OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

黒駒古墳

黒駒古墳

2020年11月10日(火)。県道30号線沿いの奈良県御所市の古墳等に立ち寄ってから、奈良県五條市の古墳を巡り、最後に御所市の古墳に立ち寄る。

*御所市①塚廻り古墳跡→②ビワノ木古墳跡→③鬼ケ城古墳跡→④伏見八幡神社古墳

五條市⑤つじの山古墳→⑥五條猫塚古墳→⑦近内鑵子塚古墳→⑧丸山古墳→⑨今井1号墳→⑩こうもり塚古墳→⑪南阿田大塚山古墳→⑫黒駒古墳→⑬西山古墳→⑭塚山古墳→御所市内⑮篭田塚古墳   *⑬西山古墳は「五條猫塚古墳」の記事に掲載

黒駒古墳

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五條市黒駒町。黒駒で「くろま」と読む。黒駒町会館すぐ前の階段を登ればすぐ。整備されており、開口部には鉄柵はあるものの、施錠はされていなかった。以前のある古墳関連のブログでは博物館に連絡して開錠してもらったとあったが・・・。

黒駒会館前               会館見返り     落杣神社へ     会館見返り

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6世紀末~7世紀初頭の円墳。径約10m・高さ約3m。緑泥片岩製(結晶片岩の一種)の 両袖式横穴式石室。現全長.6.1m、玄室長約3m・幅1.7m・高さ2m。羨道部長3.1m・幅1.2m・高さ1.1m。陶棺片が出土。須恵器、鉄鏃、鉄刀片、須恵質板状製品、須恵質脚形製品が出土。玄門部に高さ1m・厚さ0.3mの板石を柱状に立て両袖とし、羨道側壁よりも内側に突出させている。このような柱列は、紀伊でよく見られる玄室の前道的性格の施設かと思わるらしい。陶棺は現地説明会当時は追葬時の棺とされていたが、現在は築造時のものと訂正されている。また、陶棺の一部と思われる須恵質の板状片に、馬の絵とも思われる線刻画が描かれていることが発見され、現在五條文化博物館で展示されている。

解説板              開口部              全景

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開口部          羨道          玄門部          玄室

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玄室全景      カバンは30㎝四方   天井部       西側壁       東側壁

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楣石上部      左袖板石      右袖板石      羨道天井      羨道

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*705号線北西端=261号線の北山大橋東詰交差点から600m南西に五條文化博物館があり、黒駒古墳の陶棺片も展示されていました。
線刻画のある陶棺片                左=陶棺脚

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塚山古墳

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国道24号線から京奈和道西側の出屋敷町へ。上図の緑矢印部分が極端に狭い。なので、古墳南側のオレンジ矢印部分から回る方がいいかも。

五條市出屋敷町。5世紀中葉~後半の方墳。一辺24m・高さ5m。葺石は一部あり。埴輪(円筒、家形・盾形・短甲等の形象埴輪)も検出している。人骨が完全な形で出土したことで、古くから知られた古墳。埋葬施設は緑泥片岩製の箱式石棺で、石棺底に板石はなく、約10cmほど砂利を敷いていたらしい。北側の小口部には、板石で囲んだ、半円状の小さな副室が付設されていたとのこと。南側の小口部には、長方形の板石が枕状に置かれていたようだ。被葬者は壮年男子で、人骨はほぼ完全な状態で残っていた。別の箱式石棺が掘り出された事も伝えられており、同一墳丘内に2基の箱式石棺が直葬されていたらしい。鉄製武器、短甲、冑、刀剣、工具類が出土し、珍しい北側小口部の副室からも、副葬品が出土。近内古墳群の中心部から離れた丘陵の谷間に、単独で築かれている。発掘調査は1956年とのこと。

遠景東望                     北東望

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東面見下ろし       南面見下ろし      西面見下ろし       北面見下ろし

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北東角          南東角         南西角          北西角 

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五條文化博物館に、塚山古墳の出土品も展示されていました。

右側=釣針                     下段=鹿角装鉄剣
 

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篭田塚古墳

御所市林字常土井。車で巡る都合で最後に訪問。古墳時代後期、径22mの円墳。

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帰路の便を考えて、五百家交差点を左折して広い南側の道からアクセス。田圃の畦道を通り、弁天社前から篭田塚古墳へ。

