OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

乙訓古墳群

乙訓古墳群 

京都府向日市長岡京市 2019.10.28(月)

『雑感その2』

"古墳は全国に約15.9万基。うち消滅したのは約1.8万基で1割程。文化庁H28年度「周知の埋蔵文化財包蔵地数(⑧古墳・横穴)」の統計数字だが、本当にこんなものだろうか?古墳散策の前に、所在都市のホームページや遺跡地図等をネットで調べると、「消滅」がかなり多い。今回の乙訓古墳群も然り。古代日本では、本格的な京域として、41代持統天皇期の694年藤原京、43代元明天皇期の710年平城京が出現し始める。50代桓武天皇期784年の長岡京が今回の向日市長岡京市。造営当時に、天皇陵とか有力氏族のは避けたはずだが、名もない古墳は、躊躇なく削平されただろう。鎌倉時代武家台頭後の戦乱、築城、平和になってからも道路整備、宅地開発等、削平理由は様々。文化庁の数字は、発掘等で一旦古墳と確認された後、消滅したものなんだろう。そりゃ、統計調査開始前に消滅したものや、古墳と分っていないものなら古墳消滅にはカウントしないだろうし・・・。人間の生活のため場を失うのは、古墳だけでなく、熊や猪等の動物、森林等々。やむを得ない部分もあるが、100年、200年後はどうなってるだろうか?
 *上記の文化庁統計では、北海道・青森・秋田・沖縄は、古墳「0」とあるが、北海道には江別古墳群、青森では阿光坊古墳群、丹後平古墳群、秋田では岩野山古墳群等、昭和期や平成初期には見つかっているはずだが・・・・・。特に青森の阿光坊古墳群、丹後平古墳群は国の史跡なのに??" 

 

今回のコースには、桓武天皇皇后陵も含まれている。

【古墳豆知識その2 天皇陵と古墳】

 墳長200m以上の全国37基中、古代天皇陵とされるのは11基。皇后等6基。S22年制定の皇室典範では、陵(みささぎ) は 天皇、皇后・皇太后太皇太后(三后)等。その他の皇族は普通に「墓」という。近畿地方を中心に、山形県~鹿児島県まで1都2府30県にあり、天皇陵112(合葬あり)を含む陵は188、墓553、分骨所・火葬塚・灰塚など陵に準ずるもの42、髪歯爪塔など68、陵墓参考地(陵かも?という所)46で、総基数897。同域のものもあるので箇所数としては459箇所(H26/3現在)。陵墓は宮内庁により治定・管理され、初代神武天皇~124代昭和天皇まで特定している。ただ、一般に立入禁止で、埋葬施設本体の発掘調査もされていない。なので考古学的に古代天皇で被葬者がほぼ確実なのは、用明・(推古?)・舒明・天智・天武・持統天皇ぐらいとも言われている。仁徳陵とか応神陵と通称されているが、仁徳陵=百舌鳥耳原中陵、応神陵=惠我藻伏崗陵が正式名称。考古学的には、仁徳陵=大仙陵古墳、応神陵=誉田御廟山古墳とか言う。平安時代中期に編纂された「延喜式」の巻21の中の諸陵寮に、山陵諸墓に関する記述=『諸陵式』がある。日本書紀にある天孫降臨した瓊瓊杵ニニギ尊、その子=火火出見ホホデミ尊、さらにその子で神武天皇の父=鸕鶿草不葺合ウガヤフキアエズ尊の三つの神代陵(何故か鹿児島県)、天皇陵および三后陵37陵、皇后以下皇妃墓・外戚墓など47墓が記されていた。その後室町・戦国時代の戦乱でゴチャゴチャになり、江戸時代元禄・文久等数回の特定・修陵作業を経て、明治中期に現況となった。

向日市前半

          *「Yahoo!地図」を加工編集させていただきました。

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向日市前半

物集女車塚古墳

 ①物集女モズメ町 6C中頃 前方後円墳 きれいに整備されている。

 淳和天皇(840年没)の棺を運んだ車を納めた地という伝承が「車塚」の由来らしい。全長約46m、後円部直径約24~32m、高さ9m、前方部長さ約18~23m、幅約39m、高さ約8m。後円部、前方部とも二段築成。墳丘にはごく一部に葺石が施され、埴輪が並べられていた。埋葬施設は「畿内型」の「横穴式石室」で、形がきれいに残り、毎年内部が一般公開される*。石室奥壁に沿って置かれた石棺は「組合せ式家型石棺」で、二上山凝灰岩製の板材。縄掛突起が遺存。石室構造や副葬品(馬具、ガラス製の装飾品、金属製の冠の断片、武器、土器等)から、埋葬者は6C前半に弟国宮をつくった継体大王と所縁が深い人物と考えられているとのこと。
*2019年は5月22日~31日。鉄柵でなく鉄扉なので、普段中は見られない。 

