OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

古市古墳群

古市古墳群

古市古墳群大阪府羽曳野はびきの市から藤井寺市に広がる。前方後円墳33基(現存22)、円墳34基(現存7)、方墳52基(現存17)、墳形不明8基(現存1)で、計127基(現存47基)が現存する。

そのうち、宮内庁により25基が陵墓に治定され(天皇陵8・皇后陵2・皇族墓1・陵墓参考地1・陵墓陪冢13)、20基が国の史跡に指定されている。2019年7月、26基が世界文化遺産に登録された。

【参考】古市古墳群一覧表/羽曳野市

 

数が多いので、主なものを、おおよそ西→東、北→南、主墳→陪塚の順に掲載します。

地図上の青枠・〇数字と、解説の古墳名〇数字が対応しています。

なお、古墳の写真は撮影時期が違うものが混在しています。

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                               Yahoo!地図を編集加工しています。

①高鷲丸山古墳(島泉丸山古墳と島泉平塚古墳)

羽曳野市島泉しまいずみ8丁目。島泉丸山古墳は径76m・高さ8m・2段築成の円墳。埴輪・須恵器・土師器などが検出され、出土埴輪から5世紀後半頃の築造と推定される。島泉平塚古墳は、丸山古墳の東南東約100mにある一辺50m・高さ8m・2~3段築成の方墳。第21代「大泊瀬幼武尊おおはつせわかたけるのみこと雄略天皇」の『丹比高鷲原たじひのたかわしのはらのみささぎに治定されている。江戸末期(1864年)までは丸山古墳のみが雄略天皇陵とされていたが、同年に平塚古墳が雄略天皇前陵として陵域に取り込まれ、その後の修陵で合わせて前方後円形に整形された。
隼人塚古墳 島泉8丁目。丸山古墳を囲む池の北方70mにある一辺20mの方墳。遺構・出土品・築造時期等は不詳。雄略陵「飛地い号」として宮内庁が管理。『日本書紀』にある雄略天皇に殉死した隼人の墓伝承がある。民家にビッシリ囲まれていて、西側の隙間から何とか見える程度。

(2016.4撮影) 丸山遠景  参道入口         制札           拝所 

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*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

②津堂城山古墳

藤井寺市津堂1丁目。墳丘長208m、前方部幅117m・高さ12.7m、後円部径128m・高さ16.9m。4世紀後半築造と推定される。世界遺産、国の史跡。後円部墳頂辺りのみ藤井寺陵墓参考地。前方部は南東を向き、二重の周濠が墳丘を囲んでいる。

津堂城山古墳 - OSAKA-TOM’s diary

③岡ミサンザイ古墳

藤井寺市藤井寺4丁目。前方後円墳で全長242mは全国16位の規模、5世紀末の築造と推定される。世界遺産第14代「足仲彦たらしなかつひこ仲哀天皇」の『恵我長野西陵えがのながののにしのみささぎに治定されている。ただし仲哀天皇非実在性が強く、築造年代も仲哀天皇の想定年代に合わないことから、現在では第21代雄略天皇(没年479年)や、同天皇と同一視される倭王武(『宋書倭国伝)、ワカタケル大王(稲荷山古墳出土鉄剣銘)の陵とする説もある。

(2015.9撮影) 制札         拝所               前方部北東望 

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鉢塚古墳 藤井寺4丁目3。岡ミサンザイ古墳の北側約100m。前方部が西向の前方後円墳で墳丘長60m。5世紀末~6世紀初めの築造と推定される。世界遺産、国の史跡。埋葬施設・副葬品は不詳。この他、5世紀末~6世紀築造の落塚古墳(消滅)という径20mの円墳もあった。いずれも岡ミサンザイ古墳の陪塚説がある。 

(2022.2撮影) 鉢塚北東望      前方部裾から後円部望       後円部墳頂から前方部望

 

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割塚わりづか古墳 羽曳野市野々上ののうえ1丁4。岡ミサンザイ古墳拝所の東側約200mにある一辺30mの方墳。詳細不詳だが4世紀末~5世紀初めの築造と推定され、国の史跡。この他、4世紀末~5世紀初め築造の岡古墳(消滅)という一辺33mの方墳があった。これらは、築造時期が1世紀も早く、岡ミサンザイ古墳の陪塚とは考えられていない。

(2022.2撮影) 割塚南東望      南望               案内

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*ヒチンジョ池西古墳の石棺・野中寺

羽曳野市野々上5丁目9。高野山真言宗「野中寺やちゅうじ」の境内に、7世紀末~8世紀初頭築造と推定されるヒチンジョ池西古墳の石棺が保存されている。野中寺は寺伝で聖徳太子の命により蘇我馬子が創建したとある。太子が没したのは推古30年(621)だが、塔土壇の発掘調査で創建は推古6年(598)頃であることがほぼ確実で、寺伝は太子信仰の中で生まれたものとされる。当郷は百済系渡来氏族「船史ふなのふひと(後の船連)」の本貫。王辰爾おうしんにを祖とする百済王氏一族(6世紀後半頃から船舶関連を掌握)で、船氏・津氏・白猪しらい氏らが活躍しており、この船氏の氏寺と断定されている。

