OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

宮山古墳群

宮山古墳群

2021年4月11日(日)。名阪国道=壬生野IC→(東山古墳跡)→御旅所古墳宮山古墳群→波敷野古墳群→御墓山古墳勘定塚 →寺音寺古墳・中ノ瀬古墳群(別ページに掲載)

伊賀市北部をグルっと巡るので、今回は車で。巡った順に記載していきます。

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東山古墳跡

上図①。伊賀市円徳院。壬生IC~約1.2km、県道49号沿いに登り口がある。山の中で跡だけなのでパスしました。

円徳院東山の丘陵先端で、比高差約25m。中世に城館一部として利用され墳形は不詳。長径21m・短径17mの楕円形だったとのこと。墳丘に葺石や埴輪は無く、1986年の発掘調査で、長さ6,9m・幅2.3mの墓壙に割竹形木棺が納められていた。棺底に朱が敷かれ、四獣鏡1・銅鏃3・鉄鏃1・鉄剣1・小型高杯・小型器台1・砥石1が棺内から出土。副葬品の土器の形状や調整の仕方から、3世紀末~4世紀初めと推定され、県下最古級だったらしい。

御旅所古墳

上図②。伊賀市馬場。6世紀後半。陽夫多やぶた神社参道南側。石舞台のようにむき出しの両袖式の横穴式石室。羨道長4.8m、玄室長5m・幅2.6m・高さ2.2m。

遠景南望      近景南望      案内        南西望   〇印穴から石室内羨道方面

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画像をクリックすると拡大されます。

宮山古墳群

上図③。伊賀市馬場。陽夫多神社の裏山。 

陽夫多神社参道   境内北望      〇印の処の案内         神社拝殿へ=古墳群登り口

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拝殿見上げ=進入路    古墳群へ

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宮山古墳群2号墳

少し登ると、2号墳と3号墳の分岐に道標があり、左へ行くと2号墳。反対側に回り込むと、2号墳の石室開口部がある。

分岐道標         2号墳東面        開口部         案内

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開口部は幅50cm・高さ30㎝程、床まで180cm位斜めに下る。無理して入らず、自撮り棒で外撮り。

石室全景        奥に向かって左側壁    右側壁         天井石 

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宮山古墳群1号墳

分岐に戻って1号墳へ。墳丘は明確。3号城郭跡の空堀跡は写真では分かりにくいが、U字型に抉れている。

北西望       案内        北東望       3号城跡案内    空堀

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宮山古墳群3号墳

3号墳方面      道標        開口部       案内        開口部

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羨道含め完存。開口部は高さ65cm程あり、入室し易い。玄室も高さ180cm以上ある。

羨道部                      玄門部

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石室全景   側壁     奥壁上部   開口部方面   両袖部          楣(まぐさ)石

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波敷野古墳群

伊賀市波敷野はじきの 陽夫多神社~5.5km程。7C前半の群集墳らしいが、目的地直前で断念。

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確かに車ですぐ近くまで行けます。分岐から880m登った処に大きな溜池があり、ここを過ぎる辺りから、車幅ギリギリ。4月でも道の両側から笹が張り出し、車の両サイドをガサガサこする音が激しく、サイドミラーを畳んで進みました。「道を間違っていて、この先行き止まりでは?」という不安を抱えながら更に700m程進んだ処で、道が直角に右折しており、その先が割と広くなっています。車から降り確認しましたが半信半疑のせいもあり、先の道がハッキリ確認できず、ここで諦めてUターン。後で思えば、ここに車を止めてもっと探せば・・・。ただし、この道が正解ならですが・・・。なお、スリップしやすい雨の日や、新車ならお勧めできません。また、分岐地点に車を置き、歩くと約2km、標高差110mの登りです。

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常々参考にさせていただいているブログ「大和國古墳墓取調室」の当古墳群が掲載されている「伊賀市(旧阿山町)」を参考でリンクします。

大和國古墳墓取調室

御墓山古墳

下図⑤。伊賀市佐那具町。5世紀前半、三重県最大の前方後円墳

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墳長約180~190m、2段築成の前方後円墳。後円部径約100m、前方部幅70~80m(進入路の案内と墳裾の石碑で計測値が微妙に違う)。木々に覆われ墳形は不明瞭だが墳丘を歩くと前方後円墳と分かる。

進入路          進入路左側の案内    登り口の碑       案内石碑

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丘陵先端を切断して築造しているとのこと。前方部が北東を向く。墳丘は2段築成だが、前方部裾に葺石を伴う地山があり、前方部墳頂から見ると3段のように見える。後円部北西側に造出が設けらている。墳丘表面は葺石で覆われ、円筒・形象・家形埴輪などを検出したらしい。後円部南側に周濠があった模様(前方部周囲はない)。後円部南東側、周濠外側に接し陪塚らしき10mの墳丘2基がある模様(石碑案内では円墳とある)。後円部墳頂の径30m程の平坦面に窪みがあり、主体部の盗掘壙と見られるが詳細不詳。

東側くびれ部方面  東側くびれ部から後円部 残存葺石    後円部北東望 

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後円部平坦部  中央窪み(大きさ比較タバコ) 後円部から前方部  前方部から後円部  前方部

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柘植つげ川流域で東山古墳・山神寄建やまがみよつたて神社古墳に次ぐ首長墓だが、規模が格段に大きい。被葬者は、伊賀地域を代表する首長と思われ、地元では第8代孝元天皇皇子の大彦命おおびこのみこと=日本書紀にある第10代崇神天皇期の四道将軍の一人)の墓と伝わる(注)。なお、御墓山古墳以降の首長墓は柘植川対岸に場所を移し、規模はかなり縮小する。1921年(T10)に国の史跡に指定、1970年(S45)には丘陵切断部・堀の一部・造出・陪塚の範囲が追加指定されたとのこと。

(注)因みに、古事記では孝元天皇の宮も陵も奈良県橿原市。また日本書紀崇神10年9月「四道将軍大彦命が和珥坂(現奈良県天理市和爾町)で不思議な歌を詠う少女に出会い、その歌を天皇に報告する。倭迹迹日百襲媛(やまとととひももそひめ=あの著名な箸墓古墳の被葬者説も)は、これを武埴安彦とその妻吾田媛による謀反前兆であると告げた。果たして謀反が起こったが、すぐ鎮圧された。」ともあり、伊賀との関係は無いように思うが・・・・・。

勘定塚古墳

下図⑥。伊賀市外山。7世紀前半。古墳と言うより残存石室。

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外山集落の丘陵裾の民家横。墳丘は大半流失し、横穴式石室の巨大な天井石とそれを支える側壁が残存。残存長約4.5m・幅約3.5m・高さ約2m。1964年(S39)に市の史跡指定。

勘定塚方面   左へ(右に上がると塚の裏)     階段を上り斜め右へ(夏場は草深いかも?)

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正面北望      奥壁と祠      西側壁       東側壁       天井石

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東側壁外側     西側壁外側    北東に残る墳丘の一部 裏側       裏側から南東見下ろし

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続いて、寺音寺古墳~中ノ瀬古墳群へ向かいました。