墳丘は全く整備されておらず、全体が木々や笹薮で覆われている。南に生えている木の下に石材があり、開口部かもしれない?が、土砂で埋まっている。2013年のあるブログ記事には、「南側に両袖式横穴式石室が開口。かなり大きな石材が用いられ、特に天井石が大きい。玄室長約3m・幅1.5m~2m・高さ2m程、羨道部は1m程」とあったが・・・・・。

全景西望     2013年     南側石材    2013年     石材内部     2013年 

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*弁天古墳群

御所市林字二子。奈良県遺跡地図(上の地図内右に掲載)では、

 ・弁天塚古墳 円墳・径15m・横穴式石室 16D-0014 
 ・弁天西古墳 円墳・径20m・横穴式石室 16D-0015
 ・弁天南古墳(墓穴古墳) 円墳・径10m・横穴式石室 16D-0016

弁天社裏辺りにあるのだろうが、墳丘はハッキリ確認できなかった。なお、社の南側に小さな墓地があり、何もないと思ってパスしたが、その上に石室があったかも・・?。

弁天社周辺            2013年のブログ        篭田塚古墳付近から奈良盆地

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常々思いますが、過去の先達の古墳関連のブログを参考にしないと、マニアックな古墳散策はできないですよね。ただ、ブログの作成時期・訪問季節によって、墳丘周辺の風景等が、「えっ?」というくらい変貌していることも多いですね。これは致し方ないことで、私のブログを参考にされる場合も、くれぐれもご了解ください。  

南阿田大塚山古墳

南阿田大塚山古墳

2020年11月10日(火)。

県道30号線沿いの奈良県御所市の古墳に立ち寄った後、奈良県五條市の古墳を巡る。

御所市①塚廻り古墳跡→②ビワノ木古墳跡→③鬼ケ城古墳跡→④伏見八幡神社古墳

五條市⑤つじの山古墳→⑥五條猫塚古墳→⑦近内鑵子塚古墳→⑧丸山古墳→⑨今井1号墳→⑩こうもり塚古墳→⑪南阿田大塚山古墳→⑫黒駒古墳→⑬西山古墳→⑭塚山古墳→御所市⑮篭田塚古墳

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南阿田集会所から100m程北東、39号線沿いに古墳への登り口がある。ポイント毎に道標があり、5分程で全く迷わず到着。 

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画像をクリックすると拡大されます。

 

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解説板         開口部          高さ比較         羨道

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 五條市南阿田町。6世紀前半の帆立貝式前方後円墳。被葬者は不明だが、藤原良継(下記豆知識参照)墓所と伝承されてきた。全長30m、前方部幅15m、後円径21m・高さ北側1.5m・南側3m。前方部は南西向き。葺石や埴輪は無かったが、緑泥片岩の板石列が墳頂部等で確認されている。

両袖式横穴式石室が主軸と直行し南東向きに開口。全長9m、玄室長4.5m・幅3m・高さ2.4m。羨道部長4.5m・幅は玄門部で0.6m・羨門部で1mと外に向かって拡がる。また羨道部床は玄室床より一段高い。棺は不明。玄室内から馬具類と挂甲、鉾、装身具類、須恵器の杯、鉄鏃、紡錘車、鉄製釣針が、羨道部からも須恵器が多数出土(特に動物の装飾をつけた台付壷等は注目される)。

紀ノ川の中・上流域では数少ない前方後円墳。玄門に比較的大きな石材を積み、その床に基石を置くのは和歌山県の岩橋いわせ型石室の玄門前道に通じる構造であり、装飾付・台付壷とともに、紀ノ川流域との深い交流を示すらしい。

羨道側壁                羨道中程                羨道奥側

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羨道天井         玄門          玄室全景         カバンは30㎝四方

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南西側壁       特に南西側壁の持ち送りが急  南東側壁       天井部

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玄門両袖部          羨道段差      羨道

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後円部墳頂から南東面見下ろし 北西面見下ろし   前方部見下ろし      後方部見上げ

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前方部南西端見下ろし 同南西端北西望    後円部北東面   後円部北西面    くびれ部北西面

