周)。

墳丘表面では葺石・埴輪が認められた。特に葺石は板石を使った特異なもので、徳島県兵庫県産の石材が使用される点で注目されるとのこと。主体部の埋葬施設は明らかでなく、副葬品も不詳。北河内地域では禁野車塚古墳(後述)とともに淀川流域の交通と関わった有力な首長墓(禁野車塚古墳の後続)に位置づけられる。古墳域は1922年(大正11)に国の史跡に指定されている。付近には「赤塚」・「権現塚」・「子供塚」・「ショーガ塚」という地名が残るほか、古墳北側の小倉東遺跡では方墳群が検出されており、一帯は7C初頭頃まで墓域であったとされるとのこと。
周濠外提や墳丘の3~4ヶ所で、ちょうど発掘作業が行われていた。

西側進入路        参道        後円部(右手前は南側の周濠外提)  外提発掘現場

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後円部登り口       後円部墳裾から前方部望 南側周濠跡(右は南側外提) 後円部墳頂

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後円部北面の発掘現場               後円部西端北東望     同左南西望  

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後円部北側北東望     後円部北面発掘現場   前方部墳頂        前方部東端見下ろし

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前方部から後円部東望   くびれ部から後円部東望 くびれ部北側発掘現場   くびれ部南側

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前方部東端西望      前方部南側全景     車塚公園側から墳丘南西望 案内

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百済寺

中宮西之町4340番にある特別史跡。牧野車塚古墳から百済寺跡まで約3km。2021年3月15日まで整備工事中だが、百済寺跡の南側から回り込み、西に隣接する百済王神社側から行ける。神社に行く途中、百済寺跡の南側から伽藍跡の全景が臨める。

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東北地方に赴任していた百済宗家の子孫集団が陸奥国で金を採掘し、東大寺大仏造立に際し、天平21年(749)、黄金900両を献上した功により、翌年宮内卿兼河内守に任ぜられた。以後一族がこの地に移住した際に建立した、氏寺の跡と考えられる。平成17年度から再整備に伴う発掘調査によって、当時の最新技術を駆使して造営され、堂塔のほか、築地塀によって区画された寺院経営にかかわる施設が整然と配置され、中央官寺と比べても遜色ない伽藍だったことが判明したらしい。昭和27年特別史跡に指定、42年には全国で初めて史跡公園として整備されたとのこと。

本来の東側進入路     案内          百済寺跡北西望      百済王神社方面

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百済寺跡全景北望  百済王神社     拝殿        縁起        拝殿扁額

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西塔跡東望        同左西望        東塔跡東望        同左西望

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金堂跡北望       講堂跡北望        西回廊跡北望   左写真の黄色矢印辺りの遺存礎石

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禁野車塚古墳

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枚方市宮之阪5丁目。百済寺跡から800m。

大阪府北部の淀川東岸、天野川右岸の低位段丘上に築造された大型前方後円墳。1970年(昭和45)から発掘調査。主軸を東西方向として前方部は西方向に向く。墳丘長120m。後円部2段築成・径63m、前方部2段築成・幅55m。前方部が「バチ形」に開き、後円部からくびれ部にかけて下降スロープが存在する点で、箸墓古墳との類似が指摘される。墳丘表面では葺石・埴輪が認められたらしい。主体部の埋葬施設は明らかでないが、後円部上で板石が散乱していたことから、竪穴式石室の存在が推定されるとのこと。副葬品は詳らかでない。古墳時代前期前半の4世紀中頃の築造と推定され、大阪府内では最古級の古墳で、北河内地域では牧野車塚古墳とともに淀川流域の交通と関わった有力な首長墓(牧野車塚古墳に先行)に位置づけられるとのこと。1972年(昭和47)国の史跡に指定。現在では史跡公園として公開されている。*後円部は規制線があり登れなかった。

後円部西望        後円部南側北望     墳丘南側西望       案内

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前方部跡西望       前方部跡        前方部北西角       前方部南西角

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前方部は、なんかグランドみたいでしたけど・・・。

ほぼ3時間の行程、ただ歩くだけなら6km程。

黒駒古墳

黒駒古墳

2020年11月10日(火)。県道30号線沿いの奈良県御所市の古墳等に立ち寄ってから、奈良県五條市の古墳を巡り、最後に御所市の古墳に立ち寄る。

*御所市①塚廻り古墳跡→②ビワノ木古墳跡→③鬼ケ城古墳跡→④伏見八幡神社古墳

五條市⑤つじの山古墳→⑥五條猫塚古墳→⑦近内鑵子塚古墳→⑧丸山古墳→⑨今井1号墳→⑩こうもり塚古墳→⑪南阿田大塚山古墳→⑫黒駒古墳→⑬西山古墳→⑭塚山古墳→御所市内⑮篭田塚古墳   *⑬西山古墳は「五條猫塚古墳」の記事に掲載

