谷脇古墳周辺
2020年6月9日(火)。アカサカ古墳・ニコ塚古墳→谷脇古墳。
「松源院香久山古墳」からの続き・・・・。
(国道166号線)→赤坂天王山古墳=桜井市倉橋→《女寄(みより)トンネル》→(農免農道)→松源院香久山古墳=大宇陀迫間はさま→(国道166号)→《拾生交差点》→(国道370号)→(県道219号)→(農道)→アカサカ古墳・ニコ塚古墳=大宇陀守道もち→谷脇古墳=大宇陀守道→(農道)→(県道219号)→(県道135号)→(農道)→稲戸宮山古墳=菟田野稲戸→不動塚古墳群=菟田野稲戸→(農道?)→古市場古宮谷1号墳=菟田野町古市場ふるいちば→(農道?)→(国道166号)→(県道218号)→見田・大沢古墳群→(県道218号)→(国道369号)→檜牧石風呂古墳=榛原町檜牧ひのまき→(国道369号)→北谷古墳群=榛原町福地→(国道369号)→(農道?)→赤瀬古墳群=榛原赤瀬あかぜ→(国道369号)→(県道31号)→(国道370号)→(県道198号)→心境荘苑古墳=榛原笠間→(国道166号線)
*なお、画像はクリックすると拡大されます。
アカサカ古墳・ニコ塚古墳
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「松源院香久山古墳」から国道166号に出て、拾生ひろ交差点を南下→(国道370号)→県道219号に入る。そして219号から古墳方面への分岐がポイント。カーブミラーを左折すると、「えッ?こんなとこ?」という車1台がヤッとの道。ここを道なりに350m行くと、左手道沿いに車1台停められる程度の離合スペースがある。この辺りが目的地。
*Yahoo!地図を編集・加工しています。
370号から219号の分岐 219号からの分岐 古墳への道 離合スペース
ここからの話が少しややこしい。「他の古墳ブログ」と「遺跡地図等」の位置関係が逆になっている。
30年程前と5~6年前のブログでは道の南側がアカサカ古墳。
しかし「遺跡地図」や「前方後円墳データベース」では道の北側となっている。
ここからの説明は、遺跡地図の番号(15D-00××の後2桁)を使います。
なお、確実な事実としては「62」には「金毘羅大権現」の石碑がある。
奈良県遺跡地図Web/奈良県公式ホームページ 前方後円墳データベース を編集・加工。
「過去のブログ」は石碑のある「62」をアカサカ古墳、「61」をニコ塚古墳とする。
・「遺跡地図」→ 道の北側の「60」がアカサカ古墳。「62」は無名の円墳。
そして「28」がニコ塚で径25mの円墳。
・「前方後円墳データベース」→ 遺跡地図の「60」がアカサカ古墳。「62」がニコ塚古墳。
私の見方。アカサカ古墳は「60」。そして「62」はニコ塚古墳かどうか名称不明だが前方後円墳。というのは「60」の墳裾を巡る道の形。道を作る時は山や谷等の地形に沿う。「60」古墳では、以下の写真のように西から東に道が墳形に沿う。
西から右に一度カーブ(くびれ部)、そのすぐ先で左にカーブ(後円部)、円を描くように回り込む(後円部東端)
また「62」については、一見すると古墳とは分からないが、碑があるというのは、それなりに伝承があったのだろう。
*金毘羅権現 は日本の神仏習合の神で、中世から近世にかけて「こんぴらさま」「こんぴらさん」で知られた。江戸時代に天狗の面を背負った白装束の金毘羅道者が全国を巡って金毘羅信仰を普及し、江戸後期には、いわゆる四国の金毘羅参りが盛んになったらしい。
「62」へ 「金毘羅大権現」の石碑 前方部?
道を挟んですぐ北側に「61」がある。先程の離合スペース先の、三差路の向こう側。素人目には切通しの様にしか見えない。
三差路 道沿い墳丘東望 近景西望 遠景西望
まー、どっちでもいいが、谷脇古墳に行くのにどうせ通るので・・・寄ってみては?
谷脇古墳
アカサカ古墳から200m程下ると鶏舎がある。鶏舎東端の分岐(☆印)がポイント。
たまたま鶏舎のご主人がおられたので、倉庫前に車を置かせていただいた。
*了解を得ず駐車厳禁。もっと麓に降りて邪魔にならないところに駐車し、そこから歩くしかない。
分岐北西望 谷脇古墳はここを上がって、北西突き当りの鶏舎手前から草叢に入ったところ。
*私有地なので、鶏舎のご主人に了解を得るべきだが、ここには住んでおられないようだ(来られるまで待つしかない?)。 ご主人談。「古墳が分かりにくい場所にあり、ウロウロ鶏舎などに入られると、感染等の恐れもある。相当以前、県に鶏舎とは逆の西側に道を作るよう依頼したが、認められなかった」とのこと。
開口部前の解説板 開口部 羨道
羨道は長さ4m程、幅 1.5m程で、入ってすぐに石棺が見える。羨道はやや片側(東側)に寄っているが、一応両袖式。玄室は長さ 2.5~2.9m,幅が 3.5mで横長の長方形。いわゆるT字型石室。石材は川原石で、四方から壁を持ち送り、天井石1枚を載せている。床には全面に小礫がある。床面ほぼ中央に切石(流紋岩質溶結凝灰岩=榛原石か花崗岩製)を使った組合式箱式石棺が埋め込まれている。東西逆向きに頭を向けた2体分の人骨が出土したらしいが、幅は一人分位しかない。
石棺 石棺西小口(鞄は30cm四方)↓
西側壁 東側壁中央部 天井石(左が西) 開口部 石棺俯瞰
墳丘はやや楕円形で、東西18m・南北15m・高さ2.5mとのこと。石室内からは金環4個(2対)・須恵器(平瓶・壺・坏身・坏蓋各1個)や鉄製品(鏃・刀子)が検出され、築造時期は古墳時代後期の6世紀中葉頃と推定されるらしい。
鶏舎のご主人がおられたことは、本当にラッキーだった。マニアでもあまり訪れる方はないのだろう。
鶏舎東端の分岐(☆部分)を南東に下り、350mで京大の観測所脇の三差路を右(南東)に折れ、道なりに南西に大きくカーブし、県道219号に戻る。
続きは「不動塚古墳」へ。