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【豆知識その10】藤原良継の時代 

724年45代聖武→749年46代孝謙→758年47代淳仁→765年48代称徳→770年49代光仁天皇

良継は藤原式家の祖(宇合)の次男で、初名は宿奈麻呂すくなまろ。740年の「藤原広嗣(良継の兄)の乱」に連座し伊豆へ流罪天平14年(742)に赦免され少判事に任ぜられ、天平18年(746)正六位下から従五位下に昇位。南家(武智麻呂や次男の仲麻呂)・北家(房前)に比べ式家は衰退しており、不遇の日々を送っていた。天平宝字6年(762)佐伯今毛人・石上宅嗣大伴家持らと結託し仲麻呂暗殺計画を企図するも仲麻呂側に漏洩。天平宝字7年(763)、4人は捕らえられるが、良継は単独犯行を主張、八虐の一つ大不敬罪により解官の上、姓も剥奪された。2年後「仲麻呂の乱」の功績で復帰。 白壁王(49代光仁天皇)擁立に尽力し、正三位中納言に叙任された。同年、良継に改名。宝亀2年(771)、左大臣永手(北家)が死去し、光仁擁立の功臣として藤原氏一門の中心的存在となり、中納言から一挙に内臣に任ぜられ、右大臣(大中臣清麻呂)に次ぐ太政官の次席の座を占める。この頃は権力を一手に握り執政、官人人事も自由にしたという。宝亀5年(774)従二位。宝亀8年(777)正月に内大臣に任ぜられるが、同年9月18日に薨去。享年62。50代桓武夫人乙牟漏は良継の娘。

こんなに権勢を誇った人物の墓にしては・・・、というより古墳造営自体が衰退する8C後半に・・・・? 考古学的には6世紀前半なので、全く無理な話ですね。 

 

ここから黒駒古墳へ。

黒駒古墳 - OSAKA-TOM’s diary

こうもり塚古墳

こうもり塚古墳

2020年11月10日(火)。

県道30号線沿いの奈良県御所市の古墳に立ち寄った後、奈良県五條市の古墳を巡る。

御所市①塚廻り古墳跡→②ビワノ木古墳跡→③鬼ケ城古墳跡→④伏見八幡神社古墳

五條市⑤つじの山古墳→⑥五條猫塚古墳→⑦近内鑵子塚古墳→⑧丸山古墳→⑨今井1号墳→⑩こうもり塚古墳→⑪南阿田大塚山古墳→⑫黒駒古墳→⑬西山古墳→⑭塚山古墳→御所市⑮篭田塚古墳

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登り口のある天福寺の方に、行き方を教えていただいた。でないと、道標とかはないので、全く分からないかも・・・。

天福寺本堂の西側に回ると、小さな祠がある。その前を西へ行くと塀の隙間があり、そこを塀沿いに北側に登り、少し行ったところで北西に曲がって登れば、ほんの2~3分。

 

天福寺         本堂西側の祠 塀の切れ目 塀沿いに北側に登る  少し行って北西へ 開口部

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緑泥片岩製の 両袖式横穴式石室で南に開口。全長.6.6m、玄室長5.1m・幅2m。棺は不明らしい。撹乱のため出土遺物は羨道部から須恵器、土師器の小片が出土したのみ。被葬者は不明。開口部には材質の違う石が補強のためはめてあるので、その分狭くなっている。勿論後補。現存の羨道部は異常に短く、崩落して短くなったのだろう。

開口部              開口部内側            羨道

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玄室の保存状態は良好で、緑泥片岩の中くらいの石材が大半だが、奥壁等に大きな石も見られる。また、玄室奥壁寄りの天井石だけが一段低い。というか、石棚にも見えるが・・・。39号線沿いを流れる吉野川下流域=紀ノ川河口にある岩橋千塚古墳群には、板状緑泥片岩の玄室内に石棚や石梁を持つものが多い。3mとか4mの高さの玄室側壁を補強する等のもので、似て非なる物だが・・・。

玄室全景         奥壁          奥壁寄りの石棚様の天井石 天井部

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奥壁上端西角     奥壁上端東角   東側壁       西側壁    岩橋千塚-将軍塚古墳玄室

