都塚古墳・打上古墳
2021.6.8(火)。下図⑪都塚古墳→⑫打上古墳
都塚古墳
⑪都塚みやこづか古墳。高市郡明日香村阪田。6世紀後半の方墳。別称は金鳥塚。
復原規模は東西41m・南北42m、高さ4.5m以上。墳丘表面は階段状に石積みされ、各段0.3~0.6mで6段以上あったとされる。このような「階段ピラミッド」形状は日本で類例がなく、5世紀頃に朝鮮半島の旧高句麗・旧百済で見られる(階段状)積石塚との関連があるらしい。ただ、現在は階段状とは認識できない。周囲に、幅1m~1.5m・深さ0.4mの周濠が巡っていたとのこと。
南東望 墳頂から石舞台方面 案内
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両袖式の横穴式石室で、南西に開口し、石室長約12m、羨道長6.9m・幅約2m・高さ約2m、玄室長5.3m・幅2.8m・高さ3.55m。古墳時代後期~終末期特有の、きついめの持ち送りが見られる。玄室には二上山凝灰岩製の刳抜式家形石棺(長2.23m・幅1.46m・高さ1.72m)が据えられており、木棺(非現存)の追葬も推定される。鉄鏃・刀子・須恵器以外の副葬品の大半は盗掘に遭っているとのこと。
羨道部 楣石高さ120cm程
玄室 石棺 床 天井部 石棺俯瞰 前方の縄掛け突起
(奥から見て)右側壁 基底石 右袖 左側壁 基底石 左袖
一説には約3万人が関わったと言われる。一帯は飛鳥時代蘇我氏が勢力を誇った地域で、馬子の墓と推定される石舞台古墳や、馬子の邸宅と推定される島庄遺跡などがある。本古墳は、石舞台古墳よりやや遡るので、馬子の父の稲目(欽明32年=570年?没)とする説がある。また、当時は前方後円墳の終焉から定型化大型方墳等への過渡期であり、前方後円墳に代わる次の形式を模索する過程で、中国・朝鮮半島の積石塚を参考にして築造されたとする説もある。
打上古墳
高市郡明日香村細川。6世紀後半~7世紀前半の円墳。奈良県遺跡地図17B-0017。東の上かむらから西の上居じょうごまで広がる約200基から成る群集墳=細川谷古墳群の一つ。遺跡地図では径20mの円墳。
155号(多武峯見瀬線)と都塚古墳へ行く15号線の分岐から約500m、バス停細川の手前から北へ300m程登る。標高差80mの急勾配。
バス停手前標識 3分位で最初の分岐
次の分岐を右に行くと、古墳標識があり、その左が進入路。向こう側には獣除けのフェンスがある。
8分位で次の分岐 分岐から70m程で標識
標識左の獣道を40~50歩登ると、すぐ右手上に開口部がある。開口部が、坂のすぐ上だし、逆三角形で狭く入室しにくい。
花崗岩製の両袖式の岩屋山式石室が南に開口。基段の巨石上辺が一直線に並ぶ、奥壁二段、三枚の天井石。玄室には小さな蝙蝠が2匹いた。被葬者は蘇我氏関連の人物と言われる。
玄門 玄室 天井と蝙蝠
(奥から見て)右側壁 左側壁 開口部
【余録】
石室から帰る途中、出くわした動物。鼻が少し長く、狸ではなさそうだ。鼻筋が白くないのでハクビシンでもなさそう?一番似ていたのはニホンアナグマだったが・・・。 今まで、雉・野兎・野生の鹿・(檻罠にかかった)猪に遭遇し、打上古墳石室内の蝙蝠と合わせ、これで6種類目。