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南条古墳

 ②物集女町南条 5C円墳 墓地の中で標識がないと分からないかも。

 向日市立第2向陽小学校の西側の墓地内にある。直径約23m、高さ約3~4mで、段築はなく、墳丘に葺石が施され、埴輪が並べられていたらしい。埋葬施設は盗掘により破壊されているが、木棺を直接埋葬していたと考えられているとのこと。 

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寺戸大塚古墳 

 ③寺戸町 4C前半 前方後円墳 後円部横が無施錠。

 向日市立第2向陽小学校から西に続く竹林道沿いにある、古墳時代前期。全長約98m、後円部直径約54m、高さ約10m、前方部幅約45m。後円部が三段築成、前方部が二段築成で、斜面に葺石が施されており、平面には埴輪が大量に並べられていたらしい。埋葬施設は後円部と前方部から一室ずつ発見されており、双方ともに竪穴式石槨、後円部は地元の西山産の板石製で、前方部は大阪府柏原市産の板石製。後円部は埋葬の中心的な場だが、前方部の施設にも後円部と同等の副葬品(鏡や勾玉などの装身具、鉄刀や剣などの武器、鎌や斧などの工具、埴輪等)が納められていたことから、前方部の埋葬者も手厚く葬られる地位の高い人物と考えられるらしい。前方部は竹林となっている。

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右横から手前に(〇印に道標)       後円部       左手が前方部

伝高畠陵古墳

 ④50代桓武天皇皇后 藤原乙牟漏高畠陵  寺戸町

 宮内庁治定陵。直径約65m、高さ約7mの円形。もとは古墳時代前期の円墳だったとされる。皇后は式家藤原良継の娘、安殿アテ親王(51代平城)と神野親王(52代嵯峨)の母。

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妙見山古墳

 ⑤寺戸町芝山 4C中頃~5C前半 前方後円墳 今は消滅。

向日市後半

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向日市後半

五塚原古墳

 ⑥五塚原イツカハラ 寺戸町芝山 3C中~後半頃 前方後円墳

 「はり湖池」西側。前方部はバチ形で、箸墓古墳と共通の段築構造が確認されており、最古級の前方後円墳と考えられるとのこと。全長約91m、後円部直径約54m、高さ約9m、前方部長さ約41m、高さ約4m。墳丘は、後円部が三段築成、前方部が二段築成、全体に葺石が施されていたらしい。2019.9後円部から石室が出土したと、同市埋蔵文化財センターが発表。墳頂を掘り下げた竪穴式石室で、壁面に川原石のみを積む工法が採用されていたことが判明。古墳時代最初期の大型前方後円墳の石室が出土すること自体珍しく、同古墳の形は箸墓古墳に酷似するとのこと。

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池の間の進入路      標識   右=後円部墳頂 左=墳裾周回 後円部墳頂

元稲荷古墳 

 ⑦向日町北山 3C後半頃の前方後方墳。公園っぽいが墳丘は鮮明。

 桂川右岸の向日丘陵最南端に位置する大型前方後方墳。南北方向を主軸として前方部を南方に向ける。向日神社北側の勝山公園内。「元稲荷」の名は、後方部頂上にかつて向日神社の稲荷社があったことに由来するらしい。全長約94m、後方部長さ約50m、高さ約7m。前方部長さ約43m、高さ約4mで、墳丘形状は、箸墓古墳西殿塚古墳との類似性があり、造営に際しては箸墓古墳がモデルプランとされ、西殿塚古墳の技術も援用されたと指摘されるとのこと。
墳丘全体には葺石が施され、後方部は三段築成、中央部に全長5.6m、北端幅1.3m、南端幅1.0m、高さ1.9mの竪穴式石槨が設けられ、11枚の天井石で覆われていたらしい。割竹形木棺が納められていたらしく、刀剣、槍、鏃、斧、鑿、刀子、鋤、鍬先などの副葬品も残っていたとのこと。 向日丘陵では他にも大型前方後円墳数基が分布し、「向日丘陵古墳群」と総称される。埴輪片・壺形土器片、特殊器台形埴輪片等から古墳時代前期の3C後半頃。向日丘陵の首長墓群では五塚原古墳に次ぐ時期の築造らしいが、本古墳は前方後方形である点で、五塚原古墳とは異なり、ヤマト王権と一定の距離を置いていた様子が窺えるとのこと。

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 前方部南東角     後円部      前方部東面南望   前方部西面南望

長岡宮跡 大極殿公園 

 ⑨長岡京大内裏後 (⑧省略)

 