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南阿田大塚山古墳は、ここから直線距離で1km程北東。

南阿田大塚山古墳 - OSAKA-TOM’s diary    

今井1号墳

今井1号墳

2020年11月10日(火)。

県道30号線沿いの奈良県御所市の古墳に立ち寄った後、奈良県五條市の古墳を巡る。

御所市①塚廻り古墳跡→②ビワノ木古墳跡→③鬼ケ城古墳跡→④伏見八幡神社古墳

五條市⑤つじの山古墳→⑥五條猫塚古墳→⑦近内鑵子塚古墳→⑧丸山古墳→⑨今井1号墳→⑩こうもり塚古墳→⑪南阿田大塚山古墳→⑫黒駒古墳→⑬西山古墳→⑭塚山古墳→御所市⑮篭田塚古墳

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徒歩で行くなら、JR和歌山線五条駅から2km程。車なら、大和街道(24号線)から狭い道を北に入り、JR和歌山線を越えてすぐ。地元の方は車で通るようだが、私は交差点南脇のスペースに車を止めて歩きました。

今井1号墳へ                    北西望         黄線が古墳への登り口

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五條市今井町。猫塚古墳と前後する5世紀中頃の前方後円墳。五條地域では唯一の前方後円墳。前方部は南西向き。現状規模は全長約31m、後方部径約19m・高さ約3.5m、前方部幅約19.5m・高さ2.5mで2段築成。葺石・周濠跡・埴輪(円筒・家形・蓋形)検出。後円部に竪穴式石室(緑泥片岩小口積)が2箇所あった。第1石室(南側)が先で、割竹形木棺を安置後、上方を内法長2.9m・幅0.8mの板石で覆っていたとのこと。第1石室から細線式獣帯鏡1、鉄刀2、碧玉製管玉、メノウ製勾玉、ガラス小玉等の玉類500個が出土。細線式獣帯鏡には「銅梁作竟」で始まる37文字の銘文があり、大阪府の土室はむろ石塚古墳等3面の同型鏡が知られている。第2石室は内法長2.8m・幅0.75mで、盗掘でほぼ破壊されていたが、鉄刀破片が出土。前方部墳頂近くの長方形(2.5m×1.25m)の土壙から鋲留短甲・衝角付冑・頸甲・肩甲の一式、折り曲げられた鉄剣、多量の長頸鏃が出土(五條文化博物館所蔵)。発掘調査は1983年。武具の出土が多いことから武人的性格の強い被葬者らしい。ただ他の近内古墳群の同時期首長墓に比べ、墳形や副葬品に優位性が見られ、吉野川沿いの水運、紀伊への陸路を監督するため、ヤマト王権から派遣された人物の可能性もあるとのこと。

後円部南西望       後円部西望       南西望          前方部南東望

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後円部北東の鉄柵の無い所から墳丘に登ったが、墳丘を囲む田圃の所有者がちょうどおられ、「こっち(地図下右端写真の黄線)から登れる」と教えた頂いた。古墳への登り口に猪除けの柵があるものの、紐で止めてあるだけなので入れる。色々な話も教えていただいた。「五條市による整備管理は全く無く、墳丘の草刈りも自分が人を雇ってしている、周辺は猪が凄く多く鉄柵も全部自分で設置した、銅鏡はココ(前方部北西面)から出た」とか・・とか・・。前記の受け売り解説では、鏡は第1石室から出土となっているが? 貴重な1面の銅鏡なら、第1主体なのだろうと思いつつも・・・、まー細かいことは気にせず。

後円部墳頂東望   墳頂南望      後円部から前方部  地元の方の言う銅鏡出土場所?

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*705号線北西端=261号線の北山大橋東詰交差点から600m南西に五條文化博物館があり、今井1号墳の出土品も展示されていました。細線式獣帯鏡は期間限定の企画展示で(R2.10.17~12.13)、実物です。

左側の装身具       上段の鉄刀       細線式獣帯鏡       発掘当時の写真

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ここから500m程南西に行った今井町交差点から、県道39号線でこうもり塚古墳へ。

こうもり塚古墳 - OSAKA-TOM’s diary

五條猫塚古墳周辺

五條猫塚古墳周辺

⑤つじの山古墳→⑥五條猫塚古墳→⑦近内鑵子塚古墳→⑧丸山古墳→⑨今井1号墳→⑩こうもり塚古墳→⑪南阿田大塚山古墳→⑫黒駒古墳→⑬西山古墳→⑭塚山古墳→御所市⑮篭田塚古墳   *御所市内 ①塚廻り古墳跡→②ビワノ木古墳跡→③鬼ケ城古墳跡→④伏見八幡神社古墳