黒駒古墳

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五條市黒駒町。黒駒で「くろま」と読む。黒駒町会館すぐ前の階段を登ればすぐ。整備されており、開口部には鉄柵はあるものの、施錠はされていなかった。以前のある古墳関連のブログでは博物館に連絡して開錠してもらったとあったが・・・。

黒駒会館前               会館見返り     落杣神社へ     会館見返り

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画像をクリックすると拡大されます。

6世紀末~7世紀初頭の円墳。径約10m・高さ約3m。緑泥片岩製(結晶片岩の一種)の 両袖式横穴式石室。現全長.6.1m、玄室長約3m・幅1.7m・高さ2m。羨道部長3.1m・幅1.2m・高さ1.1m。陶棺片が出土。須恵器、鉄鏃、鉄刀片、須恵質板状製品、須恵質脚形製品が出土。玄門部に高さ1m・厚さ0.3mの板石を柱状に立て両袖とし、羨道側壁よりも内側に突出させている。このような柱列は、紀伊でよく見られる玄室の前道的性格の施設かと思わるらしい。陶棺は現地説明会当時は追葬時の棺とされていたが、現在は築造時のものと訂正されている。また、陶棺の一部と思われる須恵質の板状片に、馬の絵とも思われる線刻画が描かれていることが発見され、現在五條文化博物館で展示されている。

解説板              開口部              全景

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開口部          羨道          玄門部          玄室

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玄室全景      カバンは30㎝四方   天井部       西側壁       東側壁

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楣石上部      左袖板石      右袖板石      羨道天井      羨道

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*705号線北西端=261号線の北山大橋東詰交差点から600m南西に五條文化博物館があり、黒駒古墳の陶棺片も展示されていました。
線刻画のある陶棺片                左=陶棺脚

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塚山古墳

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国道24号線から京奈和道西側の出屋敷町へ。上図の緑矢印部分が極端に狭い。なので、古墳南側のオレンジ矢印部分から回る方がいいかも。

五條市出屋敷町。5世紀中葉~後半の方墳。一辺24m・高さ5m。葺石は一部あり。埴輪(円筒、家形・盾形・短甲等の形象埴輪)も検出している。人骨が完全な形で出土したことで、古くから知られた古墳。埋葬施設は緑泥片岩製の箱式石棺で、石棺底に板石はなく、約10cmほど砂利を敷いていたらしい。北側の小口部には、板石で囲んだ、半円状の小さな副室が付設されていたとのこと。南側の小口部には、長方形の板石が枕状に置かれていたようだ。被葬者は壮年男子で、人骨はほぼ完全な状態で残っていた。別の箱式石棺が掘り出された事も伝えられており、同一墳丘内に2基の箱式石棺が直葬されていたらしい。鉄製武器、短甲、冑、刀剣、工具類が出土し、珍しい北側小口部の副室からも、副葬品が出土。近内古墳群の中心部から離れた丘陵の谷間に、単独で築かれている。発掘調査は1956年とのこと。

遠景東望                     北東望

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東面見下ろし       南面見下ろし      西面見下ろし       北面見下ろし

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北東角          南東角         南西角          北西角 

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五條文化博物館に、塚山古墳の出土品も展示されていました。

右側=釣針                     下段=鹿角装鉄剣
 

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篭田塚古墳

御所市林字常土井。車で巡る都合で最後に訪問。古墳時代後期、径22mの円墳。

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帰路の便を考えて、五百家交差点を左折して広い南側の道からアクセス。田圃の畦道を通り、弁天社前から篭田塚古墳へ。

墳丘は全く整備されておらず、全体が木々や笹薮で覆われている。南に生えている木の下に石材があり、開口部かもしれない?が、土砂で埋まっている。2013年のあるブログ記事には、「南側に両袖式横穴式石室が開口。かなり大きな石材が用いられ、特に天井石が大きい。玄室長約3m・幅1.5m~2m・高さ2m程、羨道部は1m程」とあったが・・・・・。

全景西望     2013年     南側石材    2013年     石材内部     2013年 

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*弁天古墳群

御所市林字二子。奈良県遺跡地図(上の地図内右に掲載)では、

 ・弁天塚古墳 円墳・径15m・横穴式石室 16D-0014 
 ・弁天西古墳 円墳・径20m・横穴式石室 16D-0015
 ・弁天南古墳(墓穴古墳) 円墳・径10m・横穴式石室 16D-0016