 以上①、②、③、⑥、⑦が乙訓古墳群として国の史跡。詳細は向日市のHPで。

www.city.muko.kyoto.jp

長岡京市前半

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長岡京市前半

井ノ内車塚古墳 

 ①井ノ内向井芝 6C前半 前方後円墳 半壊だが雰囲気はある。

 全長約39mの前方後円墳。後円部径約24m・高さ約3m、前方部幅約26m・高さ約2.5m、周溝を備えたらしい。後円部西側に造出しがあり、形象埴輪(家・蓋・盾・巫女・馬・犬・鶏・石見型)などが出土し、後円部には片袖型の横穴式石室の存在が確認されたとのこと。

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井ノ内稲荷塚古墳 

 ②井ノ内小西 6C前半 前方後円墳 近くに寄れず、はっきり確認できず。

 全長46m。後円部径29.5m・高さ4m、前方部幅29.5m・高さ3.5m、後円部で片袖型の横穴式石室(玄室部長さ4.6m・幅2.2m、羨道部長さ5.5m・幅1.3m)、前方部で木棺直葬による埋葬施設が見つかり、玉類や金銅製馬具、須恵器などが出土したらしい。 

長法寺七ツ塚古墳群 

 ③長法寺北畠 古墳時代後期

 1基の帆立式古墳と6基の方墳。3号・4号墳には複数の主体部があり、須恵器などの供献土器とともに装身具等も副葬されていた。大小7基の古墳が直線上に30m間隔に並んでいたらしい。現在では4基が残存とのこと。

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長法寺南原古墳 

 ④長法寺南原地内 4C後半 前方後方墳  

 長法寺の前の道を通り、竹藪の中の強烈な登り坂を進んだところあるらしいが、見つけられなかった。墳形が改変されているが竪穴式石室が遺存する。まー、見つかっていても、竹林のため立入禁止だったのだが。標高145mの丘陵に立地。全長60m=前方部2段、一辺20m。後方部3段、1辺40m。 埋葬施設は後方部竪穴式石槨、前方部小竪穴石室。後方部の竪穴式石槨から銅鏡、勾玉や管玉などの玉類、鉄製の武器や農具・工具、銅鏃、石臼や石杵など多彩な副葬品が出土。銅鏡は6面あり、その内の4面は三角縁神獣鏡。同古墳は、長岡京市では最も古く、銅鏡など中央政権との繋がりを示す副葬品を複数有することなどから、乙訓地域の権力者の盛衰を知るうえで重要だとのこと。 

長岡京市後半

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長岡京市後半

大原古墳群 

 ⑤河陽が丘2丁目、奥海印寺大原、長法寺水呑・堂ノ上 1~6号墳 全く消滅 

走田古墳群 

 ⑥奥海印寺走田-奥ノ院-明神前(走田神社・寂照院境内地) 古墳時代後期末

 走田神社から海印寺寂照院にかけての南斜面に広がっていた古墳群。(1~10号墳、ほぼ消滅)。9号墳の横穴式石室は寂照院本堂の北側(背後)に保存。 玄室内には組合せ式家形石棺の部材が残されていた。玄室長さ約3.1m、幅1.8m前後、高さ2.3m程度、羨道は長さ2.3m以上、幅約1.5m。

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今里大塚古墳 

 ⑦天神5丁目 古墳時代後期末 半壊だが公園として整備されている。

 乙訓地域で最後に築造された大首長の墓と考えられる大型古墳。現墳丘は直径約45mの円形だが、周囲には盾形の周濠が巡らされ、墳丘が前方 後円形であった可能性があるらしい。埋葬施設は巨石を用いた横穴式石室で、石材の大きさや石室の構造から奈良県明日香村の石舞台古墳と関連する可能性もあるとのこと? 

 

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開田古墳群 

 ⑧開田カイデン1丁目、長岡1丁目他(長岡京市役所の北からJR長岡京駅の北西) 古墳時代中期後半から終末期 ほぼ住宅街 

恵解山古墳 

 ⑨恵解山=イゲノヤマ 勝竜寺30 5C前半 乙訓地域最大の前方後円墳 完璧に整備されている。

 全長128m(後円部径78.6m、前方部長49.4m)、前方部3段、後円部3段。後円部に竪穴式石槨、前方部で副葬品埋納施設検出。古墳時代前期(3~4C)には向日丘陵(向日市)を中心に小さな地域を首長が治め、古墳をつくっていたが、古墳時代中期(5C)になると、巨大な前方後円墳である恵解山古墳が平野部に誕生。また、当時貴重であった鉄製の武器類を多量に埋納するなど、強い権力をもっていたことがうかがえ、被葬者は、乙訓地域全土を治めた有力な人物の墓ではないかと言われているらしい。

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勝竜寺城公園

以上長岡京市では乙訓古墳群として、①、②、④、⑦、⑨が国の史跡。

詳しくは長岡京市HPで。

nagaokakyo-maibun.or.jp

約20kmの行程のフィナーレと言える恵解山古墳。圧巻の規模と整備状況。終わりよければ・・・である。16時JR長岡京駅から帰路に。これで50ヶ所、397基。