2020年11月10日(火)。県道30号線沿いの奈良県御所市の古墳に立ち寄った後、奈良県五條市の古墳を巡る。

近内古墳群の⑤、⑥、⑦、⑧、⑬だけならJR和歌山線北宇智駅から歩ける。私は五條市の古墳を一度に巡るため、車で行ったので、巡った順に掲載します。

つじの山古墳

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五條市近内町。5世紀後半の方墳で一辺52m、高さ9m、葺石あり。墳丘の大きさだけなら石舞台古墳に匹敵する。この地域は方墳が多く、当古墳以外にも猫塚・塚山・西山・青墓古墳等がある。埴輪は周濠部で発見されているが、築造時は造出部と外堤の上に円筒・朝顔形・鰭付円筒埴輪を並べていたらしい。周濠部より円筒埴輪以外にも、コウヤマキ製の石見いわみ形木製品(残存部長さ130cm・最大幅33cm・厚さ最大3.4cm)や須恵器片が出土。埋葬施設は不明で、被葬者も不詳だが、近内古墳群最後の首長で、朝鮮半島の影響がある紀氏の一員との説もあるらしい。1998~2000年の調査では墳丘東側に舞台状の造り出し(東西5.5m、南北20m、高さ1m以上)が発見され話題になった。墳丘は比較的、方墳としての形がよく残っており周濠跡も水田や、畑として残っている。墳丘は草深くて、登るのは断念。

このブログ記事掲載時に気付いたが、東側(上の右端図⑤の東側の道)に墳丘へのアクセス道と解説板があり、そこからなら簡単に昇れただろう。事前調べは入念にしないといけないと反省

西面遠景         西面近景        南西角          北西角

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画像をクリックすると拡大されます。

五條猫塚古墳

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五條市西河内町。5世紀前半の方墳。五條市近内集落の南約500mの狭い谷間に点在する1基。墳丘規模は1辺27m・高さ約5m。墳丘表面には埴輪がめぐり、斜面には拳大の葺石が敷き詰められていたことが判明。墳丘中央には全長5.17mの竪穴式石室があった。石室内には埴製の枕が中央にあり、被葬者は北西に頭部を向けて葬られていた。被葬者の周りには甲冑、帯金具、刀剣、鉾などの武器を中心に、多数の副葬品があった。3点出土した眉庇付冑の1つは「蒙古鉢形」と呼ばれるもので金銅製。他の2点の冑も金銅製で金銅と鉄を組みあわせ、前後左右に金銅を張る「四方白」と呼ばれる形式とのこと。このような華美な冑は数例しか出土していない。さらに金銅製透彫銙帯(かたい=革帯)金具は、今でいう革ベルトを飾るもので、透彫りには竜紋と三葉文があるが、類例が少なく、文様の構成から大陸との関係が窺える。他に鍛工具類=ヤットコ・金鎚・タガネ・カナトコ・砥石等が出土。渡来系工人との関係なども窺われ、この地での大和と紀ノ川を仲立ちした、大陸との交流が考えられるとのこと。

猫塚古墳方面       遠景南望         近景南望         解説板

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近景西望         北西望赤〇が解説板   墳頂から南東面見下ろし  墳頂から北望

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*705号線北西端=261号線の北山大橋東詰交差点から600m南西に五條文化博物館があり、猫塚古墳の出土品も展示されていました。また、猫塚古墳の南西150mの処に、堂城山古墳(一辺10m程の方墳=消滅)もあったらしい。

出土冑3点(右端はレプリカ) 鉄製工具・帯金具(右端。前はレプリカ) 発掘当時     堂城山古墳出土品

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五條文化博物館の設計・監理は、建築家安藤忠雄氏らしく、すごく立派な建物でした。

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近内鑵子塚古墳

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五條市近内町向山。5世紀前半の円墳。径85m・高さ12.5mで2段築成。全面に葺石・埴輪あり。周溝一部残存。埋葬施設は箱式石棺(墳頂部盗掘抗から緑泥片岩の板石が発見され、板石には組合式の溝が掘り込まれており、埋葬主体の箱式石棺と思われるとのこと)。滑石製勾玉1点、円筒・形象・家形埴輪が出土。被葬者は在地の首長。県下の円墳では奈良市の富雄丸山古墳、大和高田市のコンピラ山古墳に次ぐ直径85mの巨大円墳。向山丘陵の最高所にあり、近内古墳群の盟主的な古墳で、群中最も古い時期に築造されたと考えられている。墳丘テラス状の所は墓地として利用されている。墳丘の雑木林をすり抜けて墳頂には登れるが、径8m・深さ1.5mの大きな攪乱跡があるだけ。