弁天社裏辺りにあるのだろうが、墳丘はハッキリ確認できなかった。なお、社の南側に小さな墓地があり、何もないと思ってパスしたが、その上に石室があったかも・・?。

弁天社周辺            2013年のブログ        篭田塚古墳付近から奈良盆地

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常々思いますが、過去の先達の古墳関連のブログを参考にしないと、マニアックな古墳散策はできないですよね。ただ、ブログの作成時期・訪問季節によって、墳丘周辺の風景等が、「えっ?」というくらい変貌していることも多いですね。これは致し方ないことで、私のブログを参考にされる場合も、くれぐれもご了解ください。  

南阿田大塚山古墳

南阿田大塚山古墳

2020年11月10日(火)。

県道30号線沿いの奈良県御所市の古墳に立ち寄った後、奈良県五條市の古墳を巡る。

御所市①塚廻り古墳跡→②ビワノ木古墳跡→③鬼ケ城古墳跡→④伏見八幡神社古墳

五條市⑤つじの山古墳→⑥五條猫塚古墳→⑦近内鑵子塚古墳→⑧丸山古墳→⑨今井1号墳→⑩こうもり塚古墳→⑪南阿田大塚山古墳→⑫黒駒古墳→⑬西山古墳→⑭塚山古墳→御所市⑮篭田塚古墳

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南阿田集会所から100m程北東、39号線沿いに古墳への登り口がある。ポイント毎に道標があり、5分程で全く迷わず到着。 

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解説板         開口部          高さ比較         羨道

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 五條市南阿田町。6世紀前半の帆立貝式前方後円墳。被葬者は不明だが、藤原良継(下記豆知識参照)墓所と伝承されてきた。全長30m、前方部幅15m、後円径21m・高さ北側1.5m・南側3m。前方部は南西向き。葺石や埴輪は無かったが、緑泥片岩の板石列が墳頂部等で確認されている。

両袖式横穴式石室が主軸と直行し南東向きに開口。全長9m、玄室長4.5m・幅3m・高さ2.4m。羨道部長4.5m・幅は玄門部で0.6m・羨門部で1mと外に向かって拡がる。また羨道部床は玄室床より一段高い。棺は不明。玄室内から馬具類と挂甲、鉾、装身具類、須恵器の杯、鉄鏃、紡錘車、鉄製釣針が、羨道部からも須恵器が多数出土(特に動物の装飾をつけた台付壷等は注目される)。

紀ノ川の中・上流域では数少ない前方後円墳。玄門に比較的大きな石材を積み、その床に基石を置くのは和歌山県の岩橋いわせ型石室の玄門前道に通じる構造であり、装飾付・台付壷とともに、紀ノ川流域との深い交流を示すらしい。

羨道側壁                羨道中程                羨道奥側

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羨道天井         玄門          玄室全景         カバンは30㎝四方

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南西側壁       特に南西側壁の持ち送りが急  南東側壁       天井部

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玄門両袖部          羨道段差      羨道

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後円部墳頂から南東面見下ろし 北西面見下ろし   前方部見下ろし      後方部見上げ

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前方部南西端見下ろし 同南西端北西望    後円部北東面   後円部北西面    くびれ部北西面

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【豆知識その10】藤原良継の時代 

724年45代聖武→749年46代孝謙→758年47代淳仁→765年48代称徳→770年49代光仁天皇

良継は藤原式家の祖(宇合)の次男で、初名は宿奈麻呂すくなまろ。740年の「藤原広嗣(良継の兄)の乱」に連座し伊豆へ流罪天平14年(742)に赦免され少判事に任ぜられ、天平18年(746)正六位下から従五位下に昇位。南家(武智麻呂や次男の仲麻呂)・北家(房前)に比べ式家は衰退しており、不遇の日々を送っていた。天平宝字6年(762)佐伯今毛人・石上宅嗣大伴家持らと結託し仲麻呂暗殺計画を企図するも仲麻呂側に漏洩。天平宝字7年(763)、4人は捕らえられるが、良継は単独犯行を主張、八虐の一つ大不敬罪により解官の上、姓も剥奪された。2年後「仲麻呂の乱」の功績で復帰。 白壁王(49代光仁天皇)擁立に尽力し、正三位中納言に叙任された。同年、良継に改名。宝亀2年(771)、左大臣永手(北家)が死去し、光仁擁立の功臣として藤原氏一門の中心的存在となり、中納言から一挙に内臣に任ぜられ、右大臣(大中臣清麻呂)に次ぐ太政官の次席の座を占める。この頃は権力を一手に握り執政、官人人事も自由にしたという。宝亀5年(774)従二位。宝亀8年(777)正月に内大臣に任ぜられるが、同年9月18日に薨去。享年62。50代桓武夫人乙牟漏は良継の娘。

こんなに権勢を誇った人物の墓にしては・・・、というより古墳造営自体が衰退する8C後半に・・・・? 考古学的には6世紀前半なので、全く無理な話ですね。 

 

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黒駒古墳 - OSAKA-TOM’s diary