塔と金堂は向い合っていた。塔が西で金堂が東の配置は法隆寺類似だが、法隆寺は向かい合わず各々南面する。向き合う形は川原寺式だが塔と金堂は逆。「白鳳期官寺川原寺の変形配置」だと考えられる。
なお、境内墓地には浄瑠璃で有名な「お染・久松」の墓がある。

(2015.9撮影) 山門  塔跡        金堂跡       石棺        案内

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④野中ボケ山古墳

藤井寺市青山3丁目。前方後円墳で墳丘長122m、後円部径65m・高さ11.5m、前方部幅107m・高さ13m。 6世紀前半の築造と推定される。第24代「億計おけ仁賢天皇」の『埴生坂本陵はにゅうのさかもとのみささぎに治定されている。17代履中天皇の孫=市辺押磐皇子いちのべのおしはのみこの子。23代顕宗の同母兄。『日本書紀』では、安康3年に父市辺押磐皇子が、雄略天皇に謀殺され、兄弟は丹波国与謝郡(丹後半島東半)に逃げ、後に播磨国明石や三木に隠れ住んだ。22代清寧天皇に子がなく、発見された兄が皇太子となった。清寧が崩じた時、兄弟が皇位を譲り合い、その間飯豊皇女が執政したともある。結果、先に弟である弘計をけ顕宗天皇が即位したが3年で崩御し、兄の仁賢天皇が即位した。南東のくびれ部に造出しがあり、周濠で囲まれている。外堤調査で、後円部北東側堤と前方部北西側堤で円筒埴輪列、前方部北西側堤に接する斜面で2基の埴輪窯が発見されている。

(2015.9撮影) 制札    拝所           拝所横東望        遠景北望

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野々上ののうえ古墳 羽曳野市野々上3丁目。野中ボケ山古墳前方部西角の北東60m。1辺約20mの方墳で、出土埴輪から4世紀後半の築造と推定される。時期的に2世紀程ずれがあるが、仁賢天皇陵の「い号陪塚」として宮内庁が管理している。

(2022.2撮影) 南西望        南東望              東望

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⑤峯ヶ塚古墳 

羽曳野市軽里かるさと2丁目。前方後円墳で、長さ96m、後円部径56m・高さ9m、前方部幅74.4m・高さ10.5m。5世紀末~6世紀初の築造と推定される。世界遺産、国の史跡。江戸時代は日本武尊やまとたけるのみこと白鳥陵に比定されていた。また允恭天皇皇子の木梨軽皇子きなしのかるみこの墓との伝承もあった。1992年(H4)の発掘で、後円部墳頂中央部の石室から、銀や鹿角製等の装飾付の大刀、鉄鏃、挂甲小札けいこうこざね等の武具、轡くつわ・鐙あぶみ等の馬具という軍事的な副葬品や、装飾品となる金銅製の冠帽や帯金具、魚佩ぎょはい、銀製の垂飾りや花形飾り、ガラス玉や石製玉類等が見つかり、総数は3500点以上に及んだ。また成人男性の骨や歯も出土。また内濠幅約11m・内堤幅約18m、外濠幅約8mの二重濠をもち、墓域総長約168m、幅約148mと判明した。古墳時代後期には古墳が全般的に縮小するなかで、二重濠古墳を築造できた被葬者は大王級の権力者だったと推測される。発掘は中断され、一帯は峰塚公園として整備されている。

(2022.2撮影) 遠景南望       案内               公園案内

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(2022.2撮影) 墳丘南面西望    南側くびれ部(墳丘樹木撤去作業中)  墳丘南面北東望

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(2022.2撮影) 前方部遠景東望    展望広場から           展望広場にある案内

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小口山こぐちやま古墳 峰塚公園展望広場の西隅辺りにある終末期の円墳。横口式石槨が南向きに開口する。1912年(M45)開墾によって発見され、喜田貞吉によって「河内軽里の掘抜石棺」として紹介された。1979年(S54)~1980年(S55)にかけて発掘調査された。径14mの円墳とみられ、墳丘の東西側と北側に地山を削った掘割が確認された。墳丘の高さは現在は2.5mだが本来は5m以上あったと推測されている。

(2022.2撮影) 開口部北東望     案内               開口部

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横口式石槨は長さ2.7m・幅1.6m・高さ1.6m、巨大な二上山の白色凝灰岩を刳り抜いている。内部奥行きは2.13m、幅は入口が0.87m、奥壁は1.17m、高さ0.63m。南北に長い箱形で、上部の外側四辺を斜めに削って屋根形とし、全体外形は家形石棺に近かったと思われる。天井部分は長さ2.14m、幅0.96m。石槨は、長さ1.7m・幅1m・厚さ30cmの板石を三枚敷き並べた台座の上に置かれていた。東・西・北の三側面には石英安山岩の大型自然石を積み上げて護石としていた。副葬品等の遺物は無く、石槨型式から7世紀の第4四半期を中心とする年代と推測されるとのこと。

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来目皇子埴生崗上墓くめのみこはにゅうのおかのえのはか 峰塚公園の西200m程にある。何故か古市古墳群にリストアップされないことが多い。聖徳太子の同母弟。推古10年(602)4月新羅征討のため軍を率い筑紫に屯営したが6月に発しす、2月筑紫で薨去。考古学名は塚穴古墳、7世紀前半築造で1辺54mの大型方墳。