駐車位置         近内鑵子塚方面     登り口

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解説板         テラス状部分の墓地    葺石とAファイル       墳頂部攪乱跡

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丸山古墳

五條市三在町、5世紀中頃の円墳。2段築成、径約37m・高さ約6.5m。葺石、円筒埴輪の列あり。墳丘周囲には幅5mの周溝と幅12mの外堤が巡っていた。埋葬施設は不明で、墳頂部に長さ9m、巾3mの盗掘穴があるらしい。墳頂部で須恵器片、外堤で埴輪片が出土。1990年に県道建設に伴い、古墳北方の小規模な発掘調査をしたらしい。被葬者は不明。近内鑵子塚古墳に続いて築造されたと考えられ、規模は縮小するが、周濠と外堤を持つ立派な古墳で、近内鑵子塚古墳と同一系譜集団によって築造されたと思われるとのこと。ある古いブログでは「周濠と外堤を持ち、外堤は後世の開墾でかなり破壊されているが、周濠は驚くほど旧状をよく残している」とのことだが、今は雑木林で、殆ど墳丘は確認できなかった。

遠景南東望        進入口(無施錠)                  たぶん墳丘?

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西山古墳

実際の訪問順は13番目。位置的に丸山古墳に近いので、ここで掲載しています。

五條市三在町。5世紀中頃~後半の方墳。東西43m・南北48m・高さ6.5m。基底部が水田下に埋没しているが本来は一辺54mらしい。斜面に葺石あり。平坦面には円筒埴輪を並べていたとのこと。埋葬施設は未調査のため不明。周辺に緑泥片岩の板石があり、複数石棺埋葬の可能性もあるが、出土遺物も不明。1977年の測量調査のみで、被葬者も不明。近内古墳群を代表する首長墓のうち最も東に位置し、墳丘規模・形態が「つじの山古墳」と類似し、同一基準で作られた可能性が指摘されている(築造はこの古墳のほうがやや古い)とのこと。北東部の墳丘が一部崩れたり、墳丘の周濠跡が池・水田・私有地となったりしている。日時の記載がないブログに「墳丘上にも登れる・・・・・墳丘中段の北側に小さ神社があり祠の台に緑泥片岩が使われたり所々に散在することより恐らく箱式石棺の一部と思われます。お見逃しのないように」と貴重な記事がありましたが、鬱蒼とした杜のようだし、時間の都合で登墳はパスしました。

なお、これまたブログ記事掲載時に気付いたが、墳丘北側にアクセス道らしきものがあり、そこからなら昇れただろう。時間の余裕をもって現地で入念に周辺観察すること、事前調べの重要性につき反省

南東側は私有地で入れない。    西望               南西望

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整備状態、夏と冬、1年違いで周辺風景が一変するので、古墳散策ブログでは、散策日時も貴重な情報ですね。私のブログも、2021年以降には、参考にならないかも・・・?

続いて⑨今井1号墳→⑩こうもり塚古墳→⑪南阿田大塚山古墳→⑫黒駒古墳と、五條市のメイン古墳を巡ります。

今井1号墳 - OSAKA-TOM’s diary

 

伏見八幡神社古墳周辺

伏見八幡神社古墳周辺

①塚廻り古墳跡→②ビワノ木古墳跡→③鬼ケ城古墳跡→④伏見八幡神社古墳

2020年11月10日(火)。

奈良県五條市の古墳を巡る前に、県道30号線沿いの奈良県御所市の古墳に立ち寄った。

私が車で巡った順に掲載しています。


塚廻り古墳跡

御所市小林330=小林保育所の南隣。南阪奈道路-葛城IC出口=太田南交差点から30号線南進3.5km=兄川橋南詰交差点右折すぐの御所市文化交流センターの南側に回る。径24mの円墳らしいが、墳丘跡は段状に囲ってあり、墳丘上も平らに舗装されている。墳形を表しているのかも?にしては・・・・? 築造年代など詳細不明で、葛城山麓に単独で所在。

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画像をクリックすると拡大されます。

ビワノ木古墳跡

御所市関屋字ビワノ木。塚廻り古墳跡付近の兄川橋南詰交差点から30号線南進2.8km=名柄交差点から309号線を西進。葛城山の南、水越峠越えの旧街道沿い田圃の中に、横穴式石室の石材が露出。墳丘は無く墳形不明。一番大きな石材は高さ140~150cm。須恵器が出土したらしい。石材から130m程北西側斜面にに孫九郎山古墳が有る。 

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鬼ケ城古墳跡

御所市関屋。ビワノ木古墳跡から集落の道を抜けて、305号線の狭い高架下を南下。奈良県遺跡地図「16B-0203」。田圃に開墾されて?墳丘は全く無い。作業小屋の西脇に石材がある。横穴式石室が有ったようで、 鬼ヶ城古墳の東側から飛鳥時代の瓦が出土し、葛城寺の可能性も指摘されているらしいが?????

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ここから30号線に戻りますが、上図の緑矢印部分が、普通車ならタイヤ幅スレスレで、「冷や汗もの」でした。その割に、行ったという事実しか残らないので・・・・・。

伏見八幡神社古墳=樋口古墳

鬼ケ城古墳跡から30号線に戻った所から南へ2.7kmで右(西)斜め下へ。

御所市伏見字樋口。伏見八幡神社の境内に3基ある円墳の一つ。奈良県遺跡地図では古墳名称は無く、「16C-0007」とある。

径10m程の円墳。境内の北西、末社「弁天社」祠が墳頂。祠の北東横に石材が露出し、石室が崩落している。石材の隙間から自然石を積み重ねた玄室奥壁が見える。ほぼ南向き?。本社殿背後に「16C-0009」の墳丘が残っており、径15m程。少し西の「16C-0008」は径10mの円墳らしいが、墳丘は良く分からない。いずれも発掘調査はされていなくて詳細不明。

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神社本殿裏16C-0009                        16C-0007への順路

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16C-0007への別順路                16C-0007へ

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                     石室崩落部               奥壁

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ここから、いよいよ五條市の古墳を巡ります。

五條猫塚古墳 - OSAKA-TOM’s diary

天皇の杜古墳

天皇の杜古墳

京都市西京区御陵塚ノ越町  2020.11.7(土)

乙訓古墳群現存古墳の北端。4世紀後半~末の前方後円墳桂川右岸の山麓。中世から、文徳天皇(平安時代850年即位の55代天皇)陵と伝承されており、古墳名の「天皇の杜もり」や周辺地名の「御陵」はそれに由来。現在も墳丘が良好に保たれ、1988-1989年度(S63-H1)に発掘調査実施。前方部がやや細長い柄鏡式の前方後円形で、前方部は南南東方向。墳丘長83m。後円部2段築成、幅50.5m・高さ7.2m。前方部2段築成、幅33.5m・高さ4.8m。墳丘83mは京都市内では最大級。墳丘表面では葺石・埴輪列(円筒埴輪・朝顔形埴輪)が検出されている。周濠は巡らされていないが、周濠様の兆域区画が認められている。主体部の埋葬施設は未調査。被葬者は明らかでないが、桂川右岸を治めた有力者と見られている。1922年(T11)国の史跡に指定、現在は史跡公園として整備・開放されており、墳丘にも登れる。

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                               Yahoo!地図を編集加工しています。

山陰道国道9号線沿いにあり、場所は判り易い。ただ、車で行くなら、9号線沿いの焼肉屋さんの西裏に、一段低く隠れているような位置なので、うっかりしていると通り過ぎてしまう。

古墳東側南望           解説板付近から墳丘西側南望    解説板 

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                                画像をクリックすると拡大されます。

前方部南端北望                   同左見下ろし

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前方部から後円部北望       くびれ部東側           くびれ部西側

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後円部墳頂            後円部西側北望          後円部墳頂登り口

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なお、乙訓古墳群での現存古墳南端は、「天王山の戦い=山崎の合戦」で著名な大山崎町、天王山登山口の小倉神社付近にある「鳥居前古墳」。現在は竹藪で覆われ、墳形は殆ど崩れており、どれが古墳かも確認しにくい状態です。

鳥居前古墳の概要リーフレットはこちらからご覧になれます。/大山崎町

 

【参考】

osaka-tom.hatenablog.com