位置          (2022.2撮影) 遠景西望   制札           拝所

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⑥西浦白髪山しらがやま古墳

羽曳野市西浦6丁目。前方後円墳で墳丘長115m、後円部径63m・高さ10.5m、前方部幅128m・高さ11m。 出土円筒埴輪の破片の特徴から、6世紀前半築造と推定される。21代雄略天皇の子=第22代「白髪武広国押稚日本根子しらかのたけひろくにおしわかやまとねこ清寧天皇」の『河内坂門原陵こうちのさかどのはらのみささぎに治定されている。前方部幅が後円部径の約2倍あり、前方部が大きいのが特徴。後円部から外環状線を挟んだ東側にある小白髪山古墳(墳頂46mの前方後円墳)が清寧陵の「い号陪塚」に治定されている。

(2015.9撮影) 制札    拝所           北面東望     (2019.2撮影)小白髪山古墳東望

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⑦市ノ山いちのやま古墳

藤井寺市国府1丁目。前方後円墳で、墳丘長227mで全国20位。後円部高さ22.3m、前方部高さ23.3m、各3段築成。出土埴輪等から5世紀後半の築造と推定される。世界遺産第19代「雄朝津間稚子宿禰をあさづまわくごのすくね=允恭いんぎょう天皇」の『恵我長野北陵えがのながののきたのみささぎに治定されている。16代仁徳天皇の第四皇子。17代履中天皇・18代反正天皇の同母弟。『宋書』・『梁書』の倭の五王の「済」比定説もある。2基の陪塚が治定されている。前方部東側住宅街の小さな国府衣縫塚公園の東に隣接する衣縫塚いぬいづか古墳(「ろ号飛地」。径約20mの円墳。5世紀後半)と後円部東側住宅街にある潮音寺・国府八幡神社の南に隣接する宮の南塚古墳(「は号飛び地」。径40m・高さ9mの円墳。5世紀後半築造)。なお、衣縫塚古墳周辺には、埋没していた5世紀後半の兎塚古墳・兎塚2号墳(消滅)等いくつかの埴輪円筒棺墓が見つかっており、これらも陪塚と考えられている。

(2015.9撮影) 参道    拝所           西側南望         西側北望

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(2022.2撮影) 衣縫塚東望 南東望          宮の南塚南東望      西望

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⑦唐櫃山からとやま古墳

藤井寺市国府1丁目1。市ノ山古墳後円部の南東、土師ノ里駅の12号線挟んで北側。帆立貝形古墳で、墳丘長53m、後円部径38m、前方部幅21m。5世紀代築造と推定される。国の史跡。1955年(S30)、道路工事で後円部を含む墳丘の大半が消失。後円部には主軸と平行して 竪穴式石槨があり、阿蘇溶結凝灰岩製の家形石棺が納められていた。

(2022.2撮影) 唐櫃山遠景西望   近景                東望

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長持山古墳(消滅) 藤井寺市沢田。市ノ山古墳の後円部の西南に位置した円墳で、その陪塚とみられたが、宮内庁の指定から漏れ、墳丘は滅失している。家形石棺が墳頂に露出していたのがその名の由来。1877年(M10)頃、当時の堺県県令の税所篤さいしょあつしが南側石棺を発掘して、棺内に銅器・鉄剣があり、棺外の土中に甲が埋まっているのを見たという。1946年(S21)大阪府と京大考古学研究室が北側にあった別の石棺を調査した。この石棺は、蓋・身ともに両端に大きな円形突起のある古い形式の家形石棺で、川原石を積んだ長さ3.4m、幅1mの竪穴式石室に納められていた。石室の北部棺外に、衝角付冑しょうかくつきかぶと、挂甲けいこう1具、鞍・鐙・轡・杏葉ぎょうよう等の馬具類、刀、矛、鏃、鍬などが副葬され、南部棺外にも短甲が見つかった。その他原位置から移動しているが、帯金具破片、ガラス小玉、須恵器片等が棺の内外から検出された。挂甲は完形で、肩甲かたよろい、膝甲ひざよろい、籠手こて、臑当すねあてを添え、鐙は木心鉄板張、鞍金具は金銅製。南側の家形石棺には突起がなく、北側の石棺より新しい形式とされる。現在、2つの石棺は藤井寺市立道明寺小学校に保存されている。

⑧鍋塚古墳

藤井寺市沢田4丁目5。下記仲津山古墳後円部の北東すぐ。一辺63m(現状40m程)・高さ7mの方墳。世界遺産、国の史跡。濠があった可能性がある。葺石と埴輪列が確認されている。円筒埴輪の他、家形・盾形・靫ゆき形・蓋きぬがさ形の形象埴輪が出土。円筒埴輪には野焼き焼成でできる黒斑があり、類似の埴輪が出土した仲津山古墳との関係がうかがえる。

(2015.9撮影) 案内     墳丘北望        墳頂から允恭陵     墳頂から仲姫陵

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⑧仲津山古墳

藤井寺市沢田4丁目。「第15代応神天皇の皇后=16代仁徳天皇の母=仲姫命」の仲津山陵なかつやまのみささぎに治定されている。前方後円墳で全長290m、古市古墳群で誉田御廟山古墳に次ぎ、岡山県の作山古墳と同じく全国9位。後円部径170m・高さ26.2m・3段築成、前方部幅193m・高さ23.3m・3段築成。古市古墳群の巨大前方後円墳では、津堂城山古墳に次いで古く、出土埴輪の特徴から、5世紀前半の築造と推定される。世界遺産、周堤部が国の史跡。葺石と埴輪が確認され、くびれ部の両側には造出しがある。主体部は不明だが、石棺の存在や勾玉の出土が伝えられている。陪塚として、下記⑨三ツ塚古墳の八島塚中山塚が治定されている。

*松川塚古墳 藤井寺市古室2丁目1。仲津山古墳前方部北側で近鉄電車線路の南沿い。20mの方墳で、5世紀後半の築造と推定される。国の史跡ではあるが、保存状態は良くなく、墳丘も不明瞭。

(2015.9撮影) 制札  拝所        前方部南東望    墳丘北面西望   (2022.2撮影)松川塚?

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⑧古室山こむろやま古墳 

藤井寺市古室2丁目4。上記仲津山古墳前方部の南西すぐ。前方後円墳で、墳丘長150m、後円部径96m・高さ15m・3段築成、前方部幅100m・高さ9m・3段築成。4世紀末~5世紀初頭の築造と推定される。世界遺産、国の史跡。墳丘表面では葺石・円筒埴輪列・形象埴輪(家形・盾形・靫形・蓋形・冑形)が検出されているほか、墳丘東側くびれ部には造出しがある。また墳丘周囲には周濠・周堤が巡らされ、堤内側斜面においても葺石が認められた。主体部は不詳だが、後円部墳頂にある板石の存在から竪穴式石槨と推定される。副葬品は不明。古市古墳群では最初の大王墓と目される津堂城山古墳と同時期とされ、巨大前方後円墳(大王墓)に次ぐ大型前方後円墳として、当時のヤマト王権の政治階層を示す古墳といえる。

(2022.2撮影)前方部南西望 後円部方面        前方部方面        後円部北東望

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⑨三ツ塚古墳

藤井寺市道明寺どうみょうじ6丁目12。上記仲津山古墳の後円部から南側120m程、東から八島塚、中山塚、助太山古墳が並び、3基総称して三ツ塚古墳と呼ばれる。3基とも方墳で世界遺産。八島塚と中山塚は一辺50m。助太山は一辺35mで、他の2基の3分の2の平面を持ち国の史跡。3基とも同時に築造されたと考えられるが、5世紀前半説と7世紀説がある。八島塚は仲姫命陵の「ろ号陪塚」、中山塚は「い号陪塚」に治定されている。一つの周濠内に3基の古墳が並んで存在しており、周濠幅は10m~15mで、八島塚と中山塚との間は20m、中山塚と助太山との間は15mなので、濠を含めた3墳の総規模は東西195m、南北80mになる。八島塚と中山塚の間の周濠から修羅と呼ばれる大小2つの木製ソリが出土したことが有名。今は、間にマンションが建っている

⑨楯塚古墳跡

藤井寺市道明寺6丁目6。府営住宅建設時に調査され消滅。現在公園内に復元されている。帆立貝式前方後円墳で5世紀初頭。全長110m、墳長73m、後円部径46m・高さ7.5m。前方部幅20m・高さ約7.8m。造出しと周濠も確認された。主体部は粘土槨で、後半部の長さ7.8m・幅1.8mの割竹形木棺が納められていた。木棺内外からは鉄製武器(刀(片刃)51、剣(両刃)22、矛3、鏃375)・武具(方形革綴式短甲・三角板革綴式衝角付冑・三尾鉄さんびてつ=冑頂の装飾品、革製盾11)・農道具・変形獣形鏡・玉類・石釧いしくしろ・筒形銅器等が出土した。前方部に埋納施設があり、刀40・剣15・鎌2・鍬4・斧20等を検出。甲冑が鋲式ではなく革綴のみで、馬具や須恵器も出土していないため、誉田御廟山古墳以前の仲津山・古室山・二ツ塚と同時期と思われる。

なお、楯塚の西側に金塚しゅきんづか古墳(消滅。一辺27m・高さ4mの方墳。5世紀前半。2基の粘土槨で、南側割竹形木棺と北側組合式木棺から銅鏡、玉類、鉄製武器、武具出土)・金塚西古墳(消滅。一辺30mの方墳、5世紀中頃)。北側に鞍塚古墳(消滅。51mの帆立貝形前方後円墳。箱形木棺から銅鏡、玉類、武器、武具等出土)があった。なお、楯塚含めこれらは誉田御廟山古墳の陪塚だったとされている。

(2015.9撮影)八島塚南東望 中山塚南西望       左=中山塚 右=助太山  楯塚古墳跡

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⑩大鳥塚古墳

藤井寺市古室2丁目8。誉田御廟山古墳の北東すぐ、西名阪道南側に隣接。前方後円墳で全長約110m、後円部径73m・高さ約12m、前方部幅50m・高さ6m。埴輪の特徴から、5世紀前葉の築造と推定される。世界遺産、国の史跡。葺石と円筒埴輪列が確認され、くびれ部の両側に造出しがある。副葬品として銅鏡2面、鉄剣、鉄刀、鉄矛、鉄鏃が出土したと伝えられ、円筒埴輪、家形・蓋形・盾形・靫形・冑形等の形象埴輪も出土。

赤面山せきめんやま古墳 大鳥塚古墳北側、西名阪道の下。墳丘一辺15mの方墳と考えられる。大鳥塚古墳と同時期の5世紀前半と推定される。国の史跡。大鳥塚古墳の陪塚とされている。

狼塚おおかみづか古墳(消滅) 大鳥塚古墳の南東にあった径28mの円墳。囲形かこいがた埴輪が出土。8つの箱形パーツを組み合わせ、一辺につき2つずつ箱を直列させ、1.2m四方の範囲を囲っていた。囲った内部には、小ぶりの川原石を敷き詰め、その上に凹みをつけた羽子板形の粘土板が置かれていた。浄水祭祀場をかたどった埴輪との説もある。

(2022.2撮影)後円部北望  前方部南望        南東角          赤面山北西望

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⑪誉田御廟山古墳

羽曳野市誉田こんだ前方後円墳で、全長約425mは堺市大仙陵古墳に次ぐ全国2位の規模。後円部径250m・高さ35m・3段築成、前方部幅300m・高さ36m・3段築成。外提出土の須恵器埴輪等から5世紀初頭の築造と推定される。世界遺産、外濠外提が国の史跡。第15代「誉田別ほむだわけ応神天皇」の『恵我藻伏崗陵えがのもふしのおかのみささぎに治定されている。周りには二重の堀をめぐらし、広大な内濠の外には幅約48mの中提があり、その外に築造当時は幅約35mのもう一重の濠(外濠)があった形跡があり、さらにそれを巡る外提は幅約15mあったと推定されている。濠の水深は1.7~2.5mと大仙陵古墳よりかなり深い。二重の濠と外堤が築造されたのは西側だけで、東側の外濠や外堤は築造されなかったことも明らかになっている。また造営前から二ツ塚古墳が存在しており、それを避けるように造ったため、東側の周濠と内堤が歪んでいる。

墳丘斜面には一面に 葺石が敷かれ、テラス部分には推定2万本に及ぶ円筒埴輪が並べられていたと思われる。埴輪の種類も多く、円筒埴輪、蓋形・家形・盾形・甲形・草摺くさずり(胴につけ腰回り・下半身を防御するもの)・水鳥形・馬形等の形象埴輪で、中には口径50cm、高さ1mを越える大型のものも使用されていた。内濠からは土師器と共に魚形土製品が10個出土(鯨・烏賊・蛸・鮫・海豚等)。埴輪は全て穴窯で焼かれている。後円部側の外濠外部で馬形埴輪等も出土。直径74cmの笠形の木製品も出土している。

埋葬施設は、竪穴式石槨に長持形石棺が納められていると考られる。古墳の南側にある誉田八幡宮に、竪穴式石槨と長持形石棺の一部と推定される石が残されている。

(2015.9撮影) 制札    拝所           前方部東望       後円部南東望

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⑪古市丸山古墳(誉田丸山古墳)

誉田御廟山古墳の拝所参道左手に所在。径45~50m・高さ7mの大規模円墳。世界遺産。応神陵の「域内陪塚」に治定されている。造出しが付く可能性も指摘され、周濠・葺石・円筒埴輪列・形象埴輪が確認されている。当古墳の副葬品と伝えられる馬具等が誉田八幡宮に所蔵されている。金銅製龍文透彫鞍金具2組、鉄地金銅張方形鏡板1点、金銅製歩揺付飾金具20点、三角板鋲留式短甲、直弧文刀装具、鉄刀、鉄鉾、片刃長頸式鉄鏃で、馬具類は日本最古の優品で、一括して国宝に指定されている。

(2015.9撮影) 応神陵参道南望   (2022.2撮影) 東望         南望

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⑪二ツ塚古墳

誉田御廟山古墳の東側周濠・内堤に食い込むように隣接。前方後円墳で、周濠を含む総長は140m、墳丘長110m。後円部径73m・高さ10.1m、前方部幅60m・長さ50m・高さ8.6m。4世紀後半の築造と推定される。世界遺産。応神陵の「域内陪塚」として宮内庁管理。くびれ部の幅は46mで、葺石が全面を覆う。

(2019.2撮影)二ツ塚北望       南西望

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⑪その他周辺陪塚等

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東馬塚古墳 一辺30m、高さ3.5mの方墳。5世紀前半、世界遺産。応神陵「い号陪塚」として宮内庁管理。円筒埴輪出土。

茶山1号墳(消滅) 約11mの方墳。5世紀後半。

栗塚古墳  一辺43m、高さ5mの方墳。5世紀前半、世界遺産。応神陵「ろ号陪冢」として宮内庁管理。

(2019.2撮影)東馬塚遠景北望 近景          栗塚北西望        近景

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野中アリ山古墳(消滅) 藤井寺市野中2丁目、陵の外濠からは僅かに40mで、陪塚と考えられる位置にあった。5世紀前半、一辺45m・2段築成の方墳だった。1958年(S33)の発掘調査で、墳丘南側裾に円筒埴輪列が発見された。また墳丘中央の埋葬施設と、それを挟んで南北に副葬品埋納施設が発見された。中央施設は木棺直葬で、鉄槍先40口、蕨手刀子わらびてとうす5本、鉄鉾先3口、鉄鏃70本、鉄鍬2個、鉄斧8個、土師壷形土器1個が出土。南施設からは、薄い短冊状の帯状鉄板15個以上が出土。北施設からは、鉄刀77口、蕨手刀子151個、鉄剣8口、鉄鑿90本、鉄槍先8口、鉄錐1本、鉄矛先1口、鉄鉇やりがんな14本、鉄鏃1542本、異型鉇その他4本、鉄斧頭134個、鉄鋸7本、鉄鎌201個、鉄鍬49個、土製丸玉11個、鉤状鉄器412本が出土し、埋納を目的とした施設と思われる。
東山古墳 消滅したアリ山古墳の南側、11mの平坦地を挟んで、東西57m・南北54m・高さ7mの方墳がある。アリ山古墳と同時期、5世紀前半の築造と推定される。世界遺産、国の史跡。両墳とも墳丘の向きが同じで、緊密な関連の下に築造されたと推測される。

サンド山古墳 藤井寺市藤ケ丘1丁目9。藤ケ丘会館の南に隣接。30m程だが墳形不詳。5世紀〜6世紀前半の築造と推定される。応神陵「へ号陪塚」として宮内庁により管理されている。南西200mに、径15~20mの円墳=サンド山2号墳(消滅)があり、さらにその東側に、直径22mの円墳=藤ノ森古墳(消滅)と、墳丘長53mの前方後円墳=蕃上山古墳(消滅、巫女形等の人物埴輪出土)があって、別のまとまりの古墳群と考えられている。

位置            (2022.2撮影) 遠景北望       近景南西望

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蕃所山古墳 応神陵陪塚には治定されていないが、藤井寺市藤ケ丘2丁目5に径22m・高さ3mの円墳がある。5世紀〜6世紀前半の築造と推定される。国の史跡。今では道路のロータリーっぽい。円筒埴輪出土。

(2022.2撮影) 近景西望       遠景南望             近景東望

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 ⑫はざみ山古墳

藤井寺市野中1丁目。外環状線の東に隣接。前方後円墳で長さ103m。5世紀中頃築造と推定される。世界遺産、国の史跡。前方部は東向きで、一重の周濠を有する。後円部周濠の一部は埋立てられ、その一部は民有地になっている。南に、県道31号を挟み、野中宮山古墳がある。

(2022.2撮影) 墳丘北面南西望   南東望               後円部東望

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⑫野中宮山古墳

藤井寺市野中2丁目。前方後円墳で、全長154m、後円部径約100m・高さ約14m、前方部幅75m・高さ約10m。5世紀前半の築造と推定される。後円部上には野中神社、前方部には幼稚園がある。後円部頂に板石が散乱しており竪穴式石槨と考えられる。葺石と円筒埴輪列の存在も確認され、南側造出しから家形・蓋形・盾形・囲形・水鳥形・鶏形・馬形・猪形等の形象埴輪が出土。

(2019.2撮影) 野中宮山後円部    前方部              後円部北望

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⑫稲荷塚古墳

藤井寺市野中5丁目14。野中宮山古墳から外環状線を挟み西南西に250m程。元は50mの帆立貝式前方後円墳。5世紀末頃の築造と推定される。国の史跡。周囲には濠があって、前方部を西に向けていたらしいが、現在は後円部のみで、住宅に囲まれている。

位置               (2022.2撮影) 南望        北東望

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⑬墓山古墳

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羽曳野市白鳥はくちょう3丁目。前方後円墳、全長約225mで古市古墳群では5番目、全国22位の規模。後円部径約135m・高さ約20.7m・3段築成、前方部幅約153m・高さ19m・3段築成。5世紀前半の築造と推定される。世界遺産、国の史跡。宮内庁により応神陵の「ほ号陪塚」に治定されている。葺石と埴輪が確認され、くびれ部の両側に造出し、周囲に幅約15mの濠と幅約37mの堤をめぐらしている。後円部墳頂では亀甲紋を陰刻した竜山石製の長持形石棺の蓋石が露出していたことが報告され、周辺から出土したと伝えられる滑石製勾玉や形象埴輪が宮内庁に保管されている。周囲の5つの野中・向墓山・浄元寺山・西墓山(消滅)・西馬塚古墳は陪塚とも考えられている。

(2019.2撮影)後円部南東望 前方部北西角       前方部正面       前方部南西角 

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(2019.2撮影)後円部北望  後円墳南西望      後円部遠景西望       案内

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⑫野中古墳

藤井寺市野中3丁目。一辺37mで2段築成の方墳。5世紀前半~中頃の築造と推定される。世界遺産、国の史跡。組合式木棺と木櫃からなる内部主体が5列に並列していて、人体埋葬は第2列の木棺のみで、他の4列は副葬品埋納施設と考えられる。1964年の発掘調査で短甲11領と冑11が出土。全国2位の甲冑出土量で、短甲は3種類、うち2つは三角板鋲留短甲・横矧板よこはぎいた鋲留短甲で5世紀を代表する短甲。もう1種は三角板革綴襟付短甲で、背中から首にかけて守る短甲で、全国でも10数例しかなく、当古墳ではその内の3例が出土。また、冑では小札こざね鋲留眉庇まびさし付冑と革製衝角付冑の2種類が出土。三角板鋲留短甲*と横矧板鋲留短甲には小札鋲留眉庇付冑*が付属し、三角板革綴襟付短甲には革製衝角付冑が付属。この革製衝角付冑には冑頂に鉄地金銅張三尾鉄が付属し、11領の甲冑の中でも特別な3領の甲冑であったと考えられる、鉄刀153本と鉄剣16本、鉄鏃約740本が出土。なかでも鉄剣3本と鉄刀9本は、11領の甲冑に付属するように出土。農工具では斧頭30、錐状工具片4、穂摘具や切削具と考えられる手鎌35、U字形の刃先をもつ鍬先や鋤先(半島から伝来した最新式の農具)、鎌鑿状工具、木材を削る為の鉇、鉄鋌てってい36Kg以上、石製品では赤色顔料のベンガラを砕くための砂岩製の石臼と石杵、滑石製模造品と呼ばれる斧や鎌・勾玉・紡錘車を模したもの、刀子を模した模造品が約80出土している。南側の墓山古墳の陪塚とも考えられている。

藤井寺市藤井寺3丁目の「アイセ・シュラホール」に展示。

(2019.2撮影) 北西望        案内               出土した*短甲と*眉庇付冑

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⑬浄元寺山古墳(前墓山古墳とも)

藤井寺市青山1丁目2。一辺67m・高さ9.7mで2段構築の方墳。幅11.4~14.6mの周濠があり(現在埋没)、外周含め全長98m。5世紀中頃の築造と推定される。世界遺産、国の史跡。葺石が敷かれ、墳丘上に埴輪配列もあり、円筒・形象埴輪等を採取。東側の墓山古墳の陪塚とも考えられている。

(2019.2撮影) 案内    北西望          北東望          西面

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西墓山古墳(消滅) 浄元寺山古墳のすぐ南側にあった1辺18mの方墳。埴輪から5世紀前半~中頃の築造と推定される。人体の埋葬施設は確認できず、副葬品のための陪塚とみられている。鉄器埋納遺構は東西2列で、東列は長さ5.2m、幅70cm~80cmで、その範囲内に大刀、剣、短剣、槍、矛など232点以上の鉄器が収められていた。西列は長さ6.2m、幅60cm~80cmで、短剣、刺突具、鋤先、斧、刀子、釶、異形釶、鑿、錐、鋸など1168点以上の鉄製品、斧形滑石製品10点以上、鎌形滑石製品1点以上が収められていた。鋤先には明瞭な刃部を持たないものが大半で、刀子も刃部を形成しない模倣品と認められ、実用には使えない。またこれら鉄器類には使用痕跡も認められず、埋納するための儀礼的性格の鉄器類と考えられる。 円筒埴輪列は北辺で16個体、南辺で31個体、朝顔形・形象埴輪の破片が多数発掘されている。墓山古墳の陪塚の一つと考えられている。

⑬向墓山むこうはかやま古墳

羽曳野市白鳥3丁目12。古墳時代中期の最大級の方墳で、東辺68m・西辺62m・南北両辺62m・高さは10m前後。5世紀初頭の築造と推定される。世界遺産宮内庁によって応神陵「に号陪塚」として治定されている。墳丘は上下2段で、台地先端の地形を利用し、斜面に寄せかけて墳丘を築くことで実際の盛土以上に大きく見せている。浄元寺山古墳と規模が近似し、同一企画の可能性もある。墳裾部分には葺石の根石列があり、その石材(20cm~40cm)は石英安山岩や輝石安山岩二上山に連なる寺山や春日山山麓付近で採取したと推定され、4~6kmを運んだことになる。根石から上の墳丘斜面は5cm~15cmの円礫の葺石で一面に覆われており、1km東の石川で集めた石と考えられる。墳丘周囲は場所によって二重の溝によって囲まれている。なお、溝を掘る際に地山を掘り残して造った2ヶ所の陸橋が検出されており、外部から墳丘へ登るための通路と思われる。埴輪では、家形・蓋形・盾形・水鳥形等形象埴輪の細片が出土しているが、円筒埴輪と朝顔形埴輪はすべてが野焼時の黒斑のあるもので、5世紀初頭の時期が推定できる。 

(2019.2撮影) 南東望   案内           南望          北東望

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墳丘西横にプレハブの「羽曳野市文化財展示室」があり、栗塚古墳・茶山遺跡出土の埴輪が展示されている。

(2019.2撮影) 案内     展示例 

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⑬西馬塚古墳

羽曳野市白鳥3丁目12。古墳時代中期の最大級の方墳で、墳丘長は45m、高さは9.4m。5世紀後半の築造と推定される。世界遺産宮内庁が応神陵「ほ号陪塚」として管理している。円筒・朝顔形・家形・蓋形・盾形・水鳥形埴輪などが採取されており、墳丘には埴輪の配列がなされていた。葺石が墳丘に施されていたとみられる。

(2019.2撮影) 東面     案内          北東望          西面

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⑬青山古墳

藤井寺市青山2丁目。円墳で径62m・高さ10m・2段築成。墳丘南西部分に、幅25m・長さ17mの方形突出=造出しをもち、それを含めると全長72mとなる。5世紀中葉の築造と推定される。世界遺産、国の史跡。墓山古墳等との関連性は指摘されていない。墳丘まわりに濠が巡る。濠では、円筒埴輪や家形・蓋形・盾形・靫形・馬形・人物形等の形象埴輪が出土。1987年(S53)住宅造成の際に発掘調査を実施し、前方後円墳1基、方墳4基を検出し、青山2~6号墳と名付けられ、青山古墳群とされた。これらは5世紀中葉~末葉にかけての築造と推定される。この青山1~6号墳は東と西の大きく二つのまとまりに分けられ、東のまとまりは1号墳→4号墳→2号墳の順、西のまとまりは6号墳→5号墳→3号墳の順に造られたことが判明した。5世紀中葉~末葉にかけ二つの集団の長が3世代にわたり、一定の共通の空間の中で古墳を造り続けた結果であると考えられて、この二つの集団はお互いに親密な関係にあったことも想定される。1999年(H11)に青山古墳(1号墳)の東側で実施した調査でも円墳1基が見つかり、青山7号墳と名付けられた。なお、青山古墳群の南側の羽曳野市域では軽里古墳群が見つかっており、立地からして、二つの古墳群は相互に関連づけて考えられた。

(2019.2撮影)北望   案内        造出し南西面    南東望       西望

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⑭軽里大塚古墳(前の山古墳・白鳥陵古墳とも)  

羽曳野市軽里3丁目。前方後円墳で、全長約190mは古市古墳群で7番目の規模。後円部径約106m・高さ約20m・3段築成、前方部幅約165m・高さ約23m・3段築成。5世紀後半の築造と推定される。世界遺産、周堤が国の史跡。「12代景行天皇の子=14代仲哀天皇の父=日本武尊やまとたけるのみこと」の『白鳥陵しらとりのみささぎ』に治定されている。  くびれ部の両側には造出しがある。周囲には幅約35mの周濠と上面幅21mの堤が巡る。主体部や副葬品は不明。1981年発掘調査で、後円部の円筒埴輪列が確認されたほか、朝顔形埴輪や家形、蓋形等の形象埴輪が出土。出土品や、前方部幅が後円部径に比べて約1.5倍もあるという墳形上の特徴から、市ノ山古墳とほぼ同時期と推定されている。4世紀前半とされる景行期とは、100年以上時期が下る。なお、『古事記』では、「亡くなった地=三重の能煩野のぼので妻子が墓を造ったが、魂が白鳥となり河内国に留り陵を起こし、その後また白鳥となって、ついに昇天した」とある。『日本書紀』では、「父の景行天皇が能褒野のぼのに陵を造り葬ったが、白鳥になってヤマトの国を目指して飛び立ち(現御所市)琴弾原ことひきのはらに留った。そこでも陵を造るが、白鳥はさらに飛んで河内の(現羽曳野市)旧市邑ふるいちのむらに留まったので、ここにもまた陵を造ったが、ついに天に昇っていった。当時の人は、この三つの陵を名付けて白鳥陵という」とある。結果、墓を「能褒野墓」と定め、御所市と羽曳野市の各々の「白鳥陵」を能褒野墓に附属するものとしている。

(2015.9撮影) 参道     制札          拝所           案内

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⑮高屋築山古墳 

羽曳野市古市5丁目6。前方後円墳で、墳長122m、後円部径78m・高さ13m、前方部幅100m・高さ12.5m。6世紀初頭の築造と推定される。第27代「広国押建(武)金日ひろくにおしたけかなひ安閑天皇」の『古市高屋丘陵ふるちのたかやのおかのみささぎ』に治定されている。室町時代後半に畠山氏の高屋城の本丸がおかれ、元々の形態が大きく改変されている。

(2015.9撮影) 制札         拝所              南面

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⑮高屋八幡山古墳

羽曳野市古市5丁目10。高屋築山古墳後円部から南へ200m。現状は一辺約30〜40m、高さ7.2mの方形状墳丘だが、元は90mの前方後円墳と判明している。6世紀初頭前後の築造と推定される。「第27代安閑皇后の春日山田皇女」の『古市高屋陵ふるちのたかやのみささぎ』に治定されている。中世に高屋城の築城あるは落城の際に破壊、削平された模様。円筒・朝顔形埴輪や家形・人物等の形象埴輪が出土。円筒埴輪に黒斑はなく、土師質のものと須恵質の両者が並存。また周辺一帯を所有していた江戸時代から続く旧家には画文帯神獣鏡1面、琥珀玉1点、金銅製飾履破片、鉄剣破片数点が所蔵されており、この古墳出土の遺物である可能性が高い。

【参考】

藤井寺市文化財分布図2020_表 (PDFファイル: 791.5KB)

https://www.city.fujiidera.lg.jp/material/files/group/9/fujiiderabunpuzu_omote.pdf

藤井寺市文化財分布図2020_裏 (PDFファイル: 4.0MB)

https://www.city.fujiidera.lg.jp/material/files/group/9/fujiiderabunpuzu_